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2014年4月14日 (月)

ピリオド・アプローチの向こう側/ジンマン&クレーメルのベートーヴェンとブラームス

4月13日(日)フェスティバルホールへ。

デイヴィッド・ジンマン/チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団で、

  • ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲
  • ブラームス/交響曲 第1番

ヴァイオリン独奏はギドン・クレーメル。

1980年代以降にベートーヴェンの交響曲演奏に革命が起こった。ブリュッヘン/18世紀オーケストラやガーディナー/オルケストレル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークら古楽器演奏による録音の登場である。90年代になり、それはモダン・オーケストラを古楽器風に演奏するピリオド・アプローチに進展して行った。

その急先鋒だったのがアーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団(1990-91)とジンマン/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団(1997-98)の全集である。ジンマンの全集はまた、当時刊行前だったベーレンライター版楽譜を初めて採用したCDでもあった。

クレーメルはアーノンクールとモーツァルトやベートーヴェンのコンチェルトを録音しているので、ピリオド・アプローチは自家薬籠中の物である。

ベートーヴェンのカデンツァは20世紀までクライスラーかヨアヒム作が用いられるのが殆どだったが、クレーメルはアーノンクールとのCDでピアノ(!)とティンパニ独奏付きのものを採用し、世間の度肝を抜いた。今回はそれとはまた異なり、管楽器とティンパニを伴うものだった。

彼のヴァイオリンは鋭く、知性がある。線はやや細く、研ぎ澄まされている。ひらめきとモダニズムを感じさせるベートーヴェン。オーケストラは小さなティンパニを使用。ジンマンの指揮ぶりはキビキビとして機動力がある。第2楽章の主題と変奏は清新。第3楽章は弾力があってリズミカルな演奏だった。

僕は彼らの演奏を聴きながら、立川談志のスローガン「伝統を現代に!」を想起した。アンコールがまた意表を突いていた。

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一方、ブラームスのピリオド・アプローチはガーディナーを含め成功例が皆無に等しい。だからジンマンはどうするのだろう?と注目した。ところが、中庸なテンポであくまでオーソドックス。通常のティンパニで、弦も普通にヴィブラートをかける。拍子抜けした。第1楽章提示部の繰り返しも慣例通り省略。しかし、しばらく聴いているうちに引き締まって覇気がある演奏だなと想うようになった。一見さりげないが、内容が充実している。ベートーヴェンが生み出した「苦悩を乗り越えて歓喜へ!」という構想を踏襲しているとか、完成まで21年も費やしたといった気負いや重苦しさを感じさせることはない。サラッとして若々しく、美しい音楽が展開されてゆく。第2楽章は澄んだ湖のように透明度が高く清冽。仄かなあこがれが感じられる。第3楽章は愉しい気分に満ち、第4楽章序奏でも決して深刻ぶらない。主部に入ってもしなやかで、朗々としたホルンの響きに痺れた(ブラームスからクララ・シューマンに送られた葉書にこの旋律が記され、「山の高みから、深い谷から、あなたに千回の挨拶を送ろう」という歌詞が添えられている)。なんという清々しさ。終結部は弾け、歓喜が爆発する。

20世紀の巨匠たち(フルトヴェングラー、カラヤン、ベーム、バーンスタインら)の手垢にまみれ、重厚なイメージに毒されたこのシンフォニーの汚れを洗い流し、瑞々しい「青春交響曲」としての本来の姿を明らかにした、鮮烈な名演であった。

アンコールはブラームス/ハンガリー舞曲 第1番。流麗で躍動感と生命力に溢れた演奏。めまぐるしく変わるテンポに指揮者とオケが丁々発止とやり合う姿がスリリングだった。

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