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2017年8月

2017年8月30日 (水)

【アフォリズムを創造する】その5「善悪の基準」

この世に絶対的な正義/善とか絶対的な悪など存在しない。真理などないのと同じこと。善悪はあくまで相対的価値観であり、時と共に移ろう。

例えばモーセの十戒に書かれた「汝、殺すなかれ」が絶対的な善かどうか検証してみよう。

体を刺す蚊を叩き殺すのは悪ではないだろう。熊が人間を襲ったら自衛のために射殺するのはやむを得まい。しかし蚊に刺されても殺生せず、為されるがままの坊さんも世の中にはいるだろう。

また生きていくための食肉として家畜を屠殺したり、魚を食べるのは悪ではなかろう。一方、菜食主義者というのもいる。しかしベジタリアンも植物は食べるわけで、植物も生き物だ。ということは彼らは動物の殺生は罪悪だが、植物なら構わないと考える差別主義者ということになる。

ここで「汝、殺すなかれ」の対象は人間に限定されるという解釈が登場する。では何故他の動物を殺すのは許され、人間だけ駄目なのか?その線引の根拠は?と問われたら、貴方は明確に答えられますか?

シーシェパードなど海洋環境保護団体は「鯨やイルカは知性が高い動物だから殺してはいけない」と言う。殺人が絶対的悪であるという根拠もここにあるのだろうか。ならば知的障害者や植物人間なら抹殺することも許される?この理屈を突き詰めて行くと、ナチス・ドイツが実行した犯罪と同じ穴の狢になってしまう→安楽死政策「T4作戦」に関する詳細はこちら

戦争で敵を殺すのは悪か?それは罪に問われない。つまり「汝、殺すなかれ」が正しいかどうかは時と場合による。あくまで相対的なものだ。

第二次世界大戦を見てみよう。日本の軍人たちは「東京裁判」(極東国際軍事裁判)で裁かれ、7名が絞首刑となり、16名が終身刑を言い渡された。連合国側は1人も裁かれなかった。何故か?連合国側が勝ったからである。勝てば官軍だ。

戦争終結後、勝者が敗者を一方的に裁く。ここに「正義」はあるのだろうか?

戦争は軍人と軍人の殺し合いである。武器を持たない非戦闘員を殺してはならない。これが一応のルール、建前だ。現代においてもスカッド(弾道ミサイル)の誤爆が国際的非難を受けるのもこのルールに基づいている。

日本の真珠湾攻撃はアメリカ軍の太平洋艦隊と基地を対象にした攻撃であった。非戦闘員は狙っていない。ではアメリカ側はどうか?広島と長崎に投下された原子力爆弾は多くの一般市民の命を奪った。また東京大空襲は軍事施設以外も含む絨毯爆撃(無差別攻撃)で約11万7千人の死者が出た。大阪などでも大空襲があり、全国で被害者の総数は55万9千人に及んだ。果たしてこれらは大量虐殺(Massacre)・戦争犯罪ではないのだろうか?

「東京裁判」において、インド人のパール判事は国際法に照らして被告全員無罪であることを終始主張した。

戦後70年以上経過し、今は21世紀である。しかし未だに「日本軍はこんな酷いことをした」と言い募り、日本人に謝罪させ罪悪感を植え付けようとする者たちが後を絶たない。中国や韓国はもとより、我が国にも朝日新聞・東京新聞など自虐史観を強要するマスメディアがある。しかし不思議なことに彼らは、連合国の罪には一切触れない。何故なんだろう?戦争に一方(絶対)的な正義の側と悪の側なんてあるのだろうか?彼らはまるで、原罪を主張し「悔改めよ!」と狂ったように叫ぶキリスト教の司祭のようだ。実際に戦場で何があったかは知らない。しかし裁判において、祖父母の罪を孫が問われる判例などあるだろうか?あまりにも愚かしい。過去のことはどうでも良い。もっと建設的な、未来に向けての話をしようではないか。

2003年アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「大量破壊兵器」を保持しているということを理由に、イラクを「の枢軸」と決めつけ、イラク戦争を起こした。2006年独裁者サッダーム・フセインは処刑された。しかし結局「大量破壊兵器」は見つからなかった。一体、とは誰のことだろう?

人間が社会という集団生活を営むにあたり、守らなければならないルールがある。それが道徳だ。自分は他人から殺されたくない。故に「汝、殺すなかれ」。つまりこれは真理ではなく道徳なのだ。町で困っているお婆さんを見かけたら親切にしてあげる。これは彼/彼女が善人だからではない。自分が年を取ったときには他者から助けてもらいたい。つまり情けは人のためならず。親切は持ち回り、相互扶助だ。「自分にしてもらいたいことを相手にせよ」という黄金律、道徳が根底にあるのである。

Q.E.D.

真理と呼ばれているものを徹底的に疑え。そして「正義」を振りかざす者を絶対に信じるな!

「正義」を振りかざすとは、例えば自分自身が被害者でもないのに、いわゆる「従軍慰安婦問題」につけ込んで(日韓合意調印後も)永遠に日本を攻撃し続ける卑しい者たちのことを指す。

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【アフォリズムを創造する】その4「立川談志とニーチェ」

ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で初めて語られた【力への意志】とは弱い(仕える)者が強い者(主人)になりたいという意志のことである。永遠の善悪など存在しない。善悪は、自分で自分を繰り返し克服していくしかない。権力者(神/社会)が定めた道徳、善悪の基準に縛られて、自分の欲求・願いを我慢するのは愚かなことだ。自分自身で善悪を創造せよ。そのためにはまず既存の価値観を破壊しなければならない。

【力への意志】Wille zur machtという言葉はナチス・ドイツにより曲解され、悪用された。レニ・リーフェンシュタール監督が国家社会主義ドイツ労働者党の第6回全国党大会の様子を撮った余りにも有名な記録映画「意志の勝利」Triumph des Willensのタイトルも明らかに【力への意志】を意識したものだ。ツァラトゥストラは語る「俺が待っているのは、もっと高い者、もっと強い者、もっと勝利を確信した者、もっと快活な者だ」(丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)。「わが闘争」を読めば判るがヒトラーは自分こそが超人だと考えていた。しかしその実態はゲルマン民族至上主義の差別者であり、戦争を引き起こし国民に犠牲を強いる単なる独裁者でしかなかった。

ナチの思想はニーチェの考えとかけ離れているが、その哲学の危うい(誤解されやすい)側面を示していることも否定出来ない。

落語とは「人間の業」を肯定する芸能だと噺家・立川談志は語った。その思想はニーチェが説く【力への意志】とほぼ同じことを言っている。落語を聴き、朗らかに笑え。それが超人への第一歩となる。笑うライオンになれ!

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

「人間の業」の肯定とは自分自身の欲望に素直になり、それを無理矢理抑えつけるなということである。つまり【力への意志】だ。

「ツァラトゥストラはかく語りき」でニーチェはイエス・キリストが笑わないことを非難する。よく笑い、踊り、鳥のように軽やかに飛べ!がニーチェの主張だ。

ニーチェは「神は死んだ」と言い、キリスト教を徹底批判した。彼の両親は共にプロテスタントの牧師の家系であった。フロイトに師事して精神分析家となり、後に考え方の違いから袂を分かつたユングもプロテスタント牧師の家に生まれた。さらに「神の沈黙」三部作と呼ばれる映画を撮ったスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの父もまた、牧師だった。彼らがその思想を深化させた根源には父親に対する承認欲求反発があり、それが拗(こじ)れ、暴走したものと考えられる。

ウディ・アレンも私淑するベルイマンの映画「仮面/ペルソナ」はユング心理学に基づいており、また映画冒頭にキリストのメタファーであるタランチュラが登場するが、これはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」から拝借したアイディアである(第2部「タランチュラについて」)。

息子の父親に対する承認欲求がいかに強いかは、ジェームズ・ディーン主演、エリア・カザン監督の映画「エデンの東」が見事に描いている。

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2017年8月28日 (月)

【アフォリズムを創造する】その3「超人」とは何か?そして「永劫回帰」とは?

存在の不安から、また生きる意味を見出したくて人間は神や天国という超越的な価値、理想郷をでっち上げた。しかし神は死んだ。フリードリヒ・ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じた超人とは「この世に神様が存在しないんだったら、人間がその代わりを務めればいいんじゃね?」という発想に集約される。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは精神(=生)の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。「汝なすべし」と義務を課す大きな龍(=神)がライオンの行く手を阻む。しかしライオンは「われ欲す」と答える。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになるのだ。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

超人の秘密を知りたかったら映画「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)を観よ。あるいはアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」(新房昭之)や「攻殻機動隊」(押井守)でもいいだろう。

「2001年宇宙の旅」の最後に木星探査船ディスカバリー号のボーマン船長はスターチャイルドへと進化を遂げる。このスターチャイルドこそ、ニーチェの言う子ども超人だ。だから映画の冒頭と最後にR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」が高鳴るのである。この時地球の向こう側から太陽が登って来るのだが、太陽とはツァラトゥストラの象徴である。ツァラトゥストラはゾロアスター(モーツァルトのオペラ「魔笛」に登場するザラストロも同じ)のドイツ語読み。ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーは太陽神であった。

「魔法少女まどか☆マギカ」の最後に鹿目まどかは「アルティメットまどか」に変身する。この「アルティメットまどか」も超人である。そして「アルティメットまどか」は全ての魔法少女たちを円環の理(えんかんのことわり)へ導く。円環の理とは何を隠そう、「ツァラトゥストラはかく語りき」で言及される永劫回帰(えいごうかいき)のことである。

また「マトリックス」にも多大な影響を与えた「攻殻機動隊」の最後に、主人公・草薙素子はネットの海に溶け込み同化する。これは彼女が神(超人)になったことを意味している。「2001年宇宙の旅」で人類に進化を促すモノリス(石版)を創った宇宙人は映画終盤にベッドルームで笑い声を発するが、姿は見えない。つまり彼らも草薙素子同様に肉体(「攻殻機動隊」における義体)を失い、魂が海(宇宙)に漂っている存在であると推定される。

また原作:大場つぐみ、作画:小畑健による少年漫画「DEATH NOTE デスノート」もまた、神になろうとした男の物語である。しかしその野望は死神リューク(ゲーテ「ファウスト」に登場するメフィストフェレスの役回り)の気まぐれで打ち砕かれる。金子修介監督による映画版も、舞台ミュージカル版も完成度が高い(Netflix版には絶対手を出さないように!!)。

永劫回帰とは超人的な意思により、ある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことである。

永劫回帰はウロボロスのイメージで表せる。己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。あるいは禅宗における書画「円相」にも喩えられるだろう。始まりもなく終わりもない。音楽で言えば短い音型やリズム・パターンを反復する)ミニマル・ミュージックがこれに該当する。

Uroboros Ensou

上図左がウロボロス、右が円相である。

永劫回帰のことをもっとよく知るためには、押井守監督の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」も参考になるだろう。「ビューティフル・ドリーマー」で意思する者はラムであり、「まどマギ」では「アルティメットまどか」。そしてになったまどかを取り戻すために悪魔になることを決意する暁美ほむらもそう。この悪魔の対決は、ミルトンの小説「失楽園」に基いている。さらに永劫回帰「ループもの」映画の代表として、他にビル・マーレイ主演「恋はデジャ・ブ Groundhog Day」(1993)を推薦しておこう。小説ならケン・グリムウッドの「リプレイ」や北村薫の「ターン」ね。

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ1 運動イメージ」「シネマ2 時間イメージ」で映画を素材に哲学を語った。現代において哲学を体感し、思考する力を育むには、優れた映画やアニメーションを沢山観ることが格好の教材となるだろう。

特にお勧めしたい作品は上述した6作品に加え、「仮面/ペルソナ」、「未知との遭遇」、「ブレードランナー」、「いまを生きる」「インセプション」、「風立ちぬ」、「君の名は。」、そしてドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「メッセージ (Arrival)」などが挙げられる。

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2017年8月26日 (土)

【考察】アニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」最後に何が起こったか?

要注意!!ネタバレあります。

アニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の巷での評判が散々だ。特に「どういうこと!?」「意味が判らない!!」と罵詈雑言を浴びせられているのがラストシーンである。シナリオを書いた大根仁が自らノベライゼーションした小説版を読んでも、結末が違う(海の場面で終わり)。そこでどういう可能性が考えられるか、僕なりにいくつか挙げていこう。

仮説1)典道はなずなのもとに向かい、本当に駆け落ちした。

つまり【もしも玉】が粉々になった時写っていた、東京でのふたりの【(if)もしも】を実行したのである。

仮説2)典道はなずなが【もしも玉】を拾い、彼とキスをした浜辺に行き、彼女との想い出に耽っている。

綺麗な終わり方だけれど、何だか凡庸だ。

仮説3)典道はなずなに籠絡され、今でも延々とループを繰返している(新学期という時間に到達していない)。

この物語を表面的に眺めると、典道の意志で【(if)もしも】を繰返しているように見える。しかし果たしてそうだろうか?そもそも典道に【もしも玉】を渡したのはなずなである。プールの場面も不自然だ。どうしてなずなはスクール水着を来てプールサイドに横たわっていたのか?事前に掃除当番が誰かは把握していた筈だ。つまり端から典道(か祐介)を誘惑する気だったのではないか?そうすると彼女の台詞「私にはママのbitchな血が流れている」が意味深に響いてくる。典道は傀儡(操り人形)に過ぎず、全て主導権はなずなが握っているのだ。なずな=魔女witchbitchと一字違い)なら、【もしも玉】=ソウルジェム(グリーフシード)だ。詳しくは新房昭之監督の「魔法少女まどか☆マギカ」をご参照あれ。最後に【もしも玉】は粉々になってしまったがソウルジェム(グリーフシード)なら複数個あっても不自然じゃない。「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」は登場人物全員がラムの夢に翻弄される物語だった。「まどマギ」の場合は暁美ほむら。ループする物語はいつも、女性が主導権を握っている。

仮説4)結果的に映画の冒頭で暗示されているように典道は海で溺死したが、そのことはなずな以外誰も知らない。

最も悪魔的解釈である。ここで、

典道「ふたりで死ぬの?」
なずな「それは心中でしょ。か・け・お・ち」

という会話が生きてくる。終盤でなずなが先に海に入り、視線で典道を誘う。ローレライ伝説を想い出して欲しい。水の精となった彼女の声は漁師を誘惑し、破滅へと導く。またギリシャ神話に登場する海の怪物セイレーンは岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせるのだ。セイレーンは鳥の姿をしている。そしてなずなの衣装にも羽がある

Sirene

また浜辺に打ち上げられたなずなの父親の溺死体が【もしも玉】を持っていたことが、この説に信憑性を与えている。 つまり【(if)もしも】の世界は、人が死の間際に見る、走馬灯のように巡る風景とも解釈出来るだろう(走馬灯もループする)。

仮説5)【もしも玉】の力で、なずなが転校しない世界にたどり着いた。二人は授業を抜け出し、校舎の周りを駆けている(教室内のシーンの直前にふたりの人影が映る)。

これはインターネット上で見かけた説だが、ぼくは賛同しかねる。何故なら及川(おいかわ)なずな→島田典道(しまだのりみち)。つまり三浦先生が出席を取る際に、あいうえお順で典道の前になずなの名前が呼ばれる筈だからである。

Q.E.D. 考察は以上で終了。

この度2回目の鑑賞をし、1回目より更に深く感銘を受けた。特に「〈物語〉シリーズ」も担当した神前暁(こうさきさとる)の音楽。典道が初めて【もしも玉】を投げる直前だけ、ミニマル・ミュージック(パターン化された非常に短い音型を反復させる音楽)になるのである。つまり、その後に展開されるループする物語を予告しているわけだ。

上記事でループものはニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で論じた永劫回帰(えいごうかいき)に繋がっているのではないかと書いた。典道は駅でなずなに「跳ぶぞ!」と言う。そしてふたりは電車の中で踊る。

ツァラトゥストラは、ダンスをする。ツァラトゥストラは、軽い。翼で合図をする。飛ぶ準備ができている。すべての鳥に合図して、いつでも飛び立てる。至福で軽く仕上がっているのだから。 (丘沢静也訳「ツァラトゥストラ」光文社古典新訳文庫より)

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2017年8月22日 (火)

劇団四季×ディズニー・ミュージカル「ノートルダムの鐘」〜ヴィクトル・ユーゴーの深層に迫る!

8月19日(土)京都劇場へ。劇団四季「ノートルダムの鐘」を観劇。

Notre

1996年に公開されたディズニー・アニメーション「ノートルダムの鐘」の音楽はアラン・メンケンの最高傑作だと今でも信じて疑わない。

上記事で僕が書いたコメントを再録しておく。

アラン・メンケンには名曲が多い。「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」「魔法にかけられて」…。何れの作品と置き換えても構わない。しかし「ノートルダムの鐘」こそ最も荘厳で、劇的な音楽だと想う。

ヴィクトル・ユーゴー(ユゴーとも表記される)の原作は日本で「ノートルダムのせむし男」として親しまれてきた。しかし近年、「傴僂(せむし)」が差別用語に当たるとして、この名称は使われなくなった。ディズニー・アニメの原題は"The Hunchback of Notre Dame"で、直訳すれば「ノートルダムのせむし男」になる。それではまずいので日本で配給したブエナ・ビスタ・ピクチャーズは「ノートルダムの鐘」に邦題を決定、ご丁寧なことに英語のタイトルもわざわざ"The Bells of Notre Dame"に変更した。これは日本国内で発売されているDVD/Blu-rayも同様である。

アニメの日本語吹き替え版は全面的に劇団四季が担当した(DVD/Blu-rayに収録されている)。

  • カジモド:石丸幹二
  • エスメラルダ:保坂知寿
  • フィーバス:芥川英司(現:鈴木綜馬)
  • クロパン:光枝明彦
  • フロロー:村俊英

この中で現在も四季に残っているのは村俊英だけである。

今回のキャストは、

  • カジモド:田中彰孝
  • エスメラルダ:岡村美南
  • フィーバス:清水大星
  • クロパン:阿部よしつぐ
  • フロロー:芝 清道

劇団四季が上演するのは2014年に米国カリフォルニア州サンディエゴのラ・ホイヤ劇場で初演されたプロダクションで、作詞・作曲は映画と同じくスティーヴン・シュワルツ(「ウィキッド」)&アラン・メンケン(「美女と野獣」「アラジン」)のコンビ。演出はスコット・シュワルツ。

実はディズニーによる舞台ミュージカル「ノートルダムの鐘」にはもうひとつ、1999年6月5日にドイツのベルリンで初演を迎えたバージョンがあった。演出はジェイムズ・レパイン(「イントゥ・ザ・ウッズ」「パッション」「日曜日にジョージと公園で」)。劇団四季もそのプレミア上演に幹部や役者たち数名が出席したのだが、どうも不出来だったのか日本での上演には至らなかった。その後内容がさらに練られ、満を持しての日本お披露目に至ったわけである。ただし現時点でブロードウェイでの上演は実現していない。

僕は今回、余りの完成度の高さに息を呑んだ。凄い、凄すぎる!「オペラ座の怪人」や「ミス・サイゴン」を初めて観た時の感銘に匹敵する。

アニメ版で不満だったのは、アンデルセンの「人魚姫」を「リトル・マーメイド」にした時と同様、ユーゴーの原作を無理やりハッピー・エンドに変更したことである。カジモドはフロローを殺さないし、最後にカジモドもエスメラルダも死なない。子供向けとは言え、いくら何でもあんまりだ。しかし舞台版はほぼ原作に忠実で、一層残酷でダークになった。

キリスト教は父性が強い宗教である。三位一体とは父と子(イエス)と精霊を指し、そこに女性は一切関わらない。父性の特徴は「切断」にあり、世界を二分する。天国と地獄、天使と悪魔(善と悪)、光と闇。そして人間と「怪物」。「神」とか「天国」といった仮想の超越的な価値、理想郷を設定したために、キリスト教徒は現世や自分自身の生を一段低いものとして貶める価値観を見出した。それが「原罪」であり「最後の審判」である。ローマ帝国に対するルサンチマン(強者=支配者への怨恨、嫉妬)から育まれた攻撃性が自分自身に向かい、禁欲自己犠牲を美徳とする考え方が生まれた。この世は仮の住まいであり、欲望を抑えて隣人愛に徹すれば来世で幸福になれると信じたのである(以上の考察はニーチェの哲学とユング心理学に基づいている)。

聖職者のフロローは禁欲に生きている。一方、エスメラルダや流浪の民ジプシー(ロマ)たちはキリスト教の神を信じず、(善と悪の)境界に生きる者たちである。二分法の世界に生きるキリスト者には彼らのことが理解出来ない。得体の知れない「怪物」だ。自分たちはあらゆる欲望を我慢して生きているのにジプシー(ロマ)は歌って踊り、自由恋愛を愉しみ、生を謳歌している。彼らに対する嫉妬の感情もある。故にエスメラルダは「魔女」と断罪され、火あぶりの刑に処されるのだ。フロローも禁欲の末、歪んだ妄想・倒錯した欲情をエスメラルダに抱く。フロローはカジモドのことを「怪物」と呼ぶが、本当の「怪物」はどちらなのか?そして「怪物」を産んだのはキリストの教えなのではないか?ユーゴーが本作で語りたかったのは、そのことではなかったのかと僕は想った。

「ノートルダムの鐘」でユニークな存在はクロパンである。彼は道化であり、道化はトリックスターだ。トリックスターとは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、 その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すものだ(scrap and build)。変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。単なるいたずら好きの破壊者で終始することもあれば、時として英雄にも成り得る(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。境界を超えて出没するところに特徴がある。トリックスターは既存の秩序を解体し、(本作ではキリスト教の)価値観を転倒する。シェイクスピアの「マクベス」に登場する魔女3人の台詞「きれいはきたない、きたないはきれい」に呼応する。正に「ノートルダムの鐘」のラストでフロローとカジモドの立場は逆転するのである。

演出に関しては天井から降りてくる7つの鐘が強烈な印象を与えた。またクワイヤ(聖歌隊)の存在が、古代ギリシャ劇におけるコロス(合唱隊)を連想させ、鮮やかだなと舌を巻いた。

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2017年8月21日 (月)

デスノート THE MUSICAL

8月20日(日)梅田芸術劇場へ。「デスノート THE MUSICAL」を観劇。

今回のキャストは、

  • 夜神 月:柿澤勇人
  • L:小池徹平
  • 弥 海砂:唯月ふうか
  • 月の妹:髙橋果鈴
  • レム:濱田めぐみ
  • リューク:石井一孝→(体調不良により代演)俵和也
  • 夜神総一郎:別所哲也 

2015年の公演は浦井健治主演で観た。その時もダブルキャストだったのだが、柿澤は東京公演のみの出演だったのだ。歌唱力では浦井に軍配が上がる。一方、イケメンの柿澤には色気があるので、甲乙付け難い。特に冒頭、高校生の制服を着た彼を観て劇団四季時代に圧倒的パフォーマンスを見せた「春のめざめ」のことを懐かしく想い出した。

前回、夜神 月の父親役は鹿賀丈史だったが、鹿賀の演歌調の歌い回しにはほとほと閉口していたので、別所の方が断然良かった。

石井の死神には期待していたので、降板はとても残念である。しかしUnder study(代役)の俵和也はよく健闘した。不満はない。悪魔的な押しの強さが些か足りない気がしたが、こと歌唱に関しては前回の吉田鋼太郎より上じゃないかな?

それにしても演出(栗山民也)を含めよく出来た作品である。和製ミュージカルとしては最高峰だろう。本場ブロードウェイでも勝負できるのではないかと僕は想う。

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2017年8月20日 (日)

【アフォリズムを創造する】その2「EU及びグローバリズムという病」

上記事も併せてお読みください。

EUやグローバリズム(世界の一体化を進める思想)は、国家や地域などの境界を超えて繋がろうという動きである。そこには挫折したアナーキズム(無政府主義)の亡霊が彷徨っている。アナキストたちはジョン・レノンの夢を見る。

ジョン・レノン"Imagine"の歌詞は次の通り。

Imagine there's no countries 国なんかないって想像してごらん
It isn't hard to do       そんなに難しくはないだろう? 
Nothing to kill or die for   殺す理由も死ぬ理由もなく
And no religion too      宗教だってない
Imagine all the people    想像してごらん みんなが
Living life in peace       平和に暮らしている姿を

You may say I'm a dreamer   君は僕のことを夢想家って言うかもね
But I'm not the only one          でも僕一人だけじゃないよ
I hope someday you'll join us   何時か君も僕らの仲間になって欲しい
And the world will be as one  そして世界は一つになるんだ

この思想の根底にはキリスト教の説く隣人愛人間の平等がある。しかしニーチェは「それは弱者を甘やかし、人間から生命力を奪う教えである」と真っ向から否定した。ここでよく言われるのが、「ニーチェは民主主義を否定した」という誤解である。「わが闘争」を読めば判るが、ヒトラーもニーチェの思想を自分の都合のいいように曲解している。

ニーチェはファシズムに利用されたが、それは彼の意図したことではない。ニーチェは貴族・平民といった身分制度(社会階級)を肯定していないし、ましてや議会制民主主義を否定していない。

ニーチェが主張する「人間は平等ではない」という思想は能力生命力の差異の話である。優秀な人間もいればそうでないのもいる。働き者もいれば怠け者もいる。彼らを対等に扱うのは間違いだ。その誤謬に気が付かなかったために共産主義国家は失敗した。

例えばアインシュタインのような天才と、凡人は対等だろうか?毎日8時間働く真面目な人と、週2日のアルバイターの稼ぎ/生活水準は同じでいいのか?

人間が平等であるべきなのは力を発揮する「機会」においてのみである。どんな家庭環境に生まれようが、優秀ならば最高の教育を受けるチャンスが与えられるべきだし(学業の自由)、肌の色や人種で職業選択の自由が奪われるべきではない。しかし能力や仕事量で社会的地位や財産に差が出るのは当然である。それは差別ではなく、本人が有する力の差異だ。

努力は必ずしも報われない。人は(能力や容姿において)平等じゃないからだ。時には夢を諦めることも肝心である。

EUが抱える問題は「財政破綻した怠け者のギリシャ人を勤勉なドイツ人が助ける必要があるのか?」ということに集約されるだろう。故にイギリスは脱退を決めた。隣人愛なんかクソ喰らえ。またアメリカ合衆国でトランプ大統領(共和党)を支持したブルーカラーの人たちの叫びは「アメリカに生まれ真面目に働く俺達を蔑ろにして、不法移民を大切に扱う民主党なんか許せねぇ!」ということに尽きる。欧米は深く病み、分断されている。その根底にキリスト教の思想がある。

シリア難民をどれだけ受け入れるのか?というヨーロッパ各国の苦悩も隣人愛博愛に関連している。特にドイツはナチスという負の遺産・罪悪感があるだけに断り切れないのだ。僕がここで不思議に思うのは、サウジアラビア・エジプト・イランなどシリア周辺諸国での難民受け入れはどうなってるの??ということ。イスラム圏の問題はイスラム諸国で解決すべきだろう。ヨーロッパが貧乏くじを引く道理はない。

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2017年8月18日 (金)

ループする物語〜アニメーション映画「打ち上げ花火、横から見るか?下から見るか?」

評価:A

映画公式サイトはこちら

Fire

先ずはこちらからご一読を。

結論から言えばアニメ版は岩井俊二(監督)の実写オリジナル版を超えることが出来なかったし、「〈物語〉シリーズ」の渡辺明夫がキャラクターデザインを担当したなずなはたしかにエロくて魅力的だが、奥菜恵の神々しいまでの輝きには到底敵わない。そして虚淵玄(脚本)新房昭之(監督)「魔法少女まどか☆マギカ」ほどの衝撃もない。それでも僕はこの作品が好きだ。愛おしい。

それにしてもアニメ版のポスターを見たときからなずなが「〈物語〉シリーズ」のツンデレ女子・戦場ヶ原ひたぎによく似ているなぁと想っていたのだが、クラス担任の三浦先生が想定外の巨乳で、「〈物語〉シリーズ」の羽川翼そっくりだったから驚いた。ちなみに三浦先生の声を担当する花澤香菜は、新海誠監督「君の名は。」でも先生役だったが、「〈物語〉シリーズ」ではロリ系美少女・千石撫子を担当している。そのギャップが凄い。また三浦先生の彼氏を演じる櫻井孝宏は「〈物語〉シリーズ」で怪異の専門家・忍野メメの声を当てている。

オリジナル版(45分)で時間を逆戻りするのは1回。しかしアニメ版(90分)は岩井のアイディアで「もしも玉」というガジェット(小道具・仕掛け)を新たに登場させ、主人公・典道は何度も時間を遡行する。

映画史的に言えば、時間ループのアイディアを発明したのは押井守監督「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)である。SF小説で有名なのはケン・グリムウッドの「リプレイ」だが、こちらの出版は1987年。「ビューティフル・ドリーマー」の方が先なのだ。実写映画ではビル・マーレイ主演「恋はデジャ・ブ Groundhog Day」(1993)が名作中の名作。「ビューティフル・ドリーマー」以降、アニメで時間ループものは一つの確固としたジャンルとなり、京都アニメーション制作の「涼宮ハルヒの憂鬱」の"エンドレスエイト"では何と同一エピソードが計8回もTV放送された!また「魔法少女まどか☆マギカ」も同ジャンルと言えるだろう。

そして「ループもの」の原点に遡ると、哲学者フリードリヒ・ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」で提示した永劫回帰(えいごうかいき)の思想に辿り着くというのが僕の考えである。永劫回帰するには超人的な意思を要するが、「打ち上げ花火」で意思する者は言うまでもなく典道である(「まどマギ」の場合は暁美ほむら)。

今回新機軸だなと想ったのは、「ループもの」は基本的にいつも同じ時刻に戻るのだが、「打ち上げ花火」はだんだん戻る時刻がズレていく。「三百六十五歩のマーチ」みたいに《三歩進んで 二歩さがる》感じ。つまり厳密に言えば「ループ」ではなく「らせん」構造に近い。それを典道が通う中学校の螺旋階段が象徴している。(ところで途中から風力発電の風車が逆回転してる??)

あと「モテキ」「バクマン。」の大根仁監督が書いたシナリオが優れているなと感心したのはオリジナル版で典道なずなが乗れなかった電車に、ふたりを乗せてあげたこと。それにより、元から裏設定としてあった宮沢賢治「銀河鉄道の夜」との関係がより鮮明になった。

映画前半はオリジナル版を忠実になぞり、特に駆け落ちしようとしたなずなを母親が無理やり連れ戻す場面はアングルもカット割りも完璧に一致している。ところが後半から本作は大胆にジャンプし、全く違った世界に辿り着くのだ。そこが賛否の別れるところだろう(僕は○)。

新房監督は相変わらずスタイリッシュ。画面を横断・縦断する直線、斜線、円・楕円・長方形・菱形など幾何学模様が横溢している(そもそも花火や灯台の光源、そして「もしも玉」は球体だしね)。またなずなの目をクローズアップした演出がアニメ独特の表現法で、ミステリアスな雰囲気を醸し出すことに成功している(目も球体だ)。

最後に、

上記事で僕はアニメーション映画が大ヒットする(化ける)か否かを決めるのは観客の女性率が3割を超えるラインにあると自説を披露した。では「打ち上げ花火、横から見るか?下から見るか?」公開初日はどうだったか?僕の目算では男性率9割5部!劇場版「まどマギ」と同じ水準。女子の支持を全く得られていない。う〜ん、これはちょっと厳しいかも……。

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2017年8月17日 (木)

当ブログはアニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を全身全霊で応援します!

岩井俊二(脚本・監督)「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」はフジテレビ「If もしも」シリーズの一つとして1993年8月19日に放送された。そして岩井監督はテレビドラマとしては異例の日本映画監督協会新人賞に選ばれた。僕は再構成され劇場公開されたバージョンを95年に岡山のミニシアター「シネマ・クレール」で観た。その時の衝撃は鮮烈に憶えているのだが、同時上映で別の岩井映画を観た筈なのに、全く記憶から吹き飛んでいた。調べてみると「undo」らしい……「undo」?何それ??……出演者の欄を見ると山口智子と豊川悦司とある。そこで朧気にトヨエツが山口をロープで縛る画面が浮かび上がってきた。そうか、確かに観たっけ……。

それくらい「打ち上げ花火」に打ちのめされ、後は夢うつつ(トランス状態)だったということだ。

その後、岩井俊二を最新作「リップヴァンウィンクルの花嫁」まで追いかけてきたが、未だに「打ち上げ花火」を超える作品にめぐり逢えていない。唯一無二、紛れもなく彼の最高傑作である。

僕にとって「打ち上げ花火」は聖なる映画だ。奥菜恵が眩いばかりの閃光を発したのは後にも先にもこれしかない。それは「LOVE LETTER」の酒井美紀、「花とアリス」の蒼井優にも言えること。岩井俊二は少女が最高に輝く瞬間を捉え、フィルムに永遠に封印する能力に長けた映画作家である。「20世紀ノスタルジア」の原将人監督が「広末涼子は女優菩薩である」と絶賛しているのを聞いて笑っちゃったのだが、「打ち上げ花火」の奥菜恵(限定)にも同じことが言えるだろう(人のことは笑えない)。

REMEDIOSの歌「Forever Friends」も忘れ難い。プールの水面に浮かび上がった奥菜恵が最初は深刻な表情をしているのだが、ふっと笑顔になる。その瞬間にこの曲が掛かるのだ。冴え渡る岩井演出。そしてオキメグは水の煌めきの中に消えてゆく。まるで人魚セイレーンウンディーネ水の精)のように。岩井俊二が「ウォーレスの人魚」という小説(映画「ACRI」原作)を書いているのは決して偶然ではない。

この時オキメグは主人公の少年に「今度会えるの2学期だね。楽しみだね」と言う(しかしその日は来ない)。これは新海誠のアニメ映画「秒速5センチメートル」(2007)で明里が踏切で言う「隆貴くん、来年も一緒に桜、見れるといいね」に呼応する(しかしその日はやはり来ない)。「秒速5センチメートル」には岩井映画へのオマージュが散りばめられていて、図書館の場面なんか、もろに「LOVE LETTER」である。近年、岩井と新海は急接近し、岩井のアニメ「花とアリス殺人事件」にはspecial thanksとして新海が、また「君の名は。」には岩井の名前がエンドロールでクレジットされている。

月日は流れ2010年、テレビ東京でドラマ「モテキ」が放送された。脚本・監督は大根仁。その第2話で森山未來と満島ひかりが「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の聖地巡礼をする。当然「Forever Friends」も流れる。ロケ地の千葉県飯岡町まで行きキャメラを持ちはしゃぐ満島を見ながら僕は腹を抱えて笑い転げ、「君は僕だ!」と画面に向かって叫んだ。大林宣彦監督「尾道三部作」のロケ地巡りをした自分自身の姿が彼女に重なったのである。この回を見たスタッフから岩井監督に話が伝わり、後に岩井監督と大根監督の対談が実現。ふたりは意気投合し、「打ち上げ花火」アニメーション化の企画が持ち上がった時に岩井監督はシナリオライターとして大根を指名した。そのアニメ版は今年8月18日に公開される。公式サイトはこちら

Fire

「君の名は。」を大ヒットさせた敏腕プロデューサー川村元気はアニメ「化物語」「魔法少女まどか☆マギカ」を観て、 新房昭之監督と是非いつか組みたいと考えていたという。しかし手ぶらで会いに行くわけには行かないので「打ち上げ花火」アニメ化というアイディアを携えて懇請すると、快諾を得た。それにしても岩井俊二大根仁新房昭之という3人の鬼才が一同に会すとは壮観である。その仕掛け人川村元気に対し、快哉を叫びたい(川村と大根は既に「モテキ」「バクマン。」で組んでいる)。

岩井版の上映時間は45分。今回の尺は少なくとも倍以上になる筈であり、大根仁の腕の見せ所である。どうも予告編を見るとオリジナル版では時間を遡行しパラレルワールド(並行世界)に入り込むのが1回なのに対し、アニメ版ではそれが繰り返されるようだ。もしかしたら映画「恋はデジャ・ブ(原題:Groundhog Day)」みたいな感じかも!?

世紀の大傑作「まどマギ」については上記事で語り尽くしたのでもう十分だろう。ついでに新房監督の〈物語〉シリーズについても触れておこう。「化物語」から始まる〈物語〉シリーズの原作は西尾維新。「化」は現在、Amazonのプライム・ビデオやNetflixで観ることが出来るので、是非お勧めしたい。ただ物語の順番としては劇場公開された「傷物語」の方が先なので、「傷」からが良いかも。「傷物語」→「化物語」→「偽物語」→「猫物語(黒)」の順で観るのがベスト。新房演出の真骨頂は画面に交錯する縦と横(と斜め)の直線。そして円・楕円・四角形・菱形などシンボリックな記号の横溢である。スタイリッシュなのだ。

〈物語〉シリーズは一言で評すならハーレムの話である。主人公の阿良々木暦はモテモテ男子で、メガネっ娘・巨乳・ツンデレ・ボーイッシュ(百合系)・ロリ少女・(文字通りの)妹など、ありとあらゆるタイプの女子から愛される。ヲタクの夢がここでは実体化している。まぁそんな内容だから女性ファンが皆無に等しい作品でもある(逆ハーレムの少女漫画「王家の紋章」が男子に人気がないのと同じこと)。

アニメ版「打ち上げ花火」製作発表では広瀬すずが声を当てた「なずなはエロい」という発言が相次いだが、〈物語〉シリーズも相当エロい。エロスを描かせると新房昭之の右に出るものはいないだろう。因みにアニメ版「打ち上げ花火」のキャラクターデザインは〈物語〉シリーズの渡辺明夫。そして「化物語」のツンデレ女子・戦場ヶ原ひたぎなずなの容姿はよく似ている。

なお新房昭之は2002-4年に南澤十八という秘密のペンネームで「アンバランス」など5作品のアダルト・アニメ(18禁)を演出している。そして2004年に監督した「月詠」からアニメーション制作会社シャフトに拠点を移した。

最後に。アニメ版で「Forever Friends」が流れなかった嫌だなぁと思っていたら、どうやらDAOKOがカヴァーして歌っているようだ(岩井俊二が飯岡町で撮ったMVはこちら)。またREMEDIOSの「Forever Friends」は伴奏がギターとトライアングル以外シンセサイザーなのだが、今回のアニメ版は本物の弦楽器が演奏している。音に厚みが増した。至れり尽くせりだ。川村プロデューサー、本当にありがとう!そしてどうか、映画が大ヒットしますように。

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萩原麻未のラヴェル:ピアノ協奏曲

8月13日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

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萩原麻未(ピアノ)、パスカル・ロフェ/兵庫芸術文化センター管弦楽団で、

  • ラヴェル:組曲「クープランの墓」
  • ラヴェル:ピアノ協奏曲
  • ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲「展覧会の絵」

「クープランの墓」は流れるような演奏で、軽妙洒脱。繊細で柔らかい響きが魅力的だった。

萩原は2010年にジュネーヴ国際コンクール(ピアノ部門)で日本人として初めて優勝。そのファイナルで弾いたのがラヴェルのピアノ協奏曲であり、指揮もパスカル・ロフェだった。ピアノには靄がかかったような幻想性があり、「これが聴きたかったんだ!」と大満足。

ソリストのアンコールは彼女が日仏を飛ぶエア・フランスに乗っていた時に聴いたという、Relaxation Musicを即興演奏で。弱音の美しさが際立っていた。

「展覧会の絵」は1990年4月17日(火)に倉敷市民会館で聴いた、ゲオルグ・ショルティ/シカゴ交響楽団(他にベートーヴェン:交響曲第5番)の演奏があまりにも鮮烈で、その後何度もこの曲を生で聴いたが、どれももの足りない。今回もどうしても27年前の衝撃と比べてしまい、全く愉しめなかった。最高のものを知っていることはある意味不幸である。

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2017年8月16日 (水)

【アフォリズムを創造する】その1「資本主義 vs. 共産主義」

「アフォリズム Aphorism」の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス「アフォリズム」より)。ニーチェの多くの著書(「喜ばしき知恵」「善悪の彼岸」など)はアフォリズム集の形態で書かれている。

これから僕が考案したアフォリズムを少しずつご披露していこうと想う。今回のお題は「資本主義 vs. 共産主義」である。

人間の喜び、生きる原動力となるのは自身の欲望を満たすことにある。欲望を満たすためなら何の規制もなく、ある程度放任されている資本主義はそういう意味で人間の本性に適っている。一方、そこに計画経済の観念を持ち込み、労働者の平等を謳い、個人の欲望を規制するマルクス(共産)主義は人間の自由意志に反する。故に20世紀に世界規模で展開された社会主義国家という壮大な実験はことごとく失敗した。

共産主義はブルジョワジー(資本家、雇用者)とプロレタリアート(労働者、被雇用者)との対立軸を土台に生まれた。その本質は抑圧されている弱者=被雇用者こそが正義であり、強者=雇用者はだという価値の転倒にある。ニーチェがキリスト教を徹底批判した思想=ルサンチマン(ローマ帝国への怨恨、妬み)がマルクス主義の根底にもあった。ルサンチマン(ロマノフ朝への怒り)を原動力としてロシア革命が成立したのである。歴史は繰り返される。

旧約聖書に描かれるユダヤ人はエジプトで奴隷として扱われ、虐げられていた(出エジプト記)。やがてモーセに率いられ「約束の地」を目指すが、その行程は灼熱の荒野を歩くという過酷な旅であった。イエスが生まれた時にエルサレム地方を統治していたヘロデはローマ皇帝に従属することを約束して「ユダヤの王」となる。そしてヘロデの死後、ローマ皇帝はユダヤを属州にする。

キリスト教のルサンチマン(強者=支配者への怨恨、嫉妬)はやがて、奇妙な方向に進む。その攻撃性が自分自身に向かうのだ。それが原罪(人間は生まれながらに罪を負っている)であり、禁欲自己犠牲を美徳とする考え方である。鞭身派去勢派(スコプツィ)が極端な例だろう。マルクス主義者たちにも同様なことが起こった。ソビエト連邦ではレフ・カメーネフら政治家が自己批判の後に粛清され、中国でも文化大革命の時代に多くの人々が紅衛兵により自己批判を強要された。これはカトリック教会における懺悔室の拡大公開版と言える。日本においても連合赤軍の自己批判・総括が次第にエスカレートし、暴力リンチ殺人に至った(連合赤軍事件)。内ゲバも同様の理屈である。

つまり「人間の疎外からの開放」を実現しようとしたマルクス主義は、外的な抑圧(ロシア皇帝/ブルジョワジー)からの解放というみかけのもとで、内的な支配隷属の強化を遂行していたのである。

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2017年8月15日 (火)

ブロードウェイ・ミュージカル「ピーターパン」(+昨年の大事故について)

8月12日(土)梅田芸術劇場へ。ブロードウェイ・ミュージカル「ピーターパン」を6歳の息子と一緒に観劇。

Peter

配役は、

  • ピーターパン:吉柳咲良(10代目)
  • ウェンディ:神田沙也加
  • タイガー・リリー:宮澤佐江
  • ダーリング夫人:入絵加奈子
  • フック船長/ダーリング氏:鶴見辰吾
    ほか

スタッフは今年から一新され、演出を担当するのは「ジャージー・ボーイズ」で読売演劇大賞 優秀賞を受賞した藤田俊太郎。

僕自身は「ピーターパン」を観るのが3回目である。

実は2016年8月17日もチケットを購入し、息子と梅芸に足を運んだのだが、舞台稽古のワイヤーアクション中にスタッフの操作ミスで9代目・唯月ふうかが高さ3メートルの宙吊りから逆さまの状態で床面に落下、眼窩底吹き抜け骨折で入院するという大事故があり、公演は中止・払い戻しとなった(新聞記事はこちら)。結局その日はキッズプラザ大阪に行った。幸いなことに唯月はその後舞台復帰し、「デス・ノート」「レ・ミゼラブル」などで元気な姿を見せている。あの時はもう2度と上演されないのではないか?と危惧していたのだが、本当に良かった。

今回の主演は昨年のホリプロスカウトキャラバンでグランプリに輝いた吉柳咲良(きりゅうさやか)。13歳、中学1年生だそう。ボーイッシュな可愛い娘で、ピーターパンにピッタリ!8代目・ピーターパンを演じた高畑充希とどこか似た雰囲気があり、もしかしたら将来ブレイクするかも!?

元AKB48の佐江ちゃんは初めて生で観た。フツーに上手だった。これならミュージカル界で生き残れるだろう。

本作の魅力は何といってもフライングだ。特にカーテンコールでピーターパンが客席側に飛び、上空から魔法の粉をふりかける場面は何度観てもジーンとする。息子も気に入った様子で、帰ってからもしきりにピーターパンの話をしていた。

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ブロードウェイ・ミュージカル「アニー」

8月11日(祝)シアター・ドラマシティへ。

6歳の息子とブロードウェイ・ミュージカル「アニー」を観劇。

Annie

キャストは

  • アニー:野村里桜
  • モリー:小金花奈
  • ウォーバックス:藤本隆宏
  • ハニガン:マルシア
  • グレース:彩乃かなみ
  • ルーズベルト大統領:園岡新太郎
    ほか

演出は山田和也。

「アニー」の起源は1924年に新聞「ニューヨーク・デイリー・ニューズ」に連載された漫画"Little Orphan Annie"である。ミュージカル版は1977年にブロードウェイで初演され、作品賞など7部門を受賞した。僕はジョン・ヒューストン監督による82年の映画版を封切り当時映画館で観ている。高校生だった。またディズニーによる99年テレビ映画版(「シカゴ」「イントゥ・ザ・ウッド」のロブ・マーシャル監督)は北米版DVDで所有している。オリジナル・キャストとしてアニーを演じたアンドレア・マッカードルはミュージカル「キャバレー」(ツアー・カンパニー)のサリー役で2度来日した(僕はどちらも観ている)。またロブ・マーシャル版「アニー」の"NYC"の場面で、特別ゲストとして歌っている。

舞台版を観るのは今回が初めて。興味深かったのは大富豪ウォーバックス氏がスキンヘッドじゃなかったこと。何故なら漫画がそういう設定なんだよね。

Warbucks

ジョン・ヒューストン版(アルバート・フィニー)もロブ・マーシャル版(ヴィクター・ガーバー)も原作を踏襲していた。ただ、日本人には馴染みのない漫画なので、拘る必要は全く無いだろう。寧ろカツラだと不自然だし。

驚いたのは生オーケストラの演奏だったこと。子供向けだから当然、カラオケだと思っていた(ホリプロ「ピーターパン」はカラオケ)。子役を含めキャストのレベルも高く、製作者の本気を感じた。

あと映画やTV版でカットされた楽曲がいくつか歌われるのだが、省かれるのも宜なるかなと想った。

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2017年8月14日 (月)

映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」

評価:A

Thefounder

原題は"The Founder"、創立者のことである。ファストフード「マクドナルド」チェーンを作り上げたセールスマン、レイ・クロックを主人公に据えた実話。公式サイトはこちら

兎に角、えげつない主人公が最高!マイケル・キートンのベスト・パフォーマンスでは?

これは映画によるアメリカ合衆国論であり、品質と効率の対峙であり、Winner(勝者)とLoser(負け犬)の物語でもある。

レイ・クロックはマクドナルド兄弟のアイディアを奪ったわけであり、そういう意味では悪者なのだが、どうも憎めないんだよね。彼のせいで別に兄弟が不幸になったわけではないし、多分彼と出会わなければ、兄弟にはこれだけのお金を稼ぐ才覚もなかっただろう。「マクドナルド」の名前も永遠に残った。レイのへこたれない、常にpositive thinkingの姿勢には惹かれるものがある。彼は言う。「アメリカのどこの町に行っても裁判所が掲揚するアメリカ国旗と教会の十字架がある。貴方達(マクドナルド兄弟のこと)が考案したゴールデンアーチもそんな存在にしたい」

つまりアメリカ人にとって資本(金)こそが神であり、フランチャイズ加盟店拡大は布教活動なんだね。

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2017年8月 5日 (土)

尾瀬へ!

7月20日から25日にかけて、尾瀬に旅をした。尾瀬は新潟・群馬・福島の県境にある。3県のどこからでもアプローチ可能だ。

入山前日には「日本秘湯を守る会」の宿、梅田屋旅館@群馬県に泊まった。なにより温泉の泉質が素晴らしかった!

尾瀬といえば

夏が来れば 思い出す
はるかな尾瀬 遠い空
(中略)
水芭蕉の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり

という、江間章子作詞、中田喜直作曲「夏の思い出」を想い出す人が多いだろう。1954年NHKラジオ歌謡で放送され、一躍有名になった。しかし水芭蕉が見頃なのは5月下旬から6月中旬まで。7月下旬はニッコウキスゲが花盛りだ。

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写真正面に見えるのが至仏山。背後には燧ヶ岳が聳えており、この二つの山に挟まれて広大な湿原・尾瀬ヶ原が広がっている。

僕が尾瀬に行くのはこれが6回目。その内訳は5月下旬に1回、盛夏に4回、紅葉の秋に1回。至仏山も燧ヶ岳にも登った。山小屋で旅人に訊ねても、ニッコウキスゲが咲き誇る7月下旬の尾瀬が一番好きという人が圧倒的に多い。水芭蕉ってね、何か地味なんよ。湿原に沢山咲いていても、直ぐに飽きてしまう。

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写真奥の白い草はワタスゲだ。ウグイスやカッコウの声が聞こえてくる。

僕にとって尾瀬はディーリアス音詩(tone poem)と密接に結びついている。特に「夏の夕べ Summer Evening」。そして「夏の歌 Song of Summer」「夏の庭園にて In a Summer Garden」などを聴くと否応なく尾瀬の風景が目の前に広がるのだ。

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2011年に東日本大震災及び福島原発事故が発生し、しばらく足が遠のいていた。実際、環境省の公表資料を見てみると2010年の総入山者数が34,7万人だったのに対し、11年には28,1万人に落ち込んでいる。15年には32,6万人にまで回復した。因みに尾瀬ヶ原には昔から東電小屋があるが、東京電力は未だ手放していなかった(→サイト「尾瀬と東京電力」へ)。

しかし6歳になる息子に「地上の楽園」尾瀬をどうしても見せたいと想い、漸く再訪する決意を固めた。

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鳩待峠から入山し、見晴にある弥四郎小屋で2泊した。上の写真は小屋の2階からの眺め。標高のせいか小屋で飲む生ビールの旨さは絶品だ。翌日は尾瀬沼へ向かって出発した。

見晴の標高が1,400mで尾瀬沼が1,660m。標高差約250mの長い上り坂となっている。途中、珍しく水芭蕉がまだ可憐に咲いている場所が一箇所だけあった。

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尾瀬沼では毎回、長蔵小屋に泊まっていた。明治23年(1890年)に建てられた、尾瀬で最も古い小屋だ。しかし今回は初めて尾瀬沼ヒュッテに宿泊。雑魚寝の長蔵小屋とは違い個室で、食事も翌日のお弁当(おにぎり)も美味しかった!風呂も快適。次回からもここを利用しよう。

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尾瀬沼近くの大江湿原。ここのニッコウキスゲの群生は尾瀬ヶ原の比ではない。10倍は下らないだろう。

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写真中央に紫色のヒオウギアヤメ(檜扇菖蒲)が見えるだろうか?

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息子も気に入ってくれたようで良かった。1日12Km(1万8千歩)歩くこともあり、自分の体力(足)にも自信を持ったようだ。

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最終日は早朝に山小屋を発ち、1時間半歩いて沼山峠に出た。バスを経て会津高原尾瀬口から新型特急リバティに乗り、帰途についた。

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2017年8月 4日 (金)

「超絶のコンチェルト -めくるめく競演-」いずみシンフォニエッタ大阪 定期

7月15日(土)いずみホールへ。

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ロビー・コンサートを経て下野竜也/いずみシンフォニエッタ大阪で、

  • 尹 伊桑(イサン・ユン):クラリネット協奏曲
    独奏 上田希
  • 松本直祐樹:トロンボーン協奏曲 (初演)
    独奏 呉信一
  • ジョン・ウィリアムズ:オーボエ協奏曲
    独奏 古部賢一
  • HK・グルーバー:フランケンシュタイン!!【室内合奏版】
    シャンソニエ(バリトン) 宮本益光

尹 伊桑(1917-95)は日本統治下の朝鮮生まれ。父に音楽家になることを反対されたため、17歳の時に大阪市にある商業学校に入学した。その後、大阪音楽大学で作曲や音楽理論を学び、さらに東京で池内友次郎に対位法や作曲を師事した。帰国後、独立運動に身を投じ1944年には2ヶ月間投獄された。終戦後は北朝鮮に近づき、1967年に西ベルリンでKCIA(大韓民国中央情報部)により拉致されソウルに送還、スパイ容疑で死刑を宣告された。69年に大統領特赦で釈放されるも、韓国国内で尹の音楽は演奏を禁止された。苛烈な生涯である。彼のクラリネット協奏曲は重苦しい抑圧に対する叫びが込められていて、力強く不屈の闘志が感じられる。クラリネットの音だけではなく、奏者の声も活用される。個(ソロ)と社会(オーケストラ)の峻厳な対峙があり、苦悶や恐怖が描かれるが、やがてそれが限界突破し、笑いに転じる。不謹慎ではあるが僕は「面白い!」と気に入った。

松本直祐樹の曲で僕が連想したのは映画「砂の器」で哀しいお遍路の旅をする父子の姿であり、あるいは寺山修司が描く恐山の荒涼とした風景(例えば「田園に死す」)と、どこからともなく聞こえてくる鈴の音であった。

ジョン・ウィリアムズの協奏曲はオケが弦楽合奏のみ。第1楽章プレリュードはコープランドの楽曲やジョンが手掛けた映画「華麗なる週末(The Reivers)」を彷彿とさせ、第2楽章パストラーレはまるでトルーマン・カポーティの小説「草の竪琴(The Grass Harp)」を描写したみたい。あるいはジョンの楽曲で言えばスピルバーグの劇映画デビュー作「続・激突!カージャック(The Sugarland Express)」に近いかも。そして第3楽章「コメディア」は明らかに「E.T.」のハロウィンの場面や自転車での逃亡劇に繋がっている。穏やかで、どこか懐かしい、新世界の夢。いいねぇ。

「フランケンシュタイン!!」は歌付きの愉快な曲。ドラキュラ、フランケンシュタイン、スーパーマン、バットマン、狼男、ジョン・ウェインなどが飛び出す支離滅裂な言葉遊び。ティム・バートンの「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」とか、ピクサーの「トイ・ストーリー」を想い出した。あと挽肉パイが出てくるところは「スウィーニー・トッド」ね。グルーバーはオーストリアの作曲家だがアメリカ音楽のようでもあり、ラヴェルのオペラ「子供と魔法」のようでもあった。各奏者は10種類以上、30を超えるおもちゃ楽器を持ち替え、シャンソン歌手に対しては「鬱陶しいくらい」指示が楽譜に書き込まれているという。

ところでクリスマス・キャロル「きよしこの夜」はオーストリアで生まれた歌で作曲は小学校教師/教会オルガン奏者のフランツ・クサーヴァー・グルーバーなのだが、「フランケンシュタイン!!」の作曲家はもしかしてその子孫??

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2017年8月 2日 (水)

怪盗グルーのミニオン大脱走

怪盗グルー・シリーズ第3弾。サブキャラクターだったミニオンたちが思いもかけぬ大人気となり、「ミニオンズ」というスピンオフ映画まで製作された。USJでは「ミニオン・パーク」が誕生し、今や完全に主役(グルー)を食っている。日本の配給会社が当初は彼らに期待していなかった事が、第1作「怪盗グルーの月泥棒」という邦題からも窺い知れる(原題はDespicable Me,Despicable Me 2,Despicable Me 3 ←3作目まで一切ミニオンという言葉が登場しない)。

Despicable

評価:A

鉄板の面白さ。文句なし。今回初登場となる双子の兄弟ドルーとグルーでひとつの人格と考えるべきだろう。悪事から足を洗い善人になろうとするグルー vs. 悪党の魅力に取り憑かれるドルーという構図。矛盾した意識、分裂した自己がそこに描かれる。

今回の敵バルタザール・ブラットの場面では80年代ポップスの使い方が絶妙。特に冒頭、ベルリン【愛は吐息のように(Take My Breath Away from "Top Gun"】→マイケル・ジャクソン【Bad】→a-ha【Take on Me】の流れには爆笑した。Take on Me】は映画「ラ・ラ・ランド」にも登場。80年代を代表する曲ということなのだろう。

バルタザールの声を当てるのはアニメ「サウスパーク」のトレイ・パーカー。実は「サウスパーク」第1シーズン 第12話に【メカ・ストライザンドの大迷惑】という傑作エピソードがあり、バーブラ・ストライザンドがゴジラみたいに巨大化し、サウスパークの町を破壊するという物語だった。何だか凄くこの映画に似ていませんか?

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