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落語はJAZZだ!~桂枝雀と上方落語 論

昨年あたりからしばしば落語を聴くようになった。上方落語に腹を抱えて笑い、江戸(東京)落語も聴いてみたのだが、こちらの方はどうも詰まらない。その原因は何なんだろうとしばし考えて、漸く人情噺のせいだという結論に至った。お江戸の人情噺(芝浜、中村仲蔵 、子別れ etc. )を聴いていると、僕は嘗て一世を風靡した「一杯のかけそば」(栗 良平 作)のことを想い出す。あれには閉口した。映画「男はつらいよ」シリーズや「三丁目の夕日」も、そのルーツを遡ると落語の人情噺に行き着くような気がして仕方がない。

立川談志の著書に「現代落語論」がある。そしてその続編「あなたも落語家になれる」に、かの有名な一節が登場する。

 落語というものを、みなさんはどう解釈しているのか……、おそらく落語家を"笑わせ屋"とお思いになってるでしょう。(中略)
 でも、私の惚れている落語は、決して「笑わせ屋」だけではないのです。お客様を笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、私にとって落語とは、「人間の業」を肯定してるということにあります。「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的な言い方ですが、具体的に言いますと、人間、本当に眠くなると、"寝ちまうものなんだ"といってるのです。分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、飲んではいけないと解っていながら酒を飲み、"これだけはしてはいけない"ということをやってしまうものが、人間なのであります。
 こういうことを八っつぁん、熊さん、横丁の隠居さんに語らせているのが落語なのであります。

人間の業」の肯定ーこれこそが江戸落語の本質である。人情噺 が江戸に多いのも「人間の業」を語りたいが為であろうと僕は考える。そして落語家は単なる"笑わせ屋"ではないという東京の噺家たちの矜持が、マクラ(導入部)で政治批判をしたり世相を切ったりすることを好むという行為に繋がっていく。

一方、上方落語には驚くべきことに人情噺がない。正真正銘、皆無である。そういう辛気臭い話はくだらないと関西人は考えているのだろう。むしろ上方は笑いに特化している。社会批判も好まれない。

上方落語の特徴として、アホな奴が登場し賢い人の真似をしようとする。しかしアホだから当然失敗して大混乱となる……つまり「阿呆を馬鹿にして笑う」というパターンが多い(青菜、阿弥陀池、時うどん、ちりとてちん etc. )。しかし上方落語に登場するのは皆、愛すべきアホたちである。彼らは人間味に溢れ、とても魅力的である。だから「人間の業」(梵語、由来はインド思想)といった大上段に構えたものではなく、むしろ「人間の愚かさ、滑稽さ」の肯定が上方落語の本質であると言えるのではないだろうか。

フランス映画「奇人たちの晩餐会」をご存知だろうか? 鼻持ちならない金持ちの仲間たちが毎週水曜日に晩餐会を開き、メンバーは必ず一人奇人を連れてきて、その“奇人っぷり”を競うというお話。関西人の笑いはこのフランス人の感性に近い。明石屋さんまさんがこの話を気に入り、自ら舞台で演じたのは決して偶然ではない。

さて、20世紀に上方落語界が生んだ最大のスターは(二代目)桂 枝雀さんである。枝雀さんは天才であり、と同時に努力の人でもあった。

春風亭小朝さんは、枝雀さんについて次のように語る。

師匠がこの世を去った今、思い出すのは昔読んだ本に載っていた〈天才が残したものを凡人たちが時間をかけて解明していく〉というひと言です。師匠は笑いを分析し、落語の可能性と限界を我々に示してくれました。それをどうやって自分たちの財産にしていくのか、上方落語界の今後の宿題だと思います。
('99年8月米朝一門会パンフレットより)

また、桂 三枝さんは古典落語には 枝雀という巨大な存在があったからこそ、ただ自分はひたすらに創作落語の道へ邁進したのだと語られている。

僕が初めて枝雀さんの名前を知ったのは映画「しゃべれども しゃべれども」(2007、キネマ旬報ベスト・テン第3位)である。主人公は東京の噺家(二つ目、前座と真打の間)。ひょんなことから、大阪から東京に転校し陰湿ないじめにあっている小学生に落語を教える羽目になる。彼は「まんじゅうこわい」を選び少年を前に坐らせ喋ってみるが、反応は今ひとつ。そこであるアイディアを思いつく。以下、佐藤多佳子の原作小説(「本の雑誌」が選ぶ年間ベストテン第1位、新潮文庫)からの引用である。

桂枝雀師匠の市販のテープを手にいれて聞かせてやると、ウケるウケる、俺の噺はそっぽを向いたのに、いまいましいほど笑いやがった。そして、これを覚えると言い出した。江戸前の噺はだいたい十五分くらいだが、上方版は長くて、途中に怪談が一つ入って三十分を超えてしまう。だから無理だと言った。(中略)あの頑固坊主は例によって言うことをきかなかった。

この少年を夢中にさせた桂 枝雀とは如何なる噺家なのか? 僕も是非聴きたいと考えて「まんじゅうこわい」の入ったDVDを購入した。そして落雷に直撃されたかのような衝撃が走った。正にエレクトリック・リベレーション=電気的啓示であった。

枝雀さんは小刻みに体を揺らしながら喋る。そう、リズムを取っているのである。枝雀落語の特徴に言葉の繰り返しがあるが、このリフレイン(refrain)が心地よいリズムを生む。しかしそれは決して一定のテンポではなく、オフビートだったり変拍子だったりする。三枝さんも枝雀落語のリズム感について言及されている→「落語を聞きながら

枝雀さんの弟子、雀松さんによると「こっからここまでは、絶対息継いだらあかんねん!息継いで喋ったらお客さんがだれてしまう、離れてしまう……」という風に稽古をして貰ったそうである。吹奏楽をやったことのある人なら、次のように指導された経験があるのではないだろうか。「ここからこの小節まではノン・ブレスで吹いて下さい」と。

枝雀さんには「落語は緊張の緩和である」という持論があり、高座でもしばしばその話題を取り上げられた。これは音楽用語で言えば即ち緩急を自在に操るということである。枝雀落語と出会って僕は閃いた。「落語はJAZZだ!」と。自在なインプロビゼーション(即興)があるところもJAZZに似ている。そこで調べてみると落語とJAZZの関連性について言及している人は多い。たとえばこちら。故・笑福亭松鶴(六代目)も「落語はJAZZや」と言っていたそうである。また、桂 春菜さんが落語とJAZZを同時に愉しもうという「春菜・みちしたの会 」というイベントを定期的に開催されていることも分かった。

枝雀落語は"聴く"だけではなく"観る"落語でもある。だから初体験の方は是非、CDではなくDVDで接して欲しい。まずは「まんじゅうこわい」「代書」「宿替え」「くっしゃみ講釈」「愛宕山」「崇徳院」あたりから。驚天動地の体験となることは保証しよう。

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「あなたの本職は何です?」
「本職ですか? それは《ポン》で~す!」
「……な、何ですか?」
「《ポン》で~~す!」

(枝雀落語「代書」より)

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コメント

枝雀師匠、あんだけ見事な落語する人なのに「人間の愚かさ、滑稽さ」の肯定、全く理解してなかったの?あんな噺出来て、且つ「上方落語が人間の愚かさ、滑稽さの肯定」なら、自殺なんぞしないでしょ。


上方落語に人情噺要らんのは、上方は歌舞伎が人情物だもんね。江戸の歌舞伎は勧善懲悪のヒーロー物。
※江戸時代~明治くらいまでの話です。

人間の業の肯定なんて、談志が言ってただけで、本来そーゆーもんでもないでしょ。江戸落語だって、笑い特化の噺しかしない小遊三師匠みたいな人もいますしね(古典やるときも完全にお笑い特化。しかもちょくちょく良い感じで時代考証無視する)。


……ちなみに、あたしは、枝雀師匠も面白くて好きですが、六代目笑福亭松鶴のが好きです。


あ、そういや、芝浜も中村仲蔵も、三遊亭円生の作った話ですね。人情噺ってのは、そりゃあ人情を話してるんですから、人情味のない人にゃあわからんでしょうなぁ。そういう了見ならしゃあないですわ。

んで、子別れは上方でもやりますでしょ?上方の人だって人情ありますよ。ちなみに自分も関西出身ですし。

投稿: | 2012年12月 1日 (土) 03時46分

まず人が書いた文に意見される時は名乗るのが最低限の礼儀ではないでしょうか?

さて、議論に際し「人情噺」の定義が問題となります。桂米朝さんは著書「落語と私」(文春文庫)の中で、講談における「世話物」を(講談のような)説明口調ではなく、(落語家が)感情を込めて喋るものを人情噺と定義し、人情噺にはサゲがないと書かれています(代表的演目「文七元結」「紺屋高尾」など)。よって立派なサゲがある「子は鎹」は人情噺ではないというのが米朝さんの見解です。

さらに「子は鎹」は長講「子別れ」上・中・下のうち下に相当し、上方で上・中が演じられることは殆どありません。「子別れ」は初代春風亭柳枝の創作落語であり、元々は江戸落語。(恐らく明治以降)上方に移植されたものです。

それから念のため申し添えておきますが、僕は本来、上方「落語」では人情噺を扱わないと言っているだけで、上方「文化」に人情噺がないと断定しているわけではありませんので、誤解ありませんよう。

投稿: 雅哉 | 2012年12月 1日 (土) 17時55分

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