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2016年3月

柳家喬太郎・柳亭左龍 兄弟会@亀屋寄席

3月27日(日)大阪府高槻市にある亀屋旅館へ。

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  • 柳家喬太郎:館林
  • 柳亭左龍:甲府い
  • 柳亭左龍:英会話
  • 柳家喬太郎:任侠流山動物園(三遊亭白鳥 作)

「館林」は「首提灯」にも似た、シュールな滑稽噺。江戸庶民の武士に対する反発心が垣間見られる。ブラックな味わいで◯。

甲府い」は僕が大嫌いな人情噺。退屈極まりなかった。これだから江戸落語は……。地口(駄洒落)オチも苦しいし、判り難い。お粗末。

「英会話」はまず噺の出来が悪い。無理やり過ぎて全然笑えない。現代が舞台なのに子供が「金坊」なのも不自然。

任侠流山動物園」は20012年にトリイホールでも聴いている。レビューはこちら。今回は前回より長いバージョンだった。牛、豚、鶏、トラ、パンダ、象が喋る!物語は「清水次郎長伝」のパロディであり、途中、上方落語「動物園」のエッセンスも登場。最高に可笑しかった。

亀屋さんでの喬太郎の会はこれからも大いに期待するが(よろしくお願いします!)、左龍はもういいや。

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石丸幹二 主演/ブロードウェイ・ミュージカル「ジキル&ハイド」

3月26日(土)梅田芸術劇場へ。

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ミュージカル「ジキル&ハイド」は1997年4月21日から2001年1月7日まで1543回ブロードウェイのプリマス劇場で上演された。脚本/作詞はレスリー・ブリッカス、作曲はフランク・ワイルドホーン。

日本では山田和也演出で2001年に初演された。僕は2007年に梅芸で観ている。ジキル:鹿賀丈史(オリジナル・キャスト=OC)、ルーシー:香寿たつき(OC:マルシア)、エマ:鈴木蘭々(OC:茂森あゆみ)、アターソン:戸井勝海だった。今回のキャストはジキル:石丸幹二、ルーシー:濱田めぐみ、エマ:笹本玲奈、アターソン:石川禅、ダンヴァース卿:今井清隆。

前回観劇した時は死ぬほど詰まらなかった。拷問のようだった。兎に角、鹿賀丈史が酷すぎ。演歌調で音程をすくい上げるようにして合わせる歌い方がすごく嫌だし、演技も大根。ジキルからハイドへの豹変ぶりも全く表現出来ていない。

ところが今回キャストが一新され、初めてこのミュージカルの面白さ、真価が分かった。役者の力で作品が輝くことって本当にあるんだね。

石丸幹二はテレビドラマ「半沢直樹」でブレイクしたわけだが、僕は劇団四季時代から知っている。ロイド=ウェバーの「アスペクツ・オブ・ラブ」や、ミシェル・ルグラン作曲のミュージカル「壁抜け男」日本初演初日@福岡シティ(現:キャナルシティ)劇場を観た。石丸は劇団四季時代と比較して声量が増し、力強い歌唱で観客を魅了した。ジキルとハイドの演じ分けも見事であった。第1幕終盤の有名なナンバー「時は来た(This Is The Moment)」は聴き応えがあった。

濱田めぐみは歌が上手いと言えないが、演技力でカヴァー。厭世的で、熟し過ぎて腐る一歩手前の感じが役柄にぴったりだった。

笹本玲奈は歌唱力が抜群だし可愛いし文句なし。石川禅演じるジキルの友人もいい味出していた。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの原作小説は1886年に出版された。今や解離性同一性障害(多重人格)の代名詞になっている。ジキル的側面(善意)とハイド的側面(悪意)は誰しも少なからず持っている。清廉潔白で非の打ち所のない人なんて滅多にいないし、逆に根っからの大悪党も稀だろう。我々の内面ではジキル的なものとハイド的なものがしのぎを削りながら日々葛藤し、日常生活を営んでいる。また今回初めて気が付いたのは、娼婦ルーシーと婚約者エマという2人の女性も表裏一体であるという事だ。一方は薄幸で、貧しく、汚れており(dirty)、もう一方は親に愛され、生活は豊かで、純真(innocent)。ルーシーは最後にハイドに刺され、に染まり、エマは純白のウェディングドレスに身を包む。非常に対照的に描かれている。

「ジキル&ハイド」の物語は示唆に富むメタファーとして、現代人に多くのことを語りかけてくるのである。

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蘇る岩井俊二「リップヴァンウィンクルの花嫁」

評価:A-

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映画公式サイトはこちら

「リップ・ヴァン・ウィンクル」とはアメリカの小説家ワシントン・アーヴィングによる短編小説の題名・および主人公の名前である。1820年に発表され、森鴎外が翻訳。初出の雑誌『少年園』では邦題が「新世界の浦島」、後に最初の著訳集『水沫集』に収めるにあたり、「新浦島」に改められた。アメリカでは「時代遅れの人」、「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句にもなっている。リップ・ヴァン・ウィンクルはある日桃源郷に迷い込み、そこの男たちと酒盛りをして酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまう。彼が目覚めると20年が経過していたというお話。映画でもヒロインが酔っ払って熟睡する場面が登場する。

黒木華演じる主人公の名前は【七海】。これは七つの海を航海する旅人を連想させる。彼女とルームシェアすることになるのがCocco演じる【真白】。ウエディングドレス=花嫁のイメージに繋がる。

リップヴァンウィンクルとは【真白】がSNS上で用いるハンドル名なのだが、【七海】のハンドル名はクラムポン、後にカンパネルラに改める。クラムポンは宮沢賢治の童話「やまなし」に登場する生き物であり、カンパネルラは言うまでもなく「銀河鉄道の夜」の登場人物である。

つまりこの映画に於けるSNS=インターネットとは物語(フィクション)の世界を意味する。ハンドル名はいわば役名だ。

【七海】と【真白】が生活を共にする豪奢な洋館は虚構の空間である。そこでの暮らしは「不思議の国のアリス」の主人公が、ウサギ穴の底で体験した出来事に該当する。そして綾野剛演じる怪しげな《何でも屋》安室は現実虚構の世界を繋ぐ水先案内人。つまりゲーテ「ファウスト」におけるメフィストフェレスである。ダンテ「神曲」で言えば古代ローマ詩人・ウェルギリウスに相当し、「神曲」に基づく宮﨑駿監督のアニメーション「風立ちぬ」ではカプローニの役回り。面白いのは主人公の悩める魂を救済する女神が「ファウスト」ではマルガレーテ(愛称グレートヒェン)、「神曲」がベアトリーチェ、「風立ちぬ」が菜穂子という異性なのに対し、「リップヴァンウィンクルの花嫁」では同性(七海↔真白)になっている。ここが新機軸と言えるだろう。

映画の最後にヒロインは【ねこかんむり】を冠る。予告編にも登場。

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これはインターネットの匿名性のメタファーでもあり(目隠しした顔写真を想起させる)、 と同時に虚構の世界を見るための装置とも解釈可能である。360度動画を体験出来る「仮想眼鏡」みたいなものと捉えると判り易いだろう。

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【七海】は嘘でまみれた世界に生きている。何度も騙される。彼女自身も相手を傷つけないために嘘をつく。でもそれって本当に悪いことなのだろうか?嘘から出た真(まこと)もある。そう本作は語りかけてくる。「リップヴァンウィンクルの花嫁」は21世紀=SNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)時代に我々はどう生きればいいのか、何処に幸せを見出だせるのか?その指針(ヒント)を示す黙示録と言えるだろう。ラストシーンが松たか子主演「四月物語」(98)の冒頭部に繋がっているのも洒落てるなと想った。あと【七海】の出身地が岩手県の花巻市だと会話に出てきてドキッとした。花巻は宮沢賢治生誕の地であり、東日本大震災の影もそこに垣間見られた(岩井俊二は宮城県仙台市生まれ、やはり東北地方である)。

幕が上がる」を観た時から女優:黒木華の凄さは判っていたが、今回も素晴らしい。また岩井俊二は「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の奥菜恵、「LOVE LETTER」の酒井美紀、「花とアリス」の蒼井優の例を挙げるまでもなく、少女が最高に輝く瞬間を捉えてフィルムに永遠に封印することに長けた映画作家である。彼が黒木を撮るとこんなに映えるのか!と驚嘆した。

【真白】はとても痛々しい女性で観ていて切なくなるのだが、シンガーソングライター/絵本作家のCoccoは見事に演じ切った。調べてみると彼女は2009年に拒食症や自傷行為を告白しており、実人生と役柄に重なるものがあったのだろう。もしかしてこの脚本、当て書き?

それからメフィストフェレス役の綾野剛、胡散臭くて(でも時に優しさを垣間見せて)最高だった!非常に複雑で(多面性があって)難しい役柄である。

僕は長いこと岩井俊二の作家としてのピークは「打ち上げ花火」(1993)と「LOVE LETTER」(95)で、現在の彼はオワコン(終わったコンテンツ)だと考えていた(若い頃にピークを迎えた「市民ケーン」のオーソン・ウェルズや「家族ゲーム」「それから」の森田芳光のように)。「スワロウテイル」(96)は大嫌いだし、「リリイ・シュシュのすべて」(2001)は出演している少年たちが撮ったビデオ映像をそのまま挿入していて「ふざけんな!」と猛烈に腹が立った。汚い映画だった。福島原発事故の後は「friends after 3.11」(12)という柄にもないドキュメンタリーを撮り、蒼井優主演でオール・カナダ・ロケした「ヴァンパイア」(12)は全く話題にならなかった。そんな彼を「何やってんだ?」と冷ややかに見ていた。ところが!初のアニメーション「花とアリス殺人事件」(15)が意外と良かったのである。そして「リップヴァンウィンクルの花嫁」で岩井は完全復活を果たした。灰の中から何度でも蘇るフェニックス(不死鳥)の如く。「僕らの」岩井俊二が帰ってきた!

本作が掛け値なしの傑作であることは間違いない。ただ評価にをつけたのは、この物語を語るのに上映時間3時間は長すぎないか?と想ったのと、スローモーションの演出が多く、些か安っぽいMV(ミュージック・ビデオ)みたいだなと感じたためである。

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堀米ゆず子 バッハ&ブラームス プロジェクト 【最終回】

3月21日(月)兵庫県立芸術文化センター小ホールへ。

堀米ゆず子(ヴァイオリン)、サボルチ・ゼンプレーニ(ホルン)、工藤重典(フルート)、リュック・ドゥヴォス(ピアノ)で、

  • ブラームス:ホルン三重奏曲
  • J.S.バッハ:「音楽の捧げもの」よりトリオ・ソナタ ハ短調
  • J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番

アンコールもJ.S.バッハで

  • 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 第3楽章 ガヴォット
  • 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番 第3楽章 アンダンテ

ゼンプレーニはブタペスト生まれで2013年までバンベルク交響楽団の首席ホルン奏者を務めた。柔らかくふくよかな音。ただブラームスのホルン三重奏はバルブ/ピストンがないナチュラル・ホルンを想定して作曲されたとのことなので、一度そちらの実演も聴いてみたい。CDではスヴァールト(Hr)、ファウスト(Vn)、メルニコフ(P)が古楽器を用いたバージョンがある(けだし名演)。

「音楽の捧げもの」での工藤のフルートの音は粒立ち、端正。

堀米の独奏によるバッハは、ギドン・クレーメルほど激しく情熱的でもなく、五嶋みどりのように禁欲的で諦念と哀しみを湛えたものでもない。かと言ってイザベル・ファウストのようなピリオド・アプローチでもない。なんだかどっちつかずで中途半端なんだなぁ。良くも悪くも中庸というか。

アンサンブル(室内楽)は充実していたが、無伴奏は物足りないシリーズであった。

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関西弦楽四重奏団/チェコ音楽の夕べ

3月22日(火)大阪倶楽部へ。関西弦楽四重奏団(Vn:林 七奈、田村安祐美 Va:小峰航一 Vc:上森祥平)で、

  • シュルホフ:弦楽四重奏のための5つの小品
  • ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲 第12番「アメリカ」
  • スメタナ:弦楽四重奏曲 第1番「我が生涯より」

彼らの演奏を昨年聴いた感想はこちら

前半(シュルホフ&ドボ)は1st.:田村、2nd:林、後半はポジションが交代となった。

シュルホフ(シュールホフ)は一度聴いたことがある。

ユダヤ人で共産主義に傾倒したシュルホフ(プラハ生まれ)の作品はナチスにより「退廃音楽」の烙印を押され、1941年に逮捕、その翌年に強制収容所で亡くなった。享年48歳、死因は結核だった。

5つの小品はピチカートで始まり、パンチが効いた音楽が展開される。土の匂いがするという点でバルトークやコダーイを彷彿とさせる。丁々発止のやり取りがスリリング。いい曲だ。

「アメリカ」はヴィオラとチェロの低音パートがよく歌い、雄弁。ロータス・カルテットは低音が弱いので、関西四重奏団はここが強みといえるだろう。第2ヴァイオリンの野太い音も◯。

「我が生涯より」は第3楽章の重厚なハーモニーに魅了された。

今回最も感銘をうけたのはシュルホフ。やはり彼らの演奏は近・現代作品がよく似合う。

今後、関西弦楽四重奏団で是非聴きたい曲ベスト5を最後にリクエストしておく。

  1. アルベリク・マニャール:弦楽四重奏曲 ホ短調
  2. エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト:弦楽四重奏曲 第2番
  3. アレクサンドル・グラズノフ:弦楽四重奏曲 第5番
  4. フランツ・シュミット:弦楽四重奏曲 ト長調
  5. バルトーク・ベーラ:弦楽四重奏曲 第4/5番

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映画「リリーのすべて」と「ライアンの娘」

評価:A

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「リリーのすべて」は米アカデミー賞に主演男優、助演女優、美術、衣装デザインの4部門にノミネートされ、スウェーデン出身のアリシア・ヴィキャンデル(27)が助演女優賞を受賞した。原題は"The Danish Girl"、直訳すれば「デンマークの女の子」。映画公式サイトはこちら

1928年世界で初めての性別適合手術を受けたデンマークの画家アイナー・ヴェイナーのが主人公(実話)。因みについ先日、「バウンド」「マトリックス」を監督したウォシャウスキー兄弟がふたりとも性別適合手術(ラナが2008年、リリーが2016年)を受け、ウォシャウスキー姉妹になったことでも話題となった。

トランスジェンダーがテーマなわけだが、「性同一性障害」という日本語は差別意識を生む可能性があるということで、日本精神神経学会は「性別違和」という呼称に変更すると表明している。これは「障害者」が「障碍者/障がい者」になった動きと連動したものだろう。因みに現在では「精神分裂病」という言葉は使われず、「統合失調症」になった(←持って回った言い方で、意味が判り難い)。

アイナーの妻ゲルダを演じたアリシア・ヴィキャンデルがとにかく可愛い💞。胸はちっちゃいけど。彼女はティーンの頃にサウンド・オブ・ミュージックやレ・ミゼラブルに出演経験があるそうなので、是非ミュージカル映画に出て欲しい。

あと冒頭の風景の描き方がデヴィッド・リーン監督の「ライアンの娘」みたいだなと直感した。するとラストシーンにアリシア・ヴィキャンデルの首に巻いたマフラーが風で飛んでいってしまう描写が登場。ビンゴ!!←「ライアンの娘」の冒頭ではヒロイン・ロージーのパラソルが風で空中高く舞い上がり、ラストシーンではロージーの帽子が飛んで行くのだ。帰宅して調べてみると案の定、トム・フーパー監督がデヴィッド・リーンへの憧れを吐露している記事を発見した→こちら

「リリーのすべて」を観ながら映画「五線譜のラブレター」のことを想い出した。ゲイだった作曲家コール・ポーターのセクシャリティを受け入れ、彼のことを生涯支え続けた妻リンダの物語。リンダとゲルダの印象がピタリと重なった。いい話だ。

ところでアリシア・ヴィキャンデルは最初から最後まで出ずっぱりなんだけれど、これって主演じゃないの??助演女優に分類されたのは恐らく映画会社の戦略で、主演女優賞より獲り易いと判断されたのだろう。

今年のアカデミー賞は黒人俳優が全くノミネートされず、多様性の欠如が問題となった。これは人種問題だけに留まらず、保守的なアカデミー会員はトランスジェンダー/ゲイへの差別意識も強い。「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフ役で知られるイアン・マッケランは英ガーディアン紙のインタビューで次のように語った。「ゲイであることを公表している俳優がアカデミー賞を受賞したことはない。これは偏見によるものなのかな。それとも単なる偶然なのかな」

本命と言われた「ブロークバック・マウンテン」は結局、アカデミー作品賞を受賞出来なかったし、今年も「キャロル」や「リリーのすべて」は作品賞・監督賞にノミネートされていない。偏見以外の何物でもないだろう。

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観ずに死ねるか!? 傑作ドキュメンタリー10選 プラス1

はじめに、ドキュメンタリーという性質上、映画とテレビ作品との区別をつけなかった。順不同で選りすぐりの逸品をご紹介していこう。

  • 映像の世紀 (NHK/ABC)
  • 未来への遺産 (NHK)
  • プラネットアース (BBC/NHKほか)
  • 戦火のマエストロ・近衛秀麿
    〜ユダヤ人の命を救った音楽家〜 (NHK)
  • 東京裁判
  • 柳川堀割物語
  • ボーリング・フォー・コロンバイン
  • 不都合な真実
  • マン・オン・ワイヤー
  • DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on
    少女たちは傷つきながら夢を見る
  • ゆきゆきて、神軍

映像の世紀」 戦後50周年およびNHKの放送開始70周年記念番組として制作・放送されたドキュメンタリー番組。アメリカABCとの国際共同取材。 1995年3月から1996年2月にかけて、「NHKスペシャル」で放映された。全11集。また2015-6年に「新・映像の世紀」も放送された。これは「映像の世紀」を補完する内容なので、併せてどうぞ。20世紀の歴史が手に取るように良く理解出来る。貴重な映像が満載。歴史を学ぶことは処世術を身につけること。これからの貴方の人生に必ず役に立つ筈だ。加古隆が作曲したテーマ音楽「パリは燃えているか」(下野竜也/NHK交響楽団)が印象的。

未来への遺産」 1974年3月から75年10月までNHK放送開始50周年記念番組として放送された大型番組。「文明はなぜ栄え、なぜ滅びたか」をテーマに制作され、現在では取材不可能な地域を含む、44か国、150か所の文化遺産を徹底取材。ユネスコの世界遺産条約が発効したのが1975年、第1号が世界遺産リストに登録されたのが78年なのでそれ以前の番組ということになる。マヤ文明の遺跡から発掘されたパカル王の翡翠の仮面は番組収録後の1985年に盗難に遭い、4年半後に無事戻ってきた。あまりにも有名で、盗人が売り捌くことが出来なかったようだ。

Palenque

また本作に登場するバーミヤン渓谷の2体の大仏は後にアフガニスタン戦争でタリバンによって破壊されてしまった。武満徹の音楽がいい(岩城宏之/NHK交響楽団)。あと女優・佐藤友美が「幻影」として登場するのには賛否両論あるだろうが、僕は雰囲気があって好きだな。DVDかNHKアーカイブスでどうぞ。

プラネットアース」 

Planet

イギリスBBCによる自然ドキュメンタリー・シリーズ。NHKとアメリカ・ディスカバリーチャンネルとの共同制作、全11集。2006-7年に放送された。エミー賞では作品賞など4部門を受賞。後に「アース」としてダイジェスト版が映画館でも上演されたが、是非オリジナル版を観て欲しい。音楽はジョージ・フェントンで、ベルリン・フィルが演奏していることも話題となった。また姉妹編としてBBCの海洋ドキュメンタリー「ブルー・プラネット」(こちらもベルリン・フィルが参加)やフランスのドキュメンタリー映画「WATARIDORI」もお勧め。宇宙船地球号に有る、雄大な自然を堪能しよう。

戦火のマエストロ・近衛秀麿」は2015年にNHK BS1スペシャルとして放送された最新のドキュメンタリー。番組公式サイトはこちら。事実は小説よりも奇なり。とにかくびっくりした。ベルリン・フィルを指揮し、日本初の常設オーケストラを組織した男、近衛秀麿。彼は内閣総理大臣・近衛文麿の弟でもあった。兄と最後に交わした言葉が切ない。余談だが阪急電鉄・宝塚歌劇団・東宝株式会社の創業者・小林一三は第2次近衛内閣で商工大臣を務めた。このあたりのことはNHK 放送90年ドラマ「経世済民の男 小林一三」で面白く描かれているのでそちらもお勧め。公式サイトはこちら

東京裁判」(1983) 小林正樹監督によるドキュメンタリー映画。上映時間な、なんと4時間37分!!でも僕は公開当時に映画館で一気に観たよ。重厚な手応えがあり。昭和史について学ぼう。音楽は武満徹。

柳川堀割物語」(1987) 

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福岡県柳川市に張り巡らされた水路網「掘割」。荒廃した水路が再生されるまでの物語。「火垂るの墓」「かぐや姫の物語」の高畑勲監督作品。プロデューサーは宮﨑駿。元々アニメの舞台として柳川を登場させるつもりでロケハンを行ったが、水路再生の中心人物である市職員の話を聞いて感銘を受け、柳川そのものを主題にしたドキュメンタリーを製作することに決めたという。上映時間165分。人間と自然(環境)の関係(共生)がテーマという点で、高畑・宮崎アニメに通じるものがある。

マン・オン・ワイヤー」(2008,英)

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アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞。監督のジェームズ・マーシュはフィクションも撮る人で、そちらの代表作には「博士と彼女のセオリー」がある。本作のレビューはこちら。後にジョゼフ・ゴードン=レヴィット主演でハリウッド映画に生まれ変わった。

人は何故、一見無意味に思えることに対して情熱を注ぐのか?哲学的思考の旅へようこそ。

ボーリング・フォー・コロンバイン」(2002,米) アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞受賞。コロンバイン高校銃乱射事件に題材を取り、銃社会アメリカの病んだ姿を浮き彫りにする。2003年公開当時に書いたレビューはこちら。なおこの事件をモチーフにした劇映画「エレファント」は2003年カンヌ国際映画祭でパルム・ドール及び監督賞を受賞した。

不都合な真実」(2006,米) アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞、及びアカデミー歌曲賞を受賞。元アメリカ合衆国副大統領アル・ゴアの講演をベースに、地球温暖化のメカニズム解明に挑む。2007年ゴアは環境問題への取り組みが評価され、ノーベル平和賞を受賞。ノーベル平和賞って何でもありだな。

DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら夢を見る」2012年公開当時に書いたレビューはこちら。アイドル映画を観に行ったら戦争映画だったという衝撃。文字通り戦慄が走った。

ゆきゆきて、神軍」 本作の魅力は奥崎謙三という人物の強烈なキャラクターに負うところが大きい。「カメラを向けられると、演技してしまう出演者」を取材対象として「虚実不明」の状況にし、ドキュメンタリー映画の持つ「いかがわしさ」「やらせ的志向」を徹底的に突き詰めた作品。キネマ旬報ベストテン第2位。

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【増補改訂版】厳選!これだけは観て(聴いて)おきたいオペラ・ベスト25(+吹奏楽との関連も)

クラシック音楽愛好家の中でも「オペラは苦手」という人が少なくない。まず上演時間が異常に長い。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」は休憩時間込みだと5時間半かかる。実質的演奏時間も約4時間だ。「ニーベルングの指環」だと4夜を費やす。またミラノ・スカラ座とかメトロポリタン・オペラなど一流の歌劇場の来日公演を観劇したければチケット代として最低5万円は覚悟しなければならない。ヨーロッパでオペラ座は貴族の社交場だったわけで、所詮庶民には手が届かない文化だ。言語の問題もある。歌詞対訳を片手に聴かないとチンプンカンプンで面白くもなんともない。だから通勤・通学中にイヤホンで「ながら聴き」する訳にはいかない。ある程度の集中力を要求される。

僕がオペラを聴き始めたのは中学生1年生の頃で、最初はヴェルディの「椿姫」が好きだった。考えてみればパリの高級娼婦の話(原題を直訳すると「道を踏み外した女/堕落した女」)だからませたガキだ。音源はカルロス・クライバー指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団。イレアナ・コルトバスやプラシド・ドミンゴらの歌唱。当時は未だLPレコードの時代で、中学生に2枚組LPを買うお金もなく、FM放送をカセットテープにエアチェックして聴いていた(歌詞対訳本は購入)。

中学3年生の時にお小遣いを貯め、クライバー指揮ミラノスカラ座引っ越し公演プッチーニ「ラ・ボエーム」を観るために岡山から大阪(旧フェスティバルホール)まで新幹線で駆けつけた。演出・舞台美術はフランコ・ゼッフィレッリ、ミミがミレッラ・フレーニ、ロドルフォがペーター・ドヴォルスキーという史上最強のプロダクションだった。当時は今みたいに便利なLEDによる舞台字幕装置なんかなかったから、歌詞対訳を一生懸命予習してまる覚えしたものだ。大変な労力を要した。

だから現代の若い人たちは幸せである。DVDとかBlu-ray、あるいは映画館のライブビューイングで字幕付きのオペラを気軽に楽しめる時代になったのだから。それも3〜5千円程度で。レーザーディスク(LD)時代は1万円以下でソフトを購入することなど出来なかった。

そこで今回はオペラの醍醐味を堪能できる作品を幾つか紹介していこう。当然僕が選ぶのだから直球だけではなく、変化球クセ球を織り交ぜている。でも自信を持ってお勧め出来るものばかり取り揃えた。なお、1作曲家1作品に絞った。また吹奏楽との関連についても触れた。では早速いってみよう!

  1. ディーリアス:村のロメオとジュリエット
  2. コルンゴルト:死の都
  3. ヴェルディ:シモン・ボッカネグラ
  4. ワーグナー:ニーベルングの指環(4部作)
  5. ヤナーチェク:利口な女狐の物語
  6. プッチーニ:トスカ
  7. R.シュトラウス:ばらの騎士
  8. チャイコフスキー:エフゲニー・オネーギン
  9. J.シュトラウス:こうもり
  10. ブリテン:ピーター・グライムズ
  11. 松村禎三:沈黙
  12. ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人
  13. ドニゼッティ:マリア・ストゥアルダ
  14. モンテヴェルディ:オルフェオ
  15. ガーシュウィン:ポーギーとベス
  16. マスカーニ:カヴァレリア・ルスティカーナ
  17. ラヴェル:こどもと魔法
  18. ドビュッシー:ペレアスとメリザンド
  19. オッフェンバック:地獄のオルフェ
  20. ヴァイル:三文オペラ
  21. ベルク:ヴォツェック
  22. モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ
  23. ボーイト:メフィストフェーレ
  24. ロッシーニ:湖上の美人
  25. フンパーディング:ヘンゼルとグレーテル
  26. (次点)細川俊夫:海、静かな海

 「村のロメオとジュリエット」1907年、ベルリンで初演。20世紀のオペラである。僕はディーリアスが大好きで、特に夏になると管弦楽のための音詩(tone poem)を無性に聴きたくなる。そんな一つ、サー・トーマス・ビーチャムが編曲した「楽園への道」は「村のロメオとジュリエット」間奏曲である。しかしディーリアスを取り上げるのは専らイギリスのオーケストラであり、例えばウィーン・フィルやベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ、パリ管などがディーリアスを演奏したという話はとんと聞かない。すさまじい偏見、不寛容である。つい最近まではエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトも同様の扱いだった。「村のロメオとジュリエット」は繊細で美しい旋律がたゆたう、幻想的で魅惑的なオペラなのだが、世界の歌劇場で上演される機会は滅多にない。映像ソフトもない。ただ幸いな事に映画版がある。演奏はチャールズ・マッケラス指揮のオーストリア放送交響楽団&合唱団。トーマス・ハンプソンが出演しており、極上の仕上がりだ。日本版DVDがないのが残念だが(LDでは発売され、僕は持っていた)、海外版はAmazonやHMVから入手可能(Region All)。英語字幕を呼び出せるので少々英語力があれば鑑賞に問題ない。

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトと彼が23歳の時に書き上げた「死の都」については以前さんざん語り尽くしたので、下記をご覧あれ。

DVDはいくつか出ているが、フィンランド国立歌劇場(ライヴ)がお勧め。新国立劇場でも採用されたカスパー・ホルテンの演出がいい。

それまで上演やレコーディングされる機会が多くなかった「シモン・ボッカネグラ」の真価は指揮者クラウディオ・アバドにより《再発見》されたと言っても過言ではない。アバドはロッシーニの忘れ去られたオペラ「ランスへの旅」蘇演にも尽力した。ヴェルディ作品の特徴はバリトンが重要な役割を果すことにある。「リゴレット」然り、「マクベス」、「イル・トロヴァトーレ」のルーナ伯爵、「仮面舞踏会」の秘書レナート、「ドン・カルロ」の親友ロドリーゴ侯爵、「オテロ」のイアーゴ、「ファルスタッフ」もそう。「シモン・ボッカネグラ」のタイトルロールはバリトンで、フィエスコ役のバスも大活躍。低音の魅力を堪能出来る。初演は1857年だが1881年に改訂された。改訂版の台本は後にヴェルディとの共同作業で「オテロ」と「ファルスタッフ」という傑作を産んだアッリーゴ・ボイートの手による。「シモン・ボッカネグラ」を愉しむには、アバド/ミラノ・スカラ座のCDをまず第一にお勧めしたい。カプッチルリ(バリトン)、ギャウロフ(バス)、フレーニ(ソプラノ)、カレーラス(テノール)と歌手陣も非の打ち所がなく、掛け値なしの超名盤である。映像もいくつかあるのだが、帯に短し襷に長しといったところ。強いて挙げるならヌッチが主演したBlu-rayかな?因みに僕が好きなヴェルディ・バリトンの順位は①ピエロ・カプッチルリ②ティート・ゴッビ③レオ・ヌッチ④ディミトリ・ホヴォロストフスキー(ホロストフスキー)←イケメンである。なお、クラウディオ・アバドという人は独特のこだわりがある指揮者で、彼はミラノ・スカラ座の音楽監督/芸術監督を20年近く務めたわけだが、生涯プッチーニとヴェリズモ・オペラを指揮することはなかった。またヴェルディについても人気演目である「椿姫」「リゴレット」「イル・トロヴァトーレ」は完全無視で、「マクベス」「シモン・ボッカネグラ」「ドン・カルロ」「仮面舞踏会」などを偏愛した。

「ニーベルングの指環」は神話だ。トールキンの「指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)」にも多大な影響を与えた。構想から上演まで25年を費やし、ワーグナーは数多くのライトモティーフ(示導動機)を複雑に絡ませながらこの壮大な物語を紡いだ。この手法はR.シュトラウス→コルンゴルトに引き継がれ、ハリウッド映画に持ち込まれた。それを活用しているのがジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」シリーズである。

また宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」で父親のフジモトがポニョのことを”ブリュンヒルデ”と呼ぶのだが、これは「ニーベルングの指環」のことを知っていれば理解出来るだろう。さらに嵐の場面で久石譲の音楽がどうして”ワルキューレの騎行”を模しているのかという理由も。僕がこの楽劇を全曲通して初めて聴いたのは高校生の時。カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団の演奏で、16枚組みのLPレコードだった。映像ソフトとしてお勧めしたいのはレヴァイン/メトロポリタン・オペラ。写実的(オーソドックス)な演出はオットー・シェンク。近年メトで上演されたロベール・ルパージュ(シルク・ドゥ・ソレイユの演出家)版も悪くない。吹奏楽コンクールでは梅田隆司/大阪桐蔭高等学校が2011年に「ワルキューレ」で全国大会金賞を受賞している。

またワーグナーで絞る時、本作にするか「トリスタンとイゾルデ」にするか、随分迷った。「トリスタン」といえば官能法悦エクスタシーを感じさせるという点で他の追随を許さない。カルロス・クライバーが生涯で指揮した唯一のワーグナー作品でもある。現在までに「トリスタン」を指揮している最中に死亡した指揮者は2人いる。うちヨーゼフ・カイルベルトは生前、口癖のように「『トリスタン』を指揮しながら死にたい」と言っていたという。そしてその願いは叶った。

バーナード・ハーマンが作曲したアルフレッド・ヒッチコック監督「めまい」の音楽は明らかに「トリスタン」を意識している。映像は1983年バイロイト音楽祭のプロダクションがイチ押し。兎に角、フランスの鬼才ジャン=ピエール・ポネルによる演出が筆舌に尽くし難いほど美しい。また第3幕の解釈が斬新で、これには唸った。

「利口な女狐の物語」1924年初演。日本初演は77年とかなり遅い。動物たちが登場し、一見民話風なのだが、非常に色っぽいオペラである。ヤナーチェクの音楽の特徴は「艶」なのだということをこの作品を通じて初めて理解出来た。彼の弦楽四重奏曲 第2番「ないしょの手紙」は不倫音楽であり、ヤナーチェクは愛人(人妻)&その息子と旅行中に病に倒れ、彼女に看取られて息を引き取った。享年74歳、とんでもないエロジジイである。ヤナーチェクのシンフォニエッタは村上春樹の小説「1Q84」で取り上げられ、CDが飛ぶように売れた。吹奏楽コンクールでは石津谷治法/習志野市立習志野高等学校が2005年に全国大会で演奏し、金賞を受賞している。

「トスカ」はスカルピアが強烈。マリア・カラスのレコーディングでこの役を演じたティート・ゴッビが素晴らしい。「オテロ」のイアーゴと並ぶ、イタリア・オペラ最強の悪役だろう。映像ではフランコ・ゼッフィレッリが演出したメト版をお勧めする。あとゲオルギュー、アラーニャ主演の映画も◯。同じプッチーニ「ラ・ボエーム」の演出もゼッフィレッリが最高。ただし、カラヤンが指揮した映像は旧演出でイマイチ。新演出は第2幕の舞台装置に大きな違いがある。「トスカ」は鈴木英史編曲による吹奏楽版があり、井田重芳/東海大学付属第四高等学校が全国大会金賞を受賞している。

僕はリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲を全く評価しない。派手だけど詰まらない。中でも音量がうるさいだけで空疎なアルプス交響曲は唾棄すべき代物である。しかし「サロメ」「エレクトラ」などオペラは別だ。「ばらの騎士を一言で評するなら豊穣なオペラということになるだろう。全篇が馥郁たる香りに満ちている。初演はドレスデン宮廷歌劇場で1911年。この後ドイツは1914年に開戦した第一次世界大戦に敗れ、多額の賠償金を請求されて天文学的なインフレに苦しむことになる。やがてナチス・ドイツの台頭。リヒャルト・シュトラウスもナチスと関わらざるをえない状況に追い込まれる(第二次大戦後、彼はナチスに協力したかどうかで連合国の裁判にかけられたが、最終的に無罪となった)。バイロイト音楽祭を主催するワーグナー家も積極的にナチスに結びつくことになる(ジークフリート・ワーグナーの未亡人ヴィニフレートは戦後、公職追放となった)。僕は「ばらの騎士」を観ていると、一つの時代(貴族社会)の終焉をひしひしと感じる。それは貴族の末裔であるルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「山猫」や「ルートヴィヒ」「家族の肖像」を観た時の印象に近いものである。お勧めの映像はカルロス・クライバーが指揮したもの。バイエルン国立歌劇場とウィーン国立歌劇場のものと2種類ある。カルロスは他にR.シュトラウスの「エレクトラ」を振ったが、正規の録音・録画は「バラの騎士」しかない。吹奏楽編曲は森田一浩によるものがあり、宇畑知樹/埼玉県立伊奈学園総合高等学校が全国大会金賞を受賞している。

「エフゲニー・オネーギンチャイコフスキーの音楽は美しい。また「くるみ割り人形」もそうだけれど、雪の風景がよく似合う。1879年初演。「手紙の場」は名場面である。チャイコフスキーはバレエ音楽の達人だから、舞踏会の場面に流れるポロネーズも鮮烈だ。原作はプーシキンの韻文小説で、プーシキンは自分の妻(名うての美人)に言い寄る男に決闘を申し込み、敗れて亡くなった。享年37歳。「エフゲニー・オネーギン」も決闘の物語である。映像はヴァレリー・ゲルギエフが振ったものを推す。

「こうもり」はこれぞ喜歌劇!と言える作品。

人生が今宵のように 軽やかに
過ぎ去るならば 時忘れ楽しもう

久しぶりに観直して、本作の真髄はこの歌詞に凝縮されているなと感じた。映画「8 1/2」(フェデリコ・フェリーニ監督)の名台詞「人生は祭だ。一緒に過ごそう」とか、「命短し 恋せよ乙女(ゴンドラの唄)」に通じるものがある。つまり、カルペ・ディエムだ。

ウィーンでは毎年大晦日の夜、国立歌劇場で「こうもり」を上演するのが恒例となっている。国立歌劇場の前身である宮廷歌劇場の芸術監督だったグスタフ・マーラーは「こうもり」を高く評価しており、彼の手で正式なレパートリーになったという(しばしば指揮もした)。様々な登場人物たちの、ささやかな欲望や虚栄心が描かれるが、本作はそれらを全面的に肯定している。そこがいい。映像は芳醇なワインのようなオットー・シェンクが演出したものにとどめを刺す。カルロス・クライバー/バイエルン国立歌劇場か、グシュルバウアー/ウィーン国立歌劇場でどうぞ。後者はルチア・ポップ、ベルント・ヴァイクル、ブリギッテ・ファスベンダーら綺羅星の歌手が出演していて壮観である。またヴァルター・ベリー、エーリッヒ・クンツらベテランがいぶし銀の演技で魅了する。吹奏楽コンクールでは2006年に石田修一/柏市立柏高等学校が鈴木英史編曲による喜歌劇「こうもり」よりセレクションで全国大会金賞を受賞している。

「ピーター・グライムズ」ベンジャミン・ブリテンはゲイであり、生涯のパートナーは本作など多くのブリテン作品で主役を務めたテノール歌手ピーター・ピアーズだった、というのが重要。

ここを押さえておかないと、作曲家が「ピーター・グライムズ」で何を描きたかったのか判らないだろう。陰鬱なオペラである。でもそこがいい。初演は1945年。当時イギリスで、同性愛者がどういう社会的制裁を受けていたかは映画「イミテーション・ゲーム」を観ればよく判る。いやもう、本当にびっくりするよ!オーケストラがまるで通奏低音のように海のうねりを描き、それは人間の深層心理の鏡にもなっている。映像はメト版が◯。このオペラから「4つの海の間奏曲」という管弦楽曲が編纂された。吹奏楽編曲版もあり、吹奏楽コンクール全国大会で何度か演奏されている。またブリテンではシェイクスピアを原作とする歌劇「夏の夜の夢」も幻想的で、抗し難い魅力を持っている。

「沈黙なにしろ遠藤周作の原作が面白い!オペラの台本としてもかなり上位に来る出来だろう。1971年に篠田正浩監督が映画化しており、今年マーティン・スコセッシ監督版が公開予定である。主役は当初、渡辺謙が予定されていたが撮影延期で降板せざるを得ない事態となり(ブロードウェイで「王様と私」出演が決まっていたので)、浅野忠信が代演した。オペラに話を戻すと、松村禎三の音楽もいい。日本を代表するオペラといえば團伊玖磨の「夕鶴」や山田耕筰の「黒船」などが挙げられる事が多いが、僕は断固「沈黙」を推す。

「ムツェンスク郡のマクベス夫人」スターリンの逆鱗に触れ、長いことお蔵入りになった作品。詳しい事情は下記記事をご一読あれ。

激烈な内容である。第1幕終盤には強姦シーンがあり、最初観た時は目が点になった。登場人物はまるでドストエフスキーの小説のように「過剰な人」たちだ。むしろ逆に、これでスターリンの怒りを買わないと高を括っていたショスタコの方が僕は信じられない。普通、分かるだろう!いやはや、愉快な奴だ。映像はヤンソンスが指揮したネーデルラント・オペラを推奨。吹奏楽では鈴木英史による間奏曲の編曲版がある。

マリア・ストゥアルダ」(1835年初演)はイタリアでロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニが活躍した19世紀前半ベルカント(唱法)時代の代表作として挙げた。ドニゼッティなら「愛の妙薬」や「ランメルモールのルチア」の方がポピュラーだが、内容が劇的で興奮するという点において「マリア・ストゥアルダ」が上回っている。エリザベス1世とメアリー・スチュアートの確執の物語。ケイト・ブランシェットが主演した映画「エリザベス」とか中谷美紀が主演した舞台「メアリー・スチュアート」、クンツェ&リーヴァイによるミュージカル「レディ・ベス」など繰り返し取り上げられている題材である。輝かしい旋律美に乾杯!推薦ソフトはミラノ・スカラ座の公演。また「ランメルモールのルチア」に関しては、美貌のソプラノ、ステファニア・ボンファデッリがタイトルロールを務めたカルロ・フェリーチェ劇場の公演を収めたDVDが素晴らしい。特に青を基調とした衣装と美術装置は見応えがあり、空間の切り取り方が斬新。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」(1890年初演)は「道化師」と並び、ヴェリズモ・オペラの代表作である。同時代のヴェリズモ文学(自然主義、現実主義)に刺激を受け、市井の人々の日常生活や暴力衝動を描く1890年代から20世紀初頭にかけてのイタリア・オペラの新傾向のことを指す。上演時間70分とオペラにしては極めて短い!そしてイタリア・オペラの真髄がこれ1本で理解出来る。だから初心者向けと言えるだろう。僕はイタリア・オペラの特徴を「激しい嫉妬/復讐心が物語を転がしていく原動力になっている」ことだと考えている。プッチーニの「トスカ」やヴェルディの「椿姫」「アイーダ」「イル・トロヴァトーレ」「オテロ」なんか、みんなそう。「カヴァレリア・ルスティカーナ」も例外ではない。もうドロドロ。そこが魅力。あとその多くはカソリック教徒で信心深いとか、男は概ねマザコンであるとかイタリア人の特徴がこのオペラによく出ている。映像はカラヤン/スカラ座がお勧め。また宍倉晃による吹奏楽編曲版があり、大滝実/埼玉栄高等学校が全国大会金賞受賞。さらに中国映画「太陽の少年」でこのオペラの間奏曲が非常に印象的に使われていることも付記しておく。

「オルフェオ」は1607年、マントヴァ@イタリアで初演。最初期の作品の一つである。モンテヴェルディはルネサンス音楽からバロック音楽への転換点に立つ音楽家である。素朴で、これぞオペラの原点!映像では古楽界の巨匠、ジョルディ・サヴァールが指揮した2002年リセウ大歌劇場で収録されたDVDを推す。なんとも古式ゆかしい雰囲気で、指揮者も演奏家たちもまるで17世紀の宮廷楽士のような扮装をしている。当然ピリオド・アプローチ(古楽奏法)。さあ、モンテヴェルディの時代にタイム・スリップだ。

「ポーギーとベス」は1935年初演。アメリカを代表するオペラである。ガーシュウィンはその2年後に脳腫瘍で亡くなった。享年38歳。ジャズや黒人音楽のイディオムが用いられている。ほぼ全員、登場人物が黒人というのもユニーク。本作以降、アメリカには優れたオペラがないが、その代わりブロードウェイ・ミュージカルが華々しく咲き誇ることになる(ミュージカルについてはこちらの記事で大いに語った)。ソフトはサイモン・ラトルが指揮したDVDにとどめを刺す。演出は「キャッツ」や「レ・ミゼラブル」で知られるトレヴァー・ナン。吹奏楽コンクールでは1964年全国大会職場の部でソニー吹奏楽団が1位になっている。また最近「アルヴァマー序曲」で有名なジェームズ・バーンズによる編曲が出版された(グレード:4)。

「こどもと魔法」は可愛らしくユーモラスで、機知に富んだファンタスティックなオペラ。上演時間45分程度と非常に短く、同じラヴェルの「スペインの時」と同時上演されることが多い。終盤でワルツが登場するのが魅惑的。小澤征爾/サイトウ・キネン・フェスティバル松本でのパフォーマンスを収めたCDが2016年にグラミー賞を受賞したことでも話題となった。推奨する映像は大野和士が指揮したグラインドボーン音楽祭@2012のもの。演出はロラン・ペリーで実はサイトウ・キネン・フェスティバル松本との共同制作であった。

「ペレアスとメリザンド」はメーテルリンクが書いた戯曲だが、これを題材にした作品はドビュッシーのオペラ(1902年初演)の他にフォーレの劇付随音楽(1898)、シェーンベルクの交響詩(1903)、シベリウスの劇付随音楽(1905)がある。これだけ後世の作曲家に影響を与えた戯曲としてはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」くらいしか思い浮ばない(ベッリーニとグノーのオペラ、ベルリオーズの劇的交響曲とチャイコフスキーの幻想序曲、プロコフィエフのバレエ、バーンスタインの「ウエストサイド物語」とプレスギュルヴィックによるフランス産ミュージカルがある)。あと文学作品ではゲーテの「ファウスト」。詳細は下記記事をご覧あれ。

ドビュッシーは下半身がだらしない人だった。18歳で人妻と不倫。次にガブリエル・デュポンと同棲するが浮気がバレてデュポンはピストルで自殺未遂を起こす。デュポンと別れリリー・テクシエと結婚するが、またまた銀行家の妻エンマ・バルダックと不倫して駆け落ち、妻リリーは自殺未遂。エンマは娘を産み、ふたりは再婚することになるが、これが一大スキャンダルとなり彼は世間からの激しい非難に曝されることになる。そうしたドビュッシーの《恋愛観》が、「ペレアスとメリザンド」への創作意欲を掻き立てたという側面は多分にあるだろう。だから彼の音楽はヤナーチェク同様、色気があるのだ。因みにガブリエル・フォーレが作曲した組曲「ドリー」はエンマ・バルダックが前夫との間にもうけた娘エレーヌ(愛称ドリー)のために書かれた。フォーレとエンマはどうも愛人関係だったらしく、エレーヌもフォーレの子ではないかという説が有力である。一方、ドビュッシーはエンマとの間に生まれた娘をシュシュ(キャベツちゃん)と呼んで溺愛し、その娘のために組曲「子供の領分」を作曲した。一人の女を《共有》した、二人の大作曲家。なんともはや、凄まじい話である。

「地獄のオルフェ」って耳にしたとこがないけど?という貴方、日本では「天国と地獄」という俗称でも親しまれております。「椿姫」と似ていますな。モンテヴェルディ「オルフェオ」と同じギリシャ神話に基づくパロディ。この物語をオペラ化した作品として他に、グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」がよく知られている。1949年に詩人で映画監督のジャン・コクトーは「オルフェ」を撮り、1959年にマルセル・カミュ監督は出演者が全員黒人の「黒いオルフェ」を撮った。オッフェンバックやコクトー、カミュもフランス人というところが興味深い。兎に角、愉しいオペレッタだ。粋で洒落ている。映像はミンコフスキが指揮したものに尽きる。芸達者なナタリー・デセイに酔い痴れたまえ。吹奏楽コンクールでは葛飾吹奏楽団とヤマハ吹奏楽団がこの曲で全国大会金賞を受賞している。また吹奏楽アニメ「響け!ユーフォニアム」にも登場。

「三文オペラ」は文字通りオペラなのか?というのは興味深い問題である。1928年、ベルリンのシッフバウアーダム劇場こけら落とし公演として初演された。「ばらの騎士」より11年後ということになる。音楽劇であるが、少なくともミュージカルではない。ストレート・プレイでもない。オペラ/オペレッタからミュージカルへの橋渡しをした、新しいジャンルを切り開いた作品という評価こそ相応しいだろう。後に「退廃芸術」の烙印を押され、ナチス・ドイツからの執拗な上演妨害工作を経て、ユダヤ人だったクルト・ヴァイルはアメリカに渡ってブロードウェイ・ミュージカルの作曲家となり、マルクス主義者だった劇作家ベルトルト・ブレヒトはデンマーク、スウェーデン、アメリカと転々としながら亡命生活を送り(ハリウッドではフリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の脚本を執筆)、戦後は吹き荒れる赤狩りの嵐を逃れて東ドイツに亡命した(ここでスターリン平和賞を受賞)。ちなみに1933年にナチス・ドイツ政府はブレヒトの著作の刊行を禁止し、焚書の対象にした。ブロードウェイ・ミュージカル「キャバレー」は正に「三文オペラ」が初演された当時のベルリンの雰囲気を再現することを目的に創作されており、冒頭の歌”ウィルコメン(ようこそ)”は「三文オペラ」の”マック・ザ・ナイフ”と似た曲調で始まる。なお「キャバレー」のオリジナルキャストで下宿屋の主人シュナイダーを演じたのはロッテ・レーニャ、クルト・ヴァイルの未亡人である。「三文オペラ」には良い映像ソフトがないのでウテ・レンパー、ルネ・コロ、ミルバらが歌ったCDを推薦する。また作曲家自身の手による組曲「小さな三文音楽」があり、弦楽器を含まない管楽器中心の編成である事から、吹奏楽に向いている。

ヴォツェック」は新ウィーン楽派、無調音楽を代表するオペラである。初演は1925年。指揮したエーリヒ・クライバーが137回のリハーサルを敢行したことは今でも語り草になっている。「死の都」20年、「利口な女狐の物語」24年、「三文オペラ」28年初演なので、同時代の作品といえるだろう。エーリヒの息子カルロス・クライバーもしばしばこのオペラを取り上げた。正規レコーディングがないのが惜しまれる。カルロスの本当の父親は「ヴォツェック」を作曲したアルバン・ベルクだという噂が、未だにまことしやかに囁かれている(彼の伝記でも言及されている)。ちなみにベルクの「抒情組曲」は不倫音楽であったことが現在では判明している(詳しくは→こちら)。「ヴォツェック」は1時間40分の上演時間中、悪夢と狂気の中を彷徨うようなヒリヒリする体験を観客に強いる。救いはない。ある意味オペラ版「レ・ミゼラブル」とも言えるが、最後に希望の光が差す分、「レ・ミゼ」の方がマシかもしれない。あとベルクが第2幕まで作曲したところで亡くなり、未完に終わった「ルル」はヒロインが途轍もないファム・ファタールで、すこぶる面白い。第3幕は後年、他者の補筆で完成した。こちらもお勧め!

「ドン・ジョヴァンニ」に殺された騎士長(ドンナ・アンナの父)の石像が彼を地獄に引きずり落とす場面はモーツァルトの作品中、最も劇的な音楽である。映画「アマデウス」では死んだモーツァルトの父親像に重ねられた。ドン・ジョヴァンニは女たらしだが、必ずしも悪党として切り捨てられない魅力を湛えている。騎士長の亡霊が「悔い改めよ!」と迫っても、「私は何も悪いことをしていない」と決して非を認めない態度が凄く格好いい。モーツァルトはフリーメイソンの会員であり、キリスト教(カトリック教会)的価値観に対する反骨精神をここに感じるのはあながち見当外れではないだろう。

「メフィストフェーレ」はヴェルディ「シモン・ボッカネグラ(改訂)」「オテロ」「ファルスタッフ」の台本を手がけたアッリーゴ・ボイートが台本&作曲したオペラ。1868年(26歳の時)ミラノ・スカラ座での初演は歴史的な大失敗で、その後76年と81年の2度に渡る大改訂を経て現在の形となった。ゲーテ「ファウスト」を原作に、メフィストフェレスを主人公に持ってきている。

「セビリアの理髪師」を観ても、どうもロッシーニの面白さが判らなかったが、「湖上の美人」で初めて開眼した。ベルカント・オペラの魅力炸裂である。テノールの2人がハイ・Cを連発する超絶技巧の応酬、歌合戦が実にスリリング。ロッシーニ・ルネサンスの白眉と言える作品。なんとMET初演だった2015年のプロダクションが素晴らしい。ジョイス・ディドナート、ファン・ディエゴ・フローレス、ジョン・オズボーン、ダニエラ・バルチェッローナら歌手陣の充実ぶりが圧巻。

お子さん向けにはフンパーディングのメルヘンオペラ「ヘンゼルとグレーテル」をどうぞ。フンパーディングはワーグナーと交流があり、ライトモティーフ(示導動機)の手法も用いられている。ヨーロッパではクリスマスの定番で、家族で揃って観に行く習慣がある。吹奏楽コンクールでは井田重芳/東海大学付属第四高等学校がこのオペラから「夕べの祈り」「パントマイム」を演奏し、全国大会金賞を受賞している。

「海、静かな海」は2016年にドイツで初演されたばかりの最新作。東日本大震災と福島原発事故をモティーフにしたレクイエム(鎮魂歌)である。細川俊夫の音楽はひたすらに静謐で美しい。海が主題になっている点でも武満徹に近いなと感じて調べてみたら、細川が高校生の時、小澤征爾が指揮する「ノヴェンバー・ステップス」のレコードを聴いて武満に憧れるようになったという。「海、静かな海」はまた、能「隅田川」と深い関連にあるが、「隅田川」に触発されてブリテンはオペラ「カーリュー・リヴァー」を作曲している。両者を聴き比べてみるのも一興だろう。 

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何故人はフィクション(物語)を求めるのか?

2011年3月11日に発生した東日本大震災、あなたはいつの時点で福島原発がメルトダウンしていると気が付きましたか?

東京電力が正式に公表したのは5月24日だった。事故から70日以上が経過していた。

2016年2月25日、NHKニュースは次のように報道した。

東京電力は、福島第一原子力発電所の事故発生から2か月たって、核燃料が溶け落ちる、メルトダウンが起きたことをようやく認め大きな批判を浴びましたが、当時の社内のマニュアルでは事故発生から3日後にはメルトダウンと判断できたことを明らかにし、事故時の広報の在り方が改めて問われそうです。

福島第一原発の事故では1号機から3号機までの3基で原子炉の核燃料が溶け落ちるメルトダウン=炉心溶融が起きましたが、東京電力はメルトダウンとは明言せず、正式に認めたのは発生から2か月後の5月でした。

つまり東電と日本政府は事故発生から3日後(3月14日)に事態を正確に認識していたにもかかわらず、2ヶ月以上公表を控えていたことになる。「パニックを避ける」ためという、実にくだらない理由で。

でももしあなたが5月24日の公表を聞いて「ええっ、本当はメルトダウンしていたの!?」と驚いたのだとしたら、余りにも世間知らずと言えるだろう。【政府が国民を騙る筈はない/テレビで報道されていることは全て真実だ】と信じている者はお子様である。ありもしない【大量破壊兵器】を口実にイラクを侵略したアメリカ合衆国(共和党政権)も同じ穴の狢(ムジナ)と言えるだろう。

震災から4日後、僕はこうツイートした。

緊急事態宣言が発令された非常時に為政者は本当のことを語らない。それは当然のことである。だから自国の政府は信用出来ないと判っていたので、僕は首相官邸が情報をコントロール出来ない、海外メディアからの報道を収集することに専念した。

今振り返るとこういう未曾有の危機に直面して、沢山の映画を観ていたことが正しい判断を下す役に立ったなとつくづく想う。

人間が持つ、他の動物にない特性として「物語(フィクション)を欲する」ということが挙げられる。どうして我々は小説を読み、芝居や映画を観に行くのか?その行為は何かの役に立つのだろうか?

小説を読んだり、映画や芝居を観ることは愉しい。時を忘れさせてくれる。それは多分、「もうひとつの人生」を生きることなのだ。「風と共に去りぬ」のおかげで僕はアメリカの南北戦争の実態を知り、奴隷制度とか、土地の大切さとか色々なことを学んだ。「シンドラーのリスト」や「サウルの息子」を観れば、ユダヤ人強制収容所がどんな場所だったのか、ナチスがそこで何をしたのかを目撃することになる。シェイクスピアの「リチャード三世」や「オセロ」に登場するイアーゴーを通して人の悪意を、映画「エリザベス」や「エリザベス:ゴールデン・エイジ」によりエリザベス1世(The Virgin Queen)の人となり、イギリスの歴史を知る。「十二人の怒れる男」で陪審員制度の仕組みや、その理念が判る。ミュージカル「RENT」や「ラ・カージュ・オ・フォール」(あるいはその元となった映画「Mr.レディ Mr.マダム」やハリウッド・リメイク「バードゲージ」)を観ればゲイの人達の生態やものの考え方が理解出来るようになる。そう、物語は人間の多様性や、共通する行動パターン(=人間科学/行動科学)を学ぶための扉なのである。自分が一生かけても遭遇出来る筈のないことを擬似体験出来る。何度も生まれ変わってくる輪廻転生や、パラレル・ワールドを同時並行で生きるように。

我々は勉強のために小説を読んだり芝居・映画を観るわけではない。しかし沢山吸収すれば、必ず得るものはある。人生はより豊かになり、見聞を広めて賢くなれる。その見返りは大きい。

ー映画は人生の教科書ですー  (映画評論家/解説者 淀川長治)

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ピクサー「アーロと少年」と「ライオンキング」

評価:B-

Gooddinosaur

公式サイトはこちら

僕はピクサーの長編第1作目「トイ・ストーリー」(1995)から映画館で観ている。今まで製作された16本の長編は全て目を通しているが、「アーロと少年」の評価はかなり下位だ。一番詰まらなかったワースト・ワンが「メリンダと恐ろしの森」、タイtieで「モンスターズ・ユニバーシティ」、その次が本作かな。つまり歴代14位ということ。

まず気になったのがディズニー「ライオンキング」との類似だ。息子を助けるために父親が目の前で死に、自責の念に駆られる主人公。その後放浪の旅が始まり、夜に父の亡霊が出てきて……というプロットが全く同じ。またラプトル3人組の性格が「ライオンキング」に登場するハイエナそっくりというのも痛い。創意工夫に欠け、新鮮味が全くない。しかも、そもそも手塚治虫「ジャングル大帝」のパクリである「ライオンキング」を、さらに模倣してどうする!?実に情けない。それから、ホタルが舞う場面は確かに幻想的で美しいが、明らかに高畑勲「火垂るの墓」を意識してるよね?観ていないとは言わせない。

恐竜たちのデザインがデフォルメされすぎていて、リアルじゃないのも不満。スピルバーグの「ジェラシック・パーク」(1993)と比較して、CGがそれほど進化したように感じられない。

隕石の衝突がなく、恐竜たちが絶滅しなかった世界。本作は明らかに西部劇へのオマージュになっている。アパトサウルス(アーロ)は農民であり、Tレックスがカウボーイ、少年が犬。プテロダクティルス(翼竜)がさしずめ強盗を繰り返すならず者(無頼漢)といったところか。音楽も西部劇調でなんだか懐かしく、この意図は悪くなかった。自然の脅威には太刀打ち出来ない、それを不可避のものとして受け止める度量が必要だというテーマもいい。

恐竜やゴジラ、ウルトラマンの怪獣が大好きな4歳の息子を連れて鑑賞。彼の感想は「あんまり面白くなかった」

むしろ併映の短編「ボクのスーパーチーム(サンジャイのスーパーチーム)」の方が遥かに優れていた(アカデミー賞・短編アニメーション部門にノミネート)。インド人のサンジャイ・パテル監督の半自伝的作品でヒンドゥー教徒の父親との対立と和解を描く。ヒンドゥーの神々をスーパーヒーローに見立てる発想が素晴らしい。ピクサーの短編はしょーもない話が多いので、これは傑出した内容と断言出来る。

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「ヘイトフル・エイト」はミステリー映画?

評価:A

映画秘宝でお馴染み、高橋ヨシキ作の偽ポスター「裏切りの八悪人」があまりにも素敵なので、リンクを貼っておく。→こちら

ネタバレあり!要注意。公式サイトはこちら

Hateful_eight

西部劇で冬が描かれることは異例である。雪に閉ざされた一軒家って、よくミステリー小説である設定だよね。つまり密室だ。 で、映画を観ている途中で、「これってクエンティン・タランティーノ版『そして誰もいなくなった』だ!」と気が付いた。実際最後は全員死んじゃうし。でもアガサ・クリスティーをそのまま21世紀の観客に提供する訳にはいかないから、いろいろな新趣向が盛り込まれている。タイトル自体にもトリックが施されていることが終盤で判る。「ミステリーとしてはルール違反だ!これじゃあ本格とは言えない」と目くじら立てる人もいるようだが、まぁまぁそんな本格原理主義者みたいな硬いことは言わないで。たかが映画じゃないか。(←アルフレッド・ヒッチコックが「山羊座のもとに」撮影中に、イングリッド・バーグマンに言った言葉)

僕はすっごく愉しめた。タラちゃんの映画の中では「イングロリアス・バスターズ」が好きだけれど、本作もそれに匹敵する。最高傑作の一本だと言えるだろう。お勧め!

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震災から5年、諏訪内晶子×尾高/大フィル定期を聴く

東日本大震災から丁度5年となる3月11日、フェスティバルホールへ。

尾高忠明/大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子。オール・ロシア・プログラムで

  • リャードフ:交響詩「魔法にかけられた湖」
  • プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 第1番
  • ラフマニノフ:交響曲 第2番

「魔法にかけられた湖」は音楽がたゆたう雰囲気があり、ドビュッシーの「海」を想起させる。

ロシア革命が勃発した1917年に完成したプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲(その翌年、作曲家は日本経由でアメリカに脱出)はノスタルジックで一つのメルヘンを描く。諏訪内の演奏はしなやかで繊細。第2楽章スケルツォは狂騒的で、グイグイ前に進む疾走感があった。

ソリスト・アンコールはJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第2番から第3楽章アンダンテ。やはり3・11を意識してか、”祈り”の音楽に聴こえた。

ラフマニノフの交響曲は例えばソナタ形式の第1楽章だと第1・第2主題は甘美でうっとりするのだが、どうも展開部が冗長で退屈。スケルツォの第2楽章はA-B-Aの3部形式なのだが、それぞれのパートがさらにa-b-aに細かく分かれている。くどい!!ほとほと構成力がない作曲家だと想う。だから1973年にアンドレ・プレヴィン/ロンドン交響楽団による完全全曲盤のレコードが登場するまで、カットして演奏されるのが通例であった(作曲家もそれを公認していたという)。帝王カラヤンは見向きもしなかった。

この曲を得意とする尾高は時折アクセントを効かせながらリズミカルで流れるような指揮ぶり。夢見るような第3楽章アダージョはうねり、寄せては返す波のよう。一転して第4楽章はきりりと引き締まり、それでいて開放感に満ちていた。

このシンフォニーは2007年の定期でも聴いている。

あの時は大植が職業病である頚椎症を悪化させた状態で、「死に体」の演奏だったので(その後回復)、今回漸く満足のいく実演を聴けた。それでも繰り返しCDで聴きたい曲では全然ないけどね。

特別な日だからきっとオーケストラのアンコールもあるだろうと期待していた。震災の年には何度もJ.S.バッハ:G線上のアリアを聴いた。果たして今回は?

尾高が選んだのはエルガー:エニグマ変奏曲〜第9変奏「ニムロッド」。さすがイギリス音楽のスペシャリストらしいなと想った。ひたひたと心に沁み入る名演だった。

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シリーズ【大指揮者列伝】帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンの審美眼

まずこの記事を書くに当たり、僕のヘルベルト・フォン・カラヤンに対する立場を明確にしておこう。

僕がクラシック音楽を聴き始めた小学校高学年の頃、当時クラシック音楽ファンはカラヤン派とベーム派に真っ二つに分かれていた。丁度カール・ベームがウィーン・フィルを率いて来日公演していた時期で、FMでベートーヴェンの交響曲第5番、6番を聴いて僕はベームに魅了された。一方でカラヤンがベルリン・フィルと1975年に録音したチャイコフスキー:交響曲第5番のLPレコードを購入したのだが、あまりにも磨きぬかれた人工的な響きに、聴いていて途中で気持ちが悪くなった。ある意味メタリックであり、ゴテゴテと着飾った娼婦のようでもあった。そのレコードは2度と掛けなかった。

カラヤンは楽壇の帝王と呼ばれたが、反面彼ほど《アンチ》がいた指揮者も空前絶後だろう。しかし《アンチ》を生むのは絶対的人気を誇るカリスマだからこそ。これはプロ野球に喩えれば分かりやすいだろう。《アンチ》読売ジャイアンツは桁外れに多いが、《アンチ》横浜ベイスターズなんて聞いたことないでしょ?指揮者だって《アンチ》金聖響とか知らない。実力のない者は話題にもならず、無視されるだけ。《アンチ》=人を嫌いになるには膨大なエネルギーを要するし、その対象となる人物も強大なパワーを持っていることが必須なのである。「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」である。

さて本題に入ろう。カラヤンはスタジオ(セッション)・レコーディングにこだわり、膨大な数の音源を残した。そのライブラリーはオーケストラの《名曲大全》になっていると言っても過言ではない。スッペの「軽騎兵」序曲とかウェーバー「舞踏への勧誘」、ワルトトイフェル「スケーターズ・ワルツ」、マスネ「タイスの瞑想曲」などの小曲から、「双頭の鷲の旗の下に」などドイツ・オーストリア行進曲集(吹奏楽!)、レオンタイン・プライスを独唱に迎えた「きよしこの夜」などクリスマス・アルバムまで。珍曲としては大砲や銃声の効果音付きでベートーヴェンの「ウエリントンの勝利(戦争交響曲)」とかもある。

録音技術の進歩に伴い、カラヤンは繰り返し自分の得意とするレパートリーを録り直した。ベートーベンとブラームスの交響曲全集は4回、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」に至っては計7回もセッション録音を残している(さらに映像が2回)。

コンパクトディスク(CD)はソニーとフィリップスにより共同開発された。CD初期の最大収録時間(74分42秒)を決めるに際し、当時ソニーの副社長だった大賀典雄は親交のあったカラヤンに相談した。彼の答えは「ベートーヴェンの第九が1枚に収まったほうがいい」だった。デジタル時代になってからも一通り再録音している。もの凄い執念だ。

カラヤンはオーストリアのザルツブルクで生まれた。モーツァルトと同郷である。しかしモーツァルトの交響曲は第29番以降しか録音しなかった。これは彼が契約していたドイツ・グラモフォンがカール・ベーム/ベルリン・フィルの組み合わせて既に全集を出していたことと関係があるのかも知れない。そんなに収益が見込める企画ではないからね。

彼はまた、シューベルトやシューマン、チャイコフスキー、ブルックナーの交響曲全集をレコーディングしている。

ところが面白いことにマーラーについては交響曲第4、5、6、9番と「大地の歌」しか録音していない。彼がナチスに入党していたというのは歴史的事実であり、ユダヤ人のマーラーに対して偏見があったのでは?という憶測もあるが、同じユダヤ人作曲家メンデルスゾーンは交響曲全集を出しているので蓋然性を欠く。上記した以外のマーラーの交響曲は冗長で、取り上げるのに値しないと判断したと考えるべきだろう。

ラフマニノフはピアノ協奏曲 第2番しか録音していない。第3番もパガニーニの主題による狂詩曲も交響曲も全て無視である。ラフマニノフの交響曲は散漫で構成に問題があるので、カラヤンのお眼鏡に適(かな)わなかったのだと思われる。

カラヤンはシベリウスの交響曲、特に後期の第4-7番を得意とした。作曲家の吉松隆がシベリウスに私淑しているのは有名だが、彼が高校1年生の時に聴いて作曲家を志す契機になったのはカラヤン/ベルリン・フィルが1967年に録音した交響曲第6番だった。カラヤンは後期交響曲を複数回レコーディングしている。しかし第3番だけは一度もタクトを振らなかった。サイモン・ラトルは先日ベルリン・フィルとのシベリウス交響曲全集をリリースしたが、なんと2010年2月9日の演奏がベルリン・フィルにとっての第3番初演だったそうである。シベリウスの第1、2番はチャイコフスキーからの影響があり、第4番以降はソナタ形式や4楽章形式を捨てて音楽はフィンランドの自然と同化してゆく。丁度第3番はその過渡期にあり、作品としての魅力が乏しい。

レスピーギは「ローマの松」「ローマの噴水」を録音しているが、「ローマの祭り」は取り上げず。恐らく終曲「主顕祭」の馬鹿騒ぎが耐え難かったのであろう。

また非常に興味深いのがショスタコーヴィチとの関係である。カラヤンは生涯に2度、交響曲 第10番をスタジオ・レコーディングしている。しかし彼がショスタコーヴィチの他の交響曲を録音したことは一切ない

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上の写真は1969年5月29日、モスクワ音楽院大ホールにおけるカラヤンとショスタコ。この日のプログラムも第10番だった。つまりこのシンフォニーのみが、彼が価値を認めた作品ということになる。

一般にショスタコで一番知られているのは第5番(俗称「革命」)だろう。売上のみを考えるなら10番より5番の方がレコード会社は喜ぶ。しかしカラヤンは信念を曲げなかった。僕も第5番は軽薄で安っぽい曲だと思う。断然10番の方がいい。この点で彼を支持する。

カラヤンが生涯取り上げなかった曲を探っていくことで、彼のこだわりや美意識が見えて来るのである。

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佐藤しのぶ 主演/オペラ「夕鶴」と左翼思想

3月5日、フェスティバルホールで團伊玖磨作曲のオペラ「夕鶴」を観劇。

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演奏は現田茂夫(指揮)大阪交響楽団池田ジュニア合唱団、キャストは

  • つう:佐藤しのぶ
  • 与ひょう:倉石 真
  • 運ず:原田 圭
  • 惣ど:高橋啓三

最もよく知られた日本のオペラである。上演回数も800回以上とダントツに多い。劇作家・木下順二の「一言一句戯曲を変更してはならない」という条件の下、1951年に完成した(56年改訂)。

作品としての第一印象は「古臭い!」。まず團伊玖磨の音楽はメロディアスで、随所に童謡が挿入されるので、プッチーニの「蝶々夫人」を彷彿とさせる。良く言えば古色蒼然、朴訥な味わいがあるが、とても20世紀半ばに作曲された近代オペラとは思えない。最後が与ひょうの「つう・・・つう・・・」という呼びかけで終わるのも、「蝶々夫人」の幕切れでピンカートンが"Butterfly! Butterfly! Butterfly!"と3回叫ぶのに凄く似ている。

あと問題は木下順二の台本である。全篇から左翼臭がプンプン漂う。真っ赤っ赤である。「鶴の恩返し」という民話を、《金の亡者になった主人公の人間性が失われていく恐怖》に読み替えている。要するに資本主義=悪という構図だ。アホくさ。世の中そんな単純じゃねーよ。

帰宅して調べてみと案の定、木下順二はバリバリの左翼だった。彼と日本共産党の関係を示す証拠記事は→こちら。彼の戯曲は「劇団民藝」でしばしば上演され、同団の宇野重吉とは生涯の同士であった。九条の会に賛同し、東京都名誉都民賞をに選ばれるが辞退し、国家的名誉は一切受けずに左翼として筋を貫いたという。

なので「夕鶴」は日本を代表するオペラとして海外に紹介できるような代物ではない。時代遅れで恥ずかしい。僕としてはやはり、松村禎三の「沈黙」を推したい。

しかしながら今回のプロダクション、質としては素晴らしかった。佐藤しのぶの過剰なヴィブラートは僕の好みでないが、たっぷりした声量はあるし、つう役として不満はない。倉石 真はいい声しているし、その他のキャストも及第点である。

また森英恵の衣装が実にお洒落で目を惹いた。特に鶴を連想させるつうの衣装が素敵で、機を織った後、尾っぽの方がボロボロになるのも印象深かった。

特筆すべきは市川右近の演出である。八百屋舞台傾斜をつけた台)で中央に(回転舞台)があるという極めて簡素なセット(美術は日本画家の千住 博)。与ひょうの家もなければ夕食を食べる場面でも卓袱台すら出てこない。小道具としては鶴の羽一枚と最後に完成した織物のみ。しかし観終わった感想としては細かい具象は全く不要で、観客にはちゃんと「見えた」のである。これこそが演劇の力であろう。大量の紙吹雪や照明がとても美しく、そこには「日本の美」があった。また正円のは時に宇宙(星空)に対する地球の暗喩となり、時に外界と内界を仕切る結界となった。その使い方が絶妙であった。

今回のプロダクションは是非、映像として残して欲しい。NHKさん、テレビで放送してくれないかな?

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シリーズ【大指揮者列伝】音楽の革命家ニコラウス・アーノンクールの偉業を讃えて

2016年3月5日に指揮者のニコラウス・アーノンクールが亡くなった。享年86歳だった。彼が引退を表明したのは昨年12月5日。直筆で「聴衆のみなさまへ。私の身体の力が及ばないため、今後の計画を断念いたします」「舞台に立つ私たちと会場のお客様の間には特別の深い関係が生まれました。私たちは共に幸せな発見をして来ました」とメッセージが綴られていた。それから丁度3ヶ月。僕は宮﨑駿(脚本・監督)映画「風立ちぬ」のヒロイン・菜穂子のことを想い出した。菜穂子は自分の死期が近いと悟ると堀越二郎の元を離れ、サナトリウム(富士見高原療養所@長野県)にひとりで戻り、ひっそりと息を引き取る。真に美しい最後であった。

アーノンクールってどんな人?と尋ねられたとしよう。一言で言うなら「古楽器演奏のパイオニアのひとり」であり、「モダン・オーケストラによるピリオド・アプローチ(ピリオド奏法)の創始者」である。彼はクラシック音楽界に革命をもたらした。

アーノンクールはドイツのベルリンで生まれ、オーストリア南部グラーツで育った。ウィーン交響楽団のチェロ奏者として活躍し、53年にウィーン交響楽団のメンバーで「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を結成(ヴァイオリン奏者の妻アリスも参加)、初の公開コンサートは1957年に行われた。

彼は第21回京都賞の受賞スピーチで次のように回想している。「1954年にパウル・ヒンデミットがウィーンでモンテヴェルディの『オルフェオ』を上演しました。コンツェントゥス・ムジクスの弦楽器奏者は全員、楽器を総動員して参加しました。これが私とモンテヴェルディとの最初の出会いでした」ピリオド楽器による世界初録音であり、現在はCDで入手出来る。

ベルギーでレオンハルトとクイケン兄弟がラ・プティット・バンドを創設したのは1972年である。イギリスでデヴィッド・マンロウとクリストファー・ホグウッドがロンドン古楽コンソートを創設したのが1967年(マンロウが33歳の若さで急逝した76年に解散)、ホグウッドがエンシェント室内管弦楽団を創設したのが1973年、ピノックがイングリッシュ・コンソートを創設したのも同年。ノリントンがロンドン・クラシカル・プレイヤーズを、ガーディナーがイングリッシュ・バロック・ソロイツを創設したのが1978年である。またオランダに目を転じると、トン・コープマンがアムステルダム・バロック管弦楽団を創設したのが1979年、ブリュッヘンが18世紀オーケストラを創設したのが1981年だった。

つまりウィーン・コンツェントゥス・ムジクスは世界最古の古楽器オーケストラであると言っても過言ではない。

それまでどこかの貴族の家に眠っていたピリオド(古)楽器をひとつひとつ譲ってもらい、これらの楽器の演奏方法(当時は誰も知らなかった)を研究していく、という途方もない作業を繰り返した。オークションに出品された楽器を競り落とすこともあったという。

アーノンクールは1969年までウィーン交響楽団のチェリストとして務めた。つまりウィーン・コンツェントゥス・ムジクス創設から16年間、二足の草鞋を履いていたわけだ。

1962年に録音されたヘンデル/リコーダー・ソナタ集ではアンナー・ビルスマ(チェロ)も、フランソワ・ブリュッヘン(リコーダー)もモダン楽器を使用している。ブリュッヘンはフツーにヴィブラートを掛けており、この時代には未だ古楽器奏法は手探り状態だったようだ(ビルスマは1962-68年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者だった)。これが69年に録音されたトリオ・ソナタになるとブリュッヘンにアリス・アーノンクール(ヴァイオリン)、ニコラウス・アーノンクール(チェロ)が加わり、全員古楽器になっているので60年代に奏法がほぼ確立されたと考えて間違いない。

僕がアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏を初めて聴いたのはヴィヴァルディの「四季」である。独奏はアリス・アーノンクール。76-77年の録音で、《衝撃の四季!》のキャッチコピーとともに「レコード芸術」誌で広告を見かけたのが小学校6年生の頃だった。あまりにも革新的だったので、当然推薦盤にはならなかった(今では信じられないだろうが、カルロス・クライバー/ウィーンpo.のベートーベン:交響曲第7番も無印だった。時代が彼らに追いつくためには時間を要したのである)。

僕が初めてクラシック音楽を好きになったのは小学校4年生の時、母が所有していた「四季」のLPレコードを聴いたのが切っ掛けだった。演奏はフェリックス・アーヨ/イ・ムジチ合奏団。59年のステレオ録音である。当時は「四季」といえばイ・ムジチで、クラシック・レコードの月間売上げランキングでも常にロベルト・ミケルッチ/イ・ムジチ(69年録音)のLPがトップを独走していた。そもそも現代ではヒットチャート・トップテンに「四季」が入ることもないよね。70年代は空前のブルックナー/マーラー・ブームが到来する前夜であった。閑話休題。

アーノンクールの「四季」を聴いて、天地がひっくり返った。特に激烈なインパクトだったのが雨の降る情景を描いた「冬」第2楽章である。アーノンクールの演奏時間は1分14秒。僕が慣れ親しんできたイ・ムジチの演奏は2分40秒。なんと倍以上の速さだったのである!とても同じ曲だとは信じられなかった。通奏低音もイ・ムジチがチェンバロであったのに対し、アーノンクール盤はポジティフ・オルガン。「こんなのあり!?」の驚きから、「音楽って自由なんだ!」という開眼へ。それは正にElectric Liberation =電気的啓示であった。僕は声を出して笑った。

今日ではイ・ムジチの「四季」を聴くクラヲタなんかいない。彼らの存在は最早、冗談のネタでしかない。その後に登場したビオンディ/エウローパ・ガランテやカルミニョーラ/ヴェニス・バロック・オーケストラ、アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコといった古楽器による新鮮な「四季」もアーノンクールなくしてはあり得なかったと断言出来る。全ては彼から始まったのである。

しかし晩年の成熟し落ち着いた解釈と比べると、70年代の「四季」は攻撃的で硬い演奏という印象が拭えない。肩に力が入っているのだ。あの時代のアーノンクールは古楽器演奏に対する世間の偏見と戦い、目の前に立ちはだかる壁を何としても突破してやる!という激しい闘争心に燃え、完全武装していたということなのだろう。彼がこの曲を再録音しなかったことが惜しまれる。

1980年代に入るとアーノンクールの新たな挑戦が始まった。モダン・オーケストラに古楽器奏法を取り入れるピリオド・アプローチの試みである。まずは名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を起用してモーツァルトやハイドンの交響曲をレコーディングした。弦楽器はノン・ヴィブラートで弾き、トランペットはピストン/バルブのないナチュラル管を用いるという方法論が確立された。

1990年にヨーロッパ室内管弦楽団と録音したベートーヴェンの交響曲全集にアーノンクールは次のようなコメントを残している。

私たちの録音の中で、ナチュラル・トランペットだけが歴史的な響きを持っています。理由は、トランペットは単なる楽器であるだけでなく、ある種のシンボルでもあって、全てのファンファーレ動機音型があるひとつの響きを要求するものであるからです。もし仮にモダン・トランペットで「高らかに鳴り響く」音を要求された場合、それは大きすぎる音量で演奏されることになります。それを正しい音量で演奏すると今度はファンファーレとしての性格が失われてしまいます。 ナチュラル・トランペットを使えばこうした問題は起きないのです。

ピリオド・アプローチ革命をオランダから開始したということには非常に意味がある。彼の国は古楽のメッカであり、アンナー・ビルスマがいてアムステルダム・バロック管弦楽団や18世紀オーケストラがあった。ハーグ王立音楽院には古楽科があった(日本からは寺神戸亮、若松夏美、鈴木秀美、有田正広らが留学)。つまりピリオド・アプローチを受け入れ易い土壌があったのである。

アーノンクールが初めてウィーン・フィルを指揮したのが1993年、ベルリン・フィルとの初顔合わせは1995年であった。ベルリン・フィルと良好な関係が持てたのは帝王カラヤンが89年に亡くなり、90年からシェフがクラウディオ・アバドに交代したことが大きい。また93年から98年までコンサートマスターを務めたライナー・クスマウル(現ベルリン・バロック・ゾリステン芸術監督)の指導下にベルリン・フィルはバロック・ボウ(弓)を揃え、オーケストラぐるみでそれがもたらす演奏効果を学んだ。

アーノンクールの手法をいち早く取り入れた指揮者たちがいた。チャールズ・マッケラス、デイヴィッド・ジンマン、クラウディオ・アバド、サイモン・ラトルらである。バーヴォ・ヤルヴィ、ダニエル・ハーディング、フランソワ=グザヴィエ・ロトらが後に続いた。またブリュッヘン、ホグウッド、ノリントンら古楽の世界の住人たちもモダン・オーケストラに進出していった。

アーノンクールがヨーロッパ室内管弦楽団とベートーヴェン・チクルスに取り組んでいる時、アバドはコンサート会場に足を運んで熱心に研究した。アバドがウィーン・フィルとレコーディングしたベートーヴェン交響曲全集(85-88)とベルリン・フィルとの全集(99−00)とを聴き比べてみて欲しい。あるいはロンドン交響楽団と録音したペルゴレージ:スターバト・マーテル(84)と、モーツァルト管弦楽団との再録音(07)でもいい。演奏スタイルの豹変に誰もが驚くであろう。つまりピリオド・アプローチを取り入れ、オケが小編成になっているのである。

アーノンクールは2001年と03年の2回、ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートに登壇した。遂に彼は世界を手中に収めたのである。レパートリーもシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、スメタナ、ドヴォルザーク、ブルックナー、そしてガーシュウィン(!!)と広げていった。どうやらマーラーはお気に召さなかったようだ。

アーノンクールの実演を聴いたのは2006年11月、大阪・いずみホールでのモーツァルト:レクイエム。手兵ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを率いての公演だった。これが最初で最後である。しかしあろうことか演奏中に携帯電話がホールに鳴り響いた!本当に申し訳ない気持ちになった(もちろん僕が発信源じゃないよ、念のため)。

僕が今、一番聴きたい音源は2000年にウィーン・フィルとレコーディングしたフランツ・シュミット:オラトリオ「7つの封印の書」(1938年初演)。WARNER TELDECからCDが発売されたが、現在は廃盤。ナクソス・ミュージック・ライブラリー NMLなどの音楽配信もされていない。関係者各位、何とか状況を改善してください。お願いします。

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「マネー・ショート 華麗なる大逆転」を観る前に知っておくべき2,3の事項

評価:B

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映画公式サイトはこちら。アカデミー賞では作品賞・監督賞・助演男優賞(クリスチャン・ベール)・編集賞にノミネートされ、脚色賞を受賞した。

リーマン・ショックの真実を描く。まず邦題が酷い。原題は"The Big Short"。投資の世界でShortは「売り」を意味する。Longが「買い」だ。だからThe Big Shortとは「爆売り」「でっかい空売り」という意味。マネー・ショートで意味分かる人いる?日本の配給会社・東和ピクチャーズの映画宣伝部は万死に値する。

本作を鑑賞するにあたり、金融業界用語の基礎知識は持っていたほうがいい。そうでないとチンプンカンプンで途中で置いてきぼりにされかねない。

MBS(Mortgage Backed Securitites 不動産担保証券)=モーゲージ債:不動産を購入する際の担保を証券化したもの。質草の代わりだね。モーゲージ(Mortgage)は住宅ローンと同義だと考えれば判り易い。

サブプライムローン:MBSを低所得者限定の住宅ローンに特化させたもの。(Sub:下層の、Prime:優良)の意味で、要するに焦げ付きやすい不良品。

CDO(Collateralized Dept Obligation 債務担保証券):債務者が「きっちり借金を返しますよ」という約束を証券化したもの。

ここでスタンダード&プアーズ(S&P)、フィッチ、ムーディーズなど格付け会社の連中がゴールドマン・サックス(金融グループ/投資銀行)から接待を受け、おだてられてサブプライムローンを証券化したCDOを最高評価のAAAにするという欺瞞で世間が欺かれることになる。

CDS(Credit Default Swap 債務不履行保険):CDOが破産した時のための保険制度。つまり毎月保険料を払う代わりに、CDOが焦げ付いたらガッポリ儲かる仕組み。デフォルトとは債務不履行のことである。

僕はこれらの言葉を頭の中に叩き込んで行ったので、何とか困らずに済んだ。

ウォール街で働き、サブプライムを思いついた連中はクソ(shit)だということがこの映画の結論である。バブルに浮かれ、顧客から預かった金を融資やローンとして回し、マネー・ゲームに明け暮れ、自ら汗水たらして労働することはない。生産性はまるでない虚栄の市。

業界の仕組みは手に取るように判る。確かに面白い。ビジネス書を読んでいるようだ。では人間ドラマとしてはどうか?僕はそこに疑問を感じた。

本作に一番近いのは、伊丹十三監督「マルサの女」だなと想った。知識は確かに増える。でもそこに、物語としての感動はあるか??

結局最後に残ったのは徒労感と虚しさだけだった。悪い奴ほどよく眠る。そういうことだ。

アカデミー作品賞を受賞した「それでも夜は明ける」でも感じたことだが、プロデューサーを兼ねるブラッド・ピットが美味しい役を取り過ぎ。これで儲けられるとニヤニヤしている若い連中に「今回の金融危機でどれくらいの失業者や死者が出ると思っているんだ!!」と一喝する役なのだが、いやいや、あんたもリーマン・ショックで稼いだんでしょ。いい人ぶるなよ、同じ穴のムジナじゃね?とツッコミを入れた。

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「クラシック音楽とは何か?」〜山田和樹氏の発言を巡って

フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、現在はスイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者及び横浜シンフォニエッタの音楽監督を務める山田和樹(1979年生まれ)氏はヤマカズの愛称で親しまれている。ただヤマカズといえば同じく指揮者の山田一雄(1912-1991)もいるので、前者を新ヤマカズ、後者を旧ヤマカズと区別する必要があるかも知れない。何だかモーツァルトの初期交響曲「旧ランバッハ」「新ランバッハ」みたい(現在は「旧」がヴォルフガング・アマデウスの真作で、「新」が父レオポルドの作とされる)。

そのヤマカズくんがつい先日、FMで次のような旨を発言していたことがクラシック音楽ファンの間で話題になっている。

クラシック音楽に距離を置いてしまう方も是非演奏会に来てほしい。一度駄目でも何度か足を運ぶうちに何かが見つかる筈。一方、自称クラシック通の方はそういう人たちがコンサートに来るのを邪魔しないでほしい。

彼は「」の言動が、初心者に「クラシック音楽は予備知識なしに理解出来ない」という先入観を与えることを牽制していた。

僕は敢えて彼の挑発に乗りたいと想う。

ルネサンス期、クラシック音楽の主体は教会にあった【グレゴリオ聖歌=モノフォニーMonophony(単旋律音楽)から、ポリフォニーPolyphony(複旋律音楽)への発展】。つまりローマ教皇を頂点とする聖職者や、教会に集う王侯貴族のための音楽であった。

バロック期、J.S.バッハは教会のオルガニストや宮廷楽長を歴任した。ヘンデルも宮廷楽長を務めた。

古典派時代になると音楽の主体は教会から離れたが、ハイドンはハンガリー有数の大貴族エステルハージ家に仕えた。シェーンブルン宮殿においてマリー=アントワネットの御前でチェンバロを弾いたこともあるモーツァルトと貴族の関係も言うまでもない。

フランス革命を経て近代市民社会の時代となり、シューマン、リスト、ショパンらが活躍したロマン派に至ると、サロン音楽が栄えた。サロンに集うのはドラクロワやジョルジュ・サンド、ユーゴー、バルザックといった人々。超一級の知識人たちである。

では例えばヴィクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」に登場する人々、ジャン・バルジャンとかファンテーヌ、テナルディエ夫妻、ジャベール警部とかがクラシック音楽を聴いていただろうか?ベートーヴェンの時代に、ドイツの農民や商人たちがオーケストラの音楽会やオペラハウスに足を運んだか?答えは明白、否である。つまり古今東西を問わず、クラシック音楽が庶民の文化であったことなど一度もないのである

嘗てはオペラ「死の都」で一世を風靡した後に、忘れ去られたエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの再評価がこれほど遅れてしまったのも、彼がハリウッドの映画音楽=大衆娯楽に身を売ったと蔑まれたからではないだろうか?

クラシック音楽を愉しむためにはある程度の教養・音楽的知識が不可欠である。そりゃ「ウィリアム・テル」序曲とか「魔法使いの弟子」、ショパンのワルツみたいな短い曲なら初めて聴いてもそこそこいけるだろう。しかしクラシック・コンサートとなるとそんな曲ばかりではない。ベートーヴェンの交響曲第5番だったら第1/第4楽章がソナタ形式で提示部には第1,第2主題があり、展開部、再現部と続く。第2楽章は主題と変奏。第3楽章はスケルツォで複合三部形式といった知識は、ないよりあった方が断然理解が深まる。漫然と聴いただけでは退屈でしかない。そして楽譜は読めるに越したことはない。

日本においてもクラシック音楽のコンサートに足を運ぶ聴衆のバックグラウンドは高学歴・高所得者に偏っているという調査結果が出ている。幼少期からピアノを習っていたり、楽器演奏を経験している人が多い。家庭が裕福でないとなかなかそういう機会は得られない。

20歳になるまでにクラシック音楽を聴いてこなかった人が、大人になってから好きになる可能性は極めて少ない。それは諦めた方がいい。でもヤマカズくんがクラシック音楽の聴衆の減少、高齢化に危機感を抱く気持ちはよく理解出来る。ではファンを増やすにはどうすれば良いか?僕はベネズエラで始まった音楽教育システム「エル・システマ」がその解決方法を示唆しているのではないかと考えている。

貧しい子供たちに楽器を無償で与え、教育を施す。そうすると未成年の犯罪率が減り、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラという途轍もなく優秀な楽団に育った。グスターボ・ドゥダメルというスーパースターも生まれた。これをそのまま日本に当てはめることは出来ないけれど、ヒントにはなる筈。

いま日本の若い指揮者に出来ること。成人は切り捨てて子供たちに未来を託そう。子供たちを招待してコンサートを開くのもいいし(レナード・バーンスタインのYoung People's Concertsみたいに)、小編成のオーケストラを率いて小中学校を訪問するのも効果的なんじゃないかな?鉄は熱いうちに打て、だ。

それから是非、オーケストラの定期演奏会でジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」や「E.T.」を取り上げて欲しい。映画音楽を積極的に組み込めば若い人たちが戻ってくると想うよ。クラシック音楽業界の常識を覆そう。

地道な努力が、きっと将来実を結ぶ。期待しています。

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カンヌ国際映画祭グランプリ/アカデミー外国語映画賞受賞「サウルの息子」とは何か?

評価:A+

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公式サイトはこちら

「サウルの息子」はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しているが、カンヌの最高賞はパルム・ドールであり、グランプリはそれに次ぐ賞であることを補足しておく。この年のパルム・ドールはフランス映画「ディーパンの闘い」であった。

アカデミー賞授賞式で外国語映画賞を受賞した時、「ハンガリーは2回目」というアナウンスがあり、ハッとした。そうか、イシュトヴァン・サボー監督「メフィスト」(1982)以来、33年ぶりなんだ。「メフィスト」は僕が高校生の頃、岡山映画鑑賞会の自主上映(三木記念ホール)で観た。あれもナチス・ドイツが絡んだ作品だった。

「サウルの息子」はアウシュビッツ=ビルケナウ収容所で強制労働させられている《ゾンダーコマンド》の物語である。「特殊任務部隊」という意味で、

  1. アウシュヴィッツに到着したユダヤ人をガス室に誘導する。
  2. 死体をガス室から引き出す。
  3. 髪の毛を切り、金歯を抜く。
  4. 迅速に焼却する。

という任務を遂行するユダヤ人部隊のことである。彼ら自身も4ヶ月ほどの労働の後、抹殺された。

カメラは冒頭からサウルの肉体をバストショット(上半身)で追い続け、映画全編がシャロー・フォーカスで撮られている。被写界深度が浅い(shallow)=フォーカスが合う範囲が浅いこと。つまりサウルの周囲で起こっている出来事は全てピンボケになっている。因みに対義語はディープ(パン)・フォーカス。「市民ケーン」や黒澤明の映画が代表例である。

そこで展開されているのは正に地獄絵、悪夢のような光景なのだが、監督は観客にはっきり観せない。またカラー映画だが画面はスタンダードサイズ(縦横比3:4)なので余計に視野を狭くしている。つまり情報が足りないところは観客の想像力で補わせようというしたたかな戦略なのだ。《ゾンダーコマンド》たちも自分らが処理する対象物をなるべく見ないようにしていた筈で、つまりこの視野狭窄は我々に疑似体験をさせようという意図も含んでいる。「愛と哀しみのボレロ」「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」などホロコーストを描く映画は数多く観てきたが、「こういう切り口が未だあったのか!」と目から鱗であった。因みにドイツ兵が火炎放射器で人を焼き殺す場面が出てくるが、中学生の頃テレビでロベール・アンリコ監督「追想」(1975)の洗礼を受けていたので(あれは衝撃的体験だった)、むしろ「穏やかで控えめな描写だな」と感じたくらいである。「追想」は町山智浩氏の著書「トラウマ映画館」に収録されているが、僕にとっても強烈なトラウマになっている。閑話休題。

以下ネタバレあり。「サウルの息子」とは何か?について映画の核心部分に触れる。




さて、本作のレビューをいくつか読んでいて驚いたことがある。約8割の人達が「強制収容所で死体処理に従事するユダヤ人のサウルはある日、ガス室で生き残った息子を発見するも、すぐにナチスの医師の手で息の根を止められてしまう。サウルは遺体をなんとかしてユダヤ式に手厚く葬ろうとするが……」というあらすじを、何の疑いもなく書いているのである。いやいや、それは違うだろ!見当外れも甚だしい。映画を語る資格なし。

サウルの同僚は2度「お前に息子はいない」と言う。サウル自身も「妻との間の子供じゃない」と言う。じゃぁ、愛人との間に出来た子?んなアホな!

「サウルの息子」とは遺伝学的、DNA鑑定的意味での息子でないことは明らかであろう。つまり観念/象徴としての「息子」なのだ。大局的に見て、ユダヤ人にとっての子孫と言い換えてもいい。

ユダヤ教では最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。だから死者は土葬される。キリスト教も土葬であり、これはイエス・キリストの3日後の復活と無関係ではない。つまり遺体を焼却してしまったら復活出来ないのである。ドラキュラやフランケンシュタイン、ゾンビも土葬だからこそ成立する物語である。

だからサウルは少年が焼却炉に放り込まれることに必死に抵抗し、逃げる。それは少年がいつの日にか復活し、自分たちがどんなことをさせられたのかを後世の人々に伝えて欲しいという願い・祈りなのである。

ナチス・ドイツはアウシュビッツで自分たちが行った行為を最終的に証拠が何も残らないように灰にしてしまおうとしていた。焼却炉に残った骨も砕いて捨てたというのが定説になっている。それに対しゾンダーコマンドたちは看守の目を盗み紙に記録を残し、カメラで隠し撮りしてそれらを瓶に入れ埋めた。そうした彼らの必死の想いが、「サウルの息子」を埋葬しようとする行為に集約されている。

映画の最後にサウルは逃走し、仲間たちと無人の小屋で休む。ふと戸の外を見ると少年が佇んでいる。それは地元ポーランドの少年かも知れないし、サウルの幻想なのかも知れない。あるいは我々=映画の観客という解釈も可能だ。そして彼は初めて柔和に微笑む。彼の気持ちを代弁するならば「後は君に託した。俺達の事を忘れないで。そしてより良い世界を築いて欲しい」ということなのだろう。「サウルの息子」とは希望でもあったのである。

イスラエル国歌をご存知だろうか?非常に暗い曲だが、「ハティクヴァ」と名付けられている。ハティクヴァとは希望という意味である。実はスメタナの「モルダウ」に旋律がそっくりで、恐らく起源が同じなのではないかと僕は推定している。

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Macと私〜映画「スティーブ・ジョブズ」

社会人となり、個人で初めて購入したパーソナル・コンピューターはAppleのMacintosh LC-475だった(セパレート型)。恐らく1994年ごろと思われる(発売は93年10月)。

Lc475

カラー対応のMacとしては、当時最も廉価でコンパクトな機種だった。CD-ROMすら搭載されておらず、フロッピーディスクだった。この頃インターネットは影も形もなく、パソコン通信を介して出会う男女を描く森田芳光監督の映画「(ハル)」が公開されたのは1996年3月である。

次に購入したのが一体型Performa 54X0シリーズ。函(はこ)が黒く塗らてており「黒Mac」と呼ばれた。1996年のことだった。

5440

ここからCD-ROMが搭載され、僕はインターネットを始めた。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の黎明期で、僕は劇団四季や映画などのメーリングリストに参加した。チャットが流行っていた時期でもあり、巨大電子掲示板「2ちゃんねる」が開設されるのは1999年である(「電車男」が出版されるのが2004年、映画化・テレビドラマ化が2005年)。

また1996年からサービスが開始されたISDNテレホーダイに加入。深夜23時から翌朝8時までに限り、予め指定した電話番号に対し、通話時間に関わらず料金が月極の一定料金となるもの。どうしてもインターネットの接続が深夜に及ぶため、寝不足の日々が続いた。2-3分の映画予告編を観るために8時間くらいかけてダウンロードし(そうしなければ視聴出来なかった)、しかし途中で止まって結局無駄骨に終わるなんて日常茶飯事だった。当時のMacはよくフリーズした。爆弾マーク(システムエラー)もしょっちゅう見た。

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そして1998年にiMac G3が登場、新しく5色のカラーが導入された1999年にタンジェリンを購入した。

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この頃、僕はジオシティーズ(GeoCities、1997年に日本でサービス開始)にホームページを開設した(2000年3月に日本のジオシティーズ株式会社はYahoo !JAPANと合併し解散、僕はniftyにHPを移行した)。

インターネットで知り合い、電子メールのやり取りで関係を深めていく男女(トム・ハンクス、メグ・ライアン)を描くノーラ・エフロン脚本・監督の映画 「ユー・ガット・メール」が日本で公開されたのは1999年2月のこと。因みに原題"You've Got Mail"はAOLのメール到着を知らせる着信音である。これはエルンスト・ルビッチ監督「街角 桃色の店」(1940)のリメイクであり、オリジナルの通信手段は文通だった。 

2002年には白色に統一され、外観がテーブルランプそっくりのiMac G4に買い替えた。

Imacg3

2005年に発売されたiMac G5はフラットパネル一体型で、それまで白色を貫いてきたiPod(2001年10月発表)に近いものになった。

G5

2007年にはインテルベースの新iMacを購入。素材にアルミニウムとガラスを使用し、iPhone(2007年6月発売)に似た黒とグレーの色彩設計を採用したものだった。

Imac

2007年5月12日から僕はこのブログを開始、Twitterに登録したのは2010年6月である。その翌年に東日本大震災が勃発した。

そして昨年購入したiMacが7代目ということになる。

初代から22年間、Windowsに浮気したことは一度もない。Mac一筋。喜びも悲しみも幾歳月、苦楽を共にして来た。今ではMacBook AirとiPad、iPhoneも我が家の一員である。

ジョブズがアップルコンピューターを解任されたのは1985年5月24日の取締役会である。彼は新しい会社NeXTを立ち上げ、それと平行して1986年にルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、ピクサーと名付け、そのCEOの座に就いた(ピクサー初の長編「トイ・ストーリー」が完成するのは1995年)。

つまり僕が初めてMacを買った時、ジョブズは不在だった。その後自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ、Appleは深刻な営業不振に陥った。ジョブズが非常勤顧問という形でアップルに復帰するのが1996年12月、暫定CEOになるのが1997年からで正式なCEO就任が2001年である。1998年に発表されたiMacからジョブズの肝いりということになる。そして2003年に膵臓癌(神経内分泌腫瘍)が見つかり、2011年10月5日に彼は亡くなった。

さて、映画「スティーブ・ジョブズ」の評価はA。公式サイトはこちら

脚色はアーロン・ソーキン。Facebookの創始者マーク・ザッカーバーグを描く映画「ソーシャル・ネットワーク」(2010)でアカデミー脚色賞を受賞した。「スティーブ・ジョブズ」も「ソーシャル・ネットワーク」のデヴィッド・フィンチャー監督で企画が進み、クリスチャン・ベイルがジョブズを演じる筈だったのだが、フィンチャーとベイルが降板、結局「スラムドッグ$ミリオネア」のダニー・ボイル監督、マイケル・ファスベンダー主演(当役でアカデミー主演男優賞ノミネート)で完成した。映画会社もソニー・ピクチャーズが手を引き、ユニバーサル・ピクチャーズが権利を買い取った。それにしてもデヴィッド・フィンチャーは才能はあるが気難しい男だ。「ドラゴン・タトゥーの女」(2001)を撮った後、ミレニアム三部作の残り2つには全く興味を示さず、このシリーズの企画は止まったまま。主演のルーニー・マーラはやる気満々なのだが……。閑話休題。

映画は1984年のMacintosh、Appleから放逐された後の1988年のNeXT Cube、Apple復帰後の1998年のiMacという3つの新作発表会にスポットを当てる。僕は原作ウォルター・アイザックソン「スティーブ・ジョブズ」を読んでいるのだが、こういう切り口で来るとは全く予想外だった。やっぱり才人の考えることは凡人の予断を遥かに超越している。ジョブズの生い立ちもiMac以降の大躍進ーiPod,iPad,iPhoneの登場も、ジョブズの死に至る経緯もばっさりカット。それでもポイントはしっかり抑えている。その傑出したセンスに改めて舌を巻いた。

3つのイベントには共通する登場人物がいる。ジョブズがApple社長として引き抜いたジョン・スカリー(元ペプシコーラの事業担当社長)、創業当時からジョブズの片腕だったコンピューター・エンジニアのスティーブ・ウォズニアック、マーケティング担当のジョアンナ・ホフマン(ケイト・ウィンスレット)、そしてジョブズの娘リサである。彼らの関係性が時代と共に次第に変化していくのが非常にスリリングだ。

ジョブズは天才であったが、人間(父親)としては最低のクズだった。(映画「アマデウス」でも判る通り)下品な言葉を好んだモーツァルトと同様、その人の才能と人間性・人格は無関係である。そのことがよく描かれている。

はっきり言ってマイケル・ファスベンダーは顔が全くジョブズに似ていない(そういう意味ではクリスチャン・ベイルの方が相応しかった)。しかし映画を観ているうちに次第に本物に見えてくるのだから大した演技力である。

ジョブズはユーザーによるマシンの改造・拡張性を拒否し、函(はこ)を開けられない構造にした。そしてOS(オペレーティング・システム)とマシンは一体のものと考え、互換性を持たせなかった。だから一旦、MacはMicrosoft Windowsに完敗し、ジョブズは失脚した。しかし今はどうだろう?Apple社は携帯音楽プレーヤーや、タブレットPC,そしてスマートフォンでも世界を席巻している。これはソフトとハードは不可分という信念を貫いたジョブズの最終勝利であり、ハード開発に力を注がなかったマイクロソフト社は明らかに失速した。ジョブズは世界を変え、今ある21世紀を創ったのだ。

最後に、僕が大好きなジョブズの座右の銘をご紹介しよう。

洗練を極めれば簡素になる
(Simplicity is the ultimate sophistication.)

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児玉宏 The Last Concert !/大阪交響楽団 名曲コンサート

2月28日(日)ザ・シンフォニーホールへ。

児玉宏(今シーズンで音楽監督・首席指揮者を退任)/大阪交響楽団 with 須川展也(サクソフォン)で、

  • ロッシーニ:歌劇「絹のはしご」序曲
  • グラズノフ:アルトサクソフォンと弦楽のための協奏曲
  • カッチーニ(朝川朋之 編):アヴェ・マリア(ソリスト・アンコール)
  • ロッシーニ:歌劇「シンデレラ」序曲
  • ベートーヴェン:交響曲 第4番

ロッシーニは軽妙。アンサンブルはきりりと引き締まり、と同時に柔軟な演奏。「シンデレラ」は沸き立つようなロッシーニ・クレシェンドにワクワクした。

グラズノフは暗い湖底にダイヤモンドが燦めいているよう。サクソフォンの美しく繊細なヴィブラートが印象的。アンコールのカッチーニには静謐な抒情があり、伴奏の弦は硬質な魅力を放つ。

ベートーヴェンの4番は1st Vn-2nd Vn-Va-Vc-Cbが10-8-6-6-4の比較的小さな編成。序奏の弦はノン・ヴィブラートで開始され、主部に入って以降もノン・ヴィブラートとヴィブラート奏法が交叉する。生命力に満ちた演奏で、この曲はAnima Symphonyだなと想った(animaとはラテン語で生命や魂を意味し、animalやanimationの語源である)。第2楽章は付点のリズムが正確無比で終楽章は小気味いい。

今から8年前の2008年3月に児玉宏のベートーヴェン7番を聴いて圧倒された記憶がまざまざと蘇ってきた。

児玉のブルックナーは堪能したが、願わくばもっとベートーヴェンも聴きたかった。そしてオペラ!またカレッジ・オペラ・ハウスなどにも客演してくださいね。

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オスカー・ナイト2016〜宴のあとに

第88回アカデミー賞授賞式が終わった。僕の予想が的中したのは作品賞・監督賞・主演女優賞・主演男優賞・助演女優賞・脚本賞・脚色賞・撮影賞・衣装デザイン賞・美術賞・メイクアップ賞・編集賞・音響編集賞・録音賞・長編ドキュメンタリー賞・長編アニメーション賞・外国語映画賞の計17部門。過去5年間18部門以上的中という記録を更新してきただけに、トホホな結果であった。ただ作品賞と監督賞が一致しない年に両者を当てるというのは至難の業なので(例えば作品賞が「アルゴ」、監督賞が「ライフ・オブ・パイ」のアン・リーが受賞した第85回)それが達成できただけでも良かったかな、と自分を慰めているところである。

「スポットライト」の作品賞受賞が意外という意見が多いが、誰が何に投票するという票読みをすれば、自然と「スポットライト」という結論になった。予想記事にも書いたが、「クラッシュ」が作品賞を受賞した第78回と同じパターンになっただけのこと。

授賞式についてだが、今年は「多様性の欠如」という明確なテーマがあり、なかなか面白かった。演技賞候補の20人は全員白人で、司会のクリス・ロックと映画芸術科学アカデミー会長のシェリル・ブーン・アイザックスがアフリカ系アメリカ人というよじれた構造が見ていて奇妙で可笑しい。毎年ある会長のスピーチは退屈で聞き流すのだが、今年は違った。含蓄のある話だった。クリス・ロックも端から黒人ネタで飛ばして、ブラック・ジョークが効いていた。(当然内面に渦巻いているであろう)怒りを前面に出さず、フットワークが軽やかだった。とぼけた味もあり、名司会であったと言えるだろう。

主演男優賞を受賞したレオナルド・ディカプリオのスピーチは地球温暖化とかエコの話に触れていて、「らしいな」と想った。レオは地球環境のためにハイブリッド・カー「プリウス」を愛用していて、アカデミー賞授賞式にも自ら運転して乗り込んだことがあるんだよね。

歌曲賞のパフォーマンスでは大学でのレイプ事件を題材にしたドキュメンタリー映画「ザ・ハンティング・グラウンド」の"Til It Happens to You"をレディ・ガガが熱唱し、最後にレイプの被害にあった女性たちがステージに登場すると会場総立ちとなったので「これは受賞間違いなし!」と確信したのだが、蓋を開けてみると「007 スペクター」の主題歌だったので拍子抜けした。

あと視覚効果賞が大作「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」や「マッドマックス 怒りのデスロード」を押し退けて、イギリス映画"Ex Machina"が受賞したのは心底驚いた。これを機会に日本でも公開して貰えないかな?

短編アニメーション賞を受賞したのは"Bear Story"。チリの映画がアカデミー賞を受賞するのは(外国語映画賞を含め)これが初めてなんだって!

授賞式の視聴率は過去8年間で最低だったそうで、作品賞候補作が「マッドマックス 怒りのデスロード」以外、地味だわな。クリス・ロックが映画館の前でインタビューした映像が流れ、アフリカ系アメリカ人たちが口々に「『レヴェナント:蘇えりし者』?観てないな」「『ブリッジ・オブ・スパイ』?何それ?知らない。そんな映画本当にあるの?」という反応に笑った(しかし全員、黒人映画「ストレイト・アウタ・コンプトン」は観ていたというオチ)。黒人候補の不在で黒人たちが観なかったというのもあるだろう。会長の肝いりでアカデミー会員の構成比を見直すとのことなので(現在会員の94%は白人、うち男性が77%。平均年齢62歳)、今後の展開に期待したい。因みに実際の米国社会は40%を白人以外が占めている。

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