« ライラの冒険 黄金の羅針盤 | トップページ | 大植英次のエニグマ”謎” »

2008年2月29日 (金)

大植英次、佐渡 裕~バーンスタインの弟子たち

1990年(平成2年)、僕は岡山で学生をしていた。その年、レナード・バーンスタイン(以下レニーの愛称で呼ぶ)がロンドン交響楽団を率いて来日公演を行った。そしてこれが最後の来日となった。

レニーは京都でも公演する予定になっており、これを聴きに往くかどうか僕は散々迷った。曲目はブルックナーの交響曲第九番。マーラーならいざ知らず、ブルックナーはレニーの得意分野ではない。交通費も馬鹿にならないし、断念することにした。

結局レニーは途中体調を崩し東京公演の後、残る予定を全てキャンセルし帰国してしまった。だから京都公演は幻に終わった。東京公演ではレニーが振る予定だった「ウエス・サイド物語~シンフォニック・ダンス」を弟子の若い日本人が振り、払い戻しをする・しないで主催者側と聴衆のすったもんだが起こった事が大々的に報じられ、僕は新聞記事でそのことを知った。そしてその年の10月14日にレニーは肺癌で亡くなった。彼はヘビースモーカーであり、DVDで発売された1973年ハーバード大学での有名な講義「答えのない質問」でも、煙草をスパスパ吸いながら熱弁をふるっている(これは含蓄のある素晴らしい内容である)。

レニーの代役として「シンフォニック・ダンス」を振った、当時無名の日本人が大植英次さんだったことを僕が知るのは、大阪に移り住み大植/大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏を初めて聴いた、2006年のことである。

レニーの弟子として有名なのは大植英次さんと佐渡 裕さんだが、どうもこのふたりの関係がよく分からない。そこで今回色々と調べてみることにした。

大植さんは1956年10月3日生まれ、佐渡さんは1961年5月13日生まれ。大植さんの方が5歳年長である。

大植さんは1978年夏に小澤征爾さんの招きでアメリカのタングルウッドに渡り、そこでバーンスタインと出会っている。大植さん21歳の時である。

一方、佐渡さんはその9年後、1987年(26歳の時)にタングルウッド音楽からオーディションへの参加許可を受け、アメリカに渡る。そこで小澤征爾さんに認められ、フェローシップ(奨学生)として抜擢される。これにより、バーンスタインのレッスンをうけるチャンスを得て、ウィーンにおけるレニーのアシスタントとなる。

ここでいずれも小澤さんがキーパーソンとして登場するが、佐渡さんが小澤さんの目に留まった年齢が若干遅い。これは出身音大の違いと考えられる。大植さんは小澤さんと同門の桐朋学園出身。音大生の時から小澤さんの指導を受けていたわけだ。佐渡さんの方は京都市立芸術大学音楽学部フルート科卒業。卒後は関西二期会で副指揮者をするなど関西を拠点に活動されていたので、小澤さんと出会う機会がなかったのだろう。佐渡さんがレニーの門下生となったとき、大植さんは既にバッファロー・フィルの準指揮者に就任されていた。

レニーは死の直前、世界の若手音楽家の育成を目的としたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を提唱し、1990年夏に札幌でその第1回目が開催された。

7月3日に札幌市民会館で行われたPMFオーケストラのコンサートは以下のプログラムであった。

ベートーヴェン/交響曲第二番
  (指揮/マリン・オーサップ)
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ
  (指揮/佐渡 裕)
シューマン/交響曲第二番
  (指揮/レナード・バーンスタイン)

札幌でレニーはロンドン交響楽団と合流し7月7、8日の札幌公演、東京に移動し10日のサントリーホール、12日オーチャードホールでの演奏会を指揮する。しかし、体調不良のためプログラムの一部「ウエスト・サイド物語〜シンフォニック・ダンス」を大植さんが代わりに指揮し、それが例の騒動への火種となる。この東京での演奏会を聴かれた方が、ブログの記事にその時の様子を詳細に書かれているのでご紹介しよう。こちらからどうぞ 。

レニー最後のコンサートは8月19日タングルウッド音楽祭でのボストン交響楽団との演奏。曲目は

ブリテン/「四つの海の間奏曲」
ベートーヴェン/交響曲第七番

だった。レニーの死後、大植さんは遺族からそのコンサートで使った指揮棒とジャケットを形見分けされたそうだ。

20080229074042_edited

ここから少々時間を遡る。佐渡 裕さんのプロ・デビューは1990年1月9日新日本フィルハーモニー交響楽団との演奏会だった。曲目は

リヒャルト・シュトラウス/交響詩「ドン・ファン」
バーンスタイン/「プレリュード、フーガとリフ」
ベートーヴェン/交響曲第七番

レニー最後のコンサートと同じ、ベト七があるのは決して偶然ではないだろう。佐渡さんはレニー亡き後、その遺産とも言えるPMFのレジデント・コンダクター (1992年~1997年)を務め、95年には「第1回レナード・バーンスタイン・エルサレム国際指揮者コンクール」で優勝、レナード・バーンスタイン桂冠指揮者の称号を得た。

佐渡さんの動向を見ていると、今でも師匠の背中を懸命に追いかけていらっしゃるように見受けられる。佐渡さんが子供たちのために毎年されているヤング・ピープルズ・コンサートはもともとレニーがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督時代に企画・司会・指揮を務めたもので、CBSから全米に向けテレビ放送もされた(日本でも以前そのビデオが発売されていた。現在は海外版DVDが入手可能)。また佐渡さんは多忙な中、この4月からテレビ「題名のない音楽会」の司会を引き受けられたわけだが、それだって師の遺志を継ごうという並々ならぬ決意が感じられる。

大植さんは大植さんで毎年夏、大阪で「青少年のためのコンサート」を開催されている(NHK関西ローカルでテレビ放送あり)。昨年僕が聴きに往った時のレポートはこちら

大植さんは大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督、佐渡さんは兵庫県立芸術文化センターの芸術監督。レニーの弟子ふたりが、関西のお隣同士で対峙しているという現在の状況はとてもエキサイティングだ。

今年はバーンスタイン生誕90年の記念の年である。佐渡さんはシエナ・ウインド・オーケストラを率いてザ・シンフォニーホールで"バーンスタイン特別プログラム"を振った。その中には「シンフォニック・ダンス」も含まれていた。

大植さんは2003年の青少年のためのコンサートで、「ウエスト・サイド物語」から"プロローグ"、"トゥナイト"(2重唱つき)、"マンボ"を取り上げられた。しかし未だ、大阪で「シンフォニック・ダンス」を指揮されたことはない。大植さんがいつ、大フィルと共にこの曲に立ち向かわれるのか、そのことに僕は注目している。

| |

« ライラの冒険 黄金の羅針盤 | トップページ | 大植英次のエニグマ”謎” »

クラシックの悦楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大植英次、佐渡 裕~バーンスタインの弟子たち:

« ライラの冒険 黄金の羅針盤 | トップページ | 大植英次のエニグマ”謎” »