延原武春/大阪フィルハーモニー交響楽団の3B!
兵庫県立芸術文化センター・大ホールで延原武春/大阪フィルハーモニー交響楽団の初共演となるコンサートを聴いた。延原さんはバロック音楽を主なレパートリーとする日本テレマン協会の代表で、昨年クラシカル楽器(古楽器)によるベートーヴェン・チクルスを敢行し、ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章を授けられた。
プログラムはドイツ3Bで固められ、曲の合間に延原さんのお話もあった。
- J.S.バッハ/管弦楽組曲 第3番
- ベートーヴェン/交響曲 第1番
- ブラームス/交響曲 第1番
結論から言えば、バッハからブラームスへ時代と共に編成の大きさ、配置、奏法を変化させながら、その中に一貫した流れ(=”ドイツの伝統”と呼んでも良い)を感じさせる、目の覚めるような素晴らしい演奏会だった。
バッハでは1st Vn-2nd Vn-Va-Vc-Cbの順に6-6-5-3-3、ベートーヴェンは10-10-8-6-5、ブラームスは12-12-8-8-7という編成(延原さん曰く、「普段バッハはもっと小編成でするのですが、今回はホールが広いので増やしました」)。
弦楽器の配置はバッハが宮廷楽長を務めたケーテン時代を模したものだそうで、舞台に向かって左→右へ高音部から低音に順番に並び、バロック・ティンパニが第1ヴァイオリン(1st Vn.)の直ぐ後ろ、つまり客席に一番近い位置に置かれた。ベートーヴェンでは左→右へ1st Vn-Vc-Va-2nd Vnという古典的対向配置(ヴァイオリンが指揮台をはさんで向かい合う)でコントラバス(Cb)がチェロ(Vc)の後ろ、バロック・ティンパニがヴィオラ(Va)の後ろに配された。ブラームスは1st Vn-Va-Vc-2nd Vnの順でコントラバスはチェロの後ろ、(モダン)ティンパニは後方中央にでんと構えるといった具合。なお、第1、2楽章に出番のないトロンボーン奏者は第3楽章から登場した。
バッハとベートーヴェンはノリントン/シュトゥットガルト放送交響楽団のように完全なノン・ヴィブラート=pure toneという訳にはいかないけれど、かなりヴィブラートを抑制した奏法で、バロック・ティンパニとの相乗効果もあって非常に古楽器的、端正で引き締まった響きがした。
躍動するリズム感。音尻はスッと減衰し、水捌けがいい。バッハはこの曲が本来、舞曲であることを再認識させられた。僕はアカデミー作品賞を受賞した映画「恋に落ちたシェイクスピア」の舞踏会シーンを想い出しながら愉しんだ。続くベートーヴェンは「作曲家がスコアに書いたメトロノームによる速度表記を遵守して演奏します」と延原さん。今まで大フィルで聴いた中でも最高のベートーヴェンであった。
そして休憩を挟み、瑞々しく魚がぴちぴち飛び跳ねるようなブラームス。生き生きとした息遣いがあり、しなやかに音楽が弾ける。こちらは聴き慣れたモダン奏法で、恒常的ヴィブラート(continuous vibrato)による演奏。
ブラームスはバッハの「マタイ受難曲」を指揮したことがあるそうで、交響曲第1番のティンパニの連打から始まる8分の9拍子の序奏は「マタイ」冒頭部、8分の12拍子のコラールから影響を受けているのではないかという説を延原さんは紹介された。また終楽章でアルペン・ホルンにより提示される主題はブラームスがクララ・シューマンに書き送ったバースデー・カードにそのメロディが記されていると、(音楽ジャーナリスト)寺西 肇さんがプログラムノートに解説されている。帰宅して調べてみると、カードには「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞も添えられているらしい。
成る程、このシンフォニーは《運命との葛藤から勝利へ》というベートーヴェンの生み出した近代的構築性で成立しており、第4楽章に弦楽合奏で奏でられる第1主題は明らかに「歓喜の歌」(第九)との関連がある。さらに「田園」交響曲の終楽章を彷彿とさせる箇所も散見される。しかしその中に、バッハに対する畏敬の念とか、クララへの憧憬も密やかに籠められていたのだという事実に初めて気付かされた。これは大きな収穫であった。
僕は第4楽章でアルペン・ホルンの響きを聴く度に、目の前のもやもやした霧が晴れていき実に清々しい気分になるのだけれど、それは一体何故なのか?と長年不思議に感じていた。しかし、それが今回ストンと腑に落ちたのである。
また第2楽章で日本初演となる初稿(初演の1年後に改訂され出版)が採用されたのも興味深かった。構成が全然違う!次にこの旋律が来るだろうという予想がことごとく外れる。でも違和感はない。
アンコールは再びバッハ/管弦楽組曲 第3番から「G線上のアリア」。しかしプログラム前半のように速いテンポによる古楽器的ですっきりした解釈ではなく、ヴィブラートをたっぷり掛け、ゆったりとタメを効かせたモダン演奏。その両者の対比もすこぶる面白かった。
関連ブログ紹介:
・ burleskeのクラシックブログ(同じ演奏会を聴かれた感想)
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コメント
ご無沙汰しております。テレマンのおすぎです☆
NECの古楽レクチャーのご報告と合わせて大変興味深く読ませていただきました。古楽レクチャーは残念ながら所用で行けなかったんですが、芸文の演奏会はもちろん聴きに行きました!
延原さんご本人にも直接申し上げたんですが、短時間のリハーサルでよくあれだけの演奏ができたと思います。
指揮者の力量はもちろんのことですが、今回は大フィルのメンバーの適応力と集中力に感心しました!
特にチェロの首席を始めとする低弦パートや、上野さんがトップサイドを務めるヴィオラ、それに木管陣が延原さんの音楽を深く理解し協力していたのが印象に残りました。
またゲストコンサートマスターとして、日本フィルで延原と共演歴のある木野雅之さんが特別参加された(たぶん大フィルでは初めて!)ことも成功の一因だったと思います。
延原さんのバッハやベートーヴェンはすでに定評がありますが、正直に言えば大フィルからあれだけ引き締まった響きを引き出せるとは思いませんでした。
さらにブラームスは予想を遙かに上回る名演になったと思います。
大学時代オーケストラで「ブラ4」や「大学祝典序曲」をやりましたし、ブラームスは大好きな作曲家ですから普段からよく聴くのですが、今回の「ブラ1」は本当にスゴイ演奏でしたね。あんなにすっきりと上品なブラ1を聴いたのは初めてです。
雅哉さんが仰るように、バッハ~ベートーヴェンというドイツ音楽の伝統の中できっちりとブラームスが位置づけられていて、彼が「新古典主義」と呼ばれたことが初めて実感できた気がします。
来月26日にはまたいずみでオールベートーヴェンのプロを予定しています。よろしければ割引チケットをご用意できますので、ご遠慮なくお知らせください!
投稿: おすぎ | 2009年9月30日 (水) 13時55分
おすぎ様、プロの音楽家からの書き込み大変光栄です。
仰る通り、大フィルの適応力・潜在能力は素晴らしいものがありました。木管群の踏ん張りは、フルート・榎田雅祥さんの貢献が大なのではないでしょうか?榎田さんはフラウト・トラヴェルソも吹かれますし、昨年テレマンのクラシカル楽器によるベートーヴェン・チクルスにもトラとして参加されていましたよね。先日の大阪クラシックではバロック楽器に取り組もうという大フィルの有志で"Baroquers"を結成し、その音楽監督にも就任されています。
いずみホールでの「ミサ曲ハ長調」は勿論行く予定で、既にチケットも手配済みです。お誘いありがとうございました。
投稿: 雅哉 | 2009年9月30日 (水) 23時47分
おはようございます☆
今月の定期にもお越し願えるとのこと、本当にありがとうございます!
榎田さんは本当にバロックがお好きなようですね。
昨年のベートーヴェン・ツィクルスのときにお話ししたのですが、クラシカル楽器(A=430Hz)のピッコロはどうも日本に1本しかないそうで、その所有者が榎田さんだそうです。
クラシカル楽器はモダン楽器よりキーが少ないだけでなく、指遣いが全く違うこともあるようで、全然違う楽器を演奏するくらいの苦労があると話しておられました。
私は元々金管楽器出身ですから、ナチュラルホルンやナチュラルトランペットの難しさはよくわかるつもりでしたが、木管奏者もクラシカル楽器には相当苦労していることがよくわかりました。
先日の大フィルの好演や年末恒例の「100人の第9」などを考えれば、モダン楽器を使っても古楽的なアプローチは十分可能ですし、海外でもジンマンのような例があります。奏者の負担や安定感を考えればモダン楽器を選択する方が安全なのは明らかなのですが、ノブさんは他人と同じことをするのが嫌いな人ですから、敢えて困難な道を選んでおられるのだと思います。
絶対音感を持つ団員にとっては、半音低いAや4分の1音低いAなどというのは耐えられない世界だったはずで、実際オケからも合唱団からも何人かの仲間が辞めていきました。
「なぜそこまで…」という疑問もあったでしょうが、ノブさんの未知の響きに対する好奇心や、作品や作曲家の核心に迫りたいという探求心が上回ったんだと思います。
これからも「冒険」は続きます!
どうぞこれからもよろしくお願いいたします☆
投稿: おすぎ | 2009年10月 1日 (木) 09時28分
おすぎ様、大変興味深いお話をありがとうございました。
最相葉月(著)「絶対音感」(新潮文庫)は大変面白い本です。ここから学んだことは「絶対音感」は実質的に「相対音感」でしかないということです。つまり幼少時の音楽教育によって獲得する後天的才能に過ぎないということですね。モーツァルトは絶対音感を持っていたらしいのですが、それは当時のA=430Hzというピッチであって、現在の音楽家が所有するA=440Hzとは異なるわけです。
結局、古楽を演奏するにあたり絶対音感を持っているということは百害あって一利なしということであり、ヴィブラート問題を含めて今、20世紀の音楽教育のあり方そのものの是非が問われているということなのでしょう。
投稿: 雅哉 | 2009年10月 1日 (木) 19時57分
たびたびスミマセン(^-^;
『絶対音感』は私も読みました。
うちの妻(吉田朋代)も元々かなりキツイ「絶対音感」(A=440)があり、初めて古典調律のチェンバロを弾いたときは酔ったようになり、バッハの一番易しい曲でも全然弾けなかったと話していました(笑)
今はモダンとバロックと2通りの「音感」があるようですが、クラシックピッチ(A=430)も抵抗なく普通に聴けるようですし、かなり柔軟?になってきたようです。
雅哉さんがおっしゃるように後天的な学習で獲得したものですから、このように別の「学習」を継続すれば変化することもあるはずです。
ピアノ中心の音楽教育では平均律が基本になりますし、鍵盤楽器では「高めのG」とか「低めのF」などと云うのはありえませんから、「純正調の長和音で第3音を低めに取る」などという能力は育ちにくくなります。弦楽器や声楽ではどうやって純正調の美しい響きを作り出すかと云うことに苦心をしそのことに喜びを見出すのですが、平均律の「絶対音感」しかない人はむしろ鈍感と言ってもよいのではないでしょうか。
「十二音技法」のように調性の不安定な現代音楽では「絶対音感」も役に立つと思いますが、ロマン派以前の音楽にはむしろマイナスと言っても過言ではない気がします。
もう一つ「20世紀の音楽教育のあり方…」で思い出しましたが、合唱や声楽における固定ドと移動ドの問題があります。「絶対音感」の人は「ラ=A=440Hz」ですから固定ドしかありえませんが、絶対音感のないほとんどの人にとっては、歌うときは移動ドで音を取る方が無理がなく音楽的・和声的にメリットが大きいのです。
ところが現在小・中・高等学校で音楽を教えているほとんどの先生たちは、固定ドしかできない人がほとんどですから、子どもたちにも固定ドで歌わせようとするのです。リコーダーなど楽器はもちろん固定ドでよいのですが、合唱の世界でも固定ドが大勢を占めつつある現状に、私は強い危機感を感じています。
イギリスの優れた合唱文化が「ドレミ唱法(移動ド唱法)」によって支えられていることを知れば少しは考えも変わるかも知れませんが、大学の教員を含めて声楽家ですら「移動ド」で楽譜が読めない現実を考えると悲観的にならざるを得ません。
またしても長々と失礼しました
投稿: おすぎ | 2009年10月 2日 (金) 13時56分
おすぎ様、専門的で大変面白いお話をありがとうございます。「固定ドか、移動ドか?」の問題は最相葉月さんの本の中にも出てきましたね。
今年の大阪クラシックで大フィルの有志がバロック楽器に挑戦しようとした時、やはり「絶対音感」の問題が立ち塞がったようです。モダン楽器と同じ指使いで弦を奏でても半音低い音が出る。それに多くの奏者は耐えられなかったそうで。結局、演奏会当日はモダン楽器に切り替え、弓だけバロック・ボウを用いるという中途半端な結果に終わってしまいました。やる気満々だった榎田さんは不満そうでした。「絶対音感」って本当にやっかいですね。
投稿: 雅哉 | 2009年10月 2日 (金) 23時42分