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2016年6月

2016年6月30日 (木)

「ジョン・ウィリアムズの夕べ」スラットキン/フランス国立リヨン管弦楽団

6月27日(月)フェスティバルホールへ。

レナード・スラットキン/フランス国立リヨン管弦楽団によるオール・ジョン・ウィリアムズ・プログラムを聴く。

どうしてフランスのオケが映画音楽のコンサートをするのかという疑問に対して、スラットキンは次のように答えた。「リュミエール兄弟により映画(シネマトグラフ)が発明されたのはリヨンだから」世界初の実写記録映像「工場の出口」(1895)が撮影されたのもリヨンにあった兄弟の所有する工場である。ここは現在、リュミエール美術館になっている。

スラットキンはロサンゼルスで生まれた。父フェリックスは20世紀フォックス・オーケストラのコンサートマスターであり、母はワーナー・ブラザースのオケの首席チェリストで、「ジョーズ」のサウンド・トラックに参加している。また彼らはハリウッド弦楽四重奏団の創設者でもある。フランク・シナトラの伴奏を務めたこともあり、シナトラがスラットキン家を訪問した際、レナードに子守唄を歌ってくれたという。

レナード・スラットキンが1986年にセントルイス交響楽団を率いて来日公演を行った際、プログラムは通常のクラシック音楽だったのだが(ロデオ、メンコン with 五嶋みどり、ショスタコ5番)、なんとアンコールでは「ダース・ベイダーのテーマ」がサントリーホールに鳴り響いた!サービス精神が旺盛な指揮者だなと僕はすごく嬉しくなった。

さて、今回のプログラムは、

  • 「フック」ネヴァーランドへの旅立ち
  • 「ジュラシック・パーク」テーマ
  • 「ジョーズ」組曲
  • 「シンドラーのリスト」テーマ
  • 「レイダーズ 失われたアーク《聖櫃》」マーチ
  • 「E.T.」地上の冒険
       休憩
  • ロサンゼルス五輪 開会式のファンファーレとテーマ
  • 「ハリー・ポッターと賢者の石」ハリーの不思議な世界
  • 「未知との遭遇」組曲
  • 「スーパーマン」マーチ
  • 「スター・ウォーズ」組曲
    メイン・タイトル、王女レイア、帝国のマーチ(ダース・ベイダーのテーマ)
    ヨーダのテーマ、王座の間とエンド・タイトル
  • 「SAYURI(Memoirs of a Geisha)」テーマ(アンコール)
  • 「S・W ジェダイの帰還」イウォーク族のパレード(アンコール)

「ジョーズ」以外は皆、公開時に映画館で観ている。また全作サントラCDを所有。

このオケは余りトランペットが上手じゃなかった。大阪フィルと同レベル。多分N響とか読響、東響など東京のオーケストラの方が格上だろう。しかしホルンはすごく良かったし、「シンドラーのリスト」のコンサートミストレスは太い音で咽び泣き、確かな聴き応えがあった。

スラットキンの指揮は流麗でサウンドはゴージャス。「ネヴァーランドへの旅立ち」からは壮大なロマンを感じた。ホルン・ソロで始まる「ジュラシック・パーク」は気高い(noble)。僕は1993年6月19日にジョン・ウィリアムズ/ボストン・ポップス・オーケストラの来日公演でこの曲を聴いたことを想い出した。当時は岡山に住んでいて、旧フェスティバルホールまで新幹線に乗って遥々やって来たのである。「ジュラシック・パーク」が日本で公開されたのはその年の7月17日。つまり映画公開前に音楽に触れるという貴重な体験をしたのだった。

その時僕は高校吹奏楽部からの親友と一緒だった。演奏会では「E.T.」から”地上の冒険”も演奏され、その後で彼が僕の肩を叩いてそっと囁いた。「隣に座っている女の子が、聴きながら感極まって泣いていた」と。音楽って凄い!と嘆息したことを今でも鮮明に憶えている。

その友は新婚旅行から帰ってきて直ぐに慢性骨髄性白血病を発症した。アトランタ・オリンピックが開催された1996年の夏のことだった。彼は兄弟から骨髄幹細胞移植を受けることになり、僕はジョン・ウィリアムズがオリンピックのために作曲した「Summon the Heros(英雄たちを招集せよ)」のCDを入院見舞いとして病院に持参した。手術は無事成功したのだが術後感染症から敗血症に至り、結局彼は亡くなった。そんな事どもの記憶が演奏を聴きながら僕の脳裏を駆け巡った。

ロサンゼルス五輪が開催された時に僕は高校生で、うちの吹奏楽部が運動会でジョンのオリンピック・ファンファーレを演奏した。勇壮な曲。

「未知との遭遇」の前半はリゲティやペンデレツキみたいな現代音楽なのだが、後半のクライマックスはとってもロマンティック。「スーパーマン」は躍動感溢れ、「イウォーク族のパレード」は軽妙洒脱。曲調が多岐に渡るジョンの魅力をたっぷり堪能した。

クラシックの音楽家たちは未だに映画に対する偏見を根強く持っている。エリック・ウォルフガング・コルンゴルトの再評価が非常に遅れたのも「ハリウッド(大衆娯楽)に魂を売った唾棄すべき作曲家」という烙印を押されたからだし、オーケストラの定期演奏会でジョン・ウィリアムズの映画音楽が取り上げられることはない。漸くウィーン・フィルやベルリン・フィルが野外コンサートで「スター・ウォーズ」や「E.T.」を演奏する時代になったので、今後さらに状況が変化していくことを期待したい。付随音楽という意味では、バレエやオペラと何ら違いはないのだから。

ディーク・エリントンはこう言った。

音楽には2種類しかない。「いい音楽(good music)」と「それ以外(and else)」だ。

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2016年6月29日 (水)

山田和樹/バーミンガム市交響楽団@フェスティバルホール

6月26日(日)フェスティバルホールへ。

河村尚子(ピアノ)、山田和樹/バーミンガム市交響楽団で、

  • ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲
  • ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第3番
  • ラフマニノフ:前奏曲 変ト長調 23-10(ソリスト・アンコール)
  • ベートーヴェン:交響曲 第7番
  • ウォルトン:映画「ヘンリー5世」のための音楽
    〜彼女の唇に触れて別れなん(アンコール)

「オベロン」の原作は「夏の夜の夢」。今年はシェイクスピア没後400年なので、これが選ばれたのだろう(アンコールも)。柔らかくふくよかな響き。オベロンの角笛が登場する冒頭部は幻想的で、その後高速ドライブとなりコントラストが鮮明。

ラフマニノフは淡い色彩で開始される。河村のピアノは切れがあり曖昧さが皆無。鋼の左手(低音部)。クリスタルのような硬質な抒情があった。オケは豊かな歌に満ちている。これは山田が、合唱指揮者としても卓越したセンスがあることと無関係ではあるまい(現在、東京混声合唱団の音楽監督を務める)。また第3楽章には花火の煌めき(Sparkling)があった。

後半のベートーヴェンではクラシカル・ティンパニ+硬いバチを使用。オケは古典的対向配置ではなく、通常仕様。第1−2楽章と第3−4楽章が切れ目なくアタッカで演奏された。テンポはメトロノーム記号に寄り添ったものではなく、カラヤンやバーンスタインの時代に近い。そもそも山田は朝比奈隆が指揮するこのシンフォニーを聴いて曲の魅力に開眼したそうだから、「ピリオド・アプローチ前史」への憧れがあるのかも知れない。なお大阪フィルに客演した時のベルリオーズ:幻想交響曲と同様、楽譜のリピート指示(第1,4楽章提示部と第3楽章)は全て省略された。

高揚するリズム、溢れ出すエネルギー。ただ僕は、メトロノーム記号に従ったもっと速い演奏の方が好みだな。

弦楽合奏によるアンコールのウォルトンはやさしさと、透明感があった。

結論としてラフマニノフが掛け値なしの名演だった。山田にはロマン派以降の音楽が一番合っているんじゃないかな?次回は是非、関西でもコルンゴルト(交響曲かヴァイオリン協奏曲)を聴かせてください。

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2016年6月28日 (火)

神尾真由子 × 井上道義/大フィル「大ブルックナー展」

6月25日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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神尾真由子(ヴァイオリン)、井上道義(ミッキー)/大阪フィルハーモニー交響楽団で、

  • メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」
  • メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
  • シューベルト(エルンスト編):魔王(ソリスト・アンコール)
  • ブルックナー:交響曲 第1番

メインのプログラムがブルックナーだけに男性率7割、多し。

「フィンガルの洞窟」は非常にゆっくり始まり、次第にテンポが速められた。波が岩に砕ける風景が目の前に広がる。

前半は第一・第二ヴァイオリンが向かい合う対向配置。ヴァイオリン・コンチェルトは小編成の8型。

神尾のヴァイオリンは出だしの音が掠れていてギョッとしたが(ほぼ不発)、その後尻上がりに調子が良くなった。高音は甘美で低音は野太い。強い芯が通っている。曲自体の話だが、第1楽章のカデンツァは相当J.S.バッハの無伴奏ソナタ&パルティータを意識しているなと今回感じた(世間から忘れ去られていたバッハのマタイ受難曲を100年ぶりに蘇演したのは20歳のメンデルスゾーンである)。夢のような第2楽章を神尾は水面下でメラメラと炎が燃えているように弾いた。第3楽章は音の跳躍が気持ちよかった。

アンコール「シューベルトの《魔王》による大奇想曲」は超絶技巧の編曲。神尾の演奏は荒々しく激しい。子供の絶叫も聞こえてきてヒリヒリする。ある意味「やけくそ」だった(褒めてます)。今日の自分のコンディションに内心苛々していたのかも。

ブルックナーの第1番は曲がアレなんだけど、まぁ将来の自己実現に向けて色々模索していた時期の作品なのだろう。彼の音楽の代名詞とも言える、霧のような冒頭部の弦のトレモロとか、アルペンホルンの雄大な響きとかは未だない。

オケは対向ではなく通常配置に変わった。ミッキーの解釈は歯切れよく明快。ただそれが、ブルックナーの音楽にしっくりくるかどうかは別の話。音を地面に叩きつけるような第3楽章のスケルツォが、このコンビのニンに一番合っていたように想った。因みにニン(仁)とは元々歌舞伎用語で、しばしば落語家にも用いられる。役者の持つ芸風や雰囲気、性格の事で、これが役柄にあった時には「ニンに合う」と言う。

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2016年6月27日 (月)

ドキュメンタリーは平気で嘘をつく。〜佐村河内守 主演/映画「FAKE」

映像が生まれた時からドキュメンタリーはある人々の主張を通すために利用されてきた。レニ・リーフェンシュタール監督がナチス党大会を記録した「意志の勝利」がプロパガンダ映画の代表格であろう。また第二次世界大戦中のニュース映画に目を向けてみよう。日本軍は戦勝に次ぐ戦勝(という報道)で、戦争末期まで国民は日本が負けると思っていなかった。「不都合な真実」(←アカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞作のタイトル)は隠せるのである。

マイケル・ムーア監督が撮った「華氏911」が言いたいことはこうだ。「俺はジョージ・W・ブッシュとアメリカ共和党が大嫌いだ!」そのプロパガンダに賛同する民主党支持の映画人たちが多数決で、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールに選んだ(審査委員長はクエンティン・タランティーノ)。

アカデミー賞で長編ドキュメンタリー部門を征したマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」のクライマックスは全米ライフル協会会長のチャールストン・ヘストンを訪ねる場面だが、アポ無し取材をしたらヘストンが激怒しその場を立ち去ることは目に見えている。それを承知のうえでムーアは決定的瞬間の「画」を収めた。ヘストンはまんまと嵌められたのである。

アカデミー賞を受賞したドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」(入江)は和歌山県太地町(たいじちょう)のイルカ漁を題材にしているが、反捕鯨団体シーシェパードなどの主張に沿った内容であり、日本側の言い分には一切触れられていない。食文化の違いを無視し「イルカを殺す日本人は残虐非道だ」という悪意に満ちた印象操作が行われたのである。

世の中には「テレビは絶対に嘘をつかない」と信じているおめでたい人達がいるが、世論を有る一定の方向に意図的に誘導することなどお茶の子さいさいである。様々な街頭インタビューに再三登場する「プロ市民」もいる(→こちら)。例えばあるテレビ局のディレクターが日本国憲法改正の是非を問う番組を制作すると仮定しよう。彼は反対の立場を取る。自分に都合がいい用に進行するとしたら、例えば街頭インタビューの人数を反対派を多めに流すという方法がある。フェアを装い同数にする場合は内容を吟味し、反対派に説得力のあるものを、賛成派は頼りないものを選ぶという手もある。自分で原稿を書いて無名の役者に言わせても良いだろう。要は編集権を持っている者の意思が番組に必ず反映される訳であり、公平で中立を守ることなど事実上不可能である。

「風と共に去りぬ」(1939)の時代のハリウッドはプロデューサーが編集権を持っており、作品を好きに改竄出来た。だからハリウッドの映画監督たちは長年に渡る血の滲む努力を経て、編集権を手に入れた。現在、監督がプロデューサーを兼任することが多いのはその為である。編集権を持つ者が作品の支配者なのである。それはドキュメンタリーにも言える。

では天下の公共放送は客観的事実を伝えているだろうか?そもそもNHKスペシャル「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」という番組全体がFAKEだったということが現在では判明している。

その佐村河内守を主演に迎えたドキュメンタリー映画が「FAKE」である。

評価:A+

映画公式サイトはこちら

Fake

本作には「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分」という但し書きがあるが、既に公開後なのでもういいだろう。ネタバレあります。そうしないと語れないから。

最初に感じたのは「フェリーニの道化師」に近い作品だなということ。ドキュメンタリーとフィクションの融合。その境界線は曖昧模糊として判然としない(「フェリーニ 大いなる嘘つき」というドキュメンタリー映画もある)。森達也は「ドキュメンタリーは嘘をつくものだ」という、そのいかがわしさに自覚的な監督である。

カメラは佐村河内の住むマンション内に入り込み、彼とその妻の一挙手一投足を追いかける。本作を「佐村河内側の一方的主張のみ取り上げ、ゴーストライターの新垣隆や、週刊文春で告発した神山典士への取材を一切行っていないからアンフェアだ」と主張する人達がいる。アホか。監督が興味があるのはあくまで佐村河内夫妻(+飼猫との奇妙な生活)なのであって、客観的事実がどうであったかではない。キャッチコピーにも「これは、ふたりの物語」とある。

キネマ旬報ベストテンで第2位に輝いた原一男監督のドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」の面白さは奥崎謙三という人物の強烈なキャラクターにある。だから彼が主張する第二次世界大戦中に起こった「ある事件」が果たして事実なのかどうかは、はっきり言ってどうでも良い。実際この作品を観ても彼の一方的主張に終止し、奥崎が暴力を用いて引き出した証言も極めて信憑性が低い。また同じ原監督の「全身小説家」(キネ旬ベストテン第1位)の結論は、作家・井上光晴が言っていることは全て嘘(FAKE)だということである。

「FAKE」を観ながら面白いなと想ったのは、ベートーヴェンを模したモジャモジャの髪を散髪し、髭を剃り、サングラスも外してサッパリとした身なりで臨んだ記者会見から一転して設定が逆戻りしていたということである。風貌は「全聾の天才作曲家」時代のまま暗い部屋で生活し、監督との対話は夫人の手話を通して行われる。でも時に気が緩み忘れるのか、お正月に広島の両親が訪ねてきた場面ではテーブルに父親と横並びに座り、夫人の手話抜きで「今回の報道で友達が一人もいなくなった」と嘆く父親の言葉に(唇を見ずに)云々と頷いていたりする。あと「激しい耳鳴りに悩まされている」という設定はいつの間にか無くなったようだ。

佐村河内が提出した、脳波を調べるABR検査(聴性脳幹反応)の診断書には聴力が50 dBとあった。因みに単位は音の強さデシベルであり、30 dBの音が聞こえるのが正常、30-50 dBは軽度の難聴、40以上で補聴器を検討する場合もある。つまり全く聞こえないわけではないが、難聴があるのは事実。加齢性(老人性)難聴なら珍しくないレベルであり、補聴器を持っていても不自然ではないということになる。

人類は物事を分類することで進化を遂げてきた。欧米の合理主義を支える根幹は旧約・新約聖書である。神がいるから世界が創られ、人類が生まれた。原因があって結果がある。そして世界は二元論で語られる。光と闇、天国と地獄、善と悪(天使と悪魔)、真実と嘘。では佐村河内守はどちらに所属するのだろう?新垣隆は?結局、日本には「清濁併せ呑む」という言葉があるように、単純にどちらと割り切ることは出来ないのである。白か黒ではなく、その中間の「灰色」の領域に佐村河内は立つ。そしてそれは我々自身も同じことなのである。「きれいはきたない、きたないはきれい」(シェイクスピア「マクベス」で3人の魔女が唱える呪文の言葉)

まるでマジック・ショー(イリュージョン)を観ているような錯覚に囚われる「衝撃のラスト12分」を経て、ある人はこう思うだろう。「なんだ、新垣や神山らマスコミが言っていることは間違いだった。佐村河内はやはり手話がないと会話が聞こえていないし、実際はキーボードが弾けて作曲も出来るんじゃないか!」しかし一方、こういう感想を抱く人も必ずいる筈だ。「佐村河内は第2のゴーストライターと組んで、再び我々を騙そうとしているのではないか!?」……だから最後に監督が彼に投げかける問いが効くのである。なお、エンドクレジットに【音楽:佐村河内守】という記載はない。また上掲した映画ポスターの「ドキュメンタリー」「主演」という言葉に赤い傍点が付いているのも意味深である。(以上、敬称は略させて頂きました)

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2016年6月23日 (木)

日本人はクラシック音楽に一体、何を見出して来たのか?

日本人のクラシック音楽に対する姿勢に疑問を感じることが多い。その感を強くしたのが佐村河内守絡みの一連の報道であった。

一体、人々は彼が作曲した(ことになっていた)交響曲第1番《HIROSHIMA》に何を聴いていたのであろう?もし本当に楽曲自体に魅力があるのであれば、作曲家が佐村河内某であろうが、新垣隆であろうが関係ない。創作者がFAKE(偽物)であろうと作品の価値は減じない。今でもコンサートで演奏され、CDが売れている筈である。結局彼等が感動していたのは【被爆二世の全聾の作曲家が、激しい耳鳴りに苦しみながらも魂を絞り出すように故郷・広島への思いを交響曲にした】という架空の物語だったのではないだろうか?端から誰も音楽なんか聴いていなかったのである。

日本人は昔からヴィヴァルディの「四季」が大好きである。1970〜80年代のクラシック・チャートは常にイ・ムジチが演奏する「四季」のレコードがトップセラーを走っていた。僕も「四季」からクラシック音楽に入門したクチだが、何しろ標題音楽だから判り易い。「春が来た。小川はせせらぎ、羊飼いは微睡む」とか、「ここは狩りの場面なんだな」とか想像しながら聴くことが出来る。つまり物語がある。ところが、「四季」以外の標題のないヴィヴァルディの協奏曲は全く人気がなく、誰も聴かない。では作品の質に差があるだろうか?答えは明白、No.だ。

オーケストラのコンサートでしばしば取り上げられるハイドンの交響曲に目を向けてみよう。「告別」「軍隊」「時計」「驚愕」「太鼓連打」「ロンドン」……。ニックネームが付いたものばかり。ベートーヴェンの場合も「英雄」「運命」「田園」「合唱付き」とタイトルがある作品の演奏頻度が明らかに高い。ここ数年、交響曲第7番が加わったが、それには明白な理由がある。「のだめカンタービレ」という物語により付加価値が増したからである。ベートーヴェンの3大ピアノ・ソナタといえば「悲愴」「月光」「熱情」、6大だと「ワルトシュタイン」「テンペスト」「告別」が加わるが、むしろ僕はタイトルのない後期ソナタ(第30−32番)こそが彼の最高傑作だと信じて疑わない。

炎のコバケンこと小林研一郎と大阪フィルハーモニー交響楽団は毎年、「3大交響曲の夕べ」というイベントを開催している。これは「運命」「未完成」「新世界より」を指す。会場は2,700席のフェスティバルホールで、毎年チケットは完売と聞く。

そもそもベートーヴェンの交響曲第5番を「運命」、ショスタコーヴィチの5番を「革命」と呼んでいるのは日本人だけ。如何に標題が大好きかが伺い知れよう。タイトル付きのほうがチケットやCDが売れる。つまり商売上の理由でそうなっているのだ。ドヴォルザークの交響曲第8番が「イギリス」(最初にイギリスで出版されたから)、マーラーの4番が「大いなる喜びへの讃歌」と呼ばれていたこともあった。さすがにそれは酷すぎると最近ではなくなったのだが。

結局、標題を拠り所にしないと音楽の内容が理解出来ない、想像の翼を羽ばたかせることが出来ない、愉しめないということなのだろう。実に情けない話だ。その安直な姿勢、(分かったような顔をする)見栄っ張りの行き着いた先が交響曲《HIROSHIMA》だったというわけだ。そういう輩の虚像を剥いだという点において、僕は佐村河内守に感謝したい。

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テーマはウィーン!〜五嶋みどり ヴァイオリン・リサイタル

6月22日兵庫県立芸術文化センターへ。五嶋みどり(ヴァイオリン)、オズガー・アイディン(ピアノ)を聴く。

Midori

曲目は、

  • リスト:「ウィーンの夜会」よりヴァルス・カプリース第6番
  • シェーンベルク:ピアノ伴奏を伴ったヴァイオリンのための幻想曲
  • ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番「雨の歌」
  • モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ 第32番 K.454
  • シューベルト:ピアノとヴァイオリンのための幻想曲
  • クライスラー:愛の悲しみ & 愛の喜び (アンコール) 

ウィーンと関係の深い楽曲や作曲家で構成されたプログラム。モーツァルトのソナタもウィーンで作曲された。またもうひとつテーマがあり、他の楽曲から引用のある作品が3作品並んでいる。リストの曲はシューベルトの「高雅なワルツ」第9,10番、「感傷的なワルツ」第13番の素材を取り入れており、ブラームスのソナタは自身の歌曲「雨の歌」「余韻」の旋律が用いられている。そしてシューベルトの幻想曲は自身の歌曲「挨拶を送ろう(僕の挨拶を)」の旋律に基づく変奏曲が中核となる。

プレトークでは五嶋が主宰するミュージック・シェアリング、ICEPの紹介があり、また彼女が幼少期を過ごした大阪の地下街にすごく懐かしさを感じることや、阪急電車や京阪電車の「匂い」が特別だというようなことを語った(五嶋は大阪府枚方市で生まれた)。

リストからはウィーンの甘い香りが漂って来た。優雅で、どこか鄙びた雰囲気。

ブラームスは控えめな表情を見せ朴訥。落ち葉がカサコソと囁き、人生の秋を感じさせる。

モーツァルトはピリオド・アプローチ(時代奏法)を意識した解釈だが、かと言ってノン・ヴィブラートでもなく、モダン奏法との融合を図ったハイブリッド仕様。潔い美しさ。一切の虚飾を排し、禅寺の石庭(例えば龍安寺の方丈庭園)を想い起こさせる。フレーズ一つ一つが豊かに息付き、生き生きしている。

シューベルトからは鳥の囀り、羽ばたきの音が聴こえてきた。

クライスラーの「愛の悲しみ」は憂いと陰りがあり、「愛の喜び」は粋で、杯を交わすホイリゲ(オーストリアのワイン居酒屋)の賑わいが幻視された。

日本人音楽家でありながら、よくぞこの「域」にまで達したものだと驚き、感心することしきりであった。

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2016年6月21日 (火)

海よりもまだ深く

評価:A

Umi

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原案・脚本・監督・編集は「誰も知らない」「そして父になる」「海街diary」の是枝裕和。

女性は概して現実主義者であり、大地にしっかり根を下ろしてを生きるが、男性は実現不可能なデカイ未来の夢を語り、また過去に執着する。ギャンブルにうつつを抜かし、株や大事業に投資して莫大な借金を抱えるのは概ね男だし、別れた元恋人に未練たらたらでストーカー行為に及んだり、殺人を犯すのも然り。そういう性による相違を本作は見事に描く。

阿部寛演じる、しがない探偵の醸しだすやるせない雰囲気、侘しさが秀逸。天井が低く狭いアパートを窮屈そうに歩いたり、縮こまって入浴する場面が絵的に面白い。

台風襲来をクライマックスに持ってくる構成は相米慎二監督「台風クラブ」へのオマージュだろう。そして人生は続く。

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2016年6月20日 (月)

ヒラリー・ハーン@兵庫芸文

6月11日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)、コリー・スマイス(ピアノ)を聴く。

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  • モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ ト長調 K.379
  • J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番
  • アントン・ガルシア・アブリル:無伴奏ヴァイオリンのための
    6つのパルティータより第2曲「無限の広がり」、第3曲「愛」
  • コープランド:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
  • ティナ・デヴィッドソン:地上の青い曲線

以下アンコール

  • 佐藤聰明:微風
  • ガース・ノイシュタッター:ヴォリテーション (Volitation)
    世界初演
  • マックス・リヒター:慰撫 (Mercy)

「地上の青い曲線」以下、アンコールは主にヒラリー自身が企画した現代の作曲家と聴衆を繋ぐアルバム「27の小品」から演奏された。

会場の入りは9割くらい。先日のギドン・クレーメルは6割程度だったのでヒラリーの人気の高さが窺われる。

清冽なモーツァルトに続いて無伴奏ヴァイオリン・ソナタはまじりっけなしの透明感があった。「裸のバッハ」を聴いた。

アントン・ガルシア・アブリルはスペインの作曲家。「無限の広がり」は常動曲のようで、「愛」はフラメンコの踊り手とか闘牛士を連想させた。

コープランドの第1楽章は気高く、第3楽章は激しいダンス。アメリカの開拓民たちの祝典を描くバレエ音楽「アパラチアの春」に近い印象。

「地上の青い曲線」はうねる波が幻視され、美しい。また特殊奏法のオンパレードだった。

アンコールの「微風」は吹雪いている印象。

世界初演のVolitationは何かに取り憑かれたようなデモーニッシュな曲。

マックス・リヒターの作品は静謐な祈りの音楽だった。

古典から出来立てホヤホヤの曲まで幅広く、ヴァイオリンの無限の可能性を感じさせる、充実した内容だった。

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2016年6月15日 (水)

アカデミー視覚効果賞受賞「エクス・マキナ」

評価:A

Exmachina

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今年のアカデミー賞授賞式で視覚効果部門は「スター・ウォーズ フォースの覚醒」と「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の一騎打ちだろうと誰しもが思っていた。ところが蓋を開けてみると低予算のイギリス映画「エクス・マキナ」が攫ったので、皆腰を抜かした。青天の霹靂だった。

一言で評するなら、これは「21世紀のブレードランナー」である。プロットは完全に「ブレードランナー」を踏襲している。主人公がA.I.との対話を通して、果たして自分は本当に生身の人間なのか?もしかしたらエヴァと同種の人工知能なのではないか?と判らなくなっていく姿は「ブレードランナー」のデッカード(ハリソン・フォード)が次第に自分もレプリカントなのではないかと感じていく過程に似ている。しかし予想を大きく裏切る結末(ここでは「ブレードランナー」がミスリードの役割を果す)が観客を待ち構えており、これには唸った。天晴なり!アカデミー賞にノミネートされた脚本の巧さが際立っている。

特撮に関してはA.I.の体がスケルトンになっているということ以外、何の見せ場もなく、アカデミー賞受賞は過大評価である。「フォースの覚醒」のスタッフが可哀想。ストーリーテリングの面白さに引っ張られたのかねぇ。むしろ1982年に公開された「ブレードランナー」の視覚効果の方が眼を見張るものがある。

それにしてもアリシア・ヴィキャンデルはアカデミー助演女優賞を受賞した「リリーのすべて」といい、本作といい、脱ぎっぷりが潔いね。

アカデミー賞の受賞がなければ日本での公開が危ぶまれていた本作。関西では大阪のみの単館上映だった。兵庫県は無論のこと、京都府でも上映がないんだぜ、信じられる!?仕方なくわざわざテアトル梅田まで足を運びましたとさ。そういえば細田守の「時をかける少女」も単館上映で、ここで観たなぁ(遠い目)。もう10年前の話だね。

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バシュメット & モスクワ・ソロイスツ

6月10日(金)いずみホールへ。

ユーリ・バシュメット(指揮/ヴィオラ)、モスクワ・ソロイスツ合奏団(19名の弦楽奏者たち)で、

  • モーツァルト:小夜曲(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)
  • パガニーニ:ヴィオラ協奏曲(原曲はギター四重奏曲第15番)
  • シューマン:東洋の絵
  • 武満徹:3つの映画音楽より
    訓練と休息の音楽(ホゼー・トレス)、ワルツ(他人の顔)
  • グリーグ:2つのノルウェーの歌
  • ブリテン:2つの肖像
  • チャイコフスキー:弦楽セレナード
  • シュニトケ:ポルカ(アンコール)

「小夜曲」は覇気がある演奏。溜めとか間をたっぷり取った、テンポ・ルバートのあるモーツァルトで、まるでショパンみたい。時代の潮流=ピリオド・アプローチの向こうを張った、ある意味挑発的な解釈。実に面白い。

パガニーニのバシュメットのソロは野太い音でよく鳴る。

武満の「訓練と休息の音楽」は動的、「ワルツ」は妖しい夜の蝶の舞い。

グリーグは木枯しが吹きすさび、寂しい。透き通った湖水の情景を連想した。

ブリテンの第1曲「デイヴィッド・レイトン」は悪夢とか陶酔感のイメージ。10歳から習っていたヴィオラ・ソロのある第2曲(自画像)は憂いを帯び、哀しい。

チャイコフスキーは切々と歌い、絹の肌触り。第3楽章のエレジーは儚い、うたかたの夢。「幻夢」という言葉がピッタリ来る。

ブリテンに続いてチャイコフスキーが演奏され、両者の共通項に気がついた。ゲイとしてその時代を生きることの困難さと、やるせなさ。1950年代のイギリスではゲイであることは犯罪であり、投獄か薬物治療の選択を迫られた(数学者アラン・チューリングが薬物療法を受けたことは映画「イミテーション・ゲーム」で描かれている)。19世紀の帝政ロシアでは刑法の第995条で同性愛行為を5年以下のシベリア流刑に処すると明記されていた。このプログラムの並べ方は明らかに意図的なものだろう。バシュメットよ、おぬし、なかなかやるな。

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2016年6月10日 (金)

久石譲作曲 "MIDORI Song" 初演!〜五嶋みどり ICEP報告コンサート

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五嶋みどりによるICEP報告コンサートは毎年足を運び、記事を書いている。

今年12月にはネパールを訪問するそう。

さて、6月8日(水)ザ・フェニックスホールへ。

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五嶋みどり(ヴァイオリン)、ロビン・ボリンガー(ヴァイオリン)、ウィリアム・フランプトン(ヴィオラ)、マイケル・カッツ(チェロ)で、

  • ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲 断章 ヘ長調
  • シュニトケ:弦楽三重奏曲
      ー休憩ー
  • 活動報告
  • 久石譲:MIDORI Song (初演)
  • モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 K.423
  • メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 第6番

前半はみどりがリードを取り、後半はロビン・ボリンガーが主導権を握った。

シュニトケは退屈。

久石譲の新曲は平明で優しいテーマ(短い)がどんどん変奏されてゆく。「となりのトトロ」を彷彿とさせる明るさに満ちている。この作曲家得意のミニマル・ミュージックというよりはむしろ、パッサカリア(シャコンヌ)に近いかな?チェコ・フィルが演奏したオーケストラ・バージョンの録音もあるらしい。大いに気に入った。

ところで久石譲はみどりの弟、五嶋龍のために「題名のない音楽会」新テーマ曲 "Untitled Music" を贈っている。面白いね。

モーツァルトの二重奏曲は闊達。メンデルスゾーンは鬼気迫る緊迫感があり、「悲劇の季節」という言葉が思い浮かんだ。けだし美しい演奏だった。終わり良ければ全て良し。大満足で帰途についた。

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2016年6月 7日 (火)

柳家喬太郎の怪談噺(昼夜通し)@兵庫芸文

5月29日(日)兵庫県立芸術文化センター 中ホールへ。

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【昼公演】

  • 柳家小太郎:弥次郎
  • 柳家喬太郎:夜の慣用句(喬太郎 作)
  • 三増紋之助:江戸曲独楽
  • 柳家喬太郎:怪談牡丹燈籠 お札はがし

【夜公演】

  • 柳家小太郎:あたま山
  • 柳家喬太郎:任侠流山動物園(三遊亭白鳥 作)
  • 三増紋之助:江戸曲独楽
  • 柳家喬太郎:怪談牡丹燈籠 栗橋宿

喬太郎は柳家さん喬の一番弟子で小太郎は九番弟子。小太郎は初めて聴いたが口跡よく、中々達者。

「弥次郎」は上方落語「鉄砲勇助」を改変したもの。逆にシュールな江戸落語「あたま山」は落語作家・小佐田定雄の手で「さくらんぼ」として上方に移植され、桂枝雀/雀々らが演じている。

喬太郎の4つのネタはいずれも聴いたことがあるものばかりで感想も過去の記事に書いているので、こここでは繰り返さない。「任侠流山動物園」の出囃子はウルトラQ!「三遊亭圓朝の玄孫(やしゃご)弟子で、いずれ人間国宝になるであろうと期待されている三遊亭白鳥師匠の新作」という紹介に、場内大爆笑だった。

また小太郎がマクラで「芝浜」を演りたいと言い、それを受けて喬太郎が「私は3分で『芝浜』を演じる手法を編み出しました」と、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」の替え歌「五十両と芝浜」を歌い、やんや、やんやの大喝采。死ぬほど可笑しかった!!

三遊亭圓朝作の「怪談牡丹燈籠」を改めて聴いて、これは潜在意識のことを扱った噺だなと想った。つまり幽霊として現れる旗本の娘・お露とその下女は、浪人・萩原新三郎の潜在意識(無意識)の住人であり、新三郎は潜在意識の中に幽閉され、出られなくなってしまうと解釈出来る。これはスピルバーグの映画「未知との遭遇」の主人公が最後に、マザーシップに乗って宇宙の彼方に飛び立っていくことに呼応している。

あと使用人の夫婦、伴蔵とお峰の関係がマクベスとマクベス夫人みたいだった。

圓朝の「死神」はグリム童話「死神の名付け親」を翻案したものだと言われており、他にもモーパッサン「親殺し」やヴィクトリアン・サルドゥ「トスカ」を原作とする新作落語もある。だから彼がシェイクスピアの「マクベス」を参考にした可能性は十分残る。

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2016年6月 6日 (月)

ギドン・クレーメル & リュカ・ドゥバルグ@兵庫芸文

6月5日兵庫県立芸術文化センター大ホールへ。

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ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)、リュカ・ドゥバルグ(ピアノ)で、

  • ヴァインベルク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第3番
  • ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ
  • ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ
  • フランク:ヴァイオリン・ソナタ
  • イザイ:こどもの夢(アンコール)

客の入りは6割程度。フランク以外、知名度が低いプログラムなので致し方ないかも。

ミェチスワフ・ヴァインベルク(1919-96)はポーランド生まれのユダヤ人。彼の曽祖父と祖父はモルドヴァで起こったポグロム(大虐殺)で命を落とした。ナチス・ドイツのポーランド侵攻でソ連に亡命。親と妹はワルシャワに残り、収容所で虐殺された。ヴァインベルクは1943年以降、モスクワでショスタコーヴィチと親交を結ぶが48年にジダーノフ批判を浴び、52年に逮捕される。しかしスターリンの死に救われ、それから間もなく公式に名誉回復がなされた。また妻の父(俳優でユダヤ人反ファシスト委員会議長)は暗殺された。

無伴奏ソナタを弾くクレーメルは「孤高の人が、孤高の音楽を奏でる」という印象。ヴァインベルクとショスタコーヴィチの音楽的共通点は虚無感である。深淵の奥底にある漆黒の闇を覗きこむような様相。スターリンに翻弄されたという点で二人の人生は一致している。

ショスタコーヴィチから登場したドゥバルグはチャイコフスキー国際コンクールで4位となり、物議を醸した。ショパン国際コンクールで落選したポゴレリッチ以来の事件だと取り沙汰された。コンクールの演奏をインターネットで聴いたクレーメルは共演の申し出を直接ドゥバルグにしてきたという。ただ僕が聴いた感想はキレとか力強さ、熱量に欠けるという印象。強烈なピツィカートなど激しいパッションで弾くクレーメルのお相手としては力量不足の感を否めない。

ショスタコの終楽章を聴いていると、クリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」で描かれた無意識の領域のさらに下層、limbo(虚無/辺獄)に有る音楽を聴いているようで、空恐ろしかった。

ラヴェルのソナタは氷で出来たナイフのよう。第2楽章のブルースはヒヤッとした透明感があり、無窮動の第3楽章では一心不乱に刃物を研いでいる情景が目に浮かんだ。

フランクも繊細で鋭い。終楽章のロンドは線が細く幽き雰囲気。知的に感情をコントロールした、けだし名演であった。

イザイの結婚祝いとして作曲され、イザイが初演したフランクのソナタの後、アンコールが「こどもの夢」という選曲は実に洒落ているなと想った。

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2016年6月 4日 (土)

宗教映画としてのスピルバーグ「未知との遭遇」(ユング的心理分析の試み)

映画館で初めて観たスティーヴン・スピルバーグ監督の映画は「未知との遭遇 特別編」だった。1980年公開当時、僕は中学生。原作本(ノベライゼーション)も読んでいて、クライマックスでは何か崇高なものに触れた畏怖の念を抱いた。正に宗教的体験だったのだが、幼い僕にはそれを言語化する能力を持ち合わせていなかったし、知識もなかった。

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その後スピルバーグが監督する映画は1本も欠かさず全て映画館で観てきた。しかし彼の代表作を挙げるとしたら、やはり「未知との遭遇」や「E.T.」(1982)など初期の作品に絞られる。逆にワーストといえば「オールウェイズ」と「フック」のワン・ツー・フィニッシュだ。

スピルバーグ自らがシナリオを執筆したのは「未知との遭遇」と、故スタンリー・キューブリックの遺志を継いだ「A.I.」(2001)のみ。実はこの2作品にはある共通項がある。「ピノキオ」からの引用である。

「未知との遭遇」の主人公ロイは子どもたちに「ディズニーの『ピノキオ』を観に行こう!」と熱心に誘う。さらに特別編エンド・クレジット後半には「ピノキオ」の主題歌「星に願いを」の旋律が流れる。

「A.I.(人工知能)」の主人公デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)は鉄腕アトムみたいな少年型ロボットだが、海底に沈んだコニーアイランド(遊園地)に行き、ブルー・フェアリーに人間にして欲しいと願う。これはピノキオのプロットに則している。また旅の途中で捕われ、ロボットを破壊して楽しむショーの見世物にされかけるエピソードはピノキオがサーカス(人形一座)に売り飛ばされる場面に相当する(「鉄腕アトム」にもある)。因みに手塚治虫は漫画版「ピノキオ」を描いている。余談だがスピルバーグ製作総指揮のテレビ・ドラマ「エクスタント」は「A.I.」の姉妹編である。

旧約聖書によると、神は自分に模して人間を創ったという。つまりゼペット爺さんとピノキオの関係は【創造主とアダム】のメタファーである(天馬博士と鉄腕アトムもそう)。ピノキオを誘惑する狐と猫は、蛇の姿を借りてアダムとイヴに知恵の実(りんご)を食べるよう唆すサタン(悪魔)そのものである。またピノキオ同様に旧約聖書「ヨナ記」の預言者ヨナは大きな魚に呑み込まれ、その体内で三日三晩を過ごした後、生還する。魚の種類は特定されていない。原作小説「ピノッキオの冒険」で主人公が呑み込まれるのは、鯨ではなく鮫である。

「未知との遭遇」のロイはデビルスタワーと呼ばれる山でマザーシップと第三種接近遭遇(Close Encounters of the Third Kind=映画の原題)を果たし、UFOに乗り込んで地球を旅立つ。これは旧約聖書に書かれた、モーゼがシナイ山に於いて神から十戒を授かる場面の再現である。つまりマザーシップ=神なのだ。ロイの子供たちがテレビでセシル・B・デミル監督の映画「十戒」を観ている場面が登場するのは決して偶然ではない。なお後に、スピルバーグの設立した映画会社ドリームワークスはモーゼの出エジプト記を「プリンス・オブ・エジプト」というアニメーションにしている。スピルバーグはユダヤ人であり、ユダヤ教の聖典が旧約聖書であることは言うまでもない。

さて、河合隼雄(著)「無意識の構造」(中公新書)の中でスイスの心理学者ユングが唱えた「心の構造」が解説されている。ユングは心を層構造に分けて考えた。まず「意識」の中心に自我があり、その下に「個人的無意識」(一度は意識されながら忘れられたもの+自我がその統合性を守るために抑圧したもの)がある。さらに奥底に、人類一般に共通の「普遍的(集合的)無意識」がある。そして「個人的無意識」と「普遍的(集合的)無意識」の間に、ある家族に特徴的な(家族的無意識)や、ある文化圏に共通して存在する(文化的無意識)を考えることも出来る。

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民族や文化の違いを超えて広がった神話や宗教はこの普遍的無意識の産物とも言える。また【意識+無意識】の中心=自己という関係式が成り立つ(自我と自己はイコールでない)。

ユングはフロイトと意見が対立し、40歳近い時に独自の道を歩む決意をした。その時、彼は大きな不安に襲われた。1912年頃よりユングは自分の無意識の世界と対決をはじめ、凄まじいヴィジョンと夢に悩まされる。そして1916年に最初の曼荼羅図形を書いた。

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後に彼は中国研究の権威リヒャルト・ヴィルヘルムからチベット仏教の曼荼羅を紹介され、自分が書いたものと余りにも似ていることに驚いた。

Mandala2

ユングはこの曼荼羅こそ自己の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型であると考えた。

20世紀に入り、自然科学の目覚ましい発展により近代人の意識は啓蒙的、合理的傾向が強くなり、ここに「神秘的」救済を求めることが出来なくなった。「神は死んだ」とニーチェは言い、神話を本気で信じる人はいなくなった。ユングはその著書「空飛ぶ円盤」の中で次のような説を唱える。人々の無意識内にある全体性の回復の望みは、天空に投影され、UFOを出現せしめたのではないか?つまりUFO=元型(シンボル)であると。「この元型が伝統的な形姿をとらず即物的なしかも工学的な形をとったのは、神話的な人格化を嫌う現代にあってまことに象徴的といえるだろう。(中略)流行遅れの観念も、宇宙飛行の可能性によって受け入れやすいものになる」

僕はハッとした。そうか、「未知との遭遇」のマザーシップは曼荼羅だったのだ!考えてみればデザインもそっくりである。

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だから旧約聖書の神は巨大な円盤の形で現代に現れたのであろう。興味深いのは聖書に登場する神が男性(”天にまします我らのよ…”)なのに対し、「未知との遭遇」の神はMothershipであり、「A.I.」のデイビッド少年が最後にひと時を過ごすのも母親であるというのが、「E.T.」など父親不在の映画を撮り続けてきたスピルバーグらしい。

ところでここまで考察を進めてきて気が付いたことがある。ユングの説く「心の構造」とクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」との類似性である。この映画では夢(=無意識)が3層構造に分けられる。そのさらに下にあるのが虚無(limbo)であり、深く潜って行った主人公は最下層で死んだ妻(影)と共に暮らす。これは「未知との遭遇」のロイがマザーシップの中に消えていったことに呼応する。「未知との遭遇」と「インセプション」の構造は実は同一だったのである。クリストファー・ノーランは後の「インターステラー」でも「未知との遭遇」へのオマージュを捧げている。

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2016年6月 3日 (金)

五嶋龍×ネゼ=セガン/フィラデルフィア管弦楽団

6月2日(木)フェスティバルホールへ。

フランス系カナダ人、ヤニック・ネゼ=セガン/フィラデルフィア管弦楽団を聴く。本日、ネゼ=セガンはジェームズ・レヴァインの後を継ぎメトロポリタン歌劇場の次期音楽監督に就任することが発表された。またフィラデルフィア管の音楽監督の任期も2026年まで延長されることになった。

ヴァイオリン独奏はテレビ朝日「題名のない音楽会」司会で人気者になった五嶋龍。彼はドイツ・グラモフォンと専属契約を結んでおり、使用楽器は日本音楽財団より貸与された1722年製のストラディヴァリウス「ジュピター」。

  • 武満徹:ノスタルジア ーアンドレイ・タルコフスキーの追悼にー
  • プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 第1番
  • ブラームス:交響曲 第2番
  • J.S.バッハ(ストコフスキー編):羊たちは安らかに草を食み
    (アンコール)

「ノスタルジア」は瞑想的でたゆたう感じ。武満はドビュッシーの「海」をこよなく愛し、自作でも「ウォーター・ドリーミング」「海へ」「雨ぞふる」「ガーデン・レイン」「雨の樹」「From me flows what you call Time(タイトルは大岡信の詩「澄んだ青い水」の一節からとられている)」等、水をイメージしたものが多い。だからアンドレイ・タルコフスキー監督の映画に親近感を抱いていたのであろう。

プロコフィエフにおける五嶋龍の奏でる音は妖しく、美しく、湖水のように澄み渡る。ところが第2主題あたりから様相が変化し、鋼のような男らしさも感じられた。オケの伴奏は精緻。一糸乱れぬアンサンブルが展開された。

休憩を挟み後半のブラームスはとてもよく歌う。柔軟な音楽作りが感興をそそる。ネゼ=セガンは小節単位でテンポを動かすが、それが例えばロリン・マゼールみたいに作為的・あざといハッタリに陥ることなく、あくまで自然なのが素晴らしい。

オーケストラの音色はヨーロッパの団体みたいな(燻したような)【くすみ】とか【憂い】はなく、あくまで陽性で華麗。これぞフィラデルフィア・サウンド!懐かしい……という気持ちがこみ上げてきて、エッ?と戸惑った。そして突然想い出した。僕が小学生の時、オーマンディ/フィラデルフィア管を生で聴いていたことを。その時の曲目に「火の鳥」があったことも。そこで遠い記憶を頼りにインターネットで検索したら、詳細が判明した。

時は1978年5月18日、倉敷市民会館。曲目は、

  • ピストン:トッカータ
  • ベートーヴェン:交響曲 第7番
  • ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
  • ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」

だった。

今回の演奏を聴き始めるまで、全く失念していた。脳の作用の不思議さに感じ入ると共に、38年も経てばメンバーは殆ど入れ替わっているだろうに、その特色は少しも変わっていなかったことに「これが伝統の重みなのか」と感服したのであった。

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2016年6月 1日 (水)

【樫本大進 × 小菅優 × クラウディオ・ボルケス】トリオのベートーヴェン

5月28日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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樫本大進(ヴァイオリン、ベルリン・フィル第1コンサート・マスター)、小菅優(ピアノ)、クラウディオ・ボルケス(チェロ、ジュネーヴ国際コンクール&パブロ・カザルス国際コンクール第1位)で、オール・ベートーヴェン・プログラム。

  • ピアノ三重奏曲 第1番
  • ピアノ三重奏曲 第2番
  • ピアノ三重奏曲 第7番「大公」

樫本のソロ・リサイタルは何度か聴いているが、正直彼のことをあまり高く評価しない。なんだか生ぬるく、ぼやけた印象を受ける。しかしそれは同時に、温もりがあり温厚だということでもあり、こういうベートーヴェンもあってもいいかな??と想った。

ボルケスのチェロは伸びやかで好感が持てる。

今回一番瞠目したのは小菅のピアノ。瞬発力があり、水を得て跳びはねる魚のよう。彼女のソロを是非聴いてみたいと想った。

全体のアンサンブルは柔らかく、丸いベートーヴェンという印象だった。(編成は異なるが)尖ったアルバン・ベルクSQとは対極をなす演奏。どちらが良い、悪いということはない。後は好みの問題だろう。

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