7月12日(土)いずみホールへ。
飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会を聴く。コンサートは16時からだが14時半から作曲家・川島素晴氏によるレクチャーがあり、15時半から2台のピアノによるプレ・コンサートと盛り沢山。
プレ・コンサートでは「ミニマル音楽」の開祖スティーヴ・ライヒ作曲Piano Phase (1967)が碇山典子と永野英樹(ピエール・ブーレーズ率いるアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ・ピアニスト)により演奏された。
本編のプログラムは、
- ライヒ/ヴァイブ、ピアノ、弦楽のための変奏曲(日本初演)
- 川島素晴/セロ弾きのゴーシュ
- サン=サーンス/組曲「動物の謝肉祭」
まずリハーサル室で開催されたレクチャーについて様子を書いていこう。参加したのは11名。楽譜が配布され、川島氏はピアノを弾きながら解説された。
ライヒのPiano Phaseは短い旋律が繰り返されるが、第2奏者の演奏がちょっとずつ(前のめりに)ズレる。その位相(反復)のズレが摩訶不思議な効果を生む。また「ヴァイブ、ピアノ、弦楽のための変奏曲」ではグレゴリアン・チャントでお馴染みのドリア旋法(六番目の音が高い短音階)が用いられていると。旋律は転調し、システマティックに変化してゆく。ライヒ自身はそのサウンドを「銀の響き」と呼んだ。ドリア旋法は「動物の謝肉祭」序奏でも登場し、その旋律をひっくり返す(逆奏する)と、なんと有名な「白鳥」になるという!恐るべし、サン=サーンス。また川島氏の「セロ弾きのゴーシュ」に登場する「食い倒れシンフォニー」は完全な現代音楽で、フルートの「ジェット・ホイッスル」とかクラリネットの「重音奏法(multiphonic)」など特殊奏法が駆使されている。
時間が押していたのでその場で質問出来なかったのだが、後で川島氏にtwitterで僕が長年抱いていた疑問を尋ねてみた。それは、「1960年代にアメリカでミニマル・ミュージックが興るが、その直前の1954年に伊福部昭が映画『ゴジラ』のために作曲した音楽に短い旋律の執拗な反復があり、その技法はオスティナートと呼ばれている。ではオスティナートとミニマル・ミュージックはどう違うのか?」というもの。川島氏から丁寧な回答を頂き、オスティナートはオルフの作品、ラヴェルのボレロや中世のリズム定型にまで遡れるもので、反復する要素以外のものを含みその部分は変化することを前提にしている。初期ミニマルは反復とそのズレのみが作品構造をなしている点で異なる。但し、その後のポストミニマル世代は反復パート以外の要素もあるので、オスティナートの書法とさほどかわらないとも言える。とのことであった。なる程、謎が漸く解けた。ちなみに映画「ピアノ・レッスン」の作曲家マイケル・ナイマンや宮崎アニメでお馴染みの久石譲もミニマリストである。
プレ・コンサートのPiano Phaseは奏者が微妙なズレを相手に釣られることもなく、よく正確に弾けるなぁと甚く感心した。
さて、本編。「ヴァイブ、ピアノ、弦楽のための変奏曲」には透明感があった。音楽は優しく聴衆を包み、浄化する。気持ちよかった。
なお、企画・監修をした作曲家・西村朗氏が、友人の作曲家・吉松隆が語った次のような説を紹介した。アメリカの子どもたちは宿題をせず学校に行くと、先生から当たり前のように「私は二度と宿題を忘れません」と黒板に100回書かされたりする。彼の国でミニマル・ミュージックが生まれた背景にはそういう反復の記憶(トラウマ)があるのではないかと。
続く「セロ弾きのゴーシュ」は宮沢賢治の出身地・岩手県に近い仙台で2004年に初演された。その時の劇中曲は「ササニシキ・シンフォニー」と呼ばれたが、今回の大阪改訂版は「食い倒れシンフォニー」となった。ソプラノ歌手・太田真紀の大阪弁による語りが絶妙。何しろ演技が達者だ。猫や狸、鼠が登場し人間と会話する場面は上方落語「狸賽」「仔猫」「猫の忠信」などを想い出させた。つまり大阪弁がはまっていたということである。母ネズミがお受験に疲れた仔ネズミを癒やす歌はメロディアスでロマン漂い、ちょっとスティーヴン・ソンドハイム風。チンドン屋やくいだおれ太郎を連想させる「食い倒れシンフォニー」は遊び心とメルヘンに溢れ、現代音楽って面白い、愉しい!と感じさせる、画期的作品であった。
ソリスト(チェロ:丸山泰雄)のアンコールは宮沢賢治の原作に登場する「インドの虎刈り」という独奏曲が実際にあったとしたらこんな感じだろうと、ジョヴァンニ・ソッリマ/ラメント。
つい先日も書いたが、サン=サーンスはドビュッシーやラヴェルら印象派の作曲家と比較すると、過小評価されていると僕は確信している。彼は博学で(天文学や数学、絵画に造詣が深く、詩作も数多く残したという)機知に富み、頭が良すぎて嫌味な性格だったので同時代の作曲家や知識人たちからは嫌われていたらしい。「動物の謝肉祭」にピアニストが登場するのもブラック・ジョークだし、”耳の長い登場人物”=ロバとは、自作に対して手厳しい評論家のことを揶揄しているそうだ。自作「死の舞踏」のテーマを引用して「化石」と称するのも自虐ギャグである。一方で「亀」はオッフェンバックの「天国と地獄」をゆっくり演奏するというパロディだけではなく、ぶつかる音(非和声音)の解決を引き伸ばし、聴き手を苛立たせるなど、周到な仕掛けが施されている。曲目解説で川島氏は本作を「19世紀フランスが生んだ最もラディカルな音楽」と評しているが、たしかに前衛的かつ凄い作品であることが、今回しみじみとよく分かった。それにしてもいずみシンフォニエッタ大阪の演奏は「水族館」のキラキラ感が半端なかった。
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