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2014年2月12日 (水)

稀代の詐欺師・自称「作曲家」佐村河内守について

ゴーストライターの存在が発覚し、全聾の嘘もバレた佐村河内守の問題は前代未聞の詐欺事件である。プロの音楽家・評論家を翻弄し、NHKスペシャルで「魂の旋律〜音を失った作曲家」という特集が組まれるなどマスコミに大々的に取り上げられ、広島市長(行政)を騙して広島市民賞を授与され(後に取り消し)、最終的にはオリンピックを通して世界進出をも目論んでいた(ゴーストライターの勇気ある証言で食い止められたわけだが)。これだけスケールの大きな詐欺は(少なくとも日本で)有史以来初なのではないだろうか?

佐村河内守の名前を知ったのは2012年頃だろうか。彼が作曲した(ことになっていた)交響曲第1番《HIROSHIMA》を大阪交響楽団が定期演奏会で取り上げたのだ。指揮は同曲をレコーディングし、佐村河内のプロモーションに熱心だった大友直人。また2013年には金聖響の指揮で全国ツアーが行われ、大阪公演もあった。佐村河内も来場したらしい。しかし幸いにも僕は行かなかった。作曲家に胡散臭さを感じたからである。

被曝二世。さらに35歳で聴力を完全に失ったという。そんな二重苦の中で広島に投下された原爆を告発するシンフォニーを書く。余りにも劇的で、出来過ぎた話じゃない?爆発したような髪型といい、自己をベートーヴェンに似せようとしていることは明らかだ。実際チラシの宣伝文句には「日本のベートーヴェン」とか書いてあるし!ペテンの匂いがプンプンした。

また所属プロダクションのプロフィールによると4歳で母親からのピアノの英才教育が始まり、10歳で「もう教えることはない」と母から言われ、以後は作曲家を志望したという。しかしクラシック音楽に少しでも慣れ親しんだ人間なら「そんなことは絶対にあり得ない」ということが分かる筈だ。たとえショパン・コンクールやチャイコフスキー・コンクールに優勝しようと、その後もジュリアード音楽院などで研鑽を積むのが当たり前の世界だ(それを怠ったスタニスラフ・ブーニンは駄目になった)。プロフィールの嘘を見抜けない者は間抜けとしか言いようがない。「天才作曲家」に見せかけるための設定が盛り込み過ぎ(too much)なのだ。

2014年にはサモンプロモーションによりピアノ・ソナタの全国50ヶ所初演ツアーが企画されており、別のコンサートでチラシを貰ったが、この商売方法もいかがわしいものだった。

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だって「初演」って普通1日限りでしょ?「初演ツアー」って一体何??さらに作曲家の言葉が決定的だった。

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どうして耳が聴こえないのに「天才的な才能を持ち」「心技体すべてを持ち合わせた」ピアニストと判断出来るの?指の動きを目で見て??ピアノ本体の振動を手で触れて???あり得ない。喩えるならショパン・コンクールの審査員がその方法で優劣を決められるか?という話である。ぼくはこのコメントで佐村河内の耳が聞こえる筈だと確信した。

しかしこの詐欺が巧妙なのは聾(ろう)者を騙っているという点だ。現在の日本において障がい者は絶対弱者/絶対正義であり、彼らに疑いの目を向けるということはタブーとなつている。そんなことをしたらたちまち”善意の人々”から「性格が歪んでいる!」「差別だ!」と非難の集中砲火を浴びるだろう。脳波を調べるABR検査(聴性脳幹反応)をしない限り、「本当は耳が聞こえる」ということを第3者が客観的に証明することは出来ない。つまり理屈で論破することは事実上不可能なのである。おまけに相手は障害者手帳(聴力障害2級)という公のお墨付きもある。勝ち目はない。名誉毀損で訴えられるのが落ちだ。だから僕は完全無視で事態の推移を静観することにした(おそらく疑問を感じた多くの人がそうだったろう)。

僕は昔から、あざとい野島伸司が脚本を書いたテレビドラマに違和感を感じていた。例えば知的障害者を聖者とみなした「聖者の行進」。それは違うでしょう?障がい者を差別することは勿論いけないが、だったら彼らを我々と同等に扱うべきであって、天使と見なしたり神聖化するのは行き過ぎではないだろうか?また大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した頃、息子で知的障害がある「大江光の音楽」というCDがブームになった(第2集「大江光ふたたび」は日本ゴールドディスク大賞を受賞)。しかし僕には単純で退屈な音楽としか思えなかった。どうも世間では「障がい者」というだけで作品の評価に下駄を履かせ、「決して悪口を言ってはいけない」という強迫観念に囚われている人が多いのではないだろうか?ちなみに「大江光の音楽」のプロデューサーは佐村河内守/交響曲第1番《HIROSHIMA》のレコーディングにも立ち会ったようだ→こちら

慶応義塾大学教授/音楽評論家の許光俊HMVに掲載された「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」で次のように書いている。

 もっとも悲劇的な、苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か? 耳が聞こえず孤独に悩んだベートーヴェンだろうか。ペシミストだったチャイコフスキーか。それとも、妻のことで悩んだマーラーか。死の不安に怯えていたショスタコーヴィチか。あるいは・・・。
 もちろん世界中に存在するすべての交響曲を聴いたわけではないが、知っている範囲でよいというなら、私の答は決まっている。佐村河内守(さむらごうち まもる)の交響曲第1番である。

  (中略)

 現代が、ベートーヴェンやブルックナーのような交響曲を書けない時代であることは間違いない。人々はあまりにも物質的に豊かになり、刹那的な快楽で満足 している。日本の若者を見てみればわかる。夢も希望もないのだ。いや、必要ないのだ。救いを探し求める気持などないのだ。日々を適当におもしろおかしく生 きて行ければいいだけだ。だが、佐村河内は違う。彼は地獄の中にいる。だから、交響曲が必要なのだ。クラシックが必要なのだ。
 演奏が困難な交響曲第1番。それが書名になっていることからも、この曲が作曲者にとってどれほど大事かがよくわかる。まさに命がけで書かれたのである。

これを読んで僕は麻原彰晃を擁護した評論家・吉本隆明や宗教学者・島田裕巳のことを想い出した。江川紹子も本件とオウム真理教事件の共通点を指摘している→「彼はなぜゴーストライターを続けたのか?~佐村河内氏の曲を書いていた新垣隆氏の記者会見を聴いて考える

玉川大学教授・野本由紀夫は《HIROSHIMA》を次のように評した。

「これは相当に命を削って生み出された音楽」
「本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽」

作家・五木寛之はこう述べた。

佐村河内守さんの交響曲第一番《HIROSHIMA》は、戦後の最高の鎮魂曲であり、  未来への予感をはらんだ交響曲である。  これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ。 

しかしゴーストライターだったと告白した新垣隆は週刊文春の記事で、この交響曲を作曲した当時は「現代典礼」というタイトルで、広島や原爆は全く念頭になく、数年後に《HIROSHIMA》に変更になったと知り驚いたと述べている。

三枝成彰はこの交響曲について「作曲者はベートーベン並みの才能の持ち主」と語っている。

一方、新垣隆は週刊文春で次のように語った。「あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない、という思いもありました」

どうしてこのようなことになったのか?一体彼らは音楽そのものを聴いていたのか?それとも佐村河内が創作した物語に目を奪われ、「被爆二世+全聾の作曲家」の作品に感動する自分自身に酔い痴れていただけだったのだろうか?

NHKやTBSに特集の企画を持ち込んだフリーディレクター・古賀淳也は局や番組を超えて佐村河内と5年間親しくしていた間柄だという。古賀は本当に事実関係を知らず、騙されただけなのだろうか?興味深いところである。

今回の事件は現代日本を巣食う偽善を白日のもとに晒し、劇的な物語を求めるマスメディアが抱える問題点を浮き彫りにした。私達が学ぶべき教訓は多い。

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