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2013年11月

2013年11月30日 (土)

保科洋も登場!~吹奏楽 meets オーケストラ(下野/大フィル)

奏者の知り合いばかりが優遇され、一般客にはチケット入手困難な、なにわ《オーケストラル》ウィンズ(大阪公演)の閉鎖性に心底頭にきて、しばらく吹奏楽から距離を置いていた。

代表の金井信之さん、2014年以降の販売方法の改善を期待します。

さて、11月29日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

司会:丸谷明夫下野竜也/大阪フィルハーモニー交響楽団で吹奏楽とオーケストラの融和を図る企画。

  • 保科洋/風紋(管弦楽版)
  • ワーグナー/歌劇「ローエングリン」第2幕より
    エルザの大聖堂への行列
  • A. リード(長生淳 編)/「オセロ」(管弦楽版)
    - シェイクスピアに基づく5つの場面による交響的描写
  • イベール/フルート協奏曲
  • J.S.バッハ(ストコフスキー編)/アリア(弦楽合奏版)
  • R.シュトラウス/楽劇「サロメ」より”7つのベールの踊り”
  • ヴォーン・ウィリアムズ/イギリス民謡組曲よりマーチ
    (丸谷明夫指揮、アンコール)

”エルザの大聖堂への行列”はプログラムの表記通りだが、考えてみると日本語として変だ。エルザは単数、でも一人では行列出来ない。故に”エルザの大聖堂への入場”の方がいいかも。

風紋」は吹奏楽コンクール課題曲だが、これを作曲家自らオーケストラ版に編曲した2009年夏の初演を僕は岡山市で聴いている。

下野/大フィルは柔らかい響きで、たおやかで夢見るような楽想を奏でる。まるで印象派のようだ。前半は極上の弦の音色を堪能。後半は巧みなタクトでメリハリがあった。保科洋氏が来場されており(事務局から連絡が届かず、ご自分でチケットを購入されたとか!?)、曲が終わると丸ちゃんの招きでステージへ。「作曲家にとって作品は子供みたいなもので、御存知の通り子供は親の言うことを聞きません(会場笑い)。だから演奏家の方々に育てていただいていると思っています。今日はまた私の知らない新しい顔を見せてもらいました」と。

ワーグナーエルザの大聖堂への入場」は日本アカデミー賞も受賞した大傑作「桐島、部活やめるってよ」で重要な役割を果たした。劇中で高校の吹奏楽部が合奏する。

今回の演奏は堂々として、大河の流れを連想させた。

リードの「オセロ」を編曲したのは吹奏楽にも数多くの楽曲を提供している長生淳。僕は「吹奏楽 meets オーケストラ」シリーズに皆勤しているが、正直今までのオーケストラ・アレンジ(by 中原達彦)はイマイチだった。しかしさすが真打ち登場!弦楽器と管楽器の対話を主体とする方法論で鮮やかな仕上がり。第1楽章「前奏曲」はド迫力、第2楽章「朝の音楽」は軽やかに舞い、第3楽章「オセロとデズデモナ」は甘美な夢を描く。第4楽章「廷臣たちの入場」は華やかなファンファーレで第5楽章「デズデモナの死、終曲」は悲劇的で抗えない運命を感じさせた。

イベール/フルート協奏曲の独奏は瀬尾和紀。これは感心しなかった。音の粒は揃っているがベタッとした吹き方で軽やかさ、優雅さに欠ける。日本人なら僕は工藤重典(1980年ジャン=ピエール・ランパル国際フルート・コンクール優勝)や新村理々愛(2011年マクサンス・ラリュー国際フルート・コンクール優勝)の方が好きだな。

下野の指揮もちょっと生真面目過ぎて、フランス音楽なのだからもっと遊び心とかエスプリが欲しかった。

ストコフスキー編曲アリアは冒頭の旋律を意表を突いてチェロが弾くのが良かった。前世紀のロマンティックなバッハも悪くない。

サロメ」はR.シュトラウスの依頼で開発された楽器ヘッケルフォーン(バリトンオーボエ)の紹介が興味深かった。演奏はエキゾチックで、ベールがまとわり付くような不気味さを感じさせた。そしてクライマックスでは音の塊が飛んで来る迫力があった。

アンコールで丸ちゃんが指揮した「イギリス民謡組曲」はキビキビ溌剌とした演奏だった。

イベールのコンチェルトは残念な出来だったが、総じて満足度の高い演奏会だった。是非次はカレル・フサ/プラハ1968年の音楽をお願いしたい。頼みまっせ!

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フィンランドの森の妖精たち~大阪交響楽団 定期 (+シベリウス論)

11月28日(木)ザ・シンフォニーホールへ。

高関健/大阪交響楽団でオール・シベリウス・プログラム。

  • 舞踏間奏曲「パンとエコー」
  • 交響曲 第4番
  • 交響曲 第7番
  • 交響詩「タピオラ」

シベリウスの交響曲中、コンサートで圧倒的に取り上げられる機会が多いのは第2番だろう。次に第1番。僕は今まで第1・2・5・7番を実演で聴いたことがあるが、第4番はこれが初めて。すごく嬉しかった。「タピオラ」も演奏時間が18分掛かるので、耳にする機会は少ないんじゃないかな?結構レアなプログラムである。

ちなみに大阪フィルハーモニー交響楽団のアーカイブで調べてみると、大フィル定期でシベリウスの交響曲第4番が取り上げられたのは今から60年以上前、関西交響楽団時代のみ。第3・6・7番や「タピオラ」に至っては皆無であった(交響曲第2番は関響時代を併せて計12回)。何と保守的、有名曲偏重主義なんだ!!呆れた。

交響曲 第4番と7番は僕が大好きな作家・福永武彦の遺作「死の島」に登場し、小説中でシベリウス論が展開されるので昔から愛聴していた。第1・2番の時代はチャイコフスキーの影響が色濃く、「シベリウスの真髄」が味わえるのは第4番以降だと僕は確信している。作曲家・吉松隆氏も後期交響曲を偏愛しておられるようだ。

若い頃のシベリウスは酒・葉巻・ギャンブルに溺れ、放蕩三昧、借金まみれの暮らしをしていた。しかしやがて改心し、心機一転ヘルシンキ郊外の田舎ヤンヴェンパーに引っ込む(その自宅の名前が「アイノラ」)。そこで生み出されたのが交響曲第3番以降の作品群であり、やがて彼の音楽はフィンランドの自然と一体化していくのである。

さて演奏の方は、まずヴァイオリンが古典的対向配置だったので驚いた。

パンとエコー」は初めて聴いたが、妖精が飛び回るような活気ある曲。ただ短くて(5分)、唐突に終わる。

交響曲 第4番は仄暗さを保ちつつ、高関の指揮は明晰。第1・2楽章/第3・4楽章はアタッカで演奏され、あたかも2部構成のようであった。これはやがて第7番で単一楽章に収斂されて行くことを考えると、納得のいく方法論であった。第2楽章は跳ねる感じで始まり、陰影のある中間部では鋭さが加味された。第3楽章ではフィンランドの雄大な自然ー森・湖・霧の風景が浮かび上がる。そして第4楽章には弾けた表現力があった。

シベリウスの最高傑作、交響曲第7番には悠久の自然の営みが感じられた。

最後の大作「タピオラ」はまるで森林浴をしているような気持ちよさ、愉しさがあった。ちなみにタピオとは森の神であり、タピオラはその領土を示す。

高関健のシベリウス、意外といける(失礼!)と想った一夜だった。

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2013年11月29日 (金)

八方・南光の会@動楽亭

11月26日(火)動楽亭へ。

  • 月亭八斗/四人癖
  • 月亭八方/堀川
  • 桂 南光/居残り
  • 八方・南光/トーク「男の道楽噺」

八斗はリズム感が悪く、ダレた。あと四人の癖にはかなり不自然なものもあるので、アレンジしてもいいんじゃないかな?

堀川(近頃河原の達引)」は元々・文楽/歌舞伎の作品で、それを二代目・林家菊丸が落語にしたのだそう。八方曰く、「言葉が悪いかもしれないけれどパクリ・模倣芸なのです」と。噺に登場する喧嘩極道が八方のニンに合っていて、すごくよかった。「おもろない噺やから、これが最後かも知れない」と語っていたが、いやいやまた聴かせて欲しいな。ただ「毎晩トラになる」というサゲが分かり辛かった(=酒に酔うこと)。

居残り」は江戸落語「居残り佐平次」を上方に移植したもの。佐平次という名前は出てこない。ちなみに「居残り佐平次」は川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の原作としても有名。

南光は遊郭の用語「初会(しょかい)」→「裏を返す」→「居続け」→「居残り」についてマクラでひと通り解説。

また「佐平次」というのは文楽の楽屋用語/隠語で「いい加減な奴・信用ならない輩・ペテン師」といった意味だそうだ。勉強になった。上方に舞台を変えたネタの方も違和感なく、「やっぱり落語の魅力は人間の業(駄目なところ/だらしないところ)の肯定(by 立川談志)だなぁ」と愉しく聴いた。

トークの方は八方が借金で困っていた時に藤山寛美から一千万円の札束を見せられ「欲しいだけ持っていけばいい」と言われたエピソードとか、以下ちょっとネットには書けない大人の話(18禁)満載で盛り上がった。大満足!

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2013年11月27日 (水)

大林映画の子供たち~細田守、高橋栄樹、そして三木孝浩「陽だまりの彼女」

アニメーション映画「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督(1967年生まれ)は大学生の時に学園祭で「大林宣彦ピアノ・コンサート」を企画したという過去があり、大林監督は細田監督のことを「映画の血を分けた息子」と言っている。細田版「時をかける少女」(アニメ)は事実上、大林版「時をかける少女」の後日談となっている。

AKB48のミュージック・ビデオ(MV)を最も多く撮っている高橋栄樹監督(1965年生まれ)は今年10/29のツィートで次のように書いている。

僕が思うAKB48最高のMVは、大林宣彦監督の「So long!」(全長版)。

高橋監督は「So long !」撮影現場に、手弁当で手伝いに馳せ参じたそうだ(これはツイッターで監督から直接伺った)。高橋監督作品であるAKB48「永遠プレッシャー」MVは明らかに大林映画へのオマージュである。冒頭、ぱるる(島崎遥香)が吊り橋を渡って登場するのは大林監督の劇場映画デビュー作「HOUSE ハウス」だし、アニメーションとの合成、眼が光ったりするのは「ねらわれた学園」、そしてサイレント映画風字幕挿入、円形でワイプする編集も大林映画を連想させる。

さて、「陽だまりの彼女」だ。

評価:B+ 映画公式サイトはこちら

三木孝浩監督(1974年生まれ)も熱狂的な大林映画ファンのようである。高校生の時に大林監督の「ふたり」をどうしても観たくて修学旅行先の東京で集団行動から抜けだし映画館に行ったそうだ(記事は→こちら)。また尾道三部作への愛も告白している→こちら

以下ネタバレあり。

映画の冒頭、大きなワイドスクリーンの中に小さな4:3サイズの画面が現れ、8mm映像が映し出される。僕は「いきなり『転校生』かよ!」と嬉しくなった。大林映画を愛する「同志」にめぐりあった気分。そして猫が登場。猫は尾道三部作にも出てくるし、大林映画の重要なアイテムだ。大林監督は「HOUSE ハウス」や「麗猫伝説」といった化猫映画も撮っている。 ……といういわけで、僕はかなり早い段階から「彼女」の秘密の真相に気が付いた。つまり「陽だまりの彼女」は「時をかける少女」を化猫映画のスタイルで撮った作品だったのである。

主人公が幼少時に負った手の傷跡(=絆)を大切な想い出としている点で「陽だまりの彼女」と「時をかける少女」は共通している。しかもご丁寧なことに傷の位置まで全く同じなのだ。また「彼女」が立ち去る時、彼女に関わった人間全ての記憶が消えるという設定、エピローグで別の人間として再びめぐりあうというのも一緒。「彼女」は水族館で泳ぐ魚を見て「美味しそう」と言うが、同じ台詞を「HOUSE ハウス」のおばちゃま(南田洋子)が集まった娘たちを見て呟く。また、ふたりが高い丘の上から海を見下ろす場面は映画「ふたり」や「はるか、ノスタルジィ」を彷彿とさせる。映画終盤には「さびしんぼう」の重要なガジェット(小道具)・自転車も登場。つまり本作は徹頭徹尾、大林宣彦へのラブレターとなっているのだ。恐れ入った。

松本潤や上野樹里といった旬の(”トレンディ”は死語?)役者を使い、”お洒落な恋愛映画”を偽装しつつ、その実「大林映画万歳!」という化猫映画を撮ってしまった三木監督はしたたかだ。アッパレなり。

大林映画との決定的違いはキス・シーンが多いことかな?大林ヒロインは滅多なことではキスしない。ストイックなのだ。

ミステリアスなヒロインを演じた上野樹里が素晴らしい。彼女の代表作といえるだろう。「虹の女神」も良かったが、本作ではそれを上回る魅力を放っている(彼女は常に、背後から陽の光を浴びて逆光で現れる)。上野が身につけるファッションもお洒落で○。また大倉孝二、谷村美月ら脇役も好演。

それにしても細田監督「おおかみこどもの雨と雪」と三木監督「陽だまりの彼女」が”獣(けもの)の変化(へんげ)と人間の恋”を描くというテーマで一致しているのは興味深い。

三木孝浩監督の次回作は能年玲奈主演の「ホットロード」。きっと三木版「彼のオートバイ、彼女の島」になるだろうと期待する。

大林映画の遺伝子を継ぐ”息子”たちが現在第一線で活躍するようになった。頼もしい限りである。デビュー当時から大林監督が映画化を希い、未だ実現していない福永武彦の小説「草の花」。現在75歳の大林監督には残された持ち時間が少なくなって来た。仮に大林監督が無理だったとしても、”息子”たちがその意志を継いでくれるかも知れないなと、僕は「陽だまりの彼女」を観ながら将来に希望を持った。

たとえ肉体が滅んでも 人はいつまでも誰かの心の中に
その人への想いとともに 生き続けている
だから 愛の物語は いつまでも語り続けなければならない
(映画「HOUSE ハウス」より)

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2013年11月26日 (火)

高畑勲監督14年ぶりの新作「かぐや姫の物語」とその思想

高畑アニメと出会ったのは、忘れもしない小学校4年生の時であった。僕が通う岡山大学教育学部附属小学校の創立100周年記念行事が岡山市民会館であり、ゲストとして卒業生である高畑勲監督が招かれ自作のアニメーションを上映してくれたのだ。その時「僕の友人でもある優秀なアニメーターと組んだ作品です」と高畑監督が紹介されたことを今でも鮮明に憶えている。むちゃくちゃ面白かった!それが「パンダコパンダ」であり、”優秀なアニメーター”とは原案・脚本・画面設定(レイアウト)を担当した宮﨑駿のことであったということはずっと後、大学生になって「風の谷のナウシカ」と出会って知った。

それから僕は高畑&宮崎コンビによる「太陽の王子 ホルスの大冒険」、「ルパン三世」(第1シリーズ)、「アルプスの少女ハイジ」(全52話)、「母をたずねて三千里」(全52話)、「赤毛のアン」(全50話/第15話で宮﨑駿降板)、「柳川堀割物語」(実写ドキュメンタリー映画)を観た。ただ宮﨑駿とコンビを解消して以降の高畑アニメは好きではなかった。

高畑監督が長年追求してきたことはリアリズムである。「火垂るの墓」や「おもいでぽろぽろ」を観た率直な感想は「実写でやればいいんじゃないの?」これらの物語をアニメで描くことの必然性を僕は全く感じなかったのだ。だから高畑アニメとは決別した。

「かぐや姫の物語」は「ホーホケキョ となりの山田くん」以来、高畑監督14年ぶりの新作である。「となりの山田くん」は製作費20億円を掛け、目標配給収入60億円を掲げたが7.9億円しか稼げなかった大赤字だった。つまり高畑監督は事実上、14年間干されていたわけだ。そして今回の総製作費はなんと50億円に上った。

Hime

評価:A+  公式サイトはこちら

神懸った完成度に度肝を抜かれた。文句無し、紛れもなく高畑勲の最高傑作である。

通常のアニメーションはセル画(動画)と背景美術が全く異なるセクションで作業され、どうしても質感の違いが生じる。ところが淡い水彩画のようなタッチの「かぐや姫の物語」は両者が渾然一体となり、完全に調和している。驚くべき技法である。「木を植えた男」「大いなる河の流れ」などフレデリック・バックの短編アニメを想い出した。

宮崎アニメならあたりまえのことだが、高畑アニメのヒロインが空を飛ぶのはこれが初めてじゃないだろうか?イマジネーションの飛翔。高畑勲は生まれて初めて「リアリズムの追求」をかなぐり捨て、アニメーションでしか不可能な表現方法を極めた。

かぐや姫の感情が爆発し、京の都の屋敷から飛び出して十二単を一枚一枚脱ぎ捨てながら疾走する場面の躍動感が物凄い。また姫の美しさの評判を聞き、五人の公達(貴公子)が我先にと屋敷に駆けつけている場面の演出もダイナミックだ。

日本の四季、自然の美しさが丹念に描かれる。この作品は最も「アルプスの少女ハイジ」に近い。都に移ってからの姫が田舎の暮らしを懐かしみ鬱々と日々を送る場面も、フランクフルトのゼーゼマン家に移り住んでからのハイジの憂鬱を彷彿とさせる。

都での貴人の暮らしには「生きている」という実感がなく、田舎で汗水流す生活にこそ「生の本質」があるという結論にかぐや姫は達する。これを観て僕は「高畑さん、相変わらず左翼思想だな」と想った。つまりブルジョアジーを否定し、労働階級にこそ真の人間性があるというわけだ。ちなみに高畑監督は東映動画時代(「太陽の王子 ホルスの大冒険」を創った頃)、労働組合の副委員長で、宮﨑駿は書記長を務めていた。ふたりは労組で出会い、会社を相手に共に闘ったのである。また調べてみると2013年7月には高畑監督が赤旗に登場し、「危険な道くいとめる」という記事の中で日本共産党支持を表明している。

そういった本作が有する古臭いイデオロギーや(金持ちは悪で貧者が善という)単純な図式に鼻白む側面も確かにあるのだが、まぁ78歳の爺さんの戯言(たわごと)だから許す。この欠点を帳消しにし不問に付すくらいの有無を言わせぬ作品の力、圧倒的クオリティがあったということである。

最後に音楽について触れよう。高畑監督が久石譲と組むのはこれが初めて。フル・オーケストラを駆使する宮崎アニメと異なり久石は本作で室内オーケストラ規模で臨んだ。雰囲気がガラリと違い、和風でとてもいい。特に物語の最後にかぐや姫を迎えに来る天人の音楽が賑やかで愉しく、鮮烈な印象を受けた。

今年2歳になった僕の息子は「パンダコパンダ」のDVDをニコニコしながら繰り返し観ている。特に子パンダの”パンちゃん”が登場した時は声を上げて笑う。偉大なる高畑&宮崎コンビに乾杯!

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2013年11月25日 (月)

現代若手指揮者事情〜ネルソンス/バーミンガム市響×ハーン@兵庫芸文 

11月24日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

Nel

ネルソンス/バーミンガム市交響楽団、ヴァイオリン独奏:ヒラリー・ハーンで、

  • ワーグナー/歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲
  • シベリウス/ヴァイオリン協奏曲
  • チャイコフスキー/交響曲 第5番

を聴いた。

アンドリス・ネルソンスラトビア生まれの35歳。現在はバーミンガム市響、2014年からはボストン交響楽団の音楽監督となる。ダニエル・ハーディング(イギリス、38歳)やグスターヴォ・ドゥダメル(ベネズエラ、32歳)らとともに次世代を担う才能として将来を嘱望されている指揮者である。他に同世代ではヤクブ・フルシャ(チェコ、32歳)、クシシュトフ・ウルバンスキ(ポーランド、31歳)らの名が挙げられるだろう。ドイツ・オーストリア・イタリアの若手に有望株が居ないのが痛い(かつてはトスカニーニ、フルトヴェングラー、クライバー父子、カラヤン、ベーム、ジュリーニ、アバド、ムーティといった錚々たる面々を輩出したのだが)。

ネルソンスが生まれたラトビア出身で有名な指揮者といえばマリス・ヤンソンス。ヤンソンスの幼少期は旧ソ連だったので彼はレニングラード音楽院で学んだが、1991年に独立。ネルソンスはラトビアで音楽を学んだ(ヤンソンスに師事)。またギドン・クレーメル(モスクワ音楽院卒)やミーシャ・マイスキー(レニングラード音楽院)もラトビア出身である。

ラトビアの隣にエストニアがあり、ネーメパーヴォクリスチャンヤルヴィ親子エストニア出身の指揮者。ラトヴィアエストニアバルト海に接しており、その対岸にシベリウスが生まれたフィンランドがある。これらの国々を環バルト海地域と呼ぶ。因みにパーヴォ・ヤルヴィの名前はフィンランドの指揮者パーヴォ・ベルグンドにちなんで名付けられた

バーミンガム市響の第3ファゴット奏者が黒人だったのには驚いた。木管奏者は珍しい。今回の兵庫が台湾→日本と続いたアジア・ツアーの最終公演だそうだ。

ローエングリン」冒頭のpp(最弱音)の美しさ!ゾクゾクっとした。透き通るようなハーモニーは「純白」のイメージ。テンポの微妙な揺れが心地よい。押しては引く波のよう。ネルソンスが紡ぎだす魔法の虜になった。

シベリウスはヒラリー・ハーンの繊細でしなやかな音色に魅了された。洗練されていて、かつ粘りがある。オーケストラは第1楽章冒頭、雲のような柔らかい弱音を奏でる。ネルソンスはここでもテンポを揺らし、エモーショナル。アクセントの付け方に独特のセンスを感じる。第2楽章は木管の表情付けが上手い。音符が生き生きと動き出す。第3楽章は躍動感、疾走感に満ち溢れる。ヌーの大群が押し寄せるイメージ(ほら、「ライオンキング」にあったじゃない)。ハーンとオケの丁々発止の掛け合いがスリリング。ロックだね、燃えるぜ

ソリスト・アンコールは

  • J.S.バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番
    より ”ルール”と”ジーグ”

後半はあっさり、スッキリしたチャイコフスキー。もうちょっと影(暗さ)とか、濃厚さがあってもいい。ストコフスキーや大植英次みたいにネルソンスは積極的にテンポを動かす。しかし不思議とそれが作為的/不自然じゃない。あざとさがなく、すんなり耳に入ってくる。中間楽章は流麗でなめらか、真に美しい。第2楽章はゲネラルパウゼ(総休止)をたっぷりとる。第3楽章のワルツはシルクの肌触り。妖精たちが飛び回る。そして終楽章。ネルソンスはオーケストラを煽るが、手綱はしっかり締めている。一糸乱れぬアンサンブル。圧倒的なフィナーレであった。

オーケストラ・アンコールは

  • エルガー/朝の歌

ネルソンスには是非一度、日本のオケも振って貰いたいものだ(2011年春にNHK交響楽団を指揮して「ローエングリン」全曲を演奏する予定だったが、東日本大震災が発生し中止となった)。

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2013年11月19日 (火)

反転する物語~「魔法少女まどか☆マギカ」の魅力

これはTVシリーズと劇場版[新編]を観た人を想定した記事である。ネタバレ全開なので未見の方は要注意。なお、これから「魔法少女まどか☆マギカ」に出会おうという方はダイジェストの劇場版ではなく、TVシリーズ版からご覧になることを強くお勧めする。その方が間違いなく受ける衝撃が大きいからである。上質なミステリーを読んだ時に体験する「騙されることの快感/エクスタシー」がそこにはある。

では本題に入ろう。「まど☆マギ」はまず、魔法少女の活躍を描く明るい物語のように偽装して開始される。ところが第3話で魔法少女のひとり・巴マミが死亡退場し(それも頭を喰い千切られるという惨たらしさ!)、物語はダーク・ファンタジーへと一気に反転(=どんでん返しと言い換えてもいい)する。ダークなエンディング・アニメーション「Magia」もこの第3話から流され始める。

次に魔法少女が戦っている魔女とは、実はかつて魔法少女だった者の(絶望に身を委ねた末の)成れの果ての姿だということが明かされる。シェイクスピア「マクベス」に登場する魔女が言うところの「きれいはきたない、きたないはきれい」である。これも正に反転だ。魔法少女が持つアイテム「ソウルジェム」は魔女の「グリーフシード」に反転する。

そして魔法少女・暁美ほむらが時間遡行者だったことが判明した第10話で、今度はオープニング・テーマ「コネクト」がエンディング・テーマに反転される。ここで視聴者は何気なく聴き流していた「コネクト」の歌詞に隠されていた真相に気付き、愕然とするのである。実に鮮やかな手腕だ。

ほむらはタイムリープを繰り返すことで、まどかが《魔法少女→魔女》に転換する運命を覆そうと虚しい努力を繰り返してきた。そしてその都度挫折する。物語の最後にまどかアルティメットまどか女神まどか)となり、過去から未来にかけで少女たちが絶望から魔女に至る運命を断ち切り、彼女たちを《円環の理(えんかんのことわり)》へと導く運命に書き換える(=救済)。これも世界の反転である。

一方、劇場版「[新編]叛逆の物語」ほむらは魔法少女が《円環の理》へ導かれる新システムを拒絶(神を否定)。自らの意思で《悪魔》となり、自分が構築した世界にまどかを閉じ込めてしまう。つまり反転である。

このように虚淵 玄(うろぶちげん)が脚本を書いた「魔法少女まどか☆マギカ」は反転を繰り返すことで物語を推進し、観客を驚かし続けてきた。

僕は多分、もう一本劇場版が創られるだろうと考えている。またまた世界は反転され、遂にほむらが《円環の理》に導かれる時が来るのだろうか?また[新編]の台詞から想像するに、もしかするとほむらvs.まどかの壮絶なバトル・シーンが展開されるかもしれない。まぁ「まど☆マギ」の製作陣は常に観客の予想を裏切ってきたので、次も誰も思い付きもしなかった驚異の展開を期待したいものだ。

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2013年11月16日 (土)

繁昌亭昼席(11/14)

  • 桂団治郎/つる
  • 林家笑丸/松山鏡
  • 桂福楽/田楽喰い(ん廻し)
  • 旭堂南左衛門/寛永三馬術 梅花の誉れ(武芸講談)
  • 笑福亭遊喬/犬の目
  • 桂蝶六/豊竹屋
  • 正司敏江/漫談
  • 桂文也/野ざらし
  • 林家うさぎ/ふぐ鍋
  • 笑福亭三喬/くっしゃみ講釈

団治郎(2009年入門)は流暢で達者。感心した。

正司敏江はなんと美空ひばりの歌を三番まで歌い、殆どの持ち時間を費やした。呆れた。老人ホームのカラオケ大会じゃないんだから。多分もう二度と繁昌亭からお声は掛からないだろう。

続いて登場した文也、「ワン・コーラスでやめりゃいいのに」に爆笑。「多分何も考えずに舞台に上がったんでしょうな」と毒舌が続く。この人は客いじりが巧みで、その嫌味な感じに拒否感を抱く聴衆もいるだろうが僕は好き。なんか京都っぽい(京都市在住)。「はてなの茶碗」の茶金さんとか「京の茶漬け」の登場人物を想い出す。ブラック・ユーモアがあり、ネタの方もリズム感があってすこぶる面白かった。

三喬の「くっしゃみ講釈」もさすがの上手さで、話芸の愉しさを堪能した。

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ブリテン/戦争レクイエムとアン・ハサウェイ~下野/大フィル 定期

11月15日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

下野竜也/大阪フィルハーモニー交響楽団・合唱団大阪すみよし少年少女合唱団

  • ブリテン/戦争レクイエム

を聴く。独唱は木下美穂子(ソプラノ)、小原啓楼(テノール)、久保和範(バリトン)。30年の歴史を持つザ・シンフォニーホールでこの大作が演奏されるのは初めてなのだそう。

レクイエムとは「死者のためのミサ曲」のことであり、カトリック教会において死者の安息を神に願う典礼音楽を指す。ラテン語の祈祷文に従って作曲される。

一方ブラームスはプロテスタントの信者であり、「ドイツ・レクイエム」はラテン語ではなく、マルティン・ルターが訳したドイツ語版聖書に基づいたテキストに作曲されている。

そもそもラテン語が読める特権階級のためのものだった聖書を、一般庶民でも読めるようにルターがドイツ語訳したことがプロテスタント(=ローマ・カトリック教会に対する抗議者)の発端である。

さてベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」はラテン語による通常のミサ典礼文の間に、第一次世界大戦で戦死した詩人ウィルフレッド・オーウェンによる英語の詩が挿入されるというスタイルで構成されている。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの空爆で焼け落ちたコヴェントリーにある聖マイケル教会(英国国教会)に新たに建立された大聖堂の献堂式のために作曲された。

ちなみに調べてみると現在イギリスにおける英国国教会信者は51%、カトリック信者は13.6%だそうだ。

ここで疑問が湧く。ブリテンはゲイだった。彼のパートナーは「戦争レクイエム」の初演でも歌ったテノール歌手ピーター・ピアーズである。ふたりは同棲生活を送り、現在は隣同士の墓で寄り添うように眠っている。ブリテンとピアーズが暮らした「レッドハウス」やお墓の写真は→こちらのブログをどうぞ。またブリテンのオペラ「ヴェニスに死す」や「ピーター・グライムズ」は同性愛(少年愛)をテーマにしている。

さらに公にはされていないがウィルフレッド・オーウェンも詩人ジーグフリード・サスーンとの関係を含め、ゲイであったと言われている。

しかしローマ・カトリック教会は同性愛を自然法に反する罪深い行為とし、否定している(詳しくはWikipedia「同性愛とカトリック」を参照あれ)。

ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」でアカデミー助演女優賞を獲得したアン・ハサウェイの兄はゲイで、アンは幼いころカトリックの修道女になりたいと志望していたが、兄の性的指向を認めない宗教には属せないとそれを断念し、家族全員がカトリック教会から離脱した。

だから「戦争レクイエム」はゲイを認めないカトリック教会の祈祷文と、ゲイが書いた詩が交差する(しかも初演で歌ったピアーズもゲイ)という、極めてアクロバティック(ある意味挑発的)な作品なのである。さらに言えばラテン語で歌うのは専らソプラノ独唱と合唱の役割であり、テノールとバリトンのソリストには英語詩しか歌わせていない。ここに明白な作曲家の意思が感じられる。

果たして1962年に初演された「戦争レクイエム」の宗派はカトリックなのか、あるいは英国国教会の立場で書かれているのか?また当時の英国国教会は同性愛者に対して寛容だったのか?ブリテンがこの仕事を引き受けた真の意図は何処にあるのか?色々と興味の尽きない事項である(もし明確な解答をお持ちの方がいらっしゃいましたら、コメントをお願いします)。ちなみに英国で同性愛が法的に認められたのは1967年からだそうだ。

下野の指揮は第1曲《永遠の休息を》から切れがあり、合唱には透明感があった。第2曲《ディエス・イレ(怒りの日)》は力強く迫力がある。第3曲《奉献唱》は輝かしい響き。そして第6曲《われを解き放ち給え(リベラ・メ)》冒頭は、あたかも地の底から死者たちがゾンビのように這い上がってくるよう。やがて世界は業火に包まれ、阿鼻叫喚の恐怖が描かれる。しかしフィナーレ《イン・パラディズム(天国にて)》で天使の歌声が響き、救済と安らぎがもたらされるのだ。

今回、合唱団はステージ後方上段に配置され、ソプラノ独唱はその最上部・パイプオルガンの横で歌った。そしてテノールとバリトン独唱は指揮台のすぐ横(最下層)。まるでローマ・カトリック教会(ソプラノ+合唱団)が地を這いつくばり泥に塗れて戦う兵士(=ゲイ・カップル:ピアーズとブリテンの暗喩)を見下ろすような構図となっており、面白いなと想った。「不寛容」と「被差別者」との対峙。しかし最終的に両者は許しあい、融和に至るのである。これは作曲家の願い・夢でもあっただろう(初演から半世紀経過した現在でも実現はしていない)。

穢れなき児童合唱の歌声は文字通り天上から降り注いだ。未曽有の感動がそこにはあった。僕は事前にデュトワ/NHK交響楽団による「戦争レクイエム」のブルーレイ録画を3回観て臨んだが、実演でなければこの曲の真価は分からないなと痛感した。例え5.1chサラウンドでも頭上からの音は再現出来ないからね。

ただ唯一残念だったのはデュトワ/N響のソリストが3人とも外国人だったの対し、大フィルは全員日本人だったこと。テノールは声が通らずメリハリがなく、バリトンは低音が出ない。ソプラノは澄んだ美しい声で良かったのだけれど。

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2013年11月 9日 (土)

柳家喬太郎・柳家権太楼 IN 「桂枝光 二番勝負」

11月7日(木)繁昌亭夜席へ。

  • 桂小鯛/看板の一
  • 柳家喬太郎/夫婦に乾杯 (春風亭昇太 作)
  • 桂枝光/紙屑屋
  • 柳家権太楼/笠碁
  • 桂枝光/なにわの芝浜

喬太郎曰く、落語ファンというのはそもそも数が少なく、東京でも数千人があっちやこっちや移動しているだけ。噺家の独演会でどこかのアリーナを満席にすることなんで出来やしませんと。名前は知らなくても高座に上がればお客さんの顔がよく見えるし、「あ、あの人来ているな」「またメモ取ってるよ」とか内心思いながら演っている。「上方も慣れてきて、随分皆さんの顔が分かるようになりました。先週もトリイホールで独演会をさせていただいて、しょっちゅう寄せてもらっているから正直言ってもう話すことないの」(ここで会場爆笑)。ニヤッと笑い、「同じネタを演るかもよ」と。

トリイホールのマクラでも出た「あまちゃん」をブルーレイで全話録ったことに触れ、「ブルーレイ、日本語に直すと『青い霊』。別に訳す必要ないんですけどね」には受けた。

桂枝光の「紙屑屋」はハメモノ(お囃子)をふんだんに使い、踊りあり、舞台全体を縦横無尽に使い切る。五代目文枝(先代)版を継承しているのは彼だけだそう。陽気で愉しかった。

権太楼の「笠碁」は子供っぽく無邪気な笑顔がチャーミング。軽やかなリズム感で心地よい一席。

江戸落語「芝浜」を大阪に移植したバージョンは、舞台設定の変更以外に創意工夫が感じられずイマイチ。加えられたハメモノも効果を上げていない。すごく中途半端な印象。最後、女房のお涙頂戴の愛情の押し売りも鬱陶しかった。このネタを湿っぽくやる演出は好みじゃない。

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柳家喬太郎独演会@トリイホール

11月2日(土)TORII HALLへ。

Kyon

  • 桂弥太郎/七度狐
  • 柳家喬太郎/梅津忠兵衛 (小泉八雲 原作)
  • 柳家小せん/夜鷹の野ざらし
  • 柳家喬太郎/稲葉さんの大冒険 (三遊亭圓丈 作)

前座の弥太郎は特に狐の所作がまだまだだと思った。妖怪変化なんだから、もっと幽玄の雰囲気、妖気が欲しい。ふつー。

昨年辺りから喉の調子が悪く、お疲れモードに見えた喬太郎。今回は絶好調!元気溌剌だった。

曰く、学校寄席で青森県立弘前工業高校へ行った(日帰り)。「無理やり落語を聴かされて、彼らにとっては強姦されたようなもんですから……」と、ここでニコッとして「おっ、会場が引いていく音が聞こえましたよ。(噺家仲間がいる下座の方を向いて)今日のお客さんはこういうの駄目だってよ!」と大声で言う。「以上、業務連絡でした」さすが話術の達人である。

ある学校寄席で「初天神」を掛け、父親にみたらし団子をねだる子供を熱演していると、前の方の男子がボソッと「うるせぇよ」。自分の心が折れる音が聞こえたそう。また他の噺家の高座で「死神」の冒頭、借金で首が回らなくなった男が「いっそ死んでしまおうか」という件で、斜に構えて座っていた女子生徒が髪を指でクルクルしながらダルそうに「死ねば?」と言ったというエピソードも披露。

小泉八雲の怪談は不思議で独特な雰囲気があった(怖くはない)。へぇ、こういうのも落語になるんだ。新鮮。

小せんについては「貧相な落語家が登場しますから」と紹介。その小せんは気風がいい高座。

休憩を挟み再び喬太郎。先輩から稽古を付けてもらう=「噺を上げる」ことについて、「柳亭市馬師匠から教わったネタで噺を上げたのは一つもないんです。唯一例外は『てなもんや三度笠』の主題歌だけでした」と。

NHK朝ドラ「あまちゃん」を欠かさずブルーレイに録画しハマったことに触れ、落語芸術協会では高座における「じぇじぇ」禁止令が出たという噂が流れたと(事実ではなかったそう)。またカラオケに行くとドラマに登場するアメ横女学園の「暦の上ではディセンバー」を必ず歌うと、その場で披露。「『あまちゃん』の話題になると誰のファンかと必ず訊かれます。能年玲奈?小泉今日子(本物のキョンキョン。僕はニセ)?いやいや、僕らの世代ならやはり美保純でしょう!『ピンクのカーテン』ですよ」と(このマクラがネタにリンクしている)。

稲葉さんの大冒険」は三遊亭圓丈が喬太郎の師匠・さん喬(本名:稲葉 稔)のために書いた新作だそう。ナンセンスでアナーキー、ぶっ飛んでいる。喬太郎の芸も爆発。物凄いものを観た。途中、桂枝雀演出「宿替え」へのオマージュもあり(僕は「口入屋」の膳棚を担ぐ場面を想い出した)。

弾けた高座で、心底愉しんだ。

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2013年11月 6日 (水)

たちきれ/桂よね吉独演会

10月31日(木)天満天神繁昌亭へ。

Yone

  • 桂鯛蔵/二人癖
  • 桂よね吉/ちりとてちん
  • 桂阿か枝/厩火事
  • 桂よね吉/たちきれ

繁昌亭では初めてとなる桂よね吉独演会。彼が語る所によると、繁昌亭昼席で時間オーヴァーしてしくじり、一年間干されていたこともあったそう。

上方落語界きっての男前だけに会場の7割は女性客。仲入りで男子トイレが空いていたこと!

高座返しはアフロ・ヘアの桂二葉。「彼女のぎこちない動きがロボットみたいでしょう?そこが気に入っていてよく頼むんです」とよね吉。二葉は退場時に拍手を貰っていた。

鯛蔵については「目つきがテロリストみたいでしょう?」「でも喋りが流暢だから最近を彼に前座お願いすることが多い」と仕事で2月の豪雪時に富山に一緒に出かけた時のエピソードを語る。鯛蔵は運転免許書を持っていないので全行程をよね吉が運転し、チェーンの着脱も一人でやった。その間、鯛蔵は車の中でコーヒーを飲んでいたと。

さらに阪急阪神ホテル・グループの食材偽装問題について「新阪急ホテルはまだ許せると思うんです。値段がそれなりですから僕もよく利用していますし。しかしリッツ・カールトンは駄目でしょ!以前あそこでお茶した時、伝票見てしばいたろかと思いました」と会場爆笑。そして「ちりとてちん」へ。考えてみればこのネタも料理を偽装する話だからマクラがピッタリ合っている。上手い!以前のよね吉は芝居噺など所作が素晴らしいのだが、マクラが詰まらないのが弱点だった。

ただ、このような滑稽噺は彼のニンに合っていない気がした。腐った豆腐を食べさせられた時の変顔にも違和感がある。心地よいリズム感で聴かせるタイプの噺家ではないだけに、むしろその「間」がダレる。NHK朝ドラ「ちりとてちん」でも共演した兄弟子・桂吉弥の方が面白い。

「ちりとてちん」には「ものよろこび」する男が登場するのだが、この件から考えると桂南光からの口伝の可能性が高い(吉弥も南光から教わったという)。ちなみに茶碗蒸しのエピソードを噺に組み入れたのは南光の工夫だそうだ。

仲入りを挟み2年ぶりに高座に掛けるという「立ち切れ線香」へ。江戸時代における勘当・廃嫡の意味を解説。また米朝師匠に祇園の茶屋遊びや、芸妓がいて能舞台があった頃の料理店「大和屋」@大阪ミナミに(勉強のために)連れて行ってもらった想い出などを語った。

このネタも吉弥で聴いたことがあるが、断然よね吉の方が良かった。迫真の演技力で、涙を流しながらの口演。しっとりと、滲みだす抒情。

噺の中で小糸の母は若旦那が百日間、店の蔵に閉じ込められていたと聞き「子供みたい」と言う。そして「船場は怖いとこでんな」と続ける。この言葉に込められた、怨嗟・哀感・諦念といった諸々の想いにゾクゾクっとした。お見事!

DVDで鑑賞した桂米朝の高座を含めて、僕が今まで観た「たちきれ」のベスト・パフォーマンスであった。このネタはまた彼で是非聴きたい。

そうそう、甘いモノが好きで太りやすい体質のよね吉だが、しっかり減量して臨んでいたことも追記しておきたい。「たちきれ」にはそれに相応しい体型というものがあるからね。

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2013年11月 4日 (月)

ミュージカル「エニシング・ゴーズ」とインディ・ジョーンズ

11月1日(金)シアターBRAVA!へ。ミュージカル「エニシング・ゴーズ」を観劇。

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作詞・作曲はコール・ポーター。1934年ブロードウェイ初演。再演時にミュージカル「太平洋序曲」「アサシンズ」「ビッグ」の台本を書いたジョン・ワイドマンがリライトに参加している。

リヴァイヴァル版ではポーターが書いた他のミュージカル作品からの楽曲を使用したり、第1幕フィナーレを「エニシング・ゴーズ」で締めくくるなど(オリジナルは違っていた)、様々な改変が行われている。これも時代に合わせた工夫なのだろう。実際このタップ・ダンスによる群舞は圧巻で、「42nd Street」の第1幕フィナーレ”ララバイ・オブ・ブロードウェイ”や「ミー&マイガール」”ランベス・ウォーク”の興奮を想い出した。

実は楽曲「エニシング・ゴーズ」を初めて聴いたのは映画館でスティーヴン・スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(1984)を観た時だった。映画の冒頭は1935年の上海。ナイトクラブ「オビ=ワン」でケイト・キャプショーがこれを歌うのだ(彼女は後にスピルバーグ夫人となる)。

「エニシング・ゴーズ」のブロードウェイ初演はエセル・マーマンが出演しており、1936年に彼女の主演で映画化もされている(お相手はビング・クロスビー)。しかし残念ながら僕は未見で、今回初めて物語の全容を知った。

「何でもあり」の無類な愉しさ!ギャングはスター扱いされ、価値観は反転する。殺人犯が最後にショー・ビジネスで成功するミュージカル「シカゴ」のことを想い出した。あと最後に3−4組の合同結婚式になるプロットは「ミー・アンド・マイガール」(1937年ロンドン初演)に踏襲されている。馬鹿馬鹿しいお話だが、そこがいい。

コール・ポーターのバラエティに富む楽曲に魅了された。ビッグバンド・スタイルによるタップ・ナンバーもあれば情熱的な"The Gypsy in Me"はラテンのノリ。"Blow, Gabriel, Blow"はゴスペル調で、「ガイズ&ドールズ」(1950年ブロードウェイ初演)の”座れ、舟がゆれるのはお前のせいだ”はこれに影響を受けているのではないかと想った。

瀬奈じゅんがすごく良かった。彼女のことは宝塚時代から知っているが正直「淡白な男役」という印象しかなく、特にタイトルロールを演じた「エリザベート」は酷かった。しかし今回の役は彼女のニン(任=役者の持つ芸風や性格/歌舞伎用語)に合っていたと想う。水兵服を着てタップを踊る場面はさながらエレノア・パウエルが主演するMGMミュージカルの如しであった。

鹿賀丈史、田代万里生、吉野圭吾、大澄賢也らも好演。

お嬢様役のすみれは長身の美人だった。調べてみると石田純一と松原千明の長女だとか。母方の祖母がタカラジェンヌだったらしい。歌もわりかしイケた。さすがサラブレッドだね。

久しぶりの保坂知寿。歌が少ないのが気の毒。彼女で「クレイジー・フォー・ユー」を観たことを想い出した。これを作曲したガーシュウィンは丁度コール・ポーターと活躍した時期が一緒だから、同じ「時代の匂い」を感じたんだ。

山田和の演出はソツがない。あと”踊る指揮者”塩田明弘率いるオーケストラがノリノリの演奏だったことは特筆に値するだろう。

また再演があれば是非もう一度観たい作品である。

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