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2015年9月

2015年9月30日 (水)

児玉宏のブルックナー第9番

9月28日(月)ザ・シンフォニーホールへ。

児玉宏/大阪交響楽団で、

  • リスト:交響詩「オルフェウス」
  • ワーグナー:ファウスト序曲
  • ブルックナー:交響曲 第9番

を聴く。ワーグナーはブルックナーの心の師であり、ワーグナーの妻コジマはリストの娘という関係。

「オルフェウス」は指揮台の目の前にハープ2台が置かれた。たおやかな官能。それはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」に通じるものがある。

ファウスト序曲は歌劇「さまよえるオランダ人」に繋がっている。魂の救済というゲーテ「ファウスト」のテーマは「さまよえるオランダ人」と同一性があると言えるだろう。

ブルックナーの第9番は第1楽章冒頭部のスタカートやアクセントが明確で、突如出現するトゥッティはズシリと腹にこたえる圧倒的音圧。輝かしい響きだった。速めのテンポで音楽は滔々と流れ、筋肉質で引き締まった児玉の棒裁きはいたって明晰。

第2楽章最初のピチカートは軽やかで、続く(「ヨハネの黙示録」に書かれた最後の審判を想起させる)暴力的刻み音型との対比が鮮やか。中間部も兎に角リズミカルで、これで踊れるんじゃないかと想った。そして第3楽章で訪れる浄化の神々しいまでの美しさ。

僕がこのコンビを初めて聴いたのは2006年5月12日の定期演奏会だった。その時の曲目がブルックナーの第7番で、どんどん高みの登っていく演奏に一気に魅了された。両者初顔合わせとなった2005年1月の第3番こそ聴き逃したが、それ以外は00番、0番を含め、シリーズ全てを聴いた。そして迎えた最終章。感無量である。今シーズンをもって同オケの音楽監督を勇退する児玉だが、来年度以降も是非客演して欲しい。朝比奈・ヴァント亡き後、児玉のブルックナーは現役指揮者の最高峰なのだから。

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2015年9月29日 (火)

窃盗映画「あの日のように抱きしめて」とクルト・ヴァイル

評価:C-

F

ドイツ映画である。監督は「東ベルリンから来た女」でベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞したクリスティアン・ペツォールト。公式サイトはこちら

ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所から生還した女。顔に大怪我を負い、整形手術をして夫の元に帰るが彼は気が付かない。この導入部は映画化もされた安部公房「他人の顔」を髣髴とさせる。

「三文オペラ」で名高いクルト・ヴァイルの名曲「スピーク・ロウ」が冒頭からジャズ・アレンジで流れる。実に心地よい。ヴァイルは1900年にドイツに生まれたユダヤ人。彼が音楽を担当した舞台作品の上演や音楽会は、ナチス当局による暴力的な干渉のため中断せざるを得なくなり、1933年遂に亡命した。パリ経由でニューヨークに渡った彼はミュージカルを手掛けるようになる。「スピーク・ロウ」は1943年に初演されたミュージカル「ワン・タッチ・オブ・ヴィーナス」のナンバー。宝塚花組がバウホールで上演したこともある。

ただその後の映画の展開がヒッチコックの「めまい」そっくりで呆れ果てた。デヴィッド・フィンチャーの「ゴーン・ガール」も「めまい」へのオマージュだったが、こちらはオマージュというレベルじゃない。猿真似・窃盗である。「めまい」をダグラス・サーク風メロドラマに仕立てましたよという体(てい)だ。因みにダグラス・サークはドイツの映画監督。ユダヤ人だった彼はナチスの弾圧を逃れ1937年にアメリカに亡命、ハリウッドで活躍した。

また本作の主人公はアメリカ兵相手のクラブ「Phoenix(=不死鳥、これが映画の原題)」で夫に再開を果たすのだが、そこのショーの雰囲気はボブ・フォッシーの「キャバレー」(舞台はナチス・ドイツ政権下のベルリン)そっくり。借り物ばかりで、一体この監督の個性は何処にあるの??と頭の中が疑問符だらけになった。

あ〜あ、予告編で期待していたのにがっかりだよ。

唯一収穫だったのはロケット発射時にするカウント・ダウンの起源がフィリッツ・ラング監督のドイツ映画「月世界の女」(1929)だと判ったことかな。

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2015年9月28日 (月)

映画「キングスマン」

評価:B+

Kingsman_the_secret_service

映画公式サイトはこちら。「キック・アス」のマシュー・ボーン監督&マーク・ミラー原作コンビ復活である。

マシュー・ボーンはイギリス・ロンドン出身。マーク・ミラーはスコットランドの労働者階級に生まれ、家が貧しくて大学に行けなかったという。現在もグラスゴーに住む。

「紳士になれるかどうかは生まれじゃない。マナーを身につければ誰だってなれる。後天的資質なのだ」と映画は力強く語る。スパイ物を「マイ・フェア・レディ」(あるいはミュージカル「ME AND MY GIRL」)で味付けするというユニークな趣向。

"Kingsman: The Secret Service"という原題は「女王陛下の007」(On Her Majesty's Secret Service)のパロディであろう。女王が王に代わったというわけ。音楽も明らかに007シリーズのジョン・バリーを意識したものに仕上がっている。何だか無性に懐かしかった。

映画評論家・町山智浩氏によると映画の中でバーでマティーニを注文する時の「ジンベースで」「分かっているね」というやり取りも、ジェームズ・ボンドがいつもウォッカベースで注文するのを揶揄しているのだそう。

マシュー・ボーンは007監督候補になるも、コンペで落選した経歴を持つ。だから007への愛憎の念(憧れ&怨念)を痛烈に感じた。でも未だにやりたくて仕方ないんだね。秋波を送っていることが火を見るよりも明らかで、微笑ましい。

「キック・アス」(1作目)もそうだけど、イギリス人らしくブラック・ジョークが痛烈。悪趣味というか悪乗りを愉しめるかどうかで作品への評価が別れるだろう。だから観客を選ぶ映画だと言える。

今回敵になるのはアメリカのIT企業社長(サミュエル・L・ジャクソン)で、成り上がり者だから金持ちになってもバーガー食っているんだろとバカにしている。スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグをモデルにしていると思われ、Eco(地球にやさしい)を強調するところは民主党支持者を皮肉っている(ドキュメンタリー映画「不都合な真実」の主人公である元アル・ゴア副大統領-後にノーベル平和賞受賞-を想い出して欲しい)。またアメリカ南部の教会に有色人種や同性愛者を差別し、妊娠中絶を認めないキリスト教原理主義者(=共和党支持者)が一同に介し、皆殺しになる。つまり右も左もオールレンジ(全方位)攻撃で「みんな死んじゃえ!」というわけ。冗談きついよ。アメリカ人はこれ観たら腹立つだろうな。でも何だか可笑しい。

今回痛感したのは僕は本当にコリン・ファースという役者が大好きなんだなということ。スーツがビシっと決まって格好いい。アカデミー主演男優賞を受賞した「英国王のスピーチ」では英国王を演じているわけだから、やっぱり気品( elegance )がある。それは女王役経験者であるジュディ・デンチやヘレン・ミレンに感じることと共通している。

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2015年9月27日 (日)

映画「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド・オブ・ザ・ワールド」がダメダメな3つの理由(わけ)

評価:C

「怪獣映画なら変わるかも知れない」と樋口真嗣に些かでも期待した僕が馬鹿だった。映画館で「ローレライ」(2005)を観た時から判っていた筈だ。「コイツには映画監督としての才能が一欠片もない」と。

樋口に対する評価がF(不可)で、頑張った特撮陣に対する評価がB+、よって総合でCとした。

公式サイトはこちら

僕はアニメ版「進撃の巨人」を高く評価しているが、その理由の一つに主題歌に英語ではなく、ドイツ語を使用していることを挙げている。

で実写版なのだが、後編には英語の歌が数曲流れる。タイトルも「ATTACK ON TITAN エンド・オブ・ザ・ワールド」だ。何故英語?気取っているだけかよ。

ダメダメな理由

その1)

主演の3人三浦春馬・水原希子・本郷奏多の芝居が酷い。よくもこれだけ大根役者を揃えたものだ。

樋口真嗣が監督した映画「ローレライ」は劇団☆新感線の中島かずきがシナリオを書いている。また樋口は同劇団の舞台「レッツゴー!忍法帖」「阿修羅城の瞳」「髑髏城の七人」などに映像スタッフとして参加している。三浦春馬も新幹線の「ZIPANG PUNK~五右衛門ロックIII」に出演経験がある。つまり「進撃の巨人」の芝居は劇団☆新感線の方法論に即しているのだ。しかし、映画と演劇の演技は違う。そのことを樋口は全く判っていない。唸ったり、叫んだり芝居が大仰過ぎる。長谷川博己も前編では終盤しか出なかったからまだ良かったが、後編の彼の台詞が臭過ぎ。意味不明の白い部屋で気取ってシャンパングラスを差し出す行為も噴飯モノである。な、何なんだコイツ!?開いた口が塞がらなかった。

その2)

編集のセンスに大いに疑問を感じる。アクションと次のアクションを繋ぐテンポが悪く、間延びしている。例えば巨人化したエレンと敵が戦っている時に、カメラが切り替わるとミカサとアルミンがそれをボーッと見ている。お前ら、それでええんか!?このでくのぼうどもめが。外壁修復作戦に従事する兵士たちの行動(リアクション)がどうも鈍いんだよね。阿呆にしか見えない。

その3)

脚本の整合性が取れていない。後編で自らを巨人化出来る人間が数人明らかになるのだが、そしたら前編の作戦自体意味なくない?他人の力を借りなくても問題を解決出来るでしょう。また僕は前編のレビューで「壁を突破する」ことの意義について考察(7つの仮説を提示)したが、「壁に空いた穴をふさぐ」ことに終結する後編は完全な肩透かしであり、問題は何も解決していないし、物語自体が全く意味ねーよ。アダムとイヴがエデンの園に留まってどうする??これでは家畜の安寧・虚偽の繁栄に逆戻りだ。カタルシスがないのである。前編でウジョウジョ侵入してきた巨人たちが後編で完全に鳴りを潜めているのも不自然。「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」をしたかったのは重々理解出来るのだが、いくらなんでもご都合主義だ。巨人が人を食べる理由は最後まで不明だし、映画に登場する「特定知識保護法」も無茶苦茶だ。ヘリコプターや飛行機の製造技術は封印されて、装甲車はO.K.なんてあり得ない。変、変、変!

結局、本作を反面教師として今更ながら「ゴジラ」「サンダ対ガイラ」の本多猪四郎や、平成ガメラシリーズの金子修介、そして「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロらが如何に怪獣映画監督として優れていたかを思い知らされることとなった次第である。

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2015年9月21日 (月)

エマニュエル・パユ & クリスティアン・リヴェ「アラウンド・ザ・ワールド」

9月16日(水)兵庫県立文化センター小ホールへ。

エマニュエル・パユ(フルート)とクリスティアン・リヴェ(ギター)のデュオ・コンサート。

  • アストル・ピアソラ:タンゴの歴史
  • モーリス・オアナ:ギター独奏のための「ティエント」
  • フランチェスコ・モリーノ:二重協奏曲 第3番
  • ラヴィ・シャンカール:魅惑の夜明け
  • ヘンデル:フルート・ソナタ ト短調 作品1-2
  • カーター:スクリーヴォ・イン・ヴェント(風に書く)
    フルート・ソロ
  • リヴェ:クラップ
  • バルトーク:ルーマニア民俗舞曲
  • イベール:間奏曲 アンコール
  • ヴィラ=ロボス:モディーニャ アンコール

作曲家の国籍を順番に見ていくと、アルゼンチン、フランス、イタリア、インド、ドイツ、アメリカ、ハンガリー、ブラジルと多岐に渡る。また18世紀バロックから21世紀の現代音楽まで時代(様式)も幅広い。

パユは言わずと知れたベルリン・フィル首席フルート奏者。今年6月28日に開催されたヴァルトビューネ野外コンサートでも彼はステージに乗っていて、パユが吹く「スター・ウォーズ」「E.T.」「インディー・ジョーンズ」「大いなる西部」「ベン・ハー」が衛星中継で聴けて感激したものだ(指揮はサイモン・ラトル)。今まで生で聴いた感想は下記。

僕自身、趣味でフルートを吹くのだが、パユの魅力は音量のコントロールが完璧なこと、さらにノン・ヴィブラートから高速ヴィブラートまで変幻自在であるということ。大きな太い音を出すことは比較的容易いのだが、難しいのは繊細な最弱音なのだ。しかしパユは決して掠れない。その特徴が際立っていたのがヘンデルのソナタ。バロック音楽なので基本的にノン・ヴィブラートだった(伸ばす音の中腹で装飾的にかける程度)。スタカートの一音一音も粒が立ち、整っていた。リヴェの「クラップ」では吹かずにカバードキーを叩くだけの演奏法が面白かった。

ラヴィ・シャンカール(インド)の曲は予め録音されたシタールとの共演。

アメリカの作曲家カーターの作品は重音やフラッターなど特殊奏法があり、また尺八や篠笛を連想させる響きもあった。

バルトークは一本芯が通っていて気高い。そして尖った演奏。

フルートの貴公子パユの縦横無尽のテクニックに酔い痴れた夜だった。

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2015年9月18日 (金)

大植英次/大フィル×ナタリー・シュトゥッツマンのマーラー:交響曲第3番と「ファウスト」の意外な関係

9月17日(木)フェスティバルホールへ。

大植英次/大阪フィルハーモニー交響楽団 with ナタリー・シュトゥッツマン(アルト)で、

  • マーラー:交響曲 第3番

を聴く。共演は他に大阪フィルハーモニー合唱団、大阪すみよし少年少女合唱団。

僕は2012年5月に大植/大フィルで同曲を聴いている。独唱はアネリー・ペーボ。その時のレビューはこちら

前回は100分の大曲を暗譜で指揮した大植だが、今回は目の前にスコアを置いて振った。しかし第1楽章後半でスコアを閉じてしまい、見てるんだか見ていないんだが謎であった。相変わらず愉快な人だ(9月22日追記:今年は大植の師レナード・バーンスタイン没後25年。レニーはカーネギーホールでこの曲を指揮する予定だったが、果たせず死去した。その願いを受けて、大植はレニーのスコアを置いて演奏したとのこと)。

第一部 序奏「牧神(パン)の目覚め」(9本のホルンが第1主題を奏でる) 第1楽章「夏が行進してくる(バッカスの行進)」 :大植のテンポは猫の目のように変わるので、流れがギクシャクしてそれを批判する向きもあるだろう。しかし僕は断固支持する。マーラーの音楽は本質的に支離滅裂であり、歪なのだ。序奏の部分は正に天地創造の混沌を思わせた。ディズニー「ファンタジア」の”春の祭典”の場面が脳裏に浮かぶ。そして曲調が行進曲になるとギリシャ神話の世界が広がる(パンもバッカスもギリシャ神話の登場人物。ディズニー「ファンタジア」なら”田園交響楽”の場面ね)。

第二部 第2楽章「野原の花々が私に語ること」になると一転、音楽は流麗で愛らしくなる(英語で言うとprettyって感じかな)。

第3楽章「森の動物たちが私に語ること」 は戯(おど)けて、マーラーが幼少期を過ごしたボヘミア(チェコ辺境の村カリシュト)の森が描かれる。中間部に舞台裏から聞こえてくるポストホルン(郵便ラッパ)はグスタフ少年の記憶に刻まれた音色なのではないだろうか?甘美なノスタルジーがあった。

第4楽章「夜が私に語ること」 のシュトゥッツマンの声は、まるで地の底から響いてくるような深みがあった。この曲に関して彼女は現在世界最高の歌い手ではないだろうか?鳥肌が立った。

子供たちが加わる純粋無垢な第5楽章「天使たちが私に語ること」を経て、オーケストラのみの第6楽章「愛が私に語ること」へ。音楽はゆったりと波のようにうねり、ひたひたと潮が満ち、やがて歓喜の絶頂に達する。ここで僕がイメージしたのは羊水の中の胎児(羊水と海水の組成成分は似ており、両者の塩分濃度もほぼ一致する。母親の体内には「海」が存在する)。我々がこの世で犯した罪は許され、スター・チャイルドとして生まれ変わる。そう、スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」ラストシーンの話だ。そこにR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」冒頭部が流れると……マーラーの3番に繋がった!

大野和士/京都市交響楽団でこの曲を聴いた時、プレトークで大野が第6楽章についてゲーテの「ファウスト」第2部の最後に登場する「永遠に女性的なるものがわれらを高みへと引き上げ、昇らせてゆく」という詩に呼応しているのだろうと自説を披露した。その時は根拠がピンとこなかったのだが、今回の演奏を聴いて漸く大野の説は正しいという確信を持った。

マーラーは交響曲第8番で「ファウスト」第2部を歌詞として使用している。「ファウスト」第2部は第1部で愛するグレートヒェンを自分の犯した過ちで失い、心身ともに疲れ果てたファウストがアルブス山中の草野で深い眠りにつき、やがて過去の出来事全ての忘却とともに目覚める場面から始まる。これは明らかに交響曲第3番第4楽章の歌詞(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」)に呼応している。そして第5楽章でアルトが「私は十戒を破りました」と泣いてイエスに訴えると、イエス(女声合唱)はこう答える。「跪いて神に祈りなさい。常に神だけを愛しなさい。然らば汝は喜びに満ちた天国へ行けるだろう」これはメフィストフェレスに地獄へ連れて行かれそうになったファウストを死んだグレートヒェン(=永遠に女性的なるもの)が救済し、天へと導く場面に繋がるのだ。また「ファウスト」にはギリシャ神話への言及も多々ある。ちなみに「永遠に女性的なるものがわれらを高みへと引き上げ、昇らせてゆく」という詩句はアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」にも引用されていることを付記しておく。

3年前の兵庫芸文での大フィルの演奏はホルンの拙さが痛かった。しかしその後首席奏者に高橋将純を迎え、今回は安心して心地よく音楽に身を委ねられた。またポストホルンを吹いた秋月孝之も見事であった。シュトゥッツマンの名唱も併せて、今回は3割増しで良かったと言えるだろう。ただ彼女との共演にビビったのか、第4楽章だけオケのアンサンブルが千々に乱れたのはご愛嬌ということで。

最後に客席のマナーについて。楽章間であちらこちらから飴ちゃんの包みを開くクシャクシャという音が聞こえてきたのだが、次の楽章が始まっても中々それが収まらない。勘弁してよ、短時間で処理出来ないのなら飴舐めるな!咳してくれた方が未だマシだ。

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2015年9月 8日 (火)

「バニー・レークは行方不明」と、パリ万博・消えた貴婦人の謎

町山智浩(著)「トラウマ映画館」で紹介され、ずっと興味を持っていたオットー・プレミンジャー監督の映画「バニー・レークは行方不明」(1965)DVDが漸くレンタル開始となったので早速観た。

Bunny_

こういうプロットだ。

アメリカからロンドンにやって来たシングルマザーのアン・レークは引っ越し早々、4歳の娘バニーを保育園に送り届けるが、その数時間後に娘が行方不明になってしまう。半狂乱になって兄と行方を探すアン。しかし保育園のどこにも子供が存在したという痕跡がない。保育士の誰もバニーを見ていない。写真もない。捜査に乗り出した警部(ローレンス・オリヴィエ)は、消えた娘というのは彼女の妄想ではないかと疑い出す……。

なおイヴリン・パイパーが書いた原作小説(ハヤカワ・ポケット・ミステリ刊)は1957年の作品である。

僕には既視感(デジャヴ)があった。小学校2,3年生の頃に読んだ物語を彷彿とさせたのである。

おぼろげな記憶を頼りに、漸くその本を突き止めた。「名探偵トリック作戦」(藤原宰太郎、学習研究社、1974)のカラー巻頭漫画「消えた母の秘密」であった。

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問題編

1889年フランス革命100周年を記念する万国博覧会が開催されていたパリの街を船で旅行中の一組の母娘が訪れた。二人はそれまでインドを訪問しており、パリに寄ったのは博覧会を見物するためであった。しかし母親の体調は優れず、ホテルの部屋で寝込んでしまう。ホテル付きの医者に診せるが彼の手には負えない。娘は自分で医者を探すべくホテルを飛び出した。   

漸く頼りになりそうな医者を見つけてホテルに戻ったときには既に数時間が経過していた。娘はホテルの従業員に母の具合を尋ねる。しかし彼は思わぬ言葉を口にした。
「お客様はお一人で宿泊されていらっしゃいますが」       
そんな筈はないという彼女の訴えに彼はただ首を傾げるのみ。部屋に行けばわかると、娘は従業員らを連れて自室に向かった。だが、扉を開けて彼女は愕然とする。 壁紙や調度品……部屋の何から何までが異なっており、母親の姿は影も形もなかった。彼女が持つ鍵と鍵穴は一致する。ルーム・ナンバーを間違えたわけではない。

娘は母を診察したホテル付きの医者を問い質した。しかし彼もまた、「そのような方を診た覚えはありません」と否定。彼女はホテル中の人々に尋ねたが、誰一人としてそのような人が宿泊していた事実は知らない。異国で一人ぼっちになった娘は途方に暮れるばかりであった。

解決編

真相は次のようなものであった。母親はインドでペストに罹っており、ホテルに着いた直後に息を引き取った。だが万博の最中このような事実が知れ渡ったらパリの街中が混乱し、ホテルの営業は大打撃を被る。そこでホテルはパリ当局と共謀して、娘が外出している間に母親を別の場所に隔離し、突貫工事で部屋を改装、関係者全員で口裏を合わせて最初からそんな人物が存在しなかったかのように振舞ったのだった。

これはベイジル・トムスンの短編集"Mr. Pepper, Investigator "(1925)の中の1篇「フレイザー夫人の消失」(新潮文庫「北村薫のミステリー館」収録)が原典だった。また直木賞を受賞した推理作家・北村薫によるとコオリン・マーキーの「空室」(【新青年】1934年4月号掲載)も同趣旨の物語であり、さらにそれらの大本を辿るとパリ万博で実際にあった話だという。しかしいくらなんでも実話とは信じ難いので、一種の都市伝説みたいなものなのだろう。はっきりと原作者が特定出来ないということ自体、ミステリアスである。

アメリカの評論家アレクサンダー・ウールコットはエッセイ「ローマが燃えるあいだ」(1934)で「消えた貴婦人」について触れ、この話の出典は1889年のパリ万国博覧会開催中に発刊されたデトロイト・フリー・プレス紙のコラムであると書いている。 しかしウールコットが出典として挙げている記事は、調べてみると実際には存在しないのだという。

「フレイザー夫人の消失」はアルフレッド・ヒッチコック監督の映画「バルカン超特急」(1938)やウィリアム・アイリッシュの短編小説「消えた花嫁」(1940)、ディクスン・カーのラジオ・ドラマ「B13号船室」(創元推理文庫「幽霊射手」収録)の元ネタにもなっている。

そして「バルカン超特急」や「バニー・レイクは行方不明」を参考にして、ジュリアン・ムーア主演の映画「フォーガットン」(2004)やジョディ・フォスター主演「フライトプラン」(2005)が相次いで製作された。

さらに漫画「MASTER キートン」(作:勝鹿北星/画:浦沢直樹)の「青い鳥消えた」というエピソードが「バニー・レイクは行方不明」に酷似している。

これだけ多数のヴァリエーション(パスティーシュ)を生むということは、やはりそれだけ魅力のある物語なのだろう。僕も幼少期に読んだ「消えた母の秘密」を未だに覚えているのだから強烈な印象を受けたわけで、正にトラウマと言って差し支えない。どうしてこれほどまでに惹かれるのだろう?じっくり考えてみた。

  1. 自分のことを周囲の誰も覚えてくれていないという恐怖。ーそれは自分の死後も何事もなかったように世界が続いていくことへの畏怖の念でもあるだろう。
  2. 自分が愛し、親しくしている人々が、実は単に自分の幻想だけの存在なのではないかという恐怖。フランソワ・オゾンの映画「まぼろし」やテリー・ギリアム監督「未来世紀ブラジル」のラストシーンを想い出して欲しい。

結局これらは、人間の実在の不確かさ、生きることの意味への不安にも繋がっているのだろう。

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2015年9月 7日 (月)

映画「ふたつの名前を持つ少年」とパンドラの匣

評価:A

ドイツ・フランスの合作。公式サイトはこちら

2

第2次世界大戦中、ナチス・ドイツ支配下にあったポーランドが舞台となる。8歳でゲットーから脱走したユダヤ人少年の物語であり、作品内ではポーランド語、ドイツ語、イディッシュ語、ヘブライ語、スラブ語の5か国語が話される。まぁこれがハリウッド映画なら(例えば「シンドラーのリスト」)全編英語で押し通されるわけで、さすがヨーロッパは律儀だなと感心した。

A

原題はLAUF JUNGE LAUF(英題:RUN BOY RUN)、原作の日本語訳が「走れ、走って逃げろ」(岩波少年文庫)。実話である。主人公のモデルとなった人物が映画の最後に登場する。原作を書いたウーリー・オルレブは1931年ポーランド・ワルシャワ生まれのユダヤ人。“小さなノーベル賞”とも言われる国際アンデルセン賞作家賞を受賞している。

ペペ・ダンカート監督はドイツ生まれで「Schwarzfahrer」(黒人の乗客)(93)で米アカデミー賞短編実写賞を受賞した。

実は主役の少年は双子が分担して演じている。ドイツでは子役がセットに居られるのは5時間、撮影は3時間までと定められていたからだ。僕がこの事実を知ったのは観終えてからであり、入れ替わりに全然気が付かなかった!

前評判は何も知らずに映画館に足を運んだ。予告編(公式サイトをご覧あれ)がとても美しかったからである。自分の直感を信じて大正解だった。

映画冒頭、倒木の横に寝ている少年の映像からたちまち魅了された。枯れ葉散る情景の俯瞰ショットや、少年が教会の鐘を鳴らす場面も詩情溢れていて実に素晴らしい。過酷な状況下に、それでも必死に生きようとする彼の姿に心打たれた。

僕は本作を観ながら、ギリシャ神話のパンドラの匣(=はこ、本来は壺)のことを想い出した。パンドラが蓋を取ると、中から疾病、戦争、貧困、憎悪、嫉妬、飢餓、瀆神(とくしん)、残虐、好色……ありとあらゆる悪が飛び散った。第二次大戦中のドイツやポーランドの状況が正にそれに該当する。諸悪が飛び散るのを見て慌ててパンドラは蓋を閉じた。辛うじて箱の底に一つのものが残った。すなわち希望であった。……その希望とは、少年がユダヤ人であると気が付きながらも危険を犯して助けてくれた、数多くの人々のことである。ヒトラーやナチス・ドイツの連中は犬畜生にも劣るならず者たちだが、人間捨てたもんじゃない。そう想った。

小学校4年生以上、そして中学生の少年少女達にこそ、是非観てもらいたい映画である。

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2015年9月 4日 (金)

映画「この国の空」

評価:B+

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芥川賞作家・高井有一による原作小説は谷崎潤一郎賞を受賞している。この映画を観たいと想った切っ掛けは、滅法面白かった「さよなら歌舞伎町」を書いた荒井晴彦が脚色/監督だったからである。荒井がメガフォンを取るのは18年ぶりだそう。公式サイトはこちら

荒井晴彦はそもそもシナリオライターとしてのデビューが日活ロマンポルノである。その後も「ひとひらの雪」「ヴァイブレータ」など、性愛と切っても切れない作品を書き続けてきた。

「この国の空」の前半部は第二次世界大戦下の東京を舞台に、極めて淡々とした日常生活が丁寧に描かれる。「エッ、これって本当に荒井のホン?」と肩透かしを食らった印象。柄にもなく生真面目なのだ。ところが!上映時間の2/3を過ぎた辺りから荒井の本性が明らかになってくる。映画が濡れてきた。それまでは観客をアッと言わせるための前振り、仕込みだったのである。

主演は二階堂ふみと長谷川博己。二階堂の母を工藤夕貴、叔母を富田靖子が演じている。で工藤夕貴が川で沐浴するシーンがあり、彼女はカメラに背中を向けているのだが、ワキ毛が見えてそれが何ともエロい。これぞ荒井晴彦の真骨頂。

そして二階堂が庭先の桶の水で体を洗い流すシーンが登場し、一糸まとわぬ姿のバックショットが映し出される。「週刊ポスト」によると、ここで荒井晴彦が「付けワキ毛」を指示したところ、二階堂が猛烈に拒否したそう。監督としては“終戦直前にワキ毛処理をしているわけがない”というリアリティを追求したかったのだが、二階堂が“あんまりだ”と頑なに拒んだらしい。

いや、観客の立場から言わせてもらうなら、20歳の二階堂にその要求はあまりに酷というもの。いくらなんでも可哀想。美しい場面だし、そんなものは不要だと想った。ベテランの工藤が大人のエロスの部分を担ってくれているのだから、それで十分じゃないか。ムキになるなよ荒井。まぁネタ(ウラ話)としては可笑しいけれど。

二階堂は少女から女へ変貌してゆく過程を巧みに演じた。あと本作では意図的に彼女のセリフ回しが楷書的(棒読み口調)で、1950年代の、例えば成瀬巳喜男監督の映画における高峰秀子とか原節子などを想い出した。

また二階堂演じるヒロイン里子の最後のモノローグが効いている。ドキッとした。エンドロールで茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」が朗読されるのも作品の雰囲気に馴染んでいて、違和感はなかった。

CM「お湯をかける少女」でブレイクした工藤夕貴を初めて映画で観たのが「台風クラブ」(1985)、彼女が14歳の時。それから三谷幸喜が脚本を書いたフジテレビの深夜ドラマ「子供、欲しいね」(1990)も大好きだった。今はDVD-BOXを持っている。富田靖子は彼女のデビュー作「アイコ16歳」(1983、撮影当時14歳)を映画館で観てときめいた。僕が高校生の時だった。そして僕が大学1年生の時、彼女の代表作「さびしんぼう」が公開された。映画でふたりを見るのは本当に久しぶりで(工藤は「SAYURI」以来)、とても懐かしかった。大人になったね。それから工藤は今井正監督「戦争と青春」(1991)で主演しているから、東京大空襲を題材にした映画はこれで2本目となる。

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2015年9月 2日 (水)

我が生涯、最愛の映画(オールタイム・ベスト)について語ろう。(その2)

僕のオールタイム・ベストの一覧は(その1)に書いた。こちらをご覧あれ。

今回は16位以降について語ろう。


冒険者たち」 仏

A

フィルム・ノワール(虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画)なのに青春映画でもあるという不思議なバランスを保った作品。原作・共同脚本をジョゼ・ジョヴァン二が担当しているが、この人は第二次世界大戦中レジスタンス運動を支援し、戦後はギャングに加わって投獄され死刑宣告を受けるも恩赦を受けて免れたという経歴を持つ。ヒロイン:レティシアを演じたジョアンナ・シムカス(シドニー・ポアチエと結婚し若くして芸能界を引退)の代表作でもある。監督のロベール・アンリコは本作の翌年にシムカス主演で「若草の萌えるころ」を撮っており、これも詩情あふれる佳作。好きだなぁ。しかしアンリコが1975年に撮った「追想」は陰惨な映画で、映画評論家・町山智浩氏の著書「トラウマ映画館」に取り上げられている。僕も中学生の頃これを観て衝撃を受けた。もう一生観たくない。閑話休題。

それからフランソワ・ド・ルーベが作曲した口笛による「レティシアのテーマ」が最高!ホンダの車「シビック」のCMで使用され、映画ファンの間で話題になったこともある。またサントラEPのB面は「愛しのレティッシア」をアラン・ドロンが唄っている!なおこのヴァージョン、映画では使用されていない。

Laetitia

 

シベールの日曜日」 仏

Cybele

静謐な抒情。孤独で純粋な魂と魂との、ほんの束の間の邂逅。しかし周囲の曇った目にそれは不純と映る。悲劇の季節。水墨画のような白黒ワイドスクリーンの映像が美しい。心が震えるよう。本作の後でナタリー・ポートマンの出世作、リュック・ベッソン監督の「レオン」をご覧あれ。話が同じだから。


恋のエチュード」 仏

Otona

フランソワ・トリュフォーの映画を1本選ぶのは難しい。孤独な少年の魂の彷徨を描く、痛ましい「大人は判ってくれない」も素敵だし、感受性豊かな処女短編「あこがれ」も大好き。「恋のエチュード」は男1人と女2人の三角関係を描くが、これは「突然炎のごとく」の男2人女1人と対になっている。原作者も同じ。15年が経過したエピローグでロダン美術館を訪ねた主人公がタクシーの窓ガラスに映る自分の姿を見て言うモノローグが心に突き刺さる。

トリュフォーが役者として出演したスティーヴン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」も是非お勧めしたい。あれは壮大な宗教映画である。旧約聖書「出エジプト記」を下敷きにしており、劇中にセシル・B・デミル監督の「十戎」も登場。つまりマザーシップ(UFO)=神なのである。


禁じられた遊び」 仏

Jeux_interdits

小学生の頃から観ていて、深い感銘を受けた。学校の道徳の先生とのやりとりは《私家版ナショナル・ストーリー・プロジェクト》に書いた。下の記事をどうぞ。

あと有名なギターのテーマは公開当時、演奏しているナルシソ・イエペス作曲と謳われていた。現在ではスペイン民謡「愛のロマンス」として知られている。このミスリードはイエペス本人が意図的に行ったのかどうか、非常に興味深い点である。


甘い生活」 伊

La_dolce_vita

この映画を初めて観たのが高校生のころ。さっぱり意味が判らなかった。3時間が苦痛で苦痛でしょうがなかった。それは多分、「桐島、部活やめるってよ」に戸惑う、現代の高校生たちに似ているだろう。40歳くらいになって、漸く描かれていることの意味が全て理解出来た。映画を観る「適齢期」というのは確かにあるのだ。

ローマを舞台に描かれる生きることの意味を見失った富裕層の人々の浮かれた、虚無的な日々。「…次第に滅びつつあるんですよ。生気というものがない。あるのは退屈です。倦怠です。無為です。ただ時間を使い果たしていくだけです。…人間も町も滅びて行くんですね。廃市という言葉があるじゃありませんか、つまりそれです」(福永武彦の小説「廃市」より)

映画の終盤で主人公のマルチェロは天使のような少女に出会う。浜辺に打ち上げられる、腐敗し悪臭を放つ怪魚はマルチェロたちの暮らしそのものを象徴する。川向うから少女が何か叫ぶ。しかしマルチェロには何も聞こえない。彼(ら)は天国から隔絶された世界(=地獄)に生き続けるしかないのである。

パパラッチという言葉はこの映画から生まれた。そしてクリスチャン・ディオールからは「甘い生活」(原題:La dolce vita)という香水が発売された。

フェリーニではあと、「道」と「カビリアの夜」がお勧め。


赤い靴」 英

映画史上、もっとも美しいカラー映画を5本挙げろと言われたら、僕は「赤い靴」「天国の日々」「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」「ライアンの娘」を選ぶ。ジャック・カーディフの撮影が素晴らしい。因みに白黒映画なら「第三の男」「シベールの日曜日」「マンハッタン」かな。

Red

あと芸術家として生きる道の厳しさをこの映画から学んだ。

「コーラスライン」はブロードウェイでオーディションを受ける若者たちを描いたミュージカルだが、そのうち数人がダンスを始める切っ掛けとなったのが幼い頃「赤い靴」を観たことだと語る場面が非常に印象深い。

 

E.T.」 米

封切りの映画館で観たのは僕が高校生の時だった。試写会を含めて7回映画館で観た。家庭用ビデオが漸く普及し始めた時代で、レンタル店なんか存在しなかった。因みに日本ビデオ協会が正式にビデオ・レンタル制度をスタートさせたのが1983年4月21日、「E.T.」の公開が1982年12月である。あれから33年、ビデオ(VHS vs. β) → 8mmビデオ → レーザーディスク vs. VHD → DVD → ブルーレイ vs. HD-DVDを経てブルーレイの完勝 と時代は目まぐるしく変遷してきた(遠い目)。映画自体もフィルム上映からデジタル上映に完全に切り替わってしまったので、大画面という以外映画館で観るメリットが完全に無くなってしまった。今後「E.T.」鑑賞回数の記録が塗り替えられることはないだろう。ちょっと寂しいね。

《20周年記念特別版》では少年たちを追う警官たちが持つ拳銃やショットガンをトランシーバーに置き換える画像処理がされている。そりゃないぜ!?僕は断固、オリジナル版を支持する。

ジョン・ウィリアムズの音楽が素晴らしい。あとエリオット少年の妹を演じたドリュー・バリモアが可愛い。スティーヴン・スピルバーグは子供の演出が際立って上手い。それはトリュフォーに言わせれば、「彼自身が少年だから」である。少年の心を忘れないーこれがキーワードである。

初期のスティーヴンは「父親不在」の映画ばかり撮ってきた。「E.T.」もそうだし、「未知との遭遇」は父(リチャード・ドレイファス)が家族を捨て、マザーシップに乗って宇宙に飛び立つお話である。彼がハイスクールの頃に両親は離婚した。「父親に捨てられた」という気持ちが強かったのだろう。電気技師だった父アーノルドとの想い出(6歳の頃、真夜中に叩き起こされ車で大流星群を見に連れて行かれたこと)は「未知との遭遇」に色濃く反映されている。その後、父と和解(離婚の真の原因は母親の浮気だった。そのことについて父は長らく口を閉ざしていた)を経て、スティーヴンが描く父親像は優しいものに変化していった。「インディー・ジョーンズ/最後の聖戦」のショーン・コネリー、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」のクリストファー・ウォーケンがそれに該当する(追いつ追われつのトム・ハンクスとデカプリオの関係も「擬似親子」と言えるだろう)。このことはスティーヴン自身が父親になったということも無関係ではあるまい。

また「E.T.」には空を飛ぶことへの憧れが描かれているが、アーノルド・スピルバーグは第二次世界大戦にインドで米爆撃隊の通信隊長を務めていた。「太陽の帝国」では零戦に心酔する少年(クリスチャン・ベール!)が主人公となり、「1941」では戦闘機のコックピットでしか欲情できない女(←はっきり言って変態!)が登場するのも、父親への思慕の情からであろう。


初恋のきた道」 中

Road

兎に角、チャン・ツィイーが可愛い!それに尽きる。映画館で観た時、滂沱の涙を搾り取られた。悔しい……。チャン・イーモウ監督の「」を意識した絵作りも見事である。コン・リー主演の初監督作品「いコーリャン」の時からそうだよね。

 

ジェニーの肖像」 米

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幻想映画の大傑作。白黒映画なのだけれど、一瞬カラーになる。正に奇跡の瞬間で、涙なしには観られない。プロットは詳しく述べないが、山田太一の小説(映画化もされた)「飛ぶ夢をしばらく見ない」は「ジェニーの肖像」の真逆パターンである。勿論、パスティーシュだ。

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アカデミー賞で特殊効果賞を受賞。また撮影賞(白黒)にノミネート。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」「亜麻色の髪の乙女」「アラベスク第1番」などをアレンジしたディミトリ・ティオムキンの手腕も卓越している。

製作をした大プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック(「キング・コング」「風と共に去りぬ」「レベッカ」)はこの映画が公開された翌年、ヒロインを務めたジェニファー・ジョーンズと結婚している。


フィールド・オブ・ドリームス」 米

If you build it, he will come.


素晴らしき哉、人生!」 米

Itsawonderfullife

アメリカではクリスマス・シーズンに必ずこの映画がテレビ放送され、家族で観る習慣が定着している。心温まるフランク・キャプラ監督の名作。人生、いつからだってやり直しがきくんだよと教えてくれる。


雨に唄えば」 米

Singinintherain

タップダンスの雄(ゆう)といえばエレガントなフレッド・アステアとアクロバティックでダイナミックなジーン・ケリーの二人に止めを刺す。で振付・監督もこなすジーン・ケリーの代表作が「雨に唄えば」と「巴里のアメリカ人」である。「雨に唄えば」の妙味は可笑しなドナルド・オコナーと、活きがよくてキュートなデビー・レイノルズとケリー3人のアンサンブルの見事さにあると言えるだろう。

因みにデビーは「スター・ウォーズ」レイア姫こと、キャリー・フィッシャーのお母さん。

またハリウッドがサイレント(無声)からトーキーに移行する時期のスタジオの混乱ぶりをコミカルに描いた脚本(ベティ・コムデンとアドルフ・グリーンの名コンビ)がパーフェクトな面白さである。


太陽の少年」 香港・中

In

夏、少年たち、彼らがあこがれるひとりの少女……岩井俊二監督「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」と共通項が多い青春映画の傑作である。文化大革命下の北京が舞台なのに、イタリア・オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲が何と似合うことだろう!


殺人の追憶」 韓

Tsuioku

紛れもない韓国映画の金字塔。ヒリヒリとして、背筋が凍りつく。岩代太郎の音楽も出色の出来。ポン・ジュノ監督は「ほえる犬は噛まない」「グエムル」「スノーピアサー」も大好き。彼のことを”韓国の黒澤明”と評したのは、恐らく世界で僕が最初である(→2004年5月8日「エンターテイメント日誌」)。2006年にはこの呼称が一般的となった(→映画.comの記事へ)。


ゼロ・グラビティ」 米

公開時に書いたレビューがあるのでご覧あれ→こちら


さらば、我が愛 /覇王別姫 香港・中

H

「ドクトル・ジバゴ」や「風と共に去りぬ」もそうだけど、僕はどうも歴史の大きな流れ(特に戦争)に翻弄される人間たちの物語が好きみたいだ。カンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞)受賞。コン・リーの美しさ。そしてマンダリン・オリエンタル香港から飛び降り自殺した(享年46歳)レスリー・チャンの代表作でもある。京劇という未知の世界が垣間見れるのも興味深い。

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2015年9月 1日 (火)

福田進一&フランシスコ・ベルニエール ジョイントリサイタル

8月29日(土)ザ・フェニックスホールへ。福田は日本を代表するギタリストであり、ベルニエールはスペイン出身新進気鋭のギタリストである。

《ソロ/フランシスコ・ベルニエール》

  • ソル:モーツァルト「魔笛」の主題による変奏曲
  • J.S.バッハ(セゴビア 編):シャコンヌ ニ短調
  • ガルシア・アブリル:バデメクム(手引書)より
    1.小さなエチュード
    2.カンシオン(歌)
    3.ディヴェルティメント
    4.ベルスーズ(子守唄)
    5.アレルヤティカ(ハレルヤ風に)
  • ヴィラ=ロボス:プレリュード第1番
  • タレガ:グラン・ホタ

《ソロ/福田進一》

  • ロドリーゴ:古風なティエント
  • マネン:幻想ソナタ

《デュオ/ベルニエール&福田》

  • ガルシア・アブリル:ヒラルダへの讃歌
    (白寿ギターフェスタ2015委嘱作品)
  • ソル:幻想曲 ホ長調
  • ファリャ:「三角帽子」より”粉屋の踊り”(アンコール)

このコンサートを聴きたいと想った動機はまずモーツァルト:「魔笛」の主題による変奏曲があったこと。これは佐々木守(脚本)実相寺昭雄(監督)の傑作テレビドラマ「怪奇大作戦 京都買います」の全編に流れ、強い印象を受けたから。

もうひとつは事前の発表でグラナドス:スペイン舞曲 第5番「アンダルーサ」が予定されていたこと。僕が大好きなスペイン映画「エル・スール(南へ)」で流れる曲なのである。

ところが、ベルニエールの気が変わり、本番で急遽ヴィラ=ロボスに変更になった。

「魔笛」の主題による変奏曲は速めのテンポで軽やか。

大バッハのシャコンヌは無伴奏ヴァイオリンのための作品だが、ギターで聴くと寂寥感があり、その違いが面白かった。最初の妻マリア・バルバラが亡くなった年に作曲され、そのことが音楽に反映されていると言われている。主君レオポルト候のお供でチェコ西部の温泉保養地カールスバートを訪れていたバッハが、妻の死を知ったのは帰宅した時のことだったという。

スペインの作曲家ガルシア・アブリル(1933- )は初めて聴いた。「手引書」のカンシオンはサティのジムノペディみたいな美しい曲。子守唄は繊細な感情の襞が巧みに表現されている。

タレガは陽光が燦々と降り注ぐような音楽。途中、大太鼓や小太鼓(スネアドラム)みたいな音も登場して愉しい。

ロドリーゴの「古風なティエント」は渋いけれど、味がある逸品。

マネンはサラサーテのライヴァルと言われたヴァイオリニストで「幻想ソナタ」は1930年セゴビアの求めに応じて作曲された。福田はマネンのオーボエ協奏曲を聴き気に入ったとのことで、最近「幻想ソナタ」に取り組み始めたと。曰く「ややこしい曲です」。18分位の大作で途中唸り声をあげるなど熱演だった。

「ヒラルダへの讃歌」というタイトルはセビーリャにあるヒラルダの塔に由来する(写真はこちら)。福田は「ガウディの教会を連想させるような構築性があり、シャコンヌ級の荘厳な音楽」と評した。ポリリズムを駆使した複雑で格好いい曲だった。

ソルの幻想曲は華やかで愉しい曲。リラックスして笑顔の演奏だった。

今回はガルシア・アブリルを知ったのが大きな収穫だった。中身が濃く、来年もこの企画を聴きに訪れたい。

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