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2012年6月22日 (金)

シリーズ《音楽史探訪》ナチズムに翻弄された作曲家ーフランツ・シュミットの場合

つい最近まで、シュミットといえば歌劇「ノートルダム」間奏曲の作曲家という程度の知識しかなかった。初めて彼の音楽に興味を持ったのは、寺岡清高/大阪交響楽団(旧・大阪シンフォニカー)で交響曲第4番を聴いた時である。

フランツ・シュミット(1874-1939)は現在のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァに生まれた。つまりモラヴィアの作曲家である。同郷の作曲家として他にエーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト(やはり後にウィーンに転居)やレオシュ・ヤナーチェクがいる。さらにフロイトもモラヴィア出身である。ちなみにドヴォルザーク、スメタナ、マーラーらはボヘミア地方(現チェコの中西部)出身であり、コルンゴルトとマーラーはユダヤ人。またシュミットと同年生まれの作曲家に12音技法を生み出したシェーンベルクがいる(シェーンベルクもユダヤ人であり、ナチスが政権を握るとアメリカへ亡命した)。

シュミットは1888年(14歳)家族と共にオーストリアのウィーンに転居し、ウィーン国立音楽院でフックスやブルックナーに学んだ。1896年に卒業しチェリストとしてウィーン宮廷歌劇場管弦楽団(現ウィーン・フィル)に入団、1914年まで演奏した(この年に第一次世界大戦が勃発)。ここは1897-1907の間、マーラーが芸術監督を務めていた

Schmidtfranz

シュミットは膨大なオルガン作品を残しており(CDでは3枚に及ぶ)、オラトリオ「7つの封印の書」にもオルガンが用いられている。

交響曲第1番は1899年、2番が1913年、第3番が1928年、第4番が1933年に完成した。初期の作品はブルックナーの影響が色濃く、コラール的旋律が登場したり、フーガだったり教会音楽的である。また時折リヒャルト・シュトラウスを彷彿とさせる響きもする。このあたりのことに関しては新日本フィルの定期で何度かシュミットを取り上げた指揮者のアルミンクが興味深いことをインタビューで語っているので、そちらをご覧あれ→新日本フィルのサイトへ(写真あり)。

1928年にコロンビア・レコードが主催する「シューベルト没後100周年作曲コンクール」があり、シュミットの交響曲第3番は2位になった。コンクールの地方審査員には​ラ​ヴ​ェ​ル​、​レ​ス​ピ​ー​ギ​、​シ​マ​ノ​フ​ス​キ​らがいて、最終審査はグラズノフやニールセンという錚々たる面々が名を連ねた。この時優勝したのがスウェーデンのアッテルベリが作曲した交響曲第6番で、1万ドルの賞金を得たことから「(1万)ドル交響曲」と呼ばれるようになった。

シュミットの音楽は交響曲第3番から第4番にかけて次第にブルックナー的色彩が薄まり、むしろマーラーに近づいていくのが面白い。つまりオルガンの響き、教会音楽を離れ、濃厚で芳醇なロマン派色に染まってゆくのだ。明朗で健全な曲想から、病んだ世界への変転(メタモルフォーゼ)ーこれは彼の人生を襲った苦難と無関係ではあるまい。

最初の妻カロリーネは精神に変調をきたし1919年から精神病院に収容された(シュミットの死後3年経ってナチスの安楽死政策により殺された)。1932年には娘エンマが出産直後に死去。そういった経験が娘の死の直後、32年から33年にかけて作曲された交響曲第4番に暗い影を落としている。 

交響曲第4番 第1楽章の冒頭にトランペットで提示され、調性と無調をたゆたう第1主題は作曲家が黄泉の世界にいる娘に発した呼びかけ(モールス信号)である。すると第2主題で娘の幻影が立ち現れる。仮初めの魂の交流。そこに展開される音楽は喪失感、慟哭に他ならない。チェロ独奏で導かれる甘美な第2楽章は娘と過ごした懐かしい日々を回想する。しかしそこにティンパニが刻む葬送行進曲のリズムが密やかに忍び込んで来る。第3楽章で作曲家は「これではいけない」と自らの気持ちを奮い立たそうと努力するが、その甲斐も虚しく第4楽章は次第に虚無へと沈んでゆく。最後に残るのは漆黒の闇のみ。空恐ろしい音楽である。

後期の作品ほど調性と無調の境界を彷徨うようになるという特徴は弦楽四重奏 イ長調 (1925)、弦楽四重奏 ト長調 (1929)、クラリネット五重奏 変ロ長調(1932)、クラリネット五重奏 イ長調(1938)もしかり。なお2つのクラリネット五重奏はクラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、そして左手のピアノのために書かれている。これは第一次世界大戦で右手を失ったパウル・ウィトゲンシュタインの委嘱だからである。このピアニストのためにラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」が作曲されたことは有名であリ、コルンゴルトも曲を提供している。

またシュミットのオラトリオ「7つの封印の書」は新約聖書の最後に配置された”異端の書”「ヨハネの黙示録」をテキストにしており、”最後の審判”が描かれる。いわばアニメーション「新世紀エヴァンゲリオン」における”セカンドインパクト”みたいなものである。やはりこの作品からも作曲家の絶望、厭世観がひしひしと伝わってくる。

さて、1932年にドイツで政権奪取したアドルフ・ヒトラー率いるナチスは1938年にオーストリア併合後、シュミットにカンタータ「ドイツの復活」を委嘱する。しかし結局完成されないまま、彼は翌年にこの世を去った。

またシュミットの教え子でありオラトリオ「7つの封印の書」の初演(1938)を振ったオーストリアの指揮者オズヴァルト・カバスタはナチスの熱心な賛美者であり、ミュンヘン・フィル主席指揮者就任の際にナチに入党した。このことが終戦後問題視され、占領軍から一切の演奏活動を禁止され、彼は服毒自殺をする。カバスタはシュミットの死後、他者の手で完成された「ドイツの復活」も指揮しており、これらが原因でシュミットも”ナチス協力者”の烙印が押され、人々から”忌むべきもの”と見做され忘れ去られたのである。それがいかに不当なものか、読者の皆さまにはお分かり戴けるだろう。

最後にお勧めディスクを紹介しよう。まず最初に交響曲第4番を是非聴いて頂きたい。20世紀に生み出されたシンフォニーの最高傑作である。一押しはズービン・メータ/ウィーン・フィルによる1971年の録音。実はこのCD、今まで3種類のカップリングで発売されたらしいのだが、今は全て廃盤になっている。ただしマーラーの「復活」との組み合わせによる2枚組みは中古で安価に手に入りやすい→こちら

2番目にお勧めはシャンドスから出ているネーメ・ヤルヴィ/シカゴ交響楽団およびデトロイト交響楽団による交響曲全集。輸入版の入手は→こちら。僕はこの演奏をナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)で愛聴している→こちら

オラトリオ「7つの封印の書」はアーノンクール/ウィーン・フィルが2000年にライヴ・レコーディングしているが、このCDもあろうことか廃盤。世の中にシュミットを聴く人が如何に少ないことか!ブルックナーとマーラーの世界を融合した素晴らしい作曲家なのに、とても残念なことだ。

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