« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

2014年10月29日 (水)

我が生涯、最愛の映画(オールタイム・ベスト)について語ろう。(その1)

10年前にHPで同様の企画をしたが、今回内容に変化がなければ困るなと想った。もし同じだったらここ10年で僕の感性が衰えた、生きながら死んでいるも同然ということを意味するからね。よくオールタイム・ベストテンという企画が雑誌などで組まれるが、選者が選ぶのって大体その人が青春期に観た映画なんだ。でもそれじゃ駄目だろう?単に「昔は良かった」という懐古趣味でしかない。

結論として色々入れ替わりがあってホッとした。()内は監督。

  1. はるか、ノスタルジィ(大林宣彦)
  2. 風と共に去りぬ(ジョージ・キューカー→ヴィクター・フレミング
    →サム・ウッド)米
  3. めまい(アルフレッド・ヒッチコック)米
  4. ドクトル・ジバゴ(デヴィッド・リーン)英
  5. 風立ちぬ(宮﨑駿)
  6. サウンド・オブ・ミュージック(ロバート・ワイズ)米
  7. 秒速5センチメートル(新海誠)
  8. ニュー・シネマ・パラダイス(ジュゼッペ・トルナトーレ)伊
  9. 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(岩井俊二)
  10. 七人の侍(黒澤明)
  11. 山の音(成瀬巳喜男)
  12. ある日どこかで(ヤノット・シュワルツ)米
  13. 魔法少女まどか☆マギカ(新房昭之)
    [前編]始まりの物語[後編]永遠の物語[新編]叛逆の物語
  14. フォロー・ミー(キャロル・リード)英
  15. 草原の輝き(エリア・カザン)米
  16. 冒険者たち(ロベール・アンリコ)仏
  17. シベールの日曜日(セルジュ・ブールギニョン)仏
  18. 恋のエチュード(フランソワ・トリュフォー)仏
  19. 禁じられた遊び(ルネ・クレマン)仏
  20. 甘い生活(フェデリコ・フェリーニ)伊
  21. 赤い靴(マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー)英
  22. E.T.(スティーヴン・スピルバーグ)米
  23. 初恋のきた道(チャン・イーモウ)中
  24. ジェニーの肖像(ウィリアム・ディターレ)米
  25. フィールド・オブ・ドリームス(フィル・アルデン・ロビンソン)米
  26. 素晴らしき哉、人生!(フランク・キャプラ)米
  27. 雨に唄えば(スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー)米
  28. 太陽の少年(チアン・ウェン)香港・中
  29. 殺人の追憶(ポン・ジュノ)韓
  30. ゼロ・グラビティ(アルフォンソ・キュアロン)米・英
  31. さらば、我が愛 /覇王別姫(チェン・カイコー)香港・中

原則としてひとりの監督につき1作品のみに絞った。そうしないと収集がつかなくなるから。例えば、大好きな大林監督作品だけでベスト10を選ぶことだって可能。やってみようか?

  1. はるか、ノスタルジィ
  2. 時をかける少女
  3. 日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群
    (外伝 夕子かなしむ)
  4. 廃市
  5. ふたり
  6. さびしんぼう
  7. 野のなななのか
  8. この空の花 ー長岡花火物語
  9. EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ
  10. 彼のオートバイ、彼女の島
  11. HOUSE ハウス
  12. 麗猫伝説(TV映画)
  13. なごり雪
  14. 転校生
  15. 青春デンデケデケデケ
  16. あした
  17. So long ! (AKB48 MV)

さて、リストを作成していて気付いたこと。「本当は愛し合っている男女が、結局結ばれない」という、失はれる物語が僕は好きなんだってこと。「ドクトル・ジバゴ」や「秒速5センチメートル」「ニュー・シネマ・パラダイス」「ある日どこかで」「山の音」「草原の輝き」「シベールの日曜日」「恋のエチュード」等がそれに該当する。映画だけじゃなく、僕が偏愛する小説「草の花」(福永武彦)や「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)なんかもそう。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラとレット・バトラーも結婚はするけれど、最後は行き違いから別れることになる。これはもう、好みというか性癖だね。"It is written." ー遺伝子に刻み込まれているんだから、自分の意志ではどうしようもない。制御不能だ。

では第1位から順に選出(推薦)理由を述べていこう。

「はるか、ノスタルジィ」 このベスト・ワンは10年前から変わらない。完璧な映画。大林宣彦の流麗な演出、阪本善尚・撮影監督による玻璃のように繊細で美しい映像、大林監督の右腕でこれが遺作となった薩谷和夫による渾身の美術セット、そして心に沁み入る久石譲の音楽。文句のつけようがない。ミステリアスなヒロインを演じた石田ひかりも素晴らしい。言葉は虚しい。とにかく観てください。それしかない。

Haruka

「風と共に去りぬ」 撮影中に監督が次々と交代した(ジョージ・キューカー→ヴィクター・フレミング→サム・ウッド)。脚本は作家のF・スコット・フィッツジェラルド(華麗なるギャツビー)をふくめ13人が手直しに携わったという。つまり本作は大プロデューサー:デヴィッド・O・セルズニックのものなのである。現在のハリウッドは監督の作家性が尊重されるので、こんな強引な形で製作者が作品をコントロールすることは事実上不可能。ハリウッド黄金期だからこそ実現した、最早失われた夢の世界である。

B703219

「めまい」 アルフレッド・ヒッチコック監督による傑作中の傑作。イギリスの最も権威がある映画雑誌 “Sight & Sound” が2012年に発表したオールタイム・ベスト50で堂々第1位の栄冠に輝いた。投票者は映画批評家を中心に、プログラマー、研究者、配給業者など、映画の専門家846名。また同時にマーティン・スコセッシ、クエンティン・タランティーノ、フランシス・フォード・コッポラを含む、358人の映画監督による投票も行われ、「めまい」は第7位だった(第1位:東京物語、第2位:2001年宇宙の旅、同2位:市民ケーン、第4位:8 1/2)。原作はミステリー小説だが、だれが犯人かなどというのはどうでもよく(実際映画の半ばで事件の真相が分かる)、全編を貫く悪夢のような雰囲気が魅惑的。墜ち続ける感覚。またワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」に基づくバーナード・ハーマンの浪漫的音楽が抜群に素晴らしい。

Vertigo

「ドクトル・ジバゴ」 デヴィッド・リーン監督の映画なら、「アラビアのロレンス」や「ライアンの娘」を本作と差し替えても一向に構わない。ただ「アラビアのロレンス」はむさ苦しい男ばかり出てくる映画なので、色気がないのが玉に瑕。初めて観たのが中学生くらいで、さっぱり内容が理解出来なかった(アラビア情勢は実に複雑だ)。特にロレンスがトルコ軍の捕虜となり、拷問を受ける場面で軍の司令官(ホセ・フェラー)が男色家(ゲイ)だということが当時は見抜けなかったので、ちんぷんかんぷんだった。映画を観る「適齢期」というのは確かにあるね。背伸びし過ぎた。「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」「ライアンの娘」で3度アカデミー撮影賞を受賞したフレディ・ヤングによるスケールが大きな映像が圧巻。詩人が主人公である「ドクトル・ジバゴ」ではリーン監督の繊細な演出にも注目(特に主観ショット)。自然描写が卓越している。また24人のバラライカ楽団をフィーチャーしたモーリス・ジャールの音楽の美しさも筆舌に尽くし難い。

D

「風立ちぬ」 前回まで宮崎アニメといえば痛快な冒険活劇「天空の城ラピュタ」が不動のベストだったが、「風立ちぬ」を観てこちらでもいいかなと初めて想った。詳しくは下記記事で論じた。作品を紐解くキーワードは”ピラミッド”。

「サウンド・オブ・ミュージック」 中学生の頃から大好きで、大学の卒業旅行でオーストリアのザルツブルクまで旅をして、ロケ地めぐりに勤しんだという想い出の作品。郊外のロケ地をめぐるバス・ツアーというのが毎日運行していて、確か発着は(「ドレミの歌」のロケ地)ミラベル公園だったように記憶している。バスに日本人は僕だけ!アメリカ人が多かったかな。現地の人は殆どこの映画を観てないそう。そりゃ、オーストリア人が英語を喋っているのだから不自然だよね。日本を舞台にしたハリウッド映画に僕達が違和感を覚えるのと同じことだろう。

S

秒速5センチメートル」 については下記記事で十分に語ったので、もういいだろう。ブルーレイで観れば観るほどどんどん好きになっていく自分が恐ろしい。

そうそう、一言だけ追記。劇中でヒロインが読んでいる文庫本のタイトルー村上春樹「螢・納屋を焼く・その他の短編」、トルーマン・カポーティ「草の竪琴」、そして夏目漱石「こころ」。これらを読めば、作品をより一層深く理解出来るだろう。

「ニュー・シネマ・パラダイス」 映画好きにはたまらない作品。自分の少年時代の想い出に重ねて観てしまうんだよね。これほど泣いた映画も後先ない。涙腺崩壊とは正にこれ。そして嗚呼、エンニオ・モリコーネの音楽!ずっと以前、映画評論家・森拓也が「キネマ旬報」で本作に登場する映画館に映写機が一台しかないのはおかしいと得意気に書いていた(→詳細はこちら)。しかし大林宣彦監督によると、この映画で描かれているのは「流し込み上映」という手法で、実際に映写機一台でこの流し込みをやっている映画館が高知県にあるという(→こちら!)。いやぁ、驚いた。そして溜飲が下った。ざまあみろ、森拓也。なお本作には最初に上映された2時間4分の国際版と、後に公開された2時間50分ディレクターズ・カット版があるが、僕は断固短い国際版を推す。全長版を観て、「世の中には知らない方が幸せなことってあるんだな」と思い知った。決してディレクターズ・カット版はお勧めしない。正直がっかりした。

Cinemaparadiso

「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」 「LOVE LETTER」と並び岩井俊二(脚本・監督)の最高傑作であり、奥菜恵絶頂期の記録としても永遠の価値を有している。岩井監督は「LOVE LETTER」の酒井美紀といいい、「花とアリス」の蒼井優といい、少女が放つ一瞬の煌きをすくい取り、フィルムに永遠に刻みつけることに長けている。それは正に魔法の瞬間である。青春という「失われた時を求めて」、ワンダーランドにようこそ。元々はTVシリーズ「If もしも」の1編として1993年にフジテレビで放送された45分の小品。日本映画監督協会新人賞を受賞。またTV版「モテキ」で満島ひかりと森山未來がこの「打ち上げ花火」のロケ地めぐりをする回があり、出色の出来。大学生の頃、繰り返し尾道に旅をして大林映画のロケ地めぐりをしていた自分自身を見ているようで爆笑した。青春って恥ずかしい。でもそれでいい。

「七人の侍」 泣く子も黙る黒澤明の代表作にして日本映画屈指の名作。これを観たことない日本人は、いわばシェイクスピアやディケンズを知らないイギリス人みたいなものだね。つまり基本的教養だ。黒澤の「生きる」については下記で語った。

「山の音」 成瀬巳喜男監督は「浮雲」や「女が階段を上る時」などドロドロした男女の恋愛を描くのが上手い人だが、「山の音」は初老の男(山村聰)とその息子の嫁(原節子)との恋愛感情を描いている。実に際どいテーマだが、決してその気持が言葉で示されることはなく、プラトニックなまま終わる。成瀬監督が醸しだす空気感が絶妙で心地いい。痺れる。大人だねぇ。鎌倉の美しい風物が華を添える。モノクロ作品。

カルト映画「ある日どこかで」に関しては、下記で語り尽くした。

「魔法少女まどか☆マギカ」 については三部作あり。

これからこの大傑作に出会う人々への僕からの切実なお願いはどうか劇場版からではなく、全12話のTVシリーズから入っていって欲しいということである。「騙されることの快感」が必ずそこにはあるから。

「フォロー・ミー」 については下記記事を参照のこと。

キャロル・リード監督作品では光と影が交差し、白黒映像の美を極めた「第三の男」(カンヌ国際映画祭グランプリ)も捨て難い輝きを放ち続けている。

「草原の輝き」 については下記記事をどうぞ。

同じエリア・カザンの監督作品ではジェームズ・ディーン主演の「エデンの東」もいいね。エデンの園から追放された主人公の母親=ハリウッドに赤狩りの嵐が吹き荒れていた時代に、司法取引をして仲間を売ったカザン(元共産党員)自身とも解釈出来る。

16位以下の作品については、また後日改めて語りたい。乞うご期待。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月28日 (火)

死の淵から帰還した井上道義とチャイコフスキーのNegative Thinking Symphony

1980年代以降、ブリュッヘン、アーノンクール、ガーディナー、ホグウッド、ノリントンらの努力により古典派以降の音楽作品も古楽器による演奏/ピリオド・アプローチが普及し、モダン・オーケストラにも影響を与えた。20世紀以降慣例となったモダン配置ではなく、第1/第2ヴァイオリン奏者が指揮台を挟んで向かい合う古典的対向配置も珍しくなくなった。

先日TV放送されたブロムシュテット/N響によるチャイコフスキー後期交響曲の演奏は対向配置だった。ブロムシュテットは「悲愴」終楽章冒頭を引き合いに出し、その理由を語る。「悲愴」終楽章冒頭は主旋律を第1/第2ヴァイオリンが交互に一音ずつ奏でる(詳しくは→こちらが譜面も掲載されており、分かりやすい)。彼はそれが「作曲家の引き裂かれた自己」を表現しているのだと説く。だから「対向配置でないとその意図が伝わらない」と。ブロムシュテットが言うチャイコフスキーの「引き裂かれた自己」とは、彼がゲイであったことと無関係ではない。「悲愴」は死を決意した作曲家のダイイング・メッセージであったのだ。作曲家の意図を尊重するために「悲愴」が対向配置でなければならないのであれば、当然それ以前の交響曲も対向配置にするべきだ。論理的に考えれば変える理由はない。

ちなみに我が国では未だにチャイコフスキーがゲイであると語るのはタブー視されており、例えばWikipedia日本語版でも必死にその事実を否定しようと涙ぐましい努力をしている→こちら。ところが一方、母国ロシアではなんと大統領公認なのである!→「チャイコフスキーは同性愛者でも国民の誇り=プーチン大統領」(ロイターの記事)この温度差は一体、何?国民性の違い??

10月24日(金)フェスティバルホールへ。

咽頭がんに対する放射線治療から復帰した井上道義/大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏で、

  • ショスタコーヴィチ:ロシアとキルギスの主題による序曲
  • プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第3番
  • チャイコフスキー:交響曲 第4番

1963年に作曲されたショスタコの序曲は暴君スターリンの死後長らく封印していた交響曲第4番が漸く初演され、この世の春とばかり自由を謳歌する作曲家の心情が滲み出た、脳天気に明るい作品。いいね!ミッキーは冒頭部で象の行進みたいにのっしのっしと動き、後半はノリノリ。

コンチェルトの独奏はユリアンナ・アヴデーエワ。彼女の演奏を聴くのは2011年1月以来である。

プロコフィエフは乾いた音でサラッとした演奏。何だか物足りない。もっとケレン味があってもいいかなと想った。オケは微妙なテンポの揺れがあり、聴いていて心地よかった。ソリスト・アンコールはショパンマズルカ 第23番。キレキレでモダンな解釈。しっかりテンポ・ルバート(溜め)もあり。こっちは良かった。

チャイコフスキーの交響曲第4番のことを僕は"Negative Thinking Symphony"と呼んでいる。偽装結婚がたった2ヶ月で破綻し(そもそも女性に興味がないのだから当たり前)、自殺未遂の後に完成された後ろ向きの作品だからだ。このシンフォニーに登場するほとんどの主題は下降音型で構成されている(「悲愴」も同様)。常に墜ち続ける感覚。フォン・メック夫人に宛てた手紙には作曲家の次のような構想が述べられている(要旨)。

第1楽章 序奏のファンファーレは「運命」であり、常に私たちの魂を苦しめる存在である。主部では絶望的な気持ちと現実逃避を希求する感情、そして優しい夢とが不断に交錯してゆく。第2楽章は過去を回想する憂鬱な感情。第3楽章は脳裏をかすめる支離滅裂で気まぐれな空想。第4楽章は他人の素朴で陽気な騒ぎの中に入って行きたいという、孤独な自分自身の願望。
(参考文献:「曲目解説」東条碩夫

「この交響曲を作曲したこの冬には、私はひどくふさぎ込んでいましたが、この曲にはその頃の私の体験が忠実に反映されています…体験したことの激しさや恐ろしさの全体的な記憶が残っています」
(「新チャイコフスキー孝」森田稔、NHK出版)

さて、演奏の感想に移ろう。残念ながら対向配置ではなく通常のもの。第1楽章のファンファーレは名手・高橋将純率いるホルン軍団がごっつい音で豪快に咆哮する。音楽は決然と進むが、主部に入るとそれが絶望の吐息に置き換わる。歩みは途切れ途切れとなり、今にも倒れ込みそう。展開部の木管の動きは「あゝ」という作曲家の詠嘆を表している。第2楽章は木管群による下降音型の連発がため息をつくよう。はかない夢。第4楽章はモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲へのオマージュではないかと僕は考えている。フィガロのメロディ前半の上昇音型をカットして、後半の下降音型から開始すると……あらあら、そっくりじゃないですか!?チャイコフスキーの言う「他人の素朴で陽気な騒ぎの中に入って行きたい」における〈他人=モーツァルト〉というのが僕の持論である。ちなみにチャイコフスキーは自作の弦楽セレナードを「モーツァルトへの敬愛の念で書いた」と語っているし、ブロムシュテット/N響もチャイコフスキーとモーツァルトの後期交響曲を組み合わせるというプログラムを組んだ。ミッキー/大フィルの演奏は終楽章冒頭からガツンと来た!魂がこもり、ありったけの生をぶつけた演奏。絶望に喘ぎ苦しみながらも、それでも出口を探してもがいているような切実な音楽……そこにはある種、指揮者と作曲家の共感があった。

完全復帰したミッキーと大フィルに今後望むこと。勿論、ショスタコーヴィチの交響曲は全部聴きたいが、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの交響曲とヴァイオリン協奏曲を是非定期演奏会で取り上げて欲しい。東京では比較的聴く機会が増えたが、関西では皆無に等しい。その文化的格差を一気に縮めてもらいたい。そしてそれをやれるのはミッキーしかいない!

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

児玉宏のブルックナー00番

9月19日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

児玉宏/大阪交響楽団

  • ゲッツ/歌劇「じゃじゃ馬ならし」序曲
  • モーツァルト/ピアノ協奏曲 第15番
  • ブルックナー/交響曲 第00番

ヘルマン・ゲッツはブラームスより7年後に生まれたドイツの作曲家。「じゃじゃ馬ならし」は軽快で木管が愛らしい曲。スッペの序曲みたい。

モーツァルトの独奏は佐藤卓史。歯切れよく、オーケストラはピリオド・アプローチじゃないのに羽のように軽やか。細心の注意を払った演奏だった。

ソリスト・アンコールはブルックナーの「秋の夕べの静かな物思い」。ピアノ独奏曲があるなんて知らなかった!でも単調な曲。

ブルックナーの交響曲第0番を日本初演したのは朝比奈隆/大阪フィル(1978年6月5日、フェスティバルホール)。しかしこのコンビは00番を一度も取り上げなかったのではないか?児玉/大響は丁寧な導入部を経てサクサクと推進力がある。余分な贅肉をそぎ落とし、引き締まった演奏。それにしてもこの若書きのシンフォニー、第1・4楽章の展開部が非常に短くあっさり終わるのにはびっくりする。第3番以降の交響曲とはえらい違い。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月20日 (月)

白鳥・三三 両極端の会 in 秋のひょうご

10月19日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

  • 柳家三三/転宅
  • 三遊亭白鳥/トキそば
  • 柳家三三/殿様と海
  • 三遊亭白鳥/富Q -ミミちゃん版-

二席目以降は白鳥の手による新作落語。とは言え「トキそば」は古典「時そば」(上方の「時うどん」)を、「富Q」は江戸落語「富久」や上方の「高津の富」をベースにしている。「時→トキ」になっているのがミソ。また「殿様と海」には「目黒のさんま」や「骨つり(野ざらし)」、「船徳」、左甚五郎シリーズ(「竹の水仙」「ねずみ」「三井の大黒」「叩き蟹」etc.)のエッセンスも盛り込まれている。ちなみに”ミミちゃん”とは三三のことを指し、若手落語家が主人公の人情噺(!?)。

白鳥は初めて聴いたが、「いっちゃっている」感じだった。座布団芸も猛烈だったし、引いている客も。「トキそば」は内容が汚くて僕は好きになれなかった。食べ物の話だし、もうちょっと上品に出来ないものか?

古典派の雄・三三は滅多に高座にかけない新作で弾けていた。

桂 文枝(旧:三枝)や柳家喬太郎の作品と比べると、白鳥の新作の完成度は高くない。ただ破天荒(奇天烈)な面白さは確かにあるし、未成熟ながら勢いは感じた。特に「殿様と海」で釣り竿が喋るというアイディアはなかなか良かった。

またいつか聴いてもいい。何年か後に。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

川瀬賢太郎/大響「ロマンティック・ロシア」

10月16日(木)ザ・シンフォニーホールへ。

川瀬賢太郎/大阪交響楽団、ピアノ独奏:田村 響

  • チャイコフスキー/幻想的序曲「ロメオとジュリエット」
  • ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲 第2番
  • ラフマニノフ/交響曲 第2番

とにかく弱冠30歳の指揮者・川瀬の才能に刮目した。

目いっぱいのダイナミクスの変化、キレキレのリズム、音楽の弾けっぷり、緊張とその緩和の鮮やかなコントラスト。コイツは凄い!

僕が今まで実演を聴いた若手指揮者(40歳未満)で将来が有望だと感じたトップ3はダニエル・ハーディング、グスターボ・ドゥダメル、クシシュトフ・ウルバンスキなのだが、その後に続く者としてヤニック・ネゼ=セガン、ヤクブ・フルシャ、山田和樹、そして川瀬賢太郎を挙げたい(はっきり言うがアンドリス・ネルソンスは、世間の評価ほど大したことはない)。

20歳でロン・ティボー国際コンクールに優勝した田村のピアノは確かに上手くてミスはなかったけれど、音が流れる水のように耳から耳へ抜けていって、後に何も残らなかった。

ラフマニノフはよく「映画音楽みたい」と揶揄されるのだが、交響曲 第2番が実際映画に使用されたことは殆どない。プロの間でこのシンフォニーの評価は低く、例えば「名曲大全」とも言える夥しいレコーディングを残したヘルベルト・フォン・カラヤンは一度も録音していない。ラフマニノフの交響曲を振らない指揮者としては小澤征爾、バーンスタイン、ハイティンク、アバド、ムーティ……と枚挙に暇がない(それなのにピアノ協奏曲は皆レコーディングしている)。母国ロシアでもムラヴィンスキーなどは完全無視である。美しい旋律には溢れているのだが、なんというか長いくせに構成が緩く、ダレるんだよね。間延びしている(曲が冗長すぎると昔は習慣的にカットして演奏されていた。詳しくは→ こちら)。そこを川瀬は面白く聴かせてくれて飽きなかった。以前聴いた大植英次/大阪フィルの実演より断然良かった。

ところで川瀬が「シェフからのメッセージ」に書いた、(「ロメオとジュリエット」について)「チャイコフスキーが誰も気付かないような仕掛けをクライマックスでの愛のテーマでしている事」って一体何?何??すごく気になる。誰か教えて!大響奏者の方、読まれてますよね?

| | | コメント (3) | トラックバック (0)

2014年10月18日 (土)

ゲルギエフ/マリインスキーのマーラー

10月11日(土)ザ・シンフォニーホールへ。

ワレリー・ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管弦楽団で、

  • ストラヴィンスキー/バレエ音楽「火の鳥」(1919年版)
  • マーラー/交響曲 第5番

客席の入りは6〜7割といったところ。S席が2万円で、一番安いD席1万円だけびっしり満席。

2曲ともオケは対向配置。ゲルギーはいつもの爪楊枝?/マッチ棒?みたいな短い指揮棒を使用。ある人に言わせると「あれは爪楊枝より長いから串だ!」そう。ステージ後方の奏者から目視可能なのだろうか??

「火の鳥」は粘り腰で、どっしりとしたロシアの大地を連想させる。重心は低く、ずしりと腹にこたえる響きだが決して重過ぎはせず、泥臭くもない。熱い生命力を感じさせる演奏。

マーラーの冒頭はトランペットの強奏が強烈。沈鬱な足取りでしっかりと葬送行進曲であることを想起させた。第1楽章 最終音のピッツィカート手前でたっぷりと間(総休止)を取り、印象深かった。第3楽章は漲る気迫、金管がごっつい音で咆哮する。これぞロシアン・ブラス!マーラーの出生地・ボヘミアの自然が描かれ、目一杯生を謳歌する。第4楽章アダージェットはネットリ濃厚。でもテンポは決して遅くない。ディープ・キスを目の当たりにしているようなエロスがあった。第5楽章は無邪気な子どもたちの遊びの情景。最後はアグレッシブに畳み掛け史上最速、狂気すら感じた。僕はかの有名なムラヴィンスキー/レニングラード・フィルによる「ルスランとリュドミラ」序曲を想い出した。

今回の演奏を聴きながら、「この交響曲って、人生を逆走するというコンセプトがあるんじゃなかろうか?」と想った。文字通り第1楽章 葬送行進曲は「死」を意味し、第4楽章は「恋人たちの時間(青春)」、そして終楽章が「子供の情景」なのだから。

完璧なアンサンブル、驚異の機能集団に感嘆した土曜日の昼下がりであった。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月17日 (金)

藤岡幸夫のシベリウス×萩原麻未のショパン〜関西フィル定期

10月10日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団

  • ショパン/ピアノ協奏曲第1番
  • シベリウス/レンミンカイネンの帰郷
  • シベリウス/交響曲第4番

ピアノ独奏は日本人として初めてジュネーヴ国際コンクール(ピアノ部門)で優勝した萩原麻未

ショパンのコンチェルトはオケが引き締まった音を奏で、ピアノは優しく柔らかなタッチ。繊細で夢見るよう。弱音が際立った美しさで、一音一音が煌めく。第2楽章はドビュッシー「月の光」を彷彿とさせる雰囲気を醸し出す。潤いと陰影のある魔法の響きにゾクゾクっとした。第3楽章ロンド、ヴィヴァーチェは動的でリズミカル。ピアノは時に激しく、弦には粘りがあった。

パリ国立高等音楽院を卒業し、現在もパリを拠点に活躍する萩原はやはりアルフレッド・コルトーとかサンソン・フランソワなどフランスのピアニストの系譜に位置するひとだなと思った。

アンコールはショパンの夜想曲第2番。静謐な花の香がした。

シベリウスの第4番について藤岡氏はプレトークで「浪費家で煙草と酒に溺れ、暴れて牢屋に入ったりとギラギラしていた青年シベリウスが咽頭腫瘍の告知を受け、精神的危機に陥った暗黒期に書かれた交響曲で、とっつきにくい。僕は若い頃この曲の良さが分からなかった。オーケストレーションは削ぎ落とされ、一音たりとも無駄がない。北欧の指揮者の間では『聖書』と呼ばれ神聖視されている」と語った。また第1楽章の「モデラート」は、作曲家の意図を汲み取ると「落ち着いて」という意味になるのだという。

第2楽章は歯切れよく、第3楽章のラルゴは深い森に彷徨い入ったかのよう。藤岡が師事した指揮者・渡邉暁雄はこれを自分の葬式で演奏して欲しいと語ったそうだ(まだデビュー前で、その願いを実現出来なかった)。そして第4楽章アレグロは生命力に満ち溢れた演奏であった。本物のシベリウスを聴いたという確かな手応えがあった。

僕はショパンのピアノ協奏曲第1番を聴くと否応なく福永武彦の青春小説「草の花」を想い出す。そしてよくよく考えてみると、シベリウスの「レンミンカイネンの帰還」と交響曲第4番は福永武彦の遺作「死の島」に登場し、小説の基板、ライトモティーフと表現しても過言ではないくらいの役割を果たしている。だから今回の関西フィル定期演奏会は図らずも福永武彦特集になっていたことに後になって気が付いた。行ってよかった。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月15日 (水)

朝日のような夕日を連れて 2014

8月29日(金)森ノ宮ピロティホールへ。

Asa

1981年初演。第三舞台の旗揚げ公演であると同時に当時22歳だった鴻上尚史の処女作であり代表作。オリジナルの舞台はベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」とルービックキューブをモチーフにしていたが、今回の再演で登場するおもちゃ会社が扱うのはコンピューター・ゲームになっている。

出演者は初演から演じている大高洋夫と小須田康人(1983年の再演に初出演)に加え、藤井隆、伊礼彼方、玉置玲央。

鴻上尚史が最近話題になることは全くなく「ただの人」だけれど、若い頃にはものすごい才能があったんだなぁと感嘆した。25歳で最高傑作「市民ケーン」を撮ったオーソン・ウェルズみたいだ。現代日本の様相と1940年代終わりに書かれた古典「ゴドーを待ちながら」がクロスオーバーし、熱を帯び発火していくことの奇跡。ごった煮、混沌とした面白さがあった。また観たい。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

いまを生きる

首吊り自殺したロビン・ウィリアムスの追悼として映画「いまを生きる」(Dead Poets Society , 1989)を鑑賞した。初めて観たのが24歳くらいで、その時はただただ退屈でしかなかった。しかし久しぶりに再見し、言わんとすること/アカデミー(オリジナル)脚本賞を受賞し、現在も「不朽の名作」として語り継がれる意味が漸く理解出来た。「死せる詩人の会」という原題が示すように詩の引用が多く、字幕では中々真意が伝わりにくいもどかしさがあるなと今回感じた。

Carpe_diem

ロビン・ウィリアムス演じる教師が全寮制学校の生徒に教える言葉として、カルペ・ディエムCarpe Diemというラテン語が出てくる。「その日を摘め」「一日の花を摘め」という意味で、英語ではseize the day(その日をつかめ)と訳される。紀元前1世紀・古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句で、一日一日を大切に生きろという意味である。

これはメメント・モリMemento Mori=「死を想え」「死を記憶せよ」とほぼ同義語だと言える。西洋の静物画によく机の上に乗った頭蓋骨が登場するが、あれはMemento Moriを象徴している。どうせ自分はいつか必ず死ぬのだから、今を愉しめという警句である。

Pieter
ピーテル・クラース(クラースゾーン)「ヴァニタス」1630年

V_2
ポール・セザンヌ「頭蓋骨と果物」1895-1900

「ダークナイト」「インセプション」のクリストファー・ノーラン監督の出世作「メメント」(2000)は当然、Memento Moriに由来する。

これらの言葉はイギリスの詩人ロバート・ヘリック(1591-1674)の「時を惜しめと、乙女たちに告ぐ(To the Virgins, to Make Much of Time)」と密接に結びついている。次のような詩句だ。

Gather ye rose-buds while ye may,
Old Time is still a-flying:
And this same flower that smiles today
Tomorrow will be dying.

まだ間に合ううちに薔薇の蕾を摘むがいい
時は飛ぶように過ぎ去ってゆくのだから
今日微笑んでいるこの花も
明日には枯れてしまうだろう

そして大正時代に流行った「ゴンドラの唄」(吉井勇 作詞/中山晋平 作曲)は恐らくロバート・ヘリックの詩に基づいている。

この歌は黒澤明監督の映画「生きる」のクライマックスに登場する。志村喬演じる主人公は市役所の市民課長。ある日彼は自分が胃がんで余命いくばくもないことを知る。形式主義がはびこり、公園を作って欲しいという市民の要望をたらい回しにする組織(お役所仕事)の中で彼は奔走し、漸く完成させる。雪の中でそのブランコに揺られ、彼が歌うのが「ゴンドラの唄」。そしてそのままひっそりと息を引き取る。翌日、公園は子どもたちの笑い声で溢れていた。……カルペ・ディエムの精神がこの映画に息づいている。

そして僕はいま、3歳の息子にこの言葉を送りたいと想う。悔いのない人生を!

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月14日 (火)

日本では稀な本格的ミュージカル映画「舞妓はレディ」

僕は世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」(1927)以降の、古今東西ありとあらゆるミュージカル映画を観てきたという自負がある。しかし黒澤・小津・溝口に代表される偉大な伝統を誇る日本映画においては、残念ながらこのジャンルは長年不毛だったと断じざるを得ない。僕が傑作だと手放しで褒められる和製ミュージカル映画はオペレッタ時代劇「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博 監督、1939)ただ1本しかない(なんたってあの志村喬が歌う!その無類の愉しさときたら)。クレイジーキャッツの「ニッポン無責任時代」(1962)も名作だが、如何せん歌の数が少なく、セミ・ミュージカルとしか定義出来ない。近年では「愛と誠」(妻夫木聡、武井咲主演/三池崇史監督、2012)みたいな試みもあるが、お世辞にも出来が良いとは言い難い。アニメに関してもディズニー映画は「白雪姫」から「アナと雪の女王」までミュージカルを基本にしているが、日本での成功例は皆無だ。

だから周防正行監督の「舞妓はレディ」は日本映画としては実に70年以上ぶりの本格的ミュージカル映画の誕生であると手放しで賞賛したい。公式サイトはこちら。周防監督がミュージカル?という意外性はあるが、考えてみればハリウッドでリメイクもされた「Shall we ダンス?」はタイトルそのものからしてミュージカル「王様と私」のナンバーであった。ちなみに本作に出演している高嶋政宏は舞台「王様と私」で主役を演じている。また「Shall we ダンス?」から草刈民代、渡辺えり、竹中直人らが再結集しているのも嬉しい。

評価:A

Maiko

「マイコハレディ」という語感は言うまでもなく「マイ・フェア・レディ」のパロディである。言語学者が登場したりと物語も明らかに同ミュージカルを踏襲している。特に「マイ・フェア・レディ」の有名な歌、「スペインの雨は主に広野に降る」(The rain in Spain stays mainly in the plain. )が、「京都の雨はたいがい盆地に降る」に置き換えられているのには爆笑した。高嶋政宏の役どころはさしずめ「マイ・フェア・レディ」でトランシルヴァニア大使館の舞踏会シーンに登場し、「ヒギンズの弟子」を自称するハンガリーの言語学者に相当すると言えるだろう。

主人公の少女が鹿児島弁と津軽弁をごっちゃにして喋る(ハイブリッド)という設定が秀逸。本州の最南端と最北端という極端さが可笑しい。また舞妓のアルバイトという役柄でAKB48の武藤十夢(千葉県出身という設定)とSKE48の松井珠理奈(名古屋弁を喋る)が登場するのも愉しい。楽曲も良かった。

基本的にはコメディだが、舞妓という職業の暗黒面(ダーク・サイド)にもきちんと言及しており、抜かりがない。伏線の張り方も実に巧みで、ウェル・メイドな秀作である。

次の和製ミュージカル映画としては舞台「オケピ!」の実績がある三谷幸喜に期待したい。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月11日 (土)

城田優 主演/ミュージカル「ファントム」

10月6日(月)梅田芸術劇場へ。ミュージカル「ファントム」を鑑賞。公式サイトはこちら

Phantom

この作品とロイド=ウェバー版「オペラ座の怪人」の関係性については下記記事で詳しく述べた。

僕は今まで「ファントム」を3人の演出家で観ている。大沢たかお版は鈴木勝秀の演出が悲惨でお話にならなかった。最低最悪、消したい記憶だ。宝塚版の中村一徳もそこそこ(凡庸)。今回のダニエル・カトナー(ハロルド・プリンスの弟子)バージョンが最も優れていた。演出により作品が輝くことを実感。スピード感溢れる舞台転換が鮮やかだし、特にピアノに座ったエリック(=ファントム)がクリスティーヌに歌のレッスンをする"You Are Music"(君は音楽)のナンバー、

Oh, you are music, beautiful music
And you are light to me
(ごめん、日本語歌詞は覚えていない)

の箇所でクリスティーヌだけにスポットライトが当てられフッと明るくなり、やがてスッと暗くなる演出には感動した。 そう、彼にとってクリスティーヌは、暗闇の中で見出した唯一の光なのだ。また、仮面の下の醜い素顔を全く見せない(特殊メイクを施さない)方針も納得がいった。この作品に見世物小屋的オカルト要素は不要である。観客の想像力で補えばいい。(今後再演があるなら)宝塚版も見倣うべきだ。途中登場する「暗い森」の雰囲気も素敵だった。

今回改めて、原作は同じなのに「オペラ座の怪人」と「ファントム」は完全に異なる作品だなぁと痛感した。それはただ単に作詞・作曲家が別人ということだけではない。

「オペラ座の怪人」が初演された時(1986年)、作曲したアンドリュー=ロイド・ウェバーは38歳、ファントムを演じたマイケル・クロフォードが44歳、クリスティーヌ役のサラ・ブライトマンが26歳だった。そして84年から90年までウェバーとサラは結婚生活を送っている。本作はクリスティーヌがファントムを通して死んだ父親の幻影を見るというファザコンの話しであり、ファントムはあくまでも醜いおっさんで、ウェバーは明らかにそこにサラに対する自分の恋愛感情を重ねている。「オペラ座の怪人」25周年記念コンサートで彼はサラを"My angel of music !"(ファントムがクリスティーヌを呼ぶ名称)と紹介しているしね。

一方の「ファントム」は主人公エリックがクリスティーヌの美しい歌声を聴いて、死んだ自分の母親の面影を思い描く。つまりマザコンの物語なのである。エリックのイメージは初々しい20歳代の若者で、「ぼく」という一人称がよく似合う。「オペラ座の怪人」は「私」だ。

P2

タイトルロールの城田優は傷つきやすい青年像を描き、申し分ないはまり役。背が高く舞台映えするし、ヴォイス・トレーニングの成果か以前より歌も随分上手くなった。ヒロインの山下リオ(「あまちゃん」の宮下アユミ役)は声量が乏しいが、綺麗な声で音程もしっかりしている。なにより可愛いし、顔が小さい!これが初舞台とは信じられないくらい健闘いていた。マルシアはコミカルな演技で笑わせてくれるし、歌姫カルロッタとして歌唱力にも不満なし(前回同役を演じた大西ユカリは全くオペラ歌手とかけ離れた歌唱で、怒り心頭に発した)。吉田栄作の歌はいただけないが、演技力でそれをカバー。最後エリックとのデュエットに僕は滂沱の涙を流した。それまで猫背だったのに、この歌でスッと背筋が伸びるんだよね。

是非このダニエル・カトナー演出版で再演して欲しいし、城田優と山下リオには続投を期待する。嗚呼、どうしてももう一度観たい!

| | | コメント (6) | トラックバック (1)

2014年10月 7日 (火)

映画「ジャージー・ボーイズ」

評価:B+

トニー賞で作品賞を受賞した(いわゆるジュークボックス・)ミュージカルの映画化である。公式サイトはこちら

Jerseyboysposter

ニュージャージーの貧しい若者たちが結成した実在のグループ ”ザ・フォー・シーズンズ” の栄光と挫折。その光と影を描く。伝説的リード・ボーカル、フランキー・ヴァリを演じるのは同役でトニー賞を受賞したジョン・ロイド・ヤング。その他にも舞台で演じた役者たちが何人か映画版に起用されている。脚本も舞台版と同じコンビが執筆。監督はクリント・イーストウッド。御年84歳である。

イーストウッドがブロードウェイ・ミュージカル!?と意外な印象を覚えるが、考えてみれば彼は熱心なジャズ・ファンで自分で作曲もするし、稀代のサックス奏者チャーリー・パーカーの伝記映画「バード」も撮っている。80歳を過ぎても製作意欲が衰えず、どんどん新しいことに挑戦する姿勢には頭が下がる。登場人物たちが突然、カメラに向かって(つまり観客に直接)喋り出す手法も彼の映画では初めてではないだろうか?

2012年、イーストウッドはビヨンセ主演でミュージカル映画「スター誕生」のリメイクを準備していた。しかし撮影直前になりビヨンセの妊娠が発覚、企画は頓挫した。「ジャージー・ボーイズ」はその遺恨を晴らす意味もあったのだろう。

観ていて既視感を覚えた。仲間割れして崩壊していくプロセスはミュージカル「ドリームガールズ」との共通点が多い。「ドリームガールズ」はダイアナ・ロスらがメンバーだった女性ボーカル・グループ ”ザ・スプリームス” をモデルにしている。ザ・ビートルズもそうだが、欧米のこうしたグループは多かれ少なかれ似たような軌跡をたどるのだなと感じた。我が国で少ないのは和を尊ぶ民族だからだろうか?

しかし最後まで観ると「ドリームガールズ」とは異なる後味がある。それはこの4人が、まるで兄弟のように描かれているからである。駄目なお兄ちゃんにしっかり者の弟。諍いは絶えないがそれでも見捨てられない腐れ縁。そう、ある意味ルキノ・ヴィスコンティ監督のイタリア映画「若者のすべて(原題は『ロッコとその兄弟』)」に近い。ザ・フォー・シーズンズはイタリア系だしね。マフィアも登場するし(クリストファー・ウォーケンの存在感が素晴らしい)彼らは”ファミリー”なのだ。「ゴッドファーザー」的とも言えるだろう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月 4日 (土)

「ノン・ヴィブラート原理主義者」ノリントン、いずみホールで大いに暴れる。

10月2日(木)いずみホールへ。

ロジャー・ノリントン/チューリッヒ室内管弦楽団HJ リム(ピアノ)で、オール・モーツァルト・プログラム。

  • 交響曲 第1番
  • ピアノ協奏曲 第21番
  • 交響曲 第41番

韓国→香港→タイとめぐるアジア・ツアーの合間にやってきた彼ら。日本公演はここ大阪のみという贅沢さ。ざまあみろ東京。常に自分たちが文化の中心にいると思うなよ。

1980年代にノリントンが古楽器のロンドン・クラシカル・プレーヤーズとベートーヴェンやモーツァルトなどを録音していた頃は「学術的根拠に基づいて演っているのだろうな」と好意的に受け止めていた。マーラーを、ノリントンの言うところのピュア・トーンpure tone=ノン・ヴィブラートで奏でることについても、1938年にワルター/ウィーン・フィルが録音した交響曲第9番を例に挙げて「この時代はノン・ヴィブラートで演奏するのが当たり前だった」という理屈を彼が展開しているのを耳にして、「成る程」と感心したものだ。

ところが、である。NHK交響楽団と共演したエルガーやヴォーン・ウィリアムズの交響曲(20世紀の作品)までいわゆるピュア・トーンで弾かせるのを聴いて、「ノリントンって時代考証とか御託はどうでもよくて(所詮は言い訳)、ただ単にピュア・トーンが好きってことなんだな」と得心が行った。そこで僕が名付けたのが「ノン・ヴィブラート原理主義者」。だってその通りでしょ?

しかしプロムス・ラストナイト@ロイヤル・アルバート・ホール(収容人数約7,000人)の指揮者に抜擢されたノリントンは「ピュア・トーンで行く!」と宣言したものの、マスコミや音楽関係者から猛反発を喰らい、結局抵抗勢力に屈してエルガーの「威風堂々」が通常営業(普通にヴィブラート)に終わったのは実に残念だった。急進的な原理主義者も時には挫折を味わうことがあるのだ。

さて、演奏の感想に移ろう。オケは古典的対向配置、クラシカル・ティンパニを使用(”バロック・ティンパニ”という用語を使う人がいるが、モーツァルトはバロック時代の作曲家ではないので齟齬が生じる)。交響曲でノリントンは指揮台を使わず立って指揮、管楽器奏者も起立して演奏した。協奏曲でピアノは反響板を外しステージ中央に縦に置かれた。つまりピアニストは客席に背を向け、ピアノの奥に回転椅子を置いてそこにノリントンが陣取る。そして何と!弦楽奏者は指揮者に向かって放射状に配置。ノリントンはピアニストと見つめ合う形でタクトを振り下ろす。つまり客席に向いて指揮し始めたのだ。「なんじゃこりゃあ!(by 松田優作)」”胡散臭い見世物小屋の興行主”(←僕のイメージ)の面目躍如。聴衆を煙に巻き、怪しさ爆発。「私が(音楽という)宇宙の中心である」という宣言だと僕は受け止めた。

モーツァルトの交響曲第1番と41番という組み合わせは、最初と最後というだけではなく大きな意味を持っている。8歳の時に作曲した第1番 第2楽章の後半部でホルンがジュピター音型(第41番 終楽章に登場する「ドレファミ」という第1主題)を吹くのである。なんという完結性。天才のみ成せる技と言えるだろう。

第1番でノリントンは強弱を強調。スマートな演奏でスポーツ・カーが海岸線をすっ飛ばしている情景が目に浮かんだ。最後はクルッと客席の方を振り返り、「どうです、お気に召しました?」とドヤ顔。愛嬌のある好々爺である。

韓国出身のリムが弾くピアノはモダンで切れがある。何だかジャズのジャム・セッションを聴いているような錯覚を覚えた。スリリングかつエキサイティング、意表を突くカデンツァにも呆気にとられた。これは作曲家でピアニストとしてアルゲリッチと共演したこともあるアレクサンドル・ラビノヴィチ=バラコフスキー(1945- )作とのこと。「楽しけりゃ、何でもありのノリントンでっせ」という感じ。

「ジュピター」はのっけから驚かされた。第1楽章 第1主題「ド、(3連符)ソラシ ド、(3連符)ソラシ ド」がクレッシェンドで開始されたのである!帰宅してスコアを確かめてみたがf(フォルテ)としか記載がない。念のためブリュッヘン、ガーディナー、コープマン、インマゼールら古楽系指揮者の録音を確かめてみたが、誰もクレッシェンドなんかしていない(唯一、アーノンクール/ロイヤル・コンセルトヘボウの演奏に若干そのニアンスがあった)。あくまでオレ流を貫くノリントン、天晴なり。清新な「ジュピター」だった。第4楽章は疾風怒濤。最後は曇天の間から強烈な陽光が差し込む。それは神の啓示であり、正に宗教的体験だった。

アンコールは「ジュピター」第4楽章を繰り返すも展開部からという仕掛け。テンポも変えてきてさすが一筋縄ではいかない指揮者だ。

お茶目な異端児ノリントン、万歳!

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »