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2016年11月

2016年11月30日 (水)

切断と結合の物語〜【考察】「君の名は。」

映画「君の名は。」については語り尽くした感があり、いくらなんでももう何も残っていないだろうと考えていた。ところが、新海誠監督がRADWIMPSの新譜「人間開花」(初回限定盤)に付属するDVDのために再編集した「スパークル (original ver.)」のMVを観て、新たな発見があった。なおMVには新規カットが幾つかあり、しかも(静止画ではなく)動いたので甚く感動した。作画監督を務めたのはキャラクターデザインの田中将賀。画質もBlu-ray並に綺麗だし、これは必見!

「スパークル (original ver.)」MVで新海監督は【彗星の分裂 → 三葉誕生時にへその緒を切断 → 髪を切る】というカットを繋いでいる(こちらの動画でも確認出来る)。僕は、はたと思い当たった。そうか、切断と結合は「君の名は。」の重要なモチーフだったのだと。彗星の分裂=切断であり、直後にその片割れは糸守町に衝突=結合している。これは1,200年周期で起こっており、スケールを拡大した織姫と彦星(七夕)の物語であるとも言えるだろう。

僕は上記事で、三葉と瀧の前前前世は結合(シャム)双生児のような両性具有の単一体だったのではないか?と仮説を立てた。そしてシャム双生児にも切断=分離というテーマが生じて来る。

三葉のおばぁちゃん(一葉)が語るところのムスビとは結合であり、映画のラストシーンが三葉と瀧の再会=男女の結合を意味していることは言うまでもない。

切断と結合は「死と再生」と言い換えることも出来る。僕は今までに4回「君の名は。」を観たが、どうして三葉があのタイミングで髪を切るのか、納得がいく解釈が出来なかった。中学生の瀧に会って自分を認識してもらえず、失恋したと感じたから?いやいや、動機として弱すぎる。しかし上京したことを切っ掛けに彼女は生まれ変わろうと決意したのだと考えれば頷ける。実際にその翌日、三葉は死と再生という経験をすることになるのだから。

本編中に繰り返されるドアが開くショットは、2つに区切られた空間の結合であり、逆にドアが閉まるのは切断を意味している。

イギリスBBCラジオで映画評論家のMark Kermodeは「君の名は。」をterrific(素晴らしい)、sparkling(きらめくような)、wonderfulと絶賛した→こちらに動画あり。

彼は本作において「男と女、都会と田舎、古代と現代、科学と魔法、記憶と忘却といった相反する事物が、かたわれ時(strange twilight world)に出会うのだ」と表現している。

どうしてかたわれ時なのだろう?僕は考えた。そうだ!twilightとは昼と夜(day and night)、光と闇(light and darkness)との接点なのだ。つまりここにも結合のテーマが現れているのである。

「君の名は。」は深い。底なしの奥行きを持つ、途方もない作品である。

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2016年11月29日 (火)

明日海りお主演 宝塚花組「金色の砂漠」「雪華抄」

11月23日(祝)宝塚大劇場へ。

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「雪華抄」の作・演出は原田諒。日本の春夏秋冬を描く、破綻のないショーだったが、かと言って特に記憶に残る場面もなかった。和服は動きに制限があるし、これが和物の限界かな。

「金色の砂漠」の作・演出は快進撃が続く上田久美子。

砂漠の真ん中にある王国で展開される幻想的なアラベスク。奴隷と王女の恋というプロットはヴェルディのオペラ「アイーダ」の逆バージョンであり、また砂漠でふたりが息絶えるというプロットはアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」を彷彿とさせる(プッチーニのオペラもある)。そう想って観ていたら、途中から意外な展開となり驚いた。シェイクスピアの「ハムレット」と「リチャード三世」の要素が入って来たのである。さすがウエクミ、作劇が上手い。ただ圧倒的完成度だった「翼ある人びと」「星逢一夜」に比べると落ちるかな。

宝塚市在住の僕は毎朝、大劇場の前を通って通勤しているのだが、今回の演目は非常に当日券の並びが少ない。0人の日もある。つまりリピーターがいないということだ。奴隷役の明日海りおが四つんばいになり、娘役・花乃まりあがみこしから降りてくる時に踏み台にされるというショッキングな場面にファンは激怒している。宝塚歌劇にはやって良いことと悪いことがある。ポリティカル・コレクトネスが浸透した現代日本において、ここは唯一、男尊女卑が奨励される(むしろファンは喜ぶ)世界である。フェミニズムなんか要らない。今回のウエクミは(評判が良いからと)天狗になって、越えてはならない一線を踏み越えてしまった。猛省を促したい。才能あるんだからさ。

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2016年11月26日 (土)

ハーディング/パリ管のマーラー5番(と東日本大震災の記憶)

2011年3月11日(金)ダニエル・ハーディング/新日本フィルハーモニー交響楽団は、すみだトリフォニーホールでマーラー:交響曲第5番を演奏することになっていた。1,800席のチケットは完売。しかしその日の午後2時46分、東日本大震災が発生し、東京は大混乱に陥った。交通は麻痺し、なんとか会場にやって来れた客はたった105人。しかし演奏会は予定通り実施された。

終演後の会場では飲み物が配られ、ハーディングは来場者全員と記念撮影し、サイン会も開いた。また、帰宅困難者のために、ホールは宿として提供された。このエピソードは後に「3月11日のマーラー」としてNHKでドキュメンタリー番組が放送された。

ホルン奏者の大野は一時電車に閉じ込められた後、新橋駅に着いた。昔、ボーイスカウトで習った「スカウトペース」(40歩歩き、40歩走るーそれを繰り返す。長距離をバテずに速く進む方法)を想い出し、10kmの道のりを会場に向かった。僕はこの番組で初めて「スカウトペース」という言葉を知った。

あれから5年半。

2016年11月22日、ザ・シンフォニーホールへ。パリ管弦楽団の演奏を、その音楽監督に今年9月に就任したダニエル・ハーディング(イギリス出身)の指揮で聴いた。ヴァイオリン独奏はアメリカ生まれのジョシュア・ベル

  • メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
  • マーラー:交響曲 第5番

この日の朝5時59分ごろ、福島県を震源とした地震が発生した。マグニチュードは7.4、福島県・茨城県・栃木県で震度5弱を記録。福島県には津波警報が発令された。大阪(震度1)のホテルに宿泊していたハーディングの心に去来したものは、一体何だったのだろう?

客の入りは1階席9割、2階席5割、料金が一番安い3階は満席。オーケストラは2曲共に第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが指揮台を挟み向かい合う古典的対向配置だった。

メンデルスゾーンでオケはビシッと速めのテンポで颯爽とした演奏。切れがあり、勢いよく弾ける。

ジョシュア・ベルの音を聴いた瞬間に感じたのは、「あ、レッド・ヴァイオリンの音だ!」ジョン・コリリリアーノが作曲した映画「レッド・ヴァイオリン」のサントラは彼がソロを弾き、アカデミー作曲賞を受賞した。

第1楽章でびっくり仰天したのは従来の作曲家自身が書いたカデンツァを使用しなかったこと!そんなの前代未聞である。調べてみるとどうやらジョシュアの自作らしい(完成度はあまり高くなかった)。

メンコンの3楽章は軽やかですばしっこい。ここでハーディングは対旋律を生き生きと鳴らし、瑞々しい。僕は長野県軽井沢町にある白糸の滝をふと想起した。それは従来のベタベタと甘く、ロマンティックなメンデルスゾーンとは一線を画する解釈だった。

メンデルスゾーンは20歳の時、J.S.バッハ「マタイ受難曲」100年ぶりの蘇演の指揮をした。またその続きとも言うべきオラトリオ「聖パウロ」を作曲している。メンコンはロマン派としてではなく、バッハのように演奏されるべきだ、というのが僕の持論である。

ソリストのアンコールはJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番からガボットとロンド

暖炉の傍で聴いているような、温かくまろやかなバッハ。藤谷 治の小説「船に乗れ!」で高校の音楽科で学んでいる主人公が家族との団欒の場において、お祖父さんが演奏するバッハのオルガン曲クリスマス用コラール「かくも喜びあふれる日」と年末/新年用コラール「汝のうちに喜びあり」を聴く場面を想い出した。

さて、マーラーである。冒頭トランペット・ソロはいぶし銀の響きがした。楽器は錆びたような色合いだったが、相当な年代物なのだろうか(それとも仕様)?葬送行進曲の第1楽章は哀しいがそれ程悲愴じゃなく、流麗で、弦で始まる第2トリオには儚い夢が感じられた。第2楽章は激情。スケルツォの第3楽章ではホルン・ソロが起立。躍動感と楽しい想い出に満ちていた。この楽章はマーラーが幼少期を過ごしたボヘミア地方のカリシュト村(現在はチェコ)の記憶を描いているのだろう。第4楽章で「夢の女」アルマが登場。天国的な軽さと絹のようなしなやかさがあり、その透明感はバーンスタインの濃厚でネチッコイ演奏とは対照的だった。第5楽章はさしずめ村の結婚式。飲めや、歌え、踊れのどんちゃん騒ぎ。そこにアルマの主題が絡んでくるところはベルリオーズ「幻想交響曲」第5楽章”ワルプルギスの夜の夢”みたいだなと今回初めて気付かされた。両者は5楽章形式という点も共通している(ベルリオーズとマーラーはゲーテ「ファウスト」を愛読し、自作に引用した)。ハーディングは僕に、この曲が実は輝かしい「青春交響曲」という側面を持っているのだと教えてくれた。

考えてみるとこのマーラーの5番に僕たちが抱くイメージはヴィスコンティ監督「ベニスに死す」の腐臭・退廃美(デカダンス)や、のめり込んだレニーの解釈に影響を受け過ぎているのではないだろうか?

パリ管の音は柔らかく芳醇で「ふくよかな女性」を連想させる。それはゴツく硬いドイツのオケの響きとは全く違っていた。そして日本のオケはどちらかと言うとドイツ寄りなのだ。

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2016年11月24日 (木)

映画「この世界の片隅に」

評価:A

映画公式サイトはこちら

映画館で予告編を観たときは絵が地味で、全く食指が動かなかったが、余りにも評判が良いので気が変わった。

本作を観て、二つの作品を即座に想い出した。まず1945年の神戸大空襲を背景に、市井の人々の生活をリアルに描いた高畑勲監督「火垂るの墓」(ネタバレになるので詳しく書けないが、プロットにも類似性がある)。そして広島に原爆が落とされた1945年8月6日午前8時15分=ゼロ時間に向けて物語が進行していくという意味で、井上光晴の小説「明日―1945年8日8日・長崎」(長崎に原爆が投下されるまでの1日を描く)。これを原作として1988年に黒木和雄監督が映画「TOMORROW 明日」を撮っているが(キネマ旬報ベストテン第2位、その年の1位は「となりのトトロ」)、僕はどちらかといえば長崎出身の市川森一がシナリオを書いたTV版(1988/08/09 日本テレビで放送)の方が優れていると想う。黒木監督作品は左翼臭がプンプンして嫌なんだ。閑話休題。映画の登場人物たちは知らないが、観客は8月6日に広島市で何が起こるか知っているので、そこにサスペンスが生まれるのである。

「この世界の片隅に」は非常に丁寧に作られた傑作である。特に焼夷弾が雨のように降ってくる場面は背筋が凍る想いがした。ただこの映画のファンが「今年の日本映画No. 1!」と絶賛していることに対しては強い違和感がある。いや、それはどう考えたって「君の名は。」の方が映画史上に残る作品でしょう。マイナーなものを支持する者たちの、メジャーに対する僻みとしか僕には聞こえない。

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2016年11月19日 (土)

トランプ大統領誕生と「君の名は。」大ヒットが意味するもの

ドナルド・トランプが次期アメリカ大統領に決まった時には世界に衝撃が走った。アメリカのマス・メディアによる世論調査では民主党のヒラリー・クリントン優勢が常に伝えられてきた。日米ジャーナリストの大半はあからさまにヒラリー支持者であり、彼女に有利な偏向報道がおおっぴらにされた。しかし、蓋を開けてみると彼等は悉く間違っていた。死屍累々たる有様である。

アメリカ在住の映画評論家・町山智浩は大統領選の行方に強い関心を持ち、週刊文春に連載している【言霊USA】に〈米大統領選スペシャル〉を執筆した。「映画のことだけ書いていればいいのに。ド素人が政治に手を出して何やってんだ」と僕は呆れ顔で観察していた。投票日前日、彼はテレビ朝日「報道ステーション」にも生出演した。

この選挙前の発言は、ジャーナリストたちから一斉に叩かれ、バカにされた。ところがトランプが勝つやいなや、彼らは豹変した。

結局、選挙結果を受け入れられないで未練がましく後からゴタゴタ言っているのはヒラリー支持者の方だという情けない顛末となった。大統領選のシステムに問題があるなら、選挙前から言え。「後出しジャンケン」は卑怯だ。言い訳するな、みっともない。

開票後の町山智浩と久米宏のラジオでのやり取りを御覧頂きたい→こちら

彼だけではなく、ジャーナリストや国際政治学者たちの態度で呆れたのは、ほとんど誰も謝らないことである。自分たちの分析に欠陥があり、(報酬を貰い)誤った予想を公の電波や紙面で伝えたことに対する反省はないのだろうか?貴方達の存在価値って一体何??

その中で唯一偉いと思ったのが古舘伊知郎である。彼は11月9日にTBSで放送された《古舘がニュースでは聞けなかった10大質問!!だから直接聞いてみた》の中で、「私が間違っていました。ごめんなさい」と潔く頭を下げたのだ。見直した!

トランプ旋風で強く感じたのは新聞や週刊誌、テレビといった20世紀を席巻したマス・メディアの敗北・死である。彼らは意図的に世論を動かす力すら失った。

自分をモデルにした映画「市民ケーン」(1941)に激怒した新聞王ハーストが監督・主演のオーソン・ウェルズをハリウッドから追放したエピソードは余りにも有名だ。今では映画史上最高傑作とも言われる「市民ケーン」は結局、アカデミー作品賞も監督賞も受賞出来なかった。当時ハーストはいくつかのラジオ放送局、映画会社に加え、28の主な新聞および18の雑誌を所有していたという。世論を操作するなんてお茶の子さいさいだったのだ。ウエルズは後にヨーロッパを放浪する羽目になる。

それから一転、トランプ旋風の行方を決定付けたのは21世紀に登場したメディア、SNS(social networking service)であった。

時代は間違いなく転換点を迎えたのである。

ここで想い出すのが新海誠監督「君の名は。」の空前の大ヒットである。今年中に宮﨑駿監督の「もののけ姫」「ハウルの動く城」の興行成績を抜き、200億円の大台に乗るのは確実視されている。新海監督の前作「言の葉の庭」の興収が1.5億なので、100倍どころの騒ぎではない。「君の名は。」が「千と千尋の神隠し」同様に、日本人の潜在意識に訴えるものがあったことは確かだが、やはりSNSでの拡散、口コミの力がなければ、ここまで話題にはならなかっただろう。インターネット時代の申し子と言える。

今や国民的作家となった宮﨑駿監督のアニメも、当初はそれほどヒットしなかった。「風の谷のナウシカ」の興収は14.8億円、「天空の城ラピュタ」の興収はたった5.8億円である。細田守監督も「時をかける少女」の興収は2.6億円しかなかった(9年後の「バケモノの子」は興収58.5億円)。

ふたりとも作品をコツコツと積み上げることで、長い年月をかけ次第に世間にその名を浸透させて行った。新作が公開される度に、その前日に日本テレビが「金曜ロードショー」で彼らの旧作を放送したことの貢献度も高い。しかし「君の名は。」公開まで全く無名だった新海誠は、そんな従来のメディア戦略を嘲笑うかのように前代未聞の跳躍、大爆発を起こし時代の寵児となった。SNSを前に、新聞やテレビによる宣伝効果は全く意味を失ってしまったのである。

【SNSを征する者は世界を征す】21世紀はそういう時代に突入した。各映画会社の宣伝部は方法論の革新を迫られている。

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2016年11月14日 (月)

神尾真由子 ヴァイオリン・リサイタル

11月3日(木)兵庫県立芸術文化センターへ。

神尾真由子(ヴァイオリン)、ミロスラフ・クルティシェフ(ピアノ)で、

  • ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第1番
  • ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第3番
    (休憩)
  • ショスタコーヴィチ:24の前奏曲より
    No.10,15,16,24
  • チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」より
    レンスキーのアリア「青春は遠く過ぎ去り」
  • チャイコフスキー:「なつかしい土地の思い出」より第3曲
  • プロコフィエフ:歌劇「3つのオレンジへの恋」より行進曲
  • ショスタコーヴィチ:映画「馬あぶ」よりロマンス
  • ハチャトゥリアン:剣の舞
  • ラフマニノフ:ヴォカリーズ
  • バッジーニ:妖精の踊り

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神尾とクルティシェフはチャイコフスキー国際コンクールで出会い、現在夫婦である。

プログラム前半はソナタ2曲、後半は小曲集というユニークな構成。

ベートーヴェンでピアノはサラッと流れる。神尾は感情のはけ口を見出だせず、持て余している印象。なんだか窮屈そう。モーツァルトもそうだけれど、彼女に古典派の音楽は似合わない。

ブラームスのソナタは哀しみに満ち、詠嘆の声を上げる。

ショスタコの前奏曲は狂った感じ、叫びであり、チャイコフスキーは野太い音でノスタルジーや甘美な歌を歌う。そこにはこの作曲家特有のメランコリーへの共感があった。

プロコフィエフは荒々しく、ハチャトゥリアンは激するバーバリズムが強烈な印象を残す。

一転してラフマニノフは玻璃のように繊細で、絹の肌触り。

「妖精の踊り」はすばしっこいいたずら者(トリックスター)が疾風のごとく駆け巡る。

後半のプログラムは変幻自在な神尾の芸に舌を巻いた。

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2016年11月 8日 (火)

クラシック音楽の奥座敷〜初心者には歯が立たない名曲たち

僕がクラシック音楽を聴き始めたのは小学校4年生頃からである。好きになった最初のきっかけはヴィヴァルディ「四季」だった。同時期にカール・ベーム/ウィーン・フィルの来日公演があり、NHK-FMで放送されたベートーヴェンの交響曲第6番「田園」をエアチェック(←死語?)して繰り返し聴いた。その頃愛聴していたLPレコードはヘブラーが弾くモーツァルト:ピアノ・ソナタ集、ベーム/ベルリン・フィルのモーツァルト:後期交響曲集、カラヤン/ベルリン・フィルの「運命」「未完成」、ケルテス/ウィーン・フィルの「新世界より」、オーマンディ/フィラデルフィア管の「ボレロ」「展覧会の絵」などであった。

正に典型的な「クラシック音楽初心者」の歩むパターンと言えるだろう。まず音楽というものは抽象芸術なので取っ付きにくいから、標題音楽から入るのが易しい。つまり「何が描写されているか」が具体的に判るからである。プロコフィエフ「ピーターと狼」、サン=サーンス「動物の謝肉祭」なんかもそう。

男性の場合、大概最初はオーケストラ曲を中心に聴く(協奏曲含む)。派手だから興奮するし、ノリ易い。一方、女性の場合は幼少期からビアノを習っている事が多いので、ショパンやリストなどピアノ曲を好む(あくまで一般論です)。そしてオーケストラ&ピアノ曲しか聴かずに一生を終えるという層も少なからずいる。

今回はクラシック音楽を聴くようになり20年、30年経って漸くその素晴らしさに気が付いた作品をご紹介していきたいと想う。難物揃いである。何らかの形で、若い人たちの参考になれば幸いである。

1)J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ/無伴奏チェロ組曲

バッハの音楽の真の価値に気が付くまでに、相当な時間を要した。ベートーヴェン以降のロマン派の作曲家になると音楽に自分の感情を投影し劇的になるのだが、バッハにはそれがなく、至って簡潔である。神への篤い信仰はあるが、個人的想い(喜怒哀楽)は皆無。僕が若い頃はそれが物足りなかった。また無伴奏の弦楽器独奏作品よりもベートーヴェンやフランクなどのピアノ伴奏付きソナタの方が、ハーモニーも厚みがあって愉しめた。しかし今は違う。「洗練を極めるとシンプルになる」。故スティーブ・ジョブズの座右の銘だが、同じ美学がバッハにも当てはまる。ひたすら心の中(潜在意識)の暗闇を探求し、光を求めて直(ひた)走る強靭な精神力がそこにはある。

2)J.S.バッハ:マタイ受難曲

宗教曲というのは敷居が高い。しかもドイツ語歌詞なので歌詞対訳を読まなければ内容がちんぷんかんぷんだ。しかも長い。CDだと3枚組になる。キリスト教徒でなければ関係ないやと想っていた。

しかし考え方が変わったのは作曲家の武満徹が死ぬ直前に病床で、ラジオから流れてきたこの曲を熱心に聴いていたというエピソードを知ってからである。その時、彼の心に去来したものは何だったのか?俄然興味が湧いた。詳しくは下の記事に書いた。

信仰に関係なく「マタイ」は人類にとって、究極の音楽遺産である。心が洗われる体験を、貴方も是非どうぞ。

またここには挙げなかったが、バッハなら「ゴルトベルク変奏曲」もお勧め。

3)ベートーヴェン:後期弦楽四重奏曲

具体的に言えば、副産物として「大フーガ」を産んだ第13番、第14番、第15番のことを指す。1曲に絞れというのなら第14番で決まり。その理由は下の記事に書いた。

第14番は映画「鍵泥棒のメソッド」や「25年目の弦楽四重奏」でも重要な役割を果すので、そこを足掛かりにするのもよし。

4)ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ 第30、31、32番

名ピアニスト、アルフレート・ブレンデルは30−32番を1セットで考えるべきだと主張している。後期のピアノ・ソナタは高く聳え立つ山のような存在だ。深い思索、静寂閑雅な佇まい。その世界を仏教の言葉で表現するとしたら【涅槃】の境地なのかも知れない。若い頃はどうしても三大ピアノソナタ(「悲愴」「月光」「熱情」)や、「テンペスト」「ワルトシュタイン」「告別」「ハンマークラビア」といったタイトル付きソナタの派手な輝きに目が眩んでしまい、後期ソナタの控えめな光に気が付かなかった。太陽と月みたいな関係と言って良いかも知れない。

なお、高校の音楽科に通う学生たちを描く青春小説「船に乗れ!」の中で、作者の藤谷治は「ベートヴェンのピアノソナタ第28番、イ長調がこの世のすべてのピアノソナタの中で、一番好きだ」と書いている。その気持も判るなぁ。

5)シューベルト:後期ピアノ・ソナタ 第19、20、21番

1828年9月、シューベルトが死を迎える2ヶ月前に一気に書き上げられた、最晩年(31歳)の作品である。ブレンデルはこの3曲もひとまとめに論じるべきだと述べている。

シューベルトが梅毒の診断を受けたのが1922年12月、25歳の時。丁度この頃、彼は「未完成」交響曲を作曲中であった。そして翌23年から水銀塗布治療が開始されている。彼の死因が水銀中毒であることはほぼ間違いない。

弦楽四重奏曲 第14番「死と乙女」を作曲したのが1824年。全ての楽章が短調で書かれている。カルテットの第15番は2年後の26年に作曲された。

スイスの精神科医キューブラー・ロスはその著書「死ぬ瞬間」で死の間際にある患者が辿る死の需要の心理的プロセスを五つの段階に分けた。①否認と孤立(denial & isolation) ②怒り(anger) ③取引(bargaining)  ④抑うつ(depression) ⑤受容(acceptance) である。

これをシューベルトに当てはめるならば、①「僕が梅毒?まさか!」でも中々親しい人に相談出来ない。②「どうして僕が死ななくちゃいけないんだ!」③「神よ、お救いください。もう少し時間を下さるなら、より良き人間になりますから」といった感じかな。

彼の作品に対照するなら交響曲「未完成」が①、「死と乙女」が②、弦楽四重奏曲第15番が④、そして後期ピアノ・ソナタが④から⑤にかけての心情を吐露したものと言えるだろう。

ピアノ・ソナタ 第19番ハ短調の終楽章を聴いて僕が感じるのは「狂気が疾走する」。それはイタリア、ナポリの舞曲タランテラを連想させる。毒蜘蛛のタランチュラに噛まれると、人々はその毒を抜くために踊り続けなければならないとする話に由来する。またアンデルセンの「赤い靴」でもいい。

絶望憂い哀しみに満ちた第20番 第2楽章を理解するためにはカンヌ国際映画祭最高賞パルム・ドールを受賞したトルコ映画「雪の轍」をご覧になることをお勧めしたい。また第21番 第1楽章はアカデミー賞を受賞したSF映画「エクス・マキナ」に登場。この最後のソナタには死を受容した作曲家の静謐で、ある意味虚無的な世界が広がっている。

6)ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第3番

ブラームスやフォーレの室内楽は地味なので、中々初心者は辿り着くことが出来ない。人生も半ばを過ぎて、初めてこれらの楽曲の良さがしみじみ身に沁みるのだ。特に憂愁のブラームスは秋に聴きたい。

7)フランツ・シュミット:交響曲 第4番

この曲については下の記事で詳しく語ったのでここで繰り返さない。僕自身人生の最後に聴きたい、茫漠とした宇宙を感じさせる深遠な音楽である。

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2016年11月 4日 (金)

内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ

11月2日(水)ザ・シンフォニーホールへ。

内田光子(ピアノと指揮)、マーラー・チェンバー・オーケストラで、

  • モーツァルト:ピアノ協奏曲 第19番 ヘ長調
  • 武満徹:弦楽のためのレクイエム(指揮者なし)
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調
  • スカルラッティ:ソナタ ニ短調 K.9 (アンコール)

弦楽器の編成は1stVn-2ndVn-Va-Vc-Cbが8-7-5-4-2人。古典的対向配置でクラシカル・ティンパニと、(ピストン/バルブがない)ナチュラル・トランペットを使用。ノン・ヴィブラートではないが、古楽奏法を相当意識したアプローチだった。

内田の弾く長調のモーツァルトは暖かく、柔らかく、音に厚みがある。フットワークが軽く、しっとりした潤いがある。でも軽過ぎず、重くもならず、機動力がある。達観した自在な境地が感じられた。

少人数による武満は透き通った空気感があり、清々しい。

短調のモーツアルトは地を這うような響きで開始された。第1楽章は逃れ得ぬ宿命の音楽。引きずり込まれるような魔女的太母(グレート・マザー)がそこにいた。打って変わって長調に転じる第2楽章は絹の柔らかさ。聖母マリアがおわします天国の世界。僕はこれを聴くと否応なく映画「アマデウス」のラストシーン、サリエリが精神病院の患者たちに呼びかける言葉を想い出す。

Mediocrities everywhere...  I absolve you all.
凡庸なる者たちよ、汝ら総ての罪を赦そう。

そして第3楽章のロンド。激情に走る最強音から繊細に囁く最弱音までニュアンス豊か。正にパーフェクトな演奏だった。

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石丸幹二、安蘭けい in 「スカーレット・ピンパーネル」

11月1日(火)梅田芸術劇場へ。

石丸幹二、安蘭けい主演のブロードウェイ・ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」を観劇。

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2008年安蘭けいが主人公パーシーを演じた宝塚星組の感想はこちら。霧矢大夢が主演した2010年宝塚月組版はこちら

宝塚版の演出は小池修一郎、今回はガブリエル・バリー。具象的で判り易いが、些か凡庸に感じた。イケコ(小池)に軍配を上げたい。配役はパーシー:石丸幹二、マルグリット(ヒロイン):安蘭けい、敵役ショーヴラン:石井一孝、ロベスピエール/プリンス・オブ・ウエールズ(2役):佐藤隆紀(LE VELVETS)。

宝塚版で「ひとかけらの勇気」という新曲が加わったが、今回はそれが歌詞を改められ、別の場面で使用された。またパーシーとロベスピエールのソロがさらに追加された。

いやー面白かった。何しろ楽曲が良い。皆、歌が上手いし、結構コミカルな場面もあり笑える。最後は安蘭けいがフェンシングの剣を、なんと二刀流で持って大立ち回りを演じ、やんややんやの大喝采となった。

終演後に宝塚星組版でマルグリットを演じた遠野あすかがゲストとして登場し、トークショーが繰り広げられた。

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宝塚版の稽古中は作品の出来が良いんだか悪いんだかサッパリ判らなかったけれど、初日の幕が上がると観客からすこぶる好評だったとか、 遠野あすかが「初日までに痩せますから」と、どんどん衣装のウエストを細くして貰い、本番で深呼吸が出来なかったとか、愉快な話題で盛り上がった。

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2016年11月 1日 (火)

レ・ヴァン・フランセ 2016 @いずみホール

10月27日(木)いずみホールへ。レ・ヴァン・フランセを聴く。

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  • ヒンデミット:5つの管楽器のための小室内音楽
  • ベートーヴェン:「ドン・ジョヴァンニ」”お手をどうぞ”による変奏曲
  • サン=サーンス:デンマークとロシアの歌による奇想曲
  • 酒井健治:青のスパイラル
  • プーランク:六重奏曲
  • テュイレ(トゥイレ):六重奏曲よりガヴォット(アンコール)

レ・ヴァン・フランセはエマニュエル・パユ(フルート)フランソワ・ルルー(オーボエ)、ポール・メイエ(クラリネット)、エリック・ル・サージュ(ピアノ)ら超一流の奏者によるアンサンブル集団。元々プーランク:六重奏曲を演奏する目的で結成されたので、過去の来日公演でも必ずこの曲がプログラムの最後を飾る構成になっている。2012年に同じいずみホールで聴いたときの感想はこちら

パユはiPadの楽譜を使用していた。他の奏者は紙媒体だった様子。

ヒンデミットは機知に富む。シュポアはピアノが華麗。物悲しく、ロマンティック。ベートーヴェンは丁々発止のやり取りがスリリングで、名人芸を堪能。

酒井健治の新作からは「上昇気流」とか「突風」等を感じた。色彩感豊かで、フルートのフラッターとかオーボエの重音とか特殊奏法の見本市。面白かった。

定番のプーランクに文句があろうはずがない。CDで聴くよりも、やっぱり生のほうが迫力と鮮度があり断然良かった。

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