吉野の桜と日本人の死生観
奈良県の吉野はやはり、日本一の桜の名所である。
吉野の桜はソメイヨシノ(染井吉野)のような大粒ではなく、山桜である。ちなみにソメイヨシノには「吉野」という言葉が使われているが、原産地は江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)。幕末の頃、そこに集落を作っていた造園師や植木職人によって育成されたものである。
僕は吉野に毎年桜を見に往っているが、その度に周りの人々が口々に次のような会話を交わしているのが聴こえて来る。
「いい冥途の土産になった」(おばちゃん)
「めっちゃ綺麗!もう死んでもいい!!」(女子高生)
一方、京都などへ紅葉狩りに往ったときは「死んでもいい」とか「冥途の土産」などという言葉は一切聴いたことがない。どうも日本人は桜を見ると、それを死のイメージと結び付ける傾向があるようだ。
「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」と言ったのは林芙美子(「放浪記」)であるが、吉野の桜の花吹雪を眺めていると、散りゆく潔さやこの世の無常を感じずにはいられない。
「檸檬」で有名な梶井基次郎(大阪生まれ)は、小説「桜の樹の下には」の中で
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
と書いた。多分、同じ風景を見ても西洋人はそんなことは考えないだろう。こんな所にも民族の独自性、歩んできた歴史の重みというものが感じられるのである。
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コメント
ほんとうに綺麗ですね。
吉野に行ったのはもう何年も前のことですが、この写真を見てその時の風景が蘇りました。
最近は、満開の桜を見るとまったく趣の違う二つの歌を思い出します。
どちらを思い浮かべるのかは、多分、その時の自分の心の居場所によって決まるのかもしれません。
本居宣長「六十一歳自画自賛像」から
敷島のやまと心を人問はば
朝日に匂ほふ山ざくら花
この歌が、太平洋戦争時、軍国主義の象徴にされてしまったのは本当に残念です。
もうひとつ、
紀貫之の「古今和歌集」巻ニから
(山寺にまうでたりけるによめる)
やどりして春の山辺に寝たる夜は
夢のうちにも花ぞちりける
趣は違いますが、歌っているのはどちらも「散る」すがたの清清しさ、あるいは美しさです。やはり、それが日本人に共通する美意識なのでしょうね。
投稿: りっきぃ | 2008年4月18日 (金) 23時44分
りっきぃさん、素敵な歌をご紹介下さりありがとうございます。
僕が今、ふと想い出したのは「ゴンドラの唄」です。
いのち短し 恋せよ乙女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
黒沢明監督の映画「生きる」で胃癌に罹り余命幾ばくもない市役所の市民課長が、自らの意志で完成させた公園のブランコに乗り口ずさむ曲ですね。この歌詞に直接桜が出てくるわけではないのですが、桜吹雪とこの唄のイメージがぴたりと重なるのです。
恐らく日本人にとって花見とは、死を自覚することによって、残された自分の生を見つめ直す作業でもあるのでしょうね。
投稿: 雅哉 | 2008年4月19日 (土) 01時28分