シリーズ【大指揮者列伝】帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンの審美眼
まずこの記事を書くに当たり、僕のヘルベルト・フォン・カラヤンに対する立場を明確にしておこう。
僕がクラシック音楽を聴き始めた小学校高学年の頃、当時クラシック音楽ファンはカラヤン派とベーム派に真っ二つに分かれていた。丁度カール・ベームがウィーン・フィルを率いて来日公演していた時期で、FMでベートーヴェンの交響曲第5番、6番を聴いて僕はベームに魅了された。一方でカラヤンがベルリン・フィルと1975年に録音したチャイコフスキー:交響曲第5番のLPレコードを購入したのだが、あまりにも磨きぬかれた人工的な響きに、聴いていて途中で気持ちが悪くなった。ある意味メタリックであり、ゴテゴテと着飾った娼婦のようでもあった。そのレコードは2度と掛けなかった。
カラヤンは楽壇の帝王と呼ばれたが、反面彼ほど《アンチ》がいた指揮者も空前絶後だろう。しかし《アンチ》を生むのは絶対的人気を誇るカリスマだからこそ。これはプロ野球に喩えれば分かりやすいだろう。《アンチ》読売ジャイアンツは桁外れに多いが、《アンチ》横浜ベイスターズなんて聞いたことないでしょ?指揮者だって《アンチ》金聖響とか知らない。実力のない者は話題にもならず、無視されるだけ。《アンチ》=人を嫌いになるには膨大なエネルギーを要するし、その対象となる人物も強大なパワーを持っていることが必須なのである。「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」である。
さて本題に入ろう。カラヤンはスタジオ(セッション)・レコーディングにこだわり、膨大な数の音源を残した。そのライブラリーはオーケストラの《名曲大全》になっていると言っても過言ではない。スッペの「軽騎兵」序曲とかウェーバー「舞踏への勧誘」、ワルトトイフェル「スケーターズ・ワルツ」、マスネ「タイスの瞑想曲」などの小曲から、「双頭の鷲の旗の下に」などドイツ・オーストリア行進曲集(吹奏楽!)、レオンタイン・プライスを独唱に迎えた「きよしこの夜」などクリスマス・アルバムまで。珍曲としては大砲や銃声の効果音付きでベートーヴェンの「ウエリントンの勝利(戦争交響曲)」とかもある。
録音技術の進歩に伴い、カラヤンは繰り返し自分の得意とするレパートリーを録り直した。ベートーベンとブラームスの交響曲全集は4回、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」に至っては計7回もセッション録音を残している(さらに映像が2回)。
コンパクトディスク(CD)はソニーとフィリップスにより共同開発された。CD初期の最大収録時間(74分42秒)を決めるに際し、当時ソニーの副社長だった大賀典雄は親交のあったカラヤンに相談した。彼の答えは「ベートーヴェンの第九が1枚に収まったほうがいい」だった。デジタル時代になってからも一通り再録音している。もの凄い執念だ。
カラヤンはオーストリアのザルツブルクで生まれた。モーツァルトと同郷である。しかしモーツァルトの交響曲は第29番以降しか録音しなかった。これは彼が契約していたドイツ・グラモフォンがカール・ベーム/ベルリン・フィルの組み合わせて既に全集を出していたことと関係があるのかも知れない。そんなに収益が見込める企画ではないからね。
彼はまた、シューベルトやシューマン、チャイコフスキー、ブルックナーの交響曲全集をレコーディングしている。
ところが面白いことにマーラーについては交響曲第4、5、6、9番と「大地の歌」しか録音していない。彼がナチスに入党していたというのは歴史的事実であり、ユダヤ人のマーラーに対して偏見があったのでは?という憶測もあるが、同じユダヤ人作曲家メンデルスゾーンは交響曲全集を出しているので蓋然性を欠く。上記した以外のマーラーの交響曲は冗長で、取り上げるのに値しないと判断したと考えるべきだろう。
ラフマニノフはピアノ協奏曲 第2番しか録音していない。第3番もパガニーニの主題による狂詩曲も交響曲も全て無視である。ラフマニノフの交響曲は散漫で構成に問題があるので、カラヤンのお眼鏡に適(かな)わなかったのだと思われる。
カラヤンはシベリウスの交響曲、特に後期の第4-7番を得意とした。作曲家の吉松隆がシベリウスに私淑しているのは有名だが、彼が高校1年生の時に聴いて作曲家を志す契機になったのはカラヤン/ベルリン・フィルが1967年に録音した交響曲第6番だった。カラヤンは後期交響曲を複数回レコーディングしている。しかし第3番だけは一度もタクトを振らなかった。サイモン・ラトルは先日ベルリン・フィルとのシベリウス交響曲全集をリリースしたが、なんと2010年2月9日の演奏がベルリン・フィルにとっての第3番初演だったそうである。シベリウスの第1、2番はチャイコフスキーからの影響があり、第4番以降はソナタ形式や4楽章形式を捨てて音楽はフィンランドの自然と同化してゆく。丁度第3番はその過渡期にあり、作品としての魅力が乏しい。
レスピーギは「ローマの松」「ローマの噴水」を録音しているが、「ローマの祭り」は取り上げず。恐らく終曲「主顕祭」の馬鹿騒ぎが耐え難かったのであろう。
ブラームスの場合、悲劇的序曲やハイドンの主題による変奏曲を繰り返し録音したが、大学祝典序曲は皆無。面白いことにカール・ベームも大学祝典序曲を無視しているんだよね。
また非常に興味深いのがショスタコーヴィチとの関係である。カラヤンは生涯に2度、交響曲 第10番をスタジオ・レコーディングしている。しかし彼がショスタコーヴィチの他の交響曲を録音したことは一切ない。
上の写真は1969年5月29日、モスクワ音楽院大ホールにおけるカラヤンとショスタコ。この日のプログラムも第10番だった。つまりこのシンフォニーのみが、彼が価値を認めた作品ということになる。
一般にショスタコで一番知られているのは第5番(俗称「革命」)だろう。売上のみを考えるなら10番より5番の方がレコード会社は喜ぶ。しかしカラヤンは信念を曲げなかった。僕も第5番は軽薄で安っぽい曲だと思う。断然10番の方がいい。この点で彼を支持する。
カラヤンが生涯取り上げなかった曲を探っていくことで、彼のこだわりや美意識が見えて来るのである。
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