【考察】「ラ・ラ・ランド」〜セブとミアが見た夢は、何時から始まったのか?
ディズニー映画「アナと雪の女王」(2013)が公開された時、世界中の女性達が熱狂し、カラオケで「ありのままで(Let It Go)」を歌った。エルサのように自由に生きたいと皆が憧れた。しかしそこには大きな落とし穴があった。「ありのままで」生きることは世間一般で認知されている、いわゆる「女性らしさ」という仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨てることだ。それでは男にモテない。強い自我を確立し、自由を勝ち取ることの先には孤独地獄が待ち構えている。「アナ雪」の最後だってアナは男といちゃついているが、エルサは一人ぼっちだ。孤独を覚悟出来ない者に「ありのままで」生きる資格はないのである。
- 「アナと雪の女王」とエリザベート(ミュージカル)
2014年に書いた記事↑
「アナ雪」を観て「ありのままで」生きることに感化された女性たちはしかし暫くすると違和感を覚え始めた。何だか寂しい。朝目が覚めると涙が流れてくる。こんな筈じゃなかった……。やがて、「いいえ、まだきっと希望はあるわ。この世界のどこかに私と赤い糸で結ばれた【運命の人】がいるに違いない」という気持ち(妄想)に囚われた。そんな、心にぽっかり開いた穴を埋めてくれる映画が2016年に現れた。言うまでもなく「君の名は。」である。「君の名は。」は日本人の潜在意識にヒットした。
さて本題「ラ・ラ・ランド」の話に入ろう。この作品についてツィートで「夢追い人への応援歌」だの、「やっぱり夢を諦めないことが大切」などpositive thinkingの人達が沢山いて、素直だなぁと感心する。AKB48時代の高橋みなみの発言を想い出した。
しかし果たして「ラ・ラ・ランド」って、本当にそういう映画なのだろうか?考えてみて欲しい。デイミアン・チャゼル監督が本作の前に撮ったのが、あの悪意に満ちた「セッション」だぜ?彼が創造したフレッチャー先生というキャラクターは情け容赦のないモンスターだ。ちょっと油断をすると大火傷を負うことになる。
では悪魔的天才が今回仕掛けた罠は一体何か?以下ネタバレ全開で語ろう。未見の方は要注意!!!
映画の最後は"5 Years Later"に突然飛ぶ。ミア(エマ・ストーン)はセブ(ライアン・ゴズリング)の導きでチャンスを掴み、ハリウッドの大女優になっている。彼女は幼い娘をベビーシッターに預け、夫(IMDbによると名前は"David")と一緒に車に乗る。フリーウェイが渋滞なので降り、たまたま通りがかった店に入る。そこはセブが長年の夢を叶えて開店したジャズ・バー"SEB'S"だった。ロゴのデザインは嘗てミアが考案したもの。セブの弾くピアノに導かれて、ふたり共通の夢(妄想)が始まる……。
僕はこのラストを観ながら居心地の悪さを感じた。喉に異物が突き刺さったような、ぞわぞわする違和感。何かがおかしい……。
「ラ・ラ・ランド」を批判する人たちの意見で多いのが【ご都合主義】だ。セブとミアは一緒になれなかったけれど、個々の夢は叶えた。そんなに世の中、事が上手く運ぶ筈がない。仰る通り。観終わった直後は「だってミュージカルだからそれでいいんだ」と想っていた。しかし……。
ミアは♪Audition♪で「些かの狂気(madness)が新たな色彩を見出すための重要な鍵よ。それは私達をどこへ連れて行ってくれるか判らないけれど、でもだからこそ必要なものなの」と歌う。しかし奇妙なことに、"5 Years Later"のクレジット以降は狂気が欠けているのである。変だ、どこかにミッシングリンクがある。私たちが導かれた部屋以外に、隠された場所へ行ける秘密の扉が絶対にある筈だ。鍵を探さなければいけない。僕は考え続けた。そこで気になったのは最後の最後にミアが来ている服が黒のモノトーンだったこと。大人の女に成長したことを意味しているのかも知れないけれど、たとえば【漆黒の闇】に呑み込まれたという解釈は出来ないだろうか?ここでキーとなるのがビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」とデヴィッド・リンチ監督「マルホランド・ドライブ」である。
「サンセット大通り」に登場するサイレント映画時代の大女優ノーマ・デズモンドは最初から最後まで黒い服を着ている。チンパンジーの葬式をしたところなので喪に服しているのである(まぁこれ自体、狂っている)。「マルホランド・ドライブ」のカーミラ(名前の由来はロジェ・ヴァディム監督「血とバラ」の女吸血鬼)も黒い服を身に着けている。そして「マルホランド・ドライブ」には青い鍵(ブルーキー)が登場する。「サンセット大通り」はハリウッドの豪邸にあるプールに浮いた水死体(ウィリアム・ホールデン)が語り始めるのがオープニング・シーンだ。カメラはプールの底から水死体を捉え、さらにプールサイドに集まった警官たちを水越しに映し出す。似たようなショットが「ラ・ラ・ランド」にありませんでした?
では黒い服を着たミアが【漆黒の闇】に呑み込まれた姿なのだとしたら、夢は"5 Years Later"冒頭から始まっていることになる。その直前、セブとミアが見晴らしのよい丘で自分たちの将来を語り合っている場面こそが狂気(madness)の発端なのではないか?つまり彼らがそこで見た白昼夢が描かれているのだ。"5 Years Later"は書割(かきわり)の絵の大写しから始まり、大道具係の手で運ばれていゆく。「ここから始まるのは映画の夢、花も実もある絵空事なんだよ」というサインかも知れない。
映画「カサブランカ」において、嘗てパリで恋人同士だったハンフリー・ボガート(リック)とイングリッド・バーグマン(イルザ)は想い出の曲"As Time Goes By"(ピアノ弾き語り)に導かれ、カサブランカの"Rick's Cafe American"で再会する。その時イルザは既に人妻だった(夫はレジスタンスの闘士ラズロ)。
ここで想い出して欲しい。ミアの部屋には巨大なイングリッド・バーグマンのポスターがこれ見よがしに貼ってあったことを。セブとワーナー・ブラザーズ撮影所を歩いているときにも、「あの窓で『カサブランカ』(のパリの場面)が撮影されたのよ」という台詞がある。つまり、ジャズ・バー"SEB'S"での出来事はまるごと、バーグマンに成り切ったミアの妄想である可能性が高い。そもそも彼女がワーナーのカフェに勤めていること自体、「カサブランカ」への憧れを示しているしね。"SEB'S"という命名だって"Rick's Cafe American"を踏まえての発案だろう。ミアは♪Audition♪で繰り返し"Here's to 〜"(〜に乾杯!)と歌うが、これはボギー(ボガート)の名台詞"Here's looking at you,kid."(君の瞳に乾杯!)に呼応する。ボギーは別れ際に言う。"We'll always have Paris."(俺達にはパリの想い出がある)
部屋で一人芝居の稽古をしている時、ミアはバーグマンのポスターを剥がす。そしてカフェを辞める。憧れの人への決別の意思を示している。ところが、である。"5 Years Later"で彼女が車に乗り、撮影所から娘が待つ自宅へ向かう道すがらにバーグマンの(別の)ポスターが忽然と現れるのである!
映画の最後、夢から醒めても実は未だ夢の続きにミア(とセブ)は生き続けているのかもしれない。彼らが映画館で「理由なき反抗」を観ている途中にフィルム(=夢)は燃え尽きる。これはラストシーンを予告していたのだろう。
この禍々しい解釈を、読者の皆さんは果たして受け入れてくださるだろうか?
ラ・ラ・ランドへようこそ。
| 固定リンク | 0
「Cinema Paradiso」カテゴリの記事
- 石原さとみの熱い叫びを聴け! 映画「ミッシング」(+上坂あゆ美の短歌)(2024.06.10)
- 映画「オッペンハイマー」と、湯川秀樹が詠んだ短歌(2024.06.15)
- デューン 砂の惑星PART2(2024.04.02)
- 大阪桐蔭高等学校吹奏楽部 定期演奏会2024(「サウンド・オブ・ミュージック」「オペラ座の怪人」のおもひでぽろぽろ)(2024.04.01)
コメント
初めまして
ララランドの最後の妄想はなんなのか?
と検索してたどり着きました
面白いです!
またお邪魔します
ブログにリンク貼らせていただいてもいいでしょうか?
投稿: なんすぃー | 2017年5月 8日 (月) 04時58分
ブログです
投稿: なんすぃー | 2017年5月 8日 (月) 05時20分
なんすぃーさん、嬉しいコメントありがとうございます!リンクを張ってくださるのは大歓迎です。宜しくお願いします。
投稿: 雅哉 | 2017年5月 8日 (月) 19時26分