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2016年9月

2016年9月30日 (金)

花總まり・城田優/東宝「エリザベート」

9月21日(水)梅田芸術劇場へ。ウィーン・ミュージカル「エリザベート」を観劇。

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僕が初めてこのミュージカルを観たのが1998年の宝塚宙組公演。エリザベートは花總まり(以後、花ちゃんと呼ぶ)だった。これが宝塚歌劇初体験(2回観賞)。当時は岡山市に住んでいたが現在は宝塚市の住人となった。そして2012年の宝塚OGガラ・コンサート(初演の雪組メンバー)を経て、今回が4回目の花ちゃんエリザである。

東宝「エリザベート」は東京初演@帝国劇場の時に一路真輝×山口祐一郎、一路×内野聖陽の組み合わせから観ている。武田真治マテ・カマラス(ウィーン版来日公演)のトートも体験済み。

主なキャストは以下の通り。

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花ちゃんは「エリザベート」の演技が高く評価され、今年の菊田一夫演劇大賞を史上最年少で受賞した。その記事はこちら(彼女のコメントあり)。観てびっくりしたのは98年とは全く違ったエリザベート像を創り上げていたことである。宝塚版第1幕での花ちゃんシシィはやんちゃで、無邪気で、生命力に溢れていた。あれから18年。今回のシシィはしっとりして、哀しみと諦念を内に秘めていた。明らかに深化していたのだ。特に圧巻だったのが第2幕「夜のボート」。この曲がこれほどまで感動的に響いたことはいまだかつてなかった。彼女の歌声がひたひたと心に沁みて鳥肌が立った。「花ちゃん凄い、貴女はもう人間国宝級の女優さんだ」と想った。なお「私だけに」でボロボロ涙を流すのは宝塚宙組時代もそうだった。そうそう、今回「私だけに」を歌っている時にシシイの目の前に墓石がゆっくりと立ち上がってくるのだが、【彼女の自我の確立=死への道行きまっしぐら】なのだからまことに見事な演出であった。

城田優はトート役で2010年に文化庁芸術祭「演劇部門」新人賞を受賞。また同役で今年、読売演劇大賞の優秀賞も受賞している。歌は上手いし、「セクシーなロックシンガー」という印象。首を傾げる仕草も良い。少なくとも男性が演じたトートでは彼がベスト(宝塚版は明日海りおにとどめを刺す)。

成河(ソンハ)は歴代のルキーニの中で最も声が高く、ゲイっぽい役作りだった。好みは別れるだろうが、嫌いじゃない。彼はトートさまLOVE(一筋)だしね。

ルドルフ役の古川雄大は歌に関しては城田に劣るが、何しろ小顔長身の王子様なので、特にトートとのデュエット「闇が広がる」は見栄えがする。◎

今回は演出・美術装置・衣装・振付が一新された。帝国劇場初演時のプロダクションは斬新で、特に大島早紀子が振付を担当したトート・ダンサーズの踊りが前衛的で僕は好きだった(一部で「狂っている」とも評された)。何だか小池修一郎による新演出や振付(小㞍健太/桜木涼介)は大人しく、オーソドックスになった感じ。かなり宝塚版に近づいた印象を受けた。見やすいけれど、ちょっと物足りないかな。特にヴィンディッシュ嬢が拘束服で登場しないのが残念過ぎる!!

でも兎に角、出演者が素晴らしいので、絶対ご覧になることをお勧めする。公演DVDも出ます→こちら!

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2016年9月29日 (木)

白鳥・三三 両極端の会 in ひょうご 「兄さん、まさかの第2回目ですよ!」

9月18日(日)兵庫県立芸術文化センター中ホールへ。

  • 三三・白鳥:ごあいさつ
  • 柳家三三:看板のピン
  • 三遊亭白鳥:牡丹の怪(白鳥作)
  • 三遊亭白鳥:アジアそば(白鳥作)
  • 柳家三三:任侠流山動物園(白鳥作)

2014年に開催された第1回目の感想はこちら

白鳥は古今亭志ん朝と桂枝雀が出演した落語会で前座を務めた想い出話などを語った。

「牡丹の怪」は三遊亭圓朝の怪談噺「牡丹燈籠」のパロディ。売れない落語家・ミミちゃんが登場するが、勿論三三の字を傾けたという趣向。上出来。

「任侠流山動物園」は「清水次郎長伝」のパロディで、僕は柳家喬太郎で3回聴いたことがあるネタ。三三は喬太郎とはまた違った味がある。クライマックスではやおら釈台を取り出し、講釈の名調子で一気に駆け抜けた。お見事!

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タカーチ弦楽四重奏団@兵庫芸文

9月19日、兵庫県立芸術文化センター小ホールへ。

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タカーチ弦楽四重奏団でオール・ベートーヴェン・プログラムを聴く。

  • 弦楽四重奏曲 第2番
  • 弦楽四重奏曲 第11番「セリオーソ」
  • 弦楽四重奏曲 第14番

タカーチ弦楽四重奏団はハンガリーのブタペストで結成された。初期メンバーはフランツ・リスト音楽院の同級生たちだったが、現在第1ヴァイオリン奏者はイギリス人、ヴィオラはアメリカ人が務めている。

第2番は柔らかく、温かい演奏。いぶし銀の響きで、木目の肌触りが感じられる。色のイメージで言えば茶色かな。

「セリオーソ」は鬼気迫る。

第14番は(交響曲やソナタを含めた)ベートーヴェンの全楽曲中、最高傑作だと僕は想っている。変奏曲の第4楽章は枯れた味わいがあり、第7楽章(終楽章)からは魂の叫びが聴こえてきた。ブラビッシモ!

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2016年9月28日 (水)

インバル/大フィルのマーラー5番

9月27日(火)フェスティバルホールへ。エリアフ・インバル/大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会第1日目を聴く。

  • モーツァルト:交響曲 第25番
  • マーラー:交響曲 第5番

インバルの実演に接するのはフランクフルト放送交響楽団との来日でマーラー:交響曲第6番を振った演奏会@ザ・シンフォニーホール以来2回目。調べてみると1989年11月12日だった。な、何と27年ぶり!!!

ホルンの高橋将純・首席はモーツァルトの演奏には参加せず、マーラーからだったのでモーツァルトのホルンは音程が終始不安定だった。気持ち悪い。バルブ(ピストン)がないナチュラル・ホルン(古楽器)で吹いているのなら致し方ないが、モダン楽器なのだからお粗末としか言いようがない。

インバルは強弱をくっきりつけて、音楽のstructureが見通せるような演奏。テンポ設定も小気味好い。時折彼が一緒に歌っている声も聴こえてくる(グレン・グールドみたい)。

マーラーはいきなり冒頭のトランペット・ソロで秋月孝之がコケて、怒り心頭に発した。プロ失格、恥を知れ。一方・ホルンの高橋首席は朗々としたゴツイ音で、胸がスカッとした!僕は同曲を以前ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管弦楽団で聴いたが、マリインスキーの奏者より断然上手い。

インバルの解釈は弦を切々と歌わせ、アクセントを強調し、マーラーの歪な音楽を(オブラートに包まず)そのまま提示するような印象。ゴツゴツした肌触り。

第2楽章はうねり、感情をむき出しにして迫る。第3楽章は「夏が行進してくる!」という感じ。第4楽章アダージェットはバーンスタインみたいに感情に溺れることなく、醒めた、怜悧な夢。第5楽章は生気が漲る。文句なし、圧巻だった。

最後に今日の一言。大フィルは相変わらず弦高管低を払拭出来ず。早く東京に追いつけるよう、死に物狂いで努力せよ!

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田野倉雅秋@大阪クラシック 第36公演

9月13日(火)、ザ・フェニックスホールへ。大阪クラシック 第36公演を聴く。

田野倉雅秋(ヴァイオリン)、苅谷麻里(ピアノ)で、

  • プーランク:ヴァイオリン・ソナタ
     「ガルシア・ロルカの思い出に」
  • ショーソン:詩曲
  • サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番

プーランクのソナタは1936年に銃殺されたスペインの作家、フェデリーコ・ガルシア・ロルカに捧げられた。

第1楽章は狂騒。第2楽章の楽譜冒頭にはロルカの詩「ギターは数々の夢に涙を流させる」が引用されている。ギターはスペインの魂。懐かしい想い出を喚起するような楽曲。またこれを聴きながら新海誠監督の「君の名は。」で描かれる黄昏時/かたわれ時(彼は誰時)の情景が目に浮かんだ。

サン=サーンスも大好きな曲で、日本では余り人気がなく中々聴く機会がないからとても嬉しかった。

近代フランス音楽のエスプリを堪能した夜だった。

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2016年9月27日 (火)

日本とアイルランドの【結び】〜映画「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」

評価:A+

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本作は第87回アカデミー賞で長編アニメーション映画賞にノミネートされた(「かぐや姫の物語」がノミネートされた年。受賞したのは「ベイマックス」)。僕は「アナ雪」に匹敵する大傑作だと想った。公式サイトはこちら

大変珍しいアイルランドのアニメーションである。主人公の女の子の名前がシアーシャで、映画「ブルックリン」でアカデミー主演女優賞にノミネートされたシアーシャ・ローナンのことを想い出した。彼女もアイルランド出身。アイルランド・ゲール語で「自由」を意味するそう。

僕は以前からアイルランドという国に親近感を抱いていた。「ダニーボーイ」「ロンドンデリーの歌」「サリーガーデン」「庭の千草(夏の名残のバラ)」……恐らく多くの日本人がアイルランド民謡に懐かしさを感じている筈である。郷愁と言い換えてもいい。どうしてなんだろう?長年抱いてきた疑問が、この映画を観て氷解した。

「ソング・オブ・ザ・シー」はアイルランド(ケルト)神話に基いている。今でこそアイルランドはカソリック教徒(キリスト教=一神教)が多いが、ケルト人は多神教の神話を持っていた。「ソング・オブ・ザ・シー」にも沢山の妖精たちが登場する。そしてシアーシャとベンのお母さんはアザラシの妖精という設定。つまり人間とアザラシの間に出来た子供なのだ。

ヨーロッパなどキリスト教の国の昔話には一切、人間と動物が結婚する話がない。「美女と野獣」の野獣は元々王子さまであり、人間の姿に戻ってヒロインと結ばれる。グリム童話「カエルの王様」もカエルが王の姿に戻って王女と結婚する。アンデルセンの「人魚姫」は王子と結婚することが叶わず、泡と消える。つまりキリスト教徒にとって人間は神に模して創造された生き物であり、他の動物・物の怪は下等なのである。だから両者が結合するなどおぞましく、あり得ないことなのだ。

一方、日本人は八百万の神を信仰し、「鶴の恩返し(鶴女房)」とか狐女房(上方落語「天神山」)など異類婚姻譚が沢山ある。やはりアイルランドと日本は繋がっている。「君の名は。」で言うところの【結び】だ。

あと本作からは宮﨑駿作品の影響を強く感じた。トム・ムーア監督も「僕は長い間、日本のアニメーションのファンで、それは僕の仕事に何年もの間、インスピレーションを与えてくれました」と語っている。フクロウの魔女マカはまるで「千と千尋の神隠し」の湯婆婆だし、「太陽の王子ホルスの大冒険」の銀色狼そっくりのキャラクターも登場する。

Gin

なんだかとっても嬉しくなった。

参考文献:河合隼雄「昔話の深層」「昔話と日本人の心」「母性社会日本の病理」「おはなしの知恵」

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小説家・佐藤泰志と映画「オーバー・フェンス」

評価:A

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「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」に続く、佐藤泰志原作による函館三部作最終章。公式サイトはこちら。佐藤の小説と、今までの映画化の経緯については下記に詳しく書いた。

因みに原作小説が「三部作」になっているわけではない。佐藤は生まれ育った函館と東京を行き来する人生を送り、その作品の大半が東京または函館が舞台となっている(僕は彼が高校生の時に書いた「市街戦のジャズメン」から文庫本に収録されていない遺作「虹」まで全小説を読破した)。佐藤は一時期文学で身を立てるのを諦め、帰郷して職業訓練学校に入った。その経験が「オーバー・フェンス」に生かされている。しかし「きみの鳥はうたえる」が第86回芥川賞候補になったため、また上京する。「オーバー・フェンス」で5回目の芥川賞候補となり、落選した5年後に首吊り自殺した。

映画三部作で面白いのはプロデューサーと撮影監督は三作全て共通しているが、監督は全て別人が起用されていること。今回は「リンダ リンダ リンダ」「天然コケッコー」「マイ・バック・ページ」「苦役列車」「もらとりあむタマ子」の山下敦弘。山下監督はのほほんと、しかし「どっこい生きている」人間を描くのが得意なので、この素材はすごく合っていた。

とりわけ素晴らしかったのが高田亮(「そこのみにて光輝く」)の脚色である。中編「オーバー・フェンス」を読んだ時、僕は「こんなに薄い内容を、どうやって映画にするんだろう?」と訝しんだ(芥川賞選考委員による酷評はこちら)。高田が選択した方法はヒロイン・聡(さとし)のキャラクターを膨らませ、佐藤の書いた別の小説「黄金の服」の登場人物像を混ぜ合わせることであった。キッチン流し台の水道水で裸身をゴシゴシ擦るエピソードがそれに当たる。あと完全にオリジナルの設定で聡が「鳥になりたい」と鳥の求愛行動を模して踊るのが印象的だった。蒼井優はバレエをしていたのでこういうのが上手いんだよね(岩井俊二監督「花とアリス」クライマックスのバレエ・シーンを想い出した)。彼女の「ぶっ壊れている」感じが良かったし、オダギリジョーも好演。

曇天の空に鳥が飛んでいるオープニング・ショットがとっても素敵で(閉塞感!)、函館山の寂れた公園の場面は物悲しく、佐藤泰志の世界(=灰色)に相応しいと想った。

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2016年9月23日 (金)

感動ポルノとして消費される障害者と「聲の形」

「感動ポルノ」という言葉をご存知だろうか?その由来はコメディアンでジャーナリストのステラ・ヤング氏のスピーチにあり、詳しくは→こちらのサイトを御覧ください。要約すると障害者は【健常者(非障害者)が感動するための道具】として見世物扱いされているということである。24時間テレビがその典型例であろう。

同じことを僕は以前から感じていた。特に嫌だったのが脚本家・野島伸司が書いた「聖者の行進」(1998,TBS)である。これは知的障害者=聖者として扱ったドラマだ。勿論障害者を差別することはいけない。そんなことは当たり前だ。しかし【差別しない=障害者を腫れもののように扱い、美化する】ことなのだろうか?それは違うだろう。差別しないとは、我々と対等に扱うことだ。彼らだってオナラもするし乙武洋匡みたいに不倫もするだろう。性格が良い面もあれば嫌な面もある。だから上から目線も下から目線もしない。あくまで平行だ。野島伸司がやはり関与し、酒井法子が耳と口が不自由な孤児を演じた「星の金貨」(1995,日本テレビ)も何だかすごく気色悪かった。こういうのに涙する人たちって、何よりも【物語に感動する自分自身に酔っている】っていうとこ、ありません?「自分たちは五体満足に生まれ、こんなに辛い思いをしなくて良かった」という優越感・安心感が根底にある。英語で言えばHypocriteだ。

さて聾者のヒロインが登場する「聲の形」は決して悪い作品ではないが、やはり「聖者の行進」に似た、モヤモヤした気持ちが残る。硝子がね、いい子すぎるんだ。まるで天使だ。おまけに美少女だし。でもそれでは物語としてのバランスが取れないので、しわ寄せが妹・結弦(ゆずる)に来てしまい、ものすごく屈折したキャラクターになっている。余りにも重い荷物を背負わされた結弦が、観ていてすごく可哀想になる。だからね、手放しで褒めることは出来ないんだ。絶対に。兎に角、いろいろな意味において「聲の形」は僕にとって【痛い】映画だった。

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2016年9月19日 (月)

【考察】「君の名は。」で新海誠はどう進化したのか?

スピルバーグ×ディズニーという強力ブランド「BFG」京アニ「聲の形」を蹴散らして、週末興行成績ランキングは新海誠監督「君の名は。」がぶっちぎりで4週連続1位を獲得した。劇場は、やって来たものの満席で観れない「君の名は。」難民で溢れている。累計興行収入は、9月19日時点(公開から25日間)で91億円を突破しており、今週中に100億円に達するのは確実な状況(アニメーション監督として宮﨑駿に次いで史上2番目の快挙)。これはもう誰も想像もつかなかった事態であり、封切り当初、東宝が「興収60億円も狙える」と声明を発表していたことからも判る→シネマトゥデイの記事へ。インターネットや学校(中学・高校・大学)での口コミの効果が如何に凄まじく、業界(プロ)の予想を遥かに上回るものだったかということを示している。

だから最近「『君の名は。』は、何故ここまでヒットしたのだろうか」といった趣旨の分析記事が散見されるようになった。しかしそれは所詮【後付】【コロンブスの卵】に過ぎない。果たして映画公開前に「100億円いける」と予言した人が誰かいただろうか?賭けてもいいが東宝の敏腕プロデューサー・川村元気氏ですら驚いている筈だ。作品が大化けするとは正にこれだろう。

①「分かりやすい恋愛映画」だからヒットしたという意見がある。じゃあ広瀬すずの「四月は君の嘘」は大当たりした?恋愛映画なんて腐るほどあるわけで。新海監督の「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」だって恋愛映画だ。②「3・11をテーマに据えたのがキャッチーだったから」というのも見かけたが、観に行った人の殆どがそのことを事前に知らないよね。それに同じ震災を扱った園子温監督「希望の国」をどれだけの人が観た?じゃ③RADWINPSの音楽が良かったから?でも例えば大コケした「ファンタスティック・フォー」の音楽をRADWINPSが担当していたらヒットしていたと思う?全てこじつけ、ナンセンスである。

結局、真の理由は誰にも判らない。それが真実。ただひとつ言えるのは作品の出来が極めてよく、評判による波及効果が絶大だったということ。インターネット/SNSが普及する以前だったら、ここまでの社会現象にはらなかっただろう。そして東日本大震災とそれに続く福島原発事故で落ち込んでいた(心的外傷後ストレス障害 = PTSD状態だった)大人たちや、社会構造が変わりニートや派遣社員の割合が増え、ぼんやりした閉塞感を感じている若い人たちが、希望とか新しい神話を求めていた、そういうことなのだろう(「シン・ゴジラ」のヒットもそれに当てはまる)。

新海誠監督の前作「言の葉の庭」の最終興収は1.3億円だったという(Wikipediaでは推定1.5億円となっている)。単純に計算すると「君の名は。」を観た観客のうち、99%は過去の新海アニメを知らないことになる。途轍もないjump upである。

僕が働く職場で、小学校6年生のお子さんが友達3人と「君の名は。」を観に行って感動し、「もう一度観たい!お母さん一緒に行こうよ」と言っているという話を聞いた(満席に近く、4人バラバラで座ったそう)。映画館が高校生で一杯だとは風の便りで聞いていたけれど、今や小学生にまで裾野が広がりつつある。恐るべしだ。

では「言の葉の庭」まで極一部のマニアヲタクしか知らなかったカルト監督・新海誠が、「君の名は。」でどう変わり、一般客に浸透して行ったのか?そこを検証してみたい。

まず今までunhappy endしか撮らなかった新海が、happy endに舵を切ったことは大きい。彼は初めてファンタジーの力(物語る力)を信じた。コメディ・タッチも今までの作品には全く無かった作風だ(物語が深刻な方向に動き始めた時、三葉の体に憑依した瀧が滂沱の涙を流しながら胸を揉む場面ではいつも映画館内が爆笑で包まれる)。同人誌に投稿し続けてきた青臭い文学青年が一夜にしてエンターティナーに豹変したようなものだ。

デビュー作「ほしのこえ」から新海はセカイ系の旗手と呼ばれていた。「ぼく」と「君」の関係が地球/人類の危機に対峙する。そこに「社会」は一切コミット(介在)しない。「秒速5センチメートル」の貴樹と明里はふたりぼっちだ。「手紙から想像する明里は、なぜか、いつもひとりだった」という貴樹のモノローグすらある。「言の葉の庭」の雪乃先生も、高校生の主人公も孤独だ。閉じている。しかし「君の名は。」の瀧と三葉は違う。いつも気遣ってくれる仲間がいる。そしてクライマックスで三葉は町長である父と面と向かい合い、その協力(政治的決断)を請う。つまり積極的に社会にコミット(関わろうと)しているのだ。劇的な変化である。

「秒速5センチメートル」のファンはほとんど男なのだが、女性観客が受け入れがたい要素として、過剰なまでの自己陶酔モノローグにも一因があるだろう。「僕が」「僕が」というアピールに辟易するのである(くどい)。「ケッ!」となる。音楽で言えばマーラーの交響曲みたいだ。新海によるとモノローグの多用は倉本聰脚本の「北の国から」の影響だそうだ。しかし「君の名は。」で彼は思い切った。モノローグが非常に少なく、簡潔になっている。これが女子にも作品の魂がガツン!と伝わった理由の一つなのではないだろうか。川村元気プロデューサーの功績も大きいだろう。

後は何といっても「君の名は。」の疾走感だろう。よくぞ1時間47分の間にこれだけの内容を詰め込みましたという印象。実写で同じことをしたら2倍掛かるに違いない(これは「シン・ゴジラ」にも当てはまり、3時間必要な台詞を役者に早口で喋らせることにより、2時間以内にぎゅうぎゅう詰めにした)。テンポの良さが若い世代に受けた。RADWINPSの曲が先に出来ていて、それに合わせて編集したということも大きな要因なのではないだろうか?RADとの共同作業は1年半に及んだという。アニメ業界には極めて稀な事例であり、まるでミュージカル映画のような贅沢さだ。

数々の幸運や、作品に携わった人たちの想いが「君の名は。」を光り輝かせているのである。

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スピルバーグの新作「The BFG」と「E.T.」

評価:C

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The BFGとはBig Friendly Giantの略である。誰しもThe Extra-Terrestrial =E.T.のことを思い浮かべるであろう。

34年前の不朽の名作「E.T.」(1982)をスピルバーグが強く意識していたことは間違いなく、脚本も同じメリッサ・マシスンが書いている。「The BFG」が彼女の遺作となった。異星人と少年の交流が、異界の人(巨人)と少女の関係に置き換わっている。最後にサヨナラするのも同じ。

僕は本作を観ながら、スピルバーグやメリッサの創造力の衰え・老いを感じた。

問題の解決にイギリス女王陛下の軍隊出動を要請するのは如何なものか?と想った。ファンタジーとして、それは禁じ手でしょう。鼻白んだ。こりゃ公開4週目の「君の名は。」に週末興行成績で完敗するのも宜なるかな。

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京都アニメーション「聲の形」

評価:C+

公式サイトはこちら

Joe

君の名は。」を3回観た直後だけに、「(演出が)もう少しテンポよくことを運べないのかな〜」とか「雲をもうちょっと丁寧に描けないものか」とかいうことがすごく気になった。同じ京アニなら「劇場版 響け!ユーフォニアム」の方が断然良かった。

この悲劇の元凶は聾者の娘を普通小学校に入れた母親にあるのではないか?という気がして仕方なかった。子供は残酷だからね。そりゃイジメも発生するだろう(勿論それを肯定しているのではない、リスクが高いと言っている)。障害の程度によってcase-by-caseだろうが、普通学校に入れることが本当に子供のためになるのか、それとも単なる親のエゴイズム(世間体)なのか、よくよく考える必要があるだろう。その子の周囲も巻き込まれてしまうのだし。「善意」を信じても、所詮子供だしね。天使じゃないのだから。硝子が最初から聾学校に行っていれば彼女も、将也もあんなに苦しむことはなかった。

底知れない人の悪意が描かれていて、心がヒリヒリした。

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2016年9月14日 (水)

大林宣彦監督とその【映画の血を分けた息子たち】

檀一雄原作、大林宣彦監督の映画「花筐(はなかたみ)」が佐賀県唐津市で現在、撮影中である。

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これは監督のライフワークであり、桂千穂と共同執筆したシナリオは既に40年前に完成していた。当初出演者は全員ファッションモデル、台詞は声優による吹替、という企画だった。16mm自主映画(アンダーグラウンド・ムービー)の旗手、CMディレクターとして華々しく活躍していた監督が劇場映画デビュー作として考えていたものだった。しかし純文学の映画化という地味な企画は中々進捗せず、結局「HOUSE ハウス」(1977)が第1作となる。

House

「HOUSE ハウス」に檀一雄の娘・檀ふみが友情出演しているのは「花筐」の縁である。

大林監督にはもうひとつライフワークがある。福永武彦の小説「草の花」の映画化である。「さびしんぼう」の後、尾美としのりと富田靖子の主演で企画されたが、こちらも頓挫した。

僕は18歳の時に大林映画「廃市」(1983)を観て、その原作者・福永武彦を知った。20代は福永の小説を読んで過ごした(全小説を読破した)。そして「草の花」の舞台となった東京都大森駅近くの暗闇坂、清瀬市にある国立療養所東京病院、信濃追分、伊豆西海岸の戸田などを訪ね歩いた。正に新海監督「君の名は。」でいうところの聖地巡礼である。その詳細は「福永文学と草の花」としてWebに上げている。

Hi

映画「ふたり」のラスト、原稿を書いている石田ひかりの部屋の本棚にはひそやかに「花筐」と「草の花」が置かれていた。その主題歌「草の想い」(作詞:大林宣彦、作曲:久石譲)の歌詞には「花の形見」という言葉があって、「草の想い」と併せると「くさのはな」「はなかたみ」という言葉が全て隠されている。それから記憶が定かではないが、確か「異人たちの夏」の風間杜夫の部屋にも「花筐」と「草の花」があった筈。

大林監督は現在78歳。果たして映画「草の花」は実現するだろうか?第二次世界大戦中の東京が舞台となるので、もし忠実に再現するならオープンセットに膨大なお金が掛かるだろう。大ヒットも期待出来ない。なかなか難しいところである。

さて、「バケモノの子」の細田守監督は大学生の時に学園祭で「大林宣彦ピアノ・コンサート」を企画したという過去があり、大林監督は彼のことを【映画の血を分けた息子】と言っている。細田版「時をかける少女」(アニメ)は事実上、大林版「時をかける少女」の後日談であり、大林版のヒロイン芳山和子は細田版で「魔女おばさん」として登場する。細田はその声優として大林版と同じ原田知世を希望したが、断られたそう。

新海誠監督のアニメに大林映画「転校生」「時をかける少女」が与えた影響については既に書いた。

高橋栄樹監督が撮ったAKB48のミュージック・ビデオ(MV)「永遠プレッシャー」(島崎遥香センター)は「HOUSE ハウス」へのラブ・レターである。また大林監督がAKB48「So long !」MVを撮った時、高橋監督は手弁当で撮影現場に馳せ参じ、手伝ったという。

「踊る大捜査線」「サマータイムマシン・ブルース」の本広克行監督はももいろクローバーZ主演の映画「幕が上がる」を撮るにあたり、大林宣彦と山田洋次が若手の監督を呼んで語り合う「渋谷シネマ会」に参加し、アイドル映画を撮る極意について指南を仰いだ(詳細はこちら)。大林監督からの助言は「(被写体を)愛すればいいんだよ」だったという。そして「幕が上がる」のミュージカル仕立てのカーテンコールは「時をかける少女」へのオマージュになっている。

現在映画「青空エール」が公開中の三木孝浩監督も熱狂的な大林映画ファンだ。高校生の時に大林監督の「ふたり」をどうしても観たくて修学旅行先の東京で集団行動から抜けだし映画館に行ったそう。また尾道三部作への愛も告白している→こちら。三木監督の「陽だまりの彼女」は「HOUSE ハウス」にインスパイアされているし(化け猫映画)、「ホットロード」は三木版「彼のオートバイ、彼女の島」であり、「くちびるに歌を」には「ふたり」「はるか、ノスタルジィ」の石田ひかりが登場し、オルガンを弾く。また彼は「敬愛する大林宣彦監督のように、いずれ古里(徳島)を舞台にした映画を撮影したい」と語っている→徳島新聞の記事へ。

僕は長年、大林監督が映画「草の花」を撮る日を待ち続けてきた。でも、もし監督がその想いを果たせなかっとしても、今では沢山の立派な【映画の血を分けた息子たち】が第一線で活躍しているので、彼等のうちの誰かがきっと実現してくれるだろうと信じる。アニメーションによる「草の花」も観てみたい気がするな。

たとえ肉体が滅んでも、人はいつまでも誰かの心の中に、その人への想いと共に生き続けている。だから、愛の物語はいつまでも語り継がれていかなければならない。 愛する人の命を永久に生きながらえさせるために。永久の命、失われることのない人の想い、たったひとつの約束、それは愛。(映画「HOUSE ハウス」より)

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2016年9月13日 (火)

3回目の鑑賞で気付いたこと。〜「君の名は。」超マニアック講座

これは

と対を成すものである。

また下記記事も併せてお読みください。

「君の名は。」は週末興行成績で公開初週(8月27、28日)の動員数が68万8000人、興行収入が9億3000万円でトップに躍り出たが、第2週(9月3日、4日)は動員数86万7000人、興収11億6000万円で、初週の124.8%という驚異的数字を記録した。そして第3週(9月10日、11日)は動員85万2000人、興収11億3500万円と第2週の成績をほぼ維持し、V3を達成。累計動員は481万人、興収は62億円を突破し、細田守監督「バケモノの子」の記録(動員459万人、興収58.5億円)をたった17日(2週間と3日)であっさり抜いてしまった。映画公開当初、東宝は「最終興収が60億行くのではないか」という見込みを発表したが、どうしてどうして、現在は100億円に達するだろうと予想されている。正に社会現象であり、新海誠監督は時代の寵児国民的作家になった。

スタジオジブリの歴代興収ランキングを見てみよう。

  1. 千と千尋の神隠し 304億円
  2. ハウルの動く城 196億円
  3. もののけ姫 193億円
  4. 崖の上のポニョ 155億円
  5. 風立ちぬ 120億円
  6. 借りぐらしのアリエッティ 92.5億円
  7. ゲド戦記 76.5億円

つまり100億円を突破したアニメーション作家は宮﨑駿ただ一人なのである。新海が史上二人目になるか、大いに注目したい。

僕は先週土曜日に「君の名は。」3回目を観に行ったのだが、新たな発見が色々とあったのでここに報告する。微に入り細を穿つ内容なのでネタバレあります。未見の方はご注意ください。




1)彗星の軌道

映画公開直後からSF作家からの指摘もあり、話題になっている彗星の軌道問題だが、テレビに映る最初のニュース映像では彗星が太陽の引力に引っ張られて弧を描いているので正しい。しかし2回目以降、彗星の軌道は弧を描きながら太陽と地球の間を通ることになっているから物理学的に間違っている。これは単なる作画ミス(チェック漏れ)と思われ、英語版を製作する時までには修正しておいた方が無難だろう。

【2018年1月4日追記】結局IMAX版、英語(歌/字幕)版でも軌道はそのままで、DVD/Blu-ray発売時に漸く修正された。

2)高山ラーメン屋の主人の原型、過剰なモノローグの由来

主人公・瀧を山の麓まで軽トラックで送ってくれたラーメン屋の主人が最後にボソッと「アンタの書いた糸守、あらぁ良かった」という場面を観ながら、僕は何だかデジャヴ(既視感)に襲われた。いつか、どこかで見た夢の感触。その漠然としたイメージが3回目で漸く明確な形になった。倉本聰脚本「北の国から '87初恋」だ。そのラストシーンで古尾谷雅人演じる長距離トラックの運転手が純くん(吉岡秀隆)に「泥のついた壱万円札」を渡す。彼が言う台詞が実に感動的なのだが、未見の方のためにここには書かない。お楽しみはこれからだ(You ain’t heard nothin’ yet )!余談だが古尾谷雅人(代表作:映画「ヒポクラテスたち」)は2003年に首吊り自殺した。享年45歳だった。また「北の国から '87初恋」が新海の「秒速5センチメートル」に与えた影響については既にここに書いた。

新海は「北の国から」が幼い頃から大好きで、自身の作品にモノローグが多いのもそのせいだと語っている。そして「雲のむこう、約束の場所」では吉岡秀隆にモノローグを語らせている。

「君の名は。」の終盤、瀧は建築デザイナーを目指して就職活動している。考えてみれば彼の心の支えとなっているのはラーメン屋主人の「アンタの書いた糸守、あらぁ良かった」の一言だったのではないだろうか?初めて他者から認めてもらった、自分を肯定してくれたという歓び。それは「秒速5センチメートル」の主人公が中学生の時、大好きだった明里から別れ際に言われた、「貴樹くんは、きっとこの先も大丈夫だと思う。ぜったい!」という言葉だけを心の拠り所にして生きていくことに呼応している。

新海誠監督は長野県小海町に生まれた。父親は建設会社の社長。故郷に残り家業を継ぐか、上京して自分の道を探すか悩んだという。その記憶が三葉の友人、テッシーに投影されている。そして建設会社に入社したいと希望している瀧は、せめて映画(=夢)の中だけでも、(自分が果たすことが出来なかった)父親の願いを叶えてあげたいという新海の祈りが籠められているのではないだろうか?

3)扉が開く/閉まる

「君の名は。」前半では扉を開けるショットが繰り返される。扉は画面中央に置かれ、その左右に「こちら」と「あちら」の世界が描かれる。これは男女入れ替えの回路が開いていることを象徴している。しかし入れ替わりが止まった(回路が閉じた)途端、今度は扉が閉まる映像が登場するのだ。

4)糸守町に彗星が落ちるのは3回目?

宮水神社のご神体がある山頂はクレーターのように落ち窪んでいる。これが死火山の火口である可能性は低い。もしそうなら土が火山灰だから、草木は育たない筈だからである。ならばここにも彗星が落ちたと考えるべきだろう。ということは今から1200年前に彗星が落ちて糸守湖が出来たわけだが、更に遡る1200年前にも落ちた?そして12という数字にも多分意味があって、十二支とか、古代中国天文学における天球分割法、十二辰と関係しているのかも知れない。ちなみに十二支のうちの本義は“紐”で、生命エネルギーの様々な結合を意味しているという。組紐に繋がっている。

「糸守」という名前自体にも、組紐(結び)を守るという意味があるのだろう。

【2018年1月4日追記】その後ファンからの質問に答え、新海監督は御神体のある山頂のクレーターも彗星落下によるものだと認めた。

5)川上未映子「あこがれ」

新海誠と芥川賞作家・川上未映子の対談がNHK "SWITCH"で放送された。それによると新海は川上が書いた小説「あこがれ」で主人公の少女が走って転ぶ場面に感動して泣いた。そしてそれを「君の名は。」に引用したという。なお、新海監督はインタビューで次のように語っている。

終盤に三葉が走って転んでしまうシーンですが、あそこを担当いただけたのが『人狼JIN-ROH』や『ももへの手紙』の監督を手がけた沖浦啓之さんという、たぶん日本で一番巧いアニメーターなんですよね。その沖浦さんがやったことで、走って転ぶという絵コンテ通りの芝居ながらも、想定よりも何倍もエモーショナルなシーンになっていて、それはもう、ちょっと単純にビビりましたよね(笑)。すごいんですよ。(出典はこちら

6)「転校生」との違い

大林宣彦監督の「転校生」はふたりが抱き合った状態で階段を転がり落ちることが男女入れ替わりの契機となるが、「君の名は。」のふたりは距離が離れており、眠るということが契機になる。それはつまりだ。本作は『古今和歌集』に載っている小野小町の和歌『夢と知りせば覚めざらましを』をモチーフとし、企画書では『夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語』というタイトルだったという。フロイトの「夢判断」でも判る通り、はヒトの無意識深層心理に関わっている。瀧が糸守という町名を覚えていないのも、三葉という名前が失われていくのも夢だからだ。しかし糸守の絵は書けるので、言語(聴覚)記憶よりも映像(視覚)記憶の方がより長く残るということなのだろう。言葉は意識に所属し、自我が生み出す。一方、無意識)はイメージの世界である。

7)彗星や鳥の影

神木隆之介くんが言うとおり、新海誠は「光と影の魔術師」だが、「君の名は。」でも、例えば糸守湖の上空に鳥が飛んでいる何気ない場面にも鳥の影が形成されている。あと彗星の影が美しい!「秒速5センチメートル」第2話「コスモナウト」のロケット雲のことを想い出した。

8)ゴジラとのシンクロニシティ

シンクロニシティ(共時性)とは「意味のある偶然の一致」のこと。スイスの精神科医・心理学者であるカール・ユスタフ・ユングにより提唱された概念で、コンステレーション(布置、星座という意味もある)と言い換えても良い。今年は「シン・ゴジラ」が興行収入で第1位になるかと思いきや、「君の名は。」にあっさり敗れた。そして「ゴジラ」第1作が公開された1954年も「君の名は(第三部)」が配給収入第1位となった。こちらの「君の名は」は東京大空襲をテーマに男女のすれ違いを描いている。そして「ゴジラ」は水爆実験が大きなモチーフだが、ゴジラが東京を破壊する場面には戦争による人々の心の傷跡が残っている。つまり根っこは同じなのだ。一方、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の根底には3・11東日本大震災がある。だからこの偶然には大いなる必然性があるのである。

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2016年9月10日 (土)

【考察】神話としての「君の名は。」〜その深層心理にダイブする。

また「君の名は。」ネタかと、些かうんざりしている読者もおられるだろう。なんかね、溢れ出る気持ちが制御出来ないんよ。色々な切り口があるから書いても書いても未だ書き足らない。そのうち落ち着くだろうからご容赦ください。

「君の名は。」で新海誠監督は21世紀の神話を生み出すことに成功した。これはスタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」やスティーヴン・スピルバーグ「未知との遭遇」、クリストファー・ノーラン「インターステラー」に相当する偉業である。

本作は常に日本の八百万の神(神道)に繋がっている。ヒロイン三葉の家業は神社であり、彼女も巫女としての勤めがある。苗字の宮水も神社に関連している。そして「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶのは鳥居の下。三葉という名前の由来はミヅハメ、水の女神から来ていると新海監督はtwitterで呟いている。ミヅハノメとは日本神話に登場する神で、『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。一方の瀧は都立神宮高等学校に通っている。映画終盤では「前結婚式もいいな」という会話も聞こえてくるし、ラストシーンでふたりがすれ違う階段は須賀神社に通じる参道である。

またこの物語は観客を古(いにしえ)の日本へと誘(いざな)う。三葉の通う高校の古文の授業でユキちゃん先生(「言の葉の庭」の雪野百香里)が教えているのは万葉集。

男女の入れ替わりというプロットは直近では大林宣彦監督の映画「転校生」へのオマージュだが、更に遡ると平安時代に書かれた作者不詳の『とりかへばや物語』にたどり着く。

主人公となるきょうだいの男の子と女の子は、それぞれ、性を逆転させて女と男として育てられる。そして成人したときには、男の子は女官として東宮(女性)に仕える身となり、女の子は立派な男として結婚までする。最後にふたりは入れ替わり、めでたしめでたしとなる。

これは全世界でも稀有な物語である。男装の麗人という設定は西洋の物語にもあるが、例えばギリシャ神話やヨーロッパの昔話に男女が入れ替わるという話はない。

詳しくはユング心理学の第一人者・河合隼雄の著書「とりかへばや、男と女」(新潮選書)をお読みになることをお勧めしたい。

ここで河合の「こころの最終講義」(新潮文庫)より『とりかへばや物語』や『源氏物語』について分析した文章を一部抜粋する。元々は神戸市児童相談所「思春期公開講座」(1993年2月15日)で口演されたものである。キーワードはアニマ・アニムス・ペルソナ(仮面)

われわれは物事を分類するんですが、その分類の中で、男と女という分類がある。男と女の仕事はものすごく明確に分かれている。男はこうあるべきだとか、女はこうあるべきだ、という考え方で男女を分けて考えている。これはなぜかというと、人間がものを考えるときに分類が明確な場合は秩序を保ちやすいからです。そして男らしい・女らしいという区別はある程度勝手に決めているわけで、絶対的なものではないということも知る必要があります。

平安時代の物語を読むと、男はしょっちゅう泣いています。感心するのは、あそこに出てくる男の場合には、殴り合いの喧嘩をしないんです。そして男は何をしているかといったら、泣くか和歌を作るかしている。

ユングの心理学では、男性にとってアニマというものが女性の姿で現れてくると言っています。アニマとはラテン語でということです。女性にとっては魂のイメージは男性として出てくるといい、それをアニマという言葉の男性形のアニムスという言葉であらわしています。

私が男であるということは、面白い言い方をすると、私の可能性がものすごくたくさんあるなかで、一応男といわれるように生きたほうがいいわけですね。ということは、私は私を男としてつくってきているわけです。それをユングはペルソナという。ペルソナというのは仮面と言ってもよいでしょう。だから私はみんなが言っているような男らしいペルソナをつくってきている。私の魂は私にとっての不可解な、わけのわからないものですが、その魂ともういっぺん結合することによって私の存在自体を回復したいと願うのだったら、それは女性の姿で出てくるのがいちばんわかりやすいのではないか。私が男としてのペルソナをつくればつくるほど、私の魂は女性の姿をとって出てくるほうがぴったりくるのではないか。

私は男性、女性と分けていますけれども、それは考え方として分けているのであって、実際、自分がどう生きるのかということになると、私という男性がいわゆる男性的ではなく女性的に生きる力をもすごくもっていることになります。女の方もいわゆる男性的に生きる可能性ももっているということになります。

『とりかへばや』という物語は、男と女は思うよりもはるかに交換可能であるということを言おうとしたのではないか、と考えます。『とりかへばや』のひとつの非常に大きなポイントは、ビューティ、美ということではないか。普通の美ではない、魂の美である。魂は男と女というような通常の分類を超えた次元にかかわるのです。初めから記述的に読むと馬鹿くさくて読んでられないですね。そうじゃなくて、のことを書いているんだと思えば、物語はすごく読みやすい。

『とりかへばや』とか、『源氏物語』もそうですけれども、日本の中世の物語を私は非常に面白いと思っています。というのは、やはりあの時代には、われわれ現代人ほど自然科学的な考え方でぱっと物事を割り切って、切断して考える考え方をしていませんからね。みんなつながって生きているわけですから、そういうつながりのなかから自然に生まれてきたものを書いていますので、すごく意味の深いものが出てきているのではないか。そういう意味で、物語というものが、われわれが忘れかかっているのことを語っているのです。

これってそっくりそのまま「君の名は。」について解説したように聞こえませんか?瀧にとって三葉はアニマであり、逆に三葉にとって瀧はアニムスなのだろう。三葉が乗り移った瀧が女子力を発揮して、奥寺先輩から好意を寄せられるのも、瀧が乗り移った三葉が男子や女子からモテるようになるのも、各々がアニマ・アニムスと結合し、自己実現を果たすことを意味しているのではないか。そして河合の言うつながりとは「君の名は。」の結びに相当する。

ユング心理学では無意識を幾つかの層に分けて考える。その一番奥にあるのが普遍(集合)的無意識である。

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つまりこの最下層までダイブすれば、他者と繋がることが出来る。それが結びだ。新海誠が大好きな村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」でいえば、井戸を掘るという行為と同じである。どんどん掘っていけば別の場所へ通じる抜け道が見つかるだろう。もしかしたら過去に行けるかも知れない。人のの中にも無限の宇宙が広がっている。因みに「君の名は。」のプロットは村上の短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」と関連がある。また奥寺先輩は最後「幸せになりなさい」と瀧に言うが、これは村上の「ノルウェイの森」でレイコさんが【僕】に別れ際に言う台詞である。

宮水家では代々「組紐」を作り続けている。「組紐」は結びであり、運命の赤い糸でもある。もう一つ重要なのは機織り機が登場すること。機織りは東西を問わず、昔話や神話の重要なアイテムだ。それは「世界を織り上げる」「人の運命を紡ぐ」ことのメタファーである。日本の神話でも天照大御神(アマテラスオオミカミ)は機織女(はたおりめ)たちを集め、神さまのために着物を織っていた。そこでスサノヲが狼藉を働き、心を傷めた天照大御神は天の岩戸に籠もってしまう。

以下ネタバレあり。映画未見の方はご注意ください。





瀧は三葉に逢うために小川(三途の川)を越えて、「あの世」に足を踏み入れる。これは『古事記』に書かれた神話、イザナギ(男神)が死んだイザナミ(女神)に逢いたい一心で黄泉の国に行くエピソードに呼応している。イザナギはイザナミとの約束を破り彼女を連れ出すことに失敗するが、瀧は成功する。

じつはイザナギとイザナミの物語はギリシャ神話におけるオルフェウス(オルフェ)とエウリディーチェの物語にそっくりである。正にこれこそ時空を超えた人類の普遍的無意識の産物だと言えるだろう。

さて皆さん、新海誠のディープな世界をご堪能いただけただろうか?

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2016年9月 8日 (木)

時は来た(This Is the Moment)!今こそ語り尽くそう〜新海誠「秒速5センチメートル」超マニアック講座

誰も予想がつかなかった破竹の勢いで映画「君の名は。」がヒット街道を驀進中である。週末興行成績で公開初週(8月27、28日)の動員数が68万8000人、興行収入が9億3000万円だったのが、第2週(9月3日、4日)で動員数86万7000人、興収11億6000万円に膨れ上がった。つまり初週の124.8%を記録し、極めて異例な右肩上がりの成績となった。「シン・ゴジラ」より倍速のペースだという。最早誰も止められない。やはり口コミの力が大きいだろう。

東宝としては世間的な知名度の極めて低い新海誠監督の新作に大した期待をしていなかった筈だ。それは公開日が夏休みが終わろうとする8月26日に設定されていることからも明らかだろう。通常、スタジオ・ジブリや細田守監督のアニメーションは夏休みの始まる7月20日前後に公開されることが多い。今年の夏はその位置を「シン・ゴジラ」が占めたので「君の名は。」が後退せざるを得なかった。しかし怪我の功名というか、この仕打ちが本作にはむしろ有利に展開した。9月1日から2学期が始まり、中学生・高校生たちが学校の教室で「君の名は。観た?」「めっちゃ感動した!」「オレ、泣いたわ」と話題を拡散してくれた。だから今、映画館は高校生たちで溢れかえっている。マーケティングという大人の理屈・常識を超えて、作品の力が人々の心を動かしたのである。

僕は下記記事で新海誠監督「秒速5センチメートル」を第7位に挙げた。

そしてこんな記事も書いた。

ただ同時に、「ごく一部の熱心なファンしか知らないカルト映画について語っても仕方がない。だって誰も観ていないのだから」という想い、躊躇もあった。

しかし今は違う。「君の名は。」を映画館に観に行った観客の99%が過去の新海アニメを知らず、「新海誠、お前は誰だ?」状態で情報を求めている。

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Amazonでも「新海誠Walker」というムック本が飛ぶように売れている。これから「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」を観ようとしている人達も多いだろう。

だからこそ、僕が死ぬほど好きな「秒速5センチメートル」について微に入り細を穿ち、改めて語りたいと想うのだ。今ならこの常軌を逸した戯言に耳を傾けてくれる人もいるだろうと信じて。時折「君の名は。」についても触れているので、最後まで諦めずに付いて来てください。

では早速、幾つかのキーワードをヒントに読み解いていこう。

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1)距離感

今まで繰り返し述べてきたことなので簡素に。距離感は処女作「ほしのこえ」から「君の名は。」まで一貫して新海監督が追求してきたテーマである。それは空間・時間・年齢という全ての意味において当てはまる。

2)光と影の魔術

これは「君の名は。」で主人公の声を当てた神木隆之介くんがテレビの公開直前特番で挙げていたことで、「やられた!」と想った。七夕の短冊に「新海監督とカフェで開店から閉店まで語り合いたい」と書き、監督から「ちょっと重い」と言われた神木くんのひたむきなに脱帽である。負けました。「秒速」で僕が特に好きなショットは、第1話「桜花抄」ヒロインの明里が他に誰もいない明け方の駅のプラットホームで本を呼んでいる場面で、この世のものとは想えない太陽光の美しさ!そして種子島を舞台にした第2話「コスモナウト」のロケット打ち上げシーン。上昇する軌道上に出来たロケット雲に夕日が映えて、画面の半分に影が形成されるのだ。正に奇跡のような瞬間(とき)である。

3)神の目

これは「宇宙からの視線」と言い換えてもいい。新海作品には時折、上空から捉えたショットが登場する。僕はそこに神の目を見る。「ぼく」と「きみ」の関係が宇宙規模にまで広がってゆく。「ほしのこえ」がそうだし、「秒速」も勿論そう。第2話「コスモナウト」で打ち上げられた小惑星探査機ELISH(エリシュ)は太陽系外を目指す。二十億光年の孤独。「君の名は。」の彗星も象徴的だ。RADWIMPSの歌詞も時間と空間の広がりが半端ではない。「コスモナウト」は草原で主人公の貴樹と明里(とお思しき女性、顔は見えない)が日の出を見つめている場面から始まる。地平から登ってくる太陽の上には巨大な惑星が見える。どうも地球のようだ。ということは…彼と彼女がいるのは…月? この幻想性、スケールの大きさこそ新海誠の真骨頂と言える。

4)鉄道(電車)への執着/フェティシズム

一目瞭然、説明不要。

5)聖地巡礼

新海アニメを観るとその舞台となった場所に足を運びたくなるようである。それをファンは聖地巡礼と呼ぶ。「秒速」を観てわざわざ種子島にまで旅して写真を撮ってきた人たちのブログが複数存在する。「君の名は。」でも既に聖地巡礼は始まっている。例えばAKB48/HKT48を兼任する宮脇咲良。記事は→こちら。また飛騨市図書館には次のような張り紙が掲示されているという。

新海誠は東京都内の何でもない場所を、途轍もなく魅力的な空間に変えてしまう魔法を持っている。神は細部に宿る。彼の手掛けるアニメは「それでも世界は美しい」と感じさせてくれる。その画に魅了されて、若者たちが大挙して押し寄せるのである。神木隆之介くんはそこに行けば「言の葉の庭」のユキノ先生に会えるんじゃないかと信じて、新宿御苑まで足を運んだそう。でも当然いるはずもなく、遭遇した同じファンの男の子と言葉を交わしたのだとか。

僕は高校1年生の夏に日テレの初放送で大林宣彦監督の「転校生」に出会い、続いて映画館で原田知世主演「時をかける少女」を観て瞬く間に大林映画に恋をした。そして「さびしんぼう」公開後、何度も広島県尾道市に旅をしてロケ地マップを手にロケ地巡りをした。その頃のことを懐かしく想い出す。だから聖地巡礼している若い人たちよ、君は僕だ。

6)男と女

「秒速」のファンは圧倒的に男性が多い。そもそもこの物語の主人公・遠野貴樹は小学生の時の淡い初恋を立派な社会人(システムエンジニア)になった26歳まで引き摺っている男である。女性に彼の心情は到底理解不能であろう。一方の明里はすっかり彼の記憶を無意識層に押し込んで、別の婚約者がいる。久しぶりに彼のことを想い出すのは、結婚の準備で身辺整理していたら中学生の時に渡す筈だった手紙がたまたま出てきたからである。男と女の違い。ここらあたりの描写は実に残酷である。一般に新海誠はすれ違いのメロドラマを書く甘いロマンティスト(夢想家)のように思われているが、案外リアリストなのかも知れない。貴樹は中学生の時、別れ際に明里から言われた、「貴樹くんは、きっとこの先も大丈夫だと思う。ぜったい!」という言葉だけを心の拠り所にして、それから十数年生きてきた。何だかとっても切ないね。

7)NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)

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「言の葉の庭」や「君の名は。」にも繰返し登場するドコモタワーは「秒速5センチメートル」第3話で山崎まさよしの歌「One more time, One more chance」が流れる約5分間の間に10カット以上描かれている。余っ程好きなんだね。何でも性的なものに結びつけたがるフロイトだったら差詰めこれを「勃起したペニスの暗喩」と評するのだろうが、コメントは差し控えたい。

ここで想い出すのがフランソワ・トリュフォー監督(「大人は判ってくれない」「突然炎のごとく」「恋のエチュード」)。トリュフォーは引っ越し魔だったが、常に彼の住処からはエッフェル塔が見えたという。自伝的な作品「大人は判ってくれない」冒頭のタイトルバックはキャメラがあらゆる方向からエッフェル塔を執拗に追い続ける。それは最早偏執狂的ですらある。

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因みに「秒速」第1話「桜花抄」も東京が舞台だが、ドコモタワーは全く見えない。その時代設定(1990年代前半)に塔は完成していなかったからだ(2000年9月竣工)。

8)フェードアウト/フェードイン

「秒速」の特徴としてフェードアウト/フェードインの多用が挙げられる。画面が段々薄くなって消えていくのがfade-out、真っ暗(あるいは真っ白)な状態から次第に画面が現れてくるのがfade-in。この繰り返しによって、ゆったりとした独特のリズムを生み出しているのだ。「君の名は。」の場合、疾走感を大切にしているのでフェードアウト/フェードインは少なめになっている。

9)影響を与えた映画・テレビドラマ

「秒速」に岩井俊二監督の映画の痕跡を見出すことは容易だろう。桜の情景は「四月物語」だし、図書館の貸出カードや、窓が開け放たれた教室に風で揺れるカーテンのイメージは「LOVE LETTER」だ(この【教室の揺れるカーテン】は山下敦弘「天然コケッコー」や本広克行「幕が上がる」、欅坂46「世界には愛しかない」MV等でも応用されている)。第1話「桜花抄」冒頭の踏切で明里が言う「貴樹くん!来年も一緒に桜、見れるといいねっ!」は「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」で奥菜恵が言う、「今度会えるの二学期だね。楽しみだね」に呼応する。つまりどちらも【その時】は永遠に来ないのだから。岩井俊二が初めてアニメーション映画に挑戦した「花とアリス殺人事件」のエンドロールにはSpecial Thanks に新海誠とクレジットされており、そのお返しとして「君の名は。」エンドロールのSpecial Thanksに岩井俊二の名前が入っている。

「君の名は。」には明らかに「転校生」と「時をかける少女」の引用があり、漸く新海誠が大林宣彦の映画を好きなのだと確信出来た。「秒速」で踏切のシーンは「転校生」が濃い影を落としており、種子島で貴樹が弓道部に入っているのは「時をかける少女」だ。また「桜花抄」の過剰(自己陶酔的)モノローグは「さびしんぼう」を連想させる。

「桜花抄」に於いて中学生のふたりが納屋で一夜を過ごすのは倉本聰脚本の「北の国から '87初恋」からインスパイアされていると監督自身が告白している。また「コスモナウト」の花苗が海から上がり、下着姿で毛布に包まっているのも「初恋」の影響だろう。純くんこと吉岡秀隆は新海監督「雲のむこう、約束の場所」で声の出演をしている。

10)影響を与えた小説

「秒速」の明里はいろいろな本を読んでいる。夏目漱石「こころ」、トルーマン・カポーティ「草の竪琴」、そして村上春樹「蛍・納屋を焼く・その他の短編」である。これらにはちゃんと意味があるので「秒速」を好きな方には一読をお勧めしたい。「草の竪琴」の舞台となる草原は「コスモナウト」に繋がっているし、NHK「トップランナー」に出演した時、新海は「大学時代は村上春樹の作品ばかりを読んでいました」と語っている。特に「ノルウェイの森」が好きで、「言の葉の庭」の台詞にも同作からの引用がある(「私たち、泳いで川を渡ってきたみたいね」)。因みに「蛍」という短編を発展させたのが「ノルウェイの森」ね。

「君の名は。」は村上春樹の短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を下敷きにしたのではないかと言われている。また村上は「ニューヨーク・タイムズ」のインタビューに答え、長編小説「1Q84」は4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」から派生した物語だと答えている。

未熟な詩人は真似をする。成熟した詩人は盗む。
Immature poets imitate,mature poets steal.
(T・S・エリオット)

11)うたの魅惑

「秒速」のクライマックスは言うまでもなく山崎まさよしの「One more time, One more chance」である。ここで感情が大爆発。歌がまるでミュージカル映画のように主役の座を奪い、雄弁に語り始める。新海は曲のフレーズ(楽句)に合わせて細かく編集しており、それは例えばロバート・ワイズの「ウエストサイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」や、大林宣彦「時をかける少女」伝説のカーテンコールを想い起こさせる。この手法は「言の葉の庭」で秦基博がカヴァーした「Rain」(作詞/作曲:大江千里)や「君の名は。」のRADWIMPS「夢灯籠」「前前前世」でも継承されている。

最後に。RADWIMPSの野田洋次郎くん。NHKから紅白歌合戦出場のオファーがあったら、絶対断らんといてよ!頼むで、しかし。

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2016年9月 5日 (月)

明日海りお主演 宝塚花組「仮面のロマネスク」とラクロの危険な関係

9月4日(日)梅田芸術劇場へ。

宝塚花組「仮面のロマネスク」とグランド・レビュー「Meodia -熱く美しき旋律-」を観劇。

Kiken

「仮面のロマネスク」の原作はフランスの作家コデルロス・ド・ラクロの小説「危険な関係」。今まで8回映画化されている(日本で1回、韓国は2回)。

僕が観たのはスティーヴン・フリアーズ監督、グレン・クローズ、ジョン・マルコヴィッチが主演した1988年版。これはアカデミー賞で脚色賞、美術賞、衣装デザイン賞を受賞した。さらに現代のアメリカに舞台を移したサラ・ミシェル・ゲラー、ライアン・フィリップ主演の「クルーエル・インテンションズ」(1999)、とペ・ヨンジュン(「冬ソナ」のヨン様)主演の「スキャンダル」(2003)の3本である。88年版は格調が高く、見応えあり。「クルーエル・インテンションズ」はサラ・ミシェル・ゲラーの絶頂期で、彼女の悪女っぷりが愉しかった。

原作小説が出版されたのは1782年なので、1789年のフランス革命前ということになる。「仮面のロマネスク」の台本を執筆した柴田侑宏は時代を王政復古の1830年に移した。この年に民衆が蜂起し七月革命が勃発、本作のクライマックスとなっている。ミュージカル「レ・ミゼラブル」と比較すると、ジャン・バルジャンが市長を務めた第1幕が1823年、バリケードが築かれる第2幕が1832年だからその間ということになる。

僕は本作を宝塚歌劇のオリジナル作品としては屈指の傑作だと想っている。ちなみにベスト3(ショー/レビューを除く)は「仮面のロマネスク」「王家に捧ぐ歌」「翼ある人びと ーブラームスとクララ・シューマンー」。和物を加えるなら「若き日の歌は忘れじ」と「星逢一夜」かな。

「仮面のロマネスク」はまず楽曲がいい。胸に滲みる。そして柴田の潤色が卓越している。原作でヴァルモン子爵はダンスニー男爵との決闘で惨めに死ぬ。しかし宝塚版では死なず、遠く戦火の炎が窓ガラスに映える中、メルトゥイユ侯爵夫人との「ふたりだけの舞踏会」で幕を閉じる。この後ヴァルモンは軍人として負け戦に出陣するわけで、やはり死という運命が確実に待ち受けている。一寸時間が伸びただけで彼の末路は変わらない。幕切れの舞踏会シーンは貴族社会の終焉も意味しており味わい深い。それは貴族の末裔であったルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「山猫」(1963)や、華族の没落を描く新藤兼人脚本、吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」(1947)に繋がっている。

またタイトルが秀逸だ。主人公のふたりは延々と恋愛ゲームを続けているわけだが、本心を隠し、ペルソナ(仮面)をかぶり続けている。最後にとうとう脱ぐのだが、時既に遅し。「危険な関係」よりよっぽど優れている。

ヴァルモンを演じた明日海りおは宝塚歌劇102年の歴史上、「最も美しい男役」だと僕は確信している。ただ彼女はロミオとか光源氏とか「白い」「無垢な」役が一番合うのだが、ヴァルモンは「黒い」「下衆な」男なので多少の違和感を覚えたことは否めない。メルトゥイユの花乃まりあはそもそも老け顔なので、役柄に似合っていた。初演の花總まりに匹敵すると想った。

レビューの方は可もなく不可もなしという印象。JAZZに乗ってニューヨークの場面が展開され、続いてエル・ドラード(黄金郷)→スペインのフラメンコ・シーンといった具合に「どこかで見た宝塚」が続く。マンネリズムではあるが退屈はしない。

ただ全ツ(全国ツアー公演)で物足りないのは音楽がカラオケであることと、大階段がなく、フィナーレがたった5段でしょぼいこと。ま、詮ないことだけれど。

それでも「仮面のロマネスク」がすこぶる良かったので、DVDが出たら買いたい!

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2016年9月 3日 (土)

「君の名は。」とRADWIMPSのうた

昨日(9月2日)iTune Storeへ行ったら、アルバムの売り上げ第1位が「君の名は。」サントラで、ソングの第1位が「前前前世」、2位:「スパークル」、3位:「なんでもないや」、4位:「夢灯籠」だった。なんとトップ4をロックバンド・RADWIMPSが歌った「君の名は。」の楽曲が独占!いやはや大変なことになっている。

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これはもう、「アナと雪の女王」の主題歌"LET IT GO(ありのままで)"クラスの社会現象だから、紅白歌合戦出場の可能性も出てきたのではないだろうか?で新海誠監督がゲストとして登場したりして。ファンの妄想はどんどん広がっていく。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
(小野小町/古今和歌集)

夢だけど、夢じゃなかった!(サツキ、メイ/「となりのトトロ」)

僕は冗談抜きで「君の名は。」が「千と千尋の神隠し」に続いて米アカデミー賞の長編アニメーション部門を受賞出来るだけの潜在能力を持っていると確信している。後は海外上映に向けての戦略、マーケティング次第である。でこれから英語版が製作されるわけだが、ここで一つ提言をしたい。

新海誠のアニメは音楽(歌)が重要な役割を果たす。「秒速5センチメートル」で山崎まさよしが歌う「One more time, One more chance」しかり、「言の葉の庭」で秦基博が歌う「Rain」(作詞/作曲:大江千里)しかり。歌が出てくるとまるでミュージカル映画のように主役の座を奪う。これは当然、「君の名は。」にも当てはまるのだが、だからこそ英語版の歌は英語歌詞を用意したらどうだろう?「外人に媚びへつらう必要はない」という意見もあろう。仰ることはご尤も。それでも僕は「新世紀エヴァンゲリオン」のミサトさんじゃないけれど、「サービス、サービスぅ!」も大切だとも想うのである。お・も・て・な・しの心ね。因みにRADWIMPSの全楽曲の作詞・作曲を担当してる野田洋次郎はアメリカ育ちであり、 Mr.Childrenの桜井和寿はRADWIMPSデビュー前にデモテープを貰った際、ほとんどの楽曲が英語詞だった中に、1曲だけ日本語詞があり、「日本語でやったほうがいいですよ」と事務所社長に伝えたという。つまり野田洋次郎は英語の歌詞も書けるということだ。

野田の詞は「ぼく」と「君」の関係が宇宙的規模にまで広がり、新海誠ワールドにぴったりと寄り添っている。そのことを英語圏の人達にも是非感じてもらいたいんだ。

また、SF作家から指摘があった彗星の軌道については(2回目に観た時に確認したが)確かに作画ミスなので、海外に出す時までには修正しておくほうが無難だろう。こんなしょーもないことで足を引っ張られたくないからね。

2回目の鑑賞は9月1日(木)映画の日、21時30分ー23時30分のレイトショー@兵庫県西宮北口TOHOシネマズだったのだが、満席だったので仰天した。こんなこと初めて!空前の大ヒットを実感した次第である。

そして「秒速5センチメートル」第2話コスモナウト(@種子島)に登場するコンビニが「君の名は。」の田舎町・糸守町にも出現していることを発見した。帰宅して調べてみるとアイSHOPという鹿児島県にしかないお店だった。昔からのファンに対する監督からの「サービス、サービスぅ!」だね。

以下余談。「君の名は。」にも繰り返し登場するNTTドコモ代々木ビル(通称ドコモタワー)だが、「秒速5センチメートル」の第3話には出てくるが、やはり東京を舞台とした第1話桜花抄(おうかしょう)では見えない。第3話は2006年のお話で、主人公の貴樹は26歳になっている。ということは彼が中学生だった第1話は1990年代前半ということになる。ドコモタワーの竣工は2000年9月なのでその時は未だ存在しなかったのだ。東京という都市の時間の流れがこうして新海アニメに刻まれているのである。

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