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2011年10月

2011年10月31日 (月)

野田総理と三谷幸喜 脚本・監督「ステキな金縛り」

野田佳彦総理が「官邸かわら版」で、特に自分の人生に影響を与えた映画として、ジェームズ・ステュアート主演の「スミス都へ行く」(1939)を挙げている(→こちら!)。1939年は「風と共に去りぬ」がアカデミー賞を席巻した年だが、「スミス都へ行く」も作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞など計11部門でノミネートされ、原案賞を受賞している。ちなみにNHKの取材に答えた、新橋の路地裏にある野田総理行きつけの飲み屋夫婦の証言によれば、総理が一番好きなハリウッド女優はヴィヴィアン・リーだそうである。閑話休題。

さて、三谷幸喜脚本・監督の「ステキな金縛り」は何の予備知識なしでも、いっぱい笑って最後は泣ける、とびきりの大傑作。でも、事前にフランク・キャプラ監督のハリウッド映画「スミス都へ行く」と「素晴らしき哉、人生!」を観ておけば、さらに2倍愉しめるだろう。深津絵里演じるヒロインの亡くなった父親(草なぎ剛)が「スミス都へ行く」が大好きで、向こうの世界から落ち武者の幽霊を連れ戻しにやってくる男(小日向文世)が「素晴らしき哉、人生!」をこよなく愛しているという設定。

評価:A+

映画公式サイトはこちら

本作で西田敏行が演じる幽霊は「素晴らしき哉、人生!」に登場する、翼をまだ持っていない二級天使と似た役回りと言える。「素晴らしき…」でベルは天使が翼を貰った合図。そのガジェットを、「ステカナ」ではハーモニカが担う。

「素晴らしき哉、人生!」で自殺しようとしたジェームズ・ステュアートは、自分が多くの人たちから愛され、必要とされる存在であることを二級天使から教えられる。一方、「ステカナ」の深津絵里は落ち武者の幽霊から、自分が死者たちからしっかり見守られていることを学ぶ。どちらも心温まる、感動的なラストである。

また市村正親、篠原涼子、生瀬勝久、深田恭子、浅野和之、戸田恵子、佐藤浩市、梶原善、唐沢寿明ら、多彩なゲスト出演陣も賑やかで愉しい。極上のエンターテイメントと言えるだろう。

深津、西田が歌う主題歌"ONCE IN A BLUE MOON"は本当にチャーミングな曲だ。これを聴きながら、「オケピ!」以来ご無沙汰している三谷さんのミュージカルを久しぶりに観たいと想った。是非、次作はミュージカル映画を!

三谷さんとクドカン(宮藤官九郎)はどちらも小劇場(「東京サンシャインボーイズ」と「大人計画」)出身であり、テレビや映画に進出したコメディ作家ということで共通点が多く、本人が好むと好まざるとに関わらずライバルと見做されてきた。2002年の第25回日本アカデミー賞ではクドカンが映画「GO」で最優秀脚本賞を受賞し、「みんなのいえ」の三谷さんを破った。そして今、三谷さんが幽霊を扱う「ステキな金縛り」を世に問い、クドカンもやはり幽霊のストリッパー(広末涼子)が登場する「11人もいる!」をテレビで放送中。何だか面白い。兎に角このふたりが牽引し、互いに切磋琢磨することで日本のコメディの質がどんどん向上し、洗練されてきていることは誠に喜ばしい限りである。

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フルート、新村理々愛さん(17)が国際コンクールで優勝

高校2年生の新村理々愛さんが第2回マクサンス・ラリュー国際フルートコンクールで優勝した(2位も日本人)。記事はこちら

2009年、新村さんが15歳中学生の時、彼女の演奏を聴いた感想は下記。

このレビューで僕は今回の優勝を予言している。この時彼女が吹いたモーツァルト/フルート協奏曲のカデンツァは何と自作だった!途轍もない少女だ。

また、女子フィギュアスケートの浅田真央さんは「仮面舞踏会」で彼女の演奏を起用している。詳しいことはこちら

新村さんの前途は洋々。ソリストとして活躍するものいいと思うし、ベルリン・フィルのエマニュエル・パユみたいに名門オーケストラの首席として活躍する手もある。海外のオーケストラに弦楽奏者の日本人は多いが、管楽器は極めて稀(僕の知る限り、フルート奏者ではBBC交響楽団の向井知香さんくらいか)。そういうことも踏まえて、今後に期待したい。

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2011年10月29日 (土)

延原武春/日本テレマン協会のJ.S.バッハ/ミサ曲 ロ短調

10月24日、いずみホールへ。

延原武春/テレマン室内オーケストラ・合唱団で、

  • J.S.バッハ/ミサ曲 ロ短調

を聴く。ここはクラシカル(古)楽器でも演奏するが、今回はモダン楽器による公演で、ノン・ヴィブラート(ピリオド)奏法。しかし、新たな試みとしてカーボンファイバー製のバロックボウ(弓)を使用。ウェイトは重めに作られているという。選択された楽譜は2010年にベーレンライター社から刊行された新校訂譜。

第1曲「主よ哀れみたまえ」は比較的遅めのテンポで開始され意外に感じたが、とても力強い演奏。決して重くはならず、どちらかというと歓びに満ち、祝祭的気分が強い。聴いていて愉しく、あっという間に2時間が経過した。独唱ではソプラノの渡辺有香さんが素直で澄んだ歌声を聴かせてくれて、とても良かった。

バッハの三大宗教曲のうち、ヨハネ受難曲は劇的で激しい感情の吐露があり、マタイ受難曲は絶望と諦念に彩られている。それぞれの特徴、個性が際立っており、面白いなと改めて感じた。

延原/テレマンの演奏は3,4年前からほぼ毎月のように聴いてきた。中でも今回の演奏は頭一つ抜けた、瑞々しく充実した内容だった。古楽器とモダン楽器の二束のわらじを履いてやって来た成果が、いま美しく花開こうとしているという印象を受けた。

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2011年10月28日 (金)

オペラ座の怪人 25周年記念公演@ロイヤル・アルバート・ホール(ロンドン)

僕はミュージカル「オペラ座の怪人」をこよなく愛している。どれ程かというと東京、ロンドン、ブロードウェイ、ラスベガスでこの作品を観ているくらいに。

この度、25周年記念コンサートの映像をTOHOシネマズ 梅田にて、デジタル上映で鑑賞した。

公式サイトはこちら(上映時期・期間はそれぞれの劇場で異なる)。

Phantom

ロイヤル・アルバート・ホール(収容人数約7,000人)は「プロムス」ザ・ラスト・ナイトの会場として有名。

改めてつくづく感じたのは、「オペラ座の怪人」の立ち位置は、映画における「風と共に去りぬ」と同じだなということ。つまりミュージカルの金字塔。これを超える作品は未来永劫生まれないだろう。

「レ・ミゼラブル」10周年記念や25周年記念コンサート(DVD、ブルーレイ発売中)みたいに、衣装を身にまとった状態でマイクの前に立って歌う演奏会形式なのかなと想っていたら、ちゃんと舞台装置があって役者が演じる、プレイ方式の上演だった。ただ、元々この会場はコンサート・ホールであり演劇を想定していないので、構造上の制約でハロルド・プリンス演出によるオリジナル・プロダクションとは色々変更点があった。

例えば映画版で使用された2万個のスワロフスキー・クリスタル製のシャンデリアが登場。しかし舞台とは異なり、シャンデリアが上昇したり落下したりはなし。

また劇中オペラ「ハンニバル」で象の巨大な機械仕掛けの模型が出てきたりするのもカット。"The Music of the Night"の場面でも、ウェディング・ドレスを着たクリスティーヌのマネキンはなし。

華やかなバレエ・シーンや、地下の湖の場面で炎の灯った燭台が湖底からせり上がって来るのはそのままあった。

また映画版で追加されたマダム・ジリーが語る怪人の生い立ちは残されたが、アカデミー歌曲賞にノミネートされた新曲"Learn To Be Lonely"は採用されず(←しょーもない曲だから、僕はこの方針を支持する)。

オーケストラは舞台中段に陣取り(弦が左翼、木・金管が右翼)、それより上方にある大きなスクリーンに映像を投影。また下方の舞台装置にはLED(発光ダイオード)電飾による映像が。このLED電飾がデジタル高画質の大画面だとドットが目立ち、安っぽく感じられたのが残念。喩えるならばジョルジュ・スーラの点描画を超至近距離で見ているような違和感があった。

今回のプロダクションで特筆すべきは2幕初めの「マスカレード(仮面舞踏会)」!とにかくアンサンブルが100人くらい登場して、その人海戦術によるスケール感が圧巻だった。これだけでも映画館に足を運ぶ価値は十分ある。ちなみにオリジナル版の出演者は約30人で、その少なさをカバーするために「マスカレード」では精巧に作られた人形が階段に配置されている(記念公演では勿論なし)。

オペラ座の怪人を演じるラミン・カリムルーはこのミュージカルの続編"Love Never Dies"のファントム役オリジナル・キャスト(ロンドン公演は今年8月27日に閉幕)。ロンドン初演キャストのマイケル・クロフォード、日本の市村正親さん、カナダのコルム・ウィルキンソン、オーストラリアのアンソニー・ワーロウらはテノールだが、ラミン・カリムルーの音域はどちらかと言うとバリトンの印象。しかし美声だし、とにかく豊かな低音が魅力的。そして激しくシャウトし、情熱的で素晴らしい。

クリスティーヌ役のシエラ・ボーゲスはディズニー「リトル・マーメード」ブロードウェイ版のアリエル役オリジナル・キャスト。最初サラ・ブライトマン同様にヴィブラートがきついかな?と想ったが、この人は演技がパーフェクトだった。"The Phantom of the Opera"のナンバーから涙を流していて、ここはクリスが怪人の催眠術にかかりトランス状態になっているわけだから、説得力があった。また二幕最後も泣きながらラウルと二重唱を歌いつつ去っていき、初めてこの場面が腑に落ちた。声量もあり、特に"Wishing You Were Somehow Here Again"(墓場のソロ)はこれ以上ドラマティックな表現を聴いたことがないと想った。

ラウル役のヘイドリー・フレイザーは宮本亜門演出「ファンタスティックス」ロンドン公演に出演していた人。イケメンで驚いた。正に貴公子。マイケル・ボールみたいな甘い声ではなく、むしろ気高い感じ。ピッタリ。

フィナーレは作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーが登場。ウェバーは目に涙を貯めており、「私は5歳の時、初めてこの劇場でプロムナード・コンサートを聴きました。ベートーヴェンの交響曲でした。私の作品がここで上演されるなんて信じられません」と。そしてロンドン初演キャストのマイケル・クロフォードサラ・ブライトマンを紹介。サラについては「私のAngel of Musicです!」

そしてサラと4人のファントムで"The Phantom of the Opera"を熱唱。4人の内訳はコルム・ウィルキンソン(カナダ初演キャスト)、アンソニー・ワーロウ(オーストラリア初演キャスト)、ジョン・オーウェン= ジョーンズ(現在のロンドン公演キャスト)、そしてピーター・ジョーバック(次期ロンドン公演キャスト)。

最後はプロデューサーのキャメロン・マッキントッシュも現れ、出演者全員で"The Music of the Night"を歌った。

なんともゴージャスで、夢のような3時間であった。

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2011年10月26日 (水)

答えのない質問 (The Unanswered Question) 2

これは前頁、「答えのない質問 (The Unanswered Question)」の続きである。

宮崎駿さんの発言内容には人類に対する深い絶望があると書いたが、もっと具体的に宮さんのアニメーション作品から解説を試みたい。

例えば「天空の城ラピュタ」の最後を想い出して欲しい。天空の要塞ラピュタはその恐るべき破壊兵器部分が崩壊し、上層部の大樹と飛行石部分を残してより高く上昇していく。そこにはキツネリスや鳥たちがいるが、人間は一人も残っていない。つまり、人類や文明が消え去って初めて、ラピュタは天空の楽園(パラダイス)になり得たのである。宮さんらしいペシミズムだ。

また「崖の上のポニョ」のレビューで僕は、宗介とポニョ以外、全員死亡説を唱えた。考えは今でも変わっていないし、それ以外にあの物語を解釈しようがないと確信している。つまり嵐や津波により人間全てが滅亡し、地球がリセットされ(古代魚の登場)、新しいアダムイヴとして宗介とポニョがまた最初から人類(ポニョは半魚人だから「新人類」)の歴史をやり直すのだと考えられる。

こうして見ていくと、地球が再生するためには、人類も、それが生み出した文明も一旦滅びるしかないと宮さんが考えていることがよく理解できるのではないだろうか?

以上、「本当は恐ろしい宮崎アニメ」の世界でした。

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2011年10月25日 (火)

答えのない質問 (The Unanswered Question)

3月11日の東日本大震災、そしてそれに続く福島原発事故で僕たちは大きな心の傷を負った。

日本人にとっての「パンドラの箱」は原発だったのだなと、今にしてつくづく想う。蓋は開かれ、中から一気呵成に飛び出した災厄は東日本を覆い尽くした。セシウム、ストロンチウム、プルトニウムといった放射性物質は日本の国土の一部を回復不能なまでに汚し、また海水にも大量の放射能が流れ、魚を汚染した。果たして「パンドラの箱」の最後に「希望」は残るのだろうか?

作家・開高健は次のような言葉を残している(出典はこちら)。

人間が一歩進むと自然は音もなく二歩後退します。

また、アニメーション作家・宮崎駿さんはこのようなことを語っておられる。

人間というものの存在の本質の中に、どこかで自分たち以外の生物を虐殺したり、生け贄にしたり、勝手に色々作り変えたりしながら、それが文化であったり文明であったりするわけです。そうして、人間というものが今日在るわけです。そのやり方についての反省はあったとしても、人間の存在そのものを否定するのかどうか。

電気を使う暮らしとか、病気を克服しようとか、貧乏を無くそうとか、不条理な死から解放されたいとか―そういうありとあらやる人間のやって来たこと、それがいいことだと思ってやって来たことが、実は自然というものを人間のために利用するということに尽きるわけですね。だから、悪い奴が悪いことをやって来たからこうなったわけじゃないんです。いいことをしようと思ってやって来たことに原因があるんですよ。

そういう風に考えていくと、自然の問題というのは簡単に残せばいいんだとか、樹を植えればいいんだとか、それは大事なことで日常的にやんなきゃいけないことですけれども、実際にはバランスを取るしかないんですね。他の生物の犠牲の上に人間が存在しなければならないという、この問題をどういう風につかまえるんだろうと。そこまで考えないと。

つまり宮さんが言いたいのは人類に対する限りない絶望である。

地球の生態系を考える時、人間はこの世に存在しないほうが絶対にいい。我々にとって受け入れがたいことではあるが、これは否定しようがない真実である。人は「開発」「発展」という名の下に、自然を破壊し、地球を汚す。地球温暖化の問題は森林の伐採、工場や自動車による二酸化炭素排出が原因であり、一昔前に問題となったオゾン層破壊はフロンガスが原因だった。

だから人間の「知恵」とか「生産活動」は地球にとって害悪でしかない。そんなものはない方がよっぽどいい。

では何故、神は数ある生き物の中で我々だけに「知恵」や「言葉」を授けたのか?その究極の目的は何か?いや、そもそも神(見えざる意思)は存在するのだろうか?

正に「答えのない質問」である。有史以来人間は問い続け、その答えを求めて沢山の宗教が生み出された。しかし、我々が明快な正解を手にすることは未来永劫ないだろう。

「生きる(進化する)目的は何か?」「人生に意味はあるのか?」結局、僕たちはこの「答えのない質問」を自らに問い続け、生きていくしかない。そして自然(地球)とどう折り合いをつけるのか、考え続けなければならない。

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2011年10月24日 (月)

月亭八方落語誘笑会 その壱

10月15日(土)なんばグランド花月へ。

Hachi

月亭八方さんがNGKで開催する初の独演会。

  • 月亭八光/ちりとてちん
  • 月亭八天/替り目
  • 月亭八方/AKO47~新説赤穂義士伝~(八方 作)
  • 千鳥/漫才
  • 月亭八方/莨の火

チラシには会場18時半、開演19時と書いてあったのに、劇場の外で18時50分まで待たされた。それから入場が開始されても定刻に始まる筈もなく、結局10分押しで幕が上がる。遅れた理由の説明も、謝罪も一切なし。吉本の劇場って、行く度に何か不快な気持ちにさせられることが多い。

出囃子の笛は八天さん。文珍独演会でも依頼されるくらいだから、さすがに上手い。

「10年くらいからやめていた(八方)独演会」と八光談。高校生の時に落語家になることを決意し、仁鶴師匠に入門したいと父親(八方)に相談。そのときに言われたのが「気ぃ使うからやめてぇや」。では米朝師匠は?「三日でお父さんを抜いてしまうから駄目」と母。なら月亭可朝師匠は?「連絡先が分からん」

つかみ(マクラ)は秀逸だったけれど、ネタ(ちりとてちん)自体はリズムが単調でダレた。

続く八天さんは開口一番「ええかげんな親子に挟まれまして」と会場の笑いを誘う。「文珍師匠は30年前からここNGKで独演会を開催されている」「(八方師匠は)六十の手習い」と言いたい放題。僕はどうも彼のことを好きになれないのだけれど、「替り目」は所作が綺麗で、その芸の力は認めざるを得ない。

八方さんはもう落語家になって43年目だそう。新作は「仮名手本忠臣蔵」とAKB48のパロディ。討ち入りの時に誰がセンターを取る(=吉良上野介を討つ)かを総選挙で決めることになり、投票用紙は塩一袋につき一枚入っているという趣向。発想が新鮮で、すこぶる面白い!クライマックスでは芝居噺の手法も用いられ、ベテランの名人芸に酔った。

千鳥のふたりは岡山出身とか。へぇ、僕と同郷じゃん。

莨の火」のマクラはバブル時代のエピソード。ある会社社長の邸宅に招かれ、朝から松茸パーティ。「松茸をモヤシのように食べました」と。またある時、藤山寛美さんが芸人6-7人を引き連れて一晩でケースに入った700万円を散在したそう。一軒十分程度の滞在で次々にはしご。最後は洋服店で「自由に買って下さい」昔は豪快な人がいたんだなぁと驚きの連続だった。

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2011年10月19日 (水)

ツレがうつになりまして。

評価:B+

Tsure

映画公式サイトはこちら

宮崎あおい堺雅人のふたりが醸し出す雰囲気が素晴らしかった!「篤姫」とは全く違うキャラクターでありながら、この親密な空気感。役者って本当にすごいな、と感じ入った。

佐々部清監督の映画は「陽はまた昇る」「半落ち」「チルソクの夏」などを観ているが、どれもオーソドックスな演出で余り感心したことがなかった。だから今回、出来の良さに驚いた。

「ツレうつ」を観ながら感じたのは、人間の弱さと、愛おしさ。そして、うつ病って決して特別な病気じゃないんだなってこと。

大抵の人は落ち込んで「抑うつ状態」になっても、気を取り直して元の状態に戻ってくることが出来るが、中には戻って来れない人もいる。それが「うつ病」である。だから「うつ病」か「抑うつ状態」なのか、病気か、そうじゃないかの境界線は非常に微妙である。誰だってなり得る。そのあたりのことをこの映画は巧みに描く。泣いて、笑って、素敵な2時間だった。

また、途中で挿入される漫画がアクセントになっており、とても効果的。その配分も絶妙だった。

劇中、”ハルさん”(宮崎あおい)は言う。「ガンバらないぞ!」……いい言葉だ。

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2011年10月18日 (火)

ヴィスコンティ映画「ベニスに死す」の謎

ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」(1971)が現在、ニュープリント版でリバイバル公開中である(公式サイトはこちら、予告編あり)。

この映画はマーラーをモデルにしていることが有名であり、交響曲第5番 第4楽章アダージェットは本作公開と同時に世界的に大ブレイクした。

主人公グスタフ・アッシェンバッハの名前は確かにグスタフ・マーラーから採られている。原作者のトーマス・マンはマーラーと交流があり、執筆直前に死去した作曲家の名前を借りた。アッシェンバハの容貌もマーラーを模している(小説では作家という設定になっている)。

映画にはアダージェットは無論のこと、マーラー/交響曲第3番 第4楽章や交響曲第4番も登場する。

また映画でアッシェンバッハは友人アルフレッドと「美」について論争するが、このモデルは作曲家アルノルト・シェーンベルクと考えられている。

しかし僕が長年疑問に感じていたのは、ヴィスコンティがアッシェンバッハをゲイとして描いていることである。ご存知の通り、マーラーはゲイではない。ではどうしてこのような設定になったのだろう?

その回答がようやく最近になって見つかった。アッシェンバッハはマーラーだけではなく、もう一人の人物をモデルとし、両者を融合させたキャラクターと推定されるのである。

それはバレエ・リュスを主催していた興行師セルゲイ・ディアギレフである。このバレエ団はストラヴィンスキーの「火の鳥」や「春の祭典」、ドビュッシー「牧神の午後」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」を初演したことでも有名。まずはディアギレフの写真をご覧あれ。

Dia

どうです?アッシェンバッハの顔と類似していると想いませんか?

Death_in_venice

もうひとつお見せしよう。

Diag

写真左からディアギレフ、ニジンスキー、ストラヴィンスキーである(1912年撮影)。帽子に注目!ディアギレフは同性愛者であり、ニジンスキー(ダンサー、振付師)と関係を持っていた。さらに彼は1929年にベニスで客死しているのである。

少なくとも映画のアッシェンバッハはマーラーの写真とは似ても似つかない。

Ma_2

つまり元々小説家として想定された主人公にヴィスコンティは作曲家とバレエ・プロデューサーのイメージを重ねることにより「芸術家」の総体像とした。そしてアッシェンバッハが恋焦がれる美少年タッジオはヴィーナス=美の象徴であると同時に、ニジンスキー舞神のメタファーであるというのが現在の僕の解釈である。

映画「ベニスに死す」はこのように重層的意味を帯びながら響く、シンフォニーなのである。

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2011年10月15日 (土)

福笑、三喬、生喬、たま/テーマ落語会 〜命にかかわる落語特集〜

10月7日(金)、繁昌亭へ。

Fuku2

  • 笑福亭たま/ストーカー(たま 作)
  • 笑福亭福笑/大統領の陰謀(福笑 作)
  • 笑福亭三喬/がまの油
  • 笑福亭生喬/犬の目
  • 笑福亭福笑/ジャンプ!(福笑 作)

Fuku

ストーカー」はヒッチコックの映画「裏窓」を彷彿とさせる場面も。このモダニズムこそ、たまさんの真骨頂。

大統領の陰謀」は意表を突いて原発の噺だった。

三喬さんは「一年で一番嫌な日が来ました」「福笑師匠には『ヌーに生まれなくて良かった』という面白いマクラがあるので、是非ご一聴を」と。へぇ、面白そう。またテレビショッピングの歴史は1971年から始まったそう。それを見て「ど忘れ辞典」を購入した某噺家のエピソードも。

犬の目」は狂犬病に罹った「コンドルのジョー」が登場し、生喬さんが座布団相手に格闘するという意外な展開に。驚いたけれど、最後は収拾がつかなくなった印象。以前聴いた「トラうどん」でも感じたのだが、彼はこういうアレンジが得意でないみたい。

今回、一番笑ったのが「ジャンプ!」バンジー・ジャンプの噺。主義主張はない。「意味がないのが最高なんだ」という事実を改めて確認した。

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菊池洋子/エラール・ピアノで弾くシューマンとリスト

いずみホールへ。

モーツァルト国際コンクールで日本人として初めて優勝した菊池洋子さんのピアノを聴く。

今回使用された楽器は1852年製 エラール・ピアノ(ヤマモト・コレクション)。これは1851年にロンドンの大英博覧会で金メダルを獲得したのと同じモデルで、本体外装にはブラジルの貴重なローズウッド材が使用されているとのこと。

Era1

ショパンは次のような言葉を残している。

プレイエルはそっと繊細に弾いたときだけ美しい響きが出る。エラールは何もかもがいつも美しく響く。だから美しい音を出そうと細心の注意を払う必要がない」

「僕は気分のすぐれないときはエラールのピアノを弾く。このピアノは既成の音を出すから。しかし身体の調子の良いときはプレイエルを弾く。何故ならこの楽器からは自分の音を作り出す事が出来るから」

以前、プレイエルを聴いた時にエラールについても記述し、ヤマモト・コレクションへのリンクも張っているので、そちらをご覧下さい。

今回のプログラムは、

  • シューマン/アラベスク
  • シューマン/交響的練習曲(1837年版/遺作つき)
  • リスト/ウィーンの夜会~シューベルトのワルツ・カプリス 第6番
  • リスト/パガニーニ大練習曲 第3番 「ラ・カンパネラ」
  • リスト/エステ荘の噴水~巡礼の年 第3年 より
  • リスト/愛の夢 第3番
  • リスト/ドン・ジョヴァンニの回想

Era4

エラールプレイエルより大きい音がして、メカニカルでモダン・ピアノにより近い印象。プレイエルを暖色系とするとエラールは寒色系。

低音部に関しては、現代のグランド・ピアノの方が豊かな倍音が鳴ると想う。しかしエラールの魅力は高音部。透明な響きで、正にクリスタルの質感!その威力が最大限に発揮されたのが「ラ・カンパネラ」と「エステ荘の噴水」だった。まるで鈴がコロコロ鳴っているような清新さ。リストの頭の中で響いていた音のイメージが初めて明らかになったように僕には感じられた。

菊池さんのタッチは軽やかでサラッとしている。濃厚なロマンティシズムとは対極にある。つまり、やっぱりモーツァルト的なんだね。指がよく動き、歯切れがいい。

ただ最近聴いた男性ピアニスト、例えばアンスネスベレゾフスキーと比べると打鍵が力強くなく、やはり女性だなと感じる。モーツァルトを得意としているという点でもクララ・ハスキルやイングリット・ヘブラーに近い資質なんじゃないだろうか?河村尚子さんなんかはもっと逞しい印象。

それにしても難曲という意味で「ドン・ジョバンニの回想」は正気の沙汰じゃないなと唖然とした。リストの物凄さを思い知らされた。

Era3

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2011年10月12日 (水)

桂九雀/噺劇一座「星野屋」「文七元結」

道頓堀ZAZAへ。

Hanashi

噺劇(はなしげき)を観る。これは落語家・桂九雀さんの創作で、以前は噺劇(しんげき)と呼ばれていたが、今回から読み方が変わった。僕は前の響きの方が好き。

過去に観た噺劇の感想は下記。

今回の演目(10月10日 16時の部)は、

  • 青野敏行、戸田都康/前説
  • 噺劇「星野屋」
  • 桂 九雀/落語「親子酒」
    (仲入り)
  • 桂 九雀/解説
  • 噺劇「文七元結」
  • 総おどり

九雀さんの解説によると「星野屋」は江戸にも上方にも噺が残っているが、江戸版は母親が手元に残すのが三両で、上方は五両。「上方の方がケチなんです」と。なるほど。昔は「五両残し」という(ネタ帳に噺家が記載するための)演題だったが、それでは事前に「ネタ出し」する会ではサゲ(落ち)が客にばれてしまうので、近年「星野屋」と呼ばれるようになったそう。

落語一席については九雀さんが「ツイッター上でリクエストしてもかまわない」とつぶやいておられたので、そうしてみた。僕が希望したのは今まで聴いたことがない超古典落語「これこれ賭博」「おろち山」、あるいは考古学落語「縄文さん」「埴輪盗人」、そして小佐田定雄さんの新作「A型盗人」。しかしマニアックなものを狙ってしまい、落語ファンが少ない(演劇関係者が多い)この会には相応しくないと判断されたのか、不採用だった。残念だが、こればかりは仕方ない。

親子酒」に登場する親子の苗字が「前田さん」。これは九雀さんの師匠・桂枝雀(本名:前田達)のことを示しているのだろう。オーソドックスな演出。この日、12時開演の公演では意外なサゲの「抜け雀」をされたそうで、そちらの方が聴きたかったな。

以前観た噺劇と比べると、今回は黒子(黒衣)が殆ど登場せず、歌舞伎的様式美が薄まって、その分大衆演劇に近づいた印象。それにしても九雀さんが脚色した台本は相変わらず上手く、特に「文七元結」はこんなに面白い話だったっけ?というくらい何度も笑った。役者がいいし、下座の鳴り物(笛・太鼓・三味線)も実に効果的。落語をこうした形式で改めてみるととても新鮮。是非また観たい。でも、黒子はもっと活用した方がいいと想います。

また今回、芝居という形で「文七元結」を観て初めて気が付いたことがある。この人情噺は三遊亭圓朝の創作。「芝浜」も圓朝作と言われているが、この二作品は一対の物語になっているのである。「芝浜」では大酒飲みの主人公がある日、魚河岸で財布を拾うところから物語が始まる。中に入っていたのは五十両(演者により金額が異なる場合あり)。「文七元結」の場合は逆パターンで、主人公が橋で身投げしようとした若い男に五十両入った財布を(名乗らずに)与えてしまう。そしてどちらの噺もそれから色々あって、最終的に主人公は自分の業(酒/博打)を克服するのである。何と鮮やかなシンメトリーだろう!

この発見に僕を導いてくれた九雀さんに心から感謝したい。

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2011年10月11日 (火)

フレンチ・ミュージカル「ロミオ & ジュリエット」ダブルキャスト/ダブル観劇

梅田芸術劇場へ。

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フランンス産ミュージカル「ロミオ & ジュリエット」を昼・夜連続で観劇。主役二人はダブル・キャスト。ジュリエット役はどちらも新人である。

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以前、宝塚歌劇バージョンを観た僕の感想は下記。

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演出は宝塚バージョン同様、小池修一郎さん。日本のミュージカル界を牽引するエースである。

宝塚版は「」と「」のダンサーが登場し、最後に2者が融合するという印象的な演出があった。今回は「」のみ。些か物足りない気もしたが、ロミオとジュリエットが初夜を迎えた翌朝の場面で、「」が天上から(ワイヤーに吊り下げられ)降りてきてロミオの首を絞めようとしたり、ラストで昇天しながら磔にされたイエス・キリストのポーズを取ったりするのはさすがだなと想った。ここで背景に十字架も登場するのだが、それがボロボロというのもニクイね。

今回は設定を現代に持ってきて、ロミオがiPhoneホワイトを持っていたり、ベンヴオーリオから「恋人が欲しいんだったら、フェイスブックに登録したら?」と言われたりして新鮮だった(現代への読み替えというのは、ヨーロッパで上演されているオペラ演出で流行っている手法である)。またバルコニー・シーンで、

ロミオ「携帯の番号、教えてくれる?」
ジュリエット「持ってないの」
ロミオ「エエッ!!」
ジュリエット「父が18歳になるまで駄目だって」

という会話には爆笑。

舞台セットは古代ローマ遺跡を背景にしているので、キャピュレット家とモンタギュー家の亡霊が現代に蘇り、いまだに抗争を繰り返しているという解釈も可能だろう。奥が深い。

「ロミオとジュリエット」の物語はギリシャ神話「ピュラモスとティスベ(桑の木)」に基づいている。それを16世紀にイギリスの劇作家シェイクスピアがイタリアを舞台に戯曲にし、21世紀になってフランスでミュージカル化。そして日本の演出家とキャストによって上演されている。真の芸術作品は国境も時代も軽々と超越してしまうという、普遍性を示すよき例だろう。

宝塚版の衣装はキャピュレットが太陽の、モンタギューが月のを基調にしていたが、今回はキャピュレットの紋章(エンブレム)が獅子で服がと豹柄、モンタギューの紋章がドラリオン(ドラゴン)で服がと爬虫類柄となっている。

またジュリエットがキャピュレット卿の実の娘ではないという設定には「宝塚版には、そんなのなかったのに!」と仰天した。考えてみればキャピュレット夫人は結婚後、不義密通していたわけで、それは「清く、正しく、美しく」というすみれコードに抵触する。だからミュージカル「エリザベート」でヒロインが夫のフランツ・ヨーゼフから梅毒をうつされるというエピソードが宝塚版でカットされたように、本作でも同様の処置が施されたということなのだろう。

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その他のキャストはベンヴォーリオ:浦井健治、キャピュレット夫人:涼風真世、キャピュレット卿:石川禅、ロレンス神父:安崎求ら。

山崎育三郎昆夏美のコンビは、とにかく歌が素晴らしい!どこまでも伸びる高音。その美しさに陶酔した。日本ミュージカル界の実力も、遂にここまで来たかと感慨深い。

キャピュレット夫人は勿論のこと、劇的なキャピュレット卿、表現力豊かなベンヴォーリオ、低音が響き渡るロレンス神父もすごく良かった。

20年前に初めてミュージカル「オペラ座の怪人」を観劇した時、そして1998年に初めて訪れた宝塚大劇場で宙組「エリザベート」を観た時に匹敵するくらいの深い感銘を受けた。この3作品が現時点での僕にとってのベスト・ミュージカルだ。

そして2回目の観劇。

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城田優は母親がスペイン人で、スペイン国籍を取得している。身長188cmのイケメン。フランク莉奈もハーフで、モデル出身の高校生18歳。身長171cm。フランス人形みたいな可憐さ!長くて細い手と脚が魅力的。この2人はビジュアル系といえるだろう。歌の上手さは山崎&夏美コンビに軍配があるが、城田&利奈も音程が外れているわけではないし、あくまで両者を比較しての話。

一幕フィナーレ「エメ(Aimer)」の立ち姿の美しさ、そして二幕最後、ジュリエットの霊廟に並んで横たわる二人とそれを取り囲む両家の人々の姿は、まるでラファエロの宗教画を観てているような錯覚に捕われる神々しさだった。ウットリ。

またこの幕切れ、モンタギュー家とキャピュレット家の各々が、ロミオとジュリエットの遺体を引き離そうと担ぐのだが、二人の両手が繋がれていて空中で静止する。この演出も美しかった!

ティボルト役に関してイケメン度は 平方元基上原理生 で、歌唱力は 平方上原 といった感じかな。

爆発する若いパワーと疾走感に溢れた、傑出した舞台である。必見。

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2011年10月 8日 (土)

ボリス・ベレゾフスキーの超絶技巧練習曲、そして爆演・怒涛のアンコール!

10月6日、いずみホールへ。

モスクワ生まれのピアニスト、ボリス・ベレゾフスキーを聴く。

  • メトネル/おとぎ話
  • ラフマニノフ/10の前奏曲
  • リスト/超絶技巧練習曲(全曲)

ギレリス、リヒテル、ベルマン、ブロンフマン……。ロシアのピアニストには他には見られない共通の特徴があると僕は想う。それは強靭な打鍵である。特に左手から生み出されるリズムの力強さがロシアの広大な大地、厳しい自然を連想させる。繊細とは対極で、「魂込めたぜ!」という感じ。ボリス・ベレゾフスキーもそんなロシアのピアニズムを受け継ぐひとりである。

彼は1990年チャイコフスキー国際コンクールに優勝。その年にヴァイオリン部門で日本人初の1位に輝いたのが諏訪内晶子さんである。

メトレルはラフマニノフと同時代の作曲家・ピアニスト。ロシア革命で亡命した点でも共通している。初めて聴いたが、不協和音の連打など明らかに20世紀の響きを刻印しつつも、ロシア民謡風の旋律も登場し、また鐘が鳴るところはラフマニノフ同様に郷愁が感じられた。

ベレゾフスキーはメトレルのみ楽譜を見、ラフマニノフ以降は暗譜で弾いた。

ラフマニノフは24の調を網羅する24の前奏曲を書き、リストも練習曲を全ての調性で書く予定だったという。またショパン、スクリャービン、ショスタコーヴィチも全長短調を用いて24の前奏曲を書いている。これら作曲家がバッハの「平均律クラヴィーア曲集」を意識していたことは間違いない(後世の多くのシンフォニストたちが強くベートーヴェンを意識し、マーラーが第9番という数を恐れたことと似ている)。またリストに「バッハの名による幻想曲とフーガ」という作品があることも見逃せない。このB-A-C-H主題は大バッハの遺作「フーガの技法」へのオマージュである。音楽史は繋がっている。

ベレゾフスキーの「超絶技巧練習曲」は豪快であるが、荒くはない。ミス・タッチも皆無。嵐のような始まり方。時にピアノの鍵盤を引っかくような仕草をしたり、バネで勢いつけたみたいに手を上に跳ね上げたりもする。鍵盤の上でアクロバットを披露するサーカスを連想した。畳み掛けるドライブ感。巧みなハンドリングで、コーナーの切れは抜群。

そしてアンコールは怒涛の7曲!

  • アルベニス/「スペイン組曲」より”アストゥーリアス”(伝説)
  • サン=サーンス(ゴドフスキー 編)/白鳥
  • ガーシュウィン/3つの前奏曲(全曲!)
  • モートン・グールド/ブギウギ
  • ガーシュウィン/ラプソディー・イン・ブルー(抄)

「こんなの軽いものさ。まだ聴きたいのかい?いいぜ、いくらでも弾いてやるよ」みたいなノリ。特に前代未聞の速いテンポによるガーシュウィンは爆演で、ひっくり返った。このピアニストは正に「現代のジョルジュ・シフラ」なんだなと理解した。

もの凄いものを聴いたという興奮と共に帰途に就いた。

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2011年10月 6日 (木)

エリシュカ/大フィルの「我が祖国」

ザ・シンフォニーホールへ。

Eri

チェコの「遅れてきた巨匠」、ラドミル・エリシュカ/大阪フィルハーモニー交響楽団 定期を聴く。

  • スメタナ/交響詩「我が祖国

エリシュカは80歳なので、カール・ベームの最晩年みたいにヨボヨボのおじいさんが遅いテンポで振るのかなと予想していた。ところがしっかりした足取りで登場し、背筋を伸ばして暗譜で指揮。

第1曲「ヴィシェフラド」冒頭のハープから驚かされる。勢いがあって力強い。燃え上がるハートを感じさせる演奏。むしろテンポは速め。しかし歌うべきところでは豊かに歌う。

第2曲「モルダウ」はこんこんと水が湧く。そして川は決然と流れだす。アクセントが効いてリズムは明確。夜に妖精が舞う場面では月の光が冴え渡る。急流を経て大河に至るクライマックスでは疾風怒濤の音楽が展開される。

第3曲「シャールカ」は獰猛で血腥い

第4曲「ボヘミアの森と草原から」は熱い鼓動が聴かれる。

第5曲「ターボル」は激しい闘争と、平穏な祈りが交互に繰り返される。強烈なトゥッティ(tutti,全奏)は身を引き裂くよう。

第6曲「ブラニーク」には鬼気迫る緊張感があり、輝かしいフィナーレでは民族の誇りが高らかに歌われた。

僕は今回の演奏を通して、チェコという国家は宗教戦争と民族独立運動のを洗う闘いの歴史だったのだということをリアルに理解した。

以前、大フィル定期で聴いたコバケンこと小林研一郎の「わが祖国」は草食系。今回のエリシュカは肉食系。これは農耕民族と狩猟民族との決定的な““の違いだと、肌で感じ取った。

今後、これ以上の「わが祖国」に出会うことは一生ないだろう。一期一会”という言葉を噛み締めながら帰途に就いた。

なお余談だが、スメタナの愛国心を江戸幕末の志士たちに喩えた曲目解説はいただけなかった。開国か攘夷かの対立は政争、権力闘争であり、民族の独立運動でもなければ宗教戦争でもない。スメタナが聴覚を失ったことに言及しながら、その原因が梅毒であることを伏せる姿勢にも疑問を感じる。作曲家を美化することに何か意義があるのだろうか?

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2011年10月 3日 (月)

京の茶漬け&「フェルメールからのラブレター展」「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」@京都市美術館

京都へ!

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お昼に京都御所近く、丸太町の「十二段家」で京の茶漬けをいただく。

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ここはご飯がすごく美味しいので、一膳目はお茶をかけずそのままで。また出し巻きが、おだしが効いていて絶品。

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季節の一品は鱧(はも)と秋の京野菜。

そして京都市美術館へ。

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「フェルメールからのラブレター展」は10月16日まで開催中。世界に三十数点しか存在しないフェルメールの絵画が三点も集まったというのは画期的ではないだろうか?手紙を読む女、そして手紙を書く女たち。窓から差し込む光、それが作り出す影とのハーモニー。そしてラピスラズリを原料とする”フェルメール・ブルー”の美しさが印象深い。

またデ・ホーホの「中庭にいる女と子供

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そして「室内の配膳室にいる女と子供

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二枚の絵の遠近感が素晴らしかった。開放されたドアや窓から見える風景が効果的。

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フェルメール展は入場待ちが40分かかったが、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」は待ち時間なし。こちらは11月27日まで。フェルメール展の半券提示で入場料100円引きだった。

ゴッホの自画像がこの展示の”売り”だが、僕はむしろモネの二点が良かった。

まず「ヴェトゥイユの画家の庭

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三人の人物の配置が見事。燦燦と降り注ぐ陽光、鮮やかな色彩感。この絵を観ながら心の中でディーリアスの音詩(tone poem)、例えば「夏の庭園にて」とか「夏の歌」が流れるのを感じた。考えてみればディーリアスは晩年をパリ郊外にある田舎町グレ・シュル・ロアンで過ごした。両者に共通するものがあるのは決して偶然ではあるまい。

そして僕が最も心奪われたのは「日傘の女性、モネ夫人と息子日傘をさす女)」何度も何度もこの絵に戻ってきて、見入ってしまった。

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モデルは妻のカミーユと息子のジャン。被写体が逆光というのが斬新だし、ヴェールに覆われたカミーユの表情が魅惑的。また実際の絵を観て初めて気付いたのだが、彼女の上半身と下半身で吹いている風向きが逆なのである。

この絵が描かれたのは1875年。その4年後にカミーユは32歳の若さで亡くなった。そして歳月が経ち1886年にモネは再び、同じ題材の作品に取り組んだ。それが下の二点である。

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顔に注目。この時の画家の心境や如何に、と僕は想いを馳せるのである。

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2011年10月 1日 (土)

映画「モテキ」

評価:B

2008-2010年の間「イブニング」に連載された久保ミツロウの漫画「モテキ」は2010年にドラマ化され、ギャラクシー賞を受賞。そして監督&キャストはそのままに、原作者自身が完全映画オリジナルストーリーを書き下ろし、映画化された。脚本・監督は大根 仁(おおね ひとし)。公式サイトはこちら

やたらめったら評判がいいので映画館に足を運んだのだが、映画を観るまでドラマの存在すら知らなかったし、モテキが「モテ期」の意味であるという知識すらなかった。「セカンド童貞」という言葉も初めて聞いた。それでも十分楽しめた。

映画冒頭、主人公はコンビニで「アサヒ芸能」か何かの雑誌を立ち読みし、エッチなグラビア写真を見ている。そこに彼の独白が挿入されるのだが、引用されるのが何と!ゲーテや三島由紀夫の言葉。そのギャップに爆笑した。

主人公はツイッター上で雑誌の編集者と知り合い(アイコンは髭もじゃのオッサン)、一度飲みに行こうと意気投合する。ところが待ち合わせ場所に現れたのは長澤まさみだった。「そんな幸運、現実には絶対ありえねぇよ!」とスクリーンに突っ込みを入れつつ、映画ってひと時の夢だから、こういうのもありかなとニヤッとした。

本作を観ながら、そういえば僕は長澤まさみのファンだった(過去形)と懐かしく想い出した。まさみは「東宝シンデレラ」でグランプリに選ばれ、映画「クロスファイア」(2000年)に出演。撮影当時12歳!この彼女のデビュー作を僕は公開時にリアルタイムで観ている(主演は矢田亜希子)。その後彼女が出演した「なごり雪」(02)「黄泉がえり」(03)「ロボコン」(03)「阿修羅のごとく」(03)「世界の中心で、愛をさけぶ」(04)「深呼吸の必要」(04)「タッチ」(05)等を映画館で観た。僕の意見では彼女のピークは「ロボコン」。スカートを風になびかせ、自転車で走るまさみは眩しかった。それからセカチューのスキン・ヘッドは衝撃的だったなぁ……。閑話休題。

森山未來とまさみのコンビはセカチュー以来だね。キャラクター設定が全然違って新鮮。「モテキ」にはミュージカル・シーンが登場するのだが、森山くんのダンスが上手いのでびっくりした!でも、考えてみれば彼は舞台でもミュージカル「キャバレー」「RENT」等に出演しているから当然か。正にはまり役だった。

また、麻生久美子仲里依紗真木よう子ら他の女優陣も適材適所でいい味出している。麻生久美子の出世作「カンゾー先生」(1998)も映画館で観たなぁと想い出した。それからリリー・フランキーがどうしようもない(でも、なんだか愛すべき)クズ上司という感じで可笑しかった。

日本映画で面白いコメディというのは滅多にお目にかかれないが、本作は近年稀にみる秀作。これはお勧め。

なお余談だが、森田芳光監督の映画「(ハル)」(1996)で男女(内野聖陽、深津絵里)が出会う切っ掛けとなったのはパソコン通信の映画フォーラムだった。そしてノーラ・エフロン監督「ユー・カット・メール」(98)はメールを通してトム・ハンクスとメグ・ライアンが結びつく。時代とともに出会いの形は変わっていくのだなぁとしみじみ感じた。

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