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2015年5月

これぞクールジャパン!「響け!ユーフォニアム」第八話は神回だった。

「響け!ユーフォニウム」がいかに画期的で、凄い吹奏楽アニメであるかについては以前の記事で熱く語った。

それにしても第八回「おまつりトライアングル」には度肝を抜かれた。お祭りに白いワンピース姿(勝負服!)で登場した麗奈は神々しいまでに美しかった。いや、文字通り後光が射していた。風にスカートがフワッとなびく場面は心が震えた。京アニ マジック炸裂!画像を見たい人は→公式サイトへどうぞ。

ハイヒールで山を登る麗奈を見た久美子が、

久美子「足、痛くないの?」
麗奈「痛い。でも、痛いの、嫌いじゃないし」
久美子「・・・・何それ、なんかエロい」

深夜アニメならではの、際どい会話である。大人だねぇ。ゴールデンタイムには放送不可能。で、展望台でどうしてふたりは裸足なの??脱ぎ捨てられた靴が座っている位置と微妙にズレてるし。なんかイヤラシイ。彼女たちの関係がまどかとほむら@魔法少女まどか☆マギカみたいな様相を呈してきた。正に《萌え》、クールジャパンの真髄である。実写映画など他のメディアでは太刀打ち出来ない、ジャパニメーションでしか表現し得ないパトス(pathos:欲情・怒り・恐怖・喜び・憎しみ・哀 しみなどの快楽や苦痛を伴う一時的な感情状態)ここにあり、と言えるだろう。今回の第八話がネット上で話題沸騰しているのも宜(むべ)なるかな。ファンの間で長らく語り草となることだろう。

僕は岩井俊二 脚本・監督の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」のことを想い出した。皆がお祭に行っている時に、遥か群衆を離れて誰もいない場所で、ふたりきりの夢とも現とも定かでないひと時を過ごす。幻夜。時めいた。胸がキュンキュンした。

最後に通常のエンディング・ソング「Tutti !」ではなく、トランペットとユーフォニアムによる「愛を見つけた場所」の二重奏でパーソナルに終わるのも心に響いた。またその歌詞が意味深なんだよね。

本エピソードのモデルとなった、周囲の灯りが消された中行われることから「暗夜の奇祭」とも呼ばれる6月5日の県祭@宇治市に出かけ、夜道を大吉山展望台に登る熱烈なファンは少なくないだろう。聖地巡礼。いいね!それも青春だ。大いに盛り上がって貰いたい。

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映画「チャッピー」あるいは、キューブリックとスピルバーグ、手塚治虫へのオマージュ

評価:B+

Chappie

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「第9地区」でアカデミー作品賞、脚色賞、編集賞、視覚効果賞にノミネートされたニール・ブロムカンプ監督の最新作「チャッピー」はロボットが警察官を務めるという「ロボコップ」(更に遡れば、石ノ森章太郎「ロボット刑事」に辿り着く)の大枠を借りながらデザインは機動警察パトレイバーで、中身はスタンリー・キューブリックが長年企画を温めスティーヴン・スピルバーグが完成させた「A.I.」への熱烈なラヴ・レターになっている。以下「A.I.」との共通項を列記してみよう。

  • 「チャッピー」にも繰り返し、「人工知能=Artificial Intelligence=A.I.」という言葉が登場する。
  • 「チャッピー」は南アフリカ市民から迫害を受け、スクラップになりかける。これは「A.I.」におけるジャンク・ショー(ロボットを破壊して楽しませる見世物小屋)の場面に重なる。
  • チャッピーは(仮初の)《母親》に絵本「黒い羊」を読んでもらうが、A.I.の主人公デイヴィッドも養母に「ピノキオ」を読んでもらう。
  • 2000年が経過し、「A.I.」のデイヴィッドは最後に手元に残った髪の毛から養母のクローンを未来人の手で再生してもらう。チャッピーも《母親》の記録……(以下ネタバレになるので自主規制)

故に「チャッピー」は手塚治虫の「鉄腕アトム」にも繋がっていることになる。「鉄腕アトム」はAstro Boyとして1963年からアメリカでもテレビ放送された。それを観たキューブリックから手塚の元へ「2001年宇宙の旅」の美術監督をして欲しいとオファーが来たのだが、当時数多くの連載と虫プロを抱えていた手塚は断らざるを得なかった。だから「A.I.」には「鉄腕アトム」が色濃く影を落としているのである(天馬博士は《トビオ=後のアトム》をサーカスに売り飛ばす。後にお茶の水博士に引き取られる)。

「第9地区」同様、犯罪多発都市ヨハネスブルグが舞台となっているのがいい。またヒュー・ジャックマンが意外にも完全な悪役で、過剰な爆撃シーンなんか完全にイッちゃっている。狂ってて最高だった。シガニー・ウィーバーの元気そうな姿を見られたのも嬉しかった。

無垢に生まれたチャッピーがギャング団の教育で次第に犯罪に手を染めていく姿は、過酷な環境に育ったストリートチルドレンの姿に重なる。ロボットを描いているようで実は人間について語っており、最後は生きるとはなにか?といった哲学的境域まで足を踏み込んでゆく。深い映画である。

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映画「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」

評価:B+

Saru

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原恵一監督によるクレヨンしんちゃん映画「オトナ帝国の逆襲」と「戦国大合戦」は掛け値なしの傑作である。しかしこのシリーズから離れて以降の「河童のクゥと夏休み」「カラフル」「はじまりのみち(実写)」はパッとしなかった。

「百日紅」は久しぶりに良いと太鼓判を押せる作品となった。僕はこのアニメに通底する空気感が好きだ。江戸の息吹が感じられる。特に主人公が橋の上に立って、そこを通り過ぎる物売りたちの声/音に耳を傾ける場面は落語みたいだなと想った(例えば上方落語「次の御用日」)。調べてみると案の定、原作者の杉浦日向子は落語が好きだったという。また本作には落語家・立川談春が声優として参加している。

短編のエピソードを繋げて脚色しているので、盛り上がりに欠けるきらいはある。でもこういう淡々とした作品もあっていい。ほら、皆が「マッド・マックス」みたいなテンションだと疲れるじゃない?

Twitter上ではこの映画について「日本髪の櫛の位置が変」とか「おはしょりがおかしい」とか話題になっているが(こちら)、僕にはどうでもいいことに想われた。ちなみに原監督によると、今回のアニメ化に際して時代考証は一切やっていないそうである(出典→週刊文春の記事より)。

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鮫島有美子&福島明也「日本の心のうた」

4月26日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

鮫島有美子(ソプラノ)、福島明也(バリトン)で日本の歌を聴いた。

  • 花(武島羽衣/瀧廉太郎)
  • 荒城の月(土井晩翠/瀧廉太郎)
  • 宵待草(竹久夢二/多 忠亮)
  • 夏の思い出(江間章子/中田喜直)
  • 浜辺の歌(林 古渓/成田為三)
  • 雪の降る町を(内村直也/中田喜直)
  • 初恋(石川啄木/越谷達之助)
  • 花の街(江間章子/團伊玖磨)
  • この道(北原白秋/山田耕筰)
  • 城ヶ島の雨(北原白秋/山田耕筰)
  • 赤とんぼ(三木露風/山田耕筰)
    ー 休憩 ー
  • 約束(藤田敏雄/前田憲男)
  • 千の風になって(作詞不詳/新井 満)
  • 夜明けの歌(岩谷時子/いずみたく)
  • 白い花の咲く頃(寺尾智紗/田村しげる)
  • さくら貝の歌(土屋花情/八洲秀章)
  • あざみの歌(横井 弘/八洲秀章)
  • 水色のワルツ(藤浦洸/高木東六)
  • 雪山の思い出(三浦雄一郎/浜口庫之助)
  • かえろかえろと(北原白秋/山田耕筰)
  • 手紙(荒川とよひさ/宮川彬良)
  • 故郷

まず客席の年齢層の高さに驚いた。9割が50歳以上(僕は違うよ)。平均年齢65歳くらい?要するにこういうのって懐メロなんだね。若い人は聴かないんだ。良い曲が多いのに。

バリトンの朗々とした歌いっぷりは気に入ったが、ソプラノのヴィブラートはキツかった。

「花の街」は1945年3月10日の東京大空襲の後、焼け野原に立った江間章子が「将来こうなったらいいな」という願いを込めて書いた詩だそうだ。

「赤とんぼ」は三木露風が生まれ故郷・兵庫県たつの市での幼き日の想い出を綴ったもの。映画「夕やけ小やけの赤とんぼ」(1961)の挿入歌として使われ、山田耕筰も特別出演しているという。この映画でデビューした女優・渚まゆみの名付け親は山田耕筰。

1965年に雪村いづみが歌った社会派歌謡曲「約束」は如何にも左翼!だった。そこで調べてみると藤田敏雄は「若者たち」の作詞家でもあり、労音(勤労者音楽協議会)ミュージカルに携わっていたという。筋金入りだね。

「白い花の咲く頃」はwetでいただけない。プログラム後半はいかがなものか?と疑問符が浮く歌が散見されたが、前半はしみじみ良かった。

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映画「寄生獣」完結編

評価:A

Kise

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とにかくシナリオもVFXも良く出来ている。文句ない。

山崎貴監督の「リターナー」(2002)を映画館で観た時はCGによる特撮技術のお粗末さに頭を抱えたものだが、今や隔世の感がある。山崎監督の「STAND BY ME ドラえもん」もそうだったけれど、今や日本のCGのレベルはハリウッドと比較しても遜色ないのではないだろうか?いや、互角の戦いとはさすがに言わないよ。でもいい線いっている。

本作は、色々とハリウッド映画の要素を巧みに取り込んでいる。例えば寄生獣の生態・形態は「エイリアン」や「ターミネーター2」のT-1000を彷彿とさせるし、アイデンティティを求めて彷徨う彼らの姿は「ブレードランナー」に登場するレプリカントに重なる。だからといって決して猿真似ではなく、ちゃんと自分のものとして吸収し、独自性を打ち出しているのだから大したものだ。

ただ、すごく気になっているのは最後、新井浩文はどこへ消えたのか?ということ。ビルの屋上から転落した?でも地上では何事もなかったように人々が歩いていて騒ぎになっていないし。屋上にまだいる?だったらもう一度襲ってくるでしょう。誰か教えて!

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デスノート THE MUSICAL

5月15日(金)、「デスノート THE MUSICAL」を梅田芸術劇場で鑑賞。公式サイトはこちら

欧米の芸術・文化はキリスト教(一神教)に根ざして発展してきた。しかし16世紀にコペルニクスが地動説を提唱し、19世紀にはダーウィンの進化論が登場。さらに20世紀になると理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士らが宇宙の始まりと終わりを数式で示せると発表し、《万物の創造主=神》は存在しないという結論にそろそろ達そうとしている。そこで日本のマンガやアニメに登場したのが「この世に神様が存在しないんだったら、人間が神になればいいんじゃね?」という発想である。例えば「攻殻機動隊」は草薙素子がインターネット上の《》になる話だし、TV版「魔法少女 まどか☆マギカ」は最後、まどかがになる(劇場版・新編ではそれに叛逆したほむらが《悪魔》になって、まどかを取り戻す=ミルトン「失楽園」)。八百万神を信仰し、一神教とは無縁だった日本人からこういうアイディアが出てきたことは非常に興味深い。アジアには《生き仏》という観念も古来からあるしね。「デスノート」もその潮流の中から生まれた。主人公の夜神月は《神》になろうとし、最後に死神の気まぐれからその野望を阻まれる。

キャストは浦井健治(夜神月)、小池徹平(L)、唯月ふうか(弥海砂)、濱田めぐみ(死神レム)、吉田鋼太郎(死神リューク)、鹿賀丈史(夜神総一郎)ほか。

スタッフは作曲:フランク・ワイルドホーン(「ジキル&ハイド」「スカーレット・ピンパーネル」「NEVER SAY GOODBY」)、作詞:ジャック・マーフィ(「ルドルフ〜ザ・ラスト・キス〜」「モンテ・クリスト伯」)、脚本:アイヴァン・メンチェル(「ボニー&クライド」)、演出:栗山民也。

映画「デスノート」で主人公の父親役を演じた鹿賀丈史が、ミュージカル版でも同役で出演しているというのが面白い。僕はヴィブラート過剰で演歌的な鹿賀の歌唱が大嫌いだが、見た目がピッタリなので不満はない。浦井の歌は見事の一言だし、意外にも小池徹平のLがはまり役だった。唯月ふうかはちっちゃくって可愛らしく、歌唱力があって感情がこもっている。ミュージカルは初めてという吉田鋼太郎の歌には難があるが、演技力でその欠点を見事にカヴァーした。濱田めぐみもいい。

フランク・ワイルドホーンの楽曲は迫力があり、神がかっている。彼の最高傑作ではないだろうか?少なくとも僕は「ジキル」や「スカピン」より好き。ラストがレクイエムみたいになるのも印象的だった。シンプルな舞台装置ながら場面転換がスピーディな栗山の演出も◯。英語版も製作されているようなので、このままブロードウェイに行けたらいいね。ぼくはそれに値する完成度だと確信している。なにより「デスノート」は話が良く出来ている。凝っていて、とにかく最後まで飽きさせない。特に夜神月とLがテニスで戦いながら激しく歌う場面には痺れたね。格好良かった。あと男役が映えるので、これを宝塚歌劇団が上演しても似合うんじゃないかな。

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《宝塚便り》手塚治虫の足跡/未完の大作「森の伝説」

宝塚大劇場のすぐ近くに手塚治虫記念館がある。「リボンの騎士」が幼少期における宝塚歌劇体験から生まれたことは余りにも有名であり(=少女漫画の誕生。それが「ベルサイユのばら」へと繋がってゆく。共通項は男装の麗人)、治虫が宝塚生まれだと思っている人は多いかも知れない。実は彼が生まれたのは現在の大阪府豊中市で、宝塚に引っ越してきたのは5歳の時である。当時は未だ宝塚市ではなく、兵庫県川辺郡小浜村だった(昨年宝塚歌劇は100周年で、宝塚市は市政60周年、手塚治虫記念館は20周年だった)。その後、治虫は宝塚で約20年間過ごした。父は宝塚ホテル(阪急宝塚南口駅前)内に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき父に連れられてホテルのレストランで食事をし、クリスマス・パーティも毎年行ったという。また治虫の結婚式も宝塚ホテルで行われた。

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JR宝塚駅北口を出て御殿山側へ7−8分歩いた所に千吉神社(猫神社)がある。

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ここは治虫が当時住んでいた家から歩いて直ぐの場所にあり、アゲハチョウやノコギリクワガタを採集していたという。

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現在は有志の手で「手塚治虫 昆虫採集の森」という碑が立てられている。

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森閑として素敵な雰囲気なので僕は大いに気に入り、しばしば散歩で訪れる。

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森のなかで鳥の鳴き声に耳を傾けながら静かに佇み、虫網とカゴを持って駆ける治虫少年の姿をそっと想像してみる。

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晩年の大傑作「アドルフに告ぐ」の冒頭で、芸者・絹子の殺害現場が「兵庫県川辺郡小浜村の御殿山」となっており、この辺りが舞台となっている。

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旧・手塚邸にはいまでも大きなクスノキがそびえ立っている。これは手塚作品「新・聊斎志異 女郎蜘蛛」(講談社版手塚治虫漫画全集『タイガーブックス4』に収録)に登場する。

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また旧・手塚邸から、さらに坂を登った所にある蛇神社は手塚漫画「モンモン山が泣いてるよ」に登場する。この祠は阪神淡路大震災の時に倒壊したが、その後再建された。しかし鳥居(写真左)は倒れたままの姿である。

今年2月に手塚治虫記念館の映像ホール(アトムビジョン)で「森の伝説」を観た。チャイコフスキー:交響曲第4番の音楽に乗せて描くアニメーション作品である。第1楽章と第4楽章のみ完成し、1988年に上映されたが、手塚の死で未完に終わった。その後息子の手塚眞が第2楽章を完成させ、そのお披露目上映だったのである。

クラシック音楽を使用し台詞のないアニメーションといえば、そのコンセプトがディズニーの「ファンタジア」へのオマージュであることは明白である。ただ完成度は「ファンタジア」に遠く及ばない。手塚が天才であり「漫画の神様」であることは論をまたないが、アニメーション作家としては2流だったというのが僕の見解だ。多くの雑誌連載を抱え、片手間にアニメーションをしていたのだから詮無いことである。宮﨑駿みたいに絵コンテを手がけ、原画チェックまで全てこなすということは物理的に不可能だ。

「森の伝説」第1楽章は静止画の連続(紙芝居風)に始まり、次第に絵が動き出し、さらに白黒が途中からカラーになって……というアニメーションの歴史を辿る旅になっており、アイディアとしては面白い。第4楽章ははっきり言って退屈。テレビ用のリミテッド・アニメで描かれた森の破壊者たち(ヒトラー登場)が、ディズニー風フル・アニメで描かれた森の妖精たちを追い散らして行く、という物語。説教臭くて鼻につくし、そもそもリミテッド・アニメは「鉄腕アトム」で虫プロが毎週のテレビ局への納期に間に合わせるために生み出した手法なのだから、自虐ギャクみたいなものだ。全く評価出来ない。一方、新作の第2楽章は先端技術であるCGの手法も盛り込まれ、非常に丁寧に美しく仕上げられている。親子共作という趣向も一見の価値があるだろう。第3楽章の完成が待ち遠しい。

なお、僕が一番好きな手塚のアニメーション作品は短編「人魚」(1964)である。ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲に乗せて描かれる哀しい物語。手塚のペシミズム、ここに極まれり!と胸を打たれる。

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映画「Mommy/マミー」

映画公式サイトはこちら。2014年カンヌ国際映画祭において、ジャン=リュック・ゴダール監督「さらば、愛の言葉よ」と並び審査員特別賞を受賞した。フランス語のカナダ映画である。

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常に情緒不安定で攻撃的なADHD(多動性障害)の15歳の少年と、その母の物語。ADHDとは「不注意」「多動性」「衝動性」という症状のうち、少なくとも2つ以上が該当する状態。

グザヴィエ・ドラン(現在26歳)監督作品は初体験。カンヌで受賞という以外は全く予備知識がない状態で臨んだ。

……で、観始めて10分、僕は「この監督、きっとゲイに違いない」と確信を持った。映画にゲイは登場しない。しかし、「母親万歳!」というテーマといい、カラフルな色彩感といいい、1999年のアカデミー外国語映画賞を受賞したペドロ・アルモドバル監督・脚本のスペイン映画「オール・アバウト・マイ・マザー」そっくりなのである。アルモドバルがゲイであることは映画ファンなら誰でも知っている。またファッションデザイナー、トム・フォードの監督デビュー作「シングルマン」にも通じるものがある。男性のファッションデザイナーにゲイが多いのは周知の事実であり(ミュージカル「プロデューサーズ」の設定も然り)、僕はその独特の色彩感に創造性の秘密があるのではないかと考えている。

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また主演の少年が、いかにもゲイ好みの容姿なのだ。そこで帰宅して調べてみると案の定、グザヴィエ・ドランはカミング・アウトしていた。

我々ストレートの立場から言うと、ゲイの母親に対する愛情・執着は尋常ならざるものがある。今から数十年前は彼らに対する世間の偏見も激しく、自らの性癖を隠している人が多かった。映画「イミテーション・ゲーム」の主人公、数学者アラン・チューリングなんかゲイというだけで1952年に逮捕され、同性愛の性向を矯正するための薬物療法を強要されたのだからもう無茶苦茶である(特に欧米の場合、キリスト教の影響が根強いせいもあるだろう)。そこで当時の彼らが「どうして結婚されなかったのですか?」と質問された時に、常套句として使った答えが「母が素晴らし過ぎたので(他の女性には食指が動かなかった)」。この回答は淀川長治、木下惠介(「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」)、ニーノ・ロータ(「ゴッドファーザー」の作曲家)らが異口同音に発言している。恐らく唯一関心がある異性だからではないだろうか?

「Mommy/マミー」の評価はB。縦横比1:1の画面は閉塞感があって題材に合っているし、登場人物たちの心情の変化によって画面が伸び縮みする演出もユニーク。これを高く評価する人の気持ちは理解出来る。でも僕の好みじゃない、そういうことだ。ヒリヒリと神経をいたぶるような映画だし、まぁ観ていて辛いわな。でも、まるでトリュフォーの「大人は判ってくれない」みたいなラストは一寸だけ救いの光が垣間見れた。

「オール・アバウト・マイ・マザー」と「Mommy/マミー」という作品は、ゲイの人々には世界ってこういう風に見えているんだ、と学ぶために格好の教材だと想う。

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デュメイ休演〜関西フィル・スプリング・スペシャルコンサート

5月7日(木)フェニックスホールへ。

元々はオーギュスタン・デュメイが出演する予定だったが、体調不良のため休演となり、代演としてアンドラーシュ・ケラーがヴァイオリン&指揮を担った。彼はハンガリー生まれ。ケラー四重奏団の主宰であり、たまたまラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのために来日していたようだ。

曲目は当初予定されていたまま。上田晴子(ピアノ)と関西フィルのメンバーで、

  • シューベルト:ピアノ五重奏曲「ます」
  • モーツァルト:3つのディヴェルティメント K136,137,138

「ます」第1楽章はゆったりして、たっぷり歌う。第2楽章はリズムの刻みが引き締まった演奏。第3楽章スケルツォは筋肉質。第4楽章、歌曲「ます」による変奏曲は小川の透明感があり、清冽。

ディヴェルティメントは流麗で清新、ニュアンス豊か。対向配置でもピリオド・アプローチでもないのに、どうしてこんなに魅力的に響くのだろうと驚いた。ただ全体的に関西フィルの弦がドライで、もう少し潤いがほしいと想った。

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ラ・フォル・ジュルネびわ湖2015

5月2日(土)3日(日)にびわ湖ホールで開催されたラ・フォル・ジュルネの公演を幾つか聴いた。昨年は3日間あったのに規模が縮小している。大丈夫なのか?今年のテーマは「PASSIONS パシオン・バロック~バッハとヘンデル~ 」なのだが、びわ湖では受難曲(=PASSION)なし。ちなみに東京のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンではバッハ・コレギウム・ジャパンが「マタイ受難曲」全曲を演奏した。またあちらでは鈴木秀美によるバッハ:無伴奏チェロ組曲もあったようで、びわ湖でも聴きたかったな。

遊覧船ミシガンでサックスとビアノによる井高寛朗ジャズバンド(G線上のアリアやA列車で行こう)を聴いたのだが、湖陸風が気持ち良かった!

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放水による虹も見た。

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なんだか「ショウボート」に乗っている気分。実際、港ではミュージカル「ショウ・ボート」のナンバー、《オールド・マン・リバー(Ol' Man River)》が流れていた。因みにこれはミシシッピ川のことである。

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琵琶湖上には沢山ヨットが漂っていた。

2日、びわ湖ホール 小ホールで中野振一郎のチェンバロを聴く。

  • J.S.バッハ:コラール「神の御心に委ねるものは」
  • バーセル:新しいグラウンド「ここに神々が証を」
    (オード「来たれ歓喜」より)
  • パーセル:新しいアイルランドのしらべ
  • F.クープラン:第14オルドルより「恋のうぐいす」とドゥーブル
    「おびえる紅ひわ」「シテール島の鐘(カリヨン)」「些細なこと」
  • フローベルガー:組曲 ハ長調
    ラメント、ジーグ、クーラント、サラバンド
  • J.S.バッハ(中野振一郎編):シャコンヌ
  • F.クープラン:神秘のバリケード(アンコール)

中野先生が超絶技巧の持ち主ということは以前から承知しているが、今回聴きものだったのは何と言ってもシャコンヌ。華麗な編曲で、原曲が無伴奏ヴァイオリンのために書かれたというのを忘れそうになった。

続いて大ホールでナビル・シェハタ/大阪フィルハーモニー交響楽団を聴く。オール・バッハ・プログラムで、

  • ストコフスキー編:前奏曲 変ホ長調 BWV853
  • 〃:パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582
  • 〃:トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
  • 斎藤秀雄編:シャコンヌ
    (無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番より)

「前奏曲」は弦楽器のみ。繊細な最弱音が際立っていた。

「パッサカリアとフーガ」で管が加わる。峻厳とした響きでホルンが実に雄弁だった。

ディズニーの「ファンタジア」でお馴染み、「トッカータとフーガ」には切れがある。メリハリに富み、丁々発止のやりとりが心地よい。

斎藤秀雄の「シャコンヌ」ではバスクラとコントラファゴットが抜けた。滑らかな箇所(レガート)と厳しい表現のコントラストが鮮明。なんだかロマンティックなアレンジだなと感じた。斎藤秀雄はチェロ奏者であり、ストコフスキーは教会のオルガニストとしてキャリアをスタートさせた。両者の違いがオーケストレーションにも反映されているなと得心が行った。

翌3日、中ホールでイリーナ・メジューエワのピアノを聴く。

  • J.S.バッハ:イタリア協奏曲
  • J.S.バッハ:カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」BWV992
  • J.S.バッハ:パルティータ 第6番

淡々として朴訥。ペダルはほとんど使用しない。均衡のとれた調和、楷書の美しさがあった。

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関西弦楽四重奏団@大阪倶楽部

4月28日(火)大阪倶楽部へ。

関西弦楽四重奏団の演奏を聴く。メンバーは林 七奈(大阪交響楽団コンサートマスター)、田村安祐美(京都市交響楽団)、小峰航一(京都市交響楽団首席ヴィオラ奏者)、上森祥平(フリーランス)。チェロの上森氏はしばしば大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会に客演首席奏者として登場している。

  • モーツァルト:弦楽四重奏曲 第14番「春」
  • ドビュッシー:弦楽四重奏曲
  • ラヴェル:弦楽四重奏曲

モーツァルトは腰が重い演奏。もっと軽やかさが欲しい。

しかし印象派のふたりは打って変わって良かった!

ドビュッシーは低音が力強く、激しい情熱があった。音のうねりを感じた。

ラヴェルは彫りが深く、陰影に富む。時に(ヴィオラなどに)粗さを感じさせる瞬間があったが、全体としては息が合っている。聴き応えがあった。

この四重奏団は19世紀末〜20世紀の音楽が似合っているのではないだろうか?例えばエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトとかフランツ・シュミット、ツェムリンスキー、アルベルク・マニャールあたりの楽曲を今後聴いてみたい。

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吹奏楽の神アニメ降臨!「響け!ユーフォニアム」

今年の4月から放送が開始された京都アニメーション(京アニ)の「響け!ユーフォニアム」公式サイトはこちら京アニは京都府宇治市に本社を構えており、「響け!」も宇治市の高校が舞台となる(主人公は《おけいはん》こと、京阪電車で通学)。同社の作品は関西を舞台としたものが多く、一世を風靡した「涼宮ハルヒの憂鬱」に登場する高校のモデルは阪急甲陽園駅近くにある兵庫県立西宮北高校であり、阪急西宮北口駅や夙川公園なども登場する。また「けいおん!」桜ヶ丘高校のモデルになった豊郷町立豊郷小学校旧校舎は滋賀県にある。あと京アニの特徴は女性演出家が多いこと。「響け!ユーフォニアム」第一回放送も山田尚子が絵コンテ・演出を担当している。

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当初、上のイラストを見て「4人の女子高生の話ってまるで『けいおん!』みたい。焼き直しかよ」と鼻白んだ。トランペットを吹く黒髪の美少女・高坂麗奈のキャラクター・デザインは「けいおん!」の秋山澪そっくりだし。ところが!放送が始まってびっくりした。中身が全然違う。「けいおん!」は放課後に女子が部室に集まってお茶飲んで、うだうだ話して何事もなく日々は過ぎてゆくといった感じだったのに対し、「響け!」は吹奏楽コンクールの全国大会を目指して日々猛練習に励むという熱血青春アニメだったのである。プロローグ(@京都コンサートホール)でいきなり《ダメ金》の話が飛び出したのには度肝を抜かれた。吹奏楽の顧問・滝先生なんか一見ニコニコ温厚そうに見えて、実は映画「セッション」(Whiplash)のフレッチャーみたいな奴だった!海外の京アニファンの間では既にこちらのような感想が飛び交っている。

野球やサッカー、テニスなど運動系の部活と比較すると吹奏楽を描いた青春小説や漫画、映画は極めて少ない。同じ音楽でも軽音やジャズ、ロックバンドなら結構あるのだが(例えば直木賞を受賞した「青春デンデケデケデケ」とか映画「ロックよ、静かに流れよ」「リンダ リンダ リンダ」「スウィングガールズ」など)。そのことを僕は常々残念に想っていた。日本は現役の吹奏楽人口だけでも100万人を超え、経験者を含めると500万人に達すると言われる「吹奏楽大国」なのに、どうしてなんだ!?以前、津原泰水の小説「ブラバン」を読んだが、これは心底詰まらなかった。大体、ブラス(真鍮)バンドというのは金管アンサンブルのことを指し、木管は含まない。だから吹奏楽の正しい英語は「ウィンド・アンサンブル」か「シンフォニック・バンド」である。「ブラバン」というタイトルからして古臭い(本の中でブラバンは間違いと指摘された主人公が激怒する場面があった)。津原泰水は1964年生まれであり、考え方が化石みたいにガチガチなのだ。閑話休題。

僕は中学生の時から吹奏楽部に所属していた。1年生の時はホルンを吹いていたのだが、2年生の時チューバを吹いていた先輩が卒部したので、体格がいいからと嫌々ながらチューバに回された。同時にフルートの個人レッスンを受けており、高校入学と同時にフルートに華麗なる転身を果たした。だから第二回「よろしくユーフォニアム」で主人公が中学時代にユーフォを吹いていたのをひた隠しにした気持ちがよく分かる。僕も同じ中学から高校へ入った吹奏楽部の女の子に「チューバやってたのは絶対言わないで!」と強く念を押したことを懐かしく想い出した。また教室の窓からいつも外を眺めている女子の先輩って、僕の時代にもいたなぁ。グラウンドで練習している、自分が好きな運動部の男子生徒を見ていたのだ。物語にリアリティがある。

第一回「ようこそハイスクール」の冒頭、入学式への登校中に主人公が地面に落ちた桜の花びらを拾い上げ、フッと息を吹きかけて空に飛ばす。本作のテーマの核心を突く重要な場面である。そのことは第四回「うたうよソルフェージュ」における滝先生の指導法で明らかになる。腹式呼吸でに浮かぶ雲の彼方にまで自分の息が届くように吹く(ロングトーン)。これこそが極意。だからオープニング・アニメーションで三度、カメラを上方に振って(ティルトして)青空を捉えるのである。俯瞰で水たまりを写したカットでもしっかりが映っている。

第三回「はじめてアンサンブル」で滝先生が配る楽譜がマーチ「海兵隊」だったのでニヤッとした。丸谷明夫先生が大阪府立淀川工科高等学校(淀工)吹奏楽部新1年生の最初のアンサンブルで指導する曲なのだ。

第五回「ただいまフェスティバル」には《水色の悪魔》と呼ばれるマーチングの強豪校が登場するが、コレって明らかに《オレンジの悪魔》こと、京都橘高等学校がモデルだよね!ということはこれから関西大会まで駒を進めたら淀工とか大阪桐蔭をモデルにした高校も登場するかも知れない。

第六回「きらきらチューバ」では吹奏楽コンクールに向けてオーディションをすると滝先生が宣言するのだが、彼らが挑む課題曲「プロヴァンスの風」は実際の2015年課題曲IVだし、自由曲が堀川奈美恵 名義(実際の作曲は大阪府出身の松田彰人)「三日月の舞」というオリジナル楽曲というのも面白い(実際にこの曲を吹奏楽コンクールで演奏する高校が現れたらいいな)。

あとオープニングとエンディング主題歌「Tutti !(=全奏者による合奏)」の伴奏が吹奏楽仕立てなのにも注目!逆に本篇の劇伴は弦楽器のみ(ピアノ、ギターを含む)になっているという音楽構成も実に素晴らしい。

ところで劇中、吹部(すいぶ)という言葉が繰り返し出てくる。「吹奏楽部」の略語である。僕が高校生だった頃、1980年代初頭(昭和の時代)には使わなかった。でももしかしたらそれは岡山県という片田舎の特殊事情なのかな?と考えて、奈良県の市民吹奏楽団「セントシンディアンサンブル」の代表・指揮者の福島秀行さん(同世代)に尋ねてみた。するとやはり高校時代に吹部という言葉はなかったという。さらに「響け!」に登場するパーリー(パート・リーダー)会議とか(学校によっては)パーミー(ミーティング)とか初耳だし。一方で福島さんによると、最近ブラバンという言葉は殆ど使われなくなったそう。世代の違いを感じた。また現在は譜面台に置ける小さなチューナーを各自持っているのが普通だけれど、僕が高校生の頃は学校に大きなチューナーが1台しかなかった。

吹奏楽を愛する全ての人々に告ぐ。「響け!ユーフォニアム」を観ない奴はアホだ。2015年という、いまを生きている意味がない。6月17日にはBlu-ray&DVDが発売されるから、買うなりレンタルするなりして必ず観て欲しい。後悔は絶対させないから。

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映画「あの日の声を探して」

評価:B+

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公式サイトはこちら

映画「アーティスト」でアカデミー作品賞・監督賞に輝いたミシェル・アザナヴィシウスの新作。フレッド・ジンネマン監督「山河遥かなり」(1948)にインスパイアされた作品であり、原題はどちらもThe Search。「山河遙かなり」はナチスによってユダヤ人収容所に送られ、母と生き別れになった少年が主人公だが、今回はロシアに侵略された1999年のチェチェンが舞台となっている。

僕が本作をどうしても観たいと想った切っ掛けは、敬愛する大林宣彦監督が絶賛していたからである。詳しくは→こちら。いやぁ、雄弁な大林監督以上に説得力のある言葉はないし、困っちゃうなぁ。

本作はメロドラマ仕立てである。だからラストを「甘い」と批判する人たちも当然いるだろう。でも僕はこれでいいと想う。現実はもっと悲惨だろう。しかしあったことをありのままに描くのはドキュメンタリーの役割であり、フィクションとしての映画には救いが欲しい。(微かでも)希望の光を見たい。だって嫌な気分で映画館を出たくないじゃない?賢い人間ならオブラートに包まれた虚構の世界(=夢)の向こう側に、作者の真の想いを汲み取れる筈だ。

「アーティスト」は(基本)白黒無声映画だったが本作はカラーであり、チェチェン語・ロシア語・英語・フランス語が飛び交う饒舌な作品である。両者の違いが面白い。また、ハリウッド臭を微塵にも感じさせないアネット・ベニングが素晴らしい。僕は断然「あの日の声を探して」の方が好きだ。

なお、「アーティスト」ではヒッチコック映画「めまい」(作曲:バーナード・ハーマン)を引用したアザナヴィシウス監督だが、本作ではベトナム戦争を描いた映画「ディア・ハンター」のテーマ曲、スタンリー・マイヤーズ作曲のカヴァティーナが登場してハッとさせられた。

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ミュージカル映画「ラスト5イヤーズ」

オフ・ブロードウェイ・ミュージカル「ラスト・ファイブ・イヤーズ」は一度、鈴木勝秀演出、山本耕史主演の舞台版を観ている。相手役・キャサリンは、シンガーのNao(05年)、井手麻理子(07年)、村川絵梨(10年)が務めてきた。で、ぶっちゃけ全く面白くなかった(歌詞も聞き取りにくかった)ので、どの年に観たのか記憶にない。多分、ブログに書く価値すらないと判断したのだろう、記録もない。鈴木勝秀はミュージカル「ファントム」も詰まらなかったので、才能がないのだろう。

舞台版は休憩なしのふたり芝居。ふたりは常に舞台上にいるが、セントラル・パークでプロポーズする曲The Next Ten Minutes以外は相手のことを見ない。女(キャシー)は別れの歌から始まり時間を逆走し出会いへ、一方、男(ジェイミー)の時間は出会いから別れまで順行する。つまり"The Next Ten Minutes"を歌う瞬間だけ、ふたりの時間は交わるのである「パレード」と「マディソン郡の橋」でトニー賞・楽曲賞に輝いたジェイソン・ロバート・ブラウンが作詞・作曲・台本を手がけた。

評価:B+

5

映画公式サイトはこちら。出演は「イントゥ・ザ・ウッズ」のシンデレラ役など飛ぶ鳥を落とす勢いのアナ・ケンドリックと、ジェレミー・ジョーダン。ふたりともトニー賞ノミネートを経験している。

いや、凄く良かった。最後はジーンとした。やはりニューヨークの話だから現地でロケされていることが大きいのだろう。現代ニューヨークの話を日本人が日本語で演じてもどうもピンと来ないのである。それは「ラスト・ファイブ・イヤーズ」(L5Y)だけではなく、ミュージカル「RENT」とかスティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲「カンパニー」の時もそうだった。L5Yを実際にオフ・ブロードウェイで観劇していれば、きっと印象は全然違ったのではないだろうか?

男はユダヤ人の作家で5年間の間に書いた本が大ベスト・セラーとなり、女は売れない女優でブロードウェイのオーディションに落ちまくり、オハイオ州にドサ回りをする。全く別の夢を追いかけるふたりの心は次第にすれ違ってゆく。男女が一緒に暮らしていくということは非常に難しい。どちらか一方が妥協をしないと上手く行かなくなることもある。しかし妥協=自己犠牲は嫌だという価値観も一方では当然あるだろう。それが出来ないのなら別れるしかない。どちらが正しいか、答えなんてない。そんなことどもを考えさせられた。

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映画「ソロモンの偽証」後篇・裁判

評価:A+

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公式サイトはこちら

前篇の出来がすこぶる良かったので、「20年に1本の傑作だ!」とか舞い上がっていたけれど、尻すぼみ。下駄を履かせちゃったかなと反省している。特に終盤がだらだらしていて、イラっとした。教師として母校に戻ってきた主人公(尾野真千子)と校長先生の会話なんか蛇足だし。海外に出すときは前後篇まとめて、20分位カットすれば締まった作品になるのではないだろうか?あとU2のエンディング・ソングが意味不明。本篇に合ってないし、違和感ありまくり。だから松竹はダサイんだよ。前篇のエンディング、アルビノーニのアダージョは凄く良かったのに。

話は面白いし、子どもたちや役者の演技は充実している。今年の日本映画を代表する作品であることは間違いない。米アカデミー賞の日本代表に選ばれるべきだという意見は撤回しない(ただし再編集することを条件に)。

劇中、八木澤教司(作曲):吹奏楽のための音詩「輝きの海へ」が非常に印象的に使用されている。実際に演奏しているのはフィルハーモニック・ウインズ大阪(オオサカン)。吹奏楽をしている中・高校生は必見。

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龍真咲(主演)宝塚月組「1789 ーバスティーユの恋人たちー」が駄目な3つの理由

5月10日(日)宝塚大劇場へ。フランス産ミュージカル「1789 ーバスティーユの恋人たちー」日本初演を観劇。

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こりゃ酷い、救いようがない。その理由を述べる。

1.楽曲に魅力が乏しい

音楽はフレンチ・ポップス調でミュージカルとして今までなかったタイプ。新鮮ではある。ただどの曲も全く耳に残らない。フランスのミュージカルといえば例えば「壁抜け男」など大御所ミシェル・ルグランの作品があり(他に舞台版「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」など)、「レ・ミゼラブル」も元々フランス産だし、宝塚でも繰り返し上演されている「ロミオとジュリエット」という大ヒット作もある。「ロミジュリ」の”Aimer(エメ)”が究極の名曲であることは論を俟たないし、”世界の王”だっていい。「レ・ミゼ」に至っては今更言うまでもない。それらと比較すると「1789」は概してそこそこ、キャッチーな楽曲に欠けているのである。

2.台本の出来が壊滅的に悪い

主人公以外の登場人物たち、例えばルイ16世やその弟、マリー・アントワネット、カミーユ・デムーラン、ロベスピエール(革命家)らがその後の人生をどう歩んだか、完全無視である。つまり様々な伏線は放置されたまま回収されない。いや、確かに宝塚ファンなら当然ベルばらを観ているし、「スカーレット・ピンパーネル(紅はこべ)」や東宝ミュージカル「マリー・アントワネット」(遠藤周作 原作)もあったから、彼らがどうなったかは知っているよ。でも余りにも不親切、無責任である。主人公の妹が娼婦になって、「ハイ、そうですか」で終わりっていうのも何だかなぁ。それから平民の主人公とオランプ(王太子の養育係)の「身分違いの恋」という設定も余りにも無理矢理でリアリティが皆無。このふたり、普通出会うことないでしょう?あと、他のどんな価値観よりも「愛こそが全て!」というテーマに対しても「ホントにそれでええんか??」と疑問符が湧くばかり。フランス革命後も血を血で洗う抗争は続くし、そもそも「レ・ミゼ」は革命後の話であり、民衆は相変わらず貧困に喘ぎ、飢えていて、惨めなまま。何も問題は解決していないのである。フィナーレで白けてしまうのは当然の帰結であろう。日本を代表する名演出家・小池修一郎をしても、このお粗末な台本は如何ともし難かった、そういうことだ。

3.作品のプロットが宝塚に合っていない

これは実は逆説的かも知れない。宝塚には同じ時代を扱った大ヒット作「ベルサイユのばら」があるからだ。しかしベルばらと本作の決定的違いは主人公が貴族でないという点である。宝塚はきらびやかな衣装を纏い、華やかな物語を描く夢の王国である。「エリザベート」しかり、「風と共に去りぬ」や「ロミオとジュリエット」だってそう。男役トップがみすぼらしい平民では駄目なのだ。「レ・ミゼ」が宝塚に似合いますか?という話である。龍 真咲とマリー・アントワネット役の愛希れいかが殆ど絡まないのも致命的である。トップふたりが恋に落ちないというのは極めて異例。「王家に捧ぐ歌」(初演)という前例もあるが、あれはアムネリス(檀れい)がラダメス(湖月わたる)に一方的に恋しているわけで、一緒に歌う場面は多々あった。しかし「1789」は皆無である。

愛希れいかが輝くばかりに美しく、今回の公演では一番目を惹いた。龍 真咲は「スカピン」時代より歌唱が随分マシになったが、下からすくい上げて音程を合わせる歌い方(演歌的)は相変わらずでいただけない。ビジュアル的にも精彩を欠いている(PUCKは良かったんだけどなぁ……)。

宝塚では珍しい娘役の役替り(男役はよくあり)があり、僕が観た回はオランプ(王太子の養育係、ロナンの恋人): 早乙女わかば、ソレーヌ (ロナンの妹): 晴音アキだった。ふたりともイマイチ。

カミーユ・デムーラン:凪七瑠海、ロべスピエール:珠城りょう、ダントン:沙央くらまら、主人公の友人(後の革命家)たちは男役としての魅力が乏しい(歌もパッとしない)。

シャルル・アルトワ(ルイ16世の弟):美弥るりかはスカした感じで、良かった。

僕は今後、どの組が再演しようと、本作を2度と観る気にはなれない。

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なにわ《オーケストラル》ウィンズ2015

5月4日(月)ザ・シンフォニーホールへ。

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年に一回、日本のオーケストラの選り抜きの管楽器奏者(+コントラバス、打楽器)が一堂に会するなにわ《オーケストラル》ウィンズを聴く。指揮は淀川工科高等学校吹奏楽部顧問の丸谷明夫先生と熊本県・玉名女子高校吹奏楽部顧問の米田真一先生。玉名女子は昨年のコンクール全国大会において酒井格:森の贈り物を自由曲で演奏し、それが大変な名演で話題になった。今回も昼の部で演奏されたのだが、僕が聴いた夜の部ではなかった。プログラムは下記。指揮者については次のように表記した。:丸谷、:米田、:なにわのボス=金井信之(クラリネット)。

  • グレイアム:大学祝典ファンファーレ
  • オリヴァドーティ:林檎の谷
  • 朴 守賢:暁闇の宴 吹奏楽コンクール課題曲V
    (第7回全日本吹奏楽連盟作曲コンクール第1位作品)
  • リード:アルメニアン・ダンス・パートII
  • アッペルモント:交響詩「エグモント」
    (休憩)
  • バーンズ:交響曲 第3番
    (以下アンコール)
  • 佐藤邦宏:マーチ「春の道を歩こう」
     吹奏楽コンクール課題曲II
  • 西村朗:秘儀III -旋回舞踊のためのヘテロフォニー 
    吹奏楽コンクール課題曲III
  • スパーク:メリー・ゴー・ラウンド なし

プレコンサートとして、榎田雅祥(フラウト・トラヴェルソ)、佐野健二(リュート)、内藤謙一(ヴィオラ・ダ・ガンバ)でオトテール:組曲 ト長調 op2-3よりアルマンド(サン・クールの滝)、クーラント、ジーグが演奏された。古楽器演奏が聴けてラッキー!また休憩時間には8人のホルン奏者+打楽器3人でマッコイ:アフリカンシンフォニーあり。

ブラームス「大学祝典序曲」をもじったグレイアムの曲は金管の輝かしいファンファーレに魅了された。

オリヴァドーティといえば僕は中学生の時に「バラ肉(薔薇の謝肉祭)」を演奏したことがあるが(大好き)、「林檎の谷」は初耳。オーボエの浦丈彦氏(読売日本交響楽団)は40年前、中学1年生の時に初めて吹いたのがこの曲だったという(当時はバスクラリネットだったそう)。演奏難度はeasyだが、gentle & lovely musicだった。

朴 守賢(パク・スヒョン)は大阪生まれの作曲家。「暁闇の宴」は冒頭、龍笛や能管の音色を思い起こさせ、アジア的響きがした。因みに調べてみると作曲家本人は巴烏(バーウー。中国雲南省を中心に演奏される横笛)を嗜(たしな)むそうだ。そして曲が中盤に差し掛かるとフリージャズ風に。実にユニークだ。

「アルメニアン・ダンス」は丸ちゃんが「吹奏楽の第九に!」(それくらい誰もが知っていて、一般市民も参加する曲になるように)と目指している楽曲。パートIは僕も丸ちゃんの指揮で演奏したことがある。

僕が知るかぎり、淀工はパートIIを演奏会で取り上げたことがない筈。丸ちゃんは「いつか淀工でもパートI & IIを通して演りたい」と抱負を述べた。I.農民の訴え風よ、吹け)は情感豊か。II.婚礼の踊りは農村の情景が目に浮かぶよう。III.ロリ地方の農耕歌はハチャトゥリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」とかホラ・スタッカートを彷彿とさせる。ちなみにハチャトゥリアンはアルメニア人。またホラ・スタッカートを作曲したディニクはルーマニア生まれのロマの作曲家。アルメニアとルーマニアは黒海を挟んで対岸に位置する。丸ちゃんらしくカチッとした演奏。作品への深い愛着が感じられた。

アッペルモントの「エグモント」は一糸乱れぬ緊密なアンサンブルが展開された。I.婚礼II.フェリペII世とエグモントはギターがカッケー!スペイン情緒溢れる。III.処刑は沈鬱な葬送行進曲。IV.ネーデルラント諸州対スペインは情熱的。

バーンズの交響曲第3番は1996年にザ・シンフォニーホールにおいて大阪市音楽団の演奏で世界初演された。作曲家も同席し、丸ちゃんも聴きに来ていたという。僕は秋山和慶/市音による再演を同ホールで体験している。幼い娘の死を悼んだ第3楽章「ナタリーのために」が白眉。最早、古典とも言える作品だが、改めて聴いてこれは交響曲というジャンルの長い歴史で培われた伝統に則っているのだということをつくづくと感じさせられた。つまり「苦悩を乗り越えて歓喜へ!」というプロット(プログラミング)のことである。これはまずベートーヴェンが交響曲第5番で発明し、ブラームスの第1番、チャイコフスキーとマーラー、ショスタコーヴィチの第5番などで踏襲された。また終楽章の副主題としてナタリーを送るときに捧げられた聖歌《私は神の子羊》が引用されているが、これはまさしくアルバン・ベルクがヴァイオリン協奏曲で用いた手法である。ベルクの協奏曲は「ある天使の思い出のために」と副題が付いており、アルマ・マーラーと彼女の2人目の夫ワルター・グロピウスとのあいだに生まれ、18歳で夭逝した娘マノン・グロピウスに捧げられている。その第2部後半にバッハの《カンタータ第60番「おお永遠よ、いかずちの声よ」》中のコラール《われは満ち足れり》の旋律が登場するのである。またバーンズの3番の特徴はソロが非常に多いこと。それもバスクラとかアルト・フルート、バリトン・サックスなど通常ソロがない低音楽器にも光が当てられている。

第1楽章は悲痛な想いに満ちている。ユニゾンが目立つ点ではショスタコーヴィッチを彷彿とさせる。第2楽章スケルツォは百鬼夜行が跋扈する不気味な世界。マーラーの交響曲第7番「夜の歌」(特に第3楽章)の雰囲気に近い。第3楽章「ナタリーのために」は泣きたくなるくらい美しいハーモニー。そして息子ビリーという新しい生命を授かった第4楽章は生命力に溢れ、爆発するエネルギー!会心の名演だった。なお「ナタリーのために」前半と後半のオーボエ・ソロを別の奏者が吹いたので驚いた(市音の演奏は同一奏者だったように記憶していたので)。そこでTwitterで加瀬孝宏さん(東京フィルハーモニー交響楽団)にお尋ねしてみると、バーンズの楽譜自体がそうなっているそうである。とても勉強になった。

アンコールは今年の課題曲から客席の挙手によるリクエストを募る。課題曲IIとIIIが双璧で、丸ちゃんの判断で2曲することに。マーチ「春の道を歩こう」は可愛らしく爽やか。”マーチの丸谷”の本領発揮で引き締まった演奏。西村朗「秘儀」について丸ちゃんは「どこがよろしいいの?」と会場の笑いを誘う。会場から「ティンパニが格好いい」との声が。「私は全くやる気がありません」と指揮は米田先生に。けったいだけれど、聴いていて面白い。西村さんはやはり、一筋縄ではいかない人だ。

アンコールで期待していた「森の贈り物」が聴けなかったのは残念だったが、久しぶりにバーンズ究極の名曲を生で聴けたので嬉しかった。

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映画「セッション」

評価:AA

Whiplash

インディペンデントの祭典、サンダス映画祭でグランプリおよび観客賞を受賞、アカデミー賞では助演男優賞(J・K・シモンズ)、編集賞、録音賞の3部門を奪取した。公式サイトはこちら

監督のデイミアン・チャゼルは撮影当時28歳。若い頃、プロのジャズ・ドラマーを目指していたが挫折、その時の経験が本作に生かされているという。次作はエマ・ワトソン主演のミュージカル映画「La La Land」とのことで、非常に愉しみだ。

原題は"Whiplash"。本編に登場するジャズの曲名である。1973年にハンク・レヴィ(Hank Levy)が作曲した。Whiplashとは「ムチで打つ」という意味であり、鞭がしなって「ビシッ!」と鳴る音と、「ウィプラッシュ!」という語感には近いものがある。つまりこのタイトルはニューヨークにある名門音楽大学の教師フレッチャー(J・K・シモンズ)の性格そのものを示している。邦題の「セッション」は余りにも説明的で凡庸だ。

主人公は大学でビッグバンドジャズのドラマーを志す。ビンタを食らわし、物を投げつける暴力的なフレッチャーの指導法は「愛と青春の旅だち」に登場する鬼教官(ルイス・ゴセット・ジュニアがアカデミー助演男優賞を受賞)やスタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」におけるアメリカ海兵隊のシゴキを彷彿とさせる。あるいは「巨人の星」の星一徹(大リーグボール養成ギプス)みたいだと言ってもいい。

狂気を孕みつつ突き進むJ・K・シモンズの演技は最高にクールでカッケー!この映画に衝撃を受け役者になりたいと志す若者はさぞかし多いことだろう。当然だ。

注意!以下ネタバレあり




フレッチャーは悪魔的キャラクターだ。時に涙を流し人間的側面を垣間見させ、「あれ?先生って、もしかしたらいい人かも」と油断をさせる。しかしそうなったら彼の思う壺で、必ず後で強烈なしっぺ返しが待ち構えているのだ。どんでん返しに次ぐどんでん返しに唖然とした。

最後10分のコンサートホールにおけるほぼ台詞のないクライマックスが壮絶である。楽譜の小節に完全にシンクロ(同期)してパッパッと切り替わる、切れ味鋭い編集が秀逸だ(ロバート・ワイズ監督の「ウエストサイド物語」や「サウンド・オブ・ミュージック」のことを想い出した)。

本作については映画評論家の町山智浩氏とジャズ・ミュージシャン菊地成孔氏が言論による熱いバトルを展開している→こちら

町山氏はフレッチャー先生を「若い才能を、おそらくは無意識の嫉妬で潰そうとしてしまう」と評し、そしてクライマックスで見つめ合うふたりについて「音楽は楽しいんだ。忘れてた」とし、音楽によってふたりは救われるのだと解釈している。

僕の考えは少し違っていて、フレッチャーは本気でバード(チャーリー・パーカー)のような天才ジャズ・ミュージシャンを自らの手で生み出したいと希い、行動していたのだと想う。勿論生徒のためなんかではなく、自己満足のために。そこにジャズへの愛はあっても、他者への愛はこれっぽっちもない。目的を果たすためなら生徒の人生を台無しにしようが、自殺に追い込む結果になろうがどうでもよかった。故に徹底的にアンドリューをいたぶり続ける。しかしアンドリューは食い下がり、闘争心をむき出しにして反撃する。「お、コイツは今までの奴らとは違う。もしかしたら……」という確かな手応をフレッチャーは感じる。そこで初めてふたりは共感し、相手を認めるのだ。

だからある意味、本作は特異な性的指向についての映画だとも言える。S(サディスト)=フレッチャーとM(マゾヒスト)=主人公との倒錯的プレイ。最後のセッション@コンサートホールは差し詰めベッドイン後の組んず解れつであり、見つめ合いニヤリとする瞬間に両者はエクスタシー(絶頂)に達すると解釈も出来るのである。

どの説が正しいと主張するつもりは毛頭ない。様々な見方が可能だというのは優れた芸術作品の特権なのだから。

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