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ビブラートの悪魔

小説や映画で悪魔が登場するとき、彼はしばしばヴァイオリンを弾いている。「悪魔のトリル」というヴァイオリン独奏曲があるし、ストラヴィンスキーが作曲した「兵士の物語」でも悪魔はヴァイオリンと共に現れる。

何故悪魔はヴァイオリンを弾くのか?その理由のひとつはあのギーギー擦る音が耳障りであるということと、もう一つはそのビブラートが気色悪いということが関係しているのではないかと僕は推察する(「悪魔のトリル」では音を上下に揺らすダブルストップのトリルが多用されている)。

世の中には絶対音感を持っている人が少数ながらいる。彼らは「バイオリンの音を聴いていると気分が悪くなる」と言う。ビブラートは音の波である。単音をビブラートで延ばすとその周波数には一定の振幅が出来る。そのゆらぎが絶対音感を持つ人にとっては我慢ならないのだろう。チェンバロ/オルガン奏者でバッハ・コレギウム・ジャパンの指揮者、鈴木雅明さんは「終始ビブラートを掛けっぱなしの弦楽四重奏の演奏は頭が痛くなって聴くに堪えない」という趣旨の発言をされている。恐らく雅明さんも絶対音感を持っていらっしゃるのではないだろうか?

こうして考えてみるとビブラートというのは一種の誤魔化しの行為ともいえるだろう。合奏前のチューニングで多少ピッチがズレていても、ビブラートを掛け続ければあたかも合っているように聴こえるのだ。

音楽の先生はビブラートのことを「音色を豊かにする手段」だと生徒に教える。でも、果たしてそれは本当だろうか?

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの時代、弦楽奏者はビブラートを掛けずに演奏した。現代フルートはビブラートを掛けるが、バロック・フルートであるフラウト・トラヴェルソはノンビブラートで吹く。ではいつ頃からオーケストラはビブラート演奏を始めたのだろう?指揮者のロジャー・ノリントンはそれは20世紀初頭だと言う。ロマ(流浪の民。最近では「ジプシー」という呼称は差別用語とされている)のヴァイオリン奏法を取り入れ、それが急速に広まったのだと主張している。彼の説が正しいかどうか僕には分からない。しかし、リストの「ハンガリー狂詩曲」が出版されたのが1853年、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」が出版されたのが1869年。彼のピアノ協奏曲第2番、第4楽章にもロマの旋律が登場する。さらにドヴォルザークには「ロマの歌」という歌曲集がある。このように19世紀半ばよりロマの音楽に対する関心が高まり、そのヴァイオリン奏法も次第に取り入れられるようになってきたのではないかと想像する。

今、僕の手元にラフマニノフが自作自演したピアノ協奏曲のCDがある。録音されたのは1929-41年。驚くのはそのテンポの速さである。現代では、この疾走するテンポでラフマニノフが演奏されることはない。考えるに、そのロマンティックな文脈を強調するために、時代と共に次第にテンポが落ちて溜めて弾くスタイルへと変化してきたのではないだろうか?テンポが遅くなると、ひとつの音を延ばす時間も長くなる。ノンビブラートだと間が持たない。これこそがビブラートで弾くのが好まれるようになった真の理由なのではなかろうか?「テンポの遅延とビブラートの多用(乱用)は相関する」というのが僕の提唱する仮説である。

ベートーヴェンの交響曲のスコアには詳細なメトロノームの指示が明記されている。しかし、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、朝比奈ら20世紀の巨匠達はこれを無視し、はるかに遅いテンポで振ってきた。その理由は、驚くべきことに20世紀にはベートーヴェンが指示したメトロノーム速度は間違っていると信じられて来たからである。

その考えに異を唱えたのが20世紀後半に台頭して来た古楽器オーケストラの指揮者アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナー、ノリントン、そして延原武春たちである。彼らはベートーヴェンの指示通り演奏可能であり、それこそが作曲家の頭の中に響いた音楽なのだということを示した。そしてその速いテンポで演奏するとき、ビブラートの存在意義は消滅したのである。その潮流は現在、モダン・オーケストラにも押し寄せて来ている。これこそがピリオド・アプローチであり、21世紀の古典派音楽ルネッサンスなのだ(参考までにベートーベンのメトロノーム指示に対するノリントンの考察をご紹介しておく。こちらからどうぞ)。

20世紀の音楽教育のあり方は正しかったのか?ということが今、問われようとしている。

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コメント

 初めまして。ちょくちょく拝見させていただいております。
 一度ノンビブラートの美しさに魅せられた人間は、ビブラート奏法の演奏にはもう戻れませんよね。私もその一人です。
 ノリントンはロマン派の音楽でもノンビブラートで通しているようですが、21世紀的奏法として、これからもっと広まって欲しいと思います。20世紀的奏法は一部のコアなファンのための遺産として残しておく程度で構わないでしょう。
 協奏曲や独唱曲などで、ソロのパートがビブラートをかけるのなら、まだわかります。しかし、オーケストラは合奏ですから、奏者によってバラバラにビブラートをかけても、汚い音にしか感じられません。特に、他の木管であまりビブラートをかけない中で、フルートがビヨンビヨンビブラートをかけているのを聞くと、気になって音楽に集中できません。
 私見ですが、プロオケの演奏会の宣伝の際には、ピリオド・アプローチなのか否か(あるいは、ビブラートの有無)について明示してくださるといいなあと感じています。指揮者で大体の見当はつきますが、100%安心して演奏会に行きたいわけです。

投稿: すばる | 2007年12月 5日 (水) 12時07分

すばる様、心強いコメントありがとうございます。嬉しく拝読しました。

ノリントンはノンビブラートで奏でる音色を"pure tone"と言っています。つまり彼にとってビブラートは「不純な音」なんですね。

投稿: 雅哉 | 2007年12月 5日 (水) 20時46分

こちらの内容を興味深く拝読した上で、コメント致します。

私も、ヴィブラートが全てではないと思っていますし、ヴィブラートをあまりかけない楽器を演奏する者(リコーダー)ですが、かけるべき時にかける、これがヴィブラートであると思います。

それに、「20世紀の音楽教育のあり方は正しかったのか?ということが今、問われようとしている。」という表現は、ヴィブラートだけを取り上げて言えることではありません。
また、ラフマニノフの例ですが、ピアノという楽器でヴィブラートを論じること自体が無理な話だと思います。

さらに言えば、声楽の立場はどうなるのでしょうか。
確かに古楽の世界ではノンヴィブラートでの歌唱が常ですが、完全にかけないのではなく、やはり「かけるべき時」にはかけています。
それは、すべての古楽器奏法・奏者に共通です。

ヴィブラートが心地良いという人もいるでしょうし、そうでない人もいます。心地良いヴィブラート・不快なヴィブラート、もあると思います。
すべてはその人の感覚に委ねられるべきものだと思います。

もちろん、インターネットのこういうページは元々その人の主観で運営される面が大きいですから、何をお書きになろうと自由ですが、外部からのコメントを可能にしている以上、私の様な意見も
また自由であると考えて、とりあえず書き込み致します。

だいぶ前の記事なので、ご覧にならないかもしれませんが、ご参考までに…。

投稿: 失礼します。 | 2011年1月 4日 (火) 00時31分

コメントありがとうございます。

ラフマニノフの例ですが、本文をよくお読みになれば分かっていただけると思いますが、これはあくまで20世紀の間にテンポが遅延していった例として挙げたまでのことです。ゆっくりしたテンポで間が持たなくなり、それに伴って恒常的ヴィブラートが普及していったのではという推論です。ピリオド奏法の演奏は一般にテンポが速いですよね?両者は切っても切れない関係にあります。

それから古楽奏法に於いても装飾(音)的ヴィブラートは認められており、そのことは承知しています。僕が忌むべきと考えるのは恒常的ヴィブラート、垂れ流しです。そのあたりのことは別の記事にも書いておりますので、またお読みいただければ幸いです。

投稿: 雅哉 | 2011年1月 4日 (火) 11時49分

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