【考察】神話としての「君の名は。」〜その深層心理にダイブする。
また「君の名は。」ネタかと、些かうんざりしている読者もおられるだろう。なんかね、溢れ出る気持ちが制御出来ないんよ。色々な切り口があるから書いても書いても未だ書き足らない。そのうち落ち着くだろうからご容赦ください。
「君の名は。」で新海誠監督は21世紀の神話を生み出すことに成功した。これはスタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」やスティーヴン・スピルバーグ「未知との遭遇」、クリストファー・ノーラン「インターステラー」に相当する偉業である。
本作は常に日本の八百万の神(神道)に繋がっている。ヒロイン三葉の家業は神社であり、彼女も巫女としての勤めがある。苗字の宮水も神社に関連している。そして「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶのは鳥居の下。三葉という名前の由来はミヅハメ、水の女神から来ていると新海監督はtwitterで呟いている。ミヅハノメとは日本神話に登場する神で、『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。一方の瀧は都立神宮高等学校に通っている。映画終盤では「神前結婚式もいいな」という会話も聞こえてくるし、ラストシーンでふたりがすれ違う階段は須賀神社に通じる参道である。
またこの物語は観客を古(いにしえ)の日本へと誘(いざな)う。三葉の通う高校の古文の授業でユキちゃん先生(「言の葉の庭」の雪野百香里)が教えているのは万葉集。
男女の入れ替わりというプロットは直近では大林宣彦監督の映画「転校生」へのオマージュだが、更に遡ると平安時代に書かれた作者不詳の『とりかへばや物語』にたどり着く。
主人公となるきょうだいの男の子と女の子は、それぞれ、性を逆転させて女と男として育てられる。そして成人したときには、男の子は女官として東宮(女性)に仕える身となり、女の子は立派な男として結婚までする。最後にふたりは入れ替わり、めでたしめでたしとなる。
これは全世界でも稀有な物語である。男装の麗人という設定は西洋の物語にもあるが、例えばギリシャ神話やヨーロッパの昔話に男女が入れ替わるという話はない。
詳しくはユング心理学の第一人者・河合隼雄の著書「とりかへばや、男と女」(新潮選書)をお読みになることをお勧めしたい。
ここで河合の「こころの最終講義」(新潮文庫)より『とりかへばや物語』や『源氏物語』について分析した文章を一部抜粋する。元々は神戸市児童相談所「思春期公開講座」(1993年2月15日)で口演されたものである。キーワードはアニマ・アニムス・ペルソナ(仮面)。
われわれは物事を分類するんですが、その分類の中で、男と女という分類がある。男と女の仕事はものすごく明確に分かれている。男はこうあるべきだとか、女はこうあるべきだ、という考え方で男女を分けて考えている。これはなぜかというと、人間がものを考えるときに分類が明確な場合は秩序を保ちやすいからです。そして男らしい・女らしいという区別はある程度勝手に決めているわけで、絶対的なものではないということも知る必要があります。
平安時代の物語を読むと、男はしょっちゅう泣いています。感心するのは、あそこに出てくる男の場合には、殴り合いの喧嘩をしないんです。そして男は何をしているかといったら、泣くか和歌を作るかしている。
ユングの心理学では、男性にとってアニマというものが女性の姿で現れてくると言っています。アニマとはラテン語で魂ということです。女性にとっては魂のイメージは男性として出てくるといい、それをアニマという言葉の男性形のアニムスという言葉であらわしています。
私が男であるということは、面白い言い方をすると、私の可能性がものすごくたくさんあるなかで、一応男といわれるように生きたほうがいいわけですね。ということは、私は私を男としてつくってきているわけです。それをユングはペルソナという。ペルソナというのは仮面と言ってもよいでしょう。だから私はみんなが言っているような男らしいペルソナをつくってきている。私の魂は私にとっての不可解な、わけのわからないものですが、その魂ともういっぺん結合することによって私の存在自体を回復したいと願うのだったら、それは女性の姿で出てくるのがいちばんわかりやすいのではないか。私が男としてのペルソナをつくればつくるほど、私の魂は女性の姿をとって出てくるほうがぴったりくるのではないか。
私は男性、女性と分けていますけれども、それは考え方として分けているのであって、実際、自分がどう生きるのかということになると、私という男性がいわゆる男性的ではなく女性的に生きる力をもすごくもっていることになります。女の方もいわゆる男性的に生きる可能性ももっているということになります。
『とりかへばや』という物語は、男と女は思うよりもはるかに交換可能であるということを言おうとしたのではないか、と考えます。『とりかへばや』のひとつの非常に大きなポイントは、ビューティ、美ということではないか。普通の美ではない、魂の美である。魂は男と女というような通常の分類を超えた次元にかかわるのです。初めから記述的に読むと馬鹿くさくて読んでられないですね。そうじゃなくて、魂のことを書いているんだと思えば、物語はすごく読みやすい。
『とりかへばや』とか、『源氏物語』もそうですけれども、日本の中世の物語を私は非常に面白いと思っています。というのは、やはりあの時代には、われわれ現代人ほど自然科学的な考え方でぱっと物事を割り切って、切断して考える考え方をしていませんからね。みんなつながって生きているわけですから、そういうつながりのなかから自然に生まれてきたものを書いていますので、すごく意味の深いものが出てきているのではないか。そういう意味で、物語というものが、われわれが忘れかかっている魂のことを語っているのです。
これってそっくりそのまま「君の名は。」について解説したように聞こえませんか?瀧にとって三葉はアニマであり、逆に三葉にとって瀧はアニムスなのだろう。三葉が乗り移った瀧が女子力を発揮して、奥寺先輩から好意を寄せられるのも、瀧が乗り移った三葉が男子や女子からモテるようになるのも、各々がアニマ・アニムスと結合し、自己実現を果たすことを意味しているのではないか。そして河合の言うつながりとは「君の名は。」の結びに相当する。
ユング心理学では無意識を幾つかの層に分けて考える。その一番奥にあるのが普遍(集合)的無意識である。
つまりこの最下層までダイブすれば、他者と繋がることが出来る。それが結びだ。新海誠が大好きな村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」でいえば、井戸を掘るという行為と同じである。どんどん掘っていけば別の場所へ通じる抜け道が見つかるだろう。もしかしたら過去に行けるかも知れない。人の魂の中にも無限の宇宙が広がっている。因みに「君の名は。」のプロットは村上の短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」と関連がある。また奥寺先輩は最後「幸せになりなさい」と瀧に言うが、これは村上の「ノルウェイの森」でレイコさんが【僕】に別れ際に言う台詞である。
宮水家では代々「組紐」を作り続けている。「組紐」は結びであり、運命の赤い糸でもある。もう一つ重要なのは機織り機が登場すること。機織りは東西を問わず、昔話や神話の重要なアイテムだ。それは「世界を織り上げる」「人の運命を紡ぐ」ことのメタファーである。日本の神話でも天照大御神(アマテラスオオミカミ)は機織女(はたおりめ)たちを集め、神さまのために着物を織っていた。そこでスサノヲが狼藉を働き、心を傷めた天照大御神は天の岩戸に籠もってしまう。
以下ネタバレあり。映画未見の方はご注意ください。
瀧は三葉に逢うために小川(三途の川)を越えて、「あの世」に足を踏み入れる。これは『古事記』に書かれた神話、イザナギ(男神)が死んだイザナミ(女神)に逢いたい一心で黄泉の国に行くエピソードに呼応している。イザナギはイザナミとの約束を破り彼女を連れ出すことに失敗するが、瀧は成功する。
じつはイザナギとイザナミの物語はギリシャ神話におけるオルフェウス(オルフェ)とエウリディーチェの物語にそっくりである。正にこれこそ時空を超えた人類の普遍的無意識の産物だと言えるだろう。
さて皆さん、新海誠のディープな世界をご堪能いただけただろうか?
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コメント
ディープというか、よくできたパズルと思いました。
実際に映画を見た感想と同じです。
「よくできているけど・・・キャラクターがパズルの上で踊る人形に見える」です。
投稿: 名無し | 2016年11月11日 (金) 14時31分
瀧と三葉がイザナギとイザナミだ、という説には全面的に同感です。
私も小説(原作、というより脚本を元にしたノヴェライズだと思いますが)は未読で、映画を2回見ただけの時点での印象ですが。
瀧と三葉は宮水神社の御神体クレーターのカルデラ環上で「互いに相手の名を呼び合い」ながら近づき、「カタワレドキ」に遂に邂逅しますね。もうこれだけでイザナギ・イザナミの徴の雰囲気ムンムンですが、しかしアメノヌボコが無いなあと、思ってたら互いの掌にサインペンで名前を書き付けようとしてたことに気づき、あっと思いました。サインペン=アメノヌボコ。
イザナギ・イザナミの国産み神話はセックスの暗喩、もしくは性戯指南だというのは言い古された解釈ですが、広い意味で恋愛デートの構造原型とも見なせます。サインペン=ファリック・シンボル=アメノヌボコ。
ここまで重ねて証拠を突きつけられてはもはや疑う余地はありません。
してみると御神体自体はオノコロ島ということになり、これは「湖の中央の突起物」でまた別の昔の某アニメ映画の元型モチーフを思い出すのですが、こちらはまだ考察途中なので...。
ネット上では「瀧=スサノオ、三葉=アマテラス」説も見かけて、それもなかなか深い考察と感じましたが、ことあの御神体カルデラのシーンではイザナギ・イザナミでないとうまく嵌りません...まあ場面によって元型キャラクターを取っ替え引っ替えしてると考えても良いかもしれません。別に映画が神話の絵解きである必要はありませんからね。
なおこちらのblogは、私と同じことに気づいた人が他にもいないかと思い「君の名は。 オノコロ島 イザナギ イザナミ サインペン」でググって辿り着きました。
投稿: genheywoodkirk | 2016年12月20日 (火) 05時08分
genheywoodkirkさん、コメントありがとうございます。サインペン=天沼矛(アメノヌボコ)という説は面白いですね。ただし、神話的には【天沼矛で海をかき回して持ち上げると、「オノゴロ島」が生まれる。→イザナギ・イザナミはそこに上陸し神殿を建て、柱の周囲を回り結婚の儀式をする。】という経緯なので「君の名は。」で【御神体を中心としたカルデラの縁を瀧と三葉が周回し出会う→サインペンを取り出す】という順番では逆になってしまいます。
また瀧=スサノオという説は全く説得力がないと僕は考えます。だってスサノオはアマテラスに対して狼藉を働くトリックスター(いたずら好き)ですからね。瀧の性格と少しも似ていません。そして決定的に違うのはスサノオとアマテラスはペアではありません。無為の神=月読命(ツクヨミ)を加えたトライアド(三人組)なのですから。
投稿: 雅哉 | 2016年12月20日 (火) 21時10分
一晩考えました。「君の名は。」という物語に天沼矛(アメノヌボコ)の役割を果たすものがあるとしたら、それは山頂に落ちてカルデラ状の窪地を形成したティアマト彗星(龍のイメージとして示される)ではないでしょうか?新海誠監督は劇場用パンフレット第2弾のQ & Aの中でご神体の岩自体がティアマト彗星由来の隕石だと答えています。
投稿: 雅哉 | 2016年12月21日 (水) 08時12分
雅哉さん、レスくださっていたのですね、ありがとうございます。私もあの後さらにずっと考え続けていましたもので。考えに考えその度に場面の記憶を思い返しながら・・・。
どうやらまたもや私と同じ結論に達されていたようですね。ティアマト彗星(の破片)がアメノヌボコ説、賛成します。
暗喩を取っ払い直接的比喩で言ってしまえば、つまり天と大地のセックス。御神体クレーターのみならず、糸守湖を含む糸守町の盆地地形自体を作ったのもおそらくは昔のティアマト彗星の「来襲」によるものなのでしょう。つまりティアマト彗星=ファリックシンボルであり機能としてはアメノヌボコ、そして御神体も含めて糸守町のクレーター様地形は、湖などは正にそのものですが、子宮の象徴というわけです。
ただサインペンもまた同じ意味を担う、という解釈はまだ留保しておきます。アニメの演出家は元型モチーフの様々な変容・置換で場面プロップを作っていくものですからね。それはかつて押井守氏の作品を分析した時に作品からも教わりましたし、押井監督自身からもお聞きしました。屹立する東京の超高層ビル群なども、「糸守町=子宮の象徴」に対するファリックシンボルと解すのはむしろごく自然でしょう。というより、なぜ誰もそれを未だ言ってないのか。
他にも「3人組(というより多分「2人+1人」組?)」とか、映画監督は図像モチーフを時間モチーフに変換するという大原則から考えて「彗星が二つに分かれる≡時間線が二つに分かれる」とか、「時間の相互貫入(=過去と未来とのセックス?)」とかとか。
まだまだ掘り起こすべき・掘り起こされるべきものは多そうです。
ただ、レスを戴いて私のスタンスと雅哉さんのスタンスとの微妙な、けれど決定的な差異にもまた気づきました。私はあくまで最終的に「映画『君の名は。』」の元型モチーフ(それも機能・役割モチーフよりもむしろ図像モチーフ)を突き詰めることがメインの興味・目的であり、その材料としてどこまで利用されているかという点に限り日本神話のモチーフにプラグマティックな興味を持ったのですが、雅哉さんは日本神話の意味構造がどこまで「君の名は。」で実現されているかということに興味おありの御様子。同じものにたどり着いても、その来た方向が正反対だった、ということのようです。ただ正反対の立場から来て同じ地点にたどり着いたというのは、何か・・・我ながら誰うまですが、それこそ「君の名は。」が作った「ムスビ」でもありますねえ(照
いずれにせよ雅哉さんの論考は私にとっても大変に興味深いもので大いに示唆され刺激を受けました。もっと広く世に知られるべきものと信じます。
投稿: genheywoodkirk | 2016年12月30日 (金) 01時59分