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ハンガリーの風景~バルトーク、コダーイからロージャ・ミクローシュ、ドホナーニ一家へ

バルトーク・ベーラ(1881-1945)はハンガリー領トランシルヴァニア(現在のルーマニア)に生まれた。1906年からコダーイ・ゾルターンと共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始め、1918年まで続けた。1907年、26歳でブタペスト音楽院ピアノ科教授となるが1934年に辞職し、科学アカデミーの民俗音楽研究員となった。

民族色の強い作品としてルーマニア舞曲(ビアノ版・オケ版)、、ルーマニア民族舞曲(ビアノ版・オケ版)、トランシルヴァニア舞曲、舞踏組曲、ハンガリーの風景、9つのハンガリーの農民歌(以上オケ)、ハンガリー民謡による8つの即興曲(ピアノ)、民謡様式による3つの歌などがある。

1939年に第二次世界大戦が勃発。ナチスを嫌ったバルトークは1940年コロンビア大学客員研究員として民俗音楽の研究に取り組む手はずを整え、アメリカに移住した。しかしまもなく白血病に罹り入院。戦争で収入源も絶たれ極貧生活を送ることになる。同じハンガリー出身の指揮者フリッツ・ライナーら友人たちは彼の窮状を見るに見かねてボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーに働きかけ、その財団からの委嘱という形で完成されたのが最高傑作の呼び名が高い「管弦楽のための協奏曲」(1943)である。44年に初演され、その翌年に作曲家は亡くなった。

「ハーリ・ヤーノシュ」で有名なコダーイ・ゾルターン(1882-1967)はハンガリーに生まれ、ブタペスト大学で学び、哲学と言語学において博士号を授与された。1905年から人里離れた村を訪ね民謡を集め、1906年にはハンガリー民謡に関する論文を発表した。ちょうどその頃バルトークと出会い、彼に民謡学の手ほどきをした。舞踏音楽、マロシュセーク舞曲、ガランタ舞曲、ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲などがある。

一方、1943年11月14日にレナード・バーンスタインはニューヨーク・フィルにデビューした。本来この演奏会はブルーノ・ワルターが指揮台に立つ筈だったが急病にて、コンサート直前になってアシスタントとして同楽団にいたレニーにお鉢が回ってきたのである。この時プログラムにミクロス・ローザの「主題、変奏とフィナーレ」があった。この曲は1933年にパリで初演されており、シャルル・ミンシュ、カール・ベーム、ゲオルグ・ショルティ、ユージン・オーマンディらも取り上げている。

ロージャ・ミクローシュ(英語読みでミクロス・ローザ1907-1995)はハンガリーのプタペストに生まれた。ライプツィヒ音楽院を経て1931年にパリに移住。1937年にロンドン、そして39年にアメリカ合衆国に渡った。ハリウッド映画「白い恐怖」(1946)、「二重生活」(1948)、「ベン・ハー」(1960)で3度アカデミー作曲賞を受賞。映画音楽は1934年にパリの友人オネゲルからの勧めで手掛けるようになったという。

ロージャの弦楽のための協奏曲Concerto for string orchestraは奇しくもバルトーク/管弦楽のための協奏曲Concerto for orchestraと同じ1943年に作曲されている。

彼は1956年にハイフェッツの委嘱によりヴァイオリン協奏曲第2番を作曲(後にビリー・ワイルダー監督の映画「シャーロック・ホームズの冒険」に使用された)。さらにハイフェッツとピアティゴルスキーのためにヴァイオリンとチェロのための協奏交響曲を書いている。

民謡などを取り入れた作品としてハンガリー風セレナード、ハンガリー風夜想曲、3つのハンガリーのスケッチ、ハンガリー農民の歌による変奏曲、北部ハンガリー民謡と踊り、狂詩曲などがある。

ロージャの作品には映画音楽を含め、ハンガリー的節回しが常に息づいている。彼は紛れもなくバルトークとコダーイの後継者なのである。

こうした民謡を基盤とする作曲家たちが20世紀に生まれた理由はハンガリーの独立運動と無関係ではないだろう。1867年、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の支配下でオーストリア=ハンガリー帝国が形成された。19世紀末には近代化の中で民族主義が高まりを見せた。1914年に第一次世界大戦が勃発、敗れたオーストリアは弱体化した。戦争終結後の1919年にハンガリー共産党による革命が起こるが数ヶ月で崩壊。その後生まれた政権はナチス・ドイツと協力関係を結ぶことになる。こうした混乱の中でバルトークやロージャはアメリカに亡命した。

バルトークやコダーイの音楽にはシューマンやブラームスら、19世紀ドイツロマン派の作曲家の影は殆ど感じられない。むしろ彼らはフランス印象派と直接結びついている。バルトークは1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノと作曲部門で出場したが作曲部門では入賞せず奨励賞、ピアノ部門は第2位だった(優勝はヴィルヘルム・バックハウス)。この時クロード・ドビュッシーの音楽を初めて知り、またコダーイと出会った。コダーイはその時パリへ音楽留学中であり、ドビュッシーの音楽に多大な影響を受けていた。

彼らとは全く潮流を異にする、もう一人のハンガリー人もご紹介しよう。エルンスト・フォン・ドホナーニ(1877-1960)である。ドホナーニは完全にブラームスの流れを汲む作曲家で、ピアニストとしても活躍した。ピアノ五重奏曲第1番 作品1は、まるで新発見されたブラームスのピアノ五重奏曲第2番じゃないかと見紛うばかりにロマンティックで美しい作品である(お勧め!)。ちなみにブラームス自身もこの曲を大いに気に入り、ウイーン初演に尽力したと伝えられている。ドホナーニはハンガリー民謡を主題とする変奏曲も書いているが、そのアプローチはバルトーク、コダーイ、ロージャらのそれとは全く異なる。

エルンストの息子ハンス・フォン・ドホナーニはドイツで高名な法学者となり、反ナチス抵抗運動に参加、彼が偽造した書類により13人のユダヤ人がスイス経由で亡命を果たした。ドホナーニはヒトラー暗殺計画にも関与し、それが発覚して死刑宣告を受け、1945年に絞首刑が執行された。享年43歳だった。2003年イスラエルは彼の功績を讃え、ヤド・ヴァシェム(ホロコースト)記念館の壁にドホナーニの名を刻んだ。ちなみに、ここには杉浦千畝の名もある。

ハンス・フォン・ドホナーニの息子が現在も指揮者として活躍するクリストフ・フォン・ドホナーニである。クリストフは1952年にゲオルグ・ショルティ(1912-1997)の指名でフランクフルト歌劇場の助手になった。ショルティはハンガリーの首都ブタペスト生まれ。リスト音楽院でバルトーク、コダーイ、エルンスト・フォン・ドホナーニらから指導を受け、ピアノ・作曲・指揮法を学んだ。このように歴史は繋がっているのである。

最後にお勧めCDをいくつかご紹介しよう。バルトークのオーケストラ曲についてはショルティ/シカゴ交響楽団か、ピエール・ブーレーズが指揮したものを選べば間違いなし。最初は「管弦楽のための協奏曲」からが入りやすいだろう。そしてピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、オペラ「青ひげ公の城」に進もう。最終目標は深遠な6つの弦楽四重奏曲だ。アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏にとどめを刺す。

コダーイの最高傑作は間違いなく無伴奏チェロソナタである。一聴すれば魂を揺さぶられるような体験となるだろう。ペレーニ・ミクローシュの新旧録音がベスト(ナクソス・ミュージック・ライブラリー NML所蔵)。

ロージャならガンバ/BBCフィルの「管弦楽作品集1・2」(シャンドス、NML所蔵)がいい。チェロ協奏曲も収録されている。最も有名なヴァイオリン協奏曲第2番ならやはりハイフェッツの演奏。幸いなことにステレオ録音が残されている(RCA)。

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