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宗教映画としてのスピルバーグ「未知との遭遇」(ユング的心理分析の試み)

映画館で初めて観たスティーヴン・スピルバーグ監督の映画は「未知との遭遇 特別編」だった。1980年公開当時、僕は中学生。原作本(ノベライゼーション)も読んでいて、クライマックスでは何か崇高なものに触れた畏怖の念を抱いた。正に宗教的体験だったのだが、幼い僕にはそれを言語化する能力を持ち合わせていなかったし、知識もなかった。

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その後スピルバーグが監督する映画は1本も欠かさず全て映画館で観てきた。しかし彼の代表作を挙げるとしたら、やはり「未知との遭遇」や「E.T.」(1982)など初期の作品に絞られる。逆にワーストといえば「オールウェイズ」と「フック」のワン・ツー・フィニッシュだ。

スピルバーグ自らがシナリオを執筆したのは「未知との遭遇」と、故スタンリー・キューブリックの遺志を継いだ「A.I.」(2001)のみ。実はこの2作品にはある共通項がある。「ピノキオ」からの引用である。

「未知との遭遇」の主人公ロイは子どもたちに「ディズニーの『ピノキオ』を観に行こう!」と熱心に誘う。さらに特別編エンド・クレジット後半には「ピノキオ」の主題歌「星に願いを」の旋律が流れる。

「A.I.(人工知能)」の主人公デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)は鉄腕アトムみたいな少年型ロボットだが、海底に沈んだコニーアイランド(遊園地)に行き、ブルー・フェアリーに人間にして欲しいと願う。これはピノキオのプロットに則している。また旅の途中で捕われ、ロボットを破壊して楽しむショーの見世物にされかけるエピソードはピノキオがサーカス(人形一座)に売り飛ばされる場面に相当する(「鉄腕アトム」にもある)。因みに手塚治虫は漫画版「ピノキオ」を描いている。余談だがスピルバーグ製作総指揮のテレビ・ドラマ「エクスタント」は「A.I.」の姉妹編である。

旧約聖書によると、神は自分に模して人間を創ったという。つまりゼペット爺さんとピノキオの関係は【創造主とアダム】のメタファーである(天馬博士と鉄腕アトムもそう)。ピノキオを誘惑する狐と猫は、蛇の姿を借りてアダムとイヴに知恵の実(りんご)を食べるよう唆すサタン(悪魔)そのものである。またピノキオ同様に旧約聖書「ヨナ記」の預言者ヨナは大きな魚に呑み込まれ、その体内で三日三晩を過ごした後、生還する。魚の種類は特定されていない。原作小説「ピノッキオの冒険」で主人公が呑み込まれるのは、鯨ではなく鮫である。

「未知との遭遇」のロイはデビルスタワーと呼ばれる山でマザーシップと第三種接近遭遇(Close Encounters of the Third Kind=映画の原題)を果たし、UFOに乗り込んで地球を旅立つ。これは旧約聖書に書かれた、モーゼがシナイ山に於いて神から十戒を授かる場面の再現である。つまりマザーシップ=神なのだ。ロイの子供たちがテレビでセシル・B・デミル監督の映画「十戒」を観ている場面が登場するのは決して偶然ではない。なお後に、スピルバーグの設立した映画会社ドリームワークスはモーゼの出エジプト記を「プリンス・オブ・エジプト」というアニメーションにしている。スピルバーグはユダヤ人であり、ユダヤ教の聖典が旧約聖書であることは言うまでもない。

さて、河合隼雄(著)「無意識の構造」(中公新書)の中でスイスの心理学者ユングが唱えた「心の構造」が解説されている。ユングは心を層構造に分けて考えた。まず「意識」の中心に自我があり、その下に「個人的無意識」(一度は意識されながら忘れられたもの+自我がその統合性を守るために抑圧したもの)がある。さらに奥底に、人類一般に共通の「普遍的(集合的)無意識」がある。そして「個人的無意識」と「普遍的(集合的)無意識」の間に、ある家族に特徴的な(家族的無意識)や、ある文化圏に共通して存在する(文化的無意識)を考えることも出来る。

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民族や文化の違いを超えて広がった神話や宗教はこの普遍的無意識の産物とも言える。また【意識+無意識】の中心=自己という関係式が成り立つ(自我と自己はイコールでない)。

ユングはフロイトと意見が対立し、40歳近い時に独自の道を歩む決意をした。その時、彼は大きな不安に襲われた。1912年頃よりユングは自分の無意識の世界と対決をはじめ、凄まじいヴィジョンと夢に悩まされる。そして1916年に最初の曼荼羅図形を書いた。

Mandala

後に彼は中国研究の権威リヒャルト・ヴィルヘルムからチベット仏教の曼荼羅を紹介され、自分が書いたものと余りにも似ていることに驚いた。

Mandala2

ユングはこの曼荼羅こそ自己の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型であると考えた。

20世紀に入り、自然科学の目覚ましい発展により近代人の意識は啓蒙的、合理的傾向が強くなり、ここに「神秘的」救済を求めることが出来なくなった。「神は死んだ」とニーチェは言い、神話を本気で信じる人はいなくなった。ユングはその著書「空飛ぶ円盤」の中で次のような説を唱える。人々の無意識内にある全体性の回復の望みは、天空に投影され、UFOを出現せしめたのではないか?つまりUFO=元型(シンボル)であると。「この元型が伝統的な形姿をとらず即物的なしかも工学的な形をとったのは、神話的な人格化を嫌う現代にあってまことに象徴的といえるだろう。(中略)流行遅れの観念も、宇宙飛行の可能性によって受け入れやすいものになる」

僕はハッとした。そうか、「未知との遭遇」のマザーシップは曼荼羅だったのだ!考えてみればデザインもそっくりである。

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だから旧約聖書の神は巨大な円盤の形で現代に現れたのであろう。興味深いのは聖書に登場する神が男性(”天にまします我らのよ…”)なのに対し、「未知との遭遇」の神はMothershipであり、「A.I.」のデイビッド少年が最後にひと時を過ごすのも母親であるというのが、「E.T.」など父親不在の映画を撮り続けてきたスピルバーグらしい。

ところでここまで考察を進めてきて気が付いたことがある。ユングの説く「心の構造」とクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」との類似性である。この映画では夢(=無意識)が3層構造に分けられる。そのさらに下にあるのが虚無(limbo)であり、深く潜って行った主人公は最下層で死んだ妻(影)と共に暮らす。これは「未知との遭遇」のロイがマザーシップの中に消えていったことに呼応する。「未知との遭遇」と「インセプション」の構造は実は同一だったのである。クリストファー・ノーランは後の「インターステラー」でも「未知との遭遇」へのオマージュを捧げている。

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