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【増補改訂版】松本零士「銀河鉄道999」とエディプス・コンプレックス〜手塚治虫/宮﨑駿との比較論

大阪桐蔭高等学校吹奏楽部はコンサートのアンコールで「銀河鉄道999」を演奏するのが定番である。僕はこれが本当に大好きで、たまに演奏されないことがあると「クリープを入れないコーヒーなんて…」と気分が落ち込んでしまう。パフォーマンスは勿論のこと、なにより樽屋雅徳による卓越したアレンジが素晴らしい。ゴダイゴの原曲を超越している。しかし実は今までアニメを観たことがなかった(原作漫画も)。元々、松本零士の絵が好みではなく無視していたのだ。ゴダイゴの歌が流れるのは劇場版だけでTV版の主題歌は異なることも今回調べてみて初めて知った。

また2009年にブザンソン指揮者コンクールで優勝した山田和樹氏(現スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者)は次のようにツィートしている。

ここまで言われたらほっとけないだろう。早速DVDを借りて観て、驚いた。

999

「銀河鉄道999」は明々白々、エディプス・コンプレックス(マザー・コンプレックス)の物語である。エディプス・コンプレックスとは元々フロイトが提唱した言葉で、ギリシャ悲劇「オイディプス王」に基いている(コンプレックス=心的複合体)。物語を詳しく知りたい方はこちらをご覧あれ。身も蓋もない言い方をすれば、幼少期から男の子が抱く「お母ちゃんとヤりたい」という性的欲求・願望である。一方、女性が生来父親に対して持つ感情は(やはりギリシャ悲劇由来の)エレクトラ・コンプレックスとして区別するが、両者を包括してエディプス・コンプレックスと言われることもある。

何でも性的なものに結びつけようとするフロイトに反発心を持ち、袂を分かったユングは独自の理論を構築した。彼は人の普遍的(集合的)無意識の領域に元型(げんけい)があると考え、グレートマザー太母)を想定した。これは「無条件の愛を与え、守ってくれる」という母親のイメージ(=聖母マリア、菩薩)と共に、「束縛する」「飲み込んでしまう」という恐ろしいイメージ(=魔女、山姥)も内包している。欧米のキリスト教社会では青年期(13-19歳ごろ)にグレートマザーと対決をして打ち勝つ、つまり心の中での「母親殺し」が求められ、その後に漸く一人前になれる、すなわち主体性を持つ強い自我を確立出来るのだ。しかし日本人の場合、「母親殺し」(母離れ)が出来ない、精神的に一人前になれない「永遠の少年」(=プエル・エテルヌス。ギリシャにおけるエレウシースの秘儀の少年の神イアカスを指す。大地母神の力を背景に、いつも若返って成年に達することのない穀物と再生の神)が多い、とユング心理学の権威・河合隼雄は指摘する。キリスト教は父性原理が強いのに対し(神も”父”)、わが国の男子はグレートマザー太母)の強力な作用を受け、それとの一体感を支えとして生きているのである(母性の優位性)。

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「銀河鉄道999」の主人公・星野哲郎は謎の美女メーテルに死んだ母の面影を見出し、彼女に向かって「お母ちゃん!」と叫ぶわ、「君さえよかったら・・・一緒に暮らして欲しいんだ」と愛の告白をするわ、エディプス・コンプレックスここに極まれりという印象である。非常に日本人的感性であり、自我を確立したキリスト教徒には受け入れ難いであろう(実際に欧米では人気がない)。精神科医・土居健郎はその著書「甘えの構造」の中で、「甘える」という行為がいかに日本人の心性にとって大切であり、大きい役割を担っているかを説いている。一方、英語にはこの「甘える」という言葉にぴったりした表現がない。また劇場版第2作「さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅」ではギリシャ悲劇「オイディプス王」をなぞるように「父親殺し」が実行される。一方、メーテルの「母親殺し」はエレクトラ・コンプレックスで説明がつく。

松本零士はメーテルという名前の由来を「青い鳥」の作者メーテルリンクと、ラテン語で「母親」を意味するマーテルmaterだと語っている(因みにギリシャ語ではメーテールとなる)。また松本が17歳の時に観たフランス映画「わが青春のマリアンヌ」(1955)のヒロイン像がメーテルに投影されている(松本へのインタビュー記事はこちら)。原作の題名は「痛ましきアルカディア」、両者を合わせると「わが青春のアルカディア」となる。そしてテレビ放送の際マリアンヌを吹き替えたのが池田昌子で、松本はメーテルの声に彼女を指名した。

松本零士が企画の途中から参加したアニメ「宇宙戦艦ヤマト」は滅亡の危機に瀕する地球を、イスカンダル星最後の女王スターシャに救ってもらうというお話である。このスターシャも明らかにグレートマザー太母)のイメージだ。おまけにヤマトがイスカンダルに到着した時、スターシャは古代進の兄・守と契りを交わし、娘を身籠っている。文字通り””なのだ。松本零士は紛うことなき「エディプス・コンプレックスの作家」なのである。宮川泰が「ヤマト」のために作曲した女声スキャットによる”無限に広がる大宇宙”は、母親が赤ちゃんをあやす時の「子守唄」である。

では松本零士が一時期アシスタントを務めたこともある「漫画の神様」こと、手塚治虫の場合はどうだろう?「ブラック・ジャック」を原作に映画「瞳の中の訪問者」を撮った大林宣彦監督は手塚のことを「シスター・コンプレックスの作家」と看破している。シスター・コンプレックスとは「姉妹に対する恋愛的感情」や「自分のものにしたい独占欲」のある兄のことを言う(手塚には実際、妹がいた)。これは現在のヲタク文化における「萌え」に繋がっている。手塚最初期の「ロストワールド〈前世紀〉」(”私家版”を手塚は中学生の時に描いた)に登場する植物人間あやめ・もみじとか、「鉄腕アトム」の妹ウラン、「ブラック・ジャック」のピノコがその典型と言えるだろう。ちなみに「ロストワールド」の主人公・敷島健一(ケン一)と植物人間のあやめは物語の最後にママンゴ星に取り残され、そこで「義兄妹の誓い」を結び、ふたりだけで生きていこうと決心する。とここまで書いてきてあることに気がついた。それは「ロストワールド」と「崖の上のポニョ」の類似性である(筆者のポニョ論はこちら)。だってケン一×あやめと、宗助×ポニョの間に将来生まれるだろう子供はどちらも「新人類」であり、現在の人間とはDNAが異なるわけだから。

手塚漫画には全くエディプス・コンプレックスの要素がない。手塚治虫の曽祖父は漫画「陽だまりの樹」に書かれているように蘭学医であった。祖父は司法官であり、関西法律学校(現在の関西大学)の創設者の一人である。治虫本人も漫画を書く傍ら現在の大阪大学医学部を卒業し、医学博士を取得している。西洋合理主義的思考が優位の環境で育ったわけだ。そして幼少期からディズニー映画に夢中になった。「ジャングル大帝」の元ネタは「バンビ」だし、「鉄腕アトム」も「ピノキオ」に基いている。また彼が5歳の時、現在の宝塚市に移り住んだことも大きいだろう。母親に連れられて観た宝塚歌劇のイメージは後に「リボンの騎士」として結実する。少女歌劇は男役の格好よさが命であり、マザコンとは無縁の世界なのである。因みに宝塚歌劇の原点は1926-27年に視察団がパリで観た「パラディ・ラタン」や「ムーラン・ルージュ」などのレビューである。

さて、その手塚治虫が亡くなった1989年、「Comic Box」追悼号で手塚の徹底批判をした男がいる。誰あろう宮﨑駿である。その全文は→こちら!なかなか激烈な文章だが、宮崎が言いたいことを要約するとこうなる。「ぼくは【アニメーション作家】としての手塚治虫を絶対に認めない。しかし【漫画家】手塚治虫からは多大な影響を受けた。その呪縛から抜け出すために18歳の時にそれまで書いた漫画を全て焼き捨てた」この行為は「父親殺し」ならぬ、ズバリ「手塚殺し」である。手塚を100%否定することでアニメーターとしての自己を確立出来た。つまり宮﨑駿は手塚治虫コンプレックスをこの儀式により、克己したのだと言えるだろう。

宮崎アニメは「父親殺し」且つ「母親殺し」を基本としてきた。「未来少年コナン」は両親がいないし、「ルパン三世カリオストロの城」のヒロイン・クラリスも然り。「風の谷のナウシカ」は最初から母が無く、序盤で父親が殺される。「天空の城ラピュタ」のパズーとシータは孤児であり、「魔の女宅急便」のキキの両親は彼女が旅立った後、音信不通となる。「千と千尋の神隠し」の両親は食欲にしか興味のない外道であり、豚に成り下がる。「崖の上のポニョ」の宗介とポニョは二人っきりで今後生きていくことになる。さらに「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」で宮崎が書いた歌詞は「この道をずつといけば、故郷(ふるさと)に続いている。でも僕は行かないさ。ひとりぼっち恐れずに、生きてみようと夢みてた。寂しさ押し込めて、強い自分を守っていこう」宮崎アニメの主人公たちは独立心が強靭で、逞しい。この精神が宮崎に私淑するジョン・ラセターにより、ディズニーの「アナと雪の女王」に引き継がれた。

さて話を「銀河鉄道999」に戻そう。本作は宮沢賢治の小説「銀河鉄道の夜」にインスパイアされている。では宮沢賢治はどうだったのか?結核で亡くなった妹トシへの想い(詩「永訣の朝」)で分かる通り、賢治はシスター・コンプレックスの作家である(ジョバンニとカンパネルラの関係は、賢治とトシのそれに読み替えることが出来る)。「銀河鉄道の夜」は途中でタイタニック号の乗客が登場し、賛美歌が流れる場面がある。賢治の世界はハイカラで洗練されている。それを「銀河鉄道999」として換骨奪胎し、エディプス・コンプレックスに基づく泥臭い純日本風に読み替えた松本零士の戦略はしたたかであり、実にユニークだ。この作品を通して「日本人の心」が見えてくるのである。

Sayonara

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