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2013年4月

2013年4月30日 (火)

映画「舟を編む」

評価:A+

Fune

原作は本屋大賞第一位に輝いた三浦しをんの小説。映画公式サイトはこちら

「大渡海」という国語辞典(「広辞苑」や「広辞林」規模)を編纂し、完成させるまでの15年間を描く。

監督は石井裕也。ぴあフィルム・フェスティバルでグランプリを受賞し、そのスカラシップ(奨学金)で撮った映画が「川の底からこんにちは」(2010)。これが僕は大好きで、書いたレビューはこちら。また同作がきっかけとなり主演した満島ひかりと結婚した。ただ、その後撮った「ハラがコレなんで」は期待ハズレの駄作でがっかり(レビューはこちら)。しかし今回の「舟を編む」は起死回生の逆転サヨナラホームランとなった。1983年6月21日生まれの29歳。三浦しをんが1976年生まれだから、何と原作者より若いんだ!でもべらぼうに上手い。脱帽だ。

まず「辞書を作る」という目の付け所がユニークで面白い。未知の領域を扱うと傑作が出来るという先例として医学生の青春を描く「ヒポクラテスたち」とか、国税局査察官と脱税者の死闘を描く「マルサの女」、納棺師を主人公にした「おくりびと」(米アカデミー外国語映画賞受賞)などが挙げられるだろう。

辞書の監修を務める国語学者を演じた加藤剛が素晴らしい。この人は昔から大根役者だと思ってきたのだが、今回は生涯最高の名演技ではないだろうか?「老いた味」がある。

また真面目一徹で融通が利かない松田龍平と、典型的チャラ男=オダギリジョーのコントラストが鮮明でいい。キャラの違いがアクセントになっている。脇役ながら池脇千鶴がまた、ピリリと効いた柚子胡椒のような役割を見事に果たしている。キャスティングが音楽的だ。

ヒロインの宮崎あおいが猫を抱き、月の光を浴びながら登場する場面は衝撃的ですらあった。妙なる美しさ。彼女の役名は「林香具矢(はやし・かぐや)」。映画の途中で気が付いた。そうか、「かぐや姫」だから月光なんだ!そして「取物語」だから苗字が「」なんだね。

「言葉を使うのは人と繋がろうとする行為」であり、「言葉という大海を渡る手段=舟こそが辞書なのです」「言葉は生きています。だから時代と共に意味が変わってくることもある。それをあながち『間違った用法』と断じることは出来ない、と私は思います」といった老学者の台詞にグッときた。日本語の愛おしさを実感し、言葉をもっと大切にしなくちゃいけないなと考えさせる作品。日々ブログを書き、言葉の選択に苦労している僕がいつも考えていることに直結し、共感する点が多かった。

「舟を編む」は「これぞ日本映画!」と胸を張って言える大傑作。これを観なければ2013年の今を生きている意味がない、とすら豪語しよう。

それにしても「川の底からこんにちは」「舟を編む」の石井裕也、「告白」の中島哲也、「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八、「南極料理人」「横道世之介」の沖田修一、「愛のむきだし」「希望の国」の園子温、「ゆれる」「夢売るふたり」の西川美和、「天然コケッコー」「マイ・バック・ページ」「苦役列車」の山下敦弘、「モテキ」の大根仁。才能溢れる若手・中堅の映画監督が次々と優れた作品を世に送り出しており、いま日本映画は群雄割拠、「第二次黄金期」と呼んでいいほど熱い。ちなみに「第一次黄金期」は言うまでもなく、黒澤明が「羅生門」や「七人の侍」を、小津安二郎が「麦秋」「東京物語」を、溝口健二が「雨月物語」「西鶴一代女」を、木下惠介が「二十四の瞳」「楢山節考」を、成瀬巳喜男が「山の音」「浮雲」を、本多猪四郎が「ゴジラ」を撮った1950年代を指す。

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2013年4月27日 (土)

大植英次/大フィルのマーラー「復活」@フェスティバルホール

4月26日(金)新生フェスティバルホールへ。

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大植英次/大阪フィルハーモニー交響楽団で、

  • マーラー/交響曲 第2番

を聴く。これは一般に「復活」と呼ばれているが、作曲家自身がその標題を用いたことはない。

僕がこの作品に持つイメージは「誇大妄想の産物」。第1楽章「葬礼」から第5楽章「復活」に至る壮大なシンフォニーをグスタフ・マーラー自身がベルリン・フィルを指揮して初演したのが1895年、35歳の時。完成は34歳だから「青年」と言ってもいい年頃。驚くべきことだ。

第5楽章にはクロプシュトックの「復活」賛歌が採用されている。これはイエス・キリストの復活を歌ったもの。しかし第2番が初演された時、マーラーはユダヤ教徒だった。結婚とウィーン宮廷歌劇場第一楽長就任のためキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗するのはそれから2年後の97年のことである

彼の父親は酒造業を営むユダヤ人実業家だった。幼いグスタフはドイツ語を話し、地元ボヘミア(現チェコ)のキリスト教教会で少年合唱団員として賛美歌を歌っていたという。だからクロプシュトックの「復活」賛歌に対しても何の違和感もなかったのだろう。交響曲第3番に児童合唱が入るのもこうした経緯からと想われる。

一方、ユダヤ人の裕福な銀行家の息子として生まれたフェリックス・メンデルスゾーンは7歳の時プロテスタントのルーテル教会で洗礼を受け、後に彼の一家は揃ってユダヤ教からキリスト教に改宗した。当時ヨーロッパに住むユダヤ人が、どれだけ生き辛かったか窺い知れよう。

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さて、オーケストラは第1ヴァイオリンが16人の16型。対向配置でコントラバスは舞台下手(客席から向かって左)。

合唱は大阪フィルハーモニー合唱団、大阪新音フロイデ合唱団、神戸市混声合唱団、ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団というプロ・アマ混成チーム。人数が多いので迫力があり、クオリティも高かった。

大植さんはいつもながら暗譜で指揮。第1楽章の葬送行進曲は遅めのテンポで開始され、足を引き摺るかのよう。間をたっぷり取る。表情はグロテスクなまで彫りが深く、陰影が濃い。ティンパニの連打が「最後の審判」のように痛烈にホールに響き渡る。第2主題が現れると儚げで、今にも消え入りそうに仮初の夢を描く。そして怒涛の展開部に突入。音楽は速まり、歪で奇っ怪な世界が広がってゆく。パンチが効いている。

僕はこの第1楽章を聴きながら、一大センセーションを巻き起こした2009年2月の大フィル定期を想い出した。

楽譜には第1楽章の後に「少なくとも5分間以上の休みを置くこと」という指示があり、ここで独唱者と合唱団が入場した。そして第2楽章以降は全て間髪入れずアタッカで演奏された。

第2楽章は失われた無垢、幸福な過去(青春)への追想。前楽章でギクシャクしていた音楽は一転、流麗になり、愉しい気分に満ちる。そのコントラストが鮮やか。

第3楽章はおどけたスケルツォ。僕が大植/大フィルの演奏から連想したのはフェデリコ・フェリーニ監督の映画に登場するサーカスの情景だ。音楽は弾み、リズミカル。あたかも滑稽な道化芝居(farce,ファルス)を観ているかのよう。

第4楽章でエストニア出身のアネリー・ペーボ(アルト)は「おお、いバラよ!」と歌い出すのに合わせ、いスカートにい花をコーディネイトしていた。深い声。瞑想し、まどろむ。

続いてオーケストラが咆哮する中、僕は眩く輝く光が天井から差し込む情景を幻視した。第5楽章は生命の賛歌だ。音楽は浄化され、そして次第に熱くなる。そこには希望に燃える青年マーラーの姿があった。「復活する、そう復活するだろう」という合唱冒頭部は全員座ったまま囁く。「おお、信ぜよ、我が心よ、私が何も失ってないことを!」で独唱者が立ち、「おお、あらゆるものに染み渡る苦痛よ、私はお前から逃れ出た!」で合唱も立ち上がり、力強く歌い上げる。ドイツ・ミュンヘン生まれのスザンネ・ベルンハルト(ソプラノ)の歌唱は清潔で、透明感があった。けだし美しい。

ちなみにレナード・バーンスタイン/ロンドン交響楽団のDVDで確認すると、レニーは最初から立って歌わせていた。演出の違いが興味深い。

そしてクライマックス。凄まじいエネルギーの噴出!音楽はどこまでも、どこまでも高揚し、未曾有の頂点を築く。

音楽が終わると、熱狂した聴衆が割れんばかりの拍手を惜しみなく送り、新フェスティバルホールはブラボーの嵐に飲み込まれた。

開幕シリーズに相応しい、記憶に残る名演だった。僕がいつもボロクソに書く大フィルの金管セクション(特にトランペットとホルン)も大健闘。文句なし。

大植さんは大フィル音楽監督に就任した直後の定期演奏会(2003年5月)でも、このシンフォニーを振った。正に、ここぞ!という時の「キメ」曲と言えるだろう。

今回初めて生で聴いて、交響曲第2番の真の素晴らしさは実演に接しないと絶対理解出来ないなと痛感した。大編成の醍醐味、そして舞台裏から鳴り響き掛け合いをする軍楽隊バンダの面白さ!

フェニーチェ歌劇場の記事にも書いたが、新フェスティバルホールは旧に比べ響きに潤いが増し、随分良くなった。音の分離も優れている。残響ではザ・シンフォニーホール(1,704席)やいずみホール(821席)に及ばないが、少なくとも巷でも評判が最悪な京都コンサートホール兵庫県立芸術文化センター大ホールよりはマシなのではないだろうか?キャパが増えると音響が悪くなるのは必定だが、2,700席でこれなら上々だ。

最後に、終楽章の終結部を聴きながら、レナード・バーンスタイン/「キャンディード」の終曲"Make Our Garden Grow"にそっくりだということに初めて気が付いた。あのミュージカルはレニーが赤狩り吹き荒れる暗黒の時代に書いたブロードウェイ・ミュージカルだ。つまりヴォルテールの原作小説にレニーは希望ある未来、アメリカの「復活」を託したのではないだろうか?そんなことを考えた。

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2013年4月26日 (金)

オーギュスタン・デュメイ/関西フィル@いずみホール、@ザ・フェニックスホール

4月21日いずみホールへ。

オーギュスタン・デュメイ(ヴァイオリン独奏・指揮)/関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、

  • フランク/ヴァイオリン・ソナタ
  • ショーソン/ヴァイオリン、ピアノと弦楽合奏のためのコンセール
  • モーツァルト/交響曲 第29番

ピアノ・ソロは当初エレーヌ・メルシエが発表されていたが(フランクではなくドビュッシーのソナタが予定されていた)、急病のためパヴェル・コレスニコフが代演した。コレスニコフはモスクワ音楽院で学んだ後、ベルギーでマリア・ジョアン・ピリスに師事した。2012年にカナダのホーネンス国際ピアノ・コンクールで優勝。

フランクでのデュメイのヴァイオリンは力強く、第1楽章は固い意志が漲るかのようであった。第2楽章は厚みのある音で、凛として艶がある。第3楽章は夢や憧れが感じられ、第4楽章は足踏みをするなど熱気があった。

ショーソンは幻夢的で極めて美しい音楽。第1楽章はデュメイの研ぎ澄まされた音にゾクゾクした。第2楽章は月光下に浮かび上がるまぼろし。ジャン=ジャック・ルソーの絵を彷彿とさせる。第3楽章は決然として誇り高い。第4楽章は畳み掛ける緊張感があり、オケにも気迫があった。

ソリスト・アンコールはショパン/ワルツ第19番 イ短調とスカルラッティ/ソナタ イ長調 K.322。達者なピアノだった。

モーツァルトの交響曲は色彩感ある演奏。小気味よく溌剌としている。ニュアンス豊か。弾むように歌うが、決して古楽器演奏みたいに攻撃的にはならない。

デュメイが指揮する時、関西フィルは実力以上の音を出すが(150%増し)、以前にも増して柔らかく円やかな響きを獲得した印象を受けた。

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続いて4月25日(木)、ザ・フェニックスホール。やはりデュメイ(ヴァイオリン独奏・指揮)/関西フィルで、

  • モーツァルト/弦楽五重奏曲 第4番 K.516より第1楽章
  • ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ 第3番 (ピアノ:上田晴子)
  • モーツァルト/管楽器のためのセレナーデ(第11番) K.375
  • スーク/弦楽セレナーデ

弦楽五重奏曲はプログラムにしっかりと「デュメイ氏が指導したクインテットです」と記載されており、気合が入っている!前座として申し分なし。

デュメイのブラームスは基本的にフランクと同様の印象を受けた。ピンと張りがあり、情熱的に攻める姿勢を崩さない。しかし一方で、ブラームス固有の憂愁・哀感もある。

モーツァルトセレナーデは音の強弱、緊張と緩和の対比が鮮やか。メリハリがある。

ヨセフ・スークはドヴォルザークの教え子で、後に娘婿となった。スーク・トリオで有名な同名のヴァイオリニスト、ヨセフ・スークは孫である。

弦楽セレナーデといえばチャイコフスキーとドヴォルザークが有名だが、スークの作品もそれらに劣らぬ傑作。演奏は緩急の変化に富み、繊細な弱音とダイナミックな強音が印象的だった。楽員の「本気」を肌で感じた。

クリーヴランド管弦楽団を「アメリカ5大オーケストラ」に鍛え上げたジョージ・セルやモントリオール交響楽団を一流オケにしたシャルル・デュトワ同様、デュメイは卓越したオーケストラ・ビルダーである。ダーク・ホース=関西フィルの今後に注目したい。

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2013年4月24日 (水)

セバスティアン・マンツ(クラリネット)@大阪倶楽部

4月19日(金)大阪倶楽部へ。

セバスティアン・マンツ(クラリネット)、三輪 郁(ピアノ)のリサイタル。

  • ウェーバー/「シルヴァーナ」の主題による7つの変奏曲
  • ペンデレッキ/クラリネットとピアノのための3つのミニチュア
  • シューマン/クラリネットとピアノのための幻想小曲集
  • ストラヴィンスキー/クラリネット・ソロのための3つの小品
  • ガーデ/クラリネットとピアノのための幻想小曲集
  • ブラームス/クラリネット・ソナタ 第1番
  • ミヨー/「スカラムーシュ」より”ブラジルの女” (アンコール)
  • シュライナー/だんだん小さく (Immer Kleiner) (アンコール)

マンツは”滅多に1位を出さない”ことで有名なミュンヘン国際音楽コンクール・クラリネット部門で40年ぶりとなる第1位に輝いた。←40年ぶりって!?

その音は豊かで芯がある。また弱音が掠れたりしない。曲によって変幻自在な色を奏でる。

ウェーバーの変奏曲はピアノが独奏する箇所もあり、中々ユニーク。

ペンデレツキはポーランドの作曲家。マンツが「3つのミニチュア」を7年前に演奏した時、評論家から「まるで鳥小屋にいるようだ」と評されたとか。最初は「なんてことを言うんだ!」と呆れたが、翌々考えてみると確かにそんな曲だと思い直した。第1曲は朝~昼の鳥小屋の喧騒。第2曲は静かな夜。第3曲は明け方におじさんが入ってくる。逃げまわる鶏。しかし最後には捕まり、首を捻られ断末魔を叫ぶ。ペンデレツキってこんな面白い曲を書く人なんだ!と驚いた。

シューマンの幻想小曲集は柔らかく、まろやかな音色で開始される。ペンデレツキのクレイジーさとは好対照。第3曲では一転して情熱が迸る。

ストラヴィンスキーは無伴奏作品。

ガーデはシューマンの友人で、シューマンに憧れて幻想小曲集を書いたそう。シューマンは3曲で構成されているが、ガーデはそれにバラードを加え4曲とした。メロディが美しく和声が変化していくので、若い音楽家に人気があるそう。

ブラームスクラリネット・ソナタは2曲あるが、マンツによると第2番はむしろヴィオラで演奏した方がいいとか。第1番 第1楽章 第1主題は寂しく嘆息するイメージを僕は持っていたが、マンツは力強く、激情の表現で朗々と吹いていた。まだ27歳の若い奏者だから、多分今はこれでいいのだろう。第2主題は弱音が繊細。終楽章は華麗だった。

ミヨースカラムーシュは二台のピアノ版、サックス+ピアノ版、そしてベニー・グッドマンの依頼で編曲されたクラリネット+オケ版、クラリネット+ピアノ版などがあるそう。「吹き鳴らす(blow)」感じが気持ちいい。サンバの強烈なリズム、シンコペーションが印象的。

「だんだん小さく」は演奏中にクラリネットの先端から徐々にパーツを切り離し、分解していくという面白い趣向。調べたところ、この逆で「クラリネットを作っちゃった。」(作曲:伊藤康英)という作品もあるらしい。

マンツは最初、一生懸命覚えた日本語で喋ったりして好青年だった。クラリネットという楽器の持つ多様性、その潜在能力がフルに発揮されたプログラムだった。

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2013年4月23日 (火)

なにわ《オーケストラル》ウィンズから考える、日本の吹奏楽の問題点

全日本吹奏楽連盟に所属するのは14,255団体(2012年10月1日現在)に及び、現役の吹奏楽人口だけでも100万人を超え、経験者を含めると500万人に達すると推定される。日本は「吹奏楽大国」なのである。ただこれは単に「経験者」が多いという意味であり、決して「聴衆」ではない。その観点から言えばクラシック音楽の聴き手の方が遥かに多いだろう。つまり「アマチュア演奏家」は育っているけれど、聴衆はそれに比例していない。中学や高校で吹奏楽部に所属していても、学校を卒業し離れると、その大半は吹奏楽を聴かなくなる。これこそが日本の吹奏楽界が抱える大きな問題点・矛盾である。

日本のプロ・オーケストラの奏者が年に一度集い、吹奏楽の祭典を開くなにわ《オーケストラル》ウィンズNOW)の演奏会に僕は毎年足を運んでいた。そのレビューは下記。

しかし今年はチケットを確保することが出来なかった。発売日に電話をし続けたが、30分後に繋がった時は既に完売だったのである。

ショックだった。6年間付き合った恋人から突然会うことを拒否されたような疎外感を感じた。何もかも嫌になった。

なにわ《オーケストラル》ウィンズ演奏会(大阪公演)の聴衆は9割以上が吹奏楽経験者である。僕自身そうだ。それ以外の一般聴衆にはチケットが入手し難く、吹奏楽関係者だけの、閉ざされた「内輪の」祭典になっている。

毎年、関西の中・高校の生徒が学校単位で10-20人まとまって聴きに来ているので、席には「学校枠」があるのだろう。また、僕が以前一般の吹奏楽団に所属していた時、団員にNOW奏者の知り合いがいて、その筋からチケットを予約できた。20人くらいまで大丈夫だった。つまり各奏者に割り当てられたチケットがあるものと思われる。

以前、一般の発売日にチケット・センターに並んだこともあった。その時は2階サイド席を購入したのだが、3列あるうち前の2列は最初から販売されていなかった。つまり事前に押さえられていたのだ。演奏会当日、そこには高校生の集団が座った。またチケット売り場で僕の直前に並んでいた人は一般吹奏楽団の代表者で、20枚単位で一括購入していた。

以上の情況証拠から判断すると、ザ・シンフォニーホール座席数1,704のうち、一般発売させるのはせいぜい800枚程度と推定される。しかも1人20枚と大量購入者もいるので、毎年30分で完売するのは無理からぬ事であろう。しかし関係者に配布された余剰チケットが戻ってくるので、当日券が50枚程度出る仕組みになっている。

淀川工科高等学校吹奏楽部顧問でNOWを毎年指揮されている丸谷明夫先生は次のような夢を常々語っていらっしゃる。

「吹奏楽の名曲、アルフレッド・リード作曲『アルメニアン・ダンス』がベートーヴェンの第九みたいに、子供からおじいちゃんおばあちゃんまで誰でも知っているような曲になって欲しい」

この夢が実現されるためには、NOW演奏会の客席が吹奏楽関係者だけで占められ自己完結するのではなく、もっと幅広い人々が気軽に聴けるようなものになるべきではないだろうか?まだまだ道は遠い。

いい潮時だろう。吹奏楽よ、さらば。

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2013年4月20日 (土)

市村正親 主演 ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」とユダヤ民族の歴史についての考察

4月14日(日)シアターBRAVA !へ。「屋根の上のヴァイオリン弾き」を観劇。

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テヴィエ:市村正親、その妻ゴールデ:鳳蘭、長女ツァイテル:水夏希、次女ホーデル:大塚千弘、三女チャバ:吉川友 ほか。

このミュージカルがブロードウェイで初演されたのは1964年。演出・振付は「ウエストサイド物語」のジェローム・ロビンスだった。そして7年9ヵ月、3242回に及ぶロング・ランとなった。1971年にはノーマン・ジュイソン監督、トポル主演で映画化され編曲賞などアカデミー賞で3部門を受賞した。ジョン・ウィリアムズが映画のために作曲したヴァイオリン協奏曲はアイザック・スターンが独奏した。

日本の初演は1967年9月6日。テヴィエ役は1986年まで900回にわたり森繁久彌が務め、上條恒彦、西田敏行、そして市村正親が演じてきた。

僕は市村さんの「屋根の上のヴァイオリン弾き」を2004年5月1日に、いたみホール(大阪府伊丹市)で観ている。その時のキャストはゴールデ:夏木マリ、ツァイテル:香寿たつき、ホーデル:知念里奈、チャバ:笹本玲奈 だった。

市村さんはコミカルなテヴィエ像を描き、それを気に入らない人もいるだろうが、僕は好きだなぁ。笑いあり、涙ありで退屈する場面がない。鳳さんは堂々とした風格でいかにも5人の娘を持つ肝っ玉母ちゃんといった感じ。あと大塚千弘さんは可愛いし、四女・五女まで美人姉妹。素敵なカンパニーだった。文句なし。

初演から既に45年以上経過し、最早本作は”古典”と呼んで差し支えないだろう。村上春樹の小説「ノルウェイの森」で主人公(大学生)の先輩、永沢は言う。

「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短い」

「屋根の上のヴァイオリン弾き」もまた、”時の洗礼”を受け、命脈を保った作品なのである。

舞台となるのは19世紀、ロシア帝国ウクライナ地方の小さなユダヤ人村「アナテフカ」。劇中で長女は貧しい仕立屋と結婚。次女はキエフからやってきた革命を志す大学生と恋仲になり、逮捕されシベリア送りとなった彼の元へ旅立つ。三女はロシア人青年とロシア正教会で結婚、駆け落ちしてしまう。

このミュージカルを観れば、ユダヤ人の長年に渡る苦難の歴史を俯瞰することが出来る。高校生で映画版を観た時、最終的にテヴィエは長女と次女の結婚を認めるのに、どうして三女を決して許さず「チャバは死んだ」とまで言い切るのか、僕には理解不能だった。しかし今なら分かる。

ソロモン王が建設したエルサレム神殿が崩壊し(現在残る「嘆きの壁」はその残骸)、ユダヤ人たちがパレスチナの地を追われ離散(ディアスポラ)を余儀なくされたのは紀元70年の出来事だった。そして1948年にイスラエルが建国されるまで、彼らは実に約2千年の長きに及び、「約束の地」への帰還を夢見ながら世界各地で生息して来た。ここで驚くべきことは彼らがユダヤ人コミュニティの中だけで生き、戒律を順守し、ユダヤの血を保持してきたことである。つまり混血によりユダヤ民族が消滅することはなかった。南アメリカのマヤ文明やアステカ文明の末裔が現在どうなったかと比較すると、不屈の精神と言えるだろう。だからテヴィエがチャバを許せなかったのは宗教の違いだけではなく、「民族の血」の問題でもあったのだ。

この物語の最後では「ボグロム」というユダヤ人排斥運動のためテヴィエ一家は生まれた土地を追われ、アメリカに渡る決意をする。結婚仲介人の老婆イェンテは聖地エルサレムに行ってみると言う。これは後のイスラエル建国へと繋がっている。またチャバはテヴィエに「私達も帝政ロシア政府の家族に対する仕打ちに納得出来ないので、ポーランドのクラクフへ旅立ちます。そのことをお父さんに知っておいて貰いたかった」と告げる。今回初めて気が付いたのだが、ポーランドは1939年にナチス・ドイツにより侵略され、クラクフにもユダヤ人強制収容所が建設される(映画「シンドラーのリスト」の舞台はクラクフ)。つまりチャバの言葉はこれからも彼らの苦難が続くことを暗示している。何とも奥深い作品だ。

話は変わるが、バーブラ・ストライザンド(彼女はユダヤ系家族のもとに生まれ、ニューヨーク州ブルックリンで育った)が監督・主演を務めた”ひとりミュージカル”映画「愛のイエントル」もまた、「屋根の上」に近い物語だ。ヒロインはポーランドのユダヤ人コミュニティに生きている。しかし女に学問はいらないというコミュニティの固定観念に反発し、男装して学校に入学する。読書が大好きなチャバに似ている。最後に彼女は移民船に乗り、新天地(恐らくアメリカ)を目指す。

「屋根の上のヴァイオリン弾き」のタイトルはシャガールの絵に基づいている。

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シャガールもユダヤ人で帝政ロシア領(現在のベラルーシ)に生まれた。またハイフェッツ、スターン、パールマンなど名ヴァイオリニストの多くはユダヤ人である。

日本人は不思議とユダヤ人と似ていて、弦楽器も得意だ。黒髪だし、YAP型など遺伝子的に共通する点も多い。舞台で日本人がユダヤ人を演じても、何の違和感もない。また、ヨーロッパでホロコーストの嵐が吹き荒れていた時代、「命のビザ」を発行し、6000人に及ぶユダヤ人を救った外交官・杉浦千畝のエピソードも有名である。

だからこそ「屋根の上のヴァイオリン弾き」は日本でも愛されているのではないだろうか?民族的共感性がきっとそこにはあるのだ。

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2013年4月19日 (金)

「リッケンバッヒャーって、誰?」〜大阪フィル定期/ワーグナーとブルックナー

4月18日(木)ザ・シンフォニーホールへ。大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会。

当初指揮者として予定されていたヴォルフ=ディーター・ハウシルトが体調不良のためキャンセルとなり、急遽代役の白羽の矢が当たったのが1940年スイス・バーゼル生まれのカール・アントン・リッケンバッヒャー。僕だけではなく恐らくほぼ全員の大阪フィル会員はこう思った筈だ。「リッケンバッヒャーって、誰??」

これまで日本のオーケストラを振ったことも殆ど無いようだ(検索しても全くヒットしない)。オリヴィエ・メシアンからの信頼が厚く、現代音楽やマイナーな作品を紹介することに情熱を注いでいる人らしい。またベルリンで、朝比奈隆が指揮するブルックナーを聴いたことがあるそう。

プログラムは指揮者が交代する前に発表されたものから変更なし。

  • ワーグナー/ジークフリート牧歌
  • ブルックナー/交響曲 第9番

ブルックナーの時は大体そうなのだが、観客の男女比は4:1くらい。この作曲家は女性にとことん人気がない。

ジークフリート牧歌」は1870年に、長男ジークフリートを産んでくれた妻コジマへの感謝の気持を込めて彼女の誕生日とクリスマスの贈り物として12月25日にワーグナー邸でサプライズ初演された(コジマの誕生日は12/25)。子供たちは演奏された場所から「階段の音楽」と呼んだ。演奏者は15人だったという。この様子はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルートヴィヒ」(1972)で克明に再現されている。

第1ヴァイオリンと第2が指揮台を挟んで向かい合う対向配置。第1ヴァイオリンが10名という小編成の10型。室内楽的響きで、穏やかで優しい。ヴィブラートは控えめで淡い色彩のワーグナーだった。

そういえばドイツの指揮者ヘンゲルブロックの研究によると、ワーグナーは「ソリストだけでなくオケの者達にすら常時ヴィブラートが浸透してきたとはなんと気色悪い傾向か」と発言しているそうである。長大な舞台神聖祝典劇 「パルシファル」の中でスコアに「ヴィブラート」と書いたのは一箇所だけなのだとか。

なおオケは2名のホルン奏者が連符のタンギング、アインザッツが全く揃っておらず、お粗末だった。はっきり言って全日本吹奏楽コンクール出場時の大阪桐蔭や淀工生の方がよっぽど上手い。アマチュアの高校生でも限られた曲数を半年間、毎日毎日みっちり練習していればプロを凌げるということだ。しかし、本当にそれでいいのか?大フィルのホルン・パートも、もっと死ぬ気で練習に励んで頂きたい。もしそれが出来ず、今後も他のセクションの足を引っ張るようならこの場から去るべきだ。キツイことを言うようだが僕は間違っていないと信ずる。プロフェッショナルの厳しさって、そういうものでしょう?

さてブルックナー未完の遺作である。やはり対向配置で編成は16型に拡大された。第1楽章 第1主題はかなり遅いテンポで開始。しかし第2,第3主題になると尻上がりに速くなる。各フレーズは明快に切られ、くっきりとしたアクセントで表情が付けられる。メリハリのあるブルックナー。第2楽章スケルツオはダイナミック。第3楽章アダージョは浄化され、透明感があった。

リッケンバッヒャーは自己主張よりも作品自体に語らせるタイプの指揮者と見た。個性的とは言えないが、好感が持てる過不足のない解釈であった。またいつか、聴いてみたいな。

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2013年4月15日 (月)

21世紀に映画は古典「アンナ・カレーニナ」をどう描いたか?

評価:B

アカデミー賞では撮影賞・作曲賞・美術賞・衣装デザイン賞にノミネートされ、衣装で受賞した。映画公式サイトはこちら

Annakarenina

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トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」は高校生の頃読んだ。新潮文庫で全3巻、光文社古典新訳文庫では全4巻という大作だ。人妻アンナと将校ヴロンスキーとの「爛れた愛欲の日々」と同時並行して、ヴロンスキーに捨てられたキティと、農民と共に汗を流して働く地主貴族リョーヴィンとの「健全な愛」が対照的に描かれる。じつはこの誠実なリョーヴィンはトルストイの分身と考えられている

僕はジュリアン・デュヴィヴィエ監督ヴィヴィアン・リー主演で1948年に映画化されたもの(上映時間139分、白黒)を観たが、このリョーヴィンとキティのエピソードはバッサリ切られていた。膨大な原作を2時間ちょっとで収めるにはどうしても無理がある。しかし、それではトルストイの本当に語りたかったことが欠けてしまい、片手落ちと言わざるをえないだろう。

さて、今回の2012年イギリス映画版である。監督は「プライドと偏見」「つぐない」のジョー・ライト(イギリス・ロンドン出身)。作曲は「つぐない」でアカデミー賞を受賞したダリオ・マリアネッリ(イタリア・ピサ出身)。脚色は「恋に落ちたシェイクスピア」でアカデミー賞を受賞したトム・ストッパード(共作)。彼はチェコ出身で、劇作家でもある。また映画「未来世紀ブラジル」(共作)や「太陽の帝国」のシナリオも執筆している。

アンナを演じたのは「プライドと偏見」「つぐない」でもジョー・ライトと組んでいるキーラ・ナイトレイ。その夫役がジュード・ロウ。キティを演じたアリシア・ヴィキャンデル(スウェーデン出身)が可愛かった。またアンナの浮気相手ヴロンスキー伯爵が軽薄な感じでgood。

上映時間130分とコンパクトながら、アンナ-ヴロンスキー、キティ-リョーヴィンのエピソードが過不足なく平等に描かれており、これは巧みな脚色だと感心し、納得もした。トルストイが描こうとした精神がこの映画の中にしっかり息づいている。

物語があたかも舞台の上で演じられているような構造にしているのがお見事!その枠を作ることで「これはあくまで虚構の世界。花も実もある絵空事ですよ」と語りかけてくるのだ。だからリアリティなど必要ない。何故ロシア人が英語で喋り、キティとリョーヴィンがカード・テーブル上で文字遊びをする場面でもどうして英単語なのか?という違和感が緩和されている。また大胆な省略も可能となった。

考えてみるとトム・ストッパードの「恋におちたシェイクスピア」も、シェイクスピアの実生活と、彼が書く戯曲の物語世界という二重構造になっており、そのひそみに倣ったとも言えるだろう。

ただ創意工夫は高く評価するが、それでも後半、些かダレて眠くなったことをここに告白する。

最後に、豪華で洗練された衣装を眺めるだけでも目の保養になるし、シディ・ラルビ・シェルカウイが振りつけた舞踏会の場面が実に独創的だったことを付け加えておく。

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外山雄三/大阪交響楽団 定期 ~プロコフィエフ没後60年~

4月12日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

外山雄三/大阪交響楽団で、

  • 外山雄三/前奏曲(2012) 改訂版初演
  • ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第3番
  • プロコフィエフ/バレエ音楽「ロミオとジュリエット」

ピアノ独奏は江口 玲(えぐち あきら)。

外山雄三/前奏曲は5分程度の小品。金管の咆哮で始まり、静かな弦に移行する。日本民謡調の節回し。そして最後はリズミカルな祭りとなり、ぐんぐん加速する。吹奏楽で演っても面白いんじゃないだろうか?ただコンクール自由曲としては尺が足りないかも。

協奏曲は江口 玲というピアニストに魅了された。剛直で特に小指が力強い。タッチが明瞭で、バックハウスに近いピアニズムを感じた。またカデンツァが奇天烈でびっくり!リストによるものだそうだ。なんとも珍しい。

ソリスト・アンコールはシューマン/トロイメライ。タメがなく、夢見るようでもなく(トロイメライ=夢)、潔い演奏。大いに気に入った!

ロミオとジュリエット」は明快で生真面目な解釈。楷書的である。ワクワクするような面白さとか、遊び心がもっと欲しい気もするが、これは指揮者の特性であり、無い物ねだりというものだろう。そもそもプロコフィエフは「冷めた音楽」を書く人なので、こういう解釈もありだと想った。

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2013年4月14日 (日)

PACオーケストラ リサイタルシリーズ/フルート(前半)&ヴァイオリン(後半)

4月11日(木)兵庫県立芸術文化センターへ。兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオケ)団員による室内楽を聴く。なんと入場料500円ポッキリ!

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まず前半はアイスランド出身で、オランダ・ハーグ王立音楽院でコンセルトヘボウ管の首席エミリー・バイノンに師事したメルコルカ・オラフスドッティア(フルート)。ピアノはロシアのヘレナ・バシロヴァで、

  • ゴーベール/フルート・ソナタ 第3番
  • 武満 徹/声(ヴォイス)
  • 吉松 隆/「デジタルバード組曲」より”夕暮れの鳥”
  • プロコフィエフ/フルート・ソナタ
  • スヴェインソン/アイスランド民話劇“ディンマリン”より 
    間奏曲
    (アンコール)

兎に角、1933年に書かれたゴーベールのソナタにすっかり魅了された。泣きたくなるくらい綺麗なメロディ。春のそよ風を感じさせる。第2楽章「間奏曲、牧歌」は軽やかで透明感がある。一転して第3楽章は活発で、子どもたちがはしゃいでいるかのよう。演奏家が語ったことによると、彼女は昔からドビュッシーのフルートのための音楽が大好きだった。しかしソナタが残されていないのは大変残念に想っていた。初めてゴーベールのソナタを聴いたとき、「ドビュッシーがもし作曲していたら、こんな作品になったのではないか?」と衝撃を受けたとのこと。その気持、よく分かる!プーランクに続き、20世紀で2番めにランクされるべき傑作ソナタだった。

武満は人の声、息を吐く音も取り込んだユニークな作品。尺八的とも言える。気合の入った演奏だった。

吉松はミステリアス。

プロコフィエフは機知に富む。後にオイストラフからの依頼でヴァイオリン・ソナタ 第2番に改稿された。

休憩を挟み後半はソウル生まれでパリ国立高等音楽院で学んだリム・ホンキュン(ヴァイオリン)と法貴彩子(ピアノ)で、

  • モーツァルト/ヴァイオリン・ソナタ 第18番 K.301
  • ペルト/フラトレス ~ヴァイオリンとピアノのための~
  • R. シュトラウス/ヴァイオリン・ソナタ
  • ヴェチェイ:悲しきワルツ(アンコール)

このヴァイオリニストはヴィブラートが控えめで、清々しいモーツァルトだった。

ペルトフラトレスは静謐で、昔から大好きな作品。様々な編成で10以上のバージョンが作られている。僕が聴いたことがあるのは独奏ヴァイオリン+弦楽合奏版、弦楽四重奏版、管楽八重奏+打楽器版など。「フラトレス」とはラテン語で「兄弟」を示し、信仰を同じくする仲間という意味も持つ。心が洗われるような、聖なる響きがした。

R. シュトラウスは華麗な音楽。豊穣な浪漫の香りがした。

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アンコールで弾かれたフランツ・フォン・ヴェチェイはハンガリーのヴァイオリニスト/作曲家らしい。

両演奏家とも、大変珍しいマニアックなプログラムで大満足。音楽の世界は奥深いなと改めて想った。お値打ちのコンサートだった。

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2013年4月12日 (金)

フェニーチェ歌劇場 ヴェルディ/歌劇「オテロ」@新フェスティバルホール

全面改築し、新規オープンとなったフェスティバルホールへ。

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こけら落としとなるフェニーチェ歌劇場による来日公演、ヴェルディ/歌劇「オテロ」を鑑賞。

ヴェネツィアにフェニーチェ歌劇場が完成したのは1792年。 ヴェルディの「エルナーニ」「アッティラ」「リゴレット」「椿姫」「シモン・ボッカネグラ」がここで初演されている。

僕が海外のオペラ座による日本公演を鑑賞するのはこれが2回目。前回は中学生の時、郷里・岡山から大阪まで新幹線に乗り、旧フェスティバルホールでミラノ・スカラ座の「ボエーム」を観た。演出・美術はフランコ・ゼッフィレッリ。カルロス・クライバー指揮でミレッラ・フレーニ(ミミ)、ペーター・ドヴォルスキー(ロドルフォ)という史上最強のプロダクションであった。カルロスの華麗な指揮ぶり、そして第2幕が開くと上下2段になった舞台装置が現れ場内が「オォーッ!」とどよめいたことを今でも鮮明に記憶している。あの頃は字幕なんて洒落たものはなかったが、今回は勿論、舞台両脇にLED字幕装置付き。

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指揮は5年間パリ・オペラ座バスティーユ音楽監督を務めた経験もあるチェン・ミョンフン。演出は1972年イタリア・ベルガモ生まれのフランチェスコ・ミケーリ

主な配役は、

オテロ:グレゴリー・クンデ
デズデーモナ:リア・クロチェット
ヤーゴ:ルーチョ・ガッロ
カッシオ:フランチェスコ・マルシーリア
モンターノ:マッテオ・フェッラーラ
エミーリア:エリザベッタ・マルトラーナ

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まず第1幕は数々の星座に彩られた紗幕(しゃまく:レース・カーテンのように透ける素材で出来た幕)が現れる。オテロを象徴する獅子座が中央にあり、デズデーモナを示す乙女座が寄り添う。それを2匹のうみへび座(=ヤーゴ)とさそり座(ロデリーゴ?)が包囲する。

第1幕後半のオテロとデズデモーナの二重唱では、舞台装置が黄金色に輝き、壁はイスラムのアラベスク(幾何学)模様で埋め尽くされ真に美しかった。

ちなみに物語の舞台となるキプロス島はトルコの南に位置する地中海の島で、当時はヴェネツィア共和国領だった。つまりヨーロッパ文化とイスラム文化の接点だったのだ。

また獅子はヴェネツィアの守護聖人・聖マルコの象徴であり、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞はこれに由来する。

  • ヴィスコンティ映画「ベニスに死す」の謎
    (ヴィスコンティはオペラ演出家としても名高く、ゼッフィレッリは助手を務めていた。かの有名なマリア・カラスの「椿姫」@スカラ座を演出したのもヴィスコンティである)

第2幕・庭園の場でマンドリンやギターの伴奏で合唱が歌われる中、聖母像が登場。しかし物語が進み、ヤーゴの毒が回りオテロが嫉妬に狂うと聖母像が倒れ、それにウミヘビが巻き付いているといった具合で、演出が巧み。時折星座が光るのも綺麗だった。

グレゴリー・クンデはベルカント歌手として名を馳せた人だそうだが、甘美な声に魅了された。当初は果たしてオテロというドラマティックな役柄に相応しいのだろうか?という不安があったのだが、力強さにも不足はなかった。

リア・クロチェットは、人々の多くがソプラノと聞いてイメージする通り、ものすごい肥満体でビジュアル的にはいただけなかったが、歌唱はさすがだった。特に弱音の澄んだ美しさは特筆に値する。とにかくオテロとデズデモーナの2重唱には陶酔した。

ルーチョ・ガッロは見た目がよく、演技も見事だった。ただ声量が物足りなく、淡白な印象を受けた。僕が今まで親しんできたヤーゴは「歌役者」ティト・ゴッビや、スカラ座来日公演で歌ったピエロ・カプッチルリ、そしてゼッフィレッリが監督したオペラ映画「オテロ」のフスティーノ・ディアスであり、彼らと比べるのが気の毒だと分かっているが、こればかりは仕方がない。もっと個性を押し出し、強烈な悪の魅力を放散して欲しかった。

あとオペラ指揮者としてのチョン・ミョンフンの卓越した統率力には舌を巻いた。音楽は一瞬たりとも弛緩することなく劇的であり、明晰で切れがあった。オーケストラも(特に管楽器)べらぼうに上手かった。イタリアの底力を感じた。

清水の舞台から飛び降りたつもりで4万5千円という高額なチケットを購入、1階席7列目センターブロックで鑑賞した。悔いはない。それだけの価値のある公演であった。Bravissimo !!

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旧フェスティバルホールは音がデッドで嫌いだった。しかしリニューアルで音響は明らかに改善。収容人数が多いのでザ・シンフォニーホールほどの残響は勿論ない。しかし音の分解能が高く、各声部がクリアに聴こえる。潤いがあり、以前の”乾いた”印象は払拭された。

最後に、トイレがウォッシュレットに進化したのはありがたいが、便座シートや除菌クリーナーが設置されていないのは片手落ちだと思う(ザ・シンフォニーホールにはシートあり)。今後の改善を望む。ビロウな話で恐縮です。

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2013年4月10日 (水)

さばのゆ大学プレゼンツ「小佐田はんと前田くん/と南光さん」~桂枝雀を語る

2012年10月30日(火)「小佐田はんと前田くん」@大阪さばの湯温泉(←本物の温泉じゃないよ!)へ。

落語作家・小佐田定雄さんと天才落語家・桂枝雀(故人)の息子でミュージシャンの前田一知さんの対談。

枝雀さんは「スポーツは水泳以外いらん」「18歳になったら運動したらイカン」と言っていたそう。

また「落語は夢。どこかに真(まこと)があればいい」というのが持論だった。

枝雀さんが愛した酒、池田の呉春。上を向いて喉を細くし嚥下する「鶴飲み」という独特の方法を考案したが、これは終戦直後の幼い頃、家が貧しく母子でまんじゅうを分け合って食べた体験から来ているのではないかと。「(首が長い)キリンが羨ましい」とも言っていたそう。

父の死後も故人を偲び、前田家への呉春の贈り物は絶えることがなかった。ある日、母子でそれを飲みながら、ふと母親(かつら枝代)から「これ美味しおもう?甘ない?」と言われ、それまで自分が感じていた違和感が解消したと一知さん。戦後は甘いモノが不足していたから枝雀さんは呉春を好きになったのではないかと小佐田さん。

一知さんが幼い頃、父は夜に落語会があり、母もお囃子方だったので、22-23時に夕食となるのが当たり前だったそう。

小佐田さんは中学生の時、桂米朝師匠と小松左京が進行役だったラジオ大阪「題名のない番組」(昭和39年10月~昭和44年4月9日放送)を聴いて落語に興味を持った。投稿したものが番組で取り上げられたこともあった。大学卒業後は保険会社に務めていた。

枝雀さんは1977年(昭和52年)に新作落語の会を始め、以前足を運んでいた小佐田さんのところにも案内状が届いたので再び通うようになった。翌年2月にその会で「戻り井戸」を初演。強い印象を受けたと。

枝雀さんは凝り性のダレ性だった。また考案した「サゲの4分類」「緊張の緩和(で笑いが生ず)理論」の話題も。

一知さん秘蔵の写真を何点も見せて貰い、また新春恒例米朝一門会から桂吉朝(横山ノック役)、小米朝(現・米團治)、九雀による漫画トリオの漫才を動画で鑑賞。

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2013年1月30日(水)「小佐田はんと前田くんと南光さん」@大阪さばのゆ温泉。

定員30人でぎっしり満席。事前の打ち合わせなしのガチトーク。桂南光さんが18歳で入門した頃の枝雀さんはいつも下駄だったという。その頃、定時制高校時代の恩師・森本先生(英語)の家@伊丹市で下宿生活を送っていた。先生との会話は死後の話とか仏法に関することが多かった。当時、師匠と南光さんは寡黙だった。「それを無茶苦茶にしたのが雀々です」と南光さん(場内爆笑)。

枝雀さんは柔らかいご飯が好きで、「おかゆみたいにベチャべベチャでした」と南光さん。硬いご飯だと「胃にご飯粒が当たります。私には分かります」「人間として駄目になる」と言っていた。

南光さんは「内弟子生活で何か辛かったことがあったかと問われれると、それが全くないんです」擬似家族のような暮らしだったという。炊事洗濯をこなし、落語「貧乏神」でそういう場面が来ると、実感としてよく分かるのだと。

当時上方落語は衰退期で、「この芸はいずれ滅びる。(落語家が)増えることはない。最後に君と僕の二人だけしか生き残らないかもしれないが、それでもいいですか?」と初対面で言われたそう。

入門が決まると法善寺横丁にある「洋酒の店 路」に師匠に連れて行ってもらい、ハイボールを勧められた。店主が「いいんですか、こちら未成年でしょう?」と問うと、枝雀さんは「いいんです。噺家になるのだから法律は関係ない」と。結婚するまでは税金も納めず、督促状が溜まっていた(六代目笑福亭松鶴も紫綬褒章受賞が決まった時、市民税を30年間滞納していたことが発覚、役所から収めるよう電話がかかってきた時に「税金払わんと貰えんのやったら、そんな賞はいりまへん!」と言ったとか)。

南光さん、音也さん(故人)が入門する前、一番弟子「けいし」(←漢字が分かりません。ご存じの方、コメントお願いします)という人がいて、後に廃業。坊さん/消防士になったらしい。

枝雀さんが枝代さんと付き合っていた時、南光さんに紹介し「君が見て、O.K.なら結婚します」と言った。またその頃別に縁談があり、結婚後に相手から電話がかかってきて枝代さんが出た。枝雀さん曰く、「断りに行くの忘れてた!」

古い写真を見ながら鼎談は続く。1971年11月11日に開催された「1080分落語会」(午前7時開演!)について笑福亭仁鶴が「くっしゃみ講釈」で、「唐辛子の粉を買うてきた」と言わなければいけない仕込みの所で「胡椒」と間違って言ってしまい、後半しどろもどろになったエピソードも。

枝雀さんがやっていたSR(SF/Short Ragugo)の会については、「いんき」な「おたく」が集まったと南光さん。

枝雀さんは南光さんに対して、自分のことを「兄さん」と呼びなさいと言っていた。しかしそれを見た米朝師匠は「世間に示しがつかん」と怒った。そこで枝雀さん「しゃーない、ちゃーちゃん(=米朝)の前だけ”師匠”と呼びなさい」

枝雀さんと仲が良かった(弟弟子)桂ざこばさんからは嫉妬され、「お前さえおらんかったら兄ちゃんから可愛がられた。死ねばええと思った」と言われたことも。

枝雀さんは不思議なこだわりを持っていた。パチンコ屋に入ると台の隣の席に座り、斜めに眺めながら打った。その方が玉筋がよく見えるのだという。しかし、出てきた玉は景品と交換しなかった。

偏食の枝雀さん、法善寺横丁の立ち食いの「仔牛屋」で焼肉を食べ、「こんなに美味いものはない」とそれから一ヶ月毎日焼肉を食べ続け痛風を発症した。治療のため南光さんが毎朝野菜ジュースを作ったが、それを飲み終わると「うん!焼肉行こう!」と懲りなかった。

グラタンに凝っていた時はいろいろな店に入りグラタンを二人で一つだけ注文。美味しかったら「いけますな。ほなもう一つお願いします」と追加した。不味ければそのまま店を出た。

また、てっちりにバナナやりんごを入れて「美味しい」と言い、湯豆腐にご飯→牛乳(味見し「洒落てるな」)→トマトジュースを次々と投入。インスタントラーメンに牛乳、バターを入れて食べたことも。

さらに酔っ払った枝雀さんが造幣局近くにある銀橋の欄干に登り、高所恐怖症の南光さんも師匠が危ないとそれに追随した話、道頓堀角座裏あたりにあった「せっせっせ」というカウンターだけの居酒屋で飲み、「洋酒の店 路」に行き、さらにもつ煮込みの店「ふじ井」へとはしごした思い出話などに花が咲いた。

貴重なエピソードがたくさん聴け、大変興味深い講座(?)だった。

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2013年4月 8日 (月)

映画「ザ・マスター」と村上春樹

評価:A

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アカデミー賞に主演男優賞(ホアキン・フェニックス)、助演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)、助演女優賞(エイミー・アダムス)と3部門ノミネート。

公式サイトはこちら

監督・脚本のポール・トーマス・アンダーソンは1999年にトム・クルーズを起用して「マグノリア」を撮った(ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)。「マグノリア」はクライマックスに空から大量のカエルが降ってくる場面がある。理由付けはない。これはどうやら旧約聖書の「出エジプト記」(蛙の災い)から来ているらしい。

で、村上春樹の小説「海辺のカフカ」にも似たような場面がある。空から大量のイワシ、アジ、ヒルが降ってくるのである。「海辺のカフカ」が刊行されたのは2002年。「マグノリア」に触発された可能性は高い。少なくとも作家のルールとして「知らなかった」という言い訳は通用しないだろう。

さて、本題の「ザ・マスター」だ。フィリップ・シーモア・ホフマン演じるザ・マスターは新興宗教の教祖と言ってもいいかもしれないが、微妙。自己啓発セミナーの指導者という見方も出来る。「マグノリア」のトム・クルーズも「誘惑してねじ伏せろ」という本を出版して新興宗教まがいのセミナーを行っているから、その延長上にあるキャラクターと言える。カリスマ性があり、胡散臭いと分かっていても惹きつけられる魅力を放散している。

ホアキン・フェニックスは2008年に突然、歌手への転向を宣言し、その奇行が話題となったが、実はモキュメンタリー(フェイク・ドキュメンタリー)出演のための役作りだったと後に判明した。「ザ・マスター」でもあの時の騒動を地で行くような変人ぶりで、正にはまり役だった。

兎に角、この二人の演技が素晴らしい。僕がアカデミー会員だったら絶対投票しただろう。

ザ・マスターが言っていることは明らかにインチキ/ペテンである。しかし映画は決して彼のことを糾弾しようとはしないし、心を病んだ退役軍人と師匠との奇妙な、ある意味”擬似親子”的関係を淡々と描いていく。

「人間って、こういうもんだな」と思わせる、摩訶不思議な説得力があった。

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2013年4月 6日 (土)

寺神戸亮/深遠なる無伴奏ヴァイオリンの世界~バロック時代のヴィルトゥオーゾ達~

4月5日(金)大阪府豊中市にあるノワ・アコルデ音楽アートサロンへ。

寺神戸亮さんのバロック・ヴァイオリンで、

  • バルツァー/プレリュード ト長調、
     「ジョン、来て、キスして」によるディヴィジョン
  • ヴェストホフ/無伴奏ヴァイオリンのための組曲 第1番
  • ビーバー/パッサカリア ト短調(「ロザリオのソナタ」より)
  • タルティーニ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第20番
  • ルーマン/アッサジオ 第4番
  • ピゼンデル/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ イ短調
  • J.S.バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第2番
     ~アンダンテ(アンコール)

前半は17世紀の楽曲で、後半は18世紀、バッハと同時代の作曲家の作品。全員高名なヴァイオリニストだったという。

バルツァーはドイツに生まれ、イギリスに渡った。スコットランド民謡の変奏曲。

ヴェストホフはワイマールでカペルマイスター(宮廷楽長)を務め、J.S.バッハの上司だったそう。重音奏法が多用され重厚な響き。

ビーバーはボヘミアに生まれ、ザルツブルグで活躍した。「ロザリオのソナタ」は曲ごとに調弦を変え、「ヴァイオリンという楽器の新しい可能性を引き出しました」と寺神戸さん。

タルティーニはイタリア人で、ルーマンはスウェーデン王宮に務めた。現在は世界遺産になっているドロットニングホルム宮廷劇場は1766年に建設された。舞台背景画は屏風のような可動式パネルで、早変わりも可能だという。

ピゼンテルはドイツのドレスデンで活躍した作曲家でヴィヴァルディの弟子。大バッハより2歳年下。技巧的楽曲だった。

ガット弦を張ったバロック・ヴァイオリンは澄んだ音がするモダン楽器とは違い、雑味があり豊かな倍音を含む。音に厚みがある。

タルティーニ以外は初めて聴く作曲家ばかりだったが、肩の力を抜き、古の響きに耳を澄ませ、全身で吸収した。穏やかな春の宵を愉しんだひとときであった。

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2013年4月 5日 (金)

決定版!チェロの名曲・名盤 20選

Twitterのフォロワーの方から「チェロのお勧めCDを教えて欲しい」とリクエストを頂いた。そこで熟考の上、20枚のアルバムを選んだ。聴いて欲しい順に並べてある。

  1. エルガー&ディーリアス/チェロ協奏曲
    (デュ・プレ、バルビローリ/ロンドン交響楽団 ほか)
  2. J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲 全曲
    (ビルスマ or 鈴木秀美)
  3. コダーイ/無伴奏チェロ・ソナタ
    (ペレーニ)
  4. ピアソラ/ル・グラン・タンゴ
    (「ヨーヨー・マ・プレイズ・ピアソラ」)
  5. カタロニア民謡/鳥の歌
    (カザルス「ホワイトハウス・コンサート」より)
  6. サン=サーンス/チェロ・ソナタ 第1・2番
    (ナヴァラ/ダルコ)
  7. ジョン・ウィリアムズ/映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」
    (チェロ独奏:ヨーヨー・マ)
  8. メンデルスゾーン/チェロ・ソナタ 第2番
    (ウィスペルウェイ/ジャコメッティ)
  9. ベートーヴェン/チェロ・ソナタ 第3番
    (ビルスマ/インマゼール)
  10. 譚 盾(タン・ドゥン)/映画「グリーン・デスティニー」
    (チェロ独奏:ヨーヨー・マ)
  11. フォーレ/夢のあとに
    (マイスキー「ララバイ」より)
  12. ドヴォルザーク&サン=サーンス/チェロ協奏曲
    (デュ=プレ、チェリビダッケ/スウェーデン放送O.)
  13. シューベルト/アルペジョーネ・ソナタ
    (マイスキー/アルゲリッチ)
  14. C.P.E.バッハ/チェロ協奏曲 イ短調 Wq. 170 (H. 432)
    (鈴木秀美/オーケストラ・リベラ・クラシカ)
  15. コルンゴルト/チェロ協奏曲
    (ディクソン、バーメルト/BBCフィル)
  16. チャイコフスキー/ロココ風の主題による変奏曲
    (ロストロポーヴィチ、カラヤン/ベルリン・フィル)
  17. ドビュッシー/チェロ・ソナタ
    (ボロディン・トリオ)
  18. ブラームス/チェロ・ソナタ 第1・2番
    (ロストロポーヴィチ/ゼルキン)
  19. フォーレ/チェロ・ソナタ 第1・2番
    (クリーゲル/ティクマン)
  20. グリーグ&ラフマニノフ/チェロ・ソナタ
    (ウォルトン/グリムウッド)

若くして多発性硬化症という難病に罹り、夭折した天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯については下記で詳しく語った。

ジャッキーといえばエルガーである。なんと激しく、強烈に訴えかけてくる音だろう!まるで火の玉のようだ。彼女と交流があったロストロポーヴィチが生涯、エルガーを録音しなかったのは「ジャッキーには到底敵わない」という想いがあったからではないだろうか?僕は哀しみに満ちたエルガー協奏曲が全てのチェロ協奏曲の中で一番好きだ。この究極の名盤は「無人島に持っていきたい一枚」である。聴かずに死ねるか!? (なお、バレンボイムが指揮した盤は伴奏が☓)

大バッハ無伴奏チェロ組曲は基本的に舞曲で構成されている。大半のチェリストの最終目標が、この高い山を制覇することであると断言しても過言ではないだろう。モダン楽器ではなく、ガット弦を張ったバロック・チェロで聴きたい。アンナー・ビルスマか鈴木秀美の演奏を推す。

ハンガリーの作曲家コダーイの最高傑作は「ハーリ・ヤーノシュ」ではなく、間違いなく無伴奏チェロ・ソナタである。低音2弦を通常より半音下げる変則的調弦法(スコルダトゥーラ)を採用。ピッツィカートや重音奏法など超絶技巧が駆使されている。ハンガリー民謡に基づき、時に昂ぶり情感豊か。ミクローシュ・ペレーニのCDがいい。ヤーノシュ・シュタルケルが1950年にモノラル録音したもの(アメリカのマイナーレーベル Period)が名盤の誉れ高いが、現在入手困難となっている。

ピアソラ@アルゼンチンの「ル・グラン・タンゴ」はロストロポーヴィチのために書かれた、チェロとピアノのための情熱的な音楽。聴いているうちに次第に興奮してくるのは必定。

パブロ・カザルスのホワイトハウスコンサートは1961年の録音(モノラル)。当時のアメリカ大統領はジョン・F・ケネディ。1939年スペイン内乱でフランコ独裁政権が樹立されるとカザルスは故国を捨てフランスに亡命、さらにプエルトリコへ拠点を移す。そしてフランコ政権を認める国では一切演奏しないと宣言した。1971年、94歳になったカザルスは「私の生まれ故郷カタロニアの鳥たちは、青い空に舞い上がるとピース(peace)、ピース、ピースと鳴くのです」と国連でスピーチをした。ホワイトハウスでの「鳥の歌」は、魂が震えるような、鬼気迫る演奏である。

サン=サーンス@フランスは機知に富み、活きがいい魚みたいなピチピチした音楽。

メンデルスゾーンは華やかで、自由闊達な音楽。ウィスペルウェイか鈴木秀美など古い時代の楽器も演奏できるチェリストで聴きたい。なおウィスペルウェイも鈴木もビルスマに師事している。いわば音楽的同門と言えるだろう。

ベートーヴェンチェロ・ソナタはノン・ヴィブラート奏法による古楽器とフォルテピアノの組み合わせを推薦する。モダン楽器ならロストロポーヴィチ/リヒテルか、マイスキー/アルゲリッチでどうぞ。この作曲家の音楽はいつも前向きで、人生を肯定しているように感じられる。だからむしろ哀しい時、落ち込んだ時には聴きたくない。そういった場合はエルガーやブラームスなどが、親しい友として慰めてくれるだろう。

「スター・ウォーズ」「E.T.」で知られる映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズとヨーヨー・マのコラボレーション「セブン・イヤーズ・イン・チベット」は心に染み入る、まことに美しい楽曲である。やはりジョン・ウィリアムズが作曲した映画「SAYURI」の音楽もイツァーク・パールマンとヨーヨー・マが競演する、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲に仕上がっており、聴き応えがある。

マイスキーの「ララバイ」はチェロの名曲アルバムとして推したい。フォーレ/夢のあとにも素敵な曲だし、「鳥の歌」も収録されている。

チェロの名曲は?と問われて、一番多くの人が挙げるのがドヴォルザークの協奏曲だろう。ロストロポーヴィチ、カラヤン・ベルリン・フィルの演奏が有名だが、ぼくはデュ・プレのライヴ録音を真っ先に推したい(スタジオ録音盤はバレンボイムの指揮が駄目)。この気迫、雄弁さ。一期一会、壮絶なパフォーマンスである。デュ・プレというチェリストを想う時、僕の脳裏に浮かぶ言葉は「短くも美しく燃え」。これに尽きる。

シューベルト/アルペジョーネ・ソナタは忘れられた楽器アルペジョーネのために書かれた。今はチェロで演奏されることが多い。大変メロディアスで魅了される。

大バッハの次男坊、C.P.E.バッハの音楽は文字通り「疾風怒濤」。躍動感があり衝撃的である。後のハイドンやベートーヴェンに多大な影響を与えた。

コルンゴルト/チェロ協奏曲は元々、映画「愛憎の曲(Deception)」の挿入曲として作曲された。浪漫的で芳醇な香りがする。演奏時間12分と短め。

チャイコフスキー 穏やかで伸びやか、そして柔らかい。それは植物の葉のような自由な曲線を複雑・優美に配したロココ建築を連想させる。

譚 盾は現代中国を代表する作曲家。グリーン・デスティニー」(原題: 臥虎蔵龍、英語題: Crouching Tiger, Hidden Dragon)は是非、映画自体をご覧下さい。アカデミー外国語映画賞・作曲賞などを受賞。監督のアン・リーは後に「ブロークバック・マウンテン」「ライフ・オブ・パイ」で2度アカデミー監督賞を受賞。大傑作だ。演奏はヨーヨー・マ。

ボロディン・トリオのCDはドビュッシーのヴァイオリン・ソナタとチェロ・ソナタ、ラヴェルのピアノ三重奏曲を収録しており、選曲がいい。ヴィブラートが控えめで好感度大。フランスのエスプリを味わおう。

ブラームスチェロ・ソナタ 第1番は憂愁と諦念の音楽。「秋」を感じて下さい。第2番はこの作曲家にしては珍しく内面から沸き起こる生命力、活力がある。

フォーレチェロ・ソナタはトルトゥリエ/ユボーのCDが有名だが、僕には些かヴィブラートが多すぎるように思われる。その点クリーゲルは◯(NAXOSなので価格が安い)。またアルバムには美しいシチリアーナ(こちらが原曲)が収録されているのも嬉しい。

最後に選んだグリーグラフマニノフのCDは取り立てて演奏が優れているとは想わないが、カップリングの妙で選んだ。要するに20という枠の中でどちらも入れたかったのである。個別に言えば北欧らしく仄暗い抒情を感じさせるグリーグはマイスキー/アルゲリッチ(DVD「ヴァルビエ音楽祭ライヴ2007-2008」)、ロマンティックで甘美な夢を描くラフマニノフはゲリンガス/ファウンテンの演奏を推奨したい。

枠からはみ出してしまったが、8人のチェロ奏者とソプラノのために書かれたヴィラ=ロボス/ブラジル風バッハ 第5番も是非、併せてお聴き頂きたい。何しろ編成がユニークである。

あとスイス出身のユダヤ人、エルネスト・ブロッホが1916年に作曲したヘブライ狂詩曲「シェロモ」も一度耳を傾けて欲しい。チェロと管弦楽のための作品でソロモン(=ヘブライ語で”シェロモ”)の彫刻から着想を得た作品。癖のあるヘブライの節回しに好みが分かれるだろうが、ちょっと他では味わえない独特の雰囲気があって面白い。

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2013年4月 4日 (木)

吉野の桜 2013

4月4日、奈良県の吉野山へ。

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毎年恒例となった桜狩である。

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今年は例年より早く、既に中千本は満開であった。

Yosi3

Yosi1

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2013年4月 3日 (水)

「宇宙戦艦ヤマト 2199」のすゝめ

4月7日(日)17時よりTBS系で放送されるアニメーション「宇宙戦艦ヤマト 2199」の公式サイトはこちら

僕がテレビで「宇宙戦艦ヤマト」を観ていたのは小学生の時だった。決して熱心なファンではなく、その後の劇場公開版も、キムタクが主演した実写版も一切観ていない。

しかし「宇宙戦艦ヤマト 2199」は「映画のブログ」で絶賛されていたので興味を持った。2013年にTV放送される1年前から徐々に先行劇場公開され、DVD & Blu-rayで発売開始されていたのである。そこでTSUTAYAでレンタルし、試しに観てみた。腰を抜かした。何たるクオリティの高さ!何たる面白さ!目が画面に釘付けになった。この1年間、次の巻が発売されるのがどれほど待ち遠しかったことか!

連続テレビアニメの製作現場は非常に悪条件であり、毎週30分の新作を放送局に納品しないといけないというのはとても苦しいことである。「未来少年コナン」で宮崎駿は途中、全て自分で絵コンテも演出もこなすことが困難となり、高畑勲らの手を借りた。庵野秀明監督「新世紀エヴァンゲリオン」テレビシリーズの末路が惨憺たるものだったのは御存知の通り。最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」なんて、物語ることを完全に放棄している。だから「宇宙戦艦ヤマト 2199」が放送開始1年前から製作をスタートするというのは理に適ったことであった。

まず作画が素晴らしい。21世紀の作品らしくCG技術も駆使しているが、セル画と見事に調和している。メカデザインも精密。新キャラクターが沢山登場するが違和感はない。森雪が色っぽいし、女性乗務員の宇宙服がエヴァのプラグスーツみたいでエロいんだ。岬百合亜(みさき ゆりあ)って”萌え”系キャラも配し、ヲタクのツボをしっかり抑えている。いいねぇ!古代進もイケメンになった。あとデスラー総統:山寺宏一の声には痺れるね(山寺さんは「新世紀エヴァンゲリオン」の加持リョウジ役でもお馴染み)。

兎に角、「宇宙戦艦ヤマト 2199」を観ていて一番感動するのは、このリメイクに携わる全スタッフの作品に対する””である。「最高のものを作って若い世代へ伝えよう」という気迫。それがビシバシ画面から伝わってくる。彼らの多くが子供の頃「宇宙戦艦ヤマト」を観て育った世代だと思われる。

例えばオープニングの絵コンテは「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明が担当している。庵野は中2の時、「宇宙戦艦ヤマト」本放送の第2話から見始めて夢中になったという(詳細は→こちら)。また第3話は平成ガメラ・シリーズの特技監督で、映画「ローレライ」「日本沈没」「巨神兵東京に現る」の監督としても知られる樋口真嗣が絵コンテを切っている。

オリジナル版の音楽は故・宮川泰が作曲していたが、新作を担当するのは息子の宮川彬良。当時の楽譜は散逸しており、「耳コピー」でスコアを完全に再現したという。ものすごい執念だ。そしてそこにあるのは当然、父親への敬愛の念であろう。

このように「宇宙戦艦ヤマト2199」は39年前に放送された「宇宙戦艦ヤマト」の子供たちによる、火傷しそうなくらい熱い作品なのである。

僕は第1話、第2話(第1章)を観た時、些か不満があった。それは宮川泰が作曲した主題歌のメロディーは登場するが、歌(作詞:阿久悠)がなかったからである。ところが、ヤマトが地球を発進しイスカンダルに向かった第3話冒頭、「さらば~地球よ~」とあたかもレクイエムのように静かに歌いだされて、鳥肌が立った!歌うのはオリジナル版と同じささきいさおだねぇ。

あとエンディングテーマ曲が大好きだった憂愁のバラード「真赤なスカーフ」(作詞:阿久悠)じゃなかったのも残念だった。ところがっ!!第7話「太陽圏に別れを告げて」で遂に登場したのである、あの「真赤なスカーフ」が!この「よき企み」には心底感動した。ここまで大切にとっておいたんだねぇ……(しみじみ)。

ただしDVD & Blu-ray版と、今回のテレビ放送版はオープニングテーマとエンディングテーマが異なるそうである。両者を見比べてみるのも一興だろう。

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2013年4月 2日 (火)

アカデミー短編アニメーション賞受賞「紙ひこうき」とアニー賞受賞「シュガー・ラッシュ」(同時上映)

評価:「紙ひこうき」A+  「シュガー・ラッシュ」A+

ディズニー映画公式サイトはこちら

紙ひこうき」でアカデミー賞短編アニメーション部門を受賞したジョン・カーズ監督はチーフ・クリエイティブ・オフィサーのジョン・ラセターに感謝の言葉を述べた。「彼が戻ってきてくれたおかげで、ディズニーは息を吹き返したんだ」

ジョン・ラセターは大学卒業後、ディズニーに入社するもCGアニメを推進しようとする彼の姿勢が社内の反発を呼び、解雇された。そしてスティーブ・ジョブズが経営するピクサー・アニメーション・スタジオに入社。「トイ・ストーリー1・2」「バグズ・ライフ」「カーズ1・2」等を監督した。「ティン・トイ」でアカデミー短編アニメーション賞を受賞。フルCGアニメが同賞を受賞するのは史上初であった。

ラセターが去った後、ディズニーは「美女と野獣」「アラジン」「ライオンキング」の成功で第二次黄金期を迎えた。しかし映画部門の責任者ジェフリー・カッツェンバーグとC.E.O.(最高経営責任者)のマイケル・アイズナーが衝突、カッツェンバーグが去ってドリーム・ワークスを設立したあたりからディズニーは再び低迷期に突入、作品の質は凋落し、経営が悪化した。そして2005年、アイズナーはついに放逐された。

2006年5月ウォルト・ディズニー・カンパニーがピクサーを買収した際、ラセターはディズニーおよびピクサーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーに就任した。同時にジョブズも、ディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)となり、役員に就任した。つまりこれは事実上、ピクサーの首脳陣がディズニーを制覇したことを意味する。こうしてラセターは迷える子羊ディズニー社の救世主となった(いわばキリストの復活だ)。

「紙ひこうき」は手書きとCGの融合が違和感なく見事だ。白黒3Dだが、ヒロインの口紅だけパート・カラーになっている。これは黒澤明監督が「天国と地獄」で合図の煙だけ着色し、黒澤に私淑するスティーヴン・スピルバーグ監督も白黒映画「シンドラーのリスト」で赤い服の少女だけ着色したひそみに倣っている。また主人公が働く会社の雰囲気がビリー・ワイルダー監督「アパートの鍵貸します」のオマージュになっているのもニヤリとさせられる。ペーソス(←もしかして死語!?)と、詩情溢れる快作。全篇台詞なしのサイレント映画仕立てというのも洒落てるね(音楽と音響効果あり)。

一方、3D CG「シュガー・ラッシュ」はアカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートされたほか、アニー賞では作品賞・監督賞・脚本賞など5部門を受賞した。

業務用(コンピューター)ゲームの世界が舞台となる。これがゲームによって美術背景が全く異なり、また作られた年代によって解像度やキャラクターの動きの滑らかさが異なるように設定されており、その描き分けが素晴らしい。主人公ラルフが住むゲーム「フィックス・イット・フェリックス」が30周年という設定なので1980年代のアーケードゲームということになる。「スペースインベーダー」が1978年だからもう少し後、1980年の「パックマン」あたりの時代か。シューティング・ゲーム「ヒーローズ・デューティ」に登場する怪物は「エイリアン」と「スターシップ・トゥルーパーズ」を足して2で割ったような設定で愉しい。またレースゲーム「シュガー・ラッシュ」の世界は全てがお菓子で出来ておりファンタスティック!そのイマジネーションの飛翔にときめいた。

アルコール依存症やエイズ患者などが集い、輪になって座り、ひとりひとりが悩みや体験談を語る「分かち合い」の様子がしばしば映画やドラマで描かれるが、本作ではゲームの悪役たちがそのミーティングをしているという設定が秀逸。

巧みな伏線の張り方、そして各々のキャラの立ち方といい脚本がパーフェクト。はっきり言おう、今までのどの(分家)ピクサー映画よりも面白かった!そして泣いた。これは必見。(本家)ディズニー王国完全復活に快哉を叫びたい。ラセターさん、ありがとう!

Miya_3

余談だがAKB48が歌うエンディングソング「Sugar Rush」のミュージック・ビデオは写真家としても名高い蜷川実花が撮っている。ポップでカラフル、ガーリーでキュートな傑作だ。ただしこれは映画館では観れません、あしからず。

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