いずみホールへ。
パーヴォ・ヤルヴィ / ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンによるシューマンの交響曲全曲演奏会を聴く。
プログラムは、第一夜
- 序曲、スケルツォとフィナーレ
- 交響曲 第4番
- 交響曲 第1番「春」
第二夜
- 「マンフレッド」序曲
- 交響曲 第2番
- 交響曲 第3番「ライン」
編成は50人前後。弦は対向配置。コントラバスは舞台下手(客席から向かって左手)にいた。
彼らがベートーヴェンを演奏する時は(羊腸を素材とする)ガット弦を張りノン・ヴィブラート奏法、そしてクラシカル・ティンパニ及び(ピストンのない)ナチュラル・トランペットを使用する。しかしシューマンの場合はモダン楽器を用い、通常のヴィブラートを掛ける演奏スタイルであった(ただし弦楽奏者は、高いほうの2線でガット弦を用いているそう)。
オーケストラの面々が舞台に登場。彼らが着席するとヤルヴィが颯爽と現れ客席に一礼、振り向きざまタクトが下ろされた。そう、なんとチューニングなしでいきなり演奏が始まったのである!これには度肝を抜かれた。吹奏楽では丸谷明夫/大阪府立淀川工科高等学校(淀工)とか、なにわ《オーケストラル》ウィンズがチューニングをしないことで有名だが、オーケストラでは初体験。
ヤルヴィはアクセントを強調し、動的で勢いのあるシューマンを展開した。小編成の機動力を活かし、疾風怒濤の解釈。胸がすく想いがした。
交響曲 第4番 第3楽章では初めて「ああ、これはダンス・ミュージックなんだ!」と納得出来る、そんな軽やかさがあった。第4楽章はドライブ感が凄かった。
そして流れるような交響曲 第1番「春」。そこには青春の息吹、輝きがあった。このシンフォニーが作曲されたのはシューマンが31歳の時。その前年に彼はクララと結婚し、たった1年間で140曲もの歌曲を生み出していく(その1840年は「歌の年」と呼ばれている)。そういった幸福感がこの交響曲には満ち溢れている。
シューマンの音楽には時折、気まぐれな遊び心が紛れ込み、唐突なフレーズが現れることがある。凡庸な指揮者だとその違和感を軽減しようと粉骨砕身するのだが、ヤルヴィは逆の方法論を採る。むしろ強調するのである。あるインタビューにおける彼の発言を引用してみよう。
ブラームスの態度は、何事においても“モデラート”(節度をもって)です。対してシューマンは、喜び、悲しみ、怒り、すべての感情を露わにし、躁状態と鬱状態の落差もまことに激しい。スキゾフレニック(分裂的)と言ってもよいくらいです。(中略)私たちはその過剰こそをはっきりと示すようにします。そこが魅力なのですから。
パンチの効いた快演だった。
第一夜、プログラムが終了しコンサートマスターが片手を広げ、他の楽員に示す。「えっ、5?」アンコールまず最初はブラームス/ハンガリー舞曲 第5番。ここでクララ・シューマンを愛したブラームスを持ってくるなんて、粋だね!緩急のコントラストが鮮明だった。
アンコール2曲目はシベリウス/悲しきワルツ。ヤルヴィはエストニア生まれ。シベリウスの祖国フィンランドはバルト海を挟んでエストニアの向かいに位置する。つまり両者は「環バルト海」と呼ばれる地域にあたる。そもそもパーヴォ・ヤルヴィという名前はフィンランドの名指揮者パーヴォ・ベルグルンドにちなんで名付けられたもの(父親は有名な指揮者ネーメ・ヤルヴィ)。だからこの曲はヤルヴィの名刺代わりと言えるだろう。繊細な演奏で、特に聴こえるか聴こえないか微妙なくらいの最弱音(ピアニッシモ)の美しさが際立っていた。
第二夜の「マンフレッド」序曲は瑞々しく、激情が迸る。
交響曲 第2番 第2楽章には疾走感があり、第3楽章アダージョ・エスプレシーヴォは透明で硬質な抒情があった。そして第4楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェで音楽は爆発、それまで抑えられていたものが一気に開放される快感があった。
交響曲 第3番「ライン」 第1楽章は弦の切り込みが鋭く、第2楽章はシューマンの移り気、突拍子のなさを前面に押し出す解釈。第4楽章(Feierlich、荘厳に)は弦のノン・ヴィブラートの美しさ。そして第5楽章には生の輝き。アクセル全開で一気にゴールに駆け込んだ終結部が凄かった。
アンコールはブラームス/ハンガリー舞曲 第6番。これも極限までテンポを動かしたスリリングな演奏だった。
コンサートの後はサイン会もあった。ヤルヴィはビール「一番搾り」を片手に、気軽に応じてくれた。気さくな人だ。
ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィルはシューマンの演奏史に新しい時代の到来を告げる、画期的解釈を聴かせてくれた。極めて充実した二日間であった。
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