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2016年7月

2016年7月26日 (火)

佐渡裕プロデュースオペラ「夏の夜の夢」

7月24日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

Mid

佐渡裕/兵庫芸術文化センター管弦楽団・ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団で、

  • ベンジャミン・ブリテン:歌劇「夏の夜の夢」

を観劇。演出・装置・衣装デザインは英国のアントニー・マクドナルド。出演者は以下の通り。

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歌手陣の中では朗々とした低音を響かせたボトム役アラン・ユーイング(バス)の上手さが際立っていた。他の外国人キャストも充実。日本人ではティターニアの森谷真理が良かった。ただし、(一般論として日本人は概して男声低音がダメで)シーシアスの森雅史(バス)はいただけない。

オーケストラの方は妖しさと、職人たちが登場する場面では滑稽さがあり、作品の魅力を十二分に伝えた。総論として極めて満足度の高いプロダクションであった。極東の国・日本でこれだけ質の高いオペラを観られることは希少であり、佐渡裕・芸術監督に賞賛の拍手を送りたい。

過去10年間の佐渡裕プロデュースオペラは「蝶々夫人」「トスカ」「魔笛」「こうもり」「カルメン」「椿姫」など誰でも知っている、興行的に手堅い作品ばかり並んでいたが、今回の「夏の夜の夢」は相当な冒険だった筈だ。ブリテンのオペラは(「ピーター・グライムズ」も含め)日本で滅多に上演されない。そもそも「夏の夜の夢」は国内盤DVDすらない。僕が所有しているピーター・ホール演出のグラインドボーン音楽祭のプロダクションは輸入盤で当然日本語字幕なし。しかし今回の6公演は平日を含め全日完売というのだから大したものだ。

続けて作品を論じるにあたり、まず下記記事を併せてお読みください。

今回の演出で驚いたのは妖精パックに大人のダンサー(26歳)が配されていたことである。グラインドボーン版ではパックを小学生くらいの男の子が演じていたし、オーストリア出身の著名な演出家マックス・ラインハルト(ドイツ演劇界では「皇帝」と呼ばれた)が監督した1935年のハリウッド映画版(メンデルスゾーンの音楽をエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトが編曲)のミッキー・ルーニーは撮影当時14歳だった。パックといえば「いたずら坊主」「天衣無縫」「無邪気(innocent)」という印象が強いので、成人というのは違和感があった。面白いなと思ったのはパックの顔が半分だけ白塗りになっていたこと。これは道化師の象徴である。中世の道化師は色鮮やかなまだら模様の衣装を着ており、善と悪、破壊と創造、賢者と愚者といった二面性を行き来する存在であることを表している。つまりトリックスターこちらに詳しく説明した)であり、妖精パックが担う役割と全く同じなのだ。

妖精たちは日本語、人間は英語歌唱だった。でティターニアが職人のボトムと絡む時だけ英語になる。妖精同士が会話するときは人間の言葉を使うはずもないので日本語=妖精語という見立ては秀逸だと想った。また人間たちは靴を履いているが妖精の王と王妃、パックは素足、子供の妖精はソックスで舞台を駆け回っていた。ティターニア付きの小妖精(豆の花・蜘蛛の巣・蛾・芥子の種)がロバに変身したボトムに対して鼻をつまんで嫌そうに仕える演出も成る程と想った(ピーター・ホール版ではなかった)。ティターニアは魔法で目が眩んでいるのでロバに恋するわけだが、他の妖精はそうではないのだから考えてみれば当然の反応である。またロバは精力絶倫を意味することは前の記事に書いたが、ピーター・ホール版でボトムの股間がモッコリ強調されていたのに対し、マクドナルドの演出ではボトムの腰に刺した芝居用の剣が、勃起したペニスのメタファーとして機能していた。

あと今回初めて気がついたのはシェイクスピアの戯曲は全5幕であるが、ブリテンと彼の生涯のパートナー、ピーター・ピアーズが執筆した台本はカットや順序の入れ替えなどを行い、全3幕で構成されている。そして全ての幕切れが眠りに就く場面で構成されているのだ(シェイクスピアの方はそうなっていない)。この創意工夫には唸った。

オーベロンはカウンターテナーが演じるわけだが、カウンターテナーのパートは19世紀以前、去勢歌手カストラートのレパートリーだった。つまりこの役は男声でもなく女声でもないわけで、ゲイを象徴しているのではないかという気がした。

それにしてもパック最後の口上、

影にすぎない私ども、もしご機嫌を損ねたなら
お口直しに、こう思っていただきましょう。
ここでご覧になったのは、
うたた寝の一場のまぼろし。
たわいない物語は
根も葉もない束の間の夢。
(中略)
野次やお叱り受けずにすめば
これぞ望外の幸せと、いっそう精進いたします。
パックは嘘をつきません。
では、どちらさまも、おやすみなさい。
ご贔屓のしるし、お手を頂戴できるなら
パックも励み、必ずお返しいたします。
       (松岡和子 訳、ちくま文庫)

を聴きながら、鳥肌が立った。演劇の醍醐味、ここにあり!Theatergoer(芝居好きの人)にとって、正に至福の瞬間(とき)であった。

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2016年7月22日 (金)

ウィーン世紀末の作曲家フックスとマーラー/大響定期

7月22日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

寺岡清高/大阪交響楽団谷口 伸(バリトン)で、

  • ブラームス:悲劇的序曲
  • フックス:交響曲 第1番
  • マーラー:「5つの初期の歌」(ベリオ編)
    交響曲第5番 第4楽章 ”アダージェット”
    リュッケルトの詩による5つの歌曲

ウィーン楽友協会音楽院(和声学)教授としてマーラーを教えたロベルト・フックス(1847-1927)については下の記事で述べた。

フックスはウィーンの教会オルガニストを務めたこともあり、ブルックナーとマーラーを結ぶ作曲家といえるだろう。

40歳手前で完成した交響曲第1番の第1楽章は優しく穏やか。メンデルスゾーンのスケルツォを彷彿とさせる第2楽章はすばしっこく森の妖精が飛び回っているよう。緩徐楽章の第3楽章は調性が不安定でゆらぎが感じられ、マーラーに近い。第4楽章には覇気があった。

谷口は張りのある美声。「5つの初期の歌」は”生は暗く、死もまた暗い”という「大地の歌」の歌詞を思い起こさせ、またそこに登場する子どもたちは無邪気(innocent)だった。

「リュッケルトの詩による5つの歌曲」の”私はほのかな香りを吸った”は微睡み、夢うつつの世界観で、交響曲第5番アダージェットの気分に繋がっている。そして”私は世に捨てられた”を聴きながらワーグナー「ワルキューレ」のラスト、ヴォータンの別れを想い出した。

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「エンターテイメント日誌」自選記事 ベスト30

早いもので、このブログを開設してから今年で10年目になる。途中から読者になられた方が殆どだろう。記事数も2100を超えた。つまり年間200以上書いている計算になる。膨大な量だ。そこで「どうしてもこれだけは読んで欲しい」というものを厳選した。

まずはBEST 10から。

続いてNEXT 10。

そしてMORE 10

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2016年7月20日 (水)

シェイクスピア「夏の夜の夢」とブリテンのオペラ、その深層心理に迫る

間もなく兵庫県立芸術文化センターで佐渡裕プロデュースによるベンジャミン・ブリテンのオペラ「夏の夜の夢」が上演される。

僕の幼少期、この作品は「真夏の夜の夢」と呼ばれていた。原題が"A Midsummer Night's Dream"だからである。しかしmidsummerとは夏至のことで、聖ヨハネ祭(Midsummer Day)が祝われる6月24日の前夜を指す。全然真夏じゃない。

シェイクスピアの「夏の夜の夢」と共に、結婚行進曲を含むメンデルスゾーンの付随音楽がよく知られている。これが1935年にハリウッドで映画化された時、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトがメンデルスゾーンの音楽を卓越した手腕で編曲した。マックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレが共同監督したのだが、マックス・ラインハルトは、オーストリア生まれの著名な舞台演出家。彼の要請でコルンゴルトはウィーンからハリウッドに招かれた(ディターレが1937年に監督した「ゾラの生涯」はアカデミー作品賞を受賞した)。

ユダヤ人だったコルンゴルトは結局、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに亡命する。そして「風雲児アドヴァース」と「ロビン・フッドの冒険」で2度アカデミー作曲賞を受賞することになる。

映画「真夏の夜の夢」(←正式な邦題)にはオリヴィア・デ・ハヴィランド、ジェームズ・キャグニー、ミッキー・ルーニーらが出演している。なかなか出来がよく、現在は500円DVDが手に入るのでお勧めする。画質も悪く無い。

ブリテンのオペラは1960年に初演された。台本はブリテンと、テノール歌手ピーター・ピアーズの手による。ピアーズは「ピーター・グライムズ」のタイトルロール、「ねじの回転」のクイント、「ベニスに死す」のアッシェンバッハ、「カーリュー・リヴァー」の狂女などブリテンの多数のオペラで初演キャストを務めている。「夏の夜の夢」では職人フルート(オルガンのふいご修理屋)を演じた。オペラ台本は戯曲の第2幕第1場から始まる。終幕に戯曲の第1幕冒頭部が挿入されるなど、大胆なカットや順序の入れ替えはあるが基本的に台詞はオリジナルそのままである。

僕が持っているこのオペラのDVDはイギリスの大御所ピーター・ホールが演出したグラインドボーン音楽祭のプロダクション。ベルナルド・ハイティンクが指揮してイレアナ・コトルバシュがティターニアを演じた。ホールが最も得意とする演目であり、1981年の初演以来大評判となり1984、1989、2001、2006年と再演を重ねてきた。非常に幻想的で美しい舞台である。

また宝塚歌劇では演出家の小池修一郎がこの戯曲を翻案してミュージカル「PUCK」を創っている。初演では涼風真世が妖精パックを演じた。実に愉しく是非観ていただきたい作品である。2014年再演のレビューはこちら

さてこの度、オペラ観劇の予習としてシェイクスピアの戯曲を読んでみようと想った。村上春樹は「小説の古典は古びることがないけれど、翻訳には賞味期限があり、どんな名訳でも時間が経てば古びる」という旨のことを書いている。アップデートが必要不可欠なのだ。僕が中学生時代に読んだシェイクスピアは新潮文庫の福田恆存によるものだった。文語調で硬く、読み辛い。その後小田島雄志の読み易い口語訳が出て、大評判となったことは記憶に新しい。さらに調べてみると小田島訳の後に松岡和子による個人翻訳全集が出て、評価がすこぶる高い。蜷川幸雄が晩年手がけたシェイクスピアの舞台は全て、松岡訳だった。よって松岡訳に決めた。彼女が偉いのは、芝居の本読みや舞台稽古にも参加して演出家や役者の意見を聞き、改訂を重ねていることである。つまり徹底的な現場主義なのだ。台詞は熟れているし、本文の下に豊富な訳注が書かれているのも嬉しい(訳注が巻末だといちいち探すのが面倒くさい)。

興味が湧いたので、松岡のエッセイも読んでみた。「深読みシェイクスピア」(新潮選書)やユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄との対談「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)などである。この対談本がすこぶる面白かった。

河合によると、日本人はまだ無意識的一体感というのをひきずっていて、日本人の男の友情というのは、外国人に同性愛だと思われるものがものすごく多いのだそうである。そこで松岡が「夏の夜の夢」に登場する職人たちは、ほとんど同性愛的なものだと思うと水を向けると、河合は力強く同意する。「非常に無意識に近い世界に生きているんです。その中のボトムなんていったら、ぼそーっと妖精の世界に入り込んでしまう。(中略)あの集団は確かに同性愛集団ですね」

ここで僕はハッとした。ベンジャミン・ブリテンもゲイだった。生涯のパートナーはピーター・ピアーズ。ふたりは同棲生活を送り、現在彼らの墓はオールドバラの教会墓地に仲良く並んで置かれている。そう考えていくとブリテンが数あるシェイクスピア作品の中から「夏の夜の夢」を選んでオペラ化したことの意味と、ピアーズがフルートを演じた理由が見えてくる。因みに「ピーター・グライムズ」も「ベニスに死す」もゲイの物語である。

「ヘンゼルとグレーテル」などの童話もそうだが、西洋の物語に登場する森は無意識のメタファーである。「夏の夜の夢」は観客が見ている夢(無意識)という風に考えることが出来る。河合は語る。「作品全体が四つの層からできている。アテネの公爵シーシアスと婚約者ヒポリタ、四人の若い恋人たち、それから芝居しようとする職人たち、更に妖精の王と女王を中心とした妖精たち、という風に。これは考えたら、意識構造がだんだんだんだん深くなっていくようなものです。シーシアスとヒポリタの方はわりに意識の世界に近いですね。それに対して妖精の世界は、一番奥の無意識の世界。だから妖精の世界のことは意識の世界の人間には誰も見えないんです。面白いことには、この無意識の世界に一人だけ突入するのが職人のボトム。彼だけがポンと入れるわけですよ。それからこの層の間を自由に行き来しているのはパックです。(中略)恋人たちの見ている夢なんていうのは、恋というものがそもそも夢だと言えるんだけど、(中略)本当は、プロモートしているのは、妖精たちなんですね」この意識↔無意識の四層構造という考え方で想い出したのがクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」である。全く同じだ。「夏の夜の夢」と「インセプション」は繋がっている。

妖精パックはトリックスターとしての役割を果たす。トリックスターとは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、 その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すものであり(scrap and build)、変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。単なるいたずら好きの破壊者で終始することもあれば、時として英雄にも成り得る(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。境界を超えて出没するところにトリックスターの特徴がある。

「夏の夜の夢」は女同士の親密な結びつきを男が危機に陥れるという、そういう読み方もできると松岡は指摘する。ヒポリタはアマゾンの女王、つまり女だけの国の女王だった。それをシーシアスが力ずくで征服し、略奪した。妖精の女王ティターニアはインドから連れて帰った男の子をかわいがっているが、それをオベロンが引き渡せと迫る。男の子を産んで直ぐ死んだ母親はティターニアと恋人同士みたいに仲良しだったので、その取り替え子(Changeling)を養うことは彼女にとって「友情の証」なのである。大親友だったハーミアとヘレナの絆(ひとつのクッションに一緒に座って刺繍をしたと表現されている)も男たち(ライサンダーとディミートリアス)の出現で危うくなる。

またボトムの頭が魔法でロバに変容(メタモルフォーゼ)することについて。ロバというのは頭が足りない馬鹿の象徴であると同時に、精力絶倫をも意味するそうだ。言われてみればピーター・ホール演出版でもボトムの股間はもっこり誇張されていた。

あと気付いたのは、職人たちによる劇中劇「ピラマスとシスビー」は明らかに「ロミオとジュリエット」のパロディ(風刺)になっていること。更に恋人たち=ライサンダーとハーミアは彼女の父が結婚を認めないため、アテネの法「父の言いつけに背く娘は死刑とする」が及ばない土地に駆け落ちしようとする。この設定も実は「ロミオとジュリエット」と表裏一体であり、要するにジュリエットもあんなややこしい(仮死状態になる)薬を飲まなくたって、ふたりが駆け落ちしてヴェローナ外の都市で結婚すれば済んだ話ではないかと言っているのである(たとえロミオがティボルトを殺さなくとも、ふたりはヴェローナで一緒に暮らせる筈がない。つまり秘密裏の結婚は全く意味が無い)。大胆にも作劇上の嘘を作家自らがバラしているのだ。この重層性こそシェイクスピアの真骨頂である。

「夏の夜の夢」の世界は奥深い。貴方もその森の中で彷徨ってみませんか?

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2016年7月19日 (火)

映画「シング・ストリート 未来へのうた」

評価:A

Singstreet

映画公式サイトはこちら

「once ダブリンの街角で」、ニューヨークで撮った「はじまりのうた」、そして古里ダブリンに戻ってきた「シング・ストリート」とジョン・カーニー監督が物語る基本線は同じだ。まるで金太郎飴みたいだけれど、そのマンネリズム(動かざること山の如し)が実に心地良い。極上の音楽映画体験である。

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今回の新機軸は家族にスポットライトを当てたこと。お兄ちゃんの台詞「ジェネシス(ヴォーカル:フィル・コリンズ)が好きな男に、女の子は惚れない」には痺れた!ノルウェー出身の3人組バンドa-haとか懐かしかったな。「テイク・オン・ミー」のMVは当時よくTVで流れていた。彼らが歌った「007 リビング・デイライツ」の主題歌もしっかり憶えている。

それにしても映画「ブルックリン」のヒロインは仕事がなくて「静かなる男」「雨に唄えば」が公開された1952年にアイルランドからアメリカ大陸に単身渡るのだけれど、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」が公開された1985年を舞台にした本作の主人公の父親は失業中で、母は週3日しか仕事がない。思わず「アイルランドって、どんだけ不況がつづいとんねん!」とスクリーンに突っ込みを入れた。ちなみに1912年、タイタニック号に乗った三等船室の人々の多くは貧しいアイルランド移民だった(映画「タイタニック」でもアイルランド舞曲を踊っている場面が登場する)。

 

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武満徹没後20年/伊福部昭没後10年/ライヒ日本初演:いずみシンフォニエッタ大阪 定期

7月16日(土)いずみホールへ。飯森正親/いずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会を聴く。本編の前にロビー・コンサートがあり、今回は呉 信一のトロンボーン講座だった。

  • 川島素晴:もう一人のエリック
  • 武満徹:トゥリー・ライン
  • 伊福部昭:土俗的三連画
  • ジャック・ボディ:ミケランジェロによる瞑想曲 日本初演
  • スティーヴ・ライヒ:ダブル・セクステット 日本初演

「もう一人のエリック」は《ジムノペディ》などエリック・サティの名曲がメドレー仕立てになっている。《あなたが欲しい(ジュ・トゥ・ヴ)》のミュート・トロンボーンが良かった。このワルツをオーケストラで聴くと、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」との親和性に気付かされる。これぞフランスのエスプリなのだろう。ディキシーランド・ジャズ風《ピカデリー》も魅力的だった。

アカシアの並木(湿った樹木)をモチーフにした「トゥリー・ライン」は弦が各パート1名の計5人。幻想的で曖昧模糊としている。武満には「ウォーター・ドリーミング」とか、「夢の引用」「夢窓」「夢の時」といった作品があるが、覚醒した西洋音楽に対して彼が語るのは無意識の世界なんだなと感じた。音楽は絶えず流動し、変容(メタモルフォーゼ)する。まるで水のように。武満の楽曲に「水の曲」「ウォーターウェイズ」「ウォーター・ドリーミング」「ガーデンレイン」「海へ」など水を主題にしたものが多いのは偶然ではない。曲の最後に舞台裏遠くからオーボエの音が聴こえてきたのも印象的だった。

「土俗的三連画」も弦5人。飯森はプレトークで「茶色のイメージ」と表現した。土の匂い。荒々しく野性味があり、第2楽章「ティンベ」はホルン二重奏が味わい深い。最果ての地という感じ。第3楽章はアイヌの歌で、世界中探してもどこにもない音楽だと想った。

ニュージーランドの作曲家ジャック・ボディの曲は死ぬ程つまらなかった。同じ弦楽合奏ならバーナード・ハーマンの「サイコ」組曲(1960)が聴きたいと想った。

ライヒはフルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ヴィブラフォン、ピアノという6重奏のセットをダブルで配置するという趣向。音響システム(PA = Public Address)を使用することが前提となっている。ライヒの音楽は殆どがそうだとか。リズムカルで疾走感があり、エキサイティングだった。

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2016年7月17日 (日)

祝!ウルトラマン放送開始50年

初代「ウルトラマン」の放送がTBSで始まったのは1966年(昭和41年)7月17日のことだった。つまり今日でちょうど50年である。

僕は「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」(1967)、「帰ってきたウルトラマン」(1971)、「ウルトラマンタロウ」(1973)の主題歌を歌えるのだが、話の内容は全く覚えていない。怪獣の名前も言えない。年齢的にリアルタイムで体験しているとは考え難く、恐らく幼年期に夕方の再放送を観ていたのだと思われる。

小学校3-4年生の頃にはすっかり卒業して、その後は無縁の暮らしをしていた。再び興味を持ったのは10年前に関西に引っ越してきて、落語を聴くようになってからである。噺家の桂文三が熱烈なウルトラマン・ファンで、マクラでよくその話をした。東京から来演した柳家喬太郎も出囃子で「ウルトラQ」を使ったり、ウルトラマンの怪獣を登場させる「抜けガヴァドン」(古典「抜け雀」のパスティーシュ)を高座に掛けたりした。この噺を初めて聴いたのが2015年だが、その時はガヴァドンという名前すら知らなかった。

僕の息子は現在5歳だが、3歳頃から恐竜やウルトラマンの怪獣が好きになりフィギュアを集め始めた(僕自身は親に買って貰ったことがない)。そこでTSUTAYA DISCUSでDVDをレンタルし、「ウルトラマン」全39話と「ウルトラセブン」全49話を息子と一緒に観た(ただし佐々木守脚本、実相寺昭雄監督のセブン第12話「遊星より愛をこめて」はある事情により欠番になっている。画質は悪いが幾つかの動画サイトで試聴可能)。現在は「帰ってきたウルトラマン」を途中まで観ているところである。

元祖「ウルトラマン」のシリーズ中、突出して面白いのは佐々木守脚本、実相寺昭雄監督の回である。ファン投票でトップの人気を誇る「故郷は地球」や、ガヴァドンが登場する「恐怖の宇宙線」もそう。このコンビによる「怪奇大作戦 京都買います」はテレビドラマ史上最高傑作だと信じて疑わないのだが、どうしてなかなかウルトラマンも負けてはいない。

佐々木脚本が傑出しているのは価値観の反転を行っていることにある。ガヴァドンは子どもたちの描いた画が宇宙線を浴びて実体化した怪獣であり、彼等はウルトラマンに「ガヴァドンを殺さないで!」と懇願する。つまりウルトラマン&科学特捜隊は【子どもたちの想像力を踏みにじる大人たち】に成り下がり、どちらが正義でどちらが悪かこんがらがってくるのである。父性原理で「断ち切る」性質を持つ欧米人(キリスト教徒&ユダヤ教徒)の思想は光と闇、天国と地獄、天使と悪魔に分ける二元論がその根幹を成している。しかし「世界はそんな単純な二元論で割り切れるものではない」という立場に立つのが我々日本人なのだ。考えてみればゴジラ(Godzilla)も人間にとっての敵であると同時に、台風や津波、地震など自然災害にも似た「荒ぶる」であり、水爆実験による「被害者」でもある。その多義性に魅力の本質がある。

「故郷は地球」(2016年8月21日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)に登場するジャミラも宇宙にひとりぼっちで取り残された宇宙飛行士の成れの果ての姿だ(映画「オデッセイ」のマット・デイモンと同じ)。彼は本当に退治すべき「悪」なのだろうか?それとも……。

「怪獣墓場」では科学特捜隊が今まで倒した怪獣たちを弔うために戒名をつけ、坊さんを呼んでお経を唱える怪獣供養が行われる。そのユニークな発想にびっくりした。そして怪獣墓場から落っこちてくる亡霊怪獣シーボーズ(←坊主?)は空を見上げて泣き叫ぶばかりで破壊行動もせず、もののあはれを感じさせる。余談だが怪獣墓場をもじった怪獣酒場が神奈川県川崎市にあり、大阪・難波にも元祖怪獣酒場があった。後者は惜しまれつつ閉店したのだが。

実相寺監督独特の凝りに凝った構図も見どころのひとつである。

また第一期を企画立案し、メインの脚本家として活躍したのが金城哲夫(きんじょうてつお)。沖縄県出身である。「ウルトラセブン」や「帰ってきたウルトラマン」の多くを執筆した上原正三も沖縄県出身である。彼等は幼少期に凄絶な沖縄戦を体験し、その後アメリカ合衆国に統治された故郷を憂えた。沖縄が返還されたのは1972年、「帰ってきたウルトラマン」放送終了後のことである。そもそも琉球王国は1609年に薩摩藩に征服され付庸国となり、明治維新の時に沖縄県として再編された。つまり彼等にとっては日本人も侵略者なのである。そういう屈折した複雑な想いがシリーズに込められている。

今回初めて「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」の明確なコンセプトの違いを知った。マンが戦う相手は怪獣だが、セブンの敵は宇宙人。つまり後者はSF要素が色濃い。セブンにはウルトラホーク1号から3号までのメカの魅力も加味され、ウルトラ警備隊の専用車「ポインター」のデザインも格好いい。また主人公がマンに変身すると必ず巨大化するが、セブンは①人間と等身大のまま、②巨大化するという2段階のプロセスが有る。

「ウルトラセブン」になると佐々木守が2本しか執筆していないのが哀しい。しかもうち1本(「遊星より愛をこめて」)は永久欠番だし。セブンの最高傑作は金城哲夫脚本、実相寺昭雄監督「狙われた街」(2016年8月28日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)であることは論を俟たないだろう。卓袱台を挟んでウルトラマンとメトロン星人が対峙するのは史上屈指の名場面である(これぞ昭和!)。また上原正三脚本、実相寺明雄監督「第四惑星の悪夢」は後の映像作家たちに多大な影響を与えた。例えばアニメ「宇宙戦艦ヤマト 2199」の第14話「魔女はささやく」は「第四惑星の悪夢」への熱烈なラヴ・レターである。

セブンに参加した新しい才能で特筆すべきは「快獣ブースカ」で脚本家デビューを果たした市川森一である。「盗まれたウルトラ・アイ」は詩的かつ叙情的な逸品だ。市川は後にTBSの金曜ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」で第1回向田邦子賞を受賞する。また市川が執筆したNHK大河ドラマ「黄金の日日」は三谷幸喜のお気に入りで、松本幸四郎演じる主人公・呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)は本日放送される「真田丸」にも特別出演する運びとなった。

あとセブンで注目すべきはアンヌ隊員(菱見百合子)のエロさである。この役は映画出演決定を理由に降板した豊浦美子の代役として急遽決まったため、コスチュームのサイズが合わず体にぴったりとフィットしたものになったという。市川森一や評論家・森永卓郎らが「アンヌは初恋の人」と告白している。また落語家・立川談志も写真集「アンヌへの手紙」に寄稿している。

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「ウルトラセブン」はモロボシ・ダンとアンヌの悲恋物語として観ることも出来る。最終話(2016年9月11日午後5時よりNHK BSプレミアムで放送予定)でシューマンのピアノ協奏曲が流れる趣向はとてもロマンティックで、胸がキュン!とする。一方、「ウルトラマン」の紅一点、フジ・アキコ隊員(桜井浩子)はお色気ゼロだ。

金城哲夫は1969年に円谷プロを退社し沖縄に帰った。「帰ってきたウルトラマン」では第11話のみ脚本を執筆している。佐々木守は完全に撤退し、実相寺昭雄は第28話のみ監督した。その代わり初代「ゴジラ」の名匠・本多猪四郎が第1話・最終話など全5話を監督していることが「帰ってきた」の白眉である。

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2016年7月13日 (水)

上方落語(関西)と江戸落語(関東)の比較文化論〜その深層心理を紐解く

落語は江戸時代前期・元禄に露の五郎兵衛京都の四条河原町や北野などの大道で活躍した「辻噺」に端を発する。少し遅れて大阪・生玉神社の境内で米沢彦八が辻噺を行った。上方では今も毎年9月初旬に生玉神社で「彦八まつり」が開催されている。大道芸から始まったので行き交う人々の注意を惹くために使われた小拍子見台、そして膝隠しが上方落語の特徴になっている。

それからしばらくして江戸では酒宴など様々な屋敷に招かれて芸を披露する「座敷噺」が人気となる。座敷芸なので人寄せのための小拍子や見台は必要とせず、座布団一枚に噺家が正座するだけのシンプルなスタイルとなった。上方の方がレパートリーが豊富なので沢山のネタを噺家が江戸に持ち帰り、改変を施した。現在、東京で演じられる落語のネタのうち約7割が上方由来だと言われる

そこで上方落語が江戸に移植された際、どのようなアレンジが施されたか、また江戸で生まれたオリジナル落語の特徴は何かを探っていけば、関西人と関東人の気質・文化的背景の違いが見えてくるのである。

その1【うどん vs. そば】

上方落語にはうどんネタが多い。「時うどん」「かぜうどん」「親子酒」が代表例である。これが江戸に移るとそばネタに変化する(「時そば」など)。また腹いっぱいもちを食べるという上方落語「蛇含草」が、お江戸では「そば清」になる。逆に上方落語にそばは一切出てこない。ここで興味深いのは関西で「うどん」と言えば汁のある「かけうどん」を意味し、江戸落語の「そば」は「ざるそば」である。

関西に住むようになって10年が経過したが、つくづく感じるのはここは出汁(だし)文化だということ。出汁に手間暇をかけている。玉子焼きも関西では出汁巻き玉子を指す。僕は香川県高松市に2年半ほど住んでいたことがあるのだが、さぬきうどんはコシが命である。しかし大阪のうどんは違う。柔らかい麺自体にそれほど魅力はなく、むしろ重要なのは出汁。例えば道頓堀今井という名店の名物はきつねうどんだが、兎に角、油揚げから滲み出した汁(つゆ)の味が絶品なのだ。難波千日前「千とせ」の名物「肉吸い」は吉本新喜劇の花紀京が二日酔いで現れて、「肉うどん、うどん抜きで」と注文したのが切っ掛けで生まれたものである。うどんは二の次なのだ。

秋田県に旅行した時に驚いたのは、あちらでは全く出汁を取らないこと。昭和初期までの東北は貧しく、飢饉の年は餓死するものが沢山いた。出汁を取った魚介類は捨ててしまう。だからそんな勿体ないことは出来ない。関西の食文化が如何に豊かであったかということを実感させられた。うどんが東に移行するとそばになることには、これだけ深い意味があるのである。

その2【商家 vs. 武家】

江戸時代の上方は商人文化が栄えた。鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)が豪商の代表格で、落語「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にその名前が登場する。一方、参勤交代で地方の大名が集まる江戸は武家社会を形成した。上方落語には商家を舞台にした作品が多い。裕福な商人の若旦那=極道/ドラ息子という図式が典型的。しかし武士はほぼ不在、殿様に至ると皆無と言っていい。

桂枝雀が演じた「胴斬り」には新刀の試し切りする辻斬りが登場するが、一瞬の内に通り過ぎてしまい台詞もない。「桜の宮」にも武士が登場するがこれは江戸落語「花見の仇討」を上方に移植したもの。生粋の上方噺に武士が出てくるのは「禁酒関所」「宿屋仇」くらいかな。「茶瓶ねずり(薬缶なめ/癪の合薬)」は江戸に伝わった後に改変された可能性があり、原話も武家のハゲ頭を舐める噺だったか疑わしい(あと奉行所が舞台となるお裁きもの「佐々木裁き」「鹿政談」←元は講談ネタ「天狗裁き」「次の御用日」があるが、彼らの役割は侍ではなく裁判官である)。一方、江戸落語は「目黒のさんま」「妾馬(八五郎出世)」「盃の殿様」「将棋の殿様」「そばの殿様」「粗忽の使者」「紀州」「三味線栗毛(錦木検校)」「火焔太鼓」「竹の水仙」「高田馬場」「館林」「棒鱈」「井戸の茶碗」など武士・殿様が登場する噺が多数。「たがや」は庶民の侍に対する憎しみ(敵対心)が滲みだす強烈な噺だ。

その3【滑稽噺 vs. 人情噺】

基本的に上方落語は落とし噺であり、江戸のような人情噺がないと言って良い。「立ち切れ線香」を人情噺と明言しているプロの噺家もいるが、それは明らかな間違いである。桂米朝は著書「落語と私」(文春文庫)の中で、講談における「世話物」を(講談のような)説明口調ではなく、(落語家が)感情を込めて喋るものと人情噺を定義し、人情噺にはサゲがないと書いている(代表的演目「文七元結」「紺屋高尾」「しじみ売り」など)。よって立派なサゲがある「芝浜」や「たちきり(たちぎれ)」は人情噺ではないというのが彼の見解である。唯一の例外が「鬼あざみ」かな(講談ネタ)。「上方では浄瑠璃が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と米朝は述べている。

「落語DE枝雀」(ちくま文庫)の《情は情でも落語の情は》という章より桂枝雀と落語作家・小佐田定雄との対談を引用する。

枝雀 なんぼ「情」が結構やちゅうてもおしつけがましなったらいけまへん。おしつけがましい「情」てなもん、私らの最もかなわんもんでっさかいね。

小佐田 演者に先に泣かれてしまうと私らみたいなヘソ曲がりの客は「オッサン、なに泣いとんねん」てなもんで、 かえってサーッと醒めてしまいますねんな。ことに落語なんかで「泣き」を入れられると、「わかったわかった。もうええもうええ」てな気ィになってしまいますな。(中略)一般に「情」とか「人情」とかいうと、つい「お涙頂戴」的なものを思いうかべてしまうんですが、それとは正反対の「薄情な情」こそが上々のものであるというのが我々の結論ですかね。

次にサゲの有無とは別の視点から、人情噺とは何かを考察してみたい。

ユング心理学の権威・河合隼雄はその著書「昔話と日本人の心」「母性社会日本の病理」「コンプレックス」「無意識の構造」等において、欧米人と日本人の自我・自己のあり方の違いについて論じている。

幼児期の人の心は意識と無意識をが一体となった混沌(カオス)の状態にある。成長とともに光と闇、天と地、太陽と月、男と女などを区別するようになる。この「分類する」という行為が人間固有の知性の萌芽であり、意識と無意識が分離される。やがて意識の中に自我が形成され始める。一方、無意識の中には元型としてのグレートマザー(太母)が存在する。これは「無条件の愛を与え、慈しみ守ってくれる」母親(=聖母マリア、観音菩薩)の像であると同時に、「束縛する」「飲み込んでしまう」という恐ろしいイメージ(=魔女、山姥)をも内包している。欧米人(キリスト教徒)は成人するまでに心の中での「父親殺し」「母親殺し」を実行し、意識を無意識から完全に切り離して強い自我を確立する。ここで言う「母親」とはグレートマザーのことであり、「父親」とは文化的社会的規範を指し、切断する機能を持つ(ロックンロールの真髄も既成の価値観の破壊、大人への叛逆にある)。彼らは血による関係を強烈に否定する。しかし、わが国の男子は「母親殺し」が出来ず、グレートマザーの強力な作用を受け、それとの一体感を支えとして生きている(母性の優位性)。日本人の場合、意識と無意識は明確に区別されていない。

父性(切断)原理が優勢な欧米人は個の倫理で生き、他者との違いを明確にし、契約で結びつく(神との関係も契約である)。しかし日本人の場合は【なーなー】的横のつながり、なし崩し的一体感を重視し、場(コミュニティ)の倫理で動く。一旦そこに形成された場の平衡(母のぬくもり)を保つことに腐心するのである。それは学校の同級生だったり、ママ友や会社の同僚、政界の派閥だったりする。幼稚園や小学校のかけっこで順位を付けないというのは、真に日本人的(集団内での能力の差を認めない横並びの)発想である。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というビートたけしのギャクは言い得て妙だ。そこでは母性の本能である清濁併せ呑むという機能が働く。逆にヨーロッパの小学校では留年や飛び級が当たり前で、フランスの初等教育をストレートで卒業できる生徒はごく僅かに過ぎない。また日本人は自分たちのに属していないと見做す者達に対して、時に残酷になり、暴走することもある。村八分、学校のいじめ、連合赤軍のリンチ殺人、オウム真理教による地下鉄サリン事件などがそれに該当する。そして我々には契約という観念が乏しく、責任の所在も曖昧である(一億総無責任社会)。

話を落語に戻そう。「人情噺」とは場の平衡を保とうとする心情である、というのが僕の解釈である。場(コミュニティ)とは親兄弟ら家族であり、大家と店子、大工など職人の徒弟制度、武家という組織だったりもする。「忠臣蔵」の赤穂浪士で判る通り、浅野内匠頭が刃傷におよぶと浅野家は断絶・お取り潰しとなり、召し抱えられていた武士たちは一人残らず身分を剥奪され、浪人となった。つまり武家とは集団責任を問われる社会であり、十把一絡げ=場の倫理で動いているのである。その場では尊重されない(出る杭は打たれる)。

親子に通うのは人情だが、結婚前の男女の恋愛は独立した自我と自我が結合しようとする作用であり、人情ではない。「ロミオとジュリエット」のことを人情噺とは言わないでしょ?だから「立ち切れ線香」も違う。しかし結婚すればコミュニティ(一蓮托生の運命共同体)を形成するので夫婦愛は人情に変化を遂げる。

落語「子は鎹」は喧嘩別れした夫婦が、息子を鎹(かすがい)として再結合する。つまり、壊れかかった(コミュニティ)が子供の力で修復される(平衡状態に戻る)噺だ。「妾馬(八五郎出世)」で主人公の妹は大名に気に入られ、側室として招かれる。つまり八五郎は彼の才覚とは無関係に、家族のおかげ=場の倫理で出世するのだ。これが江戸落語の特徴である。

しかし、上方落語に兄弟姉妹が登場することはない。つまり関西人は場の倫理で行動しない。例えば「寝床」や「口入屋」、「百年目」、芝居噺「蛸芝居」で描かれる商家の人々は各々、好き勝手に生きている。番頭も丁稚も親旦さんの言いなりにはならない。彼らのは確立しており、「御家のために」という発想がない。つまり横の連携が「切れている」のだ。「親子酒」に登場する父と息子も酔っ払って互いを罵倒するばかりで、親子の情は繋がっていない。

上方唯一の人情噺と言われる「鬼あざみ」も内容をよく検討すると父は息子に対して「切断」を実行している。一旦は包丁で我が子を刺そうとし、思い直して奉公に出す。十年後に帰郷した息子は盗賊の頭になっていた。桂吉朝最後の高座となった「弱法師(よろぼし、別名「菜刀【ながたん】息子」)も人情噺に聴こえるが、やはり父親は息子を勘当しており「切れている」。お江戸の人情噺とは明らかに一線を画しているのである。ここに商人気質、関西人の心意気が窺い知れよう。

僕は常々、関西人の乾いた笑いのセンスはフランス人に近いと思っていた。明石家さんま(師匠は落語家・笑福亭松之助)がフランス産コメディ映画「奇人たちの晩餐会」の舞台版を演じたのは決して偶然ではない。両者には通底するものが間違いなくある。

僕はジトッと湿った江戸落語が大嫌いだ。ただし例外はあって、三遊亭圓朝と柳家喬太郎の創作落語には凄みを感じる。彼らに匹敵する作家は中々見当たらない。

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2016年7月 7日 (木)

【増補改訂版】松本零士「銀河鉄道999」とエディプス・コンプレックス〜手塚治虫/宮﨑駿との比較論

大阪桐蔭高等学校吹奏楽部はコンサートのアンコールで「銀河鉄道999」を演奏するのが定番である。僕はこれが本当に大好きで、たまに演奏されないことがあると「クリープを入れないコーヒーなんて…」と気分が落ち込んでしまう。パフォーマンスは勿論のこと、なにより樽屋雅徳による卓越したアレンジが素晴らしい。ゴダイゴの原曲を超越している。しかし実は今までアニメを観たことがなかった(原作漫画も)。元々、松本零士の絵が好みではなく無視していたのだ。ゴダイゴの歌が流れるのは劇場版だけでTV版の主題歌は異なることも今回調べてみて初めて知った。

また2009年にブザンソン指揮者コンクールで優勝した山田和樹氏(現スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者)は次のようにツィートしている。

ここまで言われたらほっとけないだろう。早速DVDを借りて観て、驚いた。

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「銀河鉄道999」は明々白々、エディプス・コンプレックス(マザー・コンプレックス)の物語である。エディプス・コンプレックスとは元々フロイトが提唱した言葉で、ギリシャ悲劇「オイディプス王」に基いている(コンプレックス=心的複合体)。物語を詳しく知りたい方はこちらをご覧あれ。身も蓋もない言い方をすれば、幼少期から男の子が抱く「お母ちゃんとヤりたい」という性的欲求・願望である。一方、女性が生来父親に対して持つ感情は(やはりギリシャ悲劇由来の)エレクトラ・コンプレックスとして区別するが、両者を包括してエディプス・コンプレックスと言われることもある。

何でも性的なものに結びつけようとするフロイトに反発心を持ち、袂を分かったユングは独自の理論を構築した。彼は人の普遍的(集合的)無意識の領域に元型(げんけい)があると考え、グレートマザー太母)を想定した。これは「無条件の愛を与え、守ってくれる」という母親のイメージ(=聖母マリア、菩薩)と共に、「束縛する」「飲み込んでしまう」という恐ろしいイメージ(=魔女、山姥)も内包している。欧米のキリスト教社会では青年期(13-19歳ごろ)にグレートマザーと対決をして打ち勝つ、つまり心の中での「母親殺し」が求められ、その後に漸く一人前になれる、すなわち主体性を持つ強い自我を確立出来るのだ。しかし日本人の場合、「母親殺し」(母離れ)が出来ない、精神的に一人前になれない「永遠の少年」(=プエル・エテルヌス。ギリシャにおけるエレウシースの秘儀の少年の神イアカスを指す。大地母神の力を背景に、いつも若返って成年に達することのない穀物と再生の神)が多い、とユング心理学の権威・河合隼雄は指摘する。キリスト教は父性原理が強いのに対し(神も”父”)、わが国の男子はグレートマザー太母)の強力な作用を受け、それとの一体感を支えとして生きているのである(母性の優位性)。

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「銀河鉄道999」の主人公・星野哲郎は謎の美女メーテルに死んだ母の面影を見出し、彼女に向かって「お母ちゃん!」と叫ぶわ、「君さえよかったら・・・一緒に暮らして欲しいんだ」と愛の告白をするわ、エディプス・コンプレックスここに極まれりという印象である。非常に日本人的感性であり、自我を確立したキリスト教徒には受け入れ難いであろう(実際に欧米では人気がない)。精神科医・土居健郎はその著書「甘えの構造」の中で、「甘える」という行為がいかに日本人の心性にとって大切であり、大きい役割を担っているかを説いている。一方、英語にはこの「甘える」という言葉にぴったりした表現がない。また劇場版第2作「さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅」ではギリシャ悲劇「オイディプス王」をなぞるように「父親殺し」が実行される。一方、メーテルの「母親殺し」はエレクトラ・コンプレックスで説明がつく。

松本零士はメーテルという名前の由来を「青い鳥」の作者メーテルリンクと、ラテン語で「母親」を意味するマーテルmaterだと語っている(因みにギリシャ語ではメーテールとなる)。また松本が17歳の時に観たフランス映画「わが青春のマリアンヌ」(1955)のヒロイン像がメーテルに投影されている(松本へのインタビュー記事はこちら)。原作の題名は「痛ましきアルカディア」、両者を合わせると「わが青春のアルカディア」となる。そしてテレビ放送の際マリアンヌを吹き替えたのが池田昌子で、松本はメーテルの声に彼女を指名した。

松本零士が企画の途中から参加したアニメ「宇宙戦艦ヤマト」は滅亡の危機に瀕する地球を、イスカンダル星最後の女王スターシャに救ってもらうというお話である。このスターシャも明らかにグレートマザー太母)のイメージだ。おまけにヤマトがイスカンダルに到着した時、スターシャは古代進の兄・守と契りを交わし、娘を身籠っている。文字通り””なのだ。松本零士は紛うことなき「エディプス・コンプレックスの作家」なのである。宮川泰が「ヤマト」のために作曲した女声スキャットによる”無限に広がる大宇宙”は、母親が赤ちゃんをあやす時の「子守唄」である。

では松本零士が一時期アシスタントを務めたこともある「漫画の神様」こと、手塚治虫の場合はどうだろう?「ブラック・ジャック」を原作に映画「瞳の中の訪問者」を撮った大林宣彦監督は手塚のことを「シスター・コンプレックスの作家」と看破している。シスター・コンプレックスとは「姉妹に対する恋愛的感情」や「自分のものにしたい独占欲」のある兄のことを言う(手塚には実際、妹がいた)。これは現在のヲタク文化における「萌え」に繋がっている。手塚最初期の「ロストワールド〈前世紀〉」(”私家版”を手塚は中学生の時に描いた)に登場する植物人間あやめ・もみじとか、「鉄腕アトム」の妹ウラン、「ブラック・ジャック」のピノコがその典型と言えるだろう。ちなみに「ロストワールド」の主人公・敷島健一(ケン一)と植物人間のあやめは物語の最後にママンゴ星に取り残され、そこで「義兄妹の誓い」を結び、ふたりだけで生きていこうと決心する。とここまで書いてきてあることに気がついた。それは「ロストワールド」と「崖の上のポニョ」の類似性である(筆者のポニョ論はこちら)。だってケン一×あやめと、宗助×ポニョの間に将来生まれるだろう子供はどちらも「新人類」であり、現在の人間とはDNAが異なるわけだから。

手塚漫画には全くエディプス・コンプレックスの要素がない。手塚治虫の曽祖父は漫画「陽だまりの樹」に書かれているように蘭学医であった。祖父は司法官であり、関西法律学校(現在の関西大学)の創設者の一人である。治虫本人も漫画を書く傍ら現在の大阪大学医学部を卒業し、医学博士を取得している。西洋合理主義的思考が優位の環境で育ったわけだ。そして幼少期からディズニー映画に夢中になった。「ジャングル大帝」の元ネタは「バンビ」だし、「鉄腕アトム」も「ピノキオ」に基いている。また彼が5歳の時、現在の宝塚市に移り住んだことも大きいだろう。母親に連れられて観た宝塚歌劇のイメージは後に「リボンの騎士」として結実する。少女歌劇は男役の格好よさが命であり、マザコンとは無縁の世界なのである。因みに宝塚歌劇の原点は1926-27年に視察団がパリで観た「パラディ・ラタン」や「ムーラン・ルージュ」などのレビューである。

さて、その手塚治虫が亡くなった1989年、「Comic Box」追悼号で手塚の徹底批判をした男がいる。誰あろう宮﨑駿である。その全文は→こちら!なかなか激烈な文章だが、宮崎が言いたいことを要約するとこうなる。「ぼくは【アニメーション作家】としての手塚治虫を絶対に認めない。しかし【漫画家】手塚治虫からは多大な影響を受けた。その呪縛から抜け出すために18歳の時にそれまで書いた漫画を全て焼き捨てた」この行為は「父親殺し」ならぬ、ズバリ「手塚殺し」である。手塚を100%否定することでアニメーターとしての自己を確立出来た。つまり宮﨑駿は手塚治虫コンプレックスをこの儀式により、克己したのだと言えるだろう。

宮崎アニメは「父親殺し」且つ「母親殺し」を基本としてきた。「未来少年コナン」は両親がいないし、「ルパン三世カリオストロの城」のヒロイン・クラリスも然り。「風の谷のナウシカ」は最初から母が無く、序盤で父親が殺される。「天空の城ラピュタ」のパズーとシータは孤児であり、「魔の女宅急便」のキキの両親は彼女が旅立った後、音信不通となる。「千と千尋の神隠し」の両親は食欲にしか興味のない外道であり、豚に成り下がる。「崖の上のポニョ」の宗介とポニョは二人っきりで今後生きていくことになる。さらに「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」で宮崎が書いた歌詞は「この道をずつといけば、故郷(ふるさと)に続いている。でも僕は行かないさ。ひとりぼっち恐れずに、生きてみようと夢みてた。寂しさ押し込めて、強い自分を守っていこう」宮崎アニメの主人公たちは独立心が強靭で、逞しい。この精神が宮崎に私淑するジョン・ラセターにより、ディズニーの「アナと雪の女王」に引き継がれた。

さて話を「銀河鉄道999」に戻そう。本作は宮沢賢治の小説「銀河鉄道の夜」にインスパイアされている。では宮沢賢治はどうだったのか?結核で亡くなった妹トシへの想い(詩「永訣の朝」)で分かる通り、賢治はシスター・コンプレックスの作家である(ジョバンニとカンパネルラの関係は、賢治とトシのそれに読み替えることが出来る)。「銀河鉄道の夜」は途中でタイタニック号の乗客が登場し、賛美歌が流れる場面がある。賢治の世界はハイカラで洗練されている。それを「銀河鉄道999」として換骨奪胎し、エディプス・コンプレックスに基づく泥臭い純日本風に読み替えた松本零士の戦略はしたたかであり、実にユニークだ。この作品を通して「日本人の心」が見えてくるのである。

Sayonara

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【増補改訂版】「君の名は希望」〜作詞家・秋元康を再評価する

秋元康は今や億万長者(「グローバルウェルス・レポート 2015」によると資産50億円〜100億円未満)であり、日本で最も成功した音楽プロデューサーである。だからやっかみ半分、彼のことを「守銭奴」と罵り、その体型から「秋豚」呼ばわりする者たちも世間には少なからずいる。もともと彼の本業は「放送作家」「作詞家」であるが、その側面は忘れられがちである。

2014年の段階で彼が作詞したのは4000曲以上、AKB48グループだけに限っても1000曲を超えている。その事実を知っている人は恐らく少ないのではないか?CDシングルだけではなくカップリング曲、劇場公演曲(アンコールまで含めると1公演につき16曲)も全て秋元康が作詞しているのである。一体、この情熱は何処から来るのか?少なくとも「金儲け」のためだけなら、こんな芸当が出来る筈もない。ある程度は他者に任せればいいわけだから。

そこで「作詞家」秋元康を正当に評価してあげようよ、というのが今回の企画である。

僕の考える秋元康による作詞ベスト12を挙げてみよう。各々のタイトルをクリックすれば歌詞に飛べるよう仕組んである。

  1. サイレントマジョリティー(欅坂46)
  2. 君の名は希望(乃木坂46)
  3. 鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの(AKB48)
  4. 世界には愛しかない(欅坂46)
  5. キレイゴトでもいいじゃないか?(HKT48研究生)
  6. てもでもの涙(AKB48 チームB 3rd Stage「パジャマドライブ」)
  7. バレッタ(乃木坂46)
  8. 風は吹いている(AKB48)
  9. 前のめり(SKE48)
  10. 夕陽を見ているか?(AKB48)
  11. キリギリス人(ノースリーブス)
  12. 森へ行こう(AKB48 ひまわり組 2nd Stage「夢を死なせるわけにいかない」)

サイレントマジョリティー」については下記記事をお読みください。

2015年大晦日、NHK紅白歌合戦に初出場した乃木坂46が歌ったのは「君の名は希望」だった。2013年3月に発売されたシングル曲。秋元本人もよほどこれを気に入っているのだろう、NHKで土曜の夜に放送されている「AKB48 SHOW !」の番外編として「乃木坂46 SHOW !」というのが時たま不定期に放送されるのだが、その第1回目と第2回めに続けてこの曲が歌われたのである。他に紹介されていないシングル曲が幾つもあるのに。……一人称の「僕」は自分に閉じこもりがちな教室で孤立した少年である。そんな彼が学校のグラウンドで「君」と出会い、その瞬間陽の光が差し込む。秋元が冴えているときは歌詞の情景をきちんと絵として思い浮かべる事が出来る。そういう意味で「君の名は希望」は紛うことなき最高傑作、神曲である。「僕」=オタク、「君」=アイドルと読み替えることも出来る。奥が深い。

情景(絵)が見えるという意味では「てもでもの涙」もそう。《降り始めた細い雨が/銀色の緞帳を/下ろすように/幕を閉じた/それが私の初恋》《声も掛けられないまま/下を向いたら/紫陽花も泣いていた》とか素敵じゃない?季節感があり、美しい日本語だ。「てもでも」という語感もリズムがあって良い。歌を聴いたらその意味が判る仕掛けになっている。2009年「AKB48リクエストアワー セットリスト ベスト100」(以下「リクアワ」と略す)第3位。また「君の名は希望」も「てもでもの涙」も歌詞の中に英語を用いず、日本語だけで勝負していることも特筆に値するだろう。現在日本のアイドル・ソング、ポップ・ミュージックの中では希少である。

鈴懸なんちゃら」(2015年「リクアワ」第1位)についてはまずタイトルの長さが尋常じゃない。気合い入りまくり。じゃんけん大会で優勝した松井珠理奈に対する秋元の愛情が溢れ、常軌を逸している。また珠理奈をデビューさせた「大声ダイヤモンド」と「鈴懸」を続けて聴くとキモさ倍増、鳥肌(さぶいぼ)が立つ。でもそこがいい。谷崎潤一郎や江戸川乱歩の小説を読めば分かるが、変態的性格から芸術が生まれることはあるのだ。それが作家性である。ベルリオーズ作曲「幻想交響曲」なんかもそう。内容は完全なストーカーである。「鈴懸なんちゃら」と「バレッタ」の変態性については下の記事で詳しく論じたのでそちらをお読みください。

世界には愛しかない」は2016年8月10日に発売される欅坂46の2nd シングルである。まずポエトリー・リーディングという斬新な手法に度肝を抜かれた!秋元康の本気を感じる。歌詞中の「僕」=秋元、「君」=欅坂のセンター・平手友梨奈と置き換えて眺めれば、その本質が見えてくるだろう。つまりこれは秋元の、紛れもない愛の告白である。そういう意味で「鈴懸なんちゃら」に近い作品と言えるだろう。僕は《もう少ししたら/夕立が来る》というフレーズにグッと来た。過去を振り返る傾向が強い日本の歌謡曲の中で、珍しい未来志向の楽曲である。躍動感に溢れ、瑞々しい。

個人的な話になるが、前の職場でどうしても納得出来ないことがあり、上司に対して「それは間違っている」と徹底的にNOを突きつけた。そしてそこを辞め、今の仕事に就いた。揉めている時に「キレイゴトでもいいじゃないか ?」(2014年「リクアワ」第8位)を繰り返し聴き、大いに勇気付けられた。《恥をかくために/生きている》という言葉が心に刺さる。アイドルって人々に勇気や希望を与えるのが本来与えられた役割なんじゃないかな?そういう意味で秋元康には本当に感謝している。僕はいま、幸せである。むしろあの時、自分が正しいと思うことを言っていなければ後悔しただろう。

風は吹いている」も人々に希望を与える歌だ。東日本大震災の年に創られた復興支援ソング。この歌詞は熱い。《この変わり果てた/大地の空白に/言葉を失って/立ち尽くしていた》《前を塞いでる/瓦礫をどかして/いまを生きる》こんな内容、アイドルが歌う範疇を遥かに超越している。衝撃的であった。

AKB48グループは2011年の震災直後から被災地訪問活動を行っている。6名のメンバーが交代交代に毎月一回足を運び、現地で無料のミニ・コンサートをする。しかも前田敦子(卒)・大島優子(卒)・渡辺麻友・柏木由紀といった人気メンバーも参加して。このプロジェクトは5年経過した現在も継続されている。考えてみて欲しい。2016年までずーっと無償の訪問活動を行っているアイドル・グループ、ミュージシャンが他にいる?継続は力なり。カネ目当てとか売名行為なんかじゃ決してない。僕はそこに秋元康の強い使命感を見る。

前のめり」は2015年8月にSKE48を卒業した松井玲奈への餞として書かれたシングル曲。「かすみ草」を自称する玲奈に対して、「い や、君はひまわりだよ」と言ってあげるところに秋元の優しさを感じる。非常にpositive thinkingな内容だ。人生、いくらでもやり直せるという気持ちになれる。

夕陽を見ているか?」は2007年のシングル。これを書いた時、秋元は「絶対売れる!」と確信していたという。しかしその自信とは裏腹に全く売れなかった。しみじみとしたバラードで、長年ファンから愛され続けている心がほっこりする名曲だ。

キリギリス人」に僕が深く共感するのは、結局カルペ・ディエムCarpe Diem(=「その日を摘め」「一日の花を摘め」)について語っているからである。つまり「将来に備えやせ我慢して蓄えよう」なんてくだらないことを考えず、「今を生きろ」ということ。これはメメント・モリMemento Mori(=「死を想え」「死を記憶せよ」)に繋がる。詳しくは下の記事で論じた(図説付き)。

森へ行こう」は国民的アイドルになってしまった今のAKB48に対して絶対書けない曲。ダークな世界観で、「本当は恐ろしいグリム童話」とかミュージカル「イントゥ・ザ・ウッズ」、ティム・バートンの映画を彷彿とさせるものがある。秋元康ってこういう一面があったんだ!と新たな発見がきっとある筈。

たかがアイドル、されどアイドル、なんてったってアイドルである。

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2016年7月 6日 (水)

三谷文楽「其礼成心中」@大阪初演

三谷幸喜が台本を執筆した文楽「其礼成心中(それなりしんじゅう)」を森ノ宮ピロティホールで鑑賞。

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僕は2014年に京都公演を観ている。その時のレビューはこちら。待望の大阪公演(初演)である。近松門左衛門の「曾根崎心中」は大阪が舞台であり、現在大阪市日本橋に国立文楽劇場があるのは御存知の通り。

文楽人形「みたに君」が前説を述べるというスタイルは京都公演同様だが、阪神戦の始球式で登板したこと(その様子はこちら)、人間以外が投げるのは「ふなっしー」以来2人目かなと思っていたら、くまモンや貞子も投げていた等と語った。

休憩なし2時間、コンパクトに纏まっており、伏線の張り方が巧みで最後まで飽きさせない。秀逸な「曾根崎心中」のパロディである。戯作者・近松門左衛門も登場するのが実に愉快だ。これだけ面白ければ文楽ファンも増えるだろう。三谷幸喜には是非第二弾にも取り組んで貰いたい。

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映画「ブルックリン」

アイルランドの女優シアーシャ・ローナンを初めてスクリーンで観たのは「つぐない」(2007)だった。当時13歳。これで米・英のアカデミー助演女優賞にノミネートされた。その後「ラブリーボーン」(2009)、「ビザンチウム」(2012)、「グランド・ブタペスト・ホテル」(2014)等で彼女の成長を見守ってきた。早いもので今や22歳である。

映画「ブルックリン」でシアーシャはアカデミー主演女優賞にノミネート。ほか作品賞、脚色賞候補になった。公式サイトはこちら

ニューヨーク市ブルックリン区はマンハッタン島から橋で渡った所に位置する。ユダヤ人が多い地区だが、アイルランドやイタリアからの移民も多数住んでいるという。バーブラ・ストライザンドやメル・ブルックスらがブルックリン出身である。

2001年8月(同時多発テロの1ヶ月前)、僕は1週間ニューヨークに滞在した。「オペラ座の怪人」やメル・ブルックス(製作・脚本・作詞・作曲)の「プロデューサーズ」などミュージカルを観劇するのが目的だった。その時、ブルックリンにも訪れた。世界一美味しいと言われるステーキハウス「ピーター・ルーガー」で食事をするためである。タイムズスクエアにある滞在先のホテルからタクシーに乗ろうとしたのだが、行き先を告げると4台に乗車拒否された。「そんなに治安が悪いのか!?」とびっくりしたものだ。ちなみに「ピーター・ルーガー」の肉は評判通り絶品だった。

評価:A

Brooklyn

実は上のポスターはラストシーンのスチール写真である。正に「陽だまりの彼女」という感じ。映画を最後まで観てこの場面が来ると、本当に感動する。

アイルランドから移民としてアメリカのブルックリンに単身やって来たヒロイン。彼女にはイタリア系の恋人が出来る。ジョン・フォード監督「静かなる男」(アイルランドで撮影)の話題が会話に登場し、デートで「雨に唄えば」を観たりするので、1952年の出来事だと分る。同じ寮に住む女の子たちから「どうやったら服にソースを飛び散らさずにスパゲッティを食べることが出来るか」を指南される場面は爆笑ものである。

そうこうしている内に観客には自然と「彼女には是非幸せになって貰いたい!」という(祈りにも似た)気持ちが沸き起こってくるのである。これもシアーシャの人徳だろう。彼女の演技を観るためだけにでも映画館に足を運ぶ価値がある。

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2016年7月 4日 (月)

《宝塚便り》六甲高山植物園

宝塚市から車で30分で、六甲山山頂まで行ける。現在六甲高山植物園ではニッコウキスゲが見頃である。

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僕にとってニッコウキスゲと言えば尾瀬湿原に群生する風景なのだが、関西には自生地がないそうだ。ここではなんと2,000株の群落があるという。中々見応えがあった。

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また紫陽花や、エーデルワイスも咲いていた。

植物園の近くにはオルゴール館があり、六甲山牧場ではチーズフォンデュやラクレットを味わえる。お薦めです。

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2016年7月 1日 (金)

国立音楽大学 選出「音大生なら聴いておきたい100曲」

国立音楽大学の音楽学系講義を担当する教師たちが作成した「音大生なら聴いておきたい100曲」リストはこちら。非常に興味深い選曲だ。

フェリックス・メンデルスゾーンの姉ファニーの作品が入っているのにはびっくりした。他にヒルデガルト・フォン・ビンゲン、セシル・シャミナードら、女性作曲家を無理やり入れたという印象。だって一人もリストにいなかったら「女性差別だ!」と非難されるでしょう。

突っ込みどころは色々ある。

  • バロック時代のフランスを代表するフランソワ・クープランが入っていないけれど、重要じゃないの?フランスの作曲家ならシャミナードの方が優先されるべき??
  • ベートーヴェンの弦楽四重奏曲なら第14番、ヴァイオリン・ソナタなら第9番「クロイツェル」、ピアノ・ソナタなら後期の30-32番が最高傑作では?
  • ワーグナーが2曲も入っているのにどうしてヴェルディは1曲?「道化師」「カヴァレリア・ルスティカーナ」などヴェリズモ・オペラは無視ですか。
  • エルガーなら「威風堂々」ではなく、断然チェロ協奏曲でしょう!
  • マーラーは何故、交響曲第1番「巨人」なの?僕だったら円熟期の第5番か第9番を選ぶけど。
  • 「ウエストサイド物語」はブロードウェイ・ミュージカルなのにクラシック音楽ですか?ミュージカルが可ならスティーヴン・ソンドハイムが作曲した楽曲(「リトル・ナイト・ミュージック」「スウィーニー・トッド」「イントゥ・ザ・ウッズ」等)もあって当然。それからコープランドやバーバーが入っていないけれど、アメリカの作曲家の中でレナード・バーンスタインの方が重要??
  • ショスタコーヴィチでは、プラウダ批判をかわすためにソビエト共産党に迎合して作曲されたプロパガンダ音楽・交響曲第5番をどうして選ぶ?あまりにも通俗的(小中学校の音楽の授業じゃあるまいし)。Dmitri SCHostakowitchのイニシャルからとったDS(Es)CHの音形(レ・ミ♭・ド・シ)が重要なモチーフ(モノグラム)として用いられている交響曲第10番、ヴァイオリン協奏曲第1番、弦楽四重奏曲第8番辺りが相応しいのでは?
  • ヴィオラ曲が皆無だから、せめてヒンデミットのヴィオラ・ソナタを入れて欲しかった。
  • それからムソルグスキー「展覧会の絵」はピアノ原曲ですか?それともラヴェル編曲の管弦楽版?

「国立音楽大学のレベルは所詮、この程度か」というのが率直な感想。特にショスタコの5番を選んだ先生の名前を是非知りたい。そのセンスの無さを酒の肴にしたいから。

このリストについて、「私ならこの曲は外せない」等、皆さんのご意見をコメント欄で是非お聞かせください。大いに語り合いましょう。

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