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2014年7月

2014年7月29日 (火)

五嶋みどり&Young Artists/活動報告コンサート

6月21日(土)ザ・フェニックスホールへ。

五嶋みどり(ヴァイオリン/大阪府枚方市出身)、ガヒョン・チョウ(ヴァイオリン/韓国出身)、ウィリアム・フランプトン(ヴィオラ/アメリカ出身)、マイケル・カッツ(チェロ/イスラエル出身)で、

  • ヴォルフ/セレナーデ
  • フォーレ/弦楽四重奏曲 ホ短調
  • 活動報告
  • チャイコフスキー/弦楽四重奏曲 第1番

ヴォルフはイタリアの陽光を感じさせた。

フォーレが晩年に作曲した弦楽四重奏曲は渋い。ヴィヴラートを抑制し、甘くない演奏。

チャイコフスキーは瑞々しいと同時に禁欲的で、緊密なアンサンブルだった。

第2楽章アンダンテ・カンタービレを聴くと否応なく大林宣彦監督の映画「転校生」を想い出し、懐かしかった。

活動報告ではNPO法人ミュージック・シェアリングとしてこのメンバーで昨年12月にミャンマーを訪れ、約2週間で4都市14ヶ所の学校、病院、難民キャンプなどでコンサートを開催したことがスライドを交えてプレゼンテーションされた。水道が通っていない地区もあったという。

五嶋みどりという人は本当に尊敬に値する女性だ、と改めて想った。

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映画「her/世界でひとつの彼女」

評価:A-

Hermovie

米アカデミー賞でオリジナル脚本賞を受賞。公式サイトはこちら

脚本・監督は怪作「マルコヴィッチの穴」でデビューし、その後も「アダプテーション」などヘンテコな映画を撮ってきたスパイク・ジョーンズ。主演のホアキン・フェニックスや人工知能型OS”サマンサ”役として声だけの出演となったのスカーレット・ヨハンソンが素晴らしい。

動くロボットではなく音声対応で人間の指示に従うAI(人工知能)が映画に初めて登場したのは恐らく「2001年宇宙の旅」(1968)のHAL 9000ではないだろうか?あれから約半世紀。サマンサはiPhoneにおけるSiriがモデルと思われるが、その進化は目覚しい。これは新しい形の恋愛映画と言えるだろう。人間という存在の、否応ない孤独感が身に沁みる。

画面の何処かに、必ず赤やオレンジといった暖色系の色彩を配する演出がお洒落。サマンサがいなくなると、その色彩も消え、世界は色褪せるのだ。

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映画「ノア 約束の舟」

評価:C

本当は1ヶ月くらい前に観ていたのだが、今まで放置していた。だって詰まんないんだもん。ダーレン・アロノフスキー監督作は「レスラー」とか「ブラック・スワン」とか好きなのだが、これには失望した。

映画公式サイトはこちら

ノアが方舟を作った時点で「地球を救済するには人類が滅びるしかない」と決意していたという解釈は新鮮で面白いと想った。宮﨑駿の思想に似ている(「崖の上のポニョ」なんか、ポニョと宗介以外全員死亡という話だからね。ふたりは新人類としてリセットされた地球を生きる。詳しくは→こちらで論じた)。でも途中から「愛は地球を救う」みたいな陳腐な話になっちゃって腰砕け。アホくさ。観る価値があるのは特撮だけ。

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2014年7月23日 (水)

どうして主人公の少女の瞳は青いのか?〜映画「思い出のマーニー」

評価:B

Ma

映画公式サイトはこちら

原作は1967年にジョーン・G・ロビンソン(女性)が上梓した英国の児童文学である。その舞台を北海道の湿原に置き換え翻案している。恐らく原作に敬意を払った結果なのだろう、アンナとマーニーという名前を残したために無理が生じている。そもそも主人公の少女・杏奈の目が青いという時点で、この映画の重要な秘密のネタバレになっているのだからいただけない。もしそれに気づかなかった観客がいたとしたら、正真正銘の子供か、単なる間抜け(=関西では”アホ”とも言う)である。原作通りイギリスを舞台にしてアニメを製作するか、翻案したいのなら思い切ってマーニーの名前を変更し、日本人にするべきだったと僕は想う。脚色が中途半端なんだよ。また設定が偶然に頼り過ぎでご都合主義、詰めも甘い。

まあそういった疵もあるが、僕は基本的にこの作品世界は好きである。さすがスタジオ・ジブリ、背景美術も丁寧に書き込まれていて美しい。

僕が本作を観ながら思い出した映画が3本ある。それらについて書いていこう。きっとより深く理解する上で役に立つと想うから。

まずは「ジェニーの肖像」(1948、米)。原作は1938年に刊行されたロバート・ネイサンの幻想文学である。少女の幻想の立ち現れ方が似ているし、特にマーニーがサイロで嵐に怯える場面は「ジェニーの肖像」の灯台の場面を彷彿とさせる。

そしてジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「わが青春のマリアンヌ」(1955、仏)。原作はドイツのペーター・ド・メンデルスゾーンが書いた「痛ましきアルカディア」。霧に包まれた湖の対岸にある古城に幽霊が現れ、主人公がボートを漕いで訪ねて行くという設定がそっくりだ。松本零士がこの映画を偏愛しており、ヒロインのイメージがメーテルの造形に多大な影響を与えていることは余りにも有名。「わが青春のアルカディア」という作品も書いているしね。

また「思い出のマーニー」では主人公が幼いころ母が歌ってくれた子守唄としてタレガ作曲のギター独奏曲「アルハンブラの思い出」が使用されている(劇中では歌詞のないヴォカリーズとして歌われる)。これを聴いてギレルモ・デル・トロ監督のダーク・ファンタジー映画「パンズ・ラビリンス」(2006)の子守唄が脳裏に蘇ってきた。今初めて気がついたのだが両者は明らかに似ている。「パンズ・ラビリンス」がスペイン内戦を背景としており、タレガもスペイン人というのは決して偶然ではないだろう。「パンズ・ラビリンス」は一人の孤独な少女が空想する(現実逃避の)世界を描いているが、「思い出のマーニー」との共通点も多い。もしかしたら米林宏昌監督はこの映画が好きなのかも知れないな、とふと想った。

色々欠点もあるが、偉大なる宮﨑駿の影響を逃れて米林監督はよく頑張った。その健闘を讃えたい。

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2014年7月22日 (火)

「動物たちとのワンダーランド」あるいは、ミニマル・ミュージックって、何?〜いずみシンフォニエッタ大阪 定期

7月12日(土)いずみホールへ。

飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会を聴く。コンサートは16時からだが14時半から作曲家・川島素晴氏によるレクチャーがあり、15時半から2台のピアノによるプレ・コンサートと盛り沢山。

プレ・コンサートでは「ミニマル音楽」の開祖スティーヴ・ライヒ作曲Piano Phase (1967)が碇山典子と永野英樹(ピエール・ブーレーズ率いるアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ・ピアニスト)により演奏された。

本編のプログラムは、

  • ライヒ/ヴァイブ、ピアノ、弦楽のための変奏曲(日本初演)
  • 川島素晴/セロ弾きのゴーシュ
  • サン=サーンス/組曲「動物の謝肉祭」

まずリハーサル室で開催されたレクチャーについて様子を書いていこう。参加したのは11名。楽譜が配布され、川島氏はピアノを弾きながら解説された。

ライヒのPiano Phaseは短い旋律が繰り返されるが、第2奏者の演奏がちょっとずつ(前のめりに)ズレる。その位相(反復)のズレが摩訶不思議な効果を生む。また「ヴァイブ、ピアノ、弦楽のための変奏曲」ではグレゴリアン・チャントでお馴染みのドリア旋法(六番目の音が高い短音階)が用いられていると。旋律は転調し、システマティックに変化してゆく。ライヒ自身はそのサウンドを「銀の響き」と呼んだ。ドリア旋法は「動物の謝肉祭」序奏でも登場し、その旋律をひっくり返す(逆奏する)と、なんと有名な「白鳥」になるという!恐るべし、サン=サーンス。また川島氏の「セロ弾きのゴーシュ」に登場する「食い倒れシンフォニー」は完全な現代音楽で、フルートの「ジェット・ホイッスル」とかクラリネットの「重音奏法(multiphonic)」など特殊奏法が駆使されている。

時間が押していたのでその場で質問出来なかったのだが、後で川島氏にtwitterで僕が長年抱いていた疑問を尋ねてみた。それは、「1960年代にアメリカでミニマル・ミュージックが興るが、その直前の1954年に伊福部昭が映画『ゴジラ』のために作曲した音楽に短い旋律の執拗な反復があり、その技法はオスティナートと呼ばれている。ではオスティナートとミニマル・ミュージックはどう違うのか?」というもの。川島氏から丁寧な回答を頂き、オスティナートはオルフの作品、ラヴェルのボレロや中世のリズム定型にまで遡れるもので、反復する要素以外のものを含みその部分は変化することを前提にしている。初期ミニマルは反復とそのズレのみが作品構造をなしている点で異なる。但し、その後のポストミニマル世代は反復パート以外の要素もあるので、オスティナートの書法とさほどかわらないとも言える。とのことであった。なる程、謎が漸く解けた。ちなみに映画「ピアノ・レッスン」の作曲家マイケル・ナイマンや宮崎アニメでお馴染みの久石譲もミニマリストである。

プレ・コンサートのPiano Phaseは奏者が微妙なズレを相手に釣られることもなく、よく正確に弾けるなぁと甚く感心した。

さて、本編。「ヴァイブ、ピアノ、弦楽のための変奏曲」には透明感があった。音楽は優しく聴衆を包み、浄化する。気持ちよかった。

なお、企画・監修をした作曲家・西村朗氏が、友人の作曲家・吉松隆が語った次のような説を紹介した。アメリカの子どもたちは宿題をせず学校に行くと、先生から当たり前のように「私は二度と宿題を忘れません」と黒板に100回書かされたりする。彼の国でミニマル・ミュージックが生まれた背景にはそういう反復の記憶(トラウマ)があるのではないかと。

続く「セロ弾きのゴーシュ」は宮沢賢治の出身地・岩手県に近い仙台で2004年に初演された。その時の劇中曲は「ササニシキ・シンフォニー」と呼ばれたが、今回の大阪改訂版は「食い倒れシンフォニー」となった。ソプラノ歌手・太田真紀の大阪弁による語りが絶妙。何しろ演技が達者だ。猫や狸、鼠が登場し人間と会話する場面は上方落語「狸賽」「仔猫」「猫の忠信」などを想い出させた。つまり大阪弁がはまっていたということである。母ネズミがお受験に疲れた仔ネズミを癒やす歌はメロディアスでロマン漂い、ちょっとスティーヴン・ソンドハイム風。チンドン屋やくいだおれ太郎を連想させる「食い倒れシンフォニー」は遊び心とメルヘンに溢れ、現代音楽って面白い、愉しい!と感じさせる、画期的作品であった。

ソリスト(チェロ:丸山泰雄)のアンコールは宮沢賢治の原作に登場する「インドの虎刈り」という独奏曲が実際にあったとしたらこんな感じだろうと、ジョヴァンニ・ソッリマ/ラメント

つい先日も書いたが、サン=サーンスはドビュッシーやラヴェルら印象派の作曲家と比較すると、過小評価されていると僕は確信している。彼は博学で(天文学や数学、絵画に造詣が深く、詩作も数多く残したという)機知に富み、頭が良すぎて嫌味な性格だったので同時代の作曲家や知識人たちからは嫌われていたらしい。「動物の謝肉祭」にピアニストが登場するのもブラック・ジョークだし、”耳の長い登場人物”=ロバとは、自作に対して手厳しい評論家のことを揶揄しているそうだ。自作「死の舞踏」のテーマを引用して「化石」と称するのも自虐ギャグである。一方で「亀」はオッフェンバックの「天国と地獄」をゆっくり演奏するというパロディだけではなく、ぶつかる音(非和声音)の解決を引き伸ばし、聴き手を苛立たせるなど、周到な仕掛けが施されている。曲目解説で川島氏は本作を「19世紀フランスが生んだ最もラディカルな音楽」と評しているが、たしかに前衛的かつ凄い作品であることが、今回しみじみとよく分かった。それにしてもいずみシンフォニエッタ大阪の演奏は「水族館」のキラキラ感が半端なかった。

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2014年7月19日 (土)

ホルンにブラヴィッシモ!!〜スダーン/大フィルのブルックナー

7月18日(金)フェスティバルホールへ。

ユベール・スダーン/大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く。

  • シューベルト/交響曲 第5番
  • ブルックナー/交響曲 第4番「ロマンティック」

スダーンのシューベルトは拍子が明快、軽やかで瞬発力がある。転調が連続する第2楽章はニュアンス豊かで動的。第3楽章は勢いとキレがあり、第4楽章は俊敏だった。

僕は今まで散々このオケについて「弦高管低」とか「トランペットとホルンが大フィルのアキレス腱」と叩いてきたが、今年1月首席に高橋将純が就任してからのホルン・パートの充実ぶりが目覚ましい。ブルックナーの「ロマンティック」も冒頭からホルンが朗々と鳴り響き、実に気持ち良い。安心してホルンが聴けるのはなんという歓びだろう!こんな経験は今まで一度もなかったことだ。一方、相変わらずトランペットは第3楽章スケルツォでもたつき、オーケストラの足を引っ張る。Tpが加わると、アンサンブルに綻びが生じる。情けない。

スダーンは速いテンポでオケを推進し、健康的で爽やか。粘り腰とは無縁なので、朝比奈の鈍重なブルックナーに親しんできた者にとってはあっさりし過ぎで物足りないかも知れない。しかし僕はこれもありだと想う。

第2楽章アンダンテもリズミカルで透明感がった。第4楽章 第2主題で「えっ、これって舞踏音楽(dance music)だったんだ」と感じたのはこの演奏が初めて。農民たちの愉しい踊りが目の前に幻視された。

スダーンのブルックナーは多分主流の解釈ではない。しかし僕はまた聴きたいと希う。

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2014年7月16日 (水)

映画「渇き。」

評価:A-

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問題作である。巷では賛否両論喧しく、嫌いな人は吐き捨てるように罵倒する。キャッチコピーは「愛する娘は、バケモノでした。」「あなたの理性をぶっ飛ばす劇薬エンターテイメント!!」。公式サイトはこちら

監督は「告白」でも物議を醸した中島哲也。主演は役所広司、その娘・可奈子を小松菜奈(18)が演じる。また「告白」「あまちゃん」の橋本愛、「私の男」の二階堂ふみなど旬の女優たちが脇を固めている。

118分の上映時間中、観客は黒板を爪で引っ掻く音を始終聞かせれるような生理的不快感を強いられる。中島監督は意図的に人の神経を逆なでするような作品に仕上げた。「告白」よりも悪意は遥かに増幅され、パワーアップている。レイティングはR-15だが、R-18でもいいんじゃないか。それぐらい過激である。

小松菜奈の役どころはいわば「魔性の女」=ファム・ファタールである。この女のためならどこまでも落ちていきたい、破滅しても構わないと、どんな男でも覚悟する。そんな感じ。彼女はファッションモデル出身だし可愛い顔なので「小悪魔的」と評したいところだが、どうしてどうして、とんでもない悪魔、正真正銘のボス・キャラである。

中島監督の演出スタイルはこれまでの作品「下妻物語」「嫌われ松子の一生」「告白」などとはぜんぜん違う。僕は鈴木清順のアヴァンギャルド(「野獣の青春」「けんかえれじい」「東京流れ者」「殺しの烙印」)に近いと感じた。本作で役所広司が演じる元・刑事役は、まるで清順映画における宍戸錠みたいに破天荒・破れかぶれだしね。

本作が好きかと問われたら答えはNo.だ。観ていて気持ちが良いものではないし、他者にもお勧めしない。しかし紛れもない傑作であることは決して否定出来ない。嫌いだけれど作品の有する圧倒的力は認めざるを得ない。そういう立場だ。これを悪しざまに罵る連中は何も分かっちゃいねーんだよ。

物語の冒頭、役所広司が狂犬のように叫ぶ「ぶっ殺す!」という台詞と、小松菜奈が耳元で囁く「アイシテル」が対比されるが、そのギャップ、振幅の大きさが映画のリズムとなり、人間とはどういう存在かを観客に突きつける刃となる。出来ることなら目を逸らしたい。しかし、(残念ながら)ここには紛れもなく不都合な真実があるのだ。

余談だが中島監督が実写版「進撃の巨人」映画化プロジェクトから降板したのは返す返すも残念だ(その代わりが「ローレライ」「日本沈没」の樋口真嗣って……)。

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2014年7月15日 (火)

DOCUMENTARY of AKB48 The time has come 少女たちは、今、その背中に何を想う?

評価:A

映画公式サイトはこちら。AKB48のドキュメンタリー第4弾である。僕は全て観ているが、寒竹ゆりが監督した第1作は凡庸で、救いようのない駄作であった。しかし、メジャーデビュー間もない頃の「軽蔑していた愛情」から彼女たちのMVを多数撮ってきた高橋栄樹監督にバトンタッチして以降の3作は見違えるほどの完成度の高さを誇ることになる。特に3・11東日本大震災と、西武ドームでのコンサートで楽屋裏では過呼吸で倒れた前田敦子が果敢にステージに立つ姿に焦点を当てた第2作は掛け値なしの大傑作であった。

第2作ほど大きなテーマがなく、前田敦子の卒業と「センター=立ち位置0とは一体、彼女たちにとって何を意味するのか?」を問う第3作は些かトーンダウンの印象を拭い去れなかった。もうネタ切れかな?と僕は想った。実際、毎年2月に新作が公開されていたのに今年は音沙汰がなかった。しかし、約半年遅れてこの7月に第4作が登場した。恐らく大島優子卒業を待っての、このタイミングなのだろう。そうこうしている間に世間を震撼させた握手会襲撃事件が偶然発生し、ちゃっかり盛り込まれた。時期をずらした価値は十二分にあったのだ

第2作の時もそうだったが、本作を観てつくづく身に沁みるのは「これは戦争映画だ!」ということ。ある人が本作を「これは高橋版『仁義なき戦い 代理戦争』だ」と評したが、言い得て妙である。

AKBグループのメンバーが置かれた状況は余りにも過酷である。弱肉強食、一瞬でも気を抜いたものは生き残れない。かといって努力だけでは報われない。運(例えば生まれ持った容姿・資質)にも左右される。「運命の女神は果たして自分に微笑んでくれるのか?」どうかは誰にも分からない。四面楚歌、周囲は敵ばかり。秋元康を含む運営スタッフも決して味方ではない。ある日突然「大組閣祭り」と称して地方へ飛ばされる女の子もいる。人事異動についての説明は一切ない。何が起こっているのか、全く状況が把握出来ない。彼女たちは一瞬にしてパニックとなり極限状態に追い詰められる。非情だ。しかし、そこから何かが生まれる。それを秋元(=運命の女神、いや悪魔?)は狙っているのだが……。

大組閣で名古屋のSKE48の移籍を命じられた佐藤すみれや大阪のNMB48に行くことになった藤江れいなは、発表の瞬間立っていることも出来ず泣き崩れるが、翌日のインタビューでは既に立ち直り、前向きなコメントをしているのが印象的だった。彼女たちはタフだ。そういう者のみがこの残酷な世界で生き残れる。

対象となる期間は1年半だが本作はその焦点を昨年12月31日の紅白歌合戦から今年6月の襲撃事件及び総選挙までに絞っている。その狙いは大成功だったと言えるだろう。紅白で卒業発表をする予定の大島優子のリハーサル時の不安そうな顔をカメラはアップで捉える。総監督・高橋みなみ以外のメンバーは未だ誰もその事実を知らない。また優子の卒業セレモニーが行われる予定だった国立競技場ライヴが悪天候で中止になった時、その知らせを聞いた彼女が号泣する瞬間もカメラに収められている。ここで一瞬、無音になる演出もいい。セレモニー中止になる前日ライヴ(曲目はUZA)の畳み掛けるような編集も素晴らしい。さすが高橋監督、数々のMVを撮ってきたキャリアは伊達じゃない。またこの時の舞台がまるでシルクド・ソレイユみたいなアクロバティックな演出で観応えがある。

総選挙でスピーチするメンバーの後ろ姿をキャメラは舞台袖から撮る。雨が激しく降っている。彼女たちの眼の前に広がるのは茫洋たる暗闇。絶対的孤独……。このドキュメンタリーのテーマを象徴する風景である。日本のアイドルの生き様はハードボイルドだ。

また本作には総選挙の順位(36位)に落ち込んでいるこじまこ(小嶋真子、チーム4→K)に対し「今年はあなたの名前を知ってもらう年。来年羽ばたけばいいんだから」と慰める芽野しのぶ(衣装チーフ・デザイナー兼グループ総支配人)の様子とか、公演初日のように舞台上で時めかない自分に対して苛立つ岡田奈々(チーム4)の憂鬱とか、次世代に対する目配りも怠りない。100点満点である。

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2014年7月 8日 (火)

アルド・チッコリーニ with 大阪フィル 定期

6月26日(木)フェスティバルホールへ。

アルド・チッコリーニを迎え下野竜也/大阪フィルハーモニー交響楽団で、

  • ラヴェル/古風なメヌエット
  • サン=サーンス/ピアノ協奏曲 第5番「エジプト風」
  • ドビュッシー/前奏曲集 第1集 より ミンストレル
    (ソリスト・アンコール)
  • ブルックナー/序曲 ト短調
  • ヒンデミット/交響曲「画家マティス」

アルド・チッコリーニはイタリアのナポリ生まれ。フランス国籍を取得し、現在88歳。片手で杖を突き、下野にもう一方の手を引かれステージに登場。ヨボヨボの爺さんで「本当に大丈夫か?」と懸念した。しかしピアノに座った途端、まるで別人。強靭なタッチで明快、曖昧さは全くなく驚嘆した。洗練された響きには透明感があった。アンコールのドビュッシーもリズムに切れがあった。

メンデルスゾーンやサン=サーンスはその実力に比べ、過小評価されていると僕は考えている。サン=サーンスには「印象派」といった分かりやすいレッテルがないし、ベートーヴェンみたいに「苦悩を克服し歓喜へ!」といった明確な音楽的プロットも存在しない。ただ「美」への追求があるのみ。だから一般受けしないのだろう。

ブルックナーの序曲は交響曲を作曲する前の作品。後年彼の特徴となる弦のトレモロ(原始霧)ではなく、主和音の一撃で開始される手法は明らかにベートーヴェンの模倣である(「エグモント」序曲や交響曲第2番など)。あくまで習作の域を出ないが、多少は才能の萌芽も感じられた。

プログラム後半の「画家マティス」は有名な割に実演に接する機会が稀で、ありがたかった。第1楽章「天使の合奏」を経て、第2楽章「埋葬」は夜の音楽。終楽章の下野の指揮ぶりはエネルギッシュで聴き応えがあった。

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2014年7月 4日 (金)

The time has come. 〜映画「私の男」

評価:A+

モスクワ国際映画祭のコンペティション部門で最優秀作品賞・最優秀主演男優賞(浅野忠信)を受賞。公式サイトはこちら

Myman

僕が二階堂ふみを初めて観たのは映画「悪の教典」だったが、特に印象には残らなかった。次に出会ったのはWOWOWで放送された園子温監督「ヒミズ」。最初、「エッ、この映画に宮崎あおいって出てたっけ?」と戸惑った。顔がそっくりだったのだ。強いて言うなら、あおいちゃんをもっと下品にした感じ(ごめんね!)。しかしその後、「脳男」のイカれた役や、強烈な「地獄でなぜ悪い」で彼女は独特な個性・持ち味を発揮し始めた。そして「私の男」である。僕ははっきりと悟った。「遂に二階堂ふみの時代が来た!」と。もう、宮崎あおいに似ているなんて言わせない。二階堂ふみは二階堂ふみでしかない。

この映画で彼女が演じるのはいわゆる「魔性の女」、ファム・ファタールである。真田広之と不倫していた頃の葉月里緒菜みたいな感じ(←分かってもらえるだろうか?)。しかし、例えば東野圭吾の小説「白夜行」のヒロイン雪穂ほど冷酷でも強くもなく、弱いし、繊細だし、寂しがりやでもある。そういう少女の多面性を彼女は完璧に演じ切った。浅野忠信が相変わらず素晴らしいことは言うまでもなく(「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」の彼を想い出した)、今年の映画賞演技部門はふたりが総なめにするだろう。

映画冒頭の10分間ぐらいでジワジワ来た直感は、「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」や中島哲也監督の「告白」、「桐島、部活やめるってよ」「舟を編む」などを映画館で観た時のそれに近いものがあった。つまり、「今年を代表する日本映画にめぐり逢った」という確かな実感である。

「私の男」はアザラシやセイウチの鳴き声を思わせる流氷が軋む音で始まり、指を口で吸ういやらしい音など、印象的な音に満ちている。

また流氷の場面は無論のこと、血の雨がふる中で浅野と二階堂が絡む場面など映像的にも秀逸。特に浅野演じる淳悟が元恋人の小町(河井青葉、32歳)と情交を結ぶ場面で、全裸の小町がベットにうつ伏せになっているのをカメラが俯瞰で捉えるショットには打ちのめされた。彼女の尻のたるみ・シワで、その”老い”を残酷なまでに物語るのである。

二階堂ふみは本作でバストトップを晒すことはないが、それでもエロい作品に仕上がっている。ビンビン感じる。熊切和嘉監督は「エロスとは(何でも)見せることではない」ことを我々に説得力を持って明示した。

ところで藤竜也が「私の男」に出演しているのだが、これは大島渚監督の「愛のコリーダ」や「愛の亡霊」に対する敬意と、その継承の意思表示であるというのは考え過ぎだろうか?

大胆な性描写で世界的に大センセーションを巻き起こし、本国イタリアでは公開後4日にして上映禁止処分を受けたベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラストタンゴ・イン・パリ」よりも「私の男」の方が断然いやらしく、淫らで、インモラルであると僕はここに宣言しよう。大傑作。必見。


以下ネタバレあり、要注意。





淳悟が刑事・田岡(モロ師岡)を殺害した後から、映画は不思議な様相を呈し始める。淳悟と花がどうやって遺体を処理したのか、血に染まった畳はどうしたのか?それら一切が描かれないのである。田岡が彼らを訪ねたことを知っている人物も確かにいる筈なのに警察捜査の手が伸びてこないし、彼らは普通に暮らし続け、花は勤務する会社の専務の息子に嫁いでいく。これは果たして現実の出来事なのだろうか?

そこで僕がはたと気づいたのは、田岡殺害後のシーンの全ては淳悟が見た夢、彼の狂気が生み出した幻想という解釈も成立するのではないか、ということである。実に奥深い映画だ。

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2014年7月 2日 (水)

イザベル・ファウスト&アレクサンドル・メルニコフのブラームス

6月24日(火)いずみホールへ。イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)、アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)で、

  • シューマン、ブラームス、ディートリヒ/F.A.E.ソナタ
  • ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ 第1番「雨の歌」
  • ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ 第2番
  • ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ 第3番
  • シューマン/ロマンス イ長調 Op.94-2(アンコール)

ピリオド・アプローチ(時代奏法)を熟知したファウストは幽(かそけ)きヴィブラートを掛け、モノ・トーンの印象。

F.A.E.ソナタとは名ヴァイオリニストヨーゼフ・ヨアヒムの座右の銘"frei, aber einsam"(自由だが孤独)の頭文字F-A-Eの音名をモチーフとしている。第1楽章はシューマンの弟子で後に「ブラームスの思い出」を執筆したアルベルト・ディートリヒが作曲し、第2と第4楽章をシューマン、第3楽章スケルツォをブラームスが担当した。"frei, aber einsam"(自由だが孤独)という言葉で宝塚宙組「翼ある人びと-ブラームスとクララ・シューマン-」のことを想い出した。ファウストの演奏は軽やかで自然体。のびやかに歌う。第2楽章「間奏曲」は優しく包み込むよう。ブラームスによる第3楽章は才気が迸る。

続くブラームスのソナタは禁欲的で淡い色彩。F.A.E.が1853年の作品で、ブラームスの第1番「雨の歌」が1878-9年だから実に25年の歳月が経過している。いかに彼が慎重だったか窺い知れよう(その間、幾つものソナタが破棄されたという)。

「雨の歌」第3楽章は同名の歌曲の旋律を採っている。その歌詞(詩:クラウス・グロート)は、

雨よ降れ、降れ
子供のころのあの夢を
もう一度呼び覚ましてくれ、
雨水が砂の上で泡立つ時に

(中略)

裸足で雨に打たれ、
草の中に手をさし伸べ、
手で水の泡に触れるのは、
なんと楽しいのだろう

(中略)

身震いのするほど冷たい、全ての雨滴が
降りてきて、この鼓動する胸を冷やし、
こうして、創造の聖なる営みが
私のひそやかな命に忍び入るのだ

素敵でしょう?これはクララ・シューマンが愛した歌曲だったという。ブラームスって、意外とロマンティックだよね。

ソナタ第3番 終楽章のプレスト・アジタートは激しいながらも、同時にクールな演奏だった。

ファウストの弾くブラームスは、決して奏者の自己主張を前面に押し出すことなく控えめで、音楽に寄り添ったものだった。しみじみと、寂しいけれどほんわか心に温かい余韻が残る、素晴らしいコンサートだった。

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