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2016年9月23日 (金)

感動ポルノとして消費される障害者と「聲の形」

「感動ポルノ」という言葉をご存知だろうか?その由来はコメディアンでジャーナリストのステラ・ヤング氏のスピーチにあり、詳しくは→こちらのサイトを御覧ください。要約すると障害者は【健常者(非障害者)が感動するための道具】として見世物扱いされているということである。24時間テレビがその典型例であろう。

同じことを僕は以前から感じていた。特に嫌だったのが脚本家・野島伸司が書いた「聖者の行進」(1998,TBS)である。これは知的障害者=聖者として扱ったドラマだ。勿論障害者を差別することはいけない。そんなことは当たり前だ。しかし【差別しない=障害者を腫れもののように扱い、美化する】ことなのだろうか?それは違うだろう。差別しないとは、我々と対等に扱うことだ。彼らだってオナラもするし乙武洋匡みたいに不倫もするだろう。性格が良い面もあれば嫌な面もある。だから上から目線も下から目線もしない。あくまで平行だ。野島伸司がやはり関与し、酒井法子が耳と口が不自由な孤児を演じた「星の金貨」(1995,日本テレビ)も何だかすごく気色悪かった。こういうのに涙する人たちって、何よりも【物語に感動する自分自身に酔っている】っていうとこ、ありません?「自分たちは五体満足に生まれ、こんなに辛い思いをしなくて良かった」という優越感・安心感が根底にある。英語で言えばHypocriteだ。

さて聾者のヒロインが登場する「聲の形」は決して悪い作品ではないが、やはり「聖者の行進」に似た、モヤモヤした気持ちが残る。硝子がね、いい子すぎるんだ。まるで天使だ。おまけに美少女だし。でもそれでは物語としてのバランスが取れないので、しわ寄せが妹・結弦(ゆずる)に来てしまい、ものすごく屈折したキャラクターになっている。余りにも重い荷物を背負わされた結弦が、観ていてすごく可哀想になる。だからね、手放しで褒めることは出来ないんだ。絶対に。兎に角、いろいろな意味において「聲の形」は僕にとって【痛い】映画だった。

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