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シリーズ《音楽史探訪》その2 モーツァルトとヨハン・クリスティアン・バッハ

シリーズ第1回 過渡期の作曲家たち~C.P.E.バッハと本当の「交響曲の父」 も併せてお読み下さい。

大バッハの第11子としてライプツィヒに生まれたヨハン・クリスティアン・バッハは14歳の時に父親が他界すると、プロイセン(ベルリン)のフリードリッヒ大王に仕える異母兄カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E.)の家に引き取られ、音楽教育を施された。そしてイタリアを経てイギリスに定住し、「ロンドンのバッハ」として名を馳せている時に8歳のモーツァルトと出会った。

クリスティアン・バッハは、モーツァルトを膝の上に乗せ、一台のチェンバロを連弾して遊んだという。モーツァルトのロンドン滞在は1年4ヶ月に及んだ。その時生み出された交響曲第1番 K.16は正にクリスティアン・バッハの影響を示す三楽章の交響曲で、シンフォニア形式(イタリア式序曲)でありながら、コントラストを もった二つの主題の対立や発展的な旋律法などにクリスティアンが見え隠れする。両者の端的な共通点はドレミファの上昇、あるいは下降音階をベースにメロディを紡ぎだす手法である。また第1シンフォニーの第2楽章は、その後くりかえし用いられる交響曲 第41番 「ジュピター」の第4楽章フーガのモティーフ(ドレファミ)が現れる(ホルンによって奏される)。

クリスティアン・バッハの作品6のうちト短調の交響曲(1770)は後のモーツァルト交響曲 第25番(1773)や40番(いずれもト短調)を予感させる作品である。

またクリスティアンはチェンバロよりも新しい鍵盤楽器フォルテピアノに愛着を示した最初の作曲家であり、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲が生み出される契機となった。モーツァルトはザルツブルクに戻ってからクリスティアンが作曲した作品5のソナタを3つのピアノ協奏曲K.107に編曲している。

モーツァルトの初期交響曲は急-緩-急の3楽章構成で第1楽章がソナタ形式。これはクリスティアンのシンフォニアに倣っている。彼が初めて3楽章にメヌエットを含む4楽章の交響曲を書くのは1767年。この時、一家はウィーンに滞在していた。その際ウィーンのスタイルを吸収したのだろう(ただしこの時点でハイドンはハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたので、モーツァルトとの接点はなかったものと思われる)。

1770年、父とイタリア旅行中だったモーツァルト(当時14歳)はボローニャでマルティーニ神父から対位法やポリフォニーの技法を学んだ。実は若き日のクリスティアン・バッハもイタリアに留学し、マルティーニに対位法を師事している。1754年のことであった。

また1777年にモーツァルト(21歳)はドイツ・マンハイムの地を訪れる。”交響曲の祖”ヨハン・シュターミッツの息子カール・シュターミッツが活躍していた時代である。ここでマンハイム派の作曲家から交響曲にクラリネットを導入することを学んだ。

1778年、モーツァルト(22歳)はパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーに滞在した。この頃に作曲されたのが初めてクラリネットを編成に取り入れた交響曲 第31番「パリ」 K.297である。そして7月3日に同行していた母が亡くなり、その悲しみがピアノソナタ 第8番 イ短調 K.310に反映されていると言われている。そんな彼のもとへロンドンからクリスティアン・バッハがやって来た。同年8月27日、ザルツブルクにいる父レオポルドに送った手紙にはこう書かれている。

ロンドンのバッハさんが当地へ来て、すでに二週間になります。彼はフランス語オペラを書く予定です。(中略)僕らが再会したときの彼の喜びと、僕の喜びがどんなだったか、容易に想像してもらえますよね。

1781年からモーツァルトはウィーンに定住した。1782年よりヴァン・スヴィーテン男爵の館では毎週日曜日に「音楽協会」(後のウィーン楽友協会)という集まりがあり、コンサートが催されていた。そこに彼は招待された。

スヴィーテン男爵はベルリンでフリードリヒ大王と交友関係があった。大王に仕えていたカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(C.P.E.)にも面識があり、その父ヨハン・セバスチャン・バッハの楽譜を購入した。つまりモーツァルトはスヴィーテン男爵の館で大バッハを研究し、フーガの技巧を学んだのである。

ぼくは、毎日曜日、12時にヴァン・スヴィーデン男爵のところに行きます。そこでは、ヘンデルとバッハ以外は何も演奏されません。ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。セバスチャンの作品だけでなく、エマニュエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。それからヘンデルのも。(中略)イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですよね?音楽界にとってなんという損失でしょう!(モーツァルトの手紙、1782年4月10日付、レオポルド宛)

エマニュエル・バッハのフーガ(6曲あると思います)を写譜して、いつか送ってもらえると、とてもありがたいのですが。ザルツブルグでこれをお願いするのを忘れてしまったのです。(モーツァルトの手紙、1783年12月24日付、レオポルド宛)

こうして生まれたのが前奏曲(幻想曲)とフーガ ハ長調 K.394 (82年)や2台のピアノのためのフーガ ハ短調 K.426(83年)である。

また1781年にハイドンが完成させたロシア四重奏曲(弦楽四重奏 第37-42番)の完成度の高さに感銘を受けたモーツァルト(当時25歳)はハイドン・セット(弦楽 四重奏 第14-19番)を作曲し、献呈している。ロシア四重奏初演の翌年、82年にモーツァルトが完成させたのが交響曲 第35番「ハフナー」であり、続く83年に交響曲第36番「リンツ」は生まれた。

こうして見ていくとクリスティアン・バッハが亡くなった1782年を契機にモーツァルトの関心は次第に大バッハC.P.E.バッハハイドンへと移り、(「ハフナー」以降の)後期交響曲に取り組んだ辺りからその影響が徐々に現れてきたと言えるだろう。そして最後の交響曲「ジュピター」第4楽章でフーガの登場に至るわけである。

つまり音楽の内容(個性)自体は幼少期に出会ったヨハン・クリスティアン・バッハに感化され(ザルツブルク時代)、技法・形式は大バッハやハイドンから学ぶことで(ウィーン時代)モーツァルトは作曲家として成熟していったと言えるのではないだろうか?

お勧めディスクを紹介しよう。まずジンマン/オランダ(ネーデルランド)室内管弦楽団によるクリスティアン・バッハのシンフォニア集である。

Jc

モダン楽器による演奏だが、歯切れよく颯爽としている。さすがオランダは古楽の本場だなぁという印象(有田正広、鈴木秀美などデン・ハーグ王立音楽院に留学した日本の古楽器奏者は多い)。

次にご紹介したいのがノリス、ソネリーによる世界で最初期のピアノ協奏曲集である。オンライン視聴は→こちら

Norris

クリスティアンの作品が2曲。さらに収録されているモーツァルトのコンチェルト K.107は前述した通り、クリスティアンのソナタをアレンジしたもの。

ここで使用されている楽器はスクエア・ピアノ(square piano)。ドイツの製作者ゴットフリート・ジルバーマン(1683-1753)によってその原型が生み出された。しかしジルバーマンの死後プロイセンとオーストリアの間に七年戦争が勃発したため、その弟子たちは1760年に集団でイギリスへ渡った(写真は→こちら)。これが素朴で鄙びた、いい音がするのである。現代のピアノよりはむしろ、ハンガリーの打弦楽器「ツィンバロム」に近い感じ(詳しくは→こちら)。音が出る原理は同じだから、むべなるかな。

またソネリーも古楽器で、1パート1人で弾いている。こじんまりとした古(いにしえ)の響きがなんとも魅力的だ。

もし何の予備知識もなくクリスティアンの楽曲を聴かされたら、十人中十人が異口同音に「これ、モーツァルトが作曲したんでしょ?」と言うことだろう。それくらいふたりは近い。

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