鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン「マタイ受難曲」
鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)が演奏する「マタイ受難曲」を聴きに、ザ・シンフォニーホールに往った。
前回BCJを聴いた時の感想はこちら。なお、こういう宗教曲の場合、聴き手がキリスト教徒か否かで感想も変わってくるだろうから筆者の立場を明らかにしておこう。僕はクリスチャンではない。
ロシアの生んだ偉大な映画監督アンドレイ・タルコフスキーの遺作「サクリファイス」(1986、カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ) にも「マタイ受難曲」が登場する。このことについて作曲家・武満徹は次のように語っている。
今度の映画では、映画の前にバッハのマタイ受難曲(パッション)が流れるでしょ。あれはマタイの中でも最も重要なものです。ペテロがキリストを裏切って、鶏が三度鳴いて、そのあとで号泣するところに流れる音楽なんですね。神よ、憐れんで下さい、私の涙にかけて、と──。激しく許しを乞う歌なんです。あの曲が冒頭に出てきた。ドキッとしましたね。(中略)
彼がマタイのあの曲を選んだということには、大きな意味合いがあったろうと思いますね。これはごく私的なことですが、僕は新しい作品を書くときに、いつもバッハのマタイ受難曲を聴いてから取りかかるんです。一種禊(みそぎ)のような──。
(イメージフォーラム増刊号「タルコフスキー、好きッ!」より)
そして武満自身、死の直前に病床で聴いていたのが「マタイ受難曲」であった。
「マタイ受難曲」が初演されたのは1727年、ライプツィヒの聖トーマス教会。バッハは当時42歳。バッハの死後、これを復活上演したのが20歳のフェリックス・メンデルスゾーンで、初演から100年経った1829年のことである。このとき幾つかのカットが行われ、また古楽器オーボエ・ダ・カッチャをバスクラリネットで代用するなどいわゆる当時の「モダン楽器」による演奏だった。なおメンデルスゾーンはユダヤ人だが、父アブラハムの代にルター派キリスト教徒に改宗している(バッハもルター派だった)。
僕が所有しているマタイのCDは不滅の名盤と言われているカール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるモダン楽器の演奏である。これで聴くと、例えば第1曲などは悲痛な心の叫びのように聴こえる。
しかし古楽器(オリジナル楽器)による今回のBCJはむしろ淡々と始まったような印象を受けた。静謐な哀しみ。それが全体を貫き、終曲の浄化へと向かってゆく。そんな演奏だった。
弦楽器と管楽器はそれぞれ第I群と第II群に分かれ、指揮者を中心として左右対称に配置された。そして各々の群が時には交互に、またある時は同時に演奏し、まるで対話をしているかのようであった。このようにして初めてバッハが紡ぎだす対位法の美しさが際立ち、対向配置の意味が出てくるのだと得心した。ちなみにリヒターの演奏ではこのような明確なオーケストラの群分けはされていない。
古楽器による演奏を聴くと、たとえピリオド奏法をしようがモダン楽器ではバッハの真の美しさは絶対に表現できないことを確信する。特にオーボエ・ダ・カッチャの不思議な味わいは、バスクラリネットは無論のこと、イングリッシュホルンなど他の楽器に置き換えることなど出来はしない。フラウト・トラヴェルソ(バロック・フルート)だってそうだ。
また今回の演奏会で特筆すべきは歌の充実ぶりだろう。バロック声楽を熟知しビブラートを抑えた発声法による合唱の透明度は高く、ソリストも実力者揃いであった。特にソプラノのハナ・ブラシコヴァとカウンターテナーのダミアン・ギヨンの声の清冽さは筆舌に尽くし難い。
バッハの「マタイ受難曲」は人類が生み出した究極の遺産、至高の芸術作品である。それは一宗教の枠を軽く超越している。その真実を鈴木雅明/BCJは教えてくれた。僕も自分の人生の最後を迎える時には武満やタルコフスキーと同様に、この曲を聴きながら心穏やかに眠りに就きたいと想うのである。
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コメント
ノスタルジアではなくてサクリファイスです。
どっちも好きです。
マタイ受難曲生で聞きたいです。
投稿: | 2008年7月28日 (月) 22時24分
うっかり書き間違いをしていました。ご指摘ありがとうございます。訂正しておきました。
投稿: 雅哉 | 2008年7月28日 (月) 22時57分