【考察】「君の名は。」もうひとつの解釈〜両性具有という見地から
ネタバレあります。
上記事において、
瀧は三葉に逢うために小川(三途の川)を越えて、「あの世」に足を踏み入れる。これは『古事記』に書かれた神話、イザナギ(男神)が死んだイザナミ(女神)に逢いたい一心で黄泉の国に行くエピソードに呼応している。
と書いた。日本神話に登場するイザナギとイザナミは【双(なら)び神】である。同時に生まれたとあるので双子ということになる。一卵性であれば、それが細胞分裂して誕生したわけだ(異性一卵性双生児は稀に報告がある)。そして後に彼らは夫婦となる。
結婚の儀式はこうだ。ふたりは初めに出来た小さな島に降り立ち、太い大きな柱=【天の御柱(あめのみはしら)】を立てた。そしてイザナギは柱を左回りに、イザナミは右回りに歩き、めぐり逢ったところでふたりは結ばれることとした。これは「君の名は。」のかたわれ時にご神体を中心として(三葉に憑依した)瀧(右回り→反転して左回り)と(瀧に憑依した)三葉(左回り→反転して右回り)が山頂(クレーターのふち)で出会う(反転するまでは互いのことが見えず、すれ違う)ことに呼応する。
イザナギ・イザナミに至るまでの系図を次に示す。
二柱(クニノトコタチノカミ、トヨクモノノカミ)とそれに続く五組十柱の神々をあわせて神代七代(かみよななよ)と呼ぶ。イザナミ、イザナギの先祖である二柱は【独り神】であり、そこから子供が生まれるのだから両性具有である。
またイザナギが黄泉の国から黄泉平坂(よもつひらさか、「崖の上のポニョ」に登場)を経て地上に戻り、その穢れを落とすために川で禊を行っている時に、彼の左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオの三貴子(みはしらのうずみこ、さんきし)が生まれた。イザナギはそれぞれに高天原・夜・海原の統治を委任した。つまり彼自身も両性具有の潜在能力を有していると言えるだろう。
つまり瀧と三葉の前前前世は両性具有の単一体だったという解釈も可能なのではないだろうか?それが男と女に分かれた。片割れだ。片割れだから互いを求め合う。元々は両性具有だから男女の入れ替わりも可能だ。それを象徴するのが繰返し登場する半月であり、瀧が着ている"HALF MOON"と書かれたTシャツである(ちなみに三日月は三葉のメタファーだ)。おばあちゃん(一葉)が口噛み酒のことを「それはあんたらの、半分だからな」と言うのも意味深でしょ?つまり瀧という因子が加わることによって初めて完全体(FULL MOON)となれるのだ。本来は「彼は誰時(かはたれどき)」なのに、それをわざわざ「かたわれ時」と言い直していることにも明確な意図がある。
映画のオープニングで瀧と三葉は背中合わせだ。背丈は同じ。やがて中学生の瀧が高校生の制服に変わり、背丈がぐんと伸び身長差が生じる。次に三葉の組紐が解けてショートヘアになる。これが3年という時間経過を示している。
このオープニングの瀧+三葉は両性具有の単一体だった前前前世を暗示しているのではないだろうか?結合(シャム)双生児のイメージ。このイメージは背中合わせのクレーン車で繰り返される。野田秀樹の舞台作品にもなった萩尾望都の漫画「半神」を想い出して欲しい。
「くっついてる」という表現はRADWIMPSが歌う「なんでもないや」にも出て来る。
もう少しだけでいい あと少しだけでいい
もう少しだけ くっついていようか
ここで誤解がないように、新海誠が参考にした平安時代に書かれた「とりかへばや物語」について、臨床心理学者・河合隼雄が分析した著書「とりかへばや、男と女」(新潮選書)から引用する。
ユング派の分析家で、両性具有についての書物を書いたジューン・シンガーは、両性具有は半陰陽とも両性愛(バイセクシャル)とも異なると明言している。半陰陽は一個人が男女両性の性特徴を具有する生理学上の状態であるし、両性愛は成人してからもなお、男女両性に性的魅力を感じる人である。これに対して、両性具有はむしろ個人の心の内部の在り方についてのことである、としている。あるいは、古代において雌雄同体などの彫刻があるにしろ、それはあくまでシンボルとしての意味であることを、エリアーデ(ルーマニア出身の宗教学者、民俗学者、作家。両性具有のシンボルについて研究を行った)も強調している。
10月4日は映画上で、ティアマト彗星が地球に最も接近した日だった。ティアマトとはメソポタミア神話において混沌(カオス)の象徴であり、原始の海の女神のことである。ティアマトは戦いの最中、弓で心臓を射抜かれ倒された。彼女の体は二つに引き裂かれ、それぞれが天と地の素材となった。その乳房は山になり、傍らに泉が作られたという。一方、宮水三葉という名字には水を含み、三葉の由来は水の女神”ミヅハノメ”であることは既に書いた(こちら)。ティアマト彗星が1,200年周期で糸守に分身の落とし物をして行くのは決して偶然ではない。
「君の名は。」は単純なジュブナイルSFや恋愛映画では決してない。その奥深さを、ここまで付き合ってくださった読者の方々には十分理解して頂けたのではないだろうか?これは紛れもない世紀の傑作である。
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コメント
「君の名は。」を神話レベルで考察しているサイトを巡っているうちにここに辿りつきました。
雲海の上のクレーターでの二人の邂逅シーンは、まさに国産み神話の情景そのものであり、それ故に観る者(日本人限定ですが)の無意識にダイレクトに働きかける力が発動しているのでは?と考えていましたので、こちらの記事には感動しました。
ジョーゼフ-キャンベルの謂う「神話の力」が芸術において正しく発揮された時に起きる、爆発的な拡散と浸透が、「スターウォーズ」の最初の公開時以来再び発現した、と言っても大げさではないと考えています。
宮澤賢治の童話「双子の星」において、「双子の」童子が「彗星」に唆されて天界から地上(海ですが)に墜落するのですが、その双子もまた両性具有であり兄妹でもありました。そして、その彗星は作中では
「ギーギーフー(岐阜!)」と唸っています。
新海監督は宮澤賢治はあまり好きではないようですが、奇妙な符合だな、とは思います。余計なお世話かもしれませんが、もしも未読でありましたなら、ご一読なさってみてはくださいませんか。
投稿: initiatehispupil | 2017年1月29日 (日) 01時26分
initiatehispupil さま、コメントありがとうございます。「双子の星」については知りませんでした。おかげさまで理解が深まりました。
「君の名は。」がこれだけの大ヒットをしたのはその物語の中に神話構造を内包しており、日本人の無意識に作用した(琴線に触れた)ことは間違いありません。川村元気プロデューサーも「集合的無意識にヒットした」とコメントしています。それは「千と千尋の神隠し」と同じなのですね。あれも八百万の神々がテーマですから。
宮沢賢治と新海誠監督との関係性も考察していくと興味深いですね。「銀河鉄道の夜」は鉄道が人々を(その意志とは関係なく)運び去る【運命】のメタファーとして重要な役割を果たしています。そしてそれは「君の名は。」も「秒速5センチメートル」でも同様です。「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラは明らかに賢治と亡くなった妹・トシとイコールと考えられます。兄と妹は同胞(はらから)でありながら、何となく禁断の恋愛感情的なものもそこに仄かに匂い立ち、両性具有の片割れの様でもあります。宮沢賢治はシスター・コンプレックスの作家である、というのが僕の持論です。
投稿: 雅哉 | 2017年1月29日 (日) 02時15分