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2013年12月

2013年12月31日 (火)

ミュージカル CHESS in Concert (2nd version)

12月22日(日)梅田芸術劇場へ。CHESS in Concert千秋楽を鑑賞。

Chess

僕は2012年に日本初演を観ている。

作品の歴史的背景などは上記記事に詳しく書いた。安蘭けい石井一孝中川晃教AKANE LIVら出演者もほぼ同じで印象は変わらないからここでは繰り返さない。ただ前回の浦井健治がウィーンで活躍するマテ・カマラスに交代した。正直日本語の歌詞が聴き取りにくく、変な衣装も何だか浮いていた。マテは余り歌唱も上手くないので、日本人キャストの方が良かったように想う。

千秋楽ということもあり、全員の挨拶があった。次回は是非ミュージカル版を演じたいという声が多数。東西冷戦というテーマが時代遅れという感は否めないが、僕もこの楽曲が好きなので是非その実現を願う。

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2013年12月30日 (月)

選定!2013年映画個人賞

映画タイトルをクリックすればレビューへ飛ぶ。

高畑勲は従来のセル画アニメーションという殻を破り、このジャンルを次のステージへと飛躍させたことを高く評価する。

美術賞は「まどマギ」で異空間設計を担当した劇団イヌカレーへ。他者の追随を許さぬ圧巻の仕事だった。

松田龍平は「あまちゃん」のミズタク(水口琢磨)役を含めての評価である。マン・オブ・ザ・イヤーは彼をおいて他にいない。

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選定!2013年映画ベスト25

今年公開された映画から選んだ。基本は25選だが、次点の26位まで挙げている。タイトルをクリックすれば僕が書いたレビューに飛ぶ。

  1. 風立ちぬ
  2. ゼロ・グラビティ
  3. 舟を編む
  4. かぐや姫の物語
  5. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日
  6. 華麗なるギャツビー
  7. 横道世之介
  8. キャプテン・フィリップス
  9. そして父になる
  10. ゼロ・ダーク・サーティ
  11. ザ・マスター
  12. 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語 
  13. スター・トレック イントゥ・ダークネス
  14. パシフィック・リム
  15. シュガー・ラッシュ
  16. 奇跡のリンゴ
  17. アイアンマン3
  18. トゥ・ザ・ワンダー
  19. エリジウム
  20. きっと、うまくいく
  21. ハッシュパピー バスタブ島の少女
  22. 中学生円山
  23. 25年目の弦楽四重奏
  24. 世界にひとつのプレイブック
  25. 愛、アムール
  26. 陽だまりの彼女

ゼロ・グラビティ」は「風立ちぬ」と同率1位と考えて貰って差し支えない。

「リンカーン」は駄作。

何と言っても今年は日本のアニメーション(ジャパニメーション)が気を吐いた一年だった。「風立ちぬ」と「かぐや姫の物語」、そして「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」。他国の追随を許さぬ空前絶後、究極のハイ・レベルな作品が並んだ。正に壮観である。

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トリイ どっかんBROTHERS vol.15/鶴笑・遊方・文華

12/26(木)TORII HALLへ。

  • 座談(鶴笑・遊方・文華)
  • 月亭遊方/ゴーイング見合いウェイ(遊方 作)
  • 座談(鶴笑・遊方・文華)
  • 桂文華/天災
  • 座談(鶴笑・遊方・文華)
  • 笑福亭鶴笑/落語郎(鶴笑 作)
  • ゲーム(賞品あり)

三人の座談がマクラの代わりとなる。

トリイホールで落語の三人会という企画が6つあったが、残ったのはこの「どっかんBROTHERS」だけなのだそう。早いもので15回目となった。

インターネット上にライブ繁昌亭というのがあるが、同じネタが多く加入者がどんどん減少しているため、テコ入れとして年末から無料試聴キャンペーンが始まった。その紹介動画で遊方はロック小咄を披露したと。

ゴーイング見合いウェイ」は遊方が繁昌亭昼席でもしばしば掛ける鉄板ネタ。確かに面白いけれど、僕は何度も聴いているので一寸残念だった。彼は好きな噺家なのだが、この会ではもっと冒険心を持っていて欲しい。ロックじゃない。

文華が「天災」を高座に掛けるのは5年ぶりなのだそう。基本的には30程のネタで高座を回しているとか。緩急の変化があって聴き応えあり。「ボンボン」という言葉の繰り返しがリズムとなり、耳に心地よい。

ちなみに何処の寄席で何を高座に掛けたか遊方と文華はネタ帳をつけているが、鶴笑は全くそんなことはしていないと。

鶴笑のネタおろし「落語郎」はゆるキャラがテーマ。普段パペット落語の小道具はダイソーで買うが、今回はロフトでグレードアップしたと。

Kaku

撮影許可が下りたのでパシャリ。顔の裏側は締太鼓になっている。小咄の連発芸で客席は爆笑に。鶴笑は来年、アフガニスタン・カブールの難民キャンプに行きパペット落語をする予定とのこと。

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繁昌亭昼席(12/12)/歳末吉例女流大会

  • 露の眞/時うどん
  • 桂ぽんぽ娘/寿限無
  • 桂三扇/じいちゃんホスト(桂三枝 作)
  • わんだふる佳恵/奇術
  • 桂しん吉/地下鉄(林家染語楼 作)
  • 露の都/子は鎹
  • 内海英華/女道楽
  • 笑福亭鶴二/竹の水仙
  • 林家染弥/癪の合薬
  • 桂あやめ/妙齢女子の微妙なところ(あやめ 作)

前座のは工夫あり、気風がいい。

ぽんぽ娘はマクラの日本昔ばなし(小咄)が愉しかった。場内に笑顔の花が咲いた。彼女はデビュー当時から聴いているが、「十徳」とか客席が凍りついていた。随分上手くなったものだ。

三扇は今年「繁昌亭創作賞」を受賞したが、僕が納得出来ないのは、この人が師匠(三枝→現・文枝)の創作落語以外に演じているのを聴いたことがないという点である。本当に自分で創っているの??はっきり言うがここ数年の繁昌亭大賞の選考は変だ。信用出来ない。

「生まれ変わったら阪急電車になりたい」という”鉄ちゃん”のしん吉は昭和の新作落語を。御堂筋線駅名のダジャレだけだが、こういうネタも嫌いじゃない。

「竹の水仙」は半ばまで。

あやめの新作は以前聴いたことがあるが、内容が随分変化していた。進化するネタ。さすがだ。

またあやめによるとNHK朝ドラ「ごちそうさん」に出演中の東出昌大(埼玉県生れ)は元メンズノンノのモデル(身長189cm)で、大阪出身という役作りのために撮影前に繁昌亭で一週間ハッピを着て働き、さらに一週間近くの喫茶ケルンでもアルバイトして大阪弁の修行したという。へぇ〜面白いね。

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2013年12月28日 (土)

映画「25年目の弦楽四重奏」

公開時に観る機会を逸したので、レンタルDVDで鑑賞。

Quartet

評価:B+ 公式サイトはこちら

「カポーティ」でアカデミー主演男優賞を受賞したフィリップ・シーモア・ホフマン、「ディア・ハンター」でアカデミー助演男優賞を受賞したクリストファー・ウォーケンなど役者陣が充実している。アンサンブルの悦楽ーそれは演技面でも、弦楽四重奏というジャンルについても当てはまる。

クリストファー・ウォーケンの亡き妻役で世界的メゾ・ソプラノ歌手アンネ=ゾフィー・フォン・オッターが登場し、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトのオペラ「死の都」からマリエッタの歌を歌うなど、クラシック音楽ファンの心をくすぐる仕掛けが施されている(しっかり歌詞と映画の内容が連動している)。

モティーフとなるのはベートーヴェンの最高傑作、弦楽四重奏曲 第14番 Op.131だ。シューベルトは死の5日前に最後の願いとしてしてシュパンツィヒ四重奏団にこれを弾いて貰ったという。

サウンドトラックを担当しているのはブレンターノ弦楽四重奏団。そのチェリスト、ニナ・リーが最後に実名で登場する。

全7楽章をアタッカで(切れ目なく)演奏するこの曲をこよなく愛したイギリスの詩人T.S.エリオット(ロイド=ウェバー作曲ミュージカル「キャッツ」も彼の詩)が書いた「四つの四重奏」第1部「バーント・ノートン」から、Op.131について語っているとして次の一節が映画の冒頭で引用される。

Time present and time past
Are both perhaps present in time future,
And time future contained in time past.
If all time is eternally present
All time is unredeemable.

現在という時も過去も
多分未来の中にあるだろう
そして未来は過去のなかにある
もし、全ての時制(過去から未来まで)が常に現在あるとしたら
全ての時は贖えなくなる

Or say that the end precedes the beginning,
And the end and the beginning were always there
Before the beginning and after the end.
And all is always now.

あるいは、いわば終わりが始まりに先行し
始めの前と終わりの後に
常に終わりと始めがあるとすれば
全ては常に「今」なのだ

チェリスト役のウォーケンは音楽大学のゼミでこの詩を朗読した後、「アタッカでこの長い曲を演奏すると途中から音程がバラバラになっていく。我々は演奏を止めてチューニングし直すべきか、調弦が狂ったままで最後まで弾き続けるべきかを自問することになる」と学生たちに語りかける。

そして登場人物たちの人生も、どんどん調弦が狂っていく。

思索に富む、深い映画だ。音楽ファンは必見。

ちなみにフィリップ・シーモア・ホフマンが第2ヴァイオリン奏者の役割について語る台詞は、アメリカのアタッカ・カルテットで活躍する徳永慶子さんが監督からの取材で語ったことを一言一句書き起こしたものなのだそう(エンディングで徳永さんやカルテットの名前がクレジットされている)。

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2013年12月25日 (水)

ゼロ・グラビティ(3D)

評価:AAA(トリプル・エー)

Gravity_poster

映画公式サイトはこちら

来年のアカデミー作品賞・監督賞は「ゼロ・グラビティ(Gravity)」と「それでも夜は明ける」(12 Years a Slave) 」の一騎打ちになるだろう。今年みたいにそれぞれ違う作品に与えられる可能性もある。ちなみに長編アニメーション部門は「風立ちぬ」とディズニー「アナと雪の女王(Frozen)」の頂上決戦となる見込み。

まず日本語タイトルについて。「ゼロ・グラビティ」だと無重力に力点が置かれているように感じられるが、肝はラストなんだよ。主人公が重力(Gravity)の重みを噛み締めることがテーマなんだ。

これは「観る」ものではなく、無重力を「体感」する映画だ。だから3D上映を選択することを強くお勧めする。新次元の体験となることを保証する。

エンターテイメント作品に仕上がっているが、全体を支配するのは「絶対的孤独」。そして人間とは何か?どうして人は生きるのか?という核心に迫ってゆく哲学的思索の旅でもある。

上映時間91分という短い尺なのに中身がギュウギュウに詰まっている。冒頭13分の長回しが凄い。クルクル回転しながら宇宙を漂流するサンドラ・ブロックにカメラが近づいて行く。そしてヘルメットのガラスの中に入り(!)そこで180度回転して彼女の視線となり、またガラスを透過して離れていくというカメラワークにはびっくりする(当然CGを使っているのだろうが、その視覚効果に目を瞠る)。冒頭から緊張を強いられ、息苦しくなり、エンド・クレジットで漸くホッと出来る。

メキシコ出身のアルフォンソ・キュアロン監督と撮影監督のエマニュエル・ルベツキは「リトル・プリンセス」(1995)の頃から注目していた。特にの使い方が印象的。世界各国で興行的失敗に終わった近未来SF「トゥモロー・ワールド」(2006)も好きだった。キュアロンが単独で仕事をした「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(2004)もが際立っていた。エマニュエル・ルベツキはテレンス・マリック監督と組み、「ニュー・ワールド」や「トゥ・ザ・ワンダー」で卓越した仕事をした。特に「ツリー・オブ・ライフ」のカメラワークは空前絶後の美しさ!これで彼はアカデミー撮影賞を受賞すべきだったが、理不尽にも「ヒューゴの不思議な発明」が掻っ攫ってしまった。しかし、今度こそ100%間違いなく「ゼロ・グラビティ」は撮影賞を受賞するだろう。視覚効果賞も確実だ。

NASAの管制塔から聴こえる声がエド・ハリスなのは「アポロ13」だし、ペンが空中で回転する描写は「2001年宇宙の旅」、そしてサンドラ・ブロックが宇宙で独りぼっちになったり宇宙服を脱いで下着姿になるのは「エイリアン」のリプリー(シガニー・ウィーバー)を彷彿とさせるといった具合に、宇宙を舞台にした過去の名作映画へのオマージュがふんだんに盛り込まれている。

漂流していたサンドラがジョージ・クルーニーに一本の綱で牽引される場面は明らかに「へその緒」だし、彼女が宇宙ポッドの中で体を丸める仕草がまるで子宮の中の胎児のように見えたりといったメタファーに満ちている。ラストシーンは水生動物だった人類が陸に上がり、二足歩行に進化する経過を暗示している。そいういう意味でも本作は21世紀の「2001年宇宙の旅」なのだ。

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2013年12月24日 (火)

《宝塚便り》宝塚ガーデンフィールズ

宝塚大劇場横、宝塚ファミリーランドの跡地に出来た宝塚ガーデンフィールズには化学農薬・肥料を使わない英国風ナチュラル庭園"Seasons"がある。

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僕はここが大好きで年間パスポートを購入し、足繁く通っている。

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この庭園はフランシス・ホジソン・バーネットの小説「秘密の花園」を彷彿とさせる雰囲気がある。彼女はアメリカの作家だがイギリス生まれで、小説の舞台もヨークシャーである。

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秋の"Seasons"では木陰のベンチに座り、読書をしたりした。

池の見える風景は、クロード・モネが睡蓮の連作を描いたジヴェルニーの自宅の庭を連想させる。僕は一度訪れたことがあるのだが、実際の美しさという点では"Seasons"の方が勝っている。

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しかし客足が伸びず、経営不振のため今年12月24日に閉園が決まった。ガーデンフィールズの一部は宝塚市が買い取ることが決定しているという。とても残念だ。是非この緑豊かな庭園を残し、活かす方向で検討して貰えればと願っている。

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2013年12月21日 (土)

大阪桐蔭高校吹奏楽部 サンタコンサート 2013/コンクール全国大会で彼らに何が起こったか?

12月20日(金)大阪ビジネスパーク TWIN21アトリウムへ。

Toin1

大阪桐蔭高等学校吹奏楽部によるX-mas「180人のサンタコンサート 2013」を聴く。 無料。

「招待席」が沢山設置されていたが空席が目立った。そして立ち見の一般客が沢山いて、いかがなものかと思った。

Toin2

  • メサイアからハレルヤ
  • 潮騒のメモリー ~ あまちゃん
  • Xmas メドレー
  • アメージング・グレース
  • クリスマス・イヴ~恋人はサンタクロース
  • アラジン・ハイライト
  • すてきなホリデイ
  • サザン・メドレー
  • 生命の奇跡
  • 勝手にしやがれ~どうにもとまらない
  • レ・ミゼラブル
  • (復興支援ソング)花は咲く

総監督・指揮者は梅田隆司先生。桐蔭(III類)吹奏楽部は2005年に創部。梅田先生が赴任されたのは2006年。同年直ちに桐蔭はコンクール全国大会で銀賞を受賞。喜んだ校長から「何が欲しい?」と言われ、2007年に楽器運搬用の専用トラックを購入してもらった。その年も全国大会で銀賞。校長から再び「何が欲しい?」と尋ねられ、梅田先生は「サンタの衣装を」と答えたのだという。そして2008年に180着が揃った。

日本テレビ「笑ってコラえて」~”吹奏楽の旅”によると、今年の全日本吹奏楽コンクールの直前に梅田先生が入院するという緊急事態があったそうだ。また先生曰く、コンクール当日に一つ前の出場団体である屋比久功/鹿児島情報高等学校が課題曲を演奏中にステージ裏で桐蔭のグロッケンシュピール(鉄琴)が「ガシャーン!!」という物凄い音を立て倒れ、使えなくなるというハプニングも。この時指揮していた”吹奏楽の神様”屋比久先生は何事が起こったのかとびっくりした表情をされたそう。「どうしよう」と真っ青になる生徒たちに向かって梅田先生は「うろたえるな!」と一喝。しかし一番動揺していたのは自分自身だったと。結局ステージマネージャーからの進言があり、梅田先生は戻ってきた屋比久先生に深々と頭を下げ、鹿児島情報高のグロッケンを「いいよ」と快く貸してもらったそう。結局、金賞を狙っていた鹿児島情報高も桐蔭も銀賞という結果に終わり、大会3日後に梅田先生は鹿児島に飛び、屋比久先生と生徒たちの前で迷惑をかけたことを陳謝した。このことが縁となり、2014/2/23の桐蔭定期演奏会で屋比久/鹿児島情報高のゲスト出演が決まった。コンサート会場で定演のチケット先行発売もあり、良席をフライングゲット!

僕は梅田先生の体調を心配していたが、「すっかり良くなりました」と。指揮ぶりも大変お元気そうだった。

今月、桐蔭は幼稚園や学校などで15回コンサートを開催したとか。

ここの吹奏楽部の魅力の一つは合唱が多いこと。今回も「ハレルヤ」や「アラジン」「花は咲く」などで生徒たちが歌った。因みに梅田先生は大阪音楽大学音楽学部声楽科を卒業されている。

潮騒のメモリー」では舞台背後のスクリーンに歌詞が投影された。「あまちゃん」テーマ音楽は生徒たちが客席に降り演奏。リズムのノリがいい。

アメージング・グレース」はしっとりとした印象が強いが、途中からアップテンポとなり粋なアレンジだった。

アラジン」はジョン・モス編。〈アラビアン・ナイト~ひと足お先に~結婚の発表~ホール・ニュー・ワールド~ジャファーの出番~アリ王子のお通り~フレンド・ライク・ミー~ハッピー・エンディング〉約8分、グレード4。

サザン・メドレー」は杉本幸一編曲。〈TSUNAMI~チャコの海岸物語~HOTEL PACIFIC~いとしのエリー~勝手にシンドバット〉11分。TSUNAMIは木管五重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン)のアンサンブルがすごく良かった。

どうにもとまらない」はパンチが効いた演奏。

レ・ミゼラブル」はウォーレン・バーカー編曲。〈1日の終わり~夢やぶれて~宿屋の主の歌~オン・マイ・オウン~民衆の歌〉約10分、グレード4。「民衆の歌」は男子のソロで始まり、最後はチューバ以外全員の合唱となり盛り上がった。「夢やぶれて」は映画のアン・ハサウェイを、「オン・マイ・オウン」は劇場で聴いた島田歌穂やレア・サロンガの歌唱を懐かしく想い出した。

Toin3

コンサートが終わると希望者に 今年の第8回定期演奏会DVDが何と無料で配布された!さすが桐蔭、太っ腹。 お得で実に愉しいコンサートだった。

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2013年12月20日 (金)

キャプテン・フィリップス

評価:A

映画公式サイトはこちら

Captainphillips

最初ソマリアの海賊に襲われた船長の話と聞いて全く興味がなかったし予告篇も詰まらなそうだった。しかし米国での評価が極めて高くアカデミー作品賞にもノミネートされるのではないかと専らの噂なので、半信半疑で観てみると手に汗握る展開で興奮した。

ポール・グリーングラス監督は「ボーン・スプレマシー」「ボーン・アルティメイタム」「ユナイテッド93」を観ているが、「キャプテン・フィリップス」は彼の最高傑作ではなかろうか?

前半はエロール・フリン主演の海賊映画みたいに冒険活劇のノリ。後半になると海軍特殊部隊SEALsが登場し、SWATの活躍を描いた映画「スピード」や「交渉人」を彷彿とさせる緊張の連続となる。実際、交渉人も出てくるし。つまり映画2本分の要素が盛り込まれているのだ。実話であるが映画の構造上は一級のエンターテイメント作品に仕上がっている。

(ケニアとエチオピアに国境を接する)ソマリア共和国の場面は粒子が荒くザラザラした16mmフィルムで撮影し、トム・ハンクスのアメリカ側は解像度が高く寒色系の35mmで撮影するというように画質に変化をつけているのが上手い。またソマリア側は手持ちカメラなので揺れが激しく、観客の不安感を煽る仕掛けになっている。

結論。映画「ホテル・ルワンダ」や「ブラッド・ダイアモンド」、「ナイロビの蜂」を観た時と同様に、「アフリカは地獄だ」ということ。

それにしてもエンディングのテロップで驚いたのは現実社会におけるフィリップス船長はこの事件の後、海上勤務に復帰したとのこと!いや、原作の印税や映画化の著作権料で一生楽して暮らせるだろうに……。やはり「ハート・ロッカー」の主人公が戦場でしか「生きている」という確かな感触を得られないように、船長も海の上にしか生の実感がないのだろうか?

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2013年12月10日 (火)

シリーズ《音楽史探訪》ロマ(ジプシー)が近代西洋音楽に与えた影響を考察する/知られざるロマの歴史

ロマは従来ジプシーと呼ばれていた集団であり、その祖・ロマニ系の人々は北インド方面からヨーロッパへと複数の経路をたどり移動してきたと考えられる。

現在のルーマニアの前身であるモルドヴァ・ワラキア公国では14世紀頃からロマの人々に対する奴隷制が慣行され、それは約600年続いた。

ワラキア刑法典(1818年)
 第2条 ジプシーは生まれながらにして奴隷である。
 第5条 奴隷所有者は誰でも自分の奴隷を売却し、あるいは贈与する権利を持つ。
 第6条 所有者のいないジプシーは公の財産である。 

モルドヴァ刑法典(1833年)
 第154条 自由人と奴隷の法に則った結婚は認められない。
 第162条 奴隷どうしの結婚はその所有者の同意を必要とする。

ドイツではナチスが1935年にロマを「劣等民族」と見なす法律を施行、第二次世界大戦中には「最終解決策」として殺戮(絶滅政策)の対象とされた。彼らは流浪の民であり、ヨーロッパ各地で差別を受けていた点でユダヤ人の歴史に似ている。

現在ロマ民族はアイルランドからウクライナ、トルコまでとヨーロッパ全域に暮らしており、全体でおよそ880万人と推定される。そのうち600万人以上が東ヨーロッパの旧共産主義圏に居住していると言われている。ヨーロッパ諸国の中ではルーマニアが一番多く、推計150~250万人、総人口の11%を占める。またハンガリーに55~80万人(5~8%)、スペインに70~80万人(2%)いる。

ロマの音楽がヨーロッパの作曲家の作品に登場する最初期は大バッハと同時期に活躍したゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)@ドイツだろう。彼は西ポーランドの城で帝国伯エルドマン2世のカペルマイスター(楽長)に任命された。そこでロマやモラヴィアの民族音楽と出会って多大な影響を受けた。その代表作にして最高傑作が「リコーダーとフルートのための二重協奏曲 TWV 52:e1」である。

ロマの音楽の影響力は特にハンガリーにおいて顕著であり、今ではロマの音楽がハンガリーの代表的な音楽と見做されるに至っている。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)はハンガリー西部の大貴族エステルハージ家に宮廷楽長として長年仕えた。ピアノ三重奏曲 ト長調 Op.73-2, Hob.XV:25は「ジプシー・トリオ」とも呼ばれ、第3楽章「ハンガリー風ロンド」はロマの音楽である。ピアノ協奏曲 ニ長調 Hob.XVIII-11の第3楽章も「ハンガリー風ロンド」となっている。

フランツ・シューベルト(1797-1828)はハンガリーのツェレスの別荘に滞在するエステルハージ伯爵令嬢の音楽教師として2度招かれ、1818年と24年の夏を過ごした。そこで生まれたのがピアノ独奏曲「ハンガリーのメロディ」と2台のピアノのための「ハンガリー風ディヴェルティメント」である。また未完成交響曲 第1楽章の主題にもその影響があるとする説もある。

ハンガリー生まれのフランツ・リスト(1811-1886)が作曲した「ハンガリー狂詩曲」は19曲あるが、その多くはハンガリー古来の民謡ではなく、当時ロマ(ジプシー)のバンドが演奏していたものだと考えられている。

我が国で「流浪の民」として親しまれている合唱曲の原曲はロベルト・シューマン(1810-1856)が作曲した「ジプシーの生活」だ。

シューマンと深い親交があり、その妻クララを生涯愛し続け独身を貫いたヨハネス・ブラームス(1833-1897)の「ハンガリー舞曲集」もロマの音楽に基づいて編曲されたものである。またブラームスのピアノ四重奏曲 第1番 第4楽章は完全にロマの音楽だ。この初演のピアノはクララ・シューマンが弾いた。さらに「ジプシーの歌」というピアノ伴奏付き四重唱曲もある。

ブラームスから強い影響を受けたのが、ボヘミア(チェコ)のアントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)。「ハンガリー舞曲集」のひそみに倣い、「スラヴ舞曲集」を作曲したドヴォルザークにも「ジプシーの歌」という歌曲集がある。かの有名な「我が母の教え給いし歌」はこの第4曲である。

同じ頃、ヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」(1853年ローマ初演)にジプシーが登場し、ビゼーの「カルメン」(1875年パリ初演)ではジプシー女が主人公の座を占めた。

またイタリアの作曲家モンティ(1868-1922)が作曲した「チャールダーシュ」やルーマニアのロマのヴァイオリニスト/作曲家ディニクが1906年に発表した「ホラ・スタッカート」もジプシー楽団がしばしば演奏する代表的楽曲である。

ルーマニアのヴァイオリニスト/作曲家ジョルジェ・エネスク(1881-1955)には「幼き頃の印象」というヴァイオリンとピアノのための作品がある。10の小品から成り、その第1曲が「フィドル弾き」。聴けば明らかだが、これはロマの辻音楽師(a street musician)のことを示している。

フランス印象派に目を向けてみよう。クロード・ドビュッシー(1862-1918)は1910年にハンガリー旅行をした際、ブタペストのカフェでロマ(ジプシー)の弾くヴァイオリンを聴き、それに触発され「レントより遅く」「ボヘミア舞曲」を作曲した。

モーリス・ラヴェル(1875-1937)はフランス南西部、スペインにほど近いバスク地方で生まれた。ここはスペイン系ロマが生活の場をおいている地域であった。そして母マリーはバスク人であった。ラヴェルが作曲したヴァイオリン独奏用狂詩曲「ツィガーヌ」とは「ロマ」を意味するフランス語である。

そしてスペイン生まれのヴァイオリニストであるサラサーテが1878年に作曲した「ツィゴイネルワイゼン」とは「ロマの旋律」という意味である。

サラサーテと同様に名ヴァイオリニストとして知られたウィーン生まれのフリッツ・クライスラー(1875-1962)も「ジプシー奇想曲」「ジプシーの女」等を作曲している。

バッハからベートーヴェンに至る時代の弦楽器は殆どヴィブラートを掛けなかった。しかしこうしてロマの音楽が一般に知られるようになるに従い、そのヴァイオリン奏法=恒常的ヴィブラート(continuous vibrato)も蔓延していったのだと思われる(現代では後者が主流となった)。つまりサラサーテクライスラーこそが恒常的ヴィブラート普及のキーパーソンだったのではないだろうか?ちなみにクライスラーはウィーン・フィルの入団試験を受けるが、審査員の一人だったコンサートマスター、アルノルト・ロゼから「そんなにヴァイオリンを啼かせるものではない」と言われ、「音楽的に粗野」という理由で不採用となった。

こうして見ていくと、ヨーロッパの近代音楽史は縦の時間軸だけではなく、横の空間的繋がりも無視出来ないことがご理解いただけるだろう。そしてその重要な役割を担ったのが流浪の民ロマだったのである。

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2013年12月 9日 (月)

小池徹平、柿澤勇人主演:ミュージカル「メリリー・ウィー・ロール・アロング ~それでも僕らは前へ進む~」

12月8日(日)梅田芸術劇場、シアター・ドラマシティへ。「メリリー・ウィー・ロール・アロング」千秋楽を鑑賞。

スティーヴン・ソンドハイムが作詞・作曲したミュージカル(作詞のみの「ウエストサイド物語」や「ジプシー」は置いておいて)で、僕が生の舞台を観たことがあるのは「カンパニー」(1970)、「リトル・ナイト・ミュージック」(73)、「太平洋序曲」(76・宮本亜門演出)、「スウィーニー・トッド」(79・亜門演出)、「イントゥ・ザ・ウッズ」(87・亜門演出)である。DVDやBSで観たことがあるのが「ジョージの恋人(サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ)」(84)、「パッション」(94)、そしてアンソロジー「Putting It Together」(93/99)。

一番好きなソンドハイム作品は「スウィーニー・トッド」、次点が「リトル・ナイト・ミュージック」「太平洋序曲」「イントゥ・ザ・ウッズ」(順不同)辺りかな?

ソンドハイム作詞・作曲の「メリリー・ウィー・ロール・アロング(Merrily We Roll Along)」は1981年にブロードウェイ初演。今回が日本初演となる。ブロードウェイ初演を演出したのは「オペラ座の怪人」「スウィーニー・トッド」「キャバレー」の巨匠ハロルド・プリンス。しかし批評は芳しくなく、52回のプレビュー、そしてたった16回の本公演で幕を閉じた。端的に言えば興行的に惨敗したわけだ。その後リバイバルで手直しされ、楽曲も追加されたようである。

今回観て甚く感動し、最後は泣いた。もしかしてこれ、ソンドハイムの最高傑作ではないだろうか?音楽的には「スウィーニー・トッド」の方が優れているが、「メリリー・ウィー・ロール・アロング」は台本の完成度が群を抜いている。

1976年のロサンゼルスから物語は始まる。アメリカが泥沼のベトナム戦争から撤退し、南北ベトナムが統一された年だ。「アメリカの正義」というピカピカの金メッキが剥がれ、「病んだアメリカ」、その腐臭、ダーク・サイドが顕になった時代(ウォーターゲート事件もあった)。それから本作はどんどん時間を遡行し、1957年のニューヨーク、グリニッチ・ヴィレッジで幕を閉じる。 ソ連が世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した年で、この後アメリカはアポロ計画に乗り出すことになる。ベルリンの壁が築かれるのが1961年、キューバ危機が62年、J.F.ケネディ暗殺が63年、キング牧師暗殺が68年だから、アメリカが未だ挫折を味わうこと無く、無邪気に自分たちの正義や理想社会の実現を夢見ることが出来た幸福な時代であったと言えるだろう。

作詞・作曲家の男二人とベストセラー作家となる女一人が主人公だ。ミュージカル冒頭の1976年にそれぞれ成功し有名になっているが、気持ちはバラバラになり三人の友情は破綻、決別することとなる。そして未だ年若く貧乏だった彼らが出会う瞬間、友情が芽生え、将来に夢を膨らませる場面で終わる。つまり三人の友情の軌跡とアメリカ史が密接にリンクしているところが凄い。予定調和なハッピー・エンドではない。希望もない。しかし結局、この作品は三人の生きざまを肯定している。そこがいい。そして人生は続く。

人の心は計り知れない、理不尽なものである。「夢やぶれて」(by レ・ミゼラブル)、それでもこの世界は生きるに値する。そう想わせる作品である。「計画通りうまく運ぶわけはない。予定通り行かない。番狂わせが面白い」(by エリザベート)

ソンドハイムの楽曲について。口ずさめるようなキャッチーなメロディはないが、都会的で極めて洗練されている。僕は「カンパニー」より好きかも。

回転する円形舞台(盆)があり、その中央にピアノが置かれているというシンプルな装置。しかし宮本亜門の振付・演出はスタイリッシュで、巧みに時間変化を見せる。カラフルな照明が美しい。またブロードウェイ初演時は2幕構成だったが、休憩なしで一気呵成に最後まで見せる趣向はスピード感があって良かった。

オーケストラは舞台後方に配置され、ビックバンド・ジャズの編成で愉しませる。

これが舞台初出演となる小池徹平は決して歌が上手いと言えないが、滲み出してくる人柄の良さで観客を魅了した。適役といえるだろう。

柿澤勇人は劇団四季時代に「春のめざめ」で一世を風靡した。第1幕最後に曝け出される彼の生尻を間近でガン見しようと女子たちがステージシートに殺到したことは今では伝説となっている。

彼はジャニーズ系のイケメンだが、現在26歳という若さにもかかわらずミュージカルの冒頭は脂ぎって欲望のまま生きる中年に成り切り、実に見事だった。

他に出演者はラフルアー宮澤エマ(アメリカ人とのハーフ、祖父が総理大臣だった宮沢喜一)、ICONIQ在日韓国人三世、韓国のアイドルグループ「SUGAR」の元メンバー)高橋愛ら。全然知らない女優たちだったが、オーディションで選ばれただけあって実力と個性がある。

カーテンコールで挨拶した宮澤が、「この作品に出演して凄く嬉しかったのは、生まれて初めてファン・レターを頂いたことです!」と涙ながらに語ったので、場内は温かい笑いと拍手に包まれた。

再演があれば絶対に観に行く!何度でも味わいたい、僕にとってとても大切なミュージカル作品となった。

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2013年12月 7日 (土)

アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)&佐藤俊介(ヴァイオリン)のモーツァルト

12月6日(金)いずみホールへ。

Sato

アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)、佐藤俊介(ヴァイオリン)で、オール・モーツァルト・プログラム

  • ヴァイオリン・ソナタ ハ長調 K.303
  • ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310
  • ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304
  • 「ああ、私は恋人をなくした」の主題による6つの変奏曲 ト短調 K.360
  • ヴァイオリン・ソナタ ニ長調 K.306
  • ヴァイオリン・ソナタ K.380より第2楽章 ト短調 (アンコール)

日本にもバッハ・コレギウム・ジャパンのメンバーなど、古楽器奏者は多い。しかし裸ガット弦を張ったバロック・ヴァイオリンと、スチール弦のモダン・ヴァイオリンの二刀流は意外と少ない。弓の長さが違うからボウイング(運弓法)が違うし、ヴィブラートの掛け方などアプローチが全く異なるからである。二刀流のヴァイオリニストとしてまずヴィクトリア・ムローヴァ(ロシア)が筆頭に挙げられるだろう。そして最近メキメキと頭角を現してきたのがイザベル・ファウスト(ドイツ)。彼女が弾いた「ベルク&ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲」のCDは2012年度レコードアカデミー大賞を受賞した。佐藤俊介もそんなひとりだ。

あとチェロの二刀流と言えばピーター・ウィスペルウェイ(オランダ)やジャン=ギアン・ケラス(カナダ生まれのフランス人)がいる。

ドイツ生まれのアンドレアス・シュタイアーはチェンバロからフォルテピアノまで弾きこなす。

延原武春/テレマン室内管弦楽団(クラシカル楽器使用)と共に日本で初めてフォルテピアノによるモーツァルト/ピアノ協奏曲全曲演奏を大阪倶楽部で敢行した高田泰治は定期的にドイツに赴き、シュタイアーに師事している。高田はそれ以前、チェンバロとフォルテピアノをクリスティーネ・ショルンスハイムに師事していたが、ショルンスハイムもシュタイアーの弟子である。

今回シュタイアーが使用した楽器はアントン・ワルター製作のフォルテピアノ(1800年頃、ウィーン)の複製。

コンサートの特徴はメイン・プログラムの5曲中、短調が3曲を占めているということである。これは極めて異例なことだ。おまけにアンコールまで短調ときた!

番号の付いたモーツァルトの交響曲は41番までだが、番号もないものを含めると約50曲作曲された。うち短調は25,40番の2曲のみ(5%)。18番まであるピアノ・ソナタでは第8,14番の2曲(約1割)。つまり彼は「長調の作曲家」なのである。

今回選ばれた曲の多くはマンハイム=パリ旅行の時期に書かれた。モーツァルトは旅先のパリで母を失っている。そのことと短調は無関係でないだろう。

さて、ステージにふたりが登場すると、シュタイアーより佐藤の方が背が高かった!今回の模様はNHKがテレビ収録しているので、来年BSプレミアム「クラシック倶楽部」あたりで放送されるのではないかと想われる。

フォルテピアノの音量はモダン・ピアノの半分にも及ばない。だから聴き手は息を潜め、耳を澄ますことになる。現代のピアノとヴァイオリンの音は異質で対峙するような印象だが、フォルテピアノは優しい音色で、ガット弦が奏でるそれによく溶け込み一体感がある。シュタイアーの指使いは繊細で軽やか。小犬が転げるような感じだった。

佐藤のヴァイオリンは基本的にノン・ヴィブラート奏法。音を伸ばす時だけ、その中腹で軽く装飾的に掛ける程度。なんとも典雅な響だ。

イ短調のピアノ・ソナタはかなり速いテンポ。疾走する悲しみ。心がかき乱されるようだが、かといって決して深刻になり過ぎない。

ホ短調のヴァイオリン・ソナタは第2楽章トリオでホ長調に転調するが、ここで緊張が緩和され、ホッとする。

フランスの歌「ああ、私は恋人をなくした」の主題による変奏曲を支配するのは静謐な悲しみ。ヴァイオリンには透明感があり、これぞロジャー・ノリントン(指揮者)が言うところの"pure tone"だなと想った。

ニ長調のヴァイオリン・ソナタはまるでオペラの二重唱を聴いているような掛け合いがあり、終楽章には両楽器によるカデンツァがあったりと愉しい。ガット弦の音色は渋いという印象があるが、佐藤は伸びやかに歌い心地よかった。

NHKの放送があれば永久保存版だね、これは。

以下余談。先日「音楽の友」誌にイザベル・ファウストと、ベルリン・フィルのコンサートマスター:樫本大進の対談が掲載されていた。ピリオド・アプローチ(時代奏法)に極めて懐疑的な樫本(「本当に正しいのか?」)に対し、イザベルは「正しいかどうかは判らないけれど、我々演奏家は作曲家が意図したことに近づけるよう、最大限の努力をすべきだ」といった旨を主張。両者の意見が噛み合っていないのが面白かった。僕は断然、イザベルを支持する。

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2013年12月 6日 (金)

検証!日本のアニメ(ジャパニメーション)と米国のアニメはどう違うのか?

現在隆盛を極める日本のアニメーションのルーツは間違いなくウォルト・ディズニー作品である。

手塚治虫は1961年に自分のプロダクションに動画部を設立、1年かけ40分のカラー・アニメーション「ある街角の物語」を製作した。そして翌62年から日本初となる30分枠のテレビアニメ・シリーズ「鉄腕アトム」の製作に取り掛かった。虫プロは毎週放送の番組をこなすために絵の枚数を大幅に削減するリミテッド・アニメーションの手法を生み出したが、これは後に宮﨑駿らから「手抜き量産」と批判されることとなる。

手塚がディズニー映画から多大な影響を受けたことは有名である。彼は「バンビ」を漫画化しているし(しかしこれは著作権法に触れるので現在見ることは出来ない)、「ジャングル大帝」のプロットは「バンビ」の焼き直しである。後にディズニーが「ライオンキング」で「ジャングル大帝」をパクることになるのだが、こうした経緯があるので手塚プロダクションはディズニーの盗作疑惑を訴訟に持ち込まなかった(もし訴えていれば間違いなく勝っただろう)。また手塚の未完のアニメーション映画「森の伝説」(チャイコフスキー/交響曲 第4番を使用)は明らかにディズニーの「ファンタジア」へのオマージュである。

日本の漫画家は多かれ少なかれ手塚治虫の影響を受けているので、ルーツを辿ればディズニー映画に至る。宮﨑駿も若い頃書いた漫画があまりにも手塚の絵に近かったので、全て焼き捨てたと告白している。また宮﨑は次のように発言している。

「ウォルト・ディズニーがいた頃のディズニーは、その最盛期は10年ですよ。以降はやはり人材育成はうまくいかなかった。大変な努力をしたのにです。じゃあ、ジブリの10年はどこにあったのか。僕が思うにピークは『となりのトトロ』と『火垂るの墓』を作っていたときですね」

これは逆に彼がディズニーを強く意識していることを示している。

このようにアメリカのアニメーションも日本も、その起源を辿ればディズニーに行き着くわけだが、現在2つの世界はずいぶんと様相が異なっている。どうしてこんなことになったのか?

僕はその分岐点が1995年にあったと考えている。この年にピクサー・アニメーション・スタジオの「トイ・ストーリー」が公開されたのである。この初フルCGアニメーションはスティーブ・ジョブズ(製作総指揮)とジョン・ラセター監督による革命であった。

ピクサーは快進撃を続け、ディズニーなど他のスタジオも一気に従来のセル画アニメーションを捨て、CGに走った。今年公開されたアメリカのアニメの大半はフルCG作品である。

一方、日本でも「ファイナルファンタジー」(2001)や「ベクシル 2077 日本鎖国」(2007)などいくつかフルCGアニメは製作されたが、内容的・興行的に成功を収めたとはお世辞にも言えない。今年公開された「キャプテンハーロック」はジェームズ・キャメロンから絶賛されるなどある程度の評価を得たが、総製作費30億円に対し興行収入は10億にも到底届かず(7-8億円程度)惨敗であった。結局今年大ヒットし、質的にも賞賛されたのが「風立ちぬ」(興収120億円)、「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(現時点で興収16億円突破、120万人動員)、「かぐや姫の物語」であったことからも明らかなように、いまだに手描きによる二次元アニメが我が国では主流なのだ。

落語家の柳家喬太郎が好んで高座で取り上げる逸話に次のようなものがある。ある日彼がテレビを観ていると、秋葉原にやって来たイラン人にレポーターが「あなたにとって日本の文化とは何ですか?」と質問していた。すると次のような答えが返ってきた。「わび(侘)・さび(寂)・もえ(萌え)」

天才・喬太郎の面目躍如、実に秀逸なマクラである。

日米アニメの決定的違いは日本には「萌え」文化があるけれど、アメリカにはないということである。ディズニーやピクサー映画はあくまで物語重視であり、登場人物に「萌え」を感じることはない。だからオモチャとか車とか無機物を平気で主人公にしたりする。日本の漫画やアニメで無機物が主人公になることはない(知性のあるロボットを除く)。だって「萌え」ないから。同じ理屈でポリゴン/CGキャラクターにも「萌え」る要素がないので日本ではCGアニメが根付かないのだ。技術的な問題ももちろんあるだろうが、「萌えるか、萌えないか」それが要だ。「萌え」とは「妄想を羽ばたかせる」と同意だというのが僕の考えだが、リアリティを追求するCGには「妄想」の許容範囲が少ないんだよね。

「萌え」のタネを蒔き、それを育んで日本に定着させたのは手塚治虫である。「ふしぎなメルモ」や「ブラック・ジャック」のピノコ、「鉄腕アトム」のウランが典型だろう。大林宣彦監督は手塚漫画の「萌え」の特徴を「シスター・コンプレックス」と表現している。

だから当然、手塚漫画から多大な影響を受けた宮崎アニメにも「萌え」の要素はふんだんにある。「未来少年コナン」でコナンとラナが水中でキスする有名な場面、「天空の城ラピュタ」で沢山の鳩に囲まれるシータ……。きりがない。こうして「萌え」という日本独自の価値観は浸透していったのだ。

「萌え」が判らないアメリカ人はセル画に戻ることはないだろうし、日本のアニメは将来もCGに移行することはないだろう。文化の違いである。それでいいのだ。

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ペンデレツキと映画/天才指揮者ウルバンスキ三度(みたび)登場!〜大フィル定期

12月5日(木)、ザ・シンフォニーホールへ。

クシシュトフ・ウルバンスキ/大阪フィルハーモニー交響楽団、ピアノ独奏:フセイン・セルメットで、

  • ペンデレツキ/広島の犠牲者への哀歌
  • モーツァルト/ピアノ協奏曲 第18番
  • ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」

ポーランド出身で現在31歳のウルバンスキを聴くのはこれが3回目である。

ペンデレツキの音楽といえばウィリアム・フリードキン監督「エクソシスト」やスタンリー・キューブリック監督「シャイニング」で使用されている。つまりトーン・クラスター(音塊)はホラー映画によく似合う。「広島の犠牲者への哀歌」はまもなく公開されるアカデミー賞最有力候補「ゼロ・グラビティ」を撮ったアルフォンソ・キュアロン監督の「トゥモロー・ワールド」(2006)に使用されている。その物語はこうだ。

西暦2027年11月。人類は希望を失い世界は恐慌状態に陥っていた。なぜか出産の能力が失われ、18年間にわたって全く子供が生まれないのだ。世界各国が内戦やテロによって壊滅する中……

やはり恐怖や絶望に親和性がある。

生で聴くのは初めて。視覚的・聴覚的に面白い!弦楽合奏曲だが、途中で52人の奏者がバラバラに弾いたり、胴体(表板)を打楽器のように叩いたり。ホラー映画で馴染んできたので、「ムズカシイ現代音楽」という印象もいつの間にか払拭されていた(耐性が出来た??)。ウルバンスキは指をコチョコチョ動かしたり、まるでスパイダーマン。でもトビー・マグワイアより格好いい!手を蝶のように羽ばたかせたり、バネを縦に伸ばすような仕草をしたり、目が釘付け。

ウルバンスキはペンデレツキとストラヴィンスキーを暗譜で振ったが、モーツァルトではミニスコアを使用。音尻は短く小気味よい。こんなに繊細で絹のような質感のモーツァルトは初めて。ピアノも軽やかでよかった。

春の祭典」は先鋭な演奏だが、同時に透明感があり解像度が高い。明晰な指揮ぶりで、最弱音から最強音までオーケストラから無限のニュアンスを引き出す。第1部「大地礼賛」終盤は畳み掛ける緊迫感あり。

ウルバンスキはその天才性を遺憾なく発揮し、大フィルの潜在能力を150%引き出した。はっきり言っちゃうけれど、彼の才能・センスはネルソンスより上だね。ハーディングと同等かな。来年のベルリン・フィル・デビューはセンセーションを巻き起こすに違いない。

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2013年12月 3日 (火)

秋元康と仄暗い欲望/AKB48「鈴懸なんちゃら」、乃木坂46「バレッタ」

僕は秋元康を作詞家として高く評価しているが、なにしろ多作な人なのでその9割は「テキトーに書き飛ばしました」というやっつけ仕事である。ところがたまに本気を出すと、例えばAKB48の楽曲でいえば「夕陽を見ているか?」「Beginner」「風は吹いている」みたいにびっくりするくらい良い詩が生まれることがある。ノースリーブスに提供した「キリギリス人」はその人生哲学に甚く共感したし、いじめられっ子で孤立した男の子の心情を歌った乃木坂46の「君の名は希望」なんかも感動的な神曲だ。

ところが前田敦子卒業後、AKB48への楽曲がどうも質的に低下した気がして仕方がない。やる気が感じられない。選曲眼も鈍っている(秋元は常々1000曲以上ストックがあるデモを聴き、シングル曲を決定。それに詞を当てるという「曲先」という方式を採用している。その逆が「詞先」)。特に「ギンガムチェック」はもう救いようがない。最低最悪である。

思うに前田敦子という存在は秋元康にとってインスピレーションの源、ミューズだったのだろう。それは「オペラ座の怪人」のアンドリュー・ロイド=ウェバーがサラ・ブライトマンのことを「私の音楽の天使(Angel of music)」と呼ぶのに似ている。サラが去って以降、ウェバーの才能は枯渇してしまった。

しかし12月11日にリリースされるAKB48のシングル『鈴懸(すずかけ)の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの』(公式略称「鈴懸なんちゃら」)は久々に秋元の「本気」を感じさせる傑作である。そもそも長ったらしいタイトルからして「気合」が入っている。

映画だったら「ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」など長いタイトルの作品はあったが、アイドルの曲名としては前代未聞だろう。

鈴懸なんちゃら」のメンバーはじゃんけん選抜である。センターを仕留めたのは松井珠理奈。彼女は1回戦から決勝までパーを出し続けて優勝した(ちなみに前年はぱるること島崎遥香がチョキを出し続けて優勝)。

当然「ヤラセ」疑惑が浮上するわけだが、事の真偽はさておき僕は少なくとも2位となったNMB48(チームB IIキャプテン)の上枝恵美加は決勝戦で意図的に負けたのではないかと考えている(珠理奈がパーを出すことは事前に予想できたわけだから)。

センター(立ち位置0)に対するプレッシャー、「もし私がセンターになったら、他のメンバーのファンからどんな激しいバッシングを受けるだろう?」という恐怖。「珠理奈でなく私がセンターになっても、秋元先生は決して祝福してくださらないだろうな」という不安。様々な感情が彼女をよぎったのではないだろうか?妄想するのは僕の自由だ。そもそもヲタのアイドルに対する疑似恋愛という感情も妄想の産物だしね(その妄想を壊さないために恋愛禁止というルールがある)。

秋元康が松井珠理奈(16)をAKB48シングル「大声ダイアモンド」のセンターに抜擢したのは彼女が11歳、未だ小学生の時だった。

鈴懸なんちゃら」には次のような詞がある。

小さい頃から知ってる 妹みたいな君が
いつのまにか 大人になってて はっとした

僕はこの想い 語らない
今の距離がちょうどいい
あの頃のように 大声で笑う 君を見守りたい

あと「鈴懸なんちゃら」には次のような掛け合いが登場するが、

好き!好き!好き!好き!
あーーーーーだ・い・す・き・だ!

これは「大声ダイアモンド」の、

大好きだ 君が 大好きだ
僕は全力で走る
大好きだ ずっと 大好きだ
声の限り叫ぼう

に呼応している。つまり鈴懸なんちゃら」は明らかに秋元康の松井珠理奈に対する想いを歌っているのである。これを「キモい」と嫌悪するヲタたちがいるが、僕は敢えて言おう。「キモいから最高なんだ」と。得てして創作活動(Creation)とはそういうものだ。「鈴懸なんちゃら」を歌えるじゃんけん選抜メンバーは幸せだ。もし珠理奈がセンターにならなければ、こんな名曲が生まれる可能性は決してなかったわけだから。

なお、念のため申し添えておくが僕はヴィブラート過多なサラ・ブライトマンの歌唱は嫌いだし、松井珠理奈も彼女の何処に魅力があるのだかサッパリ理解出来ない。

さて、11月27日に発売された乃木坂46のシングル「バレッタ」(作詞:秋元康)を聴いて、淫靡な歌詞だなと想った。

大きな蝶の形の「バレッタ(髪留め)」をした美しいクラスメイトに恋をする少年の心情を歌っており、彼は学校の図書室でヘミングウェイを読みながら、窓際で「男子でカッコいいのは誰か?」と会議中の女子をチラ見するという内容。

一方、「バレッタ」のミュージック・ビデオ(MV)は次のような内容だ。

少女を誘拐し、人間剥製にして客に売る闇組織。捕われた仲間(新センターに大抜擢された二期生の堀未央奈)を救うべく、八福神が敵のアジト(雑居ビル地階のショーパブ)を急襲する。

このMVはファンの間で「全然曲の歌詞と関係がない!」と不評で、物議を醸している。しかし僕の意見は違う。

蝶々といえば想い出すのは巨匠ウィリアム・ワイラー監督、テレンス・スタンプ主演の映画「コレクター」(1965)である。蝶の採集が趣味の孤独な銀行員フレディーはある日、美術大学に通う女性ミランダを誘拐し、地下室に監禁する。そして……というあらすじ。つまり「バレッタ」MVのプロットは「コレクター」を下敷きにしているのである。「少女を人間剥製にする」という行為は「蝶々を採集し、標本箱にピンで留める」ことのメタファーである。またこの世界観はマリオン・コティヤールが出演したフランス映画「エコール」(2004)にも近似性があるので、未見の方にはご覧になることをお勧めしたい。

とすれば「バレッタ」の歌詞、

昆虫の図鑑には
きっと載っていないって
思ってた
妄想からロマンスが
ふいに 動き出す

これって意味深だと思いません?僕には語り手の暗い情念、欲望が垣間見られる気がするのだ。

あと注目すべきは語り手の少年がヘミングウェイを読んでいることである。何故ヘミングウェイなのか?

ヘミングウェイには「蝶々と戦車」という短編がある。時はスペイン内戦、舞台となるのはマドリードにあるバー「チコーテ」。ここで喧嘩騒ぎが勃発し、ひとりの男が大勢に取り押さえられ、拳銃で撃たれる。そしてバーの支配人が最後にこんなことを言う。

「つまり、彼の陽気さが、戦争の深刻さとぶつかったんです。さながら蝶々みたいにー (中略)おわかりですか?あれはちょうど、蝶々と戦車みたいなものだったんです」(高見浩 訳、新潮文庫)

蝶々=少女、戦車=語り手の少年 と読み替えたらどうだろう?「バレッタ」に繋がってきはしまいか?つまり「バレッタ」の歌詞は少年の持つ破壊衝動を暗示しているという解釈も成り立つのである。

秋元康、一筋縄ではいかない男である。

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