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2012年11月 7日 (水)

ラドゥ・ルプー@いずみホール/シューベルトと村上春樹、AKB48

11月6日(火)いずみホールへ。

ウィーン音楽祭 in OSAKA 2012、ルーマニア出身のピアニスト、ラドゥ・ルプーによるオール・シューベルト・プログラム。

  • 16のドイツ舞曲 D783,op.33
  • 即興曲集 D935,op.142
  • ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960(遺作)
  • スケルツォ 変ニ長調 D593-2(アンコール)
  • 楽興の時 D780より第2曲 変イ長調(アンコール)

村上春樹氏は小説「海辺のカフカ」でシューベルトのピアノ・ソナタについて言及している。シューベルトのソナタは聴いていて退屈だという会話の流れの中で、

「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故(ゆえ)に人間の心を強く引きつける」
「シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ」
「この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ」

また村上さんは別の小説で、人は必ずしも「100パーセントの女の子」に恋するわけではないと書いている。言いたいことは同じだ。僕はこれを読んでいて、AKB48も似たようなものだなと想った。

中森明夫さんは新書「AKB48白熱論争」において、KARAとか「少女時代」など韓流の女性グループを例に挙げ、彼女たちは美人揃いで容姿は完璧なのだけれど、だからこそすぐに飽きてしまうと語られている。逆にAKB48は不揃いで、中には不細工な女の子もいるが、個性的で飽きない。つまりシューベルトの音楽と同じ理屈だ。

シューベルトとシューマンは構成力が欠如した作曲家だというのが僕の持論だ。だから即興曲とか楽興の時、幻想曲など小品はいいが、ソナタとか交響曲といった大規模な作品になると、冗長で散漫、気まぐれ、脈絡がないといった欠点が露呈する。しかし、そういった「退屈さ」こそ魅力なのかもしれないと最近感じるようになった。

Lupu

照明を落としたステージにルプーは登場。時折、鼻歌交じりにピアノを弾いた。ちょっとグレン・グールドみたい。

16のドイツ舞曲」は軽くもなく、キレがある演奏でもない。トゥシューズでおどるバレエとは対極的に、足を踏み鳴らしながら踊るドイツ的重厚さが魅力的。心地よい倦怠感があった。

即興曲集」第1曲はいぶし銀の輝き。薄明を歩むような雰囲気が支配的。第2曲はリズムがかすかに揺れ、ゆりかごを連想させる。気高い和音がそこに重なる。第3曲の変奏曲は歌謡性豊か。音楽は自由闊達で、生を謳歌する。第4曲はリズミカルで活力に満ちている。

ピアノ・ソナタの第1楽章は左手が力強く動的。しかし決して作為的にはならない。音楽の表情はニュアンス豊か。穏やかな旋律は、聴く者を優しい気持ちにさせる。第2楽章を支配するのは儚さ。シューベルトの歌曲「水の上で歌う」D774に近い気分を感じた。第3楽章スケルツォにはまるで子供のような、純真な魂が宿っている。そして第4楽章(アレグロープレスト)になってもルプーは決して焦らず、慌てず、悠々自適。嗚呼、なんて気持ちいい音楽だろう!

僕はこの演奏会を通じて、生活の豊かさ(ゆとり)とは、無為な時間を過ごすことにあるのだということを学んだような気がする。たっぷり2時間、シューベルトの「退屈さ」を愉しみ、じっくり味わい尽くした。

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