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死の淵から帰還した井上道義とチャイコフスキーのNegative Thinking Symphony

1980年代以降、ブリュッヘン、アーノンクール、ガーディナー、ホグウッド、ノリントンらの努力により古典派以降の音楽作品も古楽器による演奏/ピリオド・アプローチが普及し、モダン・オーケストラにも影響を与えた。20世紀以降慣例となったモダン配置ではなく、第1/第2ヴァイオリン奏者が指揮台を挟んで向かい合う古典的対向配置も珍しくなくなった。

先日TV放送されたブロムシュテット/N響によるチャイコフスキー後期交響曲の演奏は対向配置だった。ブロムシュテットは「悲愴」終楽章冒頭を引き合いに出し、その理由を語る。「悲愴」終楽章冒頭は主旋律を第1/第2ヴァイオリンが交互に一音ずつ奏でる(詳しくは→こちらが譜面も掲載されており、分かりやすい)。彼はそれが「作曲家の引き裂かれた自己」を表現しているのだと説く。だから「対向配置でないとその意図が伝わらない」と。ブロムシュテットが言うチャイコフスキーの「引き裂かれた自己」とは、彼がゲイであったことと無関係ではない。「悲愴」は死を決意した作曲家のダイイング・メッセージであったのだ。作曲家の意図を尊重するために「悲愴」が対向配置でなければならないのであれば、当然それ以前の交響曲も対向配置にするべきだ。論理的に考えれば変える理由はない。

ちなみに我が国では未だにチャイコフスキーがゲイであると語るのはタブー視されており、例えばWikipedia日本語版でも必死にその事実を否定しようと涙ぐましい努力をしている→こちら。ところが一方、母国ロシアではなんと大統領公認なのである!→「チャイコフスキーは同性愛者でも国民の誇り=プーチン大統領」(ロイターの記事)この温度差は一体、何?国民性の違い??

10月24日(金)フェスティバルホールへ。

咽頭がんに対する放射線治療から復帰した井上道義/大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏で、

  • ショスタコーヴィチ:ロシアとキルギスの主題による序曲
  • プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第3番
  • チャイコフスキー:交響曲 第4番

1963年に作曲されたショスタコの序曲は暴君スターリンの死後長らく封印していた交響曲第4番が漸く初演され、この世の春とばかり自由を謳歌する作曲家の心情が滲み出た、脳天気に明るい作品。いいね!ミッキーは冒頭部で象の行進みたいにのっしのっしと動き、後半はノリノリ。

コンチェルトの独奏はユリアンナ・アヴデーエワ。彼女の演奏を聴くのは2011年1月以来である。

プロコフィエフは乾いた音でサラッとした演奏。何だか物足りない。もっとケレン味があってもいいかなと想った。オケは微妙なテンポの揺れがあり、聴いていて心地よかった。ソリスト・アンコールはショパンマズルカ 第23番。キレキレでモダンな解釈。しっかりテンポ・ルバート(溜め)もあり。こっちは良かった。

チャイコフスキーの交響曲第4番のことを僕は"Negative Thinking Symphony"と呼んでいる。偽装結婚がたった2ヶ月で破綻し(そもそも女性に興味がないのだから当たり前)、自殺未遂の後に完成された後ろ向きの作品だからだ。このシンフォニーに登場するほとんどの主題は下降音型で構成されている(「悲愴」も同様)。常に墜ち続ける感覚。フォン・メック夫人に宛てた手紙には作曲家の次のような構想が述べられている(要旨)。

第1楽章 序奏のファンファーレは「運命」であり、常に私たちの魂を苦しめる存在である。主部では絶望的な気持ちと現実逃避を希求する感情、そして優しい夢とが不断に交錯してゆく。第2楽章は過去を回想する憂鬱な感情。第3楽章は脳裏をかすめる支離滅裂で気まぐれな空想。第4楽章は他人の素朴で陽気な騒ぎの中に入って行きたいという、孤独な自分自身の願望。
(参考文献:「曲目解説」東条碩夫

「この交響曲を作曲したこの冬には、私はひどくふさぎ込んでいましたが、この曲にはその頃の私の体験が忠実に反映されています…体験したことの激しさや恐ろしさの全体的な記憶が残っています」
(「新チャイコフスキー孝」森田稔、NHK出版)

さて、演奏の感想に移ろう。残念ながら対向配置ではなく通常のもの。第1楽章のファンファーレは名手・高橋将純率いるホルン軍団がごっつい音で豪快に咆哮する。音楽は決然と進むが、主部に入るとそれが絶望の吐息に置き換わる。歩みは途切れ途切れとなり、今にも倒れ込みそう。展開部の木管の動きは「あゝ」という作曲家の詠嘆を表している。第2楽章は木管群による下降音型の連発がため息をつくよう。はかない夢。第4楽章はモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲へのオマージュではないかと僕は考えている。フィガロのメロディ前半の上昇音型をカットして、後半の下降音型から開始すると……あらあら、そっくりじゃないですか!?チャイコフスキーの言う「他人の素朴で陽気な騒ぎの中に入って行きたい」における〈他人=モーツァルト〉というのが僕の持論である。ちなみにチャイコフスキーは自作の弦楽セレナードを「モーツァルトへの敬愛の念で書いた」と語っているし、ブロムシュテット/N響もチャイコフスキーとモーツァルトの後期交響曲を組み合わせるというプログラムを組んだ。ミッキー/大フィルの演奏は終楽章冒頭からガツンと来た!魂がこもり、ありったけの生をぶつけた演奏。絶望に喘ぎ苦しみながらも、それでも出口を探してもがいているような切実な音楽……そこにはある種、指揮者と作曲家の共感があった。

完全復帰したミッキーと大フィルに今後望むこと。勿論、ショスタコーヴィチの交響曲は全部聴きたいが、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの交響曲とヴァイオリン協奏曲を是非定期演奏会で取り上げて欲しい。東京では比較的聴く機会が増えたが、関西では皆無に等しい。その文化的格差を一気に縮めてもらいたい。そしてそれをやれるのはミッキーしかいない!

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