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シューベルトと梅毒/アンドラーシュ・シフ@いずみホール

フランツ・シューベルトの死因が梅毒の治療による水銀中毒であったことは、現在ほぼ確定されている。

感染時期は1818年、梅毒の診断を受けたのが25歳の1822年12月、「未完成」交響曲を作曲中だった。その翌年に「わが祈り」という絶望の詩を書いている。そして遅くとも24年には水銀治療が開始されていたと推察され(この頃作曲されたのが弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」)、28年11月初旬に集中的な塗布治療が施されたことは間違いない(11月19日に死去、享年31歳)。

彼の最晩年のピアノ・ソナタ第19−21番は28年9月に一気に書き上げられた。故にこれらは3部作と見做される。第18番は26年に作曲された。

スイスの精神科医キューブラー・ロスはその著書「死ぬ瞬間」で死の間際にある患者が辿る死の需要の心理的プロセスを五つの段階に分けた。①否認と孤立(denial & isolation) ②怒り(anger) ③取引(bargaining)  ④抑うつ(depression) ⑤受容(acceptance) である。

ハ短調のピアノ・ソナタ第19番には④抑うつや②怒りといった感情の交叉を聴き取ることが出来る。特に第4楽章タランテラから窺い知れるのは「僕にはもう残された時間がない」という焦燥感だ。しかしこれが第20番、21番と進むに従い穏やかで静謐な境地に達し、⑤死の受容で彼の人生は幕を閉じる。

第20番 第2楽章アンダンティーノ(嬰ヘ短調)は死の谷から深淵を覗き込むような印象を覚える。「生は暗く、死もまた暗い(Dunkel ist das Leben, ist der Tod !)」なおこの音楽はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞した映画「雪の轍」で印象的に使われている。また第21番 第1楽章はアカデミー視覚効果賞を受賞したSF映画「エクス・マキナ」で流れる。

さて、3月17日(金)いずみホールへ。アンドラーシュ・シフのコンサートを聴いた。オール・シューベルト・プログラムで、

  • ピアノ・ソナタ 第18番「幻想」
  • ピアノ・ソナタ 第20番
  • ピアノ・ソナタ 第21番

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短調の第19番がスキップされ、長調の3曲が並んだ。元々の発表では20,21番のみの筈だったのだが、直前に演奏家の強い希望により18番が加えられた。

シフは2015年に1829年ウィーン製フォルテピアノを弾いてシューベルト後期ピアノ作品集のCDをリリースしたが、今回使用されたのはベーゼンドルファー(オーストリア)の280VC(価格2100万円)。楽章間は切れ目なく演奏された。

第18番のソナタは柔らかく優しい音色が奏でられた。朴訥な語り口で、雲の上を歩いているかのよう。メヌエットなど舞曲では軽やか。

第20番も、例えばポリーニとか内田光子みたいな「怜悧さ」「切れ」とは正反対で、第1楽章では愛らしさとか天使の微笑みが感じられた。ところが展開部に至ると仄暗い陰影が差し込み、詠嘆のため息をつく。ぼつりぽつりと呟くような第2楽章嬰ヘ短調で僕は中原中也の詩を想い出した。

汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

また狂気が疾走する中間部からは悲痛な叫びが聴こえてきた。第3楽章スケルツォは羽根/綿毛が舞うよう。第4楽章には穏やかな日差しが差し込むが、展開部では悲しみや嘆きがその笑顔の端々(はしばし)に垣間見られた。

第21番を今回初めて実演で聴いて気が付いたのは、左手(低音部)は否応なく人を連れ去ってゆく「運命」を表しており、シューベルトの歌曲「魔王」を想起させる。シフが「音楽史上最も優れたトリル」と評した不気味なトリルは死の予感。一方、右手が奏でるのは純粋無垢な「」だ。引き裂かれる想い。何と痛ましく、美しい音楽だろう!第2楽章では廃墟に風が吹き荒び、さすらい人が朧に姿を現す。それは作曲家が死んだ後のこの世界の情景を表しているのかも知れない。歌曲集「冬の旅」に近いものを感じた。第3楽章では春になり子どもたちの歓声が聴こえ、第4楽章で彼らは夏の野原を駆け回る。そして恋人たちは川原で憩う。しかしそこにシューベルトの姿はもうない。まるで歌曲集「美しき水車小屋の娘」の終曲「小川の子守唄」のように。

19時開演、15分の休憩を挟み4曲のアンコールが終わってみれば21時56分。深く得難い体験だった。

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