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2013年8月

2013年8月28日 (水)

宮崎駿「風立ちぬ」とエリア・カザン~ピラミッドのある世界とない世界の選択について

宮崎駿は映画「風立ちぬ」の企画書で次のように書いている。

 自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。

芸術家は時代に翻弄されることがある。美を追求しようとするものは時として政治に巻き込まれ、迎合することを余儀なくされる。もしそれを拒否した場合、芸術家としての道が絶たれることもあるのだ。

「風立ちぬ」のキャッチコピーは「生きねば。」「もののけ姫」のコピーが「生きろ」だったから僕は最初、どこが違うの?と疑問に感じた。しかし決定的な違いがある。「生きろ」は命令文であり、宮崎駿が子どもたちに向けたメッセージだ。しかし「生きねば」は自分に向けた決意である。つまり「風立ちぬ」は芸術家/クリエーターとしての宮崎駿自身のことを語っており、そこに子どもたちは介在しない。また「生きろ」は明快で直球の表現だが、「生きねば」は苦渋に満ちており屈折している。つまり、(それでも)「生きねば」という逆説的ニュアンスが感じられる。

僕は「風立ちぬ」の主人公・堀越二郎の生き様を見ながらエリカ・カザンのことを想い出した。

エリア・カザンはオスマン帝国の首都イスタンブルに生まれたギリシャ人で4歳の時に家族とアメリカに渡った。若いころには米国の共産党に短期入党していた。やがて「欲望という名の電車」「セールスマンの死」などの演出により演劇界で名を馳せ、映画界に進出。「紳士協定」や「欲望という名の電車」を監督し、いくつものアカデミー賞を受賞した。

1952年下院非米活動委員会による「赤狩り」でカザンは共産主義者の疑いがかけられ、それを否定するために司法取引をした。彼は共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に証言した。その中には作家ダシール・ハメットや劇作家リリアン・ヘルマン(映画「ジュリア」はヘルマンの自伝小説を元にしている)の名もあった。

こうして”裏切り者”カザンはハリウッドに留まることが許され、1954年に監督した「波止場」がアカデミー賞で8部門受賞し、「エデンの東」(1955)や「草原の輝き」(1961)などの名作を撮り続けた。

一方、非米活動委員会で証言を拒否した映画人たちはブラックリストに載り、ハリウッドから追放された。その代表格がハリウッド・テンである。ハリウッド・テンで最も有名なのはダルトン・トランボ。かれは追放後も偽名や友達の名を借り、映画の脚本を密かに書き続けた。そして何と別人に成りすましたまま「ローマの休日」(1953)と「黒い牡牛」(1956)で2度もアカデミー賞を受賞している。

ただトランボは脚本家という特殊事情があったから覆面のまま活躍出来たのであって、ハリウッド・テンの他の9人はその後まともな仕事をしていない。キャリアは完全に絶たれたのである。

カザンとトランボ。ここに人生における大きな命題がある。つまり「ひたすら美(芸術)を追求するのか、自分の信念(倫理)を貫くのか」。答えは一つじゃない。多分どちらも正解なのだ。

1998年、カザンの功績に対するアカデミー名誉賞の授与は波乱含みだった。会場の外では反対派がデモをし、リチャード・ドレイファスが授与反対の声明を出した。カザンが登場すると一部がスタンディング・オベーションする中、ニック・ノルティやエド・ハリスらは腕組みし座ったまま無言の抗議をした(僕はBSを通しリアルタイムで観た)。

カザンと似たような選択を迫られた例として、ナチス・ドイツの党大会を記録した「意志の勝利」や1936年ベルリン・オリンピックの記録映画「民族の祭典」「美の祭典」(「キネマ旬報」外国語映画ベストテン第1位)を撮ったレニ・リーフェンシュタール、ナチスを讃えるカンタータの作曲を依頼され、未完のまま亡くなったフランツ・シュミット、ナチスの党員だったオーストリア出身の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン(映画「愛と悲しみのボレロ」にはカラヤンをモデルにした指揮者が登場する)、ナチス政権下にベルリン・フィルの常任指揮者だったヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1946年ベルリンにおける非ナチ委員会でのフルトヴェングラー最終弁論はこちら)らが挙げられるだろう。

映画「風立ちぬ」には次のような問答が用意されている。

カプローニ「君はピラミッドのある世界と、ピラミッドのない世界のどちらが好きかね?」
二郎「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています」

つまり宮崎駿はたとえ王が無辜の人民を搾取し、強制労働させて創ったピラミッドであろうとも、「美しい」という理由で肯定するのである。これは芸術家として生まれた者の挟持・覚悟を示している。

もし僕が「君は映画『エデンの東』や『草原の輝き』が存在する世界と、ない世界のどちらを選ぶかね?」と問われたら、「ある世界を望みます」と即答するだろう。カザンがハリウッドから追放されていれば「エデンの東」は存在しなかったし、ジェームズ・ディーンも今ほどのスターではなかっただろう。故に僕は赤狩りにおけるエリア・カザンの行動を100%肯定する。

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2013年8月27日 (火)

《宝塚便り》すみれ寮の謎

兵庫県宝塚市に引っ越して1ヶ月が経過した。これから自宅近郊で目に付いたこと、心に残ったことなどを少しずつ語っていこう。

宝塚大劇場の隣には予科・本科合わせて2年制の宝塚音楽学校がある。そして殆どの生徒はすみれ寮に寄宿している。

音楽学校の校章は竪琴にTMSと刻まれている。

Tms

勿論、Takarazuka Music Schoolの略である。

ところが!すみれ寮の紋章は竪琴にTOCと書かれている。

Toc

えっ、TOCって一体何??

そこで調査を開始し、漸く以下の事実が判明した。

宝塚歌劇団は昔、海外でTakarazuka Opera Companyを名乗っていたそうである(現在の正式英語名称はTakarazuka Revue)。TOCはその名残らしい。

宝塚ファミリーランド(遊園地)の跡地に2003年に開業した宝塚ガーデンフィールズは経営難のため2013年12月24日に閉園が決まった。また、その一区画にすみれ寮を新築移転することが歌劇団から発表された(2015年春完成予定)。多分その際に古いTOCのマークは役割を終えるのであろう。時の洗礼を受け、伝統として残るものもあれば消えてゆくものもある。そういうことだ。

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2013年8月26日 (月)

宝塚雪組「若き日の唄は忘れじ」「ナルシス・ノアール II」(テレビ/映画版「蝉しぐれ」も絡めて)

8月25日(日)、梅田芸術劇場へ。宝塚雪組の全ツ(全国ツアー)大阪公演を観劇。

若き日の唄は忘れじ」の原作は藤沢周平「蝉しぐれ」。1994年、紫苑ゆう、白城あやかを中心とした宝塚星組で初演された。その時の台本・演出は座付きの大関弘政。大関はこの作品をもって退団、現在は劇団わらび座の作・演出家として活躍している。今回の再演で演出を担当したのは和物で評価の高い大野拓史。

僕は「蝉しぐれ」の物語が好きだ。黒土三男が脚色したNHK金曜時代劇(公式サイト→こちら)は出色の出来だった。文四郎を演じる内野聖陽がはまり役だったし、典型的”悪代官”役の平幹二朗も本当に憎たらしくて最高だった。後に黒土三男は自ら脚本・監督し映画「蝉しぐれ」(公式サイト→こちら)を撮ったが、こちらは残念な出来というか、はっきり言って駄作だった。市川染五郎と木村佳乃もミス・キャスト。黒田は演出家として全くセンスがないし、役者の選択眼も節穴である。

さて宝塚版についてだ。兎に角、大関弘政の台本が素晴らしい。1時間35分という短い上演時間によくぞ原作をエッセンスを凝縮し、過不足ない作品に仕上げたなとほとほと感心する。音楽もいい。ただひとつだけミュージカルとしての難点を指摘するなら、最後に文四郎とお福が再会する場面に一切唄がないことかな?しかし劇伴に尺八や琴、鼓など和楽器を取り入れている所が気に入っているし、僕が知る範囲で宝塚歌劇団の和物の中で最高傑作ではないだろうか。月や笹薮など日本の美を強調した大野の演出もお見事。僕は初演の星組版をNHK-BSで観ているが、やっぱり生で鑑賞すると感動の度合いが違う。

「蝉しぐれ」の主題はストイックな愛だが、それに「秘剣村雨」というミステリアスな必殺技が重要な役割を果たし、非道な”悪代官”が登場したりとケレン味たっぷりで飽きさせない。優れたエンターテイメント作品である。

主役の壮一帆は声量がなく音程も不安定だが、ビジュアル的には文句なし。お福役の愛加 あゆは美人で歌唱力もあり、白城あやかに負けないくらい良かった。

さて、後半の「ナルシス・ノアール II」は作・演出/岡田敬二。岡田さんのショーはよくも悪くもクラシカルで安定感がある。逆に言えば斬新さとか驚きはないんだけれどね。例えばこの作品にはタンゴの名曲「ジェラシー」が登場するが、若い演出家ならここでピアソラを使用するだろう。でも品があるし、宝塚歌劇はそもそも「古臭く」ていいんじゃないだろうか?岡田さんが好むラベンダー色へのこだわりも健在だった。

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2013年8月23日 (金)

想像力についての考察(「風立ちぬ」「桐島」そして「秒速5センチメートル」を巡って)

映画「桐島、部活やめるってよ」は掛け値なしの傑作である。それはこの作品が日本アカデミー賞で最優秀作品賞・監督賞などを受賞し、キネマ旬報ベストテンで第2位、「映画芸術」誌でも第5位になったことからでも明らかだろう。

しかし「桐島」を観た現役高校生たちの反応は押し並べて「分からない」だったようだ。映画に登場する高校生たちは誰も本音を言わない。映画評論家・町山智浩さんの言葉を借りるなら、「そんなのダセェ」からだ。婉曲的に語られる彼らの会話や行動から、本心を探るしかない。観客の想像力・推察力が試されるのだ。人生経験の浅い若い人にはそれが難しかったのだろう。だが「分からない」のは高校生だけではない。大人でもこの映画が何を言いたかったかを理解出来ていない人たちが沢山いる。例えば「映画芸術」誌でこの映画はベストテンと同時に、ワーストテンで第8位にランク・インしている。

宮崎駿監督の「風立ちぬ」もそんな映画だ。主人公・堀越二郎は寡黙な人で、多くを語らない。彼の本心は直ぐに見えてこない。ここでも観客の想像力が問われている。だから本作を絶賛する人(主にクリエーターが多い)と、「分からない」人たちに、気持ち良いくらい真っ二つに分かれている。毎日新聞に《映画:賛否両論 「風立ちぬ」 「感動」×「違和感」》という記事が掲載されたが、「賛否両論」とは違う。「理解出来る人/出来ない人」の差だろう。作家・東浩紀 氏はtwitterで次のように呟いている。

普通のユーザーの感覚からすれば、風立ちぬは、戦争産業に従事したり恋人が結核で苦しんでたりするのにまったく主人公に葛藤がないのでびっくりするし、ちょっと共感しがたい(どこに共感すればわからない)映画だと思う。

僕の受け止め方はちょっと違っていて、主人公に葛藤がないのではなく、あるけどそれを直截的に語っていないだけだと想う。本心をそのまま台詞にするなんてみっともないじゃない?それは映画の行間から観客が想像力で補い、推察することだ。芸術とはそういうものだ。二郎は菜穂子の死を痛いほど哀しんでいるし、自分が好きな飛行機の設計が殺人兵器として使用されていることは十分自覚し、苦しんでいる。僕にはそのことがしっかりと伝わって来た。

風立ちぬ」が戦争シーンを描いていないという批判もあるが、見当違いも甚だしい。二郎の設計した零戦で多くの人々が死んでいった情景は観客の想像力で十分補える。「戦争反対!」と声高に叫ぶプロパガンダ映画じゃないんだ。格が違う。

「桐島」や「風立ちぬ」の論争を眺めていて、想い出したことがある。僕は高校生の時にフェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」や「8 1/2」を観て、サッパリ意味が分からなかった。苦痛な時間でしかなかった。同じフェリーニの「道」とか「カビリアの夜」にはその年頃でも感動したのだが。しかしそれから25年経過して、再見してびっくりした。フェリーニが言いたかったことが今度は手に取るように分かるのだ。そして初めて「甘い生活」や「8 1/2」が映画史に燦然と輝く傑作と讃えられる理由が理解出来た。ついでに言えば「桐島」のラストシーンと「甘い生活」のラストは間違いなく繋がっている。菊池宏樹@「桐島」=マルチェロ@「甘い生活」なのだ。

だから「桐島」や「風立ちぬ」は高校生にはまだ早いかも知れない。世の中には人生経験や知識の積み重ねで見えてくるものもある。勿論、一生それが見えない人もいるけどね。

さて、漸く本題に入る。以前にも少し触れた新海誠監督の連作短編アニメーション映画「秒速5センチメートル」についてだ。新海監督の映画は色々と欠陥も多いのだが、それでもTSUTAYA DISCASで借りた「秒速5センチメートル」には強く惹きつけられた。そして立て続けに5回も観てしまった。高校・大学生の頃はこれくらい繰り返し観る作品もあったが、近年では極めて珍しい。動揺したと言ってもいい。そこで、どうしてこれ程までに魅了されたのかじっくり考えてみた。

5cm

秒速5センチメートル」は3本の短編から構成される。第1話「桜花抄(おうかしょう)」は主人公・遠野貴樹と篠原明里の小・中学生時代の淡い恋が描かれる。舞台は東京と栃木。

第2話「コスモナウト(宇宙飛行士のこと)」の舞台は種子島へ。高校3年の貴樹が同級生の澄田花苗という女の子の視点から描かれる。

第3話「秒速5センチメートル」は再び東京が舞台に。貴樹は26歳になっている。そして彼が3年間付き合った女性・水野理紗が登場する。

桜花抄」は貴樹の心情が直にナレーションで語られるのでベタな展開だ。自己陶酔的で感傷的な新海節に些か辟易する。また岩井俊二監督の映画からの借り物が多過ぎる。例えば桜のイメージは明らかに松たか子主演の「四月物語」だし、踏切の場面で明里が言う台詞は「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」のプールで奥菜恵が最後に言う台詞を彷彿とさせる。そして極めつけは図書館の貸し出しカード。これって「LOVE LETTER」そのものだ。

しかし「コスモナウト」になると俄然良くなる。語り部が花苗に代わるので、貴樹がぐっとミステリアスな存在になるのだ。彼が何を考え、どうしてそう行動するのか、観客は想像力を働かすしかない。

コスモナウト」と「秒速5センチメートル」を支配する感情は絶対的孤独である。貴樹も花苗も理沙も寂しい人達だ。相手に自分の気持を分かって貰えない。孤独に孤独を重ねても満たされることはない。ポッカリ開いた穴は決して埋まらない。そのやるせない切実な想いを山崎まさよしの歌「One more time, One more chance」が一層掻き立てる。

繰り返し登場する飛翔する鳥。届かない遠くのものへの憧れの象徴であり、また孤独そのものを示している。広大な空をひとりで飛ぶのは寂しいから。そのイメージは「コスモナウト」で花苗が飛ばす紙飛行機や宇宙探査機の打ち上げに繋がっている。

この世界観は僕が大好きな福永武彦の小説「草の花」や大林宣彦監督の一連の映画、例えば「時をかける少女」「さびしんぼう」「ふたり」「はるか、ノスタルジィ」に通じるものがある。だから惹かれたんだと、ここに至って漸く得心した。

しかし「秒速5センチメートル」もまた「風立ちぬ」同様に、高校生には分かり難いかも知れない。絶対的孤独感、憧れるものに手が届かない焦燥感・諦念を感じた経験は余りないだろうから。だからやっぱり大学生以上の大人向けのアニメーションかな。勿論、大人になっても本作と無縁の人たちは沢山いる訳だけれど。

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2013年8月21日 (水)

宮崎駿「風立ちぬ」とモネの「日傘を差す女」

宮崎駿監督「風立ちぬ」のポスターになった場面はクロード・モネが描いた「日傘の女」へのオマージュであることは既に多くの人が指摘しており、今更言うまでもない。

Kaze2_2

そこでこの記事では「どうして、いきなりモネ!?」という疑問を解明すべく、考察してみたい。

まず「日傘の女性、モネ夫人と息子日傘をさす女)」を見て下さい。

Woman_with_a_parasol_4

モデルは妻のカミーユと息子のジャン。描かれたのは1875年。その4年後にカミーユは32歳の若さで亡くなった。そして彼女は結核を患っていた。つまり「風立ちぬ」に繋がっているのだ!

カミーユの死後7年経過した1886年にモネは再び同じ題材の作品に取り組んでいる。それが下の二点である。

Monet1

Monet2_2

女の顔はぼんやりして見分けがつかなくなっている。あたかも黄泉の国からふと、現世に立ち現れたかのようだ。これはモネが夢で見た情景、幻想なのかも知れない。そういう意味において、やはり「風立ちぬ」ラストシーンの世界観を彷彿とさせる。

なお、最後の絵については女性の影がないと指摘する声もある。ただ僕は、光が右斜め前方から射しているので、影は左後方にあるんじゃないかと解釈しているのだが、皆さんはどうお考えになるだろうか?

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2013年8月19日 (月)

宮崎駿監督「風立ちぬ」批判に徹底反論する(堀辰雄「菜穂子」を通して)

芸術の世界において、いつの時代も巨匠を批判・否定することで目立とう、あるいは自分が偉くなったような錯覚をする愚かな連中がいるものだ。ある意味、嫉妬や劣等感の裏返しでもある。

有名になればアンチを生む。これは世の中の必定であり、逆にアンチを生まない者は大したことがないのである。アンチとはいわば有名税みたいなものだ。

黒澤明監督の晩年の作品「乱」「夢」「八月のラプソディ」等は「映画芸術」誌ワーストテンに常にランクインしていた。また黒澤映画が海外で評価が高いことにやっかんで、「黒澤明は外国人のために映画を撮っている」などど、トンチンカンな中傷する輩もいた。

宮崎駿監督(以下「宮さん」と呼ぶ)の「風立ちぬ」については、まず韓国から「嘗ての日本の軍国主義を賛美している」「右翼だ」といった批判が出ており、彼の国では上映中止になりかねない状況である(詳細はこちら)。

笑止である。宮さんは東映動画時代、労働組合の役員をして会社と闘争していたという経歴を持ち、「従軍慰安婦問題について日本政府は韓国に謝罪すべきだ」と言うような筋金入りの左翼だ。そんなことは作品を観れば明らかだろう。「風の谷のナウシカ」の風の谷とか、「もののけ姫」のタタラ場は自給自足を営む生活共同体(コミューン)である。そしてcommuneという英語は勿論、communism(共産主義)の語源である。「の豚」の主人公ポルコ・ロッソは宮さんの分身であり、イタリア共産党員であることを暗示している。だからファシスト党から追われているわけだ。子供ならともかく、その程度の読解力もない大人はそもそも映画を観る資格がない

宮さんの「風立ちぬ」は時代に翻弄されようと、自分の夢を実現すべきだ、精一杯「生きろ」と語りかける。そして主人公は自分が設計する飛行機が殺人兵器になることは十分自覚しているし、「矛盾だ」と言っている。たとえ十字架を背負おうと、やりたいことをやって生き続けるのだというプロとしての覚悟がある。その決意を咎める資格が誰にあるだろう?

零戦を設計した堀越二郎を非難する韓国のマスコミ関係者に問いたい。では貴方たち、あるいは貴方たちの親は1961年に朴正煕が起こした5・16軍事クーデターに反対し、独裁軍事政権に対し正々堂々とNo!と言い、レジスタンス活動を行っただろうか?時代に迎合し、生きてこなかったと胸を張って言えるのか?

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

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「風立ちぬ」はまた、煙草の映画でもある。映画全篇で四六時中登場人物の誰かが喫煙している。部屋の外で煙草を吸おうとする二郎を結核を患っている菜穂子が留め、「ここで吸って」と言う場面もある。

NPO法人「日本禁煙学会」がこの喫煙描写に苦言を呈し、それに対して「喫煙文化研究会」(代表:すぎやまこういち)が反論のファックスを各報道機関に送るといった具合に、場外乱闘の大騒動に発展している(詳細はこちら)。

まず時代背景を考察してみよう。JTの調査によると2012年現在で日本男性の喫煙率は32.7%(女性10.4%)。しかし1965年の調査では男性喫煙率は82.3%(女性15.7%)だった。つまり「風立ちぬ」が描いた時代に男がタバコを吸うのは当たり前のことだった。現在の価値観で過去を裁くことは出来ない

ちなみに小説「風立ちぬ」を書いた堀辰雄も喫煙者であり、結核を患っていると分かり医者から禁止されても止めなかったという。

宮さんの「風立ちぬ」は堀辰雄の「風立ちぬ」から題名を拝借しているが、ヒロインの名前と二郎の上司「黒川」は堀の小説「菜穂子」に由来する。そのサナトリウムの場面で、菜穂子の夫・圭介がこう言う。

「廊下なら煙草をのんで来てもいいかな。」

また、ひとり八ヶ岳のサナトリウムを脱出し、東京に向かう列車に乗り込んだ菜穂子。そこで次のような記述がある。

彼女はそのとき急に、いつも自分のまわりに嗅ぎつけていた昇汞水(しょうこうすい)やクレゾオルの匂(におい)の代わりに、車内に漂っている人いきれや煙草のにおいを胸苦しい位に感じ出した。彼女にはそれが自分にこれから返されようとしかけている生の懐かしい匂の前触れでもあるかのような気がされた。彼女はそう思うと、その胸苦しさも忘れ、何か不思議な身慄(みぶる)いを感じた。

つまり、映画「風立ちぬ」の菜穂子が二郎に自分の傍で煙草を吸うよう求めるのは、そこに「生の匂=あなた」を感じたかったからだ。だからこの描写はどうしても必要だったのである。

僕自身は一度もタバコを吸ったことがないし、目の前で吸っている者がいたら「迷惑だからやめて下さい。貴方がタバコを吸う権利があるように、僕には受動喫煙による健康被害を受けない権利がある」と言う人間である。しかし、だからと言ってヘビー・スモーカーの宮さんを非難しないし、世紀の大傑作「風立ちぬ」の喫煙場面を問題にしたりはしない。それはまた、別の話(That's another story.)だ。

以下余談。厚生労働省は止められない喫煙者を「ニコチン依存症」と定義している(→こちらを参照のこと)。つまり病気なのだ。厚生労働省のレポートを読むと(→こちら)、ノルウェーの調査では低所得者層ほど喫煙率が高く、世界中どこを見ても教育水準(学歴)が低い方が喫煙率が高いというデータが出ている。ちなみに落語家の喫煙率は非常に高い。なお、これはあくまで現在の調査であり、煙草の害が明らかでなかった「風立ちぬ」の時代には勿論当てはまらない。

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2013年8月17日 (土)

トゥ・ザ・ワンダー

評価:B+

To_the_wonder

映画公式サイトはこちら。 

テレンス・マリック監督作品の特徴を列挙してみよう。

  • レフ板とか照明器具を用いず、自然光で撮る。
  • 逆光が多く、太陽が画面に入ってくる。
  • アカデミー撮影賞を受賞した「天国の日々」に顕著だが、マジック・アワー(太陽が沈んでから20分くらいの間)での撮影を好む。
  • 会話よりも登場人物のモノローグ(独白)が多い。
  • マリック自身が書く脚本は状況説明をしないので、しばしば観客は置いてきぼりを喰らい、途方に暮れる羽目になる。「ツリー・オブ・ライフ」がアカデミー作品賞にノミネートされた年、授賞式で司会のビリー・クリスタルが「アルフィー」の替え歌で"What's it all about, Malick?"(マリック監督、この映画一体どういう意味?全然分かんないよ)と歌い、会場は爆笑となった。

新作「トゥ・ザ・ワンダー」も上述した要素がすべて当てはまる。マリック節炸裂だ。

映画冒頭に登場するモン・サン=ミシェル@フランスの映像が驚異的に美しい!物語はいつもの調子で、あってなきが如し。マリックの映画は最初から理解することを諦め、詩として受け取るべきだろう。Don't think. FEEL !!!(by ブルース・リー「燃えよドラゴン」)だ。

僕は心地よい映画体験に酔ったが、撮影監督が同じエマニュエル・ルベツキなので、「ツリー・オブ・ライフ」と雰囲気が似ている感は否めない。二番煎じ。映像のクオリティは超弩級の高みにあるんだけどね。

あと「ノーカントリー」「それでも恋するバルセロナ」「スカイフォール」のハビエル・バルデムは好きなのだけれど、今回の苦悩する牧師役は似合ってなかった。それからベン・アフレックは殆ど台詞もなく、彼の持ち味が生かされていない。正直、誰が演じても同じだと想った。

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”モンスター・マスター”レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ/映画「パシフィック・リム」

「パシフィック・リム」はエンドロールの最後に「この映画をモンスター・マスター、レイ・ハリーハウゼン本多猪四郎に捧ぐ」というギレルモ・デル・トロ監督の献辞が登場する。

レイ・ハリーハウゼンはコマ撮りによるストップ・モーション・アニメーションの技法を用いて「シンドバット七回目の冒険」「アルゴ探検隊の大冒険」「タイタンの戦い」等を撮った人で、ジョージ・ルーカスはその訃報を聞き、「僕達のほとんどが子供の頃から彼(ハリーハウゼン)の影響を受けてきた。その存在なくして『スター・ウォーズ』は生まれなかった」とコメントしている。

一方、本多猪四郎は言うまでもなく「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」「フランケンシュタイン対地底怪獣」「マタンゴ」「美女と液体人間」の監督であり、「影武者」以降は演出補佐として黒澤明監督を支えた。大林宣彦監督によると黒澤映画「夢」に出演するため来日したマーティン・スコセッシ監督は撮影前のメイクの間中「ミスター・ホンダはどこにいる?」と尋ね、本多との対面を熱望したという(大林監督は「夢」のメイキングを撮った)。

ギレルモ・デル・トロはメキシコに生まれ、幼少時から日本のアニメや怪獣映画を観て育った。筋金入りの「オタク」である。例えば「パンズ・ラビリンス」撮影中に彼は主演の女の子に「風の谷のナウシカ」のコミック本をプレゼントし、また「パシフィック・リム」の撮影が佳境に入り疲労困憊していた菊地凛子を励ますために「となりのトトロ」を歌ってあげたという(これが英語だったのか日本語だったのか知りたいところだ)。

「パシフィック・リム」にはそういった日本のアニメーション/怪獣映画へのが溢れている。公式サイトはこちら

評価:A

Pacific

いや~もう、無茶苦茶面白かった!ワクワクした。大阪のTOHOシネマズでは梅田・なんばを含め「2D字幕版」か「3D吹替版」の選択肢しかなくて随分迷った。しかし見世物小屋的怪獣映画だし、ここは3Dしかないでしょ!と選んだのだが大正解。違和感はなかった。笑ったのが菊地凛子が本人の声じゃなかったこと。何と林原めぐみ(「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイ)だった!これがまたすごく良かったんだ。

環太平洋防衛軍の司令官がカッケー!痺れた。またオタクの科学者コンビが可笑しい。そしてカイジュウの臓器密売業者ハンニバル・チャウ役でロン・パールマンが登場した時は拍手喝采した。「ヘルボーイ」「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」で既にデル・トロと組んでいる怪優である。

ロボットに乗り込むパイロットがいて(2人というのが新機軸)脳をシンクロ(映画では”ドリフト”と呼ばれる)させる点、次々と襲ってくる怪獣が人間の反撃手法を学習し進化していく点、ロボットの手から剣が現れて怪獣を引き裂く場面など「ヱヴァ」を彷彿とさせた。

兎に角、この映画が素晴らしいのはロボットと怪獣の質感、重量感である。最新鋭のVFXと音響効果が際立っている。3Dの立体感も抜群だった。必見。

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2013年8月14日 (水)

モンスターズ・ユニバーシティ

評価:C-

Mon


「モンスターズ・インク」(2001)の続編というか、前日譚である。映画公式サイトはこちら

長編第1作「トイ・ストーリー」(1995)以降、ピクサー・アニメーション・スタジオはCGアニメの最先端を突っ走り、他のスタジオの追随を許さず常に最高のクオリティで作品を提供し続けてきた。そのことに対して僕は常に敬意を感じてきたし、賛辞を惜しまない。

しかしピクサー傑作群の中で「モンスターズ・インク」は一番詰まらないと思う。シナリオが駄目。結局言いたいことは「仲間が一番!」「親友を大切にしなくちゃいけない」というバディもの(Buddy film)の枠内を一歩も出ず、予定調和で目新しいものが何もない。「モンスターズ・ユニバーシティ」にも全く同じことが当てはまり、退屈であくびが出た。大人には観る価値なし。おこちゃま向け。

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2013年8月13日 (火)

クヮルテット・アヴォス(ピアノ四重奏団)とブラームスの謎

8月6日(火)大阪倶楽部へ。

クヮルテット・アヴォスの演奏会を聴く。このグループはローマのサンタ・チェチーリア国立音楽院を卒業した若手有志によって2007年に結成された。メンバーは山田美怜(ヴァイオリン)、マルコ・ニルタ(ヴィオラ)、アレッシオ・ピアネッリ(チェロ)、マリオ・モントーレ(ピアノ)。山田さんは爽やかな美人だった。

  • マーラー/ピアノ四重奏曲 イ短調
  • シューマン/ピアノ四重奏曲 変ホ長調
  • ブラームス/ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調
  • モーツァルト/ピアノ四重奏曲 第1番 第3楽章 ロンド (アンコール)

シューマンのピアノ四重奏曲は変ホ長調(1842年)以外に、ハ短調(1829年)がある。

交響曲:4曲、弦楽四重奏曲:3曲、ピアノ五重奏曲:1曲、ピアノ三重奏曲:3曲、ヴァイオリン・ソナタ:3曲、ピアノ・ソナタ:3曲。何の数字だかお分かりになるだろうか?実はシューマンとブラームスが生涯にそれぞれ作曲した曲数である。これだけの一致を単なる偶然と片付けることが出来るだろうか?僕はそう想わない。ここにブラームスの意志を感じる。実にミステリアスだ。

シューマンとブラームスの交響曲の調性に隠された意図については下記記事で詳しく語った。

今回演奏されたシューマン/ピアノ四重奏曲 変ホ長調(1843年初演)とブラームス/ピアノ四重奏曲 第1番(1861年初演)にはひとつの共通点がある。いずれもクララ・シューマンが初演でピアノを弾いていることである。クララがふたりの作曲家にインスピレーションを与えたことは間違いない。何というミューズだろう!そんなことを考えながら聴いた。

マーラーは繊細なppで開始された。「悲劇の季節」を感じさせる、決然とした演奏。

シューマンの第1楽章は背筋がピンとしてのびやか、かつ、しなやか。第2楽章スケルツォは超高速で緊密。第3楽章アンダンテには歌心があり、甘美な夢を描く。フィナーレのヴィヴァーチェは各奏者が雄弁で生命力に満ちていた。

ブラームスの第1・2楽章を支配する感情は詠嘆。憂愁の秋、抗えぬ宿命を描く。第3楽章はクララへの想い。中間部では仮初の愛の勝利を宣言するようなアンセム(Anthem)となる。そしてハンガリー舞曲(ロマの歌と踊り)である第4楽章は激しい情熱とスピード感に溢れ、華麗な音楽。

選曲も良かったし、達者な室内楽グループで猛暑の中、わざわざ足を運んだ甲斐があった。

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2013年8月10日 (土)

新海誠監督「秒速5センチメートル」「雲のむこう、約束の場所」

「秒速5センチメートル」 評価:A  公式サイトはこちら

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「雲のむこう、約束の場所」 評価:C 公式サイトはこちら

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今年公開された「言の葉の庭」のレビューで、「好きだけど、嫌い」と書いた。その後どうも気になって仕方がないので、新海誠監督の過去のアニメーション作品のDVDを借りて観た。

雲のむこう、約束の場所」(2004)はその年公開された「ハウルの動く城」を抑え、毎日映画コンクールでアニメーション映画賞を受賞している。しかし僕は「言の葉の庭」同様に、自己陶酔的かつ過剰にセンチメンタルな内容に閉口した。「この監督にはついていけないわ……」と想った。

だが連作短編アニメーション「秒速5センチメートル」(2007)は一味違った。

第一話はやはり、じくじくして鬱陶しい展開だったが、種子島を舞台にした第二話で様子が変わってきた。まず冒頭の男女二人が夜明けを見るシーンの何と幻想的で美しいこと!また高校生の貴樹と花苗が会話している背景で宇宙探査ロケットが打ち上げられる場面も印象深かった。そして第三話。そこまでフェードアウト・インを繰り返すことでゆったりした時間が流れていたのが、山崎まさよしの歌「One more time, One more chance」が始まると同時に細かいカット割りで畳み掛け、画面が爆発的に動き出す。鮮やかな編集。音楽的リズム感がいい。また絵作りも丁寧でクオリティが高い。

中学生を最後に、別れ別れになった幼なじみの貴樹と明里が、結局その後再会することなく終わる残酷なプロットもよかった。人生そんなに甘くない。二十億光年の孤独(by 谷川俊太郎)。

僕が「秒速5センチメートル」を気に入った理由は、「One more time, One more chance」が使用されていたことも大きいと想う。これは元々、山崎まさよしが主演した映画「月とキャベツ」(1996)主題歌に採用されたもので、そちらも観ている。大した作品ではなかったが、歌はすごく好きだった。

3作品続けて観て浮かび上がる共通のテーマは「距離感」である。「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」は物理的に男女の距離が離れている。あるいは近くにいても気持ちは遠いというケースもある。そして「言の葉の庭」は15歳の少年と27歳の女性の物語であり、年齢が離れている。その距離は縮まるのか、あるいは縮まらないのか?そこにドラマが生まれる。

それにしても「幼少期の恋の記憶を大切に生き続ける」という設定を新海監督は好むが、やっぱり男の発想だよね。実際の女性たちを見ていると、彼女たちは切り替えが早い。別れた元カノとの想い出の品を捨てられず未練がましく持ち続けるのは男ばかりで、女はあっさり処分して元カレのことなんかすぐ忘れちゃう。だから新海アニメを熱烈に愛するファンは圧倒的に男たちで、女性ファンは少ないんじゃないかな?

あとこの人はつくづく自分が大好きで「俺が、俺が」なんだなと感じるのがエンド・クレジットである。「秒速5センチメートル」を例に取ると、スタッフとして新海誠の名前が何と9回も登場するのである。「監督・脚本」のみならず、「絵コンテ」「キャラクター原案」「美術監督」「撮影」「色彩設定」等、延々と繰り返されるのだ。まとめりゃいいじゃん!?これが如何に異常なことかは、宮崎駿監督作品と比べれば明らかであろう。「同一人物が映画のクレジットに登場する回数」という項目があれば、ギネス記録なのではなかろうか?

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東京家族

評価:B+

Tokyo

ブルーレイで鑑賞。公式サイトはこちら

今更言うまでもなく、山田洋次監督が松竹映画の大先輩である小津安二郎監督の「東京物語」(1953)に捧げたオマージュである。

英国映画協会(BFI)が発表した「映画監督が選ぶベスト映画」で「東京物語」は「2001年宇宙の旅」「市民ケーン」「8 1/2」を抑え堂々第1位に選ばれた(詳細はこちら)。またジム・ジャームッシュ監督の代表作「ストレンジャー・ザン・パラダイス」では競馬紙を見ていた主人公がTokyo Storyという名の馬を見つけ、「よし、これに賭ける」と言う場面があったりする。「東京物語」を観たことのない日本人がもしもこの世に存在するとしたら、シェイクスピアを知らないイギリス人みたいなのものである。

広島から老夫婦が子どもたちを訪ねて上京する設定、長男(西村雅彦)が内科医として開業しており、長女(中嶋朋子)は美容室を経営しているという設定もそのまま「東京家族」で踏襲されている。「東京物語」では両親の世話に困った子どもたちが二人を熱海の旅館に宿泊させるが、「東京家族」では横浜みなとみらいにあるヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルに変更になっている。また両親の実家は「東京物語」では広島県尾道市だが、「東京家族」では瀬戸内海に浮かぶ大崎上島(おおさきかみじま)になっている。ここは広島県竹原市と愛媛県今治市に挟まれるような位置にある。今や尾道市といえば誰しも大林宣彦監督の尾道三部作(転校生・時をかける少女・さびしんぼう)や新・尾道三部作(ふたり・あした・とんでろじいちゃん)を想起するので、山田監督が遠慮したのではないかと想像する。

元々は2011年12月に公開予定だったが映画クランクイン直前に東日本大震災が起こり、撮影延期を余儀なくされた。山田監督が3・11の要素をシナリオに盛り込み改訂したため、意見の食い違いから老夫婦にキャスティングされていた菅原文太・市原悦子が降板、橋爪功・吉行和子に交代した。3・11は確かに「東京家族」にひっそりと影を落としているが控えめであり、声高な主張がない点に好感を抱いた。

リメイクと言うよりはリ・イマジネーション(再構築)と言うべきで出来はいい。特に蒼井優が素晴らしかった。これは「東京物語」における原節子の役どころで、役名も同じ「紀子」。ちなみに小津安二郎の「晩春」「麦秋」「東京物語」は紀子三部作と呼ばれている。原節子の役名が全て「紀子」だからである。蒼井優の”間宮紀子”は「麦秋」で原が演じた役名である。

「東京物語」は核家族化が進む日本で、気持ちがバラバラになってゆく家族をテーマにしているわけだが、老夫婦に対して一番優しく接してくれるのが血のつながりがない「紀子」(戦死した次男の未亡人)というのが実に皮肉だ。蒼井優演じる「紀子」もまるで天使のように優しく、「東京家族」の救いになっている。往年の銀幕の大女優と比較されることを承知の上でこの役を引き受けるには相当の覚悟が必要だったろう。それでも蒼井は堂々とした存在感を持って見事にこなした。アッパレである。

恐らく山田監督と組むのは初めてであろう久石譲さんの音楽も良かった。

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2013年8月 4日 (日)

柳亭市馬•柳家喬太郎 二人会

7月21日(日)トリイホールへ。 

  • 桂佐ん吉/稽古屋
  • 柳家喬太郎/たらちね
  • 柳亭市馬/船徳
  • 柳亭市馬/雑俳
  • 柳家喬太郎/雉子政談

市馬さんは朴訥な語り口で飄々とした「船徳」を。味わいある一席。これも「人徳」やね。軽やかな「雑俳」も風情があった。

喬太郎さんは夏風邪で声のコンディションが悪かった。しかし「雉政談」は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の小説を落語化したもので、人間の業・悪意をえぐり出す物凄い怪談噺。ゾクゾクっとした!お見事。

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2013年8月 3日 (土)

ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞「嘆きのピエタ」

評価:B-

有史以来、韓国映画が米アカデミー賞の外国語映画部門にノミネートされたことは一度もない。また、カンヌ/ヴェネツィア/ベルリンの三大国際映画祭で最高賞を受賞したことも一度もなかった。その韓国映画人の悲願を遂にヴェネツィアで達成したのが「嘆きのピエタ」である。しかし韓国はこれをアカデミー外国語映画賞の代表にも選ぶが、米国での評価は芳しくなく結局ノミネートは果たせなかった。

ちなみに日本は「地獄門」「影武者」「楢山節考」「うなぎ」でカンヌ国際映画祭パルム・ドール、「武士道残酷物語」「千と千尋の神隠し」でベルリンの金熊賞、「羅生門」「無法松の一生」「HANA-BI」でヴェネツィアの金獅子賞を受賞している。

映画公式サイトはこちら

Pieta

キム・ギドク監督の映画は過去に何本か観ているが、いいと想ったことはことはない。観客の神経をわざと逆撫でするような作風がどうしても好きになれない。

「嘆きのピエタ」も痛い映画だ。プロットはよく練られているが救いのない話で、どうしてこの人は観客を不快にすることばかりを好むのだろうと嫌になる。確かに人間の本性は克明に描かれているが、だから何?という気がする。真実を曝け出せばいいいという姿勢は芸術において必ずしも正しくない。

イケメン俳優が出ていないし、韓流ながら映画館の9割は男性客だった。

結論。この程度で金獅子賞が獲れるなら、宮崎駿監督の「風立ちぬ」も充分可能性があるのではないだろうか?

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