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2017年9月

【増補改訂版】近・現代芸術を理解するための必読書 その2

これは、過去に書いた記事

の続編となる。今回まず、お薦めしたいのは臨床心理学者・河合隼雄による一連の著作である。

そもそも河合の名前を初めて知ったのは2016年夏に兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」について勉強している時だった。ことの詳細は下記に書いた。

河合と翻訳家・松岡和子との対談、「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)は目から鱗の連続だった。特に「夏の夜の夢」が意識↔無意識の4層構造になっているという解釈はまるでクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」みたいで新鮮だった。調べてみると河合は、村上春樹や小川洋子、遠藤周作、安部公房ら小説家、ノンフィクション作家・柳田邦男、詩人・谷川俊太郎、宗教学者・中沢新一、脳科学者・茂木健一郎ら錚々たるメンツと対談本を上梓していることが判明した。その後夢中になって彼の著作を読み漁った。

僕は生まれてこの方、2,700本以上の映画を観てきた。膨大な数だ。どうしてこれほどまでにフィクションに魅了されるのか、自分でも不思議だった。過去には次のような記事も書いた。

「博士の愛した数式」で有名な小説家・小川洋子は二十代半ばでデビューした当時、「なぜ小説を書くのですか」とインタビューで問われる度に明確な回答が出来ず、その質問が苦痛でならなかったという。しかし河合隼雄の著作を読み、物語というものの解釈に出会って彼女の目の前に立ち込めていた霧が晴れた。河合と小川の共著「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)に小川が書いたあとがきから引用する。

物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。(中略)内面の深いところにある混沌は理論的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

まさにこれこそが、河合隼雄から僕が学んだことである。

現在までに彼の著書を30冊読んだが、お勧めのベスト5を挙げておく。

  • 無意識の構造(中公新書)
  • 母性社会日本の病理(講談社+@文庫)
  • 昔話と日本人の心(岩波現代文庫)
  • 快読シェイクスピア 増補版(ちくま文庫)
  • 神話と日本人の心(岩波現代文庫)

「母性社会日本の病理」や「昔話と日本人の心」を読み、如何に自分がイザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・スサノオなど日本の神話のことを知らないかを思い知らされた。理由のひとつには学校教育で教わらないということもあるだろう。第2次世界大戦において、日本の神話は軍部に利用された。それへの反省もあり、また日本神話は天皇制に結びつくということもあって、日教組から徹底的に嫌悪され教育現場から排除された。河合がスイスのユング研究所での留学を終えて帰国してからも暫くの間、神話の話など持ち出そうものなら「この右翼め!」と袋叩きに合いそうな雰囲気だったので、口を閉ざしていたという(1960年代は安保闘争や学生運動が花盛りだった)。

しかしキリスト教を知らなければ欧米人のものの考え方を理解出来ないように、日本の神話や昔話を知らずして、日本人の深層心理、無意識の在り方に到達することなど到底不可能なのではないだろうか?「君の名は。」の新海誠監督も日本の昔話や神話、万葉集、古今和歌集などを読み、創作の参考にしていると語っている→こちら

ユング心理学を応用すれば、こんな解釈も可能だということを示したのが以下の記事である。

深層心理学は自然科学とは異なり、客観性よりも主観が大切である(故に「科学じゃない」という批判もある)。それは自己(self)の問題であり、物語の読解に実に役立つのである。

もう一つ挙げたいのはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」だ。

フロイトやユングの打ち立てた心理学はニーチェ哲学を土台にしているし、「ツァラトゥストラ」を通して、映画「2001年宇宙の旅」「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」「攻殻機動隊」「魔法少女まどか☆マギカ」「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」などが何を物語ろうとしているのか、一層深く読み取れるだろう。

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円熟の極み。〜五嶋みどり@ザ・シンフォニーホール

9月22日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

Midori

当ホールでは10年ぶりとなる五嶋みどりのリサイタルを聴いた。ピアノはリトアニア出身のイェヴァ・ヨコバヴィチューテ。

  • ヒンデミット:ヴァイオリン・ソナタ ハ調
  • ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第2番
  • シューベルト:ヴァイオリン・ソナチネ 第3番
  • エネスク:ヴァイオリン・ソナタ 第3番
         「ルーマニアの民族様式で」
  • ブラームス(ヨアヒム編):ハンガリー舞曲 第1番
         (アンコール)
  • クライスラー:シンコペーション(アンコール)

リトアニアはバルト海に面し、ルーマニアは黒海に接している。

ヒンデミットはドイツの作曲家。ソナタは1939年に作曲された。ヴィブラートを抑制した表現で、特に終楽章のフーガは無機質で虚無感が漂う。ニーチェの言葉「おまえが長く深淵を覗くなら、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」(善悪の彼岸)を想い出した。ナチスが政権を握ったのが33年、翌34年に「ヒンデミット事件」が起こる。前衛的な彼の作品はナチスから「退廃音楽」の烙印を押され、弾圧された。そして38年にヒンデミットはスイスに亡命する。

ブラームスはノン・ヴィブラートで開始され、淡い色彩でクララ・シューマンへのあこがれを描く。禁欲的ではあるが、それでも溢れ出す感情がある。終楽章は渋く、滋味に富む演奏。

シューベルトは他愛のない楽曲だが軽やかでチャーミング。

ルーマニア生まれのエネスクはエキゾチックで妖しく艶っぽい。でも決して下品にならない。表情に抑制が効いている。ヴァイオリンがフラジオレット(ハーモニクス)を駆使し、パンフルート(竹笛)のような音色を奏でる第2楽章は繊細。第3楽章は舞踏音楽で呪術的で魔法にかけられたよう。また特にこの曲ではピアノが水を得た魚のように跳ね回り、極めて共感性が高い演奏だった。

エネスク同様ロマ(ジプシー)音楽の影響が色濃いアンコールのハンガリアン・ダンスは静謐で哀感が漂い、ひたひたと胸に迫る。この曲のイメージが一新された。

19世紀のブラームスとシューベルトを20世紀の作曲家でサンドイッチにするというプログラム構成といい、文句なし。パーフェクトな内容だった。次回は彼女の演奏でショスタコーヴィチのソナタを聴いてみたい。

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「エイリアン:コヴェナント」を観る前に知っておくべき幾つかの事項

評価:A

Aliencovenant

映画公式サイトはこちら

まず事前に知っておくべきこと。宣伝では隠されているが、「エイリアン:コヴェナント」は紛れもなく「プロメテウス」の続編である。

「プロメテウス」を知らなくとも本作を愉しめるが、知っていれば一層理解が深まるだろう。どうして隠すのか?それは興行成績を上げるため。続編だと世間が認知すれば、前作を観ていない人が映画館に行くのを躊躇するリスクがある。鈴木敏夫プロデューサーも押井守監督「イノセント」が「攻殻機動隊」の続編であることを隠してヒットに導いた。

「プロメテウス」の物語を要約すると、【わざわざ人間の創造主(=エンジニア)を訪ねて行ったら、まともに対話すら出来ない、手が付けられない暴れん坊だった】ということになるだろう。そしてリドリー・スコット監督が言いたいのは【そんなロクデナシの神なんか殺っちまえ!】といったところ。【神は死んだ】と説いたニーチェ哲学に繋がっている。

今回映画冒頭で、前作にも登場したアンドロイドのデイヴィッドの名前の由来がミケランジェロの”ダビデ像”(の英語読み)であることが明らかになる。ダビデとは古代イスラエルの王のこと。

デイヴィッドはパーシー・ビッシュ・シェリーの詩「オジマンディアス」を諳んじる。

I met a traveller from an antique land
Who said: “Two vast and trunkless legs of stone

Stand in the desert. Near them, on the sand,
Half sunk, a shattered visage lies, whose frown,
And wrinkled lip, and sneer of cold command,
Tell that its sculptor well those passions read
Which yet survive, stamped on these lifeless things,
The hand that mocked them and the heart that fed:
And on the pedestal these words appear:
‘My name is Ozymandias, king of kings:
Look on my works, ye Mighty, and despair!’
Nothing beside remains. Round the decay
Of that colossal wreck, boundless and bare
The lone and level sands stretch far away.”

私は古(いにしえ)の国から来た旅人に会った

彼は言った「胴体のない巨大な石の足が2本
砂漠に立っている その近く
半ば砂に埋もれ 砕けた顔が転がっている しかめっ面で
唇をゆがめ 冷やかに命令を下すように嘲笑している
この彫師たちにはよく見えていたのだ
それらの表情は命のない石に刻まれ
彫った者やモデルとなった者が事切れた後も生き続けると
台座には次のように記されている
『我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ 我が為せる業を見よ そして絶望せよ!』
ほかには何も残っていない 
この巨大な残骸の周囲には
寂しく平坦な砂漠がただひたすらに広がっているだけだ」

(雅哉 訳)
 無断転載禁止!

オジマンディアスとはエジプトのファラオ、ラムセス2世のこと。またこれを書いた詩人の妻はメアリ・シェリー、小説「フランケンシュタイン」の作者だ。アンドロイドはいわば【フランケンシュタインの怪物】の末裔である。

人類に火をもたらしたギリシャの神Prometheusが前作の宇宙船の名前だったように、宇宙船Covenant号は「誓約・聖約」という意味であり、神と人の間に交わされる神聖な約束のこと。

本作の企画が発表された当初は"Alien : Paradise Lost"という副題がついており、本編にもミルトンの小説「失楽園(Paradise Lost)」からの引用がある。

Better to reign in Hell, than serve in Heaven.

天国で神に仕えるよりは、地獄で王になる方がマシだ。

ミルトンの「失楽園」は「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」のモチーフにもなっている。神に叛逆し堕天使となったルシファー(悪魔)が復讐を果たす物語である。

デイヴィッドはピアノでワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」から”ヴァルハラ城への神々の入場”を弾く。「ニーベルングの指環」は神々の黄昏人類の黎明を描いており、宮﨑駿「崖の上のポニョ」とも関係が深い。

また宮崎アニメ関連で言うと、「耳をすませば」で使用された歌”カントリー・ロード(Take Me Home, Country Roads)”が「エイリアン:コヴェナント」でも流れたので笑ってしまった。これは望郷の歌(宮﨑駿による日本語詞は意図的に内容を変えている)であり、エリザベス・ショウ博士の気持ちを代弁しているが、もっと広く「我々は何処から来たのか?」と自らのルーツ(創造主)を知りたがる人類そのものを象徴しているとも解釈可能だろう。

とても嬉しかったのは、「プロメテウス」でちょっとだけ登場した、故ジェリー・ゴールドスミス作曲「エイリアン」Main Titleがいきなり映画冒頭からフル・バージョンで登場したこと。ちゃんと「プロメテウス」のテーマ曲(by マルク・ストライテンフェルト)も途中で出てきます。

当シリーズで気になるのは、どんどんリドリー・スコットの「ブレードランナー」の世界に接近していること。デイヴィッドの思考はかなりレプリカント(人造人間)のそれに近い。おまけに今回、「ブレードランナー」ではお馴染みの目のアップまであってドキッとした。「ブレードランナー」と「エイリアン」シリーズは近い将来、マーベル映画みたいにユニバースを形成するのか!?今後の展開から目が離せない。しかしまずは本作が大ヒットし、さらなる続編が製作されることが絶対条件だ。祈るような気持ちで見守りたい。

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宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

Anger

映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」のすゝめ

本といえば今まで小説ばかり読んで生きてきた。哲学なんて難解なものは歯が立たない、僕には無縁だと思い込んでいた。ところがある日不意に、転機が訪れた。

ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読もうと決心した切っ掛けは2016年に公開された一本のドキュメンタリー映画だった。

本作は大阪を流れる淀川から道頓堀川に下る船の上で、第1回ドラフト会議で指名されNMBに入った須藤凛々花がニーチェを朗読するシュールな場面から始まる。

須藤といえばつい先日のAKB48総選挙で結婚宣言をぶちかまし、世間を騒然とさせた元メンバーである(既に卒業)。「人生を危険にさらせ!」という哲学本も出版しており、表題はニーチェの著書「悦ばしき知識(楽しい学問)」から採られている。たかだか19歳の小娘がニーチェを理解出来るのだから、僕に読めない筈はないと対抗心が沸々と湧いたのである。因みに秋元康は須藤のために、「ニーチェ先輩」という歌を書いた。その歌詞に《その深淵 覗いたとき 深淵もこちらをのぞいてる》とあるが、これはニーチェ「善悪の彼岸」からの引用である。

ニーチェ(18441900)の著書を実際手にとってみて驚いた。スラスラ読めるのである。難解なところが少しもない。硬い哲学書だという雰囲気が皆無のだ。これなら高校生でも大丈夫。「悦ばしき知識(楽しい学問)」にしろ「善悪の彼岸」にしろ、アフォリズム集になっているので実に読み易い。アフォリズム (Aphorism)の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス「アフォリズム」より)。

「ツァラトゥストラ」は光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳が読み易かった。なお、竹田青嗣「ニーチェ入門」(ちくま新書)と村井則夫「ニーチェ ーツァラトゥストラの謎」(中公新書)がガイドとしてたいへん役に立ったことを付記しておく。

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またフロイトやユングの打ち立てた深層心理学が、ニーチェから出発していることがよく分かった。意識↔無意識の関係や、コンステレーション(布置)についても先にニーチェが語っている。コンステレーションとは一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係もないように見えても、ある時それらが一つのまとまりとして重要な意味を成してくること。めぐり合わせ。

以来、心理学と哲学の関係は深い。20世紀フランスのミシェル・フーコー(1926〜84)は当初、心理学を学び、精神病院に努めていた時に患者がロボトミー手術を受けて廃人同様になったことに衝撃を受け、哲学者に転向した。

またやはりフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925~95)は精神科医フェリックス・ガタリ(1930~92)と組んで「アンチ・オイディプス」を書いた。これはフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスに反旗を翻す本である。ガタリとの共著は6冊に及んだ。なおドゥルーズはフロイトに対して否定的だが、フロイトと袂を分かったユングのことは高く評価している。

ドゥルーズは【哲学とは新しい概念を創造すること】だと定義したが、ニーチェが打ち出した概念の代表的なものは「アポロン的/デュオニソス的」「ルサンチマン」「神は死んだ」「力への意志」「超人」「永劫回帰」がある。

関連記事(上記ニーチェの概念について詳しく解説した)

ニーチェはpositive thinkingの人だ。常に前向きで未来に目を向け、ニヒリズム(この世は虚しいという考え方)を全力で否定する。そしてからだが大事と説き、ダンスして鳥のように飛べ!と活を入れる。そして最後は「笑うライオン」になれと言う。読んでいて元気が出るし、勇気が湧く。

ただ彼が女性蔑視の考えを持っていたことは否定出来ない。まぁ女性に参政権がなかった19世紀半ばの人だし、生涯を独身で過ごしたモテない男なので(ルー・ザロメに求婚するも振られている)、大目に見てあげてくださいな。

なお彼は1889年(44歳)に発狂するが、原因は梅毒 第4期(脳梅毒・神経梅毒)だった。これは作曲家のシューマンやスメタナと同じ病である。シューベルトも梅毒だったが、死因は水銀治療による中毒である。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は後世の芸術に多大な影響を与えた。リヒャルト・シュトラウスは同名の交響詩を作曲。マーラーは交響曲第3番 第4楽章にツァラの一節を引用し、アルト独唱に歌わせている。そしてこの楽曲はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」の最後、主人公の死の場面で流れた。さらにスタンリー・キューブリック監督の傑作「2001年宇宙の旅」との関わりは言うまでもない。

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映画「三度目の殺人」の哲学的問い

評価:A

Sand

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「そして父になる」の是枝裕和が原案・脚本・編集・監督を担当した「三度目の殺人」には哲学的問いがある。ひとつは【人が人を裁くことは可能なのか?(法廷で真実は明かされるのか?)】、もうひとつは【生まれてこなかった方が良かった人間はいるか?】である。僕は後者に対してYes.と答える。アドルフ・ヒトラー、ポル・ポト、ヨシフ・スターリンらがその代表格であろう。しかし反面、ナチス・ドイツは人類に大きな問いを残した。それは【人はどこまで残酷になり得るのか?】ということ。我々は生涯をかけて、この問いを自問し続けなければならない。

真相は最後まで藪の中。そういう意味で本作は「羅生門」形式と言える。面白いのは加害者(役所広司)も被害者も、そして弁護士(福山雅治)も一人娘がいるという設定である。このことから同情や共感、共犯関係が生まれる。弁護士は当初真実には何の興味もなく、依頼人(被告)の減刑しか考えていない。ところが……予想外の展開が観客を待ち構えている。役所広司が怪演。レクター博士並みの不気味さで秀逸だ。広瀬すずのキャスティングもドンピシャ!

本来、検察官(検事)と弁護士は敵対関係にあり、裁判官は中立の立場の筈。しかし三者には阿吽(あ・うん)の呼吸があり、以心伝心で共謀することもあるという皮肉。裁判制度に一石を投じる奥深い映画だ。

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【アフォリズムを創造する】その9「ネット炎上」のメカニズムを読み解く

高校生・大学生らは学校の教室で友達に話すように気軽に「あの娘とヤリたい」とか「今日バイト先でこんな失敗をやらかした」とかtwitterとかフェイスブック、インスタグラムなどSNSに書き込む。

ドストエフスキーの「罪と罰」や島崎藤村の「破戒」でも描かれたように、自己の隠れた欲望や罪の告白は人びとの面前で行われなければならない。それはカトリック教会の懺悔室で行われてきた告解に似ている。告解は逆に、司祭(神父)が信者の心を支配する仕組みでもある。

秘密を自分の胸の内にだけしまっておくことは苦しい。開放し、風通しを良くする必要がある。

社会人もまた、会社の上司にムカついたことや、学校の先生が生徒の悪口をつい漏らしたりもする。ここではSNSがストレス発散の場として機能している。いわばカウンセリングルームでリクライニングチェアにゆったり横たわり、心理療法士/精神科医に語ることの代用品のようなものだ。あるいは居酒屋やバーでの気の置けない仲間との会話、個人的な日記に書き込むような感覚。

不思議な事に彼らはその告白の先に、自分に好意的な善人、信頼出来る相手(Intimate Friends)しかいないという幻想を抱いている。ネット社会が不特定多数の棲む世界に開かれており、悪意に満ちていることを知らない。

しかしネット民(フォロワー)たちは突然、カトリックの司祭に豹変する。自分たちの善悪の基準を押し付け、道徳を説き、お鬼の形相で「悔改めよ!」と迫るのだ。それが炎上(Flaming)である。彼らはSNSの発信者に自己の放棄を求め、死を命じる悪魔的権力となる。ジャンヌ・ダルクを火刑に処すように。彼らの潜在意識には、迷える子羊を導く羊飼いになりたいという、牧人願望がある。言い換えるなら他者の上に立ちたい、王様気分を味わいたいという仮想権力への憧憬(=妄想)だ。

SNSでは自分の幸せを呟くことも許されない。次の記事を読んでみて欲しい。→「マイホーム購入!」という冗談で、ネット民から袋叩きにされてしまった10代のカップル

ネット民は他人の幸福なんか許せない。彼らは血に飢えたオオカミのように生贄贖罪の山羊(scapegoat)を求めている。人は日々、不満や不快を抱えて生きていると無意識のうちにルサンチマン(弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情)を抱く。その標的となりやすいのが芸能人(例えば斉藤由貴)であり、政治家(今井絵理子)だ。特に不倫は絶対に許せない。「あいつだけ美味しい思いをしやがって!」という嫉妬心を沸々と滾らせるのだ。

芸能人が謝罪会見を開いたり、政治家が辞職することでネット民たちの昏(くら)い欲望は満たされ、彼らは甘い快感に浸ることが出来る。つまり王様気分だ。

芸能人にとってイメージは大切であり、ある程度倫理(アイドルの場合は恋愛禁止の掟)を求められるのは致し方ない。CMに出演している場合、購買者に悪い印象を持たれては商品(アイドルの場合はCD=握手券)が売れなくなってしまう。しかし政治能力と道徳は別だろう。ジョン・F・ケネディはマリリン・モンローと不倫の関係にあったが、今更そのことをとやかく言う者はいない。ケネディは大統領として立派な仕事をした。それで十分だ。

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紛れもないクリストファー・ノーランの最高傑作「ダンケルク」@IMAX®次世代レーザーとヒッチコックの「鳥」

天才クリストファー・ノーラン監督最新作「ダンケルク」を大阪エキスポシティのIMAX®次世代レーザーで鑑賞。そもそも本作はIMAXカメラで撮影されており、撮影されたままの画角で観ることが出来る施設は日本で唯一ここだけ(詳しい説明はこちら)。縦横比が1:1.43。これが通常の映画館だと上下約40%がトリミング(カット)されてしまうのだ。

Dunk

評価:AA ←因みに当ブログ最高評価はAAAで、直近ではこれとかこれAAA

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公式サイトはこちら

大画面と音響の迫力が凄まじかった。正に戦場の真っ只中に放り込まれた印象。「観る」というよりは「体感する」映画である。あと冒頭から最後まで秒単位でリズムを刻み続けるハンス・ジマーの音楽が最高!未知の体験である。緊迫した場面では早まり、またもとに戻り、これは「鼓動」だね。

クリストファー・ノーランといえば凝りに凝ったシナリオで有名である。初期の「メメント」(2000)は10分しか記憶を保てなくなった男を主人公に時系列が逆向きに進行していく。「インセプション」(2010)はユング心理学に基づき無意識(夢)が4層に分けられ、登場人物たちが各層に潜ってゆく(最下層がlimbo=虚無)。

「ダンケルク」は3つのパートに別れている。

  1. The Mole - one week
  2. The Sea - one day
  3. The Air - one hour

つまり①防波堤から英国に脱出しようとする兵士たちの1週間 ②彼らを救出しようとイギリスの港から駆け付ける船舶の1日 ③スピットファイア戦闘機に乗り込んだパイロットの1時間 ーこの3つの異なる時間軸をクロスカッティングし(ショットとショットを交互に繋ぎ)、最後の最後に1点に集約するという離れ業を成し遂げている。

ノーランは本作を製作するにあたり、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の「恐怖の報酬」やヒッチコック監督作品など、サスペンス映画の演出を研究したと告白している。特に強い影響を与えたのではないかと僕が感じたのはヒッチコックの「鳥」だ。

「ダンケルク」は一切、ドイツ兵の顔を見せない。状況を説明する冒頭のスーパーインポーズでもドイツ軍ではなく、The enemyと書く徹底ぶり。

つまり本作は単なる戦争映画ではなく、ある日突然我々が襲われるかも知れない災厄を描いているとも解釈可能である。それは地震・台風・津波などの自然災害かも知れないし、原発事故もあり得る。だからはっきりした理由もなく不意に人間を攻撃してくる「鳥」に極めてよく似ているのだ。ヒッチコックの「鳥」は1963年の作品。米ソ冷戦時代であり、その前年にアメリカはキューバ危機を経験している。つまり鳥の攻撃=核戦争の恐怖のメタファーと言える。人々はただ、逃げ惑うしかない。

鳥→ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットへの変換。ノーランの戦略は実にしたたかだ。戦争映画というジャンルは、「ダンケルク」の登場で間違いなくアップデートされた。この世紀の傑作をゆめゆめ見逃すことなかれ。

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【アフォリズムを創造する】その8「立証責任について」

「神は存在する」「神はいない」どちらに立証責任があるだろう?地球上を全て探しても神は見つからなかった。でも宇宙の何処かにはいるかも知れない。宇宙は果てしない。隈なく調べ尽くすことは不可能だ。だから不在の証明は出来ない。故に立証責任は常に「いる(存在する)」と主張する側だけにある。

これは「悪魔の証明」とも言われる。「ツチノコはいるか?」「宇宙人(地球外生命体)は存在するか?」などの議論も同様である。

次のように説く者がいるかもしれない。「瑠璃色の地球があること自体が奇跡です。そして我々人間が存在することも奇跡。だから創造主(神)は必ずいるのです」しかしこうも考えられないだろうか?「地球が誕生したのはたまたま偶然の積み重ね。進化の過程で人間が生き残ったのも自然淘汰でたまたま選別された結果」つまり人間が特別である、奇跡だという主張は詭弁であり、証明出来ない。

「神の存在」は絶対不変の真理ではない。それは概念 consept(思考によって捉えたものの表象、イメージ)だ。宗教とは概念の創造、つまり思想である。

ここで日韓合意後も、韓国がしつこく日本を誹謗中傷するいわゆる「従軍慰安婦」問題と、中国が主張する「南京大虐殺」について考察してみよう。今まで述べてきたようにそういう事実が「あった」と主張する側と「なかった」と主張する側のどちらに立証責任があるかは明白である。日本はただ、静観していればいい。何故なら無かったことは証明出来ないのだから。

いわゆる「従軍慰安婦」問題で最初に認識しておかなければならないのは、争点が第二次世界大戦当時の日本軍に慰安所があったかどうかではないことである。「慰安所はあった」「そこに働いている朝鮮人の女性たちがいた」ことは紛れもない事実。これは双方が認めており、問題にはならない。なぜなら1950年に勃発した朝鮮戦争の時にアメリカ軍にも韓国軍にも慰安所はあったからである。それは1970年の映画「MASH マッシュ」でも描かれている。つまり朝鮮人の女性(当時韓国は存在しなかった)が日本軍によって強制的に連行された事実はあるのか?という一点のみが争点となる。果たして韓国側は立証出来るのだろうか?そういうことを指示した軍の指令書は現時点で発見されていない。元慰安婦の証言も一切証拠にはならない。《ある日家にいたら女衒(ぜげん:人身売買の仲介業者)が突然現れて無理やり連れて行かれた》←これは江戸時代に遊郭に身を沈めた日本の女性たちにも起こった出来事である。果たして彼女の両親は女衒から金を受け取っていなかったのだろうか?貧しさゆえに業者と合意の上で「娘を売った」と、本人には言えない場合も当然あるだろう。そりゃ良心が咎めるだろうし、当人を責めることは出来ない。真相は藪の中だ。

次に南京大虐殺(1937)について。南京に民間人の死体が沢山転がっていた。これは事実だろう。しかしそれだけでは戦争犯罪にならない。日本人も非戦闘員が東京や大阪の大空襲、広島・長崎の原爆投下で多数犠牲になった。このことで誰かが罪に問われたことは未だ嘗てない。つまり争点は日本軍が(アウシュビッツでナチス・ドイツがしたみたいに)意図的に非戦闘員を処刑した事実はあるのか?という一点に絞られる。それが事実ならば軍の指令書がある筈だ。軍隊は縦社会だから、もし上からの命令がなく一兵卒の判断でそれが実行されたのであれば、軍法会議に掛けられた筈。その記録はあるのか?ここで問題となるのは便衣兵の存在である。一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。これは国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけられ処刑される。当時中国には便衣兵が多数いた。彼らを日本軍が処刑しても何ら問題はない。しかし、事情を知らない欧米人(ジョン・ラーベら)から見たら、日本人が中国の民間人を虐殺しているように映ったかも知れない。こちらも事実関係は藪の中だ。果たして中国政府は日本軍の戦争犯罪を立証出来るのだろうか?

最後に誤解が無いよう補足しておく。僕は第二次世界大戦において日本が正しく、日本軍は一切悪いことをしなかったなどとは一言も述べていない。当然悪いこともしただろう。しかしそれは蒋介石率いる中華民国軍も、毛沢東率いる中華人民解放軍も、日本に原爆(大量破壊兵器)を落とした連合国軍も同じ穴の狢である。お互いさま、恨みっこなしだ。

戦争において絶対的正義の側(善)と絶対的悪の側など存在しない。過去に拘泥し、恨みを抱いて相手側の罪を糾弾し続けたり、逆に罪悪感を抱いて卑屈になり繰り返し謝罪しても意味がない。目を未来に向け、不幸な過去を今後2度と繰り返さないようお互いに努力を積み重ねようではないか。否定はなしだ。建設的意見を言おう。

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「ゴドーを待ちながら」@京都造形芸術大学

9月10日(日)京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場 春秋座へ。

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サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」を観劇。

God

芝居の前に大学キャンパス内にあるお洒落なカフェ・ヴェルディでランチをいただく。すると隣りに座った女子大生の会話が聞こえてきた。

「先日、古墳を見に行ったの」「私は車で神社に立ち寄った」「(天空の城)竹田城跡にひとりで行ったら、ガイドさんから『エッ、ひとりで来たの!?』と驚かれたわ」

といった内容で、ここは異世界だな!と感じ入った。因みにこの大学は、女優・黒木華(ドラマ「重版出来!」、映画「小さいおうち」、「幕が上がる」、「リップヴァンウィンクルの花嫁」)の出身校でもある。

また芝居の幕間に僕が「ゴドーを待ちながら」の台本を読んでいると、隣りに座った70−80歳代の老夫婦から声をかけられた。

「わたしたち学生時代にこれに出演したんですよ。懐かしくてみんなで観に来ました」

これにも心底驚かされた。

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アイルランドに生まれフランスに渡り、ナチス・ドイツ占領下のパリでレジスタンスに身を投じた経験を持つベケットは1969年にノーベル文学賞を受賞。しかしもし彼が、1952年に出版され翌年パリで初演された「ゴドーを待ちながら」を書いていなかったら、受賞はあり得なかっただろう。20世紀演劇界最大の問題作であり、最高傑作と称賛されている。この一作が世界演劇の流れを変えたとさえ言われる。オリジナルはフランス語だが、作者自身による英語版もあり、一部台詞が異なっている。アメリカ初演は惨憺たるもので、初日に最後まで残っていた観客はテネシー・ウィリアムズほか数名だけだったという。フランス語版は初演のままだが、ベケットは英語版を3回(ベルリン公演で2回+ロンドン公演で1回)改訂している。

今回はベケット作品を演るためにアイルランド・ダブリンで結成された演劇集団マウス・オン・ファイヤが、晩年にベケットが残した演出ノートに基づき上演した。演出はカハル・クイン。配役は、

  • エストラゴン:ドンチャ・クロウリー(アイルランド・コーク出身
  • ウラジーミル:デイビッド・オマーラ(ダブリン出身)
  • ポッツォ:マイケル・ジャッド(ダブリン出身)
  • ラッキー:シャダーン・フェルフェリ(インド出身)
  • 少年:下宮真周

日本語字幕は背景のスクリーンに映し出された。

本作は不条理演劇の代表作とされる。浮浪者ふたりが木の下でゴドーを待っているが、最後まで彼は現れない。Godotという名前にはGodが内包されており、「神の不在」がテーマとなっている。

僕が今回本作をどうしても観たいと想ったのは、映画「桐島、部活やめるってよ」がすこぶる面白かったからだ。

内容は哲学的である。デカルトは「方法論序説」の中で《我思う、故に我あり》と説いたが、ベケットは《いま思っている我(われ)って、誰(だれ)?》とその実存に疑問を投げかける。存在の不確かさ、生きるということへの茫漠とした不安(死への誘惑)。我々は何処から来て、何処へ行くのか?そして記憶の曖昧さ、あてにならなさ。押井守のアニメ「機動警察パトレイバー the Movie」とか「迷宮物件」などはゴドーから多大な影響を受けているように想われる。

登場人物たちは《救済》とか《希望》、《夢の実現》を待ち続けている。でも実際のところ何も起こらない。手持ち無沙汰、宙ぶらりんな状態。人生ってこういう日々の繰り返しなんじゃない?とベケットが語りかけてくるように僕には想われた。

かつて「ゴドーを待ちながら」は何を表現しているのか?と問われたベケットは「共生だよ」と答えたという。エストラゴンとウラジーミルの関係は「友愛(腐れ縁)」であり、途中から登場する金持ちのポッツォとその奴隷・ラッキーは「主従」ー抑圧する者とされる者を表現している。またポッツォが何度もゴドーと間違えられる場面があり、イエス・キリストのイメージが重ねられているとも解釈可能だ。今回の演出でも3人が地面に倒れる場面はポッツォが中央、エストラゴンとウラジーミルがその両脇に配され、全員が両手を真横に伸ばし、足を交差する姿勢をとっていた。つまり十字架にかけられたイエスと2人の悪党を象徴させていたのである。舞台にポツンと立つ柳の木も十字架の形だった。

Yes

ベケット自身、本作が刑務所で上演されるのを支援し、囚人たちがこの劇に描かれた「待つこと」や抑圧、無力に共感する姿を目の当たりにしたという。そしてマウス・オン・ファイヤもアイルランドの幾つかの刑務所で上演している。

芝居がはねた後、大学の教室に場所を移し、ポスト・パフォーマンス・トークが開催された。カハル・クインと、東京大学名誉教授でフランス文学者、そして演出家でもある渡邊守章がパネリストを務めた。

渡邉がフランスに留学したのが1956年。船旅で本来なら30−31日でつく筈が、折り悪く10月29日から第二次中東戦争が勃発、スエズ運河が閉鎖になった。よって航路が迂回されたため、53日かかった。だからその時はベケットどころではなく、結局パリで観ることが出来たのは1960年代後半(68年の五月革命前夜)だったという。

またかつて蜷川幸雄が1994年に銀座セゾン劇場で市原悦子・緑魔子らにより《女相撲版》「ゴドーを待ちながら」を上演したことがあり、後に無許可だったことがバレて版権元から大目玉を食らったそう。生前にベケットは女性が演じることを決して認めなかった。

クインはまず本作がtragicomedy(悲喜劇)であり、悲劇と喜劇のどちらか一方に偏るべきではないという見解を述べた。スラップスティック(どたばたギャグ)という側面もあれば、悲しみとか痛みに浸る場面もある。登場人物たちが喋っている場面は沈没するボートの水を一生懸命掻き出している状況であり、繰り返される間・沈黙は悲劇であったり死を意味している。そして彼はベケットが愛読していたというショーペンハウアー(ドイツの哲学者)の著書「意志と表象としての世界」から次のようなアフォリズムを引用した。

人生は、全体を眺め最も重要な特徴のみを強調するなら正しく悲劇だが、仔細に見れば喜劇的性格を帯びている。

またウラジーミルは月とか柳の木とか上を見る動作が多いので声のトーンが高い役者を起用し、エストドラゴンは足元とか地面を見ることが多く、トーンが低い役者にしたと。さらに第1幕最後は背景の空を赤く、満月を青くして「繰り返し」を示し、第2幕最後は空を青、月を赤くして日食や世界の終末を示唆したそう。

いや〜刺激に満ちた貴重な体験だった。

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漆原朝子のフレンチ・コレクション

9月8日(金)大阪倶楽部へ。

漆原朝子(ヴァイオリン)、鷲宮美幸(ピアノ)で、

  • ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ 遺作
  • フォーレ:ロマンス
  • ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ
  • ショーソン:詩曲
  • サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番
  • マスネ:タイスの瞑想曲 (アンコール)
  • フォーレ:夢のあとに (アンコール)
  • ショパン:夜想曲 第2番 (アンコール)

濃密な音の中に意志の強さが感じられる。ただハーモニクス(倍音)奏法が掠れていて、余り綺麗じゃないなと想った。

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少女ファニーと運命の旅

評価:B+

Funny

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フランス/ベルギーの合作。実話である。僕はナチス・ドイツのせいで起こった悲劇に興味があり、結構沢山の映画を観ている方だと想う。最近でも「ふたつの名前を持つ少年」(ドイツ/フランス)、「サウルの息子」(ハンガリー)、「ヒトラーの忘れもの」(デンマーク/ドイツ)などがあった。

ユダヤ人の子どもたちだけでナチス占領下のフランスから国境を超えスイスに逃げようとする物語である。最後はちょっと、ジャン・ルノワール監督の名作「大いなる幻影」(1937)のことを想い出した。「ふたつの名前を持つ少年」「ヒトラーの忘れもの」同様、子どもたちの姿が健気で痛ましい。それはユダヤの子どもたちだけではなく、ドイツの子どもたちも同様。敵味方は関係ない。彼らは皆、戦争の被害者だ。

「戦争は悪だ、二度としてはいけない」と叫ぶのは簡単だ。誰にだって分かっている。しかしそんなお題目ばかり並べても、戦争の抑止力にはならない。全く意味がない。善人面して言った奴が、いい気持ちになるだけのこと。単なる自己満足、愚の骨頂である。

これから求められるのは戦争に至るメカニズムを解明し、それを未然に防ぐ事だろう。つまりナチス・ドイツが生まれた背景は何か?どうして当時のドイツ国民はヒトラーを支持したのか?ということを真剣に探る必要がある。というわけで皆さん、まずは「わが闘争」を読むことから始めましょう。

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【アフォリズムを創造する】その7「矛盾について」〜宮﨑駿という男

世の中では首尾一貫した行動が褒められる。「AだからBだ」と筋が通った発言が求められる。原因があって結果がある。それは一般に永遠不変の真理とされる。例えば「神様がいるから、現在の我々が存在する」といった具合だ。旧約聖書によると人(アダム)は神の姿に似せて創造され、女(イヴ)はアダムの肋骨から創られたという。

論理的思考が法体系を整備し、科学を発展させてきた。コンピューターは全て2進法で計算し、情報を処理する。

「辻褄が合う」ことが良いとされる。そういう理屈を考えるのは意識自我(ego)の部分だ。しかし人のからだ・自己(self)はもっと大きな理性で出来ている。そこには無意識が含まれる。無意識混沌としており、という訳の分からないもので出来ている。深層心理学において、それを探る方法が分析である。

宮﨑駿のアニメーション映画「風の谷のナウシカ」を初めて観たのは大学生の時だった。その時から僕は「矛盾に満ちた人だなぁ」と想っていた。

宮さんは「戦争は駄目だ」「《風の谷》のように人は自然とともに生き、自給自足の生活をおくるのが一番幸せだ」と言う。しかし宮崎アニメの醍醐味は戦闘シーンにある。彼は戦車や戦闘機など殺戮兵器が大好きだ。意識が語る言葉と、からだが示すことが分裂している。その極めつけが次の場面だ。

ペジテ市の輸送船に捕えられたナウシカの脱出をアスベルが助ける。メーヴェに乗り飛び立つナウシカをトルメキア帝国の武装航空コルベットが追撃する。万事休すかと思われたその時、ナウシカの救援に駆けつけたミトのガンシップが正面から忽然と現れ、その砲撃でコルベットは大破、撃沈する。ナウシカは当初「ミト!」と満面の笑みを浮かべるが、その直後に炎上し墜落するコルベットを振り返り、「嗚呼、あの船に乗っている人たちは皆死んでしまうんだわ」と哀しみの表情に変わる。「殺さないで!」と叫ぶ一方で、敵を殲滅することで自分が助かったのを喜んでいる(実際別の場面で彼女は怒りに駆られ、トルメキア兵を数名殺戮している)。完全に矛盾している。

平和や自然、調和を愛する(アポロン的である)一方で、根源から湧き上がる破壊衝動(デュオニソス的側面)がある。この矛盾は終始、宮崎アニメに付き纏ってきた。

宮﨑駿は一貫して共産主義者(communist)である。東映動画時代は高畑勲と一緒に労働組合幹部として会社と闘った。《風の谷》も、「もののけ姫」の《たたら場》も、生活共同体(commune)幻影の産物である。しかしその反面、スタジオ・ジブリ時代は日本テレビと組み大ヒットを飛ばし、米国配給では資本主義の権化とも言うべきディズニー・スタジオの協力を得た。もし宮﨑駿がソビエト連邦や中華人民共和国に生まれていたら、今日のような作品は生み出せなかっただろう。これも矛盾だ。

そんなある日、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが彼にこう言った。「宮さん、矛盾に対する自分の答えを、そろそろ出すべきなんじゃないですか。年も年だし」そうして生まれたのが「風立ちぬ」である。

「風立ちぬ」の堀越二郎は悪魔に魂を売った男である。彼は零戦の設計に全精力を注ぐ。それは殺戮兵器=戦闘機である。何故か?「美しいから」……答えは極めてシンプルだ。彼は善悪の彼岸にいる。他人からどんなに誹られようと構わない。糾弾・問責はしっかりと受け止める。それでも夢を信じ、自分がやりたいことを貫き通す。その覚悟についての物語である。つまり本作の肝は、力強い矛盾の肯定だ。真に美しい映画であった。

混沌(chaos)から創造が生まれる。世界は矛盾で満ちている。矛盾した自己(self)、混沌とした世界をまず肯定することから生を始めよう。

また宮﨑駿へのインタビュー記事をまとめた本「風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡」の中で彼は次のように語った。

旧約聖書の中の一書)伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで、額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。

引用文中下線部は噺家・立川談志の言う「人間の業」の肯定と全く同じ趣旨である。

そして(「人生なんて所詮こんなものだ、意味なんかない」という)ニヒリズムを突破し、自分自身を克服せよ!という主張はニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じたこと。宮﨑駿はあくまでPositive thinkingの人なのである。

ギリシャ神話において、パンドラの箱を開けると世界に禍々しい災厄がもたらされるが、最後に「希望」が残った。「風の谷のナウシカ」や「崖の上のポニョ」のラストシーンが正にそれである。

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エル ELLE

評価:A

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Elle

オランダ出身の映画監督ポール・バーホーベン(現在79歳)の映画を初めて観たのはテレビで放送された「ロボコップ」(1987)だった。「トータル・リコール」(90)以降は全て映画館で観ている。「ショーガール」(95)も「スターシップ・トゥルーパーズ」(97)にも足を運んだ。

バーホーベンは豪快な男だ。「ショーガール」がゴールデン・ラズベリー(ラジー)賞で最悪作品賞・最悪監督賞・最悪主演女優賞・最悪新人俳優賞・最悪脚本賞・最悪主題歌賞の6部門制覇した時には受賞会場に意気揚々と現れて、トロフィーを掻っ攫っていった。不名誉なこの祭典に、受賞者が登壇したのは史上初であつた。その後も本作は1990年代最悪作品賞も受賞している。

バーホーベン映画の特徴は偽悪的なこと。ワルぶっているのだ。ニーチェの概念で表するなら芸術性の高い「アポロン的」ではなく、衝動に突き動かされ荒々しい「デュオニュソス的」であると言える。

バーホーベンは善悪の彼岸にいる。

彼の初期作品及びオランダに帰って撮った「ブラックブック」(2006)はオランダ語(ドイツ語も飛び交う)、ハリウッド時代は当然英語。そして最新作「エル ELLE」のダイアログはフランス語である。イザベル・ユペールは本作で初めて米アカデミー主演女優賞にノミネートされ、セザール賞では主演女優賞を受賞した。

相変わらずパワフルで強烈な映画である。悪趣味だけど嫌いじゃない。映画が始まって10分ほどして、「これって『氷の微笑』路線?」と感じたが、ユペールが双眼鏡で隣の男を見ながら自慰行為に及ぶ場面に至り(撮影当時彼女は62歳!)、それは確信に変わった。シャロン・ストーンがスターになれたのは、「氷の微笑」のあの場面があったからこそだろう。主人公が経営するゲーム会社で開発しているゲームも女性がモンスターにレイプされるという内容で、凄まじい。

隣人の妻は敬虔なカトリック信者なのだが、キリスト教に対する辛辣な批判も感じられた。バーホーベンは1938年生まれで、幼少期をナチス占領下のハーグで過ごした(オランダがドイツに破れたのは40年)。味方であるはずの連合国は度重なる空爆で町を破壊。道端のあちこちに死体が転がっていたという。敵も味方もあるものか!正義と悪の境目も判らない、神も信じられない男として彼は大人になったのであろう。

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ブレンダンとケルズの秘密

評価:A

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「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」のトム・ムーア監督がその前に手掛けた作品で、漸く日本で公開された。2作連続で米アカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートされている。

映画公式サイトはこちら

ケルズの書とは8世紀にアイルランドの修道士たちの手で完成された装飾写本で現在はアイルランドの国宝となっている。ケルト特有の渦巻き、人、動物が描かれ、「世界で最も美しい本」と呼ばれている。

Kells1 Kells2

兎に角、美しいアニメであった。「ソング・オブ・ザ・シー」の方がより洗練されているが、それで本作の価値が下がるわけではない。

アイルランドのアニメーション・スタジオ「カートゥーン・サルーン」の作品はNetflixで配信されているテレビ・シリーズ「ウーナとババの島」(Puffin Rock)も観ているのだが、円を主体とする絵柄に特徴がある。で「ブレンダンとケルズの秘密」を観て、その原点がケルズの書にあったのだなということがよーく分かった。

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朝夏まなと主演/宝塚宙組「神々の土地 〜ロマノフたちの黄昏〜」「クラシカル ビジュー」

9月2日(土)宝塚大劇場へ。

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「神々の土地 〜ロマノフたちの黄昏〜」の作・演出は上田久美子。

主人公のドミトリー大公(朝夏まなと)は実在の人物でロシア最後の皇帝ニコライ2世の従弟。ラスプーチン暗殺後、皇后の怒りを買い、ペルシャ戦線に派遣されたというのも史実。この処置のお陰で、却って命拾いしたのだから数奇な運命だ。

伶美うららが演じた大公妃イリナは創作だが、皇后アレクサンドラの姉エリザヴェータ・フョードロヴナ(エラ)がモデルになっている。ドミトリーとの年齢差は27歳あるのでそれでは恋愛の対象にならないから調整したのだろう(皇后の妹に変更されている)。夫が暗殺された後、エラは修道院を創立し奉仕活動に没頭するが、イリナは戦争が始まると従軍看護婦として戦地に赴く。この改変は恐らく「ドクトル・ジバゴ」のヒロイン・ラーラを参考にしたに違いない。上手い脚色である。また年上の未亡人に対する叶わない恋慕は「翼ある人びと ーブラームスとクララ・シューマン」の延長上にあるテーマである。キャストも朝夏&伶美のコンビで共通しているしね。

美貌に恵まれた伶美は結局、トップ娘役になれずに気の毒だったが、まぁ、あの歌唱力では仕方がない。しかし最後にいい役を貰った。「神々の土地」では一切歌う場面がなく、ウエクミの優しい配慮だろう。伶美池田泉州銀行のイメージガールを務めたが、ここ最近は月影瞳→陽月華→野々すみ花と3代連続でトップ娘役に就任しているので、久しぶりのハズレとなった。

ドミトリーの旧友フェリックス・ユスポフを演じるのは真風涼帆。格好いいが、レヴューのダンスを観ると、些か身体(からだ)が硬んじゃないか?と想った(朝夏のダンスが上手いだけに、一層目立った)。

次期トップ娘役が決まっている星風まどかは皇女オリガを演じたが、余り存在感がなかった。何かね、地味で華がないんだ。レヴューでは初エトワールを務めたが、歌唱力はまあまあかな。

ウエクミは女性の劇作家・演出家として、日本でNo.1だと確信している。「翼ある人びと」と「星逢一夜」(読売演劇大賞 優秀演出家賞受賞)の完成度の高さは凄まじかった。唖然とした。しかし「金色の砂漠」は頂けなかった。完全な失敗作。「ウエクミ、大丈夫か!?」と心配したのだが、今回は見事に復調した。冒頭が嵐の場面で始まるのもいいし、特に感心したのはロマ(ジプシー)がたむろする居酒屋。ロシア貴族たちをテーブルの上に乗せ、その周囲をロマたちがグルグルと周る。やがて革命へと繋がる民衆の途轍もないパワー・怒り・不満がそこに満ち溢れ、渦巻いていた。また最後の最後に登場人物全員を舞台に上げ、彼・彼女らが走馬灯のように過ぎ去っていく情景もなんだか哀感があって、グッと来た。パーフェクト!

あと舞踏会の場面ではチャイコフスキー「くるみ割り人形」の花のワルツや「白鳥の湖」のワルツが使用され、その選曲もニクいね。          

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さて休憩を挟み、宝石をモチーフにしたレヴューロマン「クラシカル ビジュー」の作・演出は稲葉太地。華やかでセンスがあるなと想った。特にリムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」をアレンジした場面や、ホルストの組曲「惑星」のメドレーがシンフォニックなサウンドで矢継ぎ早に出て来る場面(ここでは生演奏が中断され、大編成オーケストラによる録音が使用される)は鮮烈だった。銀河……そして二十億光年の孤独。

お芝居も○、ショーも○。宝塚でこういう組み合わせは滅多にないことなので、是非ご覧になることをお勧めしたい。ゆめゆめ見逃すな!

それから最後に歌劇団に切実なお願いがあります。ウエクミの演出家デビュー作、月組バウホール公演「月雲の皇子」のDVDを是非是非発売してください。後生ですから。

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【アフォリズムを創造する】その6「芸術について」

音楽は言葉で表現できないことを語る。つまり夢=無意識に関わる芸術である。一方、文学は言葉で語る。それは意識・自我(ego)に属している。では映画(アニメ含む)はどうか?映画のはじめに言葉ありきーシナリオは言葉で綴られる。しかし同時に映像はイメージであり、音楽も加わりそこに無意識が忍び込む。故に映画は意識+無意識=自己(self)を表現する。

上の式を図で示すと次のようになる。

Mu

図全体が自己(self)だ。これはユング心理学からの引用であるが、ニーチェは次のように語っている。《兄弟よ、君が「精神」と呼んでいる、君の小さな理性も、君のからだの道具なのだ。君の大きな理性の、小さな道具であり、おもちゃなのだ。「私は」と、君は言って、その言葉を自慢に思う。「私は」より大きなものを、君は信じようとしないがー「私は」より大きなものが、君のからだであり、その大きな理性なのだ。大きな理性は、「私は」と言わず、「私は」を実行する。(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)》つまり「精神」(小さな理性)=自我であり、からだ(大きな理性)=自己と解釈出来る。

以前のアフォリズムで紹介したように、例えばイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」冒頭に登場するタランチュラはイエス・キリストの、「2001年宇宙の旅」の太陽はツァラトゥストラ=ニーチェのメタファーであり、イメージの世界だ。新海誠監督「君の名は。」も三日月(三葉)、半月(かたわれ)、満月(三葉と瀧の結合)といった具合でイメージの洪水である。

映画は運動を描く。英語でもmotion picture(動く絵)と書く。つまりからだと同義だ。そしてそのイメージは観客の心の深層(魂)に働きかける。

イメージは無意識を探るため、心理学でも利用されている。その代表例がロールシャッハ・テストである。

Rorschach

また心理学者・河合隼雄が日本に紹介した箱庭療法も言語化出来ないイメージを活用している。

Hako

J.S.バッハから古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)を経て、ロマン派(ブラームス、ワーグナー、マーラー)に至るまで、作曲家たちは夢=無意識を描く音楽を、小さな理性でコントロールしようとしてきた。その手段が、旋律・調性・和声・拍子・形式である。ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、リゲティら20世紀の作曲家たちが挑戦したのは、その枷(かせ)を取り払い、音楽を混沌(Chaos)に引きずり戻す作業であった。それは「アポロン的」表現から「デュオニュソス的」表現への変換を意味していた。

調性とは長調とか短調のこと。形式とはソナタ形式(主題提示部-展開部-再現部-終結部)・ロンド形式(A-B-A-C-A-D-A)・三部形式(A-B-A')・変奏曲などを指す。ハイドンからマーラーの時代まで約150年間、交響曲やソナタといえば第1楽章がソナタ形式で、中間に緩徐楽章や舞曲(メヌエットまたはスケルツォ、三部形式)を挟み、終楽章は再びソナタ形式かロンド形式とほぼ型(フォーマット)が決まっていたのだから驚くべきことだ。それは音楽という暴れ馬に馬具を装着し、制御するシステムであった。この工夫により聴衆は頭(意識)で全体像を把握し、理解することが出来た。

しかしシェーンベルクは十二音技法を生み出すことで調性を破壊し、音楽は協和音から不協和音が支配する世界に突入した。旋律や形式も木っ端微塵に打ち砕かれた。

「アポロン的」と「デュオニュソス的」対立軸はニーチェがその著書「悲劇の誕生」(1872年出版)でギリシャ悲劇を引き合いに出して創造した概念である。ギリシャ神話に於けるアポロン神は理知的で、情念(混沌)に形(フォルム)を与え、高尚な芸術へと昇華させる力を象徴している。一方、デュオニュソス神はバッカスとも呼ばれ、豊穣とブドウ酒、酩酊の神である。祝祭における我を忘れた狂騒や陶酔を象徴する。つまり秩序化された世界を、もう一度根源的なカオスに解体する力を司るのだ。アポロンは英知と理性であり、デュオニュソスは泥臭い人間の業(ごう)、欲深い本性であるとも言える。

確かにダンス・ミュージックであるベートーヴェンの交響曲第7番はある意味ディオニュソス的である。しかし知性(旋律・調性・和声・拍子・形式)でコントロールされている。手綱はしっかりアポロンが握っているのだ。

こうして見ると、1913年にパリで初演され、大騒動となったバレエ音楽「春の祭典」が果たした役割が理解出来るだろう(パニックの顛末は映画「シャネル&ストラヴィンスキー 」に描かれている)。それまでの音楽は知的で上品であり、調和に満ちていた。ストラヴィンスキーはそこにデュオニュソス的な、原始的で荒々しいどんちゃん騒ぎを持ち込んで建築物をぶっ潰し、混沌(土)に戻したのである。ベルクやバルトーク、リゲティ、武満徹らが成し遂げたことも、同じ方向性であった(武満の音楽は流動的な「水」や「夢」をテーマにしたものが多い)。

20世紀美術も音楽と同様な流れを辿った。ピカソが「私の唯一の師」と讃えるセザンヌを経てキュビズム(立体派)が完成され、やがてフォルムが解体されて抽象絵画に突き進んだ。人物/静物の輪郭=実際に目に見えるもの(意識)であり、それが失われるとイメージや無意識(魂)が残った。

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ベイビー・ドライバー

評価:B+

Babydriver

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本作が傑作であることを認めるのは吝(やぶさ)かではない。特に序盤のリズミカルな編集は斬新で、例えばヒッチコック「サイコ」のシャワー・シーンとか、ブラジル映画「シティ・オブ・ゴッド」(フェルナンド・メイレレス監督)に匹敵する出来栄えである。その直後に今度は長回しに切り替わる演出も冴えている。あと冒頭、ピーという耳障りな雑音が聞こえてくるのも効果的だ(しっかり後の伏線になっている)。

iPodの音楽に乗せて展開されるカー・チェイスは正にセミ・ミュージカルであり、爽快だ。ただし、どうも僕はエドガー・ライト監督と波長が合わないらしく、映画後半は「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 」を観た時と同じ感想を抱いた。即ち、「悪趣味で下品なんだよ!!」やっつけてもやっつけても蘇る○○に対しては「お前はゾンビか、それともターミネーターかっ!?」とツッコミを入れた。

最高だったのは「シンデレラ」のリリー・ジェームズ。あまりの美しさに息を呑んだ。彼女の美貌はイングリッド・バーグマンとかヴィヴィアン・リーに匹敵する。イギリスの至宝、国宝級だ。

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スパイダーマン:ホームカミング

評価:C

Spider_man

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ダメだ。余りにも評判が高いから期待して観に行ったのだが、やっぱり僕はアメコミを受け入れられない。全く性に合わない。アメコミものは沢山観たが、傑作だと想うのはクリストファー・ノーランによる「バットマン」三部作とギレルモ・デル・トロの「ヘルボーイ」二部作だけだな。「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー 」も実にくだらなかった。

チャラい主人公には全く共感できないし、ウザい。ジョン・ヒューズ風学園ドラマのノリも退屈なだけ。勝手にやってろ。どうでもいい。こんな映画ばかり観ていると、どんどん頭が悪くなりそうだ。

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