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2016年1月

2016年1月27日 (水)

ピアソラのバンドネオン協奏曲〜大阪交響楽団「名曲コンサート」

1月11日(祝)ザ・シンフォニーホールへ。大井剛史/大阪交響楽団の名曲コンサートを聴く。ゲストはピアソラ・コンクールにおいて史上最年少(18歳)で準優勝となったバンドネオン奏者・三浦一馬。

今回のプログラムは、

  • マルケス:ダンソン 第2番
  • ピアソラ:バンドネオン協奏曲
  • ピアソラ:リベルタンゴ(アンコール)
      《休憩》
  • J.シュトラウスII:喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
  • J.シュトラウスII:ポルカ「クラプフェンの森で」
  • E.シュトラウス:カルメン・カドリール
  • ワルトトイフェル:スケーターズ・ワルツ
  • ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス:ピチカート・ポルカ
  • J.シュトラウスII:ポルカ「ハンガリー万歳」
  • J.シュトラウスII:ワルツ「美しく青きドナウ」
  • J.シュトラウスII:ラデツキー行進曲(アンコール)

メキシコの作曲家マルケスの「ダンソン」はオーケストラのみ。ピアノ・クラリネット・クラベス(拍子木)で開始され、変拍子が心地よい。ヴァイオリンがウクレレみたいな持ち方でピチカート奏法するのもなんだか愉しい。ラテンの熱風を感じた。

三浦一馬のバンドネオンは、ピアソラ自身の演奏と比べると大胆さとか野性味が欠けるのだが、逆に彼の持ち味は繊細さなのだと想う。これは奏者の資質の問題であり、どちらがより優れているという話ではない。それぞれに味がある。コンチェルトの第1楽章は情熱と色気。パリの花の薫りがした(ピアソラはパリに留学し、ナディア・ブーランジェに師事した)。第2楽章は雨に濡れた夜の舗道のイメージ。第3楽章の魅力は疾走感。僕はフランス映画「男と女」のレースの場面を想い出した。

前半は大変満足したが、後半は「ウィンナ・ワルツってやっぱり地元のオケ(ウィーン・フィル等)で聴かないと詰まらない曲だなー」と想った。三拍子は三等分ではなく、「ウィーン訛り」でなくちゃ!つまり極端に書くと「ズン・チャ・チャ」ではなく「ズ・チャッ・チャ」という感じ(一拍目が短く、二拍目が長め)。

「スケートをする人々」は僕が小学生の頃から大好きな曲で、懐かしかった。これにはカラヤン/フィルハーモニア管弦楽団の名盤(1953年録音)があり、なんと出だしのホルン・ソロをデニス・ブレインが吹いているという豪華版(ナクソス・ミュージック・ライブラリー NMLで聴ける)。カラヤンはオケを心持ち「ウイーン訛り」で弾かせているのが面白い(彼はオーストリアのザルツブルク生まれ)。ところが!1960年代にベルリン・フィルと録音した「美しく青きドナウ」はリズムを三等分で刻んでいるんだよね。誇り高き天下のベルリン・フィルにはさすがの帝王カラヤンもウィーン流儀を持ち込めなかったのか?興味深い問題である。

あとオペラの名旋律が矢継ぎ早に登場する「カルメン・カドリール」を聴きながら、「フックト・オン・クラシックス」のことを想い出した。1981年に全英アルバム・チャート1位に輝き、その後世界中で大ヒットとなったアルバムだけど、若い人は知らないよね?ディスコ・ビートに乗せてクラシックの名曲がメドレーで次々と登場する趣向なんだ。そういえば僕が高校生の時、これを吹奏楽部で演奏した記憶がある。

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「ハイドン疾風怒濤の時代」園田隆一郎/大阪交響楽団 定期

1月26日(火)ザ・シンフォニーホールへ。園田隆一郎/大阪交響楽団の定期演奏会を聴く。オール・ハイドン・プログラムで、

  • 歌劇「無人島」序曲
  • 歌劇「アルミーダ」より「私があなたを愛しているのを分かって
    〜憎しみ、怒り、侮辱、苦しみが」
  • 交響曲第49番「受難」
  • シェーナ「ベレニーチェ、どうするの?お前の愛する人が
    死ぬというのに」
  • 交響曲第45番「告別」

ソプラノ独唱は砂川涼子。

ハイドンについて8年前に次のようなエッセイを書いた。

ハイドンに革命をもたらしたのはブリュッヘン/18世紀オーケストラの古楽演奏である。その後もアーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス&ロイヤル・コンセルトヘボウ管、鈴木秀美/オーケストラ・リベラ・クラシカ、ラトル/ベルリン・フィル、ミンコフスキ/ルーブル宮音楽隊、アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコらが溌剌とした新鮮な演奏で我々の耳を楽しませてくれた。

ところが!滅多に実演を聴けないプログラムで愉しみにして足を運んだコンサートだったが、何とも中途半端で締りのない、微温的アプローチで心底がっかりした。まるで20世紀後半のピリオド革命はなかったかのような、「一体全体、いつの時代の演奏だ!?」という代物だった。魚は陸揚げしたその場で食べるのが一番美味しい。しかし今回は「北海道で捕れた魚を関西まで運んできました」といった感じで、鮮度が明らかに落ちていた。ユーモアがあるべき「告別」終楽章の奏者がひとりひとりステージを去っていく演出も全く面白味がなく、拷問のような2時間だった。ただソプラノの砂川は劇的な歌唱で、唯一の救いであった。

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2016年1月26日 (火)

ブリッジ・オブ・スパイ

評価:A

Bridge

映画公式サイトはこちら

細かいこと言うようだけれど、原題は"Bridge of Spies"。スパイ交換のお話だから当然複数形なのである。どうして邦題は単数なの?馬鹿じゃない?原題を尊重するのなら「ブリッジ・オブ・スパイズ」にするべきだし、スパイズが日本語として判り辛いというのなら「スパイの架け橋」「スパイたちに架ける橋」など日本語らしくする努力をすべきである。同じスピルバーグ映画のSaving Private Ryan(ライアン一等兵の救出)→「プライベート・ライアン」の悪夢を想い出した。意味不明。

スティーヴン・スピルバーグという人はスタッフを頑なに変えない監督である。例えば編集を担当しているマイケル・カーンとは「未知との遭遇」(1977)以降、ずーっと一緒に仕事をしている(「レイダーズ/失われた聖櫃」「シンドラーのリスト」「プライベート・ライアン」でアカデミー編集賞受賞)。撮影監督は初期に試行錯誤があったが、「シンドラーのリスト」(1993)でポーランド出身のヤヌス・カミンスキーと出会い、漸く固定された(「シンドラー」と「プライベート・ライアン」でアカデミー撮影賞受賞)。そして一番付き合いが長いのがジョン・ウィリアムズで、これは劇映画デビュー作「続・激突!カージャック」(1974)からである(「ジョーズ」「E.T.」「シンドラー」でアカデミー作曲賞受賞)。ジョンが音楽を担当しなかったのはオムニバス映画「トワイライトゾーン/異次元の体験」とクインシー・ジョーンズがプロデューサを兼ねた「カラーパープル」の2作品だけ。ところが今回、久しぶりにジョンがスピルバーグ組から外れた。高齢(83歳)であることと、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」と重なった為である。代わりにトーマス・ニューマンが担当した。いや、悪くはないんだけれど、やはりジョンで聴きたかったな。

本作を観て感じたのは、テーマが「リンカーン」(2012)の続きなのだなということ。つまりアメリカ合衆国憲法の精神とは何か?ということを問い質しているのだ。またトム・ハンクス演じる弁護士ジェームズ・ドノバンの姿が「アラバマ物語」(1962)におけるグレゴリー・ペックの勇姿にピッタリ重なった。「アラバマ物語」の原作はピューリッツァー賞を受賞。主人公のアティカス・フィンチは人種偏見が根強いアメリカ南部で白人女性への暴行容疑で逮捕された黒人青年の弁護を引き受ける。冷戦下のアメリカでソ連のスパイを弁護するドノバンと状況が似ている。つまり両者は何事にも屈しない《信念の人》が描かれているのである。2008年アメリカ映画協会(AFI)は映画史上最も偉大な法廷ドラマの第1位に「アラバマ物語」を選出した。アティカス・フィンチは「アメリカの良心」であり、「理想の父親」なのだ。スピルバーグや脚本を書いたコーエン兄弟が本作で狙ったのはアティカス・フィンチの再現だったのではないだろうか?そしてその目論見は見事に成功した。

ソ連のスパイ役を演じアカデミー助演男優賞にノミネートされたマーク・ライランスが素晴らしい。彼の口癖"Would it help?"(「怖くないか?」とトム・ハンクスに尋ねられ、「それがなにか役に立つのか?」と答える)がすごく印象に残った。

あとスピルバーグは宮﨑駿と同じく戦闘機フェチだから(「1941」ではコックピットでしか燃えない女が登場。また「太陽の帝国」で零戦を見つめる少年の瞳を見よ!)、やっぱりU-2偵察機が登場すると盛り上がるね!「リンカーン」に欠けていたのはこの高揚感だ。

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2016年1月22日 (金)

J.S.バッハ・オルガン作品全曲演奏会vol.8

いずみホールへ。

ヴォルフガング・リュプザムのオルガン独奏で、オールJ.S.バッハ・プログラム。

  • 前奏曲とフーガ ハ短調 BWV546
  • シュプラー・コラール集
    目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声 BWV645
    われはいずこに逃れゆくべき BWV646
    ただ神の御旨に従う者は BWV647
    わが魂は主をあがめ BWV648
    ああ、われらとともに留まりたまえ、主イエス・キリストよ BWV649
    イエスよ、汝いまぞ御空から下りたまい BWV650
  • 18のコラールから
    主イエス・キリストよ、われらを顧みて BWV655
    おお、神の小羊、罪なくして BWV656
  • 2つの単独コラール
    主キリスト、神のひとり子 BWV698
    神の子は来たりたまえり BWV724
  • 18のコラールから3つのグローリア・コラール
    いと高きところには神にのみ栄光あれ BWV662
    いと高きところには神にのみ栄光あれ BWV663
    いと高きところには神にのみ栄光あれ BWV664
  • 3つの単独コラール
    われは汝に依り頼む、主よ BWV712
    讃美を受けたまえ、汝イエス・キリストよ BWV697
    讃美を受けたまえ、汝イエス・キリストよ BWV722
  • 前奏曲とフーガ ハ短調 BWV545
  • パストラーレ ヘ長調 BWV590 より 第2楽章(アンコール)
  • 永遠の父なる神よ(キリエ) BWV672 (アンコール)

リュプザムは初来日だという。大層達者なオルガン奏者でちょっとびっくりだが、やはり日本にはオルガン・リサイタルをホールで聴くという習慣がないので、招聘元(民間のプロモーター)も二の足を踏むのだろう。教会だと収容人数が少なく採算が取れないし。リュプザムは盲目のオルガニスト、ヘルムート・ヴァルヒャとマリー=クレール・アランに師事した。マリー=クレールはタバコを吸いながらオルガンを弾くような自由奔放な女性だったという。

何と彼は暗譜でオルガンを弾いた。今までこのシリーズでは一度もなかったことである。これはヴァルヒャからの影響だという。ただ偽作の可能性があるという2曲のみ譜面を見ながら弾いていたので可笑しかった。

リュプザムによるとオルガンは非常に機械的な楽器なので、如何に歌わせるかが重要だという。バッハのコラールには素朴な信仰心があり、時に壮麗で、魂が浄化されるようだった。あとアンコールで演奏された「永遠の父なる神よ(キリエ)」が格調高くすごく良くて、深い感銘を受けた。

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2016年1月15日 (金)

クリムゾン・ピーク

評価:B+

パンズ・ラビリンス」「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロ監督最新作。ゴシック・ホラーである。映画公式サイトはこちら

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ホラーはB級映画と相場が決まっている。しかし本作は極上の仕上がりである。デル・トロの映画だからこんな内容(←失礼!)でも、ミア・ワシコウスカ(「アリス・イン・ワンダーランド」)やジェシカ・チェステイン(「ゼロ・ダーク・サーティ」でアカデミー主演女優賞ノミネート)ら超一流の俳優が出演しているのだから大したものだ。監督の系譜で言えばダーク・ファンタージーの傑作「バンズ・ラビリンス」に最も近い(あれをもっとチープに?した感じ)。

デル・トロはメキシコ出身で、同郷の親しい仲間アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは「バードマン」で、アルフォンソ・キュアロンは「ゼロ・グラビティ」で既にアカデミー監督賞を受賞したわけだが(三人は共同でチャチャチャ・フィルムズを立ち上げている)、「我関せず」と我が道を往くスタイルを一貫して押し通すデル・トロの姿は清々しい。

兎に角、Look(見た目)が美しい!アカデミー賞もせめて美術賞と衣装デザイン賞はノミネートしてあげて欲しかった。ひどい偏見である。血がドバッと飛び散ったり結構残酷な場面もあるが、全般的に格調が高いから決して悪趣味にはならない。これは監督の人徳であろう。

本作はユニバーサル映画だが、ユニバーサルといえばホラーの殿堂である。何と言ってもベラ・ルゴシが主演した「魔神ドラキュラ」とボリス・カーロフ主演の「フランケンシュタイン」が有名。どちらも1931年に公開された。その伝統の上に立ちながら、「クリムゾン・ピーク」が強く意識しているのはヴィンセント・プライス主演ロジャー・コーマン監督による一連のエドガー・アラン・ポー・シリーズである。特に鮮やかな色彩設計や古い館の佇まいは「アッシャー家の惨劇」(1960)の影響を強く受けている。地下室とか出てくると萌えるね。あとジェシカ・チェステインの役どころはアルフレッド・ヒッチコック監督の名作「レベッカ」に登場する家政婦長ダンヴァース夫人を彷彿とさせる。「レベッカ」もある意味、ゴシック・ホラーだしね。

どこか懐かしく、実に心地よい2時間であった。特に館の天井に穴が開いていて、お屋敷内に落ち葉や雪が舞い落ちる情景には痺れたね。あり得ない。でも、なんて耽美なんだ!!

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2016年1月14日 (木)

イザベル・ファウスト/無伴奏ヴァイオリン・リサイタル

1月13日(木)京都・青山音楽記念館バロックザールへ。

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イザベル・ファウストのヴァイオリンで、オール J.S.バッハ・プログラム。

  • 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番
  • 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番
  • 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番
  • 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番よりラルゴ(アンコール)

このホールは初めて訪れたのだが、とても小さくて驚いた。横20席×10列=たった200席!兵庫県立芸術文化センター小ホールが417席だから半分以下。ザ・フェニックスホール@大阪市が301席である。なんという贅沢な空間だろう!勿論、満席。

ファウストの使用楽器は1704年製のストラディヴァリウス「スリーピング・ビューティ」。これをバロック・ボウ(弓)で弾く。モダン・ボウより短く、ボウイング(運弓)も変わってくる。勿論、ヴィブラートを抑えたピリオド奏法である。

ちなみに現代ではバッハをピリオド・アプローチで弾くのは常識になっている。例えば名盤として名高いギドン・クレーメルがソナタ&パルティータ全曲をフィリップスに録音した1980年の旧盤はふつーにヴィブラートをかけていたが、20年後の2001-2年に録音したECMの新盤ではヴィブラートは極力抑制されている。完全にスタイルが違う。

昨年は五嶋みどりが弾く禁欲的なソナタ&パルティータのCDが発売されたが、これもほぼノン・ヴィブラートだった。彼女はライナーノーツの中で「何年にもわたって、私はバロックスタイルの奏法に惹かれてきました」と書いている。

さて、ファウストの演奏はしなやかで気品に満ちていた。装飾的に用いられる繊細なヴィブラートは「かそけき(幽かな)」雰囲気。緩-急-緩-急で構成されるソナタの「急」の楽章は軽やかで、肩の力が抜けた印象。クレーメルの「激しく」「厳しい」演奏に対してファウストは「孤高」。女性らしいしっとりとした潤いがあり、音楽の息吹が感じられた。

僕が五嶋みどりのCDから受けた印象は「諦念」と「寂寞」だった。それは尼僧のイメージに繋がり、例えば藤沢周平の小説「蝉しぐれ」で最後に出家するヒロイン・お福とか、佐々木守(脚本)・実相寺昭雄(監督)の「怪奇大作戦 京都買います」に登場する《仏像を愛した女》美弥子、あるいは瀬戸内寂聴のことを想起させた。一方、ファウストのバッハはむしろ《バージン・クイーン》エリザベス1世のような芯の強さがあった。「パルティータ 第2番」クライマックスのシャコンヌはまるで急流下りのよう。どんどん風景が変わっていって、一気呵成に終止符に到達する。その後長い、水を打ったような沈黙が会場を包む。聴衆は彼女が弓を下ろすまで固唾を呑んで見守った。

クレーメルファウスト五嶋みどり。三者三様で全く性質の異なる音楽を創り出しているのだが、いずれも紛れもなくバッハであり、掛け替えのない未来への遺産である。ぜひ聴き比べてみてください。

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2016年1月 8日 (金)

映画「完全なるチェックメイト」

評価:B+

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映画公式サイトはこちら

20世紀で最も有名なチェスプレイヤー、ボビー・フィッシャー(アメリカ)とソ連(当時)の世界チャンピオン、ボリス・スパスキーの対戦(ある意味、米ソの代理戦争)を軸とした物語。1984年にコンセプト・アルバムがリリースされ、1986年イギリスのウエストエンドで初演されたCHESS THE MUSICALは間違いなくこのふたりをモデルにしている。

ボビー・フィッシャーを演じたトビー・マグワイアが製作も兼ね、熱演を繰り広げてる。

本作を観ながら、「天才に生まれても不幸にしかならないな」と痛感した。モーツァルトや、映画イミテーション・ゲーム」で描かれた数学者アラン・チューリング、映画「ビューティフル・マインド」の数学者ジョン・ナッシュもそう。何か突出した才能を持って生まれると、必ず別の何かが欠落する。自然界はそうやってバランスをとっているのだ。ボビー・フィッシャーやアラン・チューリングも人間性に問題がある。人格破綻者と言ってもいい。そして周囲から理解されず孤立する。それは仕方ないことだ。

映画の中で言及されるのだが、19世紀アメリカの有名なチェスプレイヤー、ポール・モーフィー(1837-1884)は精神を病み、自宅の浴槽で死体となって発見された。その時、彼は女性の靴に囲まれていたという。享年47歳だった。

「撰ばれてあることの / 恍惚と不安と / 二つわれにあり」(ヴェルレエヌ/堀口大学 訳)

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2016年1月 7日 (木)

「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」2D/IMAX次世代レーザー3D/MX4D体験記

「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」はまず、公開初日・初回にTOHOシネマズで2D上映を観た。その時のレビューはこちら

その後年末に、2015年11月にオープンしたばかりの大阪エキスポシティ(万博記念公園内)109シネマズのIMAX次世代レーザー3Dで鑑賞。

さらに年が明けてTOHOシネマズでアトラクション型4DシアターMX4Dを試してみた。4Dとは映画のシーンに合わせた感覚を味わうことが出来るのが特徴となっている。今回僕が体感した内容は以下の通り。

  1. シートが前後に動く(浮遊感・滑走感)
  2. シートの突き上げ
  3. 背中をボコボコどつかれる
  4. 顔に風が吹き付ける(レーザー銃発射時)
  5. 太ももに(背後から)風がかかる
  6. 地響き
  7. 霧(スクリーン下から煙が上がる)
  8. ストロボ(側面の壁が点滅する)
  9. 香り(爆発時にきな臭い香りが漂う)

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仕様書を見ると「水しぶき」機能もあるようだが、「フォースの覚醒」では一切なし。これは残念だった。反乱軍機やミレニアム・ファルコン号が水面スレスレを滑走するシーンがあるのに!USJのアトラクション「アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド」4K3Dでも水しぶきを浴びるのが一番愉しんだよね。あとUSJの「ハリー・ポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニー」3Dは「スパイダーマン」同様、シートベルトして乗るわけだけれどMX4Dはシートベルト不要。また脇にカップホルダーがあり、つまり飲み物がこぼれない程度にしか揺れないということ。だからあんまり浮遊感が感じられなくて物足りなかった。まぁ逆に、2時間を超える上映中、USJのアトラクションみたいに激しく動いたらヘトヘトに疲れて気分が悪くなりそうだからこの程度が無難なのかも。

「霧」が発生すると字幕が読み辛くなるし、「ストロボ」は画面に集中出来なくなって、はっきり言って邪魔。途中で仕掛けのパターンにも飽きて、もう一度MX4Dを体験したいとは全く思わない。ちなみに通常鑑賞料金に加え、特別(アトラクション)料金が1200円+3D代(メガネ持参なら300円/なしなら400円)だった。

大前提として僕は、本作を必ずしも3Dで観る必要はないと考えている。「フォースの覚醒」はフィルムで撮影されており、3Dカメラは使用されていない。つまりポスト・プロダクション(後付)で3D化されたというわけ。だから2Dで十分愉しめる。

しかし、もし貴方が一度だけ観たいというのなら、IMAX次世代(4Kツイン)レーザー3Dを強く推したい。まず音響の迫力に圧倒される。客席の天井や両サイドにもスピーカーが設置された12ch次世代サラウンドなのだ。

そして一般には3Dメガネを掛けると画面が暗くなるという印象が強いが(TOHOもそう)、IMAX次世代3Dは全くそんなことがない。画面に深い陰影があり、フィルム撮影らしい質感が素晴らしい。少々高い料金を払っても最高の環境で鑑賞出来るのである。

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2016年1月 6日 (水)

「スター・ウォーズ」は何故《ハリウッド・ルネサンス》と呼ばれたのか?

1960年代から70年代前半にかけ、アメリカは混乱と激動の時代にあった。米ソ冷戦下にキューバ危機があり、ケネディ暗殺、マーティン・ルーサー・キングを指導者とするアフリカ系アメリカ人の公民権運動、キング牧師やマルコムXの暗殺、ベトナム戦争の泥沼化と反戦運動、コロンビア大学などで勃発した学園紛争(いちご白書)、ヒッピー・ムーブメントとウッドストック・フェスティバル(カウンターカルチャーの台頭)がそれを象徴する出来事だろう。国民は自信を喪失し、将来に明るい夢を見れなくなった。

映画の世界ではフランス・ヌーベルバーグ(新しい波)の影響を受けて、1960年代後半に《アメリカン・ニューシネマ》New Hollywoodというムーブメントが発生した。「俺たちに明日はない」「卒業」(以上1967)、「ワイルドバンチ」(1968)、「イージー・ライダー」「明日に向かって撃て」「真夜中のカーボーイ」(以上1969)などがその代表作である。反体制的な若者が巨大な権力に対し敢然と闘いを挑むが、最後には圧殺されるか、あるいは個人の無力さを思い知らされるという物語が多かった。描写は暴力的となり、血飛沫やセックス(裸身)も描かれるようになった。これは1934年から実施されてたヘイズ・コード(映画製作倫理規定)が1968年に廃止された影響も大きい。ヘイズ・コードの詳細についてはこちらをご覧あれ。《アメリカン・ニューシネマ》は低予算で、セットを組まず殆どがロケで済まされた。屋外で手軽に使用できる撮影機材の開発がそれを可能にした。16mmフィルムを用いた自主映画、アンダーグラウンド(アングラ)・ムービーも盛んになった。そこには赤裸々なリアル(現実)が写し出された。

1930-50年代のハリウッド黄金期、映画は基本的にスタジオ内で撮影され(オープンセットを含む)、屋外シーンはスクリーン・プロセスによる合成で済まされた(例えばヒッチコック映画などもそう)。

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上の写真を見れば当時、手持ちカメラで気軽にロケというわけにはいかなかった事情がお分かり頂けるだろう。

アメリカン・ニューシネマ》で映像作家たちは表現の自由を得たが、その代償として従来の大手スタジオによる整然とした製作システムは瓦解した(映画産業衰退の最大の原因は一般家庭へのテレビの普及である)。1966年にはウォルト・ディズニーが亡くなり、ディズニー・スタジオも長期低迷期に入った。出来がよく構成がしっかりした(well-made)ハリウッド映画は一度死に絶え、スクラップ・アンド・ビルドの戦国時代に突入したと言ってもいいだろう。

そこに登場したのが「ゴッドファーザー」(1972)のフランシス・フォード・コッポラであり、「ジョーズ」(1975)のスティーヴン・スピルバーグや「スター・ウォーズ(エピソード4)」(1977)のジョージ・ルーカスであった。彼らは《ハリウッド・ルネサンス》Hollywood Renaissanceの申し子と呼ばれた。

「スター・ウォーズ(エピソード4)」はどうして《ハリウッド・ルネサンス》なのか?詳しく説明しよう。

ジョージ・ルーカスはハリウッド黄金時代の冒険活劇再興を目指した。例えば映画冒頭、前説の文字が遠近法で画面奥の方に消えていく手法はセシル・B・デミル監督の西部劇「平原児」(1936)の再現である。

Hei

Sw

写真上が「平原児」、動画はこちら。下が「スター・ウォーズ」である。モス・アイズリー(惑星タトゥイーンの巨大宇宙港都市)の酒場にたむろする連中も完全に西部劇に登場する「ならず者」だしね。

またデス・スター内部でルークがレイアを抱きかかえ、ロープにぶら下がって逃げるというアクション・シーンがあるが、これはジョニー・ワイズミラー主演「類人猿ターザン」(1932)へのオマージュでもあるし、エロール・フリンが主演した一連の海賊映画(「シー・ホーク」1940、「海賊ブラッド」1935)への敬意の表明でもある。

Blood

ここでジョン・ウィリアムズの音楽へ目を移してみよう。「スター・ウォーズ」のメインテーマはエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトが作曲した「嵐の青春(Kings Row)」(1942)や「シー・ホーク」そっくりである(試しにStar WarsとKings Rowを聴き比べてみてください→こちら!)。実は「海賊ブラッド」も含め、エロール・フリンが主演した映画の多くはコルンゴルトが音楽を担当しており、「スター・ウォーズ」の音楽そのものがコルンゴルトやフリンへのオマージュを高らかに奏でているのだ。ウィーンで幼少期を過ごしオペラの作曲家としても名を馳せたコルンゴルトはワーグナーが考案したライトモティーフ(示導動機)の手法を映画に持ち込んだ。そのひそみに倣い、ジョン・ウィリアムズも「スター・ウォーズ」のために数多くのライトモティーフを用意した。ルーク(=ジェダイの騎士、フォース)、レイア、ダース・ベイダー、ヨーダ、ミレニアム・ファルコン号、イウォーク、アナキン、ダース・モール、「フォースの覚醒」ではレイ、レン、スノーク、反乱軍など各々にモティーフ(テーマ)が与えられており、それらが複雑に絡み合って壮大な世界を形成する。「スター・ウォーズ」は神話であるが、音楽もワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」を踏襲しているわけだ。詳しくは下記記事をご参照あれ。

さらに「スター・ウォーズ エピソード1」のポッド・レースは「ベン・ハー」(1959)における戦車競争の場面へのオマージュであり、ジョン・ウィリアムズの音楽もここでは意図的にミクロス・ローザ(ハンガリー式に表記するとロージャ・ミクローシュ)が作曲した「ベン・ハー」そっくりに仕上げられていることを追記しておく。

Ben2

Ben1

上の写真2枚が「ベン・ハー」の戦車競走であり、下2枚がポッド・レース。

Pod1

Pod2

「スター・ウォーズ(エピソード4)」でアルフレッド・ニューマンによる「20世紀フォックス・ファンファーレ」が久々に復活したことも見逃せない。これは1935年に作曲され、「20世紀フォックス」のロゴと共にスネアドラムの軽快なリズムで始まるのだが、一時期このファンファーレが流れず、オープニングロゴが無音のまま映し出される状態となっていたのである。

次に「スター・ウォーズ」への黒澤映画からの影響に言及しよう。ルーカスが黒澤明の大ファンであることはあまりにも有名で、「影武者」(1980)海外版プロデューサーはフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスが務めた。余談だが黒澤の「夢」(1990)は日本国内で出資者が見つからなかったためにスティーヴン・スピルバーグに脚本を送り、彼がワーナー・ブラザーズへ働きかけたおかげで製作が実現したという経緯がある。《ハリウッド・ルネサンス》の立役者、揃い踏みである。因みに「夢」にはマーティン・スコセッシ監督がゴッホ役で出演している。

話を「スター・ウォーズ」に戻そう。ダース・ベイダーのフェイスマスクは明らかに武士の鎧兜を元にデザインされている。ルーク・スカイウォーカーやオビ=ワン(ベン)・ケノービが最初に来ている衣装は柔道着だ(黒澤映画「姿三四郎」1943)。ライトセーバーによる対決は勿論、チャンバラ(剣劇)である。またジェダイ=時代であり、オビ=ワンの名前の由来は「帯」であるとルーカス本人が明言している。彼が当初オビ=ワン役を三船敏郎にオファーし、にべもなく断られたことはよく知られた事実である。またヨーダのモデルは「依田(よだ)さん」という説もあり。詳しくは→こちら

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上の写真は溝口健二監督の最盛期を支えたことで知られる脚本家:依田義賢氏。耳と鼻の形に注目!

C-3POとR2-D2という凸凹コンビの由来は黒澤映画「隠し砦の三悪人」(1958)に登場する百姓の太平(千秋実)と又七(藤原釜足)である。そもそも囚われた姫を救出するという「スター・ウォーズ」のプロットそのものが「隠し砦の三悪人」を踏襲している。因みに宮﨑駿の「ルパン三世 カリオストロの城」(1979)も「隠し砦の三悪人」を下敷きにしており、「スター・ウォーズ(エピソード4)」と同時期に登場したというのが興味深い。

Miya

これでご理解頂けただろう。「スター・ウォーズ」シリーズには今は失われてしまった映画黄金期の記憶が「これでもかっ!」というくらい、てんこ盛りに封印されている。新しい技術(VFX)で古(いにしえ)の夢を語る。あくまで虚構(フィクション)にこだわり、現実(リアル)や血なまぐさい場面、あからさまな性的描写はなし(つまりアメリカン・ニューシネマへのアンチテーゼ)。だから《ルネサンス》(フランス語で「再生」「復活」を意味する)なのだ。

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2016年1月 4日 (月)

クリード チャンプを継ぐ男

評価:A

Creed

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僕は「ロッキー」シリーズを第1作目のみ観ている。理由はアカデミー作品賞・監督賞・編集賞を受賞した名作だからだ。ちなみにノミネートはシルベスター・スタローンの主演男優賞・オリジナル脚本賞を含めて10に及ぶ。しかしそもそもボクシングに何の興味もないので、スタローンが監督も兼ねるようになった「ロッキー2」以降は全く食指が動かない(「ロッキー4/炎の友情」はゴールデンラズベリー賞に最低作品賞・最低監督賞など8部門にノミネートされ、5部門受賞するという不名誉な記録を残した)。

とは言え「ロッキー」のスピンオフ?「クリード」は是非映画館に足を運ばねばと想った。北米での評判が「第1作目に匹敵する」とすこぶる良かったからである。で最後は「涙なしには観られない」と散々聞かされていたわけだが、ご多分に漏れずやられた!

脚本・監督のライアン・クーグラーは現在29歳。大した才能だ。黒人のアカデミー監督賞受賞は現在、もっとも重要な懸案事項だが(「女性」については2008年「ハート・ロッカー」でキャスリン・ビグローが受賞)、彼こそ最も近い位置にいると言えるだろう(他に有力なのが「グローリー ー明日への行進ー」のエヴァ・デュヴァネイ)。彼の処女作「フルートベール駅で」(2013)も是非観なければ!

プロットは基本的に細田守の「バケモノの子」と同一である。武者修行の若者と老人が特訓を通じて擬似親子の関係に至る(=そして父になる)。それが白人(ロッキー・バルボア)と黒人( アドニス・クリード)の組み合わせというのが面白い。

舌を巻いたのが編集の上手さ。クリードのデビュー戦では戦いの開始から終わりまで何とワンカットの長回し!それも近接撮影で、すごい迫力だった。ところがクライマックスの試合になると戦法を変えて今度は細かいカット割り。マーティン・スコセッシも真っ青。痺れた。

あと音楽がいい。「ロッキー」といえばビル・コンティのテーマ曲だけれど、それを小出しにしながら巧みに挿入している。で「クリード」のファンファーレも金管が華やかに鳴り響くのだが、「ロッキー」のトランペットに対してトロンボーン中心で変化を付けている(やや低音寄り)。途中からコーラスが加わるところも「ロッキー」の精神を継承しており、オリジナルへの敬意が感じられる。

本作を鑑賞するにあたり、「ロッキー2」以降を観ていなくても全く支障なかった。しかし最低限第1作目は予備知識として頭に入れておいた方がいい。何故なら、かの有名なフィラデルフィア美術館の正面階段(ロッキー・ステップ)が登場するからである。予習ありなしでは感動の度合いが全く違うのだ。

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