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2007年7月

2007年7月31日 (火)

在阪オケ問題を考える

産経新聞7/29の記事より抜粋

大阪府内にある4つの交響楽団を統合する必要性が指摘されていた問題で、当面は統合をしないことで4楽団が事実上合意したことが明らかになった。

大阪シンフォニカー交響楽団、大阪センチュリー交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団の理事長が26日、初めて会談。当面はそれぞれの個性を尊重し、共存することで合意したという。4楽団をめぐっては、昨年春に関西経済連合会の秋山喜久会長(当時)が「大阪に4つもあるのはどうか」と語ったことをきっかけに統合の必要性などが議論された。府と市、経済界による在阪楽団への支援は合計で約9億円といわれ、支援する側の財政事情が悪化しているため、統合によって援助額を減らしたいとの思惑もあった。ただ、「各楽団は特徴ある活動を続けてきた歴史がある。統合すると大阪の文化が損なわれる」(楽団関係者)との声も根強く、具体的な検討には至らなかった。

4楽団の理事長たちの言う理屈は全くの詭弁である。まずはっきりさせておかなければならないのは、オーケストラは西洋の文化であり、大阪の文化ではないということ。例えばこういう例を想像して欲しい。仮にニューヨークに4つの歌舞伎座(雅楽団とかタンゴ・オーケストラでもよい)があったとする。いずれも赤字経営で国からの援助がないと立ち行かない。そこで4つを統合する提案が出された。しかし「歌舞伎座(雅楽団)を統合するとニューヨークの文化が損なわれる」という反対意見が持ち上がる……どう考えても、変じゃないですか?

オーケストラも大阪の文化であると胸を張って言うためには、ベートーベン、ブラームス、チャイコフスキー等ばかりではなく、もっと日本人作曲家の曲を演奏しなければならないだろう。その点では先日「関西の作曲家によるコンサート」を開催した大フィルの姿勢は評価出来る。では大阪センチュリー大阪シンフォニカーの年間スケジュールはどうか?2007年度で取り上げる日本人作曲家は皆無、ゼロである。例えば昨年は武満 徹没後10年という記念の年だった。しかし武満を定期演奏会で取り上げた在阪オケは大フィルの「ノスタルジア」とシンフォニカーの「死と再生」たった二曲という寂しさである。なにが大阪の文化だ!?ふざけるな。(その点、定期演奏会で「武満 徹に捧ぐ」というプログラムを組んだいずみシンフォニエッタの企画は良かった。)

次にオーケストラの個性とは何か?を考えたい。僕は「弦がビロードのように滑らかで美しい」とか「金管の響きが輝かしく圧倒される」等、オケの個性をとやかく言えるのはウィーン・フィル、ベルリン・フィル、シカゴ交響楽団といった世界トップレベルのオーケストラに限られるのではないかと考える。在阪のオケで一番上手いのは大フィルであるのは衆目の一致するところだろう。それでも日本のオケ全体の中で見ればNHK交響楽団より格下である。そういった低いレベルで個性云々などと主張するのはおこがましい。在阪4楽団の違いはどこが上手くて、どこが下手か位しか判断基準はない。そして下手なオケは存在意義がないので解散すればいい。

オーケストラの経営がいかにお金がかかり、採算が取れない存在であるかということについて大阪シンフォニカーの楽団長である、敷島鐵雄さんの興味深いお話がこちらで読める。

別に大阪にオケがいくつあろうが構わない。もし独立採算制が成り立っているのであれば。問題はオケの存在は企業や公的支援に頼らなければ決して成り立たないというところにある。毎年赤字を生む団体が4つあるのだからそれをまとめようというのは至極当然な発想である。経営破綻した銀行の統廃合と同じである。

今年創立60周年を迎えた大フィルは4楽団のうち最も歴史があり、優秀な奏者が揃っている。音楽監督の大植英次さんもカリスマ性と絶大な集客力があり、星空コンサートとか大阪クラシックなどの優れた企画で市民への貢献度も高い。当然大フィルが潰れては困る。

4つのうち最も奏者の技量が低いのは関西フィルであるが、ここは定期演奏会で20世紀以降の音楽にも積極的に取り上げ、意欲的なプログラムを組んでいる。全てジョン・ウィリアムズが作曲した映画音楽の演奏会をしたり、大晦日に久石譲さんと共演するジルベスターコンサートをやったりと、なかなか面白いことをやってくれる。その弛まぬ営業努力は買いたい。

大阪シンフォニカーは大和ハウスという強力なスポンサーを得て、経営状態は安定したようだ。政府・自治体の援助に頼らないで済むのなら、存続すれば宜しかろう。

で結局、一番存在意義がないのが大阪センチュリーである。ここは1989年に設立された財団法人大阪府文化振興財団が運営している(1990年に第1回定期演奏会)。しかし財団の基金は10年度末には底をつくと予測されている。いってみればセンチュリーバブルの徒花として生まれ、バブルの崩壊と共にその命運はとっくに尽きているのである。昨年4月の関西経済連合会会長の発言も、それを見据えてのものだった。

大阪に4つもオケはいらない。だからセンチュリーは解散すればいい。しかし日本にはプロのオーケストラがない都道府県が沢山ある。例えば関西なら和歌山とか奈良。だから和歌山センチュリー交響楽団とか奈良センチュリー交響楽団として生き残る道を模索してはどうだろうか?それならば存続する意義は大いにあるだろう。

追記:センチュリーの今後のあり方について不惑ワクワク日記さんが独自の見解を述べられているのでご紹介しておく。

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2007年7月30日 (月)

上方落語競演会

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国分太一が噺家を演じた映画「しゃべれども しゃべれども」は秀作だった。佐藤多佳子の原作もたいそう面白かった。「しゃべれども しゃべれども」は東京が舞台だが、江戸落語と上方落語の東西対決が物語のクライマックスになっている。

関西に住むようになって2年と少し。一度も落語を生で観たことがなかったので足を運んでみることにした。出演陣は以下の通り。

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初めて知ったのだが、「上方四天王」と呼ばれる人達がいて、それが笑福亭松鶴(故人)、桂 文枝(故人)、桂 米朝、桂春団治 師匠たちだそうである。今回夜席でそのうちのおひとり、人間国宝の桂 米朝師匠の噺を聴くことが出来たが、昼席では「四天王」のもうおひとり、桂春団治師匠も出演されていた。出向いた場所は西宮の兵庫県立芸術文化センター中ホール(大と小もある)である。

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兵庫県立芸術文化センターは2005年10月にオープンしたばかりなので、まだ新しくて大変立派なホールである。

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上の写真は正面玄関入ってすぐの風景。2階にお洒落なレストラン、igrek THEATRE(イグレックテアトル)が見える。ここの料理はとても美味しいが、それ相応にお値段の方も掛る。夜に大枚をはたくのは馬鹿馬鹿しいので、昼にテアトルランチかプリフィックスを試してみられることをお勧めする。

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上は中ホール入り口の光景。客席にも沢山の提灯がしつらえてあって、寄席の雰囲気が出ていた。

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演目はプログラムに掲載されておらず、会が跳ねてから張り出された。どうも演者によっては、舞台に出てからその日にする噺を決める場合もあるらしい。

米朝師匠は「今日はこれを演ろう、と思った噺を度忘れすること」についての四方山噺だった。この内容が、本当に忘れてしまったのか、それともこれも芸のうちなのか分からないところが面白かった。でも噺の途中で弟子のざこばさんが私服姿で助け舟に現れたり、観客が笑ったところで慌てたようにお囃子が聞こえて幕となったので、恐らく米朝さん本当に忘れちゃったんだろうな。なんだか煙に巻かれたような感じだが、話芸の粋を堪能させてもらった。

冷蔵庫を舞台に繰り広げられる小春団治さんのユニークな創作落語も可笑しかったが、今回一番聴き応えがあったのがざこばさん。しゃべりの抑揚や身振り手振りがダイナミックで、お囃子を効果音として大胆に取り込んだりして迫力があった。

とても愉しい一夜だった。今度は是非寄席にも立ち寄ってみたい。

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2007年7月28日 (土)

夏の風物詩〜たそがれコンサート

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「たそがれコンサート」へ往った。これは大阪市音楽団主催で、例年7、8月の毎週金曜日に大阪城音楽堂で行われる夏の風物詩である。市音をはじめ、大阪府警察音楽隊や大阪市内の中・高校吹奏楽部など多彩な団体が登場する。入場無料。今回の出演は陸上自衛隊中部方面音楽隊であった。上の写真は開演(午後6時半)前の夕暮れ時に撮影。

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陸上自衛隊中央音楽隊はCDで聴いたことがあり、楷書体の演奏で面白みには欠けるが技術は極めて高いことは知っていた。だから中部方面音楽隊の演奏も楽しみにしていたのだが、正直言って期待外れだった。

プログラム前半は<音楽で巡るヨーロッパ>。最初の曲、ショスタコーヴィチ作曲「祝典序曲」は今年の1月にフェスティバルホールで行われたグリーン・コンサート(通称:グリコン)で淀工(大阪府立淀川工業・工科高等学校吹奏楽部)の演奏を聴いている。ちなみに僕がグリコンで聴いた日は伊奈学園吹奏楽部がゲストで来ていて、2階席でバンダを担当した。それはもう凄い迫力であった。ちなみに淀工の「祝典序曲」はこちらのサイトで試聴出来る。

で結論から言うと中部方面音楽隊よりも断然、淀工や伊奈学園の方が上手かった。仮に中部方面音楽隊が全日本吹奏楽コンクール(一般・職場の部)に出場したとしても、全国大会で金賞を獲ることも覚束ないのではなかろうか?

中部方面音楽隊の実力はアマチュアバンドで言えばどのくらいのレベルかな?と演奏を聴きながらずっと真剣に考えた。出た結論は大阪で言えば阪急百貨店吹奏楽団(2006年全日本吹奏楽コンクール銀賞)くらいかな。関東の人にわかり易く言えば先日NHKの番組「響け!みんなの吹奏楽」に出演していたソニー吹奏楽団程度。

調べてみると自衛隊の音楽隊員になるには音楽大学を優秀な成績で卒業するレベルが求められるらしいのだが、日本のアマチュア吹奏楽団の水準の高さを今回改めて認識した次第である。

ちなみにやはり軍楽隊らしく、弦バスとかハープがない編成であった。ハープが本来必要なビゼーの「カルメン」では、シンセサイザーで代用していた。

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上の写真は休憩を挟んで後半の<サマー・ポップス・ステージ>が始まる直前に撮ったものである。次第に夜の帳が降りてきているのが、お分かり頂けるだろう。前半のクラシック系はどうしても楽団の実力が如実に出てしまうので辛いところがあったが、後半は楽しかった。

モーツァルト 作曲、真島俊夫 編曲による「アマデウス、浮かれる!」が特に良かった。「フィガロの結婚」、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、交響曲第四十番、ホルン協奏曲、クラリネット五重奏などをメドレーにして、ポップス調の調味料をふりかけた粋な曲である。真島さんは「カーペンターズ・フォーエバー」等でお馴染みの素晴らしいアレンジャーだが、オリジナルの吹奏楽作品でも「鳳凰が舞う」がフランスの国際作曲コンクールでグランプリを受賞している。2006年全日本吹奏楽コンクールで川崎市・アンサンブルリベルテ吹奏楽団が「鳳凰が舞う」を演奏し、金賞を受賞した際のDVDが手元にあるのだが、正に名曲にして名演奏ここにあり、である。

続いて演奏されたモーリス・ジャール作曲、アルフレッド・リード編曲の「アラビアのロレンス」も聴き応えがあった。映画のオリジナル同様、打楽器が大活躍するのだが、それに加えて吹奏楽版はホルンにも大きな聴かせどころがある。考えてみればリードの「アルメニアン・ダンス」もホルンの咆哮が印象的な曲なので、リードはホルンという楽器がお気に入りなのかもしれないなと感じられた。

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2007年7月26日 (木)

大阪名物夏祭り!!

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京都の祇園祭、東京の神田祭と共に日本三大祭のひとつである天神祭に往ってきた。

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大阪天満宮から出発する陸渡御(りくとぎょう)の様子である。先頭の地車(だんじり)がちゃんちき(←リンク先で音が聴ける)を鳴らしながら、にぎやかに通り過ぎる。

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その後を催し太鼓と笛の音に乗って獅子舞が踊る。

大阪フィルハーモニー交響楽団のホルン奏者だった大栗 裕が、大指揮者:朝比奈 隆からの依頼で作曲し、ベルリン・フィルの定期演奏会で演奏された「大阪俗謡による幻想曲」にこの祭囃子の旋律が使われている。淀工(大阪府立淀川工科高等学校)吹奏楽部の演奏でもお馴染みの曲である。かつてはこれにのせて、次のような詞章が唄われていたという。

生国魂(いくたま)獅子舞、よい景気。おたやん、こけても鼻打たん。大阪名物夏祭り

「おたやん」とは「お多福」のことで、「おたやんは頬が出っ張っているので、こけても鼻を打つことはない」という意味である。非常にユーモラスで浪速的だ。

天神祭に話を戻そう。さらに猿田彦や采女(うねめ)、花傘、猩々(しょうじょう)の人形を乗せた山車、牛曳童児などで第一陣が構成される。御羽車や神霊を移した御鳳輦のある第二陣がそれに続く。

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上の写真は第三陣の鳳神輿と玉神輿が出発する様子。勇壮な掛け声で祭りの熱気は最高潮に達する。

陸渡御を見送ってから、天満宮に程近い四川料理のお店福龍園に立ち寄り、名物スーパーマーボー豆腐スペシャル坦々麺に舌鼓を打った。福龍園はザガットサーベイ「大阪・神戸・京都のレストラン」の中華部門で上位にランキングされる名店で、はっきり言ってここのマーボーは料理の鉄人・陳健一のお店「四川飯店」より断然美味しい。

福龍園で大満足した後は、花火見物。

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ただ、天神祭の花火は人ごみの多さの割には大したことはなかった。しょぼい。毎年8月1日にに行われるPL花火芸術の方が、はるかに規模が大きくて充実しているなと感じた。

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2007年7月25日 (水)

転校生 さよならあなた

評価:C+  (オリジナル版は

1982年(昭和57年)に公開された「転校生」を大林宣彦監督がセルフ・リメイクした。広島県尾道市から長野県長野市へ舞台を移し、季節も「夏の映画」から「秋から冬への物語」に様変わりした。

リメイク版はカメラを斜めに据えて、傾いた画面が冒頭から続く。僕がこの手法を初体験したのはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「舞踏会の手帳」(1937年、フランス)である。小林正樹監督も「人間の條件」(1959-61)「切腹」(1962)等で愛用した。この表現法は不安感を煽る場面に効果的である。しかし「さよならあなた」の場合、どういう意図でこの演出が選択されたのか理解に苦しむ。大林監督は嘗て映像の魔術師と呼ばれたが、これじゃあただの映像によるお遊び受け取られても仕方ないのではなかろうか?

オリジナル版の脚本は剣持 亘さん(故人)だが、リメイク版は剣持さん以外に大林監督をはじめ、4人の名前がクレジットされている。ややこしいので以後1982年版を「転校生」、2007年版を「さよならあなた」と表記する。

「転校生」の持ち味は陽光煌めく、カラッとした明るさだったと僕は思う。ところが、特に後半が大幅に改稿された「さよならあなた」は全く雰囲気が変わり、秋風が吹き込む、なんだかもの寂しい物語になってしまった(以下ネタバレあり)

はっきり言うが、ヒロインが難病で死んでしまうという新しい展開は、「転校生」の物語に相応しくないし、僕は「さよならあなた」の改変は全くの蛇足であったと断じざるを得ない。今振り返ってみれば剣持さんの書いた「転校生」のシナリオは完璧であり、そこから何を引いても、何を足しても駄目だったのである。

最近の大林監督は自分でシナリオを書き、學草太郎というペンネームで音楽まで自ら手がけるようになった。まるで自主映画のような撮り方である。他者に委ねるという姿勢がなくなると、映画から客観性が失われ個人の想いばかり垂れ流す代物に陥る。それが今の大林映画だ。説明的台詞が多く、くどい。爺さんの説教を聞かされているみたいだ。晩年の黒澤映画がそうだった。黒澤監督の全盛期は橋本忍など錚々たる脚本家チームがいて、3人くらいで旅館に籠もって喧々諤々の議論を交わしながらシナリオを練っていった。だからハリウッドも真似するような面白い話が出来た。しかし「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」の3作品は黒澤さん一人が執筆して、緊張感のない退屈な映画となった。映画作家が単独で自分の好きなように撮ったのでは駄目なのだ。強権のプロデューサーと大喧嘩するとかいったがあってはじめて名作は生まれるのである。「さよならあなた」に関与した脚本家は総勢5人だが、結局撮影台本は大林監督がやりたい放題に書き直しているからこんなことになってしまう。

僕の夢はいつか、大林監督のライフワークである檀一雄 原作「花筺」と福永武彦 原作「草の花」の映画版を観ることである。しかし大林さん、その際は是非脚本は他者に委ねて、音楽は久石譲さんとのコンビを復活させてください。心からお願いします。

気を取り直して少しだけ褒めておく。「さよならあなた」には25年前の「転校生」を愛する観客への目配せがあちらこちらに垣間見られ、それは何だか嬉しかった。例えば「転校生」で小林聡美演じる斉藤一美の両親役だった宍戸錠と入江若葉は「さよならあなた」にも登場する(入江は一美の祖母役!)し、「さよならあなた」で尾道からやってくる吉野アケミの実家は「転校生」で斉藤一夫(尾美としのり)の住む家としてロケされた場所だったりする。

さらに、「さよならあなた」でアケミから一夫に掛ってくる携帯電話の着メロがシューマンの「トロイメライ」で、テレビから流れてくる音楽がバッハの「G線上のアリア」やチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」だったりするのだが、これらは全て「転校生」で使用された音楽である。また「さよならあなた」で先生役の石田ひかりは一番好きなピアノ曲を問われてこう答える。「シューマンのノヴェレッテよ」。……なにを隠そう、これは尾道で撮られた映画「ふたり」のピアノの発表会の場面で、彼女が弾いた曲なのである。

「転校生」を初めて観たのが1983年、僕が高校二年生の夏。日本テレビで最初のオン・エアの日であった。甚く感動した僕は、その夏に公開された「時をかける少女」を映画館に観にいった。映画「ふたり」が公開されたのは1991年。無論映画館に駆けつけたが、その前の年、90分に短縮されたバージョンがNHKで放送され、それも僕はリアルタイムで観ている。「転校生」から四半世紀、「ふたり」から16年。思えば遠くへ来たもんだ。僕の古里、岡山からは隣の県だから尾道へは何十回も旅をした。ロケ地巡りもした。そこでは沢山の人々との出会いがあった。あの人達は、今はどうしているだろう?大林映画と共に生きてきた。そういう実感が僕にはある。だから大林さん、こんな悪口を書かなくても済むような良い映画をまた撮ってくださいよ。

今でも、わが生涯最愛の映画は大林監督の「はるか、ノスタルジイ」(石田ひかり主演)である。

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2007年7月24日 (火)

舞妓Haaaan!!!

評価:C-

劇団「大人計画」の座付き作家でもあるクドカン(宮藤官九郎)のオリジナル・シナリオによる映画である。大人計画の看板俳優でもある阿部サダヲ(芸名は阿部定に由来する)初主演作でもある。

押しなべて、クドカンのシナリオは原作付き(脚色)の方がオリジナル(脚本)よりも断然出来が良い。「GO」然り、「ピンポン」然り。ヒットしなかったけれど「真夜中の弥次さん喜多さん」(クドカン監督、原作:しりあがり寿)も好きだったなぁ。

クドカンのオリジナルが駄目なのは最初から最後まで超ハイ・テンションで突っ走ってしまうところ。一本調子で途中で飽きてしまう。観客だって上映時間の途中で息抜きが欲しい。「舞妓Haaaan!!!」なんて、もうタイトルからして躁状態。映画の半ばで疲れ果て、「もういいよ」という気分に陥った。

宮崎 駿監督のアニメーションを例に挙げよう。宮崎アニメの魅力のひとつはアクション場面の高揚感、そして飛翔感。しかし、それだけではない。もくもくと上昇する入道雲、草原で仰向けになってルパンが「平和だねぇ〜」と呟く場面(ルパン三世 カリオストロの城)。の前に置かれたがあるからこそ、それが生きるのだ。

の使い分け。これこそが今後、クドカンが習得しなければならない課題だろうと僕は考える。

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2007年7月19日 (木)

鮎づくしの旅

滋賀県大津市の比良山荘に往った。「山の辺料理」を食べさせてくれる、山間の鄙びた旅館である。

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今回いただいたのは「鮎食べコース」。

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写真上は鮎のなれ寿司。塩漬けした鮎をご飯に数ヶ月漬込み、発酵したご飯の酸味を活かした料理。うるかあえと共に供される。

次に出たのは鯉の洗い(写真なし)。6ヶ月泥抜きをしているそうで臭みもなく、ぷりぷりした歯ごたえで実に美味しかった。酢味噌でいただくのだが、この味噌がまた良い!

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鮎の塩焼き。写真がその第一弾。この後もなんと第三弾まで続き、計七匹に舌鼓を打った。今まで生きてきた中で遂に最高の鮎にめぐり逢えた!

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じゅんさいのお吸い物。ぬるぬるっとした食感にしゃきしゃきっとした歯ごたえが面白い。

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鮎ごはん。仲居さんが目の前で土鍋で炊かれたご飯の上に載った鮎をほぐして混ぜてくれる。「鯉こく」(輪切りにした鯉を味噌汁で煮たもの)と一緒にいただく。

比良山荘では冬には熊鍋や猪鍋をいただけるとのことで、是非今度は別の季節に訪れてみたい。

帰途は比叡山スカイラインを経てロテル・ド・比叡へ。

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テラスでお茶。そよ風が心地よく、遠く望む琵琶湖が美しい。琵琶湖はデカいだけが取り柄の大味な湖なので、近くで見るよりもこれくらい遠目の方が良い。

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2007年7月17日 (火)

いずみシンフォニエッタ大阪の描く北欧

いずみシンフォニエッタ大阪の第16回定期演奏会「美しき北欧、新しき北欧」を聴きに往った。

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指揮はいずみシンフォニエッタ大阪常任指揮者、飯森範親さん。現代音楽の初演を積極的に行い、その普及に貢献したことが評価されて芸術選奨文部科学大臣新人賞、中島健蔵音楽賞などを受賞したマエストロである。

いずみシンフォニエッタ大阪(ISO)はいずみホールのレジデント・オーケストラで、現代音楽演奏を主目的としている。大フィルやシンフォニカー、センチュリーなど他の主な在阪オケがベートーベン、ブラームス、チャイコフスキーといったありきたりの曲ばかり垂れ流す中で、大変貴重な存在である(関西フィルは20世紀以降の作品に意欲的に取り組んでいるが、如何せんあそこは大阪で一番技量が劣るのが残念)。

ISOは常設ではなく、年3回の定期演奏会を行い、そのつど関西にゆかりのある優秀なプレーヤーたちが全国から集結してくるのである。いわば小澤征爾が率いるサイトウ・キネン・オーケストラとか、紀尾井ホールのレジデント・オーケストラ=紀尾井シンフォニエッタ東京と同じようなシステムとなっており、実際ISOのメンバーの中にはサイトウ・キネンや紀尾井にも参加している人がいる。だから小編成ながらオケのレベルは極めて高い。

ISOの楽しみの一つに、19時の開演前に行われるロビーコンサートがある。今回は下の写真の通り。

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日本でも指折りの名手の演奏が間近に聴けるのだからこんな嬉しい事はない。この時の模様はフルート奏者:安藤史子さんのブログに写真付きで紹介されているのでご覧あれ。

ロビー・コンサートは大阪フィルハーモニー交響楽団でも今年の3/8「会員感謝のためのコンサート」で行われたのだが、それ一回きり。是非大フィルでもこうした企画を継続してもらいたいものだ。

さて、今回ザ・フェニックスホールとの共同企画によるテーマは「環バルト海の音楽」。没後100年のグリーグ(ノルウェー)と没後50年のシベリウス(フィンランド)の音楽がプログラム冒頭と最後に配置され、その間に挟まれるように現代フィンランドを代表するリンドベルイとエストニアの作曲家ペルトの音楽が演奏された。

まず弦楽合奏による「ホルベルグ組曲」があって、管楽器とパーカッションによる「フラトレス」が続く。そしてプログラム前半最後に弦と管がはじめて一緒になって「アリーナII」を演奏するという考え抜かれた構成にほとほと感心した。このあたりISOの提唱者で音楽監督でもある作曲家:西村 朗さんと、同じく作曲家でプログラム・アドバイザーの川島素晴さんの面目躍如といったところだ。

「ホルベルグ組曲」と後半のシベリウス「悲しきワルツ」「ペリアスとメリザンド」では弦の美しさを堪能した。飯森さんは例えばペルゴレージやベートーベンを指揮するときは弦にピリオド(ノン・ビブラート)奏法を指示するような人なので、今回のグリーグやシベリウスでも適所にノン・ビブラートが取り入れられており、新鮮で響きに透明感があった。

ペルトの「フラトレス」は古楽の影響を受け、あたかも祈りのように静謐な音楽である。僕は弦楽合奏版のCDを持っているが、管楽八重奏+打楽器版は今回初めてだった。こちらもなかなか耳に心地良かった。

今回の演奏会の白眉はなんと言ってもリンドベルイの「アリーナII」だろう。これは指揮者コンクールの課題曲として作曲されたそうで、目まぐるしく変化する変拍子が非常に複雑な作品であった。指揮者にとっても演奏者にとっても大変難しい曲だと思われるが、飯森さんの明快な手綱さばきのもと、ISOの面々も軽々とこなし、聴いているこちらとしてはスリリングで非常に面白い体験をさせてもらった。是非これからも、このような興味深い新作を紹介していってもらいたい。

次回からのISOの公演予定はこちらをご覧あれ。

そうそう、今回気がついたのだがISOに参加しているヴァイオリン奏者、高木和弘さんは1972年大阪生まれで東京交響楽団の若きコンサートマスターである。高木さんの経歴を見るとドイツ・ヴュルテンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスターを経て現在、山形交響楽団の客演特別コンサートマスターも兼務されている。あれ?これらのオケは全て飯森さんとの関わりも深いではないか(ヴュルテンブルクの音楽監督、山響のミュージック・アドヴァイザー兼常任指揮者、東響の正指揮者)。ふたりの深い絆が伺われ、まるで大植英次さんと長原幸太さんの信頼関係みたいだなと想った次第である。

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2007年7月14日 (土)

つゆだく、ねぎだく

歌手の華原朋美が6月28日付けで所属事務所から解雇された。突然の仕事キャンセルや、睡眠薬・精神安定剤などの多用により酩酊状態のまま倒れていたのを保護されるなど、これ以上のマネージメントは不可能と判断されたためである。このまま芸能界引退となるのはほぼ確実であろう。

朋ちゃんといえば、僕が真っ先に頭に思い浮かぶのはつゆだくの名称を世に広め、吉野家の売り上げに多大な貢献をした女の子だったということだ。

牛丼の吉野家では、つゆだくねぎだく等、客の好みに合わせた盛りつけを無料でおこなっている。ただし、これは店内のどこにも明示されていないサービスである。つゆだくとは、汁(つゆ)を多めにかけた状態を指す符丁。 ねぎだくは玉ねぎを多めに盛り付ける。

つゆだくが一般に普及したのは朋ちゃんがテレビ朝日「ミュージック・ステーション」のトークで吉野家原宿店で「並・玉(生卵のこと)・つゆだく」で食べるのが好きだと言った事に端を発する。

狂牛病問題で販売が中止されていた2006年に1日限定で牛丼が復活した時も、朋ちゃんは帽子をかぶりお忍びで吉野屋を訪れたそうで、出演するミュージカルの製作発表会で記者からその質問をされた時、彼女はこう語った。

「食べましたよ〜。当たり前じゃないですか!並・玉・つゆだくで、いやぁ〜もう最高でした。本当にもううれしくて泣いちゃいました。デビュー当時とか毎日食べていたんで…」

「今後も、問題なく吉野家の牛丼がずぅーとずぅーと美味しく食べられるように、ひとつよろしくお願いします」

10年位前は吉牛でつゆだくと注文する客は皆無だった。それが今やどうだろう?吉野屋で観察していると、客の過半数が「つゆだく!」と当たり前のように言っている。その掛け声を聞くたびに僕は朋ちゃんのことをしみじみと想い出す。

ただ、朋ちゃんはねぎだくについては言及しなかったので、いまだにこの裏技を知らない人が多いようである。少なくとも僕は注文時に「ねぎだく!」と言っている人を見たことがない。僕が「つゆだく・ねぎだくで」と注文していると、必ず周りの人の誰かが吃驚した顔でこちらを振り向く。それが何だか快感なので得意になって毎回言ってしまうのだ。ただ、ねぎだくと言う場合と言わない場合で、それほど玉ねぎの量が変わらないように感じるのは気のせいだろうか??

是非貴方も今度吉野屋に行ったら、周囲の反応を確かめながら試しに注文してみてください。

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2007年7月13日 (金)

関西の作曲家によるコンサート

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今回聴きに往ったコンサートで取り上げられた大栗 裕、松下眞一、貴志康一の3人はみな大阪生まれの作曲家である。指揮はカラヤンのアシスタントを務めていたこともある山下一史さん、大フィルのコンサートマスターは長原幸太さん(26)だった。考えてみれば長原さんと山下さん、そしてついで(?)に音楽監督の大植英次さんの3人は広島出身である。

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大栗 裕はなんと言っても吹奏楽の世界で有名である。吹奏楽コンクールの課題曲を数曲書いているし、「大阪俗謡による幻想曲」は今でもしばしばコンクール自由曲に選ばれる。

大栗はホルン奏者として音楽家の一歩を踏み出した。指揮者:朝比奈 隆の要請で関西交響楽団(後の大阪フィルハーモニー交響楽団)に入団した。1956年にベルリン・フィルの定期演奏会に招聘された朝比奈は朋友である大栗に手土産として持っていく新曲の依頼をした。そうして生まれたのが「大阪俗謡による幻想曲」である。

'74年に大阪市音楽団からの依頼で大栗は自らこれを吹奏楽版に編曲した。「大阪俗謡」が全日本吹奏楽コンクールに初登場するのは'80年のことで、この年これを自由曲で演奏した淀川工業高等学校(現:工科高等学校)は全国大会金賞に輝いた。その後も淀工は計5回「大阪俗謡」をコンクールで取り上げ、その全てで金賞を攫っている。

淀工の丸谷明夫 先生(丸ちゃん)は大栗と親交があり、全曲演奏すると10分を超える「大阪俗謡」をコンクールの時間制限に合わせるために作曲者と相談しながらカットの作業を行ったそうである。この「淀工バージョン」は2003年なにわ<<オーケストラル>>ウィンズの演奏会でも取り上げられた。その世紀の名演はライブ・レコーディングされ、CDとして現在も入手可能である。

「大阪俗謡による幻想曲」が初演されたとき、ベルリンの新聞は大栗を「東洋のバルトーク」と讃えた。「大阪俗謡」には天神祭の祭囃子などが引用されているが、今回演奏された「雲水讃」にも打楽器が大活躍するお祭の音楽があった。印象としてはバルトークのオケコン(Concert For Orchestra、管弦楽のための協奏曲)の終楽章を彷彿とさせるものがあった。続いて演奏されたヴァイオリン協奏曲には大阪の盆のわらべ歌にもとづく変奏曲があったり、阿波踊りのリズムが登場したりと、やはり土俗的色彩が強く面白く聴けた。

松下眞一は数学者として大学で教鞭をとりながら独学で作曲もしたという経歴を持つ。今回演奏された「星たちの息吹」は'63年に初演された曲で、いかにも現代音楽という作品だった。でも決して難解というのではなく、宇宙を連想させる茫洋感そして透明感があった。僕は映画「2001年宇宙の旅」でキューブリックが選曲したジェルジ・リゲティの音楽を想い出した。

映画音楽から転用されたという貴志康一の「日本組曲」も良かった。和洋折衷というか、西洋音楽の様式で語られる日本の抒情。賑やかな音楽(道頓堀の喧騒)もあるけれど、そこに忍び込むそこはかとない哀しみ。驚いたのは終曲「戦死」に君が代とか軍歌の旋律が出てきたことだ。

貴志は'37年に28歳という若さで亡くなった。「日本組曲」が彼の指揮でベルリン・フィルにより演奏されたのは'34年のことである。ドイツでナチスが第一党となりアドルフ・ヒトラーが首相に任命されたのは'33年。一方、満州事変が起こったのが'31年で'33年に日本は国際連盟を脱退した。日独がまっしぐらに戦争への道をひた走っていた時にこの曲は生まれたわけだ。恐らく貴志が戦後に忘れ去られ、「日本組曲」が殆ど演奏されなかったのは、国全体を左翼ジャーナリズムが席巻し、愛国心を嫌悪して軍国主義を連想されるものをことごとく排除してきたことと無関係ではあるまい。半世紀を経て左翼勢力が衰退した今、漸く貴志の再評価が始まろうとしているのだろう。

今回のようなコンサートは非常にユニークであり、聴き応えがあった。ただ、聴衆の入りが少なくて1階席は約6割の入り、2階席はガラガラだった。意欲的なプログラムには客が来ないので結局、関西のオーケストラはベートーベンとかチャイコフスキーなどありきたりなものばかり演奏せざるを得ない羽目に陥る。難しいものだ。

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2007年7月12日 (木)

淀工、北京へ!

大阪府立淀川工科高等学校(淀工)吹奏楽部の部員約80名が7月11日に北京に向けて旅立った。北京五輪のプレイベント「2008北京オリンピック文化祭」に日本代表として招待されたためである。

本番は7月13日。東京オリンピック・マーチや、「E.T.」「スター・ウォーズ」で有名なジョン・ウイリアムズが作曲したロサンゼルス五輪&アテネ五輪のファンファーレなどを演奏、北京市の繁華街をマーチングするそうだ。詳細が書かれた記事はこちら

淀工お得意の「カーペンターズ・フォーエバー」もあちらで披露するらしいのだけど、果たして中国の人々はカーペンターズを知っているのだろうか!?カーペンターズが活躍した頃は、中国で西洋文明が否定され約1000万人が大量虐殺された文化大革命の時期に一致している。

ちなみに丸ちゃん(丸谷明夫 先生)の話では、淀工は「カーペンターズ・フォーエバー」を年間3-40回は演奏しているそうである。丸ちゃん曰く

「カーペンターズ本人たちよりもウチの方がこの曲を沢山演奏している筈」

最近、中国産の食品・医薬品・歯磨き粉などから毒物が検出され、世界中で大問題になっている。豚マンの中にダンボールが入っていたそうだし。淀工の生徒たちや丸ちゃんは是非健康に留意して無事に戻ってきてもらいたいものだ。食料とかミネラル・ウォーターとか日本からちゃんと持って行っているのだろうか??

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ダイ・ハード 4.0

評価:B+

北米での原題は"Live Free or Die Hard"だが、北米以外では"Die Hard 4.0"のタイトルで公開されている。

監督を手がけたレン・ワイズマンは第1作目からの熱烈なダイ・ハードのファンであり、シリーズ全作品のジョン・マクレーンの台詞を全て覚えているそうだ。 なんでも高校生の時に16mmで「ダイ・ハード」の短編を撮り、自らマクレーンを演じたとか。

だからこの最新作をみると、明らかに過去のシリーズに対する敬意と愛着が感じられる仕上がりになっている。例えば冒頭の派手な銃撃戦は第1作を彷彿とさせるし、敵のテロリストが信念を持って戦っているように見せかけて実は金が目的だったとか、家族が人質になってそれをマクレーンが救出するという構図も1作目を踏襲している(第1作は妻、第4作は娘が囚われる)。

サイバーテロという新しいタイプの犯罪を主題にしながら、その最新のハイテクは相棒の若いハッカーにお任せして、マクレーンは相変わらず体を張った肉弾戦一本勝負というのも痛快である。アクションはリアリティある銃撃戦から始まって次第にエスカレート。仕舞には天然ガス攻撃とかF-35 戦闘機による攻撃を受けても主人公は無事なんだから笑っちゃう。でもその荒唐無稽さが小出しに仕掛けられ、観客に疑問を抱かせない巧妙な作りになっているあたりが脚本の上手さだな。

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2007年7月10日 (火)

スパイダーマン3

評価:D-

比較的面白かった「スパイダーマン2」を帳消しにするような出来の悪さ。これは酷い。

ドラマ部分が全て駄目。メリー・ジェーン(MJ)みたいな情緒不安定で救いようのない女を主人公のピーター・パーカーがどうして好きなのか理解に苦しむし、ピーターの苦悩とかMJの揺れ動く心の変遷なんてはっきり言ってどうでもいい。叔母さんの語る恋愛論とか人生訓は鬱陶しいだけだし、ピーターの親友ハリーの執事も全てお見通しなら、とり返しのつかない段階でハリーに真相を告げないで、もっと早くピーターは悪くないと教えてやれよ。アホか。

すっかりおばさん顔になったキルスティン・ダンストは醜くて正視に堪えない。歌も吹き替えなのがバレバレ。だったらミュージカル女優なんて無理な設定にするなよ。MJ以外も、どうしてこんな顔の不自由な女優ばかり起用するのだろう。サム・ライミ監督の趣味の悪さに閉口した。

ドラマ部分が余りにも詰まらないのでアクション・シーンも間延びしてどうしようもない。CGによる作り物の特撮も底が浅くて臨場感に欠ける。観るだけ時間の無駄。

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2007年7月 9日 (月)

初披露!オーケストラ・リベラ・クラシカのベートーヴェン

今回の記事は以前投稿した「21世紀のベートーヴェン像」と併せて読んでいただくとありがたい。

バロック・チェリストとしても名高い鈴木秀美さん率いるオーケストラ・リベラ・クラシカ(OLC)が遂に大阪で最高の音響を誇るいずみホールにやって来た。作曲された当時の古楽器(秀美さんはこの言い方を嫌っていらっしゃるのでオリジナル楽器という呼称が相応しいか)で演奏するOLCが関西で演奏会をするのは初めてだし、C.P.E.バッハ(大バッハの次男)→ハイドン→モーツァルトと時代を下りながらプログラムを選定してきた彼らがベートーヴェンを取り上げるのも初めてである。満を持して今回世に問うたのは交響曲第一番と三番「英雄」である。

話題の演奏会だけに東京から聴きに来た人も少なからずいたようである。曲が終わるとブラボーの歓声が上がったが、「いつものあの人がまたやってる」という標準語の囁きが近くから聞こえてきたのだ。

鈴木秀美さんはフランス・ブリュッヘンが指揮する18世紀オーケストラのチェリストとして活躍してきた経歴がある。「英雄」といえばブリュッヘンが最も得意とする曲。だから秀美さんの解釈もブリュッヘンに通じるものがあった。

先日聴いた大植英次さんの「英雄」の最大の欠点は2楽章の重く引きずるようなテンポである。2楽章がこんなに遅いと、軽快な3、4楽章が浮いてしまう。秀美さんの「英雄」は2楽章もブリュッヘン同様速めのテンポで軽やかなフットワークだった。余り「葬送行進曲」という感じはしないが、これだと後半の楽章とのバランスが違和感なく自然である。「英雄」に関する限り僕は秀美さんを断固支持する。

秀美さんの解釈の特徴はその弾力性にあるだろう。フレーズ冒頭のアタックが強烈で、瞬発力に富む生き生きしたベートーヴェン像であった。瞬発力の代名詞といえばC.P.E.バッハであるが、曲のあちらこちらにC.P.E.の痕跡を感じた。これこそが、秀美さんが旗揚げ公演の時からC.P.E.を取り上げてきた意味だったのだろう。C.P.E.とハイドン、そしてベートーヴェンは根っこの部分で間違いなく繋がっているのだ。

37人という小編成であったが迫力がないかというとそんなことはまったくない。各々の声部(パート)が明瞭に聴こえ、しなやかで耳に心地よい。ベートーヴェンの時代はこのような響きがしていたんだなぁという新鮮な驚きがあった。

ブリュッヘン、コープマン、ノリントン、そして日本でも延原武春さんや鈴木雅明さんら古楽器オーケストラの指揮者たちはみな指揮棒を持たない。指揮棒を持って指揮するという現在のスタイルを確立したのはベートーヴェンより後の世代のメンデルスゾーン(1809-1847)だからである。鈴木秀美さんのスタイルも例外ではなかった。秀美さんは肩全体を使って激しく腕を振る。指揮で首を痛めた岩城宏之さんや大植英次さんの前例があるので見ているこちらがハラハラするくらいである(指揮の負担を軽くするために指揮棒が生まれたという側面もあるのではなかろうか)。ただ、秀美さんの場合はチェリストとしての仕事も多いので専業指揮者ほど長時間負荷がかからないのかも知れない。

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2007年7月 7日 (土)

チェンバロとフォルテピアノ

今年の春から日本テレマン協会のマンスリーコンサートに通っている。場所は大正時代に建てられたお洒落な洋館、大阪倶楽部4階ホールである。

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今月のプログラムはチェンバロ(中野振一郎)とフォルテピアノ(高田泰治)がメインで、一部の曲ではコレギウム・ムジクム・テレマンによる弦楽合奏(ガット弦、ノン・ビブラート奏法)が加わった。

フォルテピアノをご存知だろうか?いわばピアノの原型である(上写真の右側)。J.S.バッハ(大バッハ)も晩年にフォルテピアノを演奏したとされ、その後次第に普及してモーツァルトの時代には完全にチェンバロに取って代わった。ピアノという名称も実はピアノフォルテを省略したもので、pfと表記されるのはそのためだ。弱い音(ピアノ)も強い音(フォルテ)も表現できることに由来する。

中野振一郎先生(1964年、京都生まれ)の演奏を初めて聴いたのは昨年の「くらぶさん倶楽部」である。これは先生のお弟子さん(先生曰く「お姫様」)たち7人の、いわば発表会であり、2日間にわたりバッハのチェンバロ協奏曲が演奏され、3台のチェンバロのための協奏曲では2台のチェンバロに加え中野先生がフォルテピアノで参加して演奏された。最初の出会いがそんな形だったのでどうしても「中野先生」という呼び方がしっくりくる。「中野氏」じゃよそよそしいし、「中野さん」にもどうも違和感が付きまとうので、ここは敬愛の念を込めて先生と呼ばせていただく。今回フォルテピアノを担当された高田泰治さんも中野先生の高弟(弟子の中でも特に優れた者)にあたる。高田さんは「くらぶさん倶楽部」には参加していない。

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僕は岡山という地方都市で育ったので、チェンバロの生演奏を聴く機会は全くなかった。「くらぶさん倶楽部」で初体験した感想はなんて華麗な音がするんだ!ということに尽きるだろう。チェンバロからピアノへの移行は音量という点では一歩前進したが、もしかしたら音色的には鍵盤楽器としての退化だったのではなかろうかという気さえした。チェンバロが弦をはじいて音を出す仕組みなのに対して、(フォルテ)ピアノは弦を叩いて音が出る。両者はそういう意味で全く美意識が異なった楽器であり、今回その共演というのは真に興味深いものであった。

「世界の9人のチェンバリスト」に選ばれたこともある中野先生は超絶技巧の持ち主である。タッチの一音一音が短く研ぎ澄まされ、目も眩むようなテンポで耳を駆け抜ける。曖昧さは皆無であり印象は鮮やか。チェンバロ界の貴公子の異名に嘘はない。少なくとも日本に中野先生を超えるチェンバロの鬼才はいないだろう。これだけの実力者の演奏がマンスリーコンサートだと前売り2500円(当日2800円)で聴けるのだから浪速はパラダイスである。曲が終わり配置換えをする合間の中野先生の関西弁トークも面白い。特に延原さんが指揮するときの二人の掛け合いは、まるで漫才みたいだ。

今回のコンサートは大バッハとその息子たち、そして弟子(クレプス)による2台の鍵盤の為の協奏曲およびソナタが演奏され、合間にヴィヴァルディの「調和の霊感」が挿まれた。全6曲というなんとも贅沢なプログラムである。

表情豊かに切れ味鋭い刃のような音を放つ中野先生のチェンバロに対して高田さんのフォルテピアノはあくまで淡々と進む。両者のタッチの違いが些か気になったが、丁々発止と渡り合う鍵盤の対話がスリリングで、聴き応え十分の内容であった。

特に気に入ったのが大バッハの長男、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの曲であった。この人は性格的に自由奔放で過剰な人だったらしく、その不安定な感情表出があからさまに曲自体に滲み出しているところが面白かった。中野先生は瞬発力に富む曲を書いた次男のC.P.E.バッハが一番のお気に入りらしいのだが、どうしてどうして、先生の奔放で天駆ける鍵盤捌きはW.F.バッハにも相応しいものであった。

アンコールは中野先生と高田さんがなんと!1台のチェンバロで連弾をしてくれた。そこには師弟愛も垣間見られ、なかなか微笑ましい光景だった。

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今回のプログラムの曲が含まれた中野先生&高田さんによるデュオCDも発売された。上の写真は会場で貰ったお二人のサイン(先生が左)。

次回のマンスリーは8月9日(木)。ヴィヴァルディの「四季」とか大バッハのブランデンブルク協奏曲第5番など非常にポピュラーな曲目である。恐らくブランデンブルクは1楽章にチェンバロの長いカデンツァのあるバージョンが演奏されるものと思われる。中野先生の超絶技巧が堪能できるだろう。バロック・コンサートに行ったことのない貴方、これを機会に古楽デビューされてみては?きっと驚きと新たな発見に満ちたひと時を体験できるだろう。詳細・お問い合わせはこちらからどうぞ。

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2007年7月 5日 (木)

ボルベール<帰郷>

評価:B

ボルベールとは戻る、復帰するという意味。スペインのペドロ・アルモドバル監督最新作である。同性愛者である彼の「オール・アバウト・マイ・マザー」(アカデミー外国語映画賞受賞)は”母なるもの全て”への賛歌であったが、今回も女性たちを讃える映画になっている。

ミステリー仕立てになっているがそのトリックはお粗末で、真相はミエミエ。でも映画の作り手たちにとって語りたいことは他にあって、そんなことは瑣事なのだろう。

ペネロペ・クルスが素晴らしい。往年のイタリア女優、クラウディア・カルディナーレとかソフィア・ローレンなどを彷彿とさせる圧倒的存在感がある。結果的にトム・クルーズに振られてハリウッドから帰還(ボルベール)したことは、彼女にとって幸せだったのではなかろうか。「ボルベール」はカンヌ国際映画祭で主演女優賞を受賞した(対象は6人の出演女優たち)し、ペネロペはこれでアカデミー主演女優賞にも初ノミネートされたのだから。

本作で披露した歌が吹き替えだということはすぐ分かったが、なんと彼女は「付け尻」をして演技していたそうである!これには全然気がつかなかったなぁ。

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2007年7月 3日 (火)

「殯の森(もがりのもり)」と日本人の死生観

評価:D

「殯の森」はカンヌ国際映画祭でグランプリを獲った映画である。ここで誤解のないように書いておくが、カンヌの場合グランプリ=最高賞ではない。それに相当するのはパルム・ドール。つまりグランプリは二等賞、ベルリン国際映画祭の銀熊賞やベネチア国際映画祭の銀獅子賞に相当する。

河瀬直美 監督はフランスからの帰国報告会見で次のように述べた。「黒澤明、大島渚の次の世代が私だと確信している。将来、私がパルム・ドールを受賞する可能性は十分ある

なんと思い上がった、品性下劣な発言だろう!心の中ではそう思っていても普通、口には出さないものである。そしてここに彼女の無教養ぶりが露呈している。

上の発言はかつてカンヌで黒澤明が「影武者」でパルム・ドールを、大島渚が「愛の亡霊」で監督賞を受賞したことを踏まえてのものであろう。でも河瀬さん、貴女が思い浮かぶ日本を代表する映画監督ってその2人くらいなの?例えば「楢山節考」と「うなぎ」で2度パルム・ドールに輝いた今村昌平 監督は無視ですか?あ、ひょっとすると今村映画を一度も観たことがないとか?そうか、それなら納得いく。

「殯の森」は普通につまらない映画である。気取ってつけられたタイトルの難しい漢字だけに独創性がある。一体、何人の日本人がこの字を読めるだろう。

物語は死に場所を求めて山に入る老人の話である。それだけだ。はっきり言うが、たかが38歳の小娘の語る死生観など聞きたくもないわ。

カンヌでこの作品が受けたのは、まず奈良の自然を捉えた中野英世による撮影が真に美しかったことと、日本人特有の死生観がヨーロッパ人に新鮮に映ったことがあるのではなかろうか?

一神教ではない日本人は山を神が宿る場所として奉ってきたという歴史がある。恐山、高野山、比叡山は日本三大霊場と呼ばれている。だから死ぬとき人は山に還るという観念が自然に生まれた。墓地が山にあるというのは普通の風景だし、「楢山節考」で描かれたようにかつては姥捨て山という風習もあった。

一方、欧米の墓は街中にあることが多い。彼らの山に対する観念は、例えばディズニーの「ファンタジア」に登場するムソルグスキー作曲「禿山の一夜」でも分かるように、悪魔の棲む所というイメージなのではなかろうか。バットマン(クリスチャン・ベール)がラーズ・アル・グール(渡辺 謙)率いる”影の軍団”から修行を受けるのもチベットの山奥だし。

ちなみに日本では水子を供養する賽の河原の場合、川や海であるというのも興味深い。賽の河原=三途川の観念は仏教と共に渡来したものだそうだ。死者の国が海や川の先にあるという観念は西洋にもある。ベックリン(スイス)の「死の島」という有名な絵もそうだし、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」では黄泉の国トゥオネラ川には白鳥が漂っており、それを射止めようとして失敗したレンミンカイネンは殺されてしまう。仏教がシルクロードを通して伝播したように、案外根っこの部分では繋がっているのかも知れない。

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2007年7月 2日 (月)

きみにしか聞こえない

評価:F

乙一は好きな作家だ。「このミステリーがすごい!」で1位に輝いた「GOTHリストカット事件」も面白かったし、今回映画の原作になっている短編「Calling You」の収録されている単行本「失はれる物語」は初版が手元にある。これを元に乙一自身が脚本を書いたドラマCD「きみにしか聞こえない」も持っている。

しかし、あの清冽で美しくも哀しい乙一の小説が、どうしてこんな出来損ないの韓国メロドラマみたいな救いようのない映画になり得るのかなぁ??映画館で頭を抱えた。映画が始まって1時間くらいで席を立とうか真剣に悩んだ程である。いままで何千本という映画を観てきたが、こんな体験は初めてである。しかし、最後まで観ずに本作を批判したら、まるで石原慎太郎の特攻隊映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」を観もしないで誹謗中傷した井筒和幸(反日映画「パッチギ!」の監督)と変わらないではないか?と思い留まり、身悶えしながら拷問のような残り時間を耐えた。

乙一の小説の主人公の多くはひきこもりである。生き方が不器用で他者とのコミュニケーションが上手くとれず、自分だけの世界に閉じこもる。そしてここが一番重要なところだが、作者は基本的にそういう生き方を肯定している

「きみにしか聞こえない」の一番駄目なところは、そういう乙一らしさの片鱗もうかがえないことである。頭の中の携帯電話で見知らぬ人と交信できるようになった主人公の女子高生がそれを契機に心を開き、彼女を苛めたり無視していたクラスメイトたちとの関係も改善されていく。過去のトラウマで触れることも出来なくなっていたピアノも弾けるようになる。……こんなお話は乙一じゃない。

無論、映画は原作に忠実でないといけないと言っているのではない。原作より面白い映画なんてこの世にはいくらでもある。しかし、「きみにしか聞こえない」の場合は改悪でしかない。だから許し難いのだ。

ヒロインを演じた成海璃子(なるみりこ)は演技が拙い。そして最悪なのはその声!

若い頃の森田健作を思わせる小出恵介の押し付けがましい笑顔も実に不愉快だった。善意の押し売りは勘弁してくれ。

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