ラフマニノフ《3》~秋山和慶/大阪シンフォニカー交響楽団 定期
20世紀後半、ラフマニノフの音楽は「まるで映画音楽みたいだ」と揶揄され、甘ったるい感傷的な音楽と見なされてきた。僕が知る限り、ウィーン・フィルが彼の交響曲をスタジオ・レコーディングしたことは未だ一度もない筈だし、カラヤン/ベルリン・フィルもピアノ協奏曲第2番をただ一度、ワイセンベルクのピアノ独奏でレコーディングしているのみである。
ただし、ウィーン・フィルがラフマニノフ/交響曲第2番を演奏会で取り上げたことは何度かある。指揮をしたのはアンドレ・プレヴィン。プレヴィンはコルンゴルト同様に、ラフマニノフの普及にも長年尽力してきた。彼は2007年9月20日NHK交響楽団の定期でも交響曲第2番を取り上げている。
《ラフマニノフ=映画音楽》というイメージが定着したのは、デイビッド・リーン監督によるイギリス映画の名作「逢びき」(1948)にピアノ協奏曲第2番が使用され、絶大な効果を上げたことも大きな要因であろう。
以来、ラフマニノフの音楽は常にロマンティックな文脈で語られ、ゆっくりしたテンポで、溜めて弾かれるのが常となった。
しかし僕は、この従来のラフマニノフ像は間違いではないかと最近考えるようになった。そのきっかけを与えてくれたのはピアニスト=ラフマニノフが残した自作自演の録音である。
協奏曲はオーマンディおよびストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団との共演で、極めて速いテンポ、剛直なタッチでグイグイ推し進められる。毅然としたその演奏には甘ったるいロマンティシズムなど一切介在しない。
20世紀、例えばベートーヴェンの交響曲に関しては作曲家が楽譜に指示したメトロノーム速度を大半の指揮者たちが無視しし続けたように、ラフマニノフの音楽も作曲家が意図した音楽とはかけ離れた解釈がなされてきたのではないだろうか?
さて、本題に入ろう。12月4日(木)に大阪シンフォニカー交響楽団の定期演奏会をザ・シンフォニーホールで聴いた。指揮はつい先日、大阪市音楽団の定期を振られた秋山和慶さん。
プログラムは、
- ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番
- ラフマニノフ/交響曲第3番
ピアノ独奏は清水和音さん。
秋山和慶さんの指揮は一言で表現するならスタイリッシュ。客観的な解釈で音楽はよどみなく進み、その端正ですっきりした表情の中から曲の構造が鮮明に浮かび上がる。くどいくらい濃厚で、感情多寡な大植英次さんとは対極の位置に存在すると言えるだろう。大植さんのテンポは終始変化し続けるが、秋山さんは快調なテンポを旨とし、微動だにしない。
同じ齋藤秀雄の門下生でありながら、この二人の資質の相違は大変興味深い。恐らく大植さんの場合、桐朋学園在学中にアメリカに飛び出し、そこでレナード・バーンスタインと出合ったことが多大な影響を及ぼしているのだろう。むしろ、大阪シンフォニカー交響楽団の音楽監督である児玉 宏さんの方が秋山さんに近い気がする(児玉さんも齋藤秀雄の門下生)。なお、秋山さんは「斉藤秀雄メソッドによる指揮法」というDVDの監修・出演もされている。詳細はこちら。
今回も秋山さんらしい指揮ぶりで、僕はその贅肉をそぎ落とされ引き締まったラフマニノフ像にとても好感を抱いた。ただ一方、従来のロマンティックな解釈を期待していた人々には少々物足りなかったのかも知れない。
音楽評論家・福本 健さんの公演批評がこちらに掲載されている。演奏を聴かれた印象は基本的に僕と同様の内容である。しかしそこから導き出される結論は違っている。それは結局、ラフマニノフの音楽とは何か?という立脚点が、僕と福本さんとでは全く異なるということなのだろう。
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