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2013年4月10日 (水)

さばのゆ大学プレゼンツ「小佐田はんと前田くん/と南光さん」~桂枝雀を語る

2012年10月30日(火)「小佐田はんと前田くん」@大阪さばの湯温泉(←本物の温泉じゃないよ!)へ。

落語作家・小佐田定雄さんと天才落語家・桂枝雀(故人)の息子でミュージシャンの前田一知さんの対談。

枝雀さんは「スポーツは水泳以外いらん」「18歳になったら運動したらイカン」と言っていたそう。

また「落語は夢。どこかに真(まこと)があればいい」というのが持論だった。

枝雀さんが愛した酒、池田の呉春。上を向いて喉を細くし嚥下する「鶴飲み」という独特の方法を考案したが、これは終戦直後の幼い頃、家が貧しく母子でまんじゅうを分け合って食べた体験から来ているのではないかと。「(首が長い)キリンが羨ましい」とも言っていたそう。

父の死後も故人を偲び、前田家への呉春の贈り物は絶えることがなかった。ある日、母子でそれを飲みながら、ふと母親(かつら枝代)から「これ美味しおもう?甘ない?」と言われ、それまで自分が感じていた違和感が解消したと一知さん。戦後は甘いモノが不足していたから枝雀さんは呉春を好きになったのではないかと小佐田さん。

一知さんが幼い頃、父は夜に落語会があり、母もお囃子方だったので、22-23時に夕食となるのが当たり前だったそう。

小佐田さんは中学生の時、桂米朝師匠と小松左京が進行役だったラジオ大阪「題名のない番組」(昭和39年10月~昭和44年4月9日放送)を聴いて落語に興味を持った。投稿したものが番組で取り上げられたこともあった。大学卒業後は保険会社に務めていた。

枝雀さんは1977年(昭和52年)に新作落語の会を始め、以前足を運んでいた小佐田さんのところにも案内状が届いたので再び通うようになった。翌年2月にその会で「戻り井戸」を初演。強い印象を受けたと。

枝雀さんは凝り性のダレ性だった。また考案した「サゲの4分類」「緊張の緩和(で笑いが生ず)理論」の話題も。

一知さん秘蔵の写真を何点も見せて貰い、また新春恒例米朝一門会から桂吉朝(横山ノック役)、小米朝(現・米團治)、九雀による漫画トリオの漫才を動画で鑑賞。

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2013年1月30日(水)「小佐田はんと前田くんと南光さん」@大阪さばのゆ温泉。

定員30人でぎっしり満席。事前の打ち合わせなしのガチトーク。桂南光さんが18歳で入門した頃の枝雀さんはいつも下駄だったという。その頃、定時制高校時代の恩師・森本先生(英語)の家@伊丹市で下宿生活を送っていた。先生との会話は死後の話とか仏法に関することが多かった。当時、師匠と南光さんは寡黙だった。「それを無茶苦茶にしたのが雀々です」と南光さん(場内爆笑)。

枝雀さんは柔らかいご飯が好きで、「おかゆみたいにベチャべベチャでした」と南光さん。硬いご飯だと「胃にご飯粒が当たります。私には分かります」「人間として駄目になる」と言っていた。

南光さんは「内弟子生活で何か辛かったことがあったかと問われれると、それが全くないんです」擬似家族のような暮らしだったという。炊事洗濯をこなし、落語「貧乏神」でそういう場面が来ると、実感としてよく分かるのだと。

当時上方落語は衰退期で、「この芸はいずれ滅びる。(落語家が)増えることはない。最後に君と僕の二人だけしか生き残らないかもしれないが、それでもいいですか?」と初対面で言われたそう。

入門が決まると法善寺横丁にある「洋酒の店 路」に師匠に連れて行ってもらい、ハイボールを勧められた。店主が「いいんですか、こちら未成年でしょう?」と問うと、枝雀さんは「いいんです。噺家になるのだから法律は関係ない」と。結婚するまでは税金も納めず、督促状が溜まっていた(六代目笑福亭松鶴も紫綬褒章受賞が決まった時、市民税を30年間滞納していたことが発覚、役所から収めるよう電話がかかってきた時に「税金払わんと貰えんのやったら、そんな賞はいりまへん!」と言ったとか)。

南光さん、音也さん(故人)が入門する前、一番弟子「けいし」(←漢字が分かりません。ご存じの方、コメントお願いします)という人がいて、後に廃業。坊さん/消防士になったらしい。

枝雀さんが枝代さんと付き合っていた時、南光さんに紹介し「君が見て、O.K.なら結婚します」と言った。またその頃別に縁談があり、結婚後に相手から電話がかかってきて枝代さんが出た。枝雀さん曰く、「断りに行くの忘れてた!」

古い写真を見ながら鼎談は続く。1971年11月11日に開催された「1080分落語会」(午前7時開演!)について笑福亭仁鶴が「くっしゃみ講釈」で、「唐辛子の粉を買うてきた」と言わなければいけない仕込みの所で「胡椒」と間違って言ってしまい、後半しどろもどろになったエピソードも。

枝雀さんがやっていたSR(SF/Short Ragugo)の会については、「いんき」な「おたく」が集まったと南光さん。

枝雀さんは南光さんに対して、自分のことを「兄さん」と呼びなさいと言っていた。しかしそれを見た米朝師匠は「世間に示しがつかん」と怒った。そこで枝雀さん「しゃーない、ちゃーちゃん(=米朝)の前だけ”師匠”と呼びなさい」

枝雀さんと仲が良かった(弟弟子)桂ざこばさんからは嫉妬され、「お前さえおらんかったら兄ちゃんから可愛がられた。死ねばええと思った」と言われたことも。

枝雀さんは不思議なこだわりを持っていた。パチンコ屋に入ると台の隣の席に座り、斜めに眺めながら打った。その方が玉筋がよく見えるのだという。しかし、出てきた玉は景品と交換しなかった。

偏食の枝雀さん、法善寺横丁の立ち食いの「仔牛屋」で焼肉を食べ、「こんなに美味いものはない」とそれから一ヶ月毎日焼肉を食べ続け痛風を発症した。治療のため南光さんが毎朝野菜ジュースを作ったが、それを飲み終わると「うん!焼肉行こう!」と懲りなかった。

グラタンに凝っていた時はいろいろな店に入りグラタンを二人で一つだけ注文。美味しかったら「いけますな。ほなもう一つお願いします」と追加した。不味ければそのまま店を出た。

また、てっちりにバナナやりんごを入れて「美味しい」と言い、湯豆腐にご飯→牛乳(味見し「洒落てるな」)→トマトジュースを次々と投入。インスタントラーメンに牛乳、バターを入れて食べたことも。

さらに酔っ払った枝雀さんが造幣局近くにある銀橋の欄干に登り、高所恐怖症の南光さんも師匠が危ないとそれに追随した話、道頓堀角座裏あたりにあった「せっせっせ」というカウンターだけの居酒屋で飲み、「洋酒の店 路」に行き、さらにもつ煮込みの店「ふじ井」へとはしごした思い出話などに花が咲いた。

貴重なエピソードがたくさん聴け、大変興味深い講座(?)だった。

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