21世紀のベートーヴェン像
大植英次/大阪フィルハーモニー交響楽団による、ベートーヴェン・チクルスをザ・シンフォニーホールで聴いた。演奏されたのは交響曲第一、二、三番(英雄)。
対向配置(第1バイオリンと第2バイオリンが舞台の左右に別れ対面する形)で、その中央にビオラとチェロ、そしてコントラバスはオーケストラの一番後ろに横一列でずらりと並ぶ。この対向配置は第1,2バイオリンが隣同士に並ぶのを見慣れた現代では異様に映るが、古典派の時代から1950年ごろまではオーケストラの常識的形態だった。
現在の弦楽奏者の大半はスチール弦を使っている。バロック・チェリストの鈴木秀美さんによると、1950年ごろまで世界中のオーケストラ奏者はガット弦(羊の腸)を使っていたそうだ。
また、指揮者のロジャー・ノリントンの話では弦楽奏者たちがビブラート奏法をしだしたのは20世紀になってからのことで、それまではノン・ビブラートが常識だったとか。このように20世紀を境にオーケストラは大きく様変わりしたようだ。
フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラや、ジョン・エリオット・ガーディナー/オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティクなど古楽器を用いたベートーベン演奏の出現で、ベートーヴェン以前の作曲家は古楽器で聴くのが当たり前の時代がやってきた。また、現代オーケストラでベートーヴェンをする場合もバロック・ティンパニを用いたり、ノン・ビブラートで演奏するいわゆる「ピリオド(時代)奏法」が流行である。
モダン・オーケストラでいわゆる「ピリオド奏法」を始めたのはオーストリアのニコラウス・アーノンクールである(かつて18世紀オーケストラのメンバーで、現在は古楽器によるオーケストラ・リベラ・クラシカの指揮者でもある鈴木秀美さんは「ピリオド奏法?いつの時代の?スチール弦で?」とこれに否定的な意見を持っている)。イギリスのノリントン、アーノンクール直々に伝授されたサイモン・ラトル、そしてアメリカのデイヴィッド・ジンマンらがこれに続いた。日本では金 聖響さんらが積極的にこれに取り組んでいる。ノリントンがNHK交響楽団を指揮した演奏会では、ノン・ビブラート(ノリントン曰く"pure tone")でモーツァルトがこれほどまでに新鮮に聴こえるのかと驚かされた。最近ではラトルやアーノンクールが指揮台に立つときは、天下のウィーン・フィルやベルリン・フィルでさえ果敢に、いわゆる「ピリオド奏法」に取り組んでいる。その際に奏者を減らし、作曲者が生きていた時代の様式に合わせ、小編成で演奏されることも当たり前になってきた。オーケストラは今、激動の過渡期にある。
さて、大植さんのベートーヴェンである。大阪フィルハーモニー交響楽団を創設し実に54年間率いていた朝比奈 隆・前音楽総監督はベートーヴェンとブルックナーを最も得意としていた。その大フィルでベートーヴェンの交響曲全曲を指揮するというのは並大抵の覚悟では出来ない。朝比奈の築いた伝統を壊してはいけない。しかし同時に21世紀の新しいベートーヴェン像を観客に示さなければならない。大植さんの置かれた立場は難しいものだったに違いない。だから大植さんは非常に慎重だった。大植さんが大フィルの音楽監督になったのが2003年4月。それから実に4年間をかけて、途中「英雄」など数曲のベートーヴェンを披露しながら着実に準備をしてきたわけだ。
今回使用された楽譜は従来のブライトコプフ版ではなく、1996年に出版されたジョナサン・デル・マー校訂によるベーレンライター版。ジンマン指揮の交響曲全集CDで初お披露目され話題となった。ラトル/ウィーン・フィルの演奏でも採用され現在では主流となってきている。対向配置、そしてベーレンライター版の使用。新しい時代の解釈を取り入れながらも大植さんはノン・ビブラート奏法は採用しない。そして時代を逆行するかのようにステージ狭しと居並ぶ大編成オーケストラ。つまり大植さんの師匠であるバーンスタイン、そして朝比奈、カラヤン、ベームといった往年の大指揮者たちによる演奏様式と、新しい時代の潮流との折衷案を示し「これが大フィルが演奏する21世紀のベートーヴェン像だ!」と高らかに宣言したのである。
大植さんの「英雄(エロイカ)」を聴くのはこれで3度目である。僕は2楽章のテンポ設定に前から疑問を感じていた。遅すぎるのだ。(ベートーヴェンが指定したメトロノーム速度を忠実に守る)古楽器オーケストラによる颯爽としたエロイカに慣れてしまうと大植さんの解釈はいかにも重過ぎる。まあ「葬送行進曲」なのだから、このように息も絶え絶えで足を引きずるような2楽章もありだとは想うが、あとは好みの問題であろう。
従来よりエロイカは壮大深刻な1,2楽章に比べ3,4楽章が明るく軽いことが音楽評論家の間で問題にされてきた。全体を通してのバランスが悪いのだ。テンポが速く軽やかな古楽器オーケストラが登場して、この問題は解消された。だから大植さんの解釈だと、どうしても2楽章と3楽章の落差に戸惑ってしまう。
しかし、初めて聴いた大植さんの一番と二番の交響曲は文句なしに良かった。小気味好いテンポ、生き生きとして瑞々しい音楽の表情。そこには将来の夢をいっぱい胸に秘めた青年ベートーヴェンの若々しい姿が鮮烈に描かれていた。整って切れ味のよいオーケストラのアンサンブルも秀逸で、時代錯誤とも言える大編成が些かも気にならなかった。大フィルは新音楽監督の下で着実にそのレベルを上げているのが実感できて嬉しい。今回の演奏を聴いて、モダン楽器によるベートーヴェンも捨てたもんじゃないなと想った。
ベートーヴェン・チクルスは年末の(朝比奈の命日に演奏される)第九にむけてまだまだ続く。これからも大いに期待したい。
また、7月6日にはオリジナル楽器原理主義者:鈴木秀美さんがオーケストラ・リベラ・クラシカを率いていずみホールでベートーヴェンの一番とエロイカを演奏する。彼らの初来阪公演となる。リベラ・クラシカは2001年に結成、2002年に高山と東京で旗揚げ公演をした古楽器オーケストラである。彼らはまずC.P.E.バッハとハイドンの初期交響曲を取り上げ、定期演奏会ごとに時代を下って、ハイドンの後期交響曲、モーツァルトへと進んできた。そして今回、満を持してベートーヴェンを世に問う。これはまだ東京の定期でも取り上げていないプログラムである。こちらもどのような演奏になるのか、固唾を呑んで見守りたい。
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コメント
細緻に亘たる解説を読ませて頂き,なるほどと思いました。
古楽器の演奏は殆ど聴くことがないのですが,一度聞いてみたいとも思えました。
それはともかく,
大フィルの今後の演奏にも更に期待したいですね。
TBありがとうございました。
投稿: ojiyan | 2007年6月 7日 (木) 18時51分
ojiyanさん、コメントありがとうございます。僕は大植英次という指揮者の桁外れな才能とその人柄に魅了され、大フィルの会員になりました。6月の定期、フォーレ「レクイエム」とブラームスの四番も楽しみです。
それからもし古楽器演奏に興味を持たれたのなら、今度のリベラ・クラシカによるいずみホールでのベートーベンは良い機会だと思います。チケットはまだ入手可能みたいですよ。
投稿: 雅哉 | 2007年6月 7日 (木) 22時17分
はじめまして。トラックバックありがとうございました。
大植さんのベートーヴェン、姿勢としては、サウンドとしては大フィルの音を生かし、音楽のスタイルとしてはピリオド系疾走演奏、という感じと見ました。ピアニストが、演奏会ごとに違うピアノにあたるけれども、結果として自分の音楽を奏でる、というに似た姿勢かもしれませんね。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: ぐすたふ | 2007年6月 7日 (木) 22時40分
ぐすたふさん、ご訪問頂きありがとうございます。
「サウンドとしては大フィルの音を生かし、音楽のスタイルとしてはピリオド系疾走演奏、という感じと見ました。」とのご意見、エロイカの2楽章を除いては全く同感です。これからも宜しくお願いします。
投稿: 雅哉 | 2007年6月 8日 (金) 00時32分