ドキュメンタリーは平気で嘘をつく。〜佐村河内守 主演/映画「FAKE」
映像が生まれた時からドキュメンタリーはある人々の主張を通すために利用されてきた。レニ・リーフェンシュタール監督がナチス党大会を記録した「意志の勝利」がプロパガンダ映画の代表格であろう。また第二次世界大戦中のニュース映画に目を向けてみよう。日本軍は戦勝に次ぐ戦勝(という報道)で、戦争末期まで国民は日本が負けると思っていなかった。「不都合な真実」(←アカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞作のタイトル)は隠せるのである。
マイケル・ムーア監督が撮った「華氏911」が言いたいことはこうだ。「俺はジョージ・W・ブッシュとアメリカ共和党が大嫌いだ!」そのプロパガンダに賛同する民主党支持の映画人たちが多数決で、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールに選んだ(審査委員長はクエンティン・タランティーノ)。
アカデミー賞で長編ドキュメンタリー部門を征したマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」のクライマックスは全米ライフル協会会長のチャールストン・ヘストンを訪ねる場面だが、アポ無し取材をしたらヘストンが激怒しその場を立ち去ることは目に見えている。それを承知のうえでムーアは決定的瞬間の「画」を収めた。ヘストンはまんまと嵌められたのである。
アカデミー賞を受賞したドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」(入江)は和歌山県太地町(たいじちょう)のイルカ漁を題材にしているが、反捕鯨団体シーシェパードなどの主張に沿った内容であり、日本側の言い分には一切触れられていない。食文化の違いを無視し「イルカを殺す日本人は残虐非道だ」という悪意に満ちた印象操作が行われたのである。
世の中には「テレビは絶対に嘘をつかない」と信じているおめでたい人達がいるが、世論を有る一定の方向に意図的に誘導することなどお茶の子さいさいである。様々な街頭インタビューに再三登場する「プロ市民」もいる(→こちら)。例えばあるテレビ局のディレクターが日本国憲法改正の是非を問う番組を制作すると仮定しよう。彼は反対の立場を取る。自分に都合がいい用に進行するとしたら、例えば街頭インタビューの人数を反対派を多めに流すという方法がある。フェアを装い同数にする場合は内容を吟味し、反対派に説得力のあるものを、賛成派は頼りないものを選ぶという手もある。自分で原稿を書いて無名の役者に言わせても良いだろう。要は編集権を持っている者の意思が番組に必ず反映される訳であり、公平で中立を守ることなど事実上不可能である。
「風と共に去りぬ」(1939)の時代のハリウッドはプロデューサーが編集権を持っており、作品を好きに改竄出来た。だからハリウッドの映画監督たちは長年に渡る血の滲む努力を経て、編集権を手に入れた。現在、監督がプロデューサーを兼任することが多いのはその為である。編集権を持つ者が作品の支配者なのである。それはドキュメンタリーにも言える。
では天下の公共放送は客観的事実を伝えているだろうか?そもそもNHKスペシャル「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」という番組全体がFAKEだったということが現在では判明している。
その佐村河内守を主演に迎えたドキュメンタリー映画が「FAKE」である。
評価:A+
映画公式サイトはこちら。
本作には「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分」という但し書きがあるが、既に公開後なのでもういいだろう。ネタバレあります。そうしないと語れないから。
最初に感じたのは「フェリーニの道化師」に近い作品だなということ。ドキュメンタリーとフィクションの融合。その境界線は曖昧模糊として判然としない(「フェリーニ 大いなる嘘つき」というドキュメンタリー映画もある)。森達也は「ドキュメンタリーは嘘をつくものだ」という、そのいかがわしさに自覚的な監督である。
カメラは佐村河内の住むマンション内に入り込み、彼とその妻の一挙手一投足を追いかける。本作を「佐村河内側の一方的主張のみ取り上げ、ゴーストライターの新垣隆や、週刊文春で告発した神山典士への取材を一切行っていないからアンフェアだ」と主張する人達がいる。アホか。監督が興味があるのはあくまで佐村河内夫妻(+飼猫との奇妙な生活)なのであって、客観的事実がどうであったかではない。キャッチコピーにも「これは、ふたりの物語」とある。
キネマ旬報ベストテンで第2位に輝いた原一男監督のドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」の面白さは奥崎謙三という人物の強烈なキャラクターにある。だから彼が主張する第二次世界大戦中に起こった「ある事件」が果たして事実なのかどうかは、はっきり言ってどうでも良い。実際この作品を観ても彼の一方的主張に終止し、奥崎が暴力を用いて引き出した証言も極めて信憑性が低い。また同じ原監督の「全身小説家」(キネ旬ベストテン第1位)の結論は、作家・井上光晴が言っていることは全て嘘(FAKE)だということである。
「FAKE」を観ながら面白いなと想ったのは、ベートーヴェンを模したモジャモジャの髪を散髪し、髭を剃り、サングラスも外してサッパリとした身なりで臨んだ記者会見から一転して設定が逆戻りしていたということである。風貌は「全聾の天才作曲家」時代のまま暗い部屋で生活し、監督との対話は夫人の手話を通して行われる。でも時に気が緩み忘れるのか、お正月に広島の両親が訪ねてきた場面ではテーブルに父親と横並びに座り、夫人の手話抜きで「今回の報道で友達が一人もいなくなった」と嘆く父親の言葉に(唇を見ずに)云々と頷いていたりする。あと「激しい耳鳴りに悩まされている」という設定はいつの間にか無くなったようだ。
佐村河内が提出した、脳波を調べるABR検査(聴性脳幹反応)の診断書には聴力が50 dBとあった。因みに単位は音の強さデシベルであり、30 dBの音が聞こえるのが正常、30-50 dBは軽度の難聴、40以上で補聴器を検討する場合もある。つまり全く聞こえないわけではないが、難聴があるのは事実。加齢性(老人性)難聴なら珍しくないレベルであり、補聴器を持っていても不自然ではないということになる。
人類は物事を分類することで進化を遂げてきた。欧米の合理主義を支える根幹は旧約・新約聖書である。神がいるから世界が創られ、人類が生まれた。原因があって結果がある。そして世界は二元論で語られる。光と闇、天国と地獄、善と悪(天使と悪魔)、真実と嘘。では佐村河内守はどちらに所属するのだろう?新垣隆は?結局、日本には「清濁併せ呑む」という言葉があるように、単純にどちらと割り切ることは出来ないのである。白か黒ではなく、その中間の「灰色」の領域に佐村河内は立つ。そしてそれは我々自身も同じことなのである。「きれいはきたない、きたないはきれい」(シェイクスピア「マクベス」で3人の魔女が唱える呪文の言葉)
まるでマジック・ショー(イリュージョン)を観ているような錯覚に囚われる「衝撃のラスト12分」を経て、ある人はこう思うだろう。「なんだ、新垣や神山らマスコミが言っていることは間違いだった。佐村河内はやはり手話がないと会話が聞こえていないし、実際はキーボードが弾けて作曲も出来るんじゃないか!」しかし一方、こういう感想を抱く人も必ずいる筈だ。「佐村河内は第2のゴーストライターと組んで、再び我々を騙そうとしているのではないか!?」……だから最後に監督が彼に投げかける問いが効くのである。なお、エンドクレジットに【音楽:佐村河内守】という記載はない。また上掲した映画ポスターの「ドキュメンタリー」「主演」という言葉に赤い傍点が付いているのも意味深である。(以上、敬称は略させて頂きました)
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