杉本文楽「曾根崎心中」〜あるいは文楽のピリオド・アプローチ
3月28日(金)フェスティバルホールへ。
杉本文楽「曾根崎心中」を鑑賞。
構成・演出・美術・映像:杉本博司、作曲・演出:鶴澤清治。
杉本博司はニューヨークを拠点に活躍する写真家。神社や能舞台など建築に関する作品も手掛ける。
近松門左衛門「曾根崎心中」は実際に起こった情死事件を基に1703年に初演されたが、これに触発された心中が後を絶たず、1723年に江戸幕府は発禁、上演禁止の処分を下した。その後忘れ去られ、復活するのが昭和30年(1955年)のことである。脚色は野沢松之助。この時の改変台本が現在でも国立文楽劇場で上演されており、「そんなものに縛られる必要はないだろう」と橋下徹・大阪市長の槍玉に挙げられた。昭和30年版台本の最も大きな変更点は演劇における第1幕とも言うべき前半の段「観音廻り」がごっそりカットされたことである。
杉本文楽「曾根崎心中」はその「観音廻り」を完全復活、あくまで近松の「原文に忠実に!」というコンセプトにこだわった。これはクラシック音楽界で1980-90年代に隆盛を極めた古楽器によるピリオド・アプローチ(時代奏法)に相当すると言えるだろう。つまり後世についた垢を落とし、原点に回帰する姿勢、ルネサンス(再生・復活)運動である。
基本的に文楽の人形は三人で操作するが、「観音廻り」では桐竹勘十郎が操る「一人遣い人形・お初」がみどころとなっている。
杉本文楽は2013年にマドリード、ローマ、パリの観客を魅了。特にパリ公演初日の翌朝にはルモンド紙が一面トップで記事を掲載するなど絶賛された。
僕は以前、国立文楽劇場に足を運んだことがあるが、何を言っているのかサッパリ分からず退屈極まりなかった。3時間の公演が拷問以外の何物でもなかった。
現代の日本人にとって文楽の言語はイタリア・オペラを字幕なしで鑑賞することに等しい。つまり予備知識は絶対必要だと痛感した。
そこで徹底的に予習をした。まずDVDで宇崎竜童・梶芽衣子主演の映画「曾根崎心中」(監督:増村保造、音楽:宇崎竜童)を鑑賞。さらにクライマックスの「徳兵衛・お初 道行」は詞章の原文を通読した。また杉本文楽について取材したNHKのETV特集も観た。
今回はバッチリ内容を把握できたし、文楽の幽玄の美に心を打たれた。「観音廻り」冒頭、暗闇の奥の方からお初がふっと姿を現す。また「生玉社の段」では油屋九平次に騙られ、打ち据えられ、辱めを受けた徳兵衛が死を決意し、闇の中にすっと消えてゆく。そして「徳兵衛・お初 道行」の冒頭”此(この)世の名残 夜も名残”で始まる詞章の味わいの深さ。もののあわれが胸に沁みた。
杉本の洗練された美術も美しかったし、「観音廻り」における映像とのコラボレーションも見事で全く違和感がなかった。斬新でかつ、古典の精神を損なわないものであった。
鶴澤清治は先日聴いた「三井の晩鐘」の音楽も印象深かったが、今回もプロローグにおける三味線独奏が素晴らしかった。
で結論を言うと「観音廻り」をカットするなんて言語道断だ。それは近松作品への冒涜ですらある。たとえばベートーヴェンの交響曲を第1楽章を省略して第2楽章から演奏するようなものだ。「観音廻り」の段があって初めて、ふたりの観音浄土への強い信仰心、あの世できっと結ばれるという確信が観客に伝わるのである。国立文楽劇場の上演方法は絶対に間違っている。
古典芸能を現代人に理解し、親しんでもらう方法は台本をいじくることではない。それは見せ方・演出の問題なのだ。オペラの上映のように、現代語訳を舞台両脇にLED字幕表示するのも一案だろう。必要がない人はそれを見なければ済む話である。はっきり言って音声ガイドは時代遅れだ。イヤホンで片耳が塞がって鑑賞の妨げにしかならない。上演形態の改革が急がれる。
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