百人一首から万葉・古今・新古今和歌集へ〜古代日本人の深層心理を探る旅

新元号が〈令和〉に決まった。「万葉集」に書かれた、梅花の宴(序文)に由来する。出典が国書であるのは史上初だという。〈令和〉で「万葉集」に注目が集まるのは大変結構なことだ。今まで全て中国古典出典だったというのが却って不思議な気すらする。

僕が今回、「万葉集」「古今集」「新古今集」に集中的に取り組もうと決意した理由は、これらを読めば古代日本人の心、深層心理が分かるんじゃないだろうかと考えたからである。例えば「古今集」に収録されているのは1,111首。紀貫之ら撰者4人の歌が全体の2割以上を占めるなど沢山選ばれている歌人もいるが、それでも何百人もの〈思い〉〈感情〉が集積している。そこから何らかの集合的無意識が浮かび上がってくる可能性もあるのではないか?

本稿を執筆するに当たり、読んだ本を挙げておく。

  • 最果タヒ「千年後の百人一首」(リトル・モア)
  • 最果タヒ「百人一首という感情」(リトル・モア)
  • 上野誠「はじめて楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)
  • 「万葉集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)
  • 「新版 古今和歌集 現代語訳付き」(角川ソフィア文庫)
  • 「新古今和歌集 ビギナーズ・クラシック 日本の古典」(角川ソフィア文庫)

いずれも解説・現代語訳付きでわかり易い。お勧め!

さて、「万葉集」より前の、最初期の和歌の話から始めよう。〈難波津(なにわづ)の歌〉である。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

末次由紀による漫画「ちはやふる」でも描かれている通り、競技かるたにおいては競技開始時に〈難波津の歌〉を詠むことが通例となっている。百人一首には入っていない。大阪市はこの歌にちなみ〈咲くやこの花館〉や〈咲くやこの花賞〉を設立している。王仁の作とされ、「古今和歌集」の仮名序で、字を習う人が最初に書くものとして紹介されている。仁徳天皇が即位したことを祝ったものと言われており、4世紀末から5世紀初頭の作品と推定される。

和歌は5-7-5-7-7というたった31文字で表現しなければならないのに、そのうち〈咲くやこの花〉という7文字(全体の23%)を繰り返している。何という無駄!「繰り返しのリズムが心地よい」などという戯言は聞きたくない。ハッキリ言う。単純で稚拙である。では、ここから出発した和歌は後にどのような進化を遂げたのだろう?

扱われた素材を見てみよう。4,500首以上ある「万葉集」(759年以降に成立)でが詠まれたのは41首。全体の1%にも満たない。花の中で一番多く詠まれたのがで141首、続いての116首、第3位が橘・花橘の107首。は植物の中で第10位なのだという(群馬県立女子大・北川和秀教授の集計に基づく)。これが905年に成立した「古今和歌集」になると(春歌全133首のうち)が18首に対して、が70首と逆転し、圧倒した(ほぼ4倍)。つまり和歌で「花」といえば「桜」を指すという常識が成立したのは平安時代以降なのである。余談だが現代人が「桜」で真っ先に連想するのはソメイヨシノ(染井吉野)だが、これは江戸時代中期ー末期に園芸品として生み出された交配種である。和歌で詠まれる「桜」は吉野山などに咲く山桜と考えるべきだろう。

「万葉集」は全て漢文で書かれており、中国文化の影響が色濃い。だからが好まれた。そして仮名文字が登場する「古今和歌集」成立まで約150年が経過する間に日本人の美意識は確立され、歌に詠まれる対象(花)も独自の素材としてに移行した(838年を最後に遣唐使が廃止されたことも大きいだろう)。と同時に薫物(たきもの)、(こう)の文化が発展した。奈良時代には主に宗教儀式で用いられたが、平安時代になると貴族たちが家伝の秘法に従って練香を作り、これを披露し合う〈薫物合わせ〉を愉しむようになった。は「古今集」のみならず「源氏物語」でも重要な役割を果たすことになる。また同じ自然現象を〈春ー霞〉〈秋ー霧〉と明確に区別するようになったのも「古今集」からで、「万葉集」では混用されている。ここにも繊細な美意識の萌芽が認められる。

なおは8世紀(飛鳥〜奈良時代)に遣唐使によって中国から持ち込まれた外来種である。「古事記」や「日本書紀」には一切、に関する記述がない。一方、山桜は古来からある自生種である。

奈良時代→平安時代の文化の変遷は1868年の明治維新から、約150年を経た現代までの変化に非常に似た状況であると言えよう。江戸時代の鎖国を経て明治時代は一気に西洋文化が日本に流入した。「欧米諸国に追いつけ追い越せ!」とばかり〈富国強兵〉が叫ばれた。それは〈猿真似の時代〉でもあった。しかし第二次世界大戦後、手塚治虫の出現とともに漫画文化が栄え、スタジオジブリの宮崎駿らが牽引した日本のアニメーションが今や世界を席巻した。プレイステーションやNintendo Switch、ポケットモンスターなどゲームソフトでも他国の追随を許さない。歴史は繰り返すのである。

和歌の話に戻ろう。

「万葉集」の特徴は素朴であること。例えば次の歌だ。

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

身も蓋もない言い方をすれば「見たままやん!」とツッコミを入れたくもなる。何のひねりもない。後者の〈にほふ〉は嗅覚じゃないかという反論があるやも知れぬが、古語でこの言葉は〈美しく咲く/美しく映える/美しさがあふれている〉という意味もある。

〈掛詞(かけことば)〉は「万葉集」にごく少数しか認めない。これが盛んになったのは「古今和歌集」から。〈掛詞〉はダブル・ミーニング(double meaning)であり、僕は「これってダジャレと同じじゃね?」と思った。古代日本人も現代の我々同様、ダジャレが大好きだったのだ。何だか親しみが湧いた。

「万葉集」から「古今和歌集」に移行すると、仮構性が強くなる。想像上の美の世界、ヴァーチャル・リアリティだ。「百人一首」にも選ばれた次の歌が代表例だろう。

心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

「初霜」と「菊」がどちらも真っ白なので、折ろうとしても見分けがつかないというのだ。そんなことってあり得る!?同じ作者(凡河内躬恒)の歌で、月明かりの白さと梅の白さが紛れて見えない(だから匂いで梅の花のある場所を察知するしかない)というのもある。

月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞしるべかりける

「んなあほな!」ツッコミどころ満載である。明治時代になって正岡子規が「歌よみに与ふる書」で「古今集」を徹底批判した気持ちが分からなくもない(「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と子規は記している)。

確かに花も実もある絵空事ではある。しかし一方で、僕はフィクションとしての面白さ、嘘から出たまこともあると思うのだ。凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌は、例えばフランス印象派のドビュッシーが作曲したピアノ曲「月の光」や歌劇「ペレアスとメリザンド」を想起させる。自然ではないが、人間が構築した完全なる美の世界がここにある。

〈本歌取り〉が盛んになるのは鎌倉時代初期、1205年に成立した「新古今和歌集」の時代になってからである。「古今和歌集」からさらに300年が経過している(「万葉集」から約450年)。「新古今」まで行くと、超絶技巧というか、余りにも人工的で僕にはToo much !と感じられる。貴族文化が成熟し、熟れ過ぎて腐りかけた状態。正にデカダンスである。「新古今」を読みながら僕が連想したのは、形式が肥大化し瓦解寸前のグスタフ・マーラーの交響曲や、ルキノ・ヴィスコンティ監督(イタリア貴族の末裔)の映画「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」「家族の肖像」などである。〈本歌取り〉は元の歌を知らないと意味を成さない。つまり高い教養が問われる。また当時は歌会が盛んで「お題」を出されて詠まれた歌が多く、その多くが実体験に基づかない男が女の気持になって詠んだものもある。何だそれ!?ここまで来ると単なるお遊び、ゲームだ。だから武士の台頭とともに和歌や貴族文化が滅びるのは必然だったという気が僕にはするのである。朴訥な「万葉集」と爛熟した「新古今」、その中間の程よい匙加減が「古今集」というのが率直な印象である。

三島由紀夫は「日本文学小史」の中で次のように述べている。

 われわれの文学史は、古今和歌集にいたつて、日本語といふものの完熟を成就した。文化の時計はそのやうにして、 あきらかな亭午(ていご:真昼)を斥す(=指す)のだ。ここにあるのは、すべて白昼、未熟も頽廃(たいはい)も知らぬ完全な均衡の勝利である。 日本語といふ悍馬(かんば:あばれうま)は制せられて、だく足も並足も思ひのままの、自在で優美な馬になつた。調教されつくしたものの美しさが、なほ力としての美しさを内包してゐるとき、それをわれわれは本当の意味の古典美と呼ぶことができる。 制御された力は芸術においては実に稀にしか見られない。

ここで三島の言う〈未熟〉=「万葉集」であり、〈頽廃〉=「新古今和歌集」であることは論を俟たない。僕は三島の意見に全面的に賛成である。

「万葉集」では鳥の中でホトトギスが最も多く詠まれた。一説では156首、二番目に多い雁が63 首とされる(ホトトギスが153首、雁が67首とする説もある)。ただここで注意すべきは「万葉集」の時代、ホトトギスとカッコウは混同されていた可能性があるのだ。少なくとも平安時代において、カッコウは文学に全く登場しない。現代において「郭公」という漢字はホトトギスとカッコウという二つの読み(意味)があるが、古典ではホトトギスという読みしかなかった。実は生物学上も両者はカッコウ目カッコウ科の鳥に分類されており、案外近い存在なのである。ホトトギスの声は田植えを始める時期を知らせるということで「時鳥」という異名も与えられ、冥界を往来するというイメージまで付与された。

中国の故事を紐解くと長江流域に蜀という傾いた国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して君主になった。杜宇が死ぬとその霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため飛んで来て鋭く鳴くようになったという。故に「杜宇」はホトトギスの異名となった。

ホトトギスとカッコウには托卵(ホトトギスは鶯の巣に卵を生む)という共通する生態があり、その他ホトトギスの習性として、夜に鳴くこと、雨の日にも鳴くこと、一ヶ所に留まらず飛び回りながら鳴くこと、そのため姿が見えないことなどが挙げられる。またホトトギスの口中は朱色なので、〈鳴いて血を吐く〉とも言われた。結核を病み、喀血した正岡子規の雅号「子規」もホトトギスの異名であり、「死期」を連想させる。

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おそらく冥界との繋りは、こうした生態に由来する発想なのだろう。常にこの世にいるわけではないので、子育ても他の鳥に委託するわけだ(ホトトギスの托卵は万葉人も知っていた)。

また鶯は谷の古巣で春を待つものとされた。

次に季節を見てみよう。「古今和歌集」で詠まれた内訳は以下の通り。

春:134首、夏:34首、秋:145首、冬:29首

つまり春≒秋、は夏≒冬と比較して約4〜5倍多く詠まれていることが判る。

なぜ秋が最も多いのか?秋は枯れ葉が舞い落ち、〈(夏)〉から〈(冬)〉への〈移行期〉〈境界域〉に立つ季節。だから「寂しい」という気持ちが掻き立てられ、「もののあはれ」にしみじみ感じ入る。例えば冬、雪が降り積もったスキー場やクリスマス商戦で賑わう12月の街角で「寂しさ」は感じないでしょう?既ににどっぷりと〈死の世界〉に足を踏み入れているから完了した状況であって、変化しつつある運動性を欠くのだ。故に心は動かない。逆に春は〈死〉から〈生〉への移行期なのでやはり「もののあはれ」がある。さらに散りゆくの花びらが〈生〉から〈死〉へ移行するメタファーとなる。

詠まれた時刻を見ると、真昼よりも夕刻(黄昏=誰そ彼/アニメ映画「君の名は。」における〈かたわれ時〉)・夜・明方が圧倒的に多い。夕刻や明方は昼(動)↔夜(静)の〈移行期〉〈境界域〉であり、そこに「もののあはれ」「幽玄」が潜む。明方(しののめ)は通い婚だった当時において、男女が一夜を共にした翌朝の別離=〈後朝(きぬぎぬ)の別れ〉を意味しており、より一層切なさを増す。また夜は月の満ち欠けが「無常(生滅変転して片時も同じ状態に留まらないこと)」「哀愁」に結びつく。

最後に。「拾遺和歌集」に収録された、紀貫之の辞世の歌とされるものを見てみよう。

手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ

下の句は、「はかない人生/世の中であった」と解釈されることが多いようだが、僕は寧ろ「手に取ることが出来ない不確かな、夢のような人生であった」と積極的・肯定的に受け止めたい。それはアボリジニ(オーストラリア先住民)の概念〈ドリームタイム〉に繋がってゆく。 

紀貫之には「古今和歌集」に載った、次のような歌もなる。
            あひしれりける人の、身まかりにける時によめる
夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな
(この世は、夢とこそ言うべきであったのだ。私を取り巻く世界には確かな現実があるものだと思っていたのだがなぁ)
夢の時ドリームタイム)とこの世の〈境界域〉に、和歌は息づいている。

今回の体験を通して、僕は次に向かうべきターゲットを絞った。紫式部「源氏物語」である。そして遂に大伽藍に足を踏み入れたところである(角田光代 訳)。いずれ超大作「源氏物語」を言祝(ことほ)ぐ日も来よう。乞うご期待。

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新海誠監督の最新作「天気の子」とミュージカル「RENT」

新海誠監督の新作アニメーション映画「天気の子」公式サイトでは予告編を見ることが出来る→こちらから"TRAILER"をクリック。

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いや〜もう愉しみで仕方がない。待ちきれないから公開日の7月19日(金)は有給休暇を取得した。朝イチから観に行くぞ!

この予報から既にネット上ではロケハンの場所が特定され、聖地巡礼が始まっている。屋上に鳥居があるビルのモデルは代々木会館(実際の会館には屋外の階段と鳥居はない)で、鳥居そのものは朝日稲荷神社(別ビル)、そして主人公の少年が乗っている船は東京↔伊豆諸島を結ぶ「さるびあ丸」といった具合。「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」「君の名は。」と同様にNTTドコモ代々木ビルがまたまた登場するのも嬉しい。最早、新海アニメのトレードマークだからね。あと「アメ」と名付けられた猫が可愛い。

音楽は「君の名は。」に引き続きRADWIMPSが担当。僕は予報で流れる主題歌「愛にできることはまだあるかい」を聴いた瞬間、びっくりした。出だしのコード進行(4つの和音)がピューリッツァー賞やトニー賞を総なめにしたブロードウェイ・ミュージカル「RENT(レント)」の名曲"Seasons of Love"(作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン)と全く同じなのである。試聴はこちら。これは単なる偶然(無意識)なのか、監督からのリクエストなのか?興味は尽きない。

「天気の子」は世界中が注目している映画なので、後に音楽が"Seasons of Love"に類似していることが話題になるかも知れない。

気が早い話だが、僕は「天気の子」がきっと米アカデミー賞の長編アニメーション映画賞を受賞してくれるだろうと大いに期待している。細田守監督「未来のミライ」のノミネートに続け!!新海監督のデビュー作「ほしのこえ」(2002)から、彼の才能を信じて二人三脚で歩んできたコミックス・ウェーブ・フィルム代表 川口典孝氏も「(新海誠が)オスカーとる日も来ると思ってますから」と断言している(こちらの記事より引用)。

「君の名は。」英語版ではスマートフォンに入力された文字(日本語)を英語に置き換えることが出来なかったが、今度は万全の体制で臨んでいる筈。ディズニー/ピクサーに負けるな!ここは川村元気プロデューサーの腕の見せ所だ。

 

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平成最後の吉野の桜

4月13日(土)奈良県の吉野山を訪ねた。十数年前に関西に引っ越してきてから毎年春に吉野に行くことが我が家の恒例となっているが、昨年は日程が合わず二年ぶりの再会となった。見事に満開であった。

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桜といえばまず現代人はソメイヨシノ(染井吉野)を思い浮かべるが、あれは江戸時代に園芸用に品種改良されたクローン植物であり、吉野とも一切関係がない(お江戸の植木屋が憧れからつけた名称である)。和歌に登場する「桜」は山桜を指す。

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「古今和歌集」から桜が詠まれた歌を紹介しよう。

桜花咲きにけらしなあしひきの山のかいより見ゆる白雲  貫之
(桜がどうやら咲いたらしいよ。山の谷間から見える白雲は)

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み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける  友則
(吉野の山辺に咲く桜は雪ではないかとつい見違えてしまった)

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ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ  友則
(陽の光がおだやかな春の日に、どうして花はあわただしく散るのだろう)

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吉野を愛した西行の歌に、

願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃
(願うことなら、旧暦2月15日-満月の頃、満開の桜の下で死のう)

とある。旧暦2月15日は釈迦入滅の日で、現在の4月初旬頃と考えられる。

武士を捨てた西行は法師となり、吉野の奥千本に今もある西行庵で3年間侘び住まいをしたと伝わる。

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西行にはまた、次のような歌もある。

吉野山昨年(こぞ)の枝折(しをり)の道かへてまだ見ぬ方の花をたづねむ

しをり:木の枝を折って道しるべとすること。

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さらに、

世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ
(この世の中について考えると、全ては散る花のように無常で儚い。ならばさて、我が身を一体どこへ向かわせたらよいものか)

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吉野の桜は見る人それぞれに死生観に立ち返らせ、物思いに耽らせる。そんな春の日の、穏やかなひとときであった。

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アカデミー賞(メイクアップ&ヘアスタイリング部門)受賞!映画「バイス」

評価:A

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映画公式サイトはこちら。タイトル"Vice"は〈副大統領(バイス・プレジデント)〉と、〈悪徳〉という意味のdouble meaningである。

9・11同時多発テロから対イラク戦争の時代にアメリカの副大統領を務めたディック・チェイニーが主人公。勿論、ジョージ・W・ブッシュ大統領やラムズフェルド国防長官も登場、ラムズフェルドを演じたスティーヴ・カレルが、やはり現在日本で公開中の「ビューティフル・ボーイ」のお父さん役とは全く雰囲気が違って腹黒く、実に素晴らしい。しかしやはり本作の白眉はチェイニーを演じたクリスチャン・ベールだろう。メイクアップの効果が絶大で、全く彼だとは識別出来ない。クリストファー・ノーランと組んだ「バットマン」三部作は勿論のこと、スピルバーグが監督した「太陽の帝国」(1987)の頃から知っているんだけれどな。当時彼は13歳。もう30年以上の付き合いだぜ!?

監督は「マネー・ショート 華麗なる大逆転」のアダム・マッケイ。非常に個性的でユニークな作風だ。強いて挙げるなら伊丹十三のスタイル(「お葬式」「マルサの女」)に近いかも?面白おかしく滑稽な人間模様を描きながら、世の中の仕組みについてわかり易く解説してくれる側面もあるという。基本的に役者によるドラマが進行していくのだが、途中でドキュメンタリー映像や謎の第三者(最後に誰か判明する)によるナレーション・解説が挿入されたり、突如夫婦の会話がシェイクスピア劇(「マクベス」風)として演じられたり。多彩な手法が用いられる、手練(てだれ)の技。天晴なり!

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ビューティフル・ボーイ

評価:B

Beauty

公式サイトはこちら

君の名前で僕を呼んで 」でアカデミー主演男優賞にノミネートされたティモシー・シャラメくんはギリシャ彫刻を彷彿とさせる美青年である。僕は彼を見ているとイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が愛した男優たちを思い出す(「若者のすべて」「山猫」のアラン・ドロン、「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセン、「ルートヴィヒ 神々の黄昏」「家族の肖像」のヘルムート・バーガー)。因みにヴィスコンティはバイセクシャルだった。

だから正にシャラメくんは「ビューティフル・ボーイ」そのものであり、父親役のスティーヴ・カレルも名演技である。

原作はジャーナリストであるデヴィッド・シェフが書いた実話であり、ヤク中になった息子ニックを父親が必死で更生させようと奮闘する物語である。

いや、リアルだし秀作だとは思う。ただ、納得いかなかったのは結局〈失敗談〉で終わっちゃうんだよね。最後テロップで「その後ニック・シェフは支援者たちの並々ならぬ努力のおかげで〜年間、薬物依存からの離脱に成功している」と出る。そこが知りたかったんだよ!!この映画ではどのようなサポートが有効だったのかということが全く判らない。肩透かしを食らった。

なお「ビューティフル・ボーイ」はジョン・レノンが息子ショーンに対して歌った楽曲のタイトルで、劇中でも流れる。親バカの脳天気な歌で微笑ましい。アナキスト(無政府主義者)剥き出しで下劣な「イマジン」なんかより、僕はこっちの方がよっぽど好き。

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ミュージカル「ロミオ & ジュリエット」2019(+オール・タイム・ベストキャスト考)

梅田芸術劇場でフレンチ・ミュージカル「ロミオ & ジュリエット」を2回鑑賞した。

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今までの記録は下記。

つまり、今年を含めると様々なキャスト・演出(宝塚版/東宝・梅芸版/フランス版)で計13回鑑賞したことになる。

4月2日(火)のキャストは、

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4月10日(水)のキャストは、

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その他にキャピュレット夫人:春野寿美礼、乳母:シルビア・グラブ、ロレンス神父:岸祐二、ヴェローナ大公:石井一孝、キャピュレット卿:岡幸二郎といった面々。

NHK朝ドラ「わろてんか」でヒロインを演じた葵わかなは舞台初挑戦。身長158cmでロミオ役の古川雄大が182cmなので頭一つ低い。しかしふたりの頭の大きさはほぼ同じなので、ずっこけた!容姿も地味で歌唱や演技は精彩を欠く。がっかりした。こんなんだったら、いくちゃん(生田絵梨花)のチケットを確保すべきだった。いくちゃんの演技力はいまひとつだけれど、歌は音程がきっちり正確で1Hz(ヘルツ)もずれないし、可憐だし、魅力的なジュリエットだったのに……。観劇中ず〜っと後悔し続けていた。一方、木下晴香のジュリエットはパーフェクト。彼女はディズニーの実写映画「アラジン」(2019年6月7日 公開予定) 吹替版のジャスミン役に抜擢された。つまりアカデミー歌曲賞を受賞した名曲"A Whole New World"を歌う。

2.5次元ミュージカル「テニスの王子様」出身の古川雄大は長身イケメンで王子様役がピッタリ。本年ロミオ役が評価され、菊田一夫演劇賞を受賞した。ただし歌唱力は大野拓朗の方が上かな?

マーキューシオは黒羽麻璃央(2.5次元ミュージカル出身)の方が「すぐキレる」「頭おかしい」感じが出ていて良かった。平間壮一は「普通の人」という印象。

ティボルトは歌唱力・演技力ともに渡辺大輔に軍配を上げる。広瀬友祐はイマイチ(イケメンだとは思うが)。

ベンヴォーリオ役の三浦涼介は「友達思いの優男」という雰囲気ですごく良かった。「死」のダンサー、宮尾俊太郎(Kバレエ カンパニー)も切れがあって文句なし!

総じて極めて質の高いカンパニーだった。20年くらい前の東宝ミュージカルと言えば、劇団四季出身者(男優)と宝塚歌劇出身者(オバチャン)ばっかりという感じだったけれど、現在は現役アイドル(乃木坂46のいくちゃん)とか2.5次元出身(古川、黒羽ら)、元仮面ライダー(浦井健治、三浦ら)など、どんどん若返り、顔面偏差値も高くなった(しかも歌える)。大変喜ばしいことである。

最後にオール・タイム・ベストキャストを選んでおこう。

  • ロミオ:山崎育三郎明日海りお
  • ジュリエット:木下晴香愛希れいか (ワースト・ワンは葵わかな
  • ティボルト:城田優
  • ベンヴォーリオ:三浦涼介
  • マキューシオ:黒羽麻璃央
  • 「死」のダンサー:宮尾俊太郎
  • キャピュレット夫人:春野寿美礼
  • 乳母:シルビア・グラブ
  • ロレンス神父:岸祐二
  • ヴェローナ大公:石井一孝
  • キャピュレット卿:岡幸二郎

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ワンコイン・プレ・レクチャー〈これが『オン・ザ・タウン』だ!〉 by 佐渡裕

4月4日(木)兵庫県立芸術文化センターへ。レナード・バーンスタインのミュージカル「オン・ザ・タウン」上演を前にしたプレ・レクチャーを聴講する。講師は兵庫芸文の芸術監督でレニーから薫陶を受けた佐渡裕。お代は500円ポッキリ。

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佐渡がレニーに出会ったのは1985年。大阪の旧フェスティバルホールでバーンスタイン/イスラエル・フィルによるマーラー:交響曲第9番の伝説的名演を聴いたのだそう。「自由で創造的だった」と。

87年にはタングルウッドで直接指導を受けた。その時の貴重なビデオ映像も見せてくれた。この時英語が喋れず、劣等感を感じていた佐渡に対してレニーは「君は能を知っているか?」と語りかけてきた。お能のマスクの数の話や「俺は3時間じっくり鑑賞したけれど、普通の西洋人だったら耐えられないはずだ」と言い、「例えば君と握手するとしよう。能だとこんな風にゆっくりした動きになる(と実演)。ここに高いエネルギーが集積する。マーラーのアダージョも同じように振りなさい」

佐渡曰く、レニーは「破天荒な人だった」と。ここで清水華澄(メゾソプラノ)、白石准(ピアノ)の演奏で1942年に作曲された歌曲『私は音楽が嫌い』(I Hate Music)が披露された。10歳の少女が作詞したものだそうで、ユーモラスでチャーミングな楽曲。

バーンスタインの父はウクライナ系のユダヤ人移民で理髪店を営んでいた。両親は音楽と無関係の暮らしをしており、10歳の時に叔母の家でピアノに出会った。父は当然、音楽家の道に進むことに反対した。

1943年、急病で降板したブルーノ・ワルターの代わりにニューヨーク・フィルの指揮台に立ち(ラジオでも放送された)、一大センセーションを巻き起こした。それまでアメリカの主要交響楽団のシェフは皆ヨーロッパ出身者で(クーセヴィツキー・ロジンスキ・トスカニーニ・セル・ストコフスキー・オーマンディ・ライナーなど)、アメリカ人はヨーロッパに対する強いコンプレックスを持っていた。そこに初めて自国生まれのスーパースターが誕生したのである。

佐渡が師に「今まであなたが指揮したコンサートのうち、一番思い出深いのはどれですか?」と訊ねたことがあった。ウィーン・フィルとのベートーヴェン・チクルスや、1979年10月ベルリン・フィルとの唯一の共演となったマーラーの9番、89年ベルリンの壁崩壊記念コンサート(東西ドイツ・フランス・イギリス・アメリカ・ソ連の6つのオーケストラに所属する混成メンバー)でのベートーヴェン第九などを佐渡は予想していたが、答えは意外にも米CBSでテレビ中継された〈ヤング・ピープルズ・コンサート〉だった。その時点で佐渡は〈ヤング・ピープルズ・コンサート〉を見たことがなかった。現在ではDVDとBlu-rayが発売されており、つい先日我が家にもAmazon.co.jpからVol.1が届いて小学校一年生の息子と一緒に視聴しているところである(内容はため息が出るくらい素晴らしい!ただし日本語字幕が無茶苦茶。例えば「オーケストレーション」が「指揮」と訳されている。だから寧ろ英語字幕を出して見ている)。間もなくVol.2も市場に出る。

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結局その後日本のテレビで始まった音楽番組「オーケストラがやってきた」(山本直純司会)や「題名のない音楽会」(黛敏郎司会)も、〈ヤング・ピープルズ・コンサート〉をお手本にしている。佐渡が「題名のない音楽会」の司会者を引き継いだのも、恩師への深い思いがあったからである。また佐渡時代はテーマ曲としてレニーのミュージカル『キャンディード』序曲が使用された(現在の司会者は元劇団四季の石丸幹二)。

また1985年「広島平和コンサート」で自作の交響曲 第3番『カディッシュ』を振った時、原爆資料館を見たときの衝撃についてリハーサルで若い演奏家たちに熱く語るレニーの姿を捉えた映像も見せてくれた。

『ウエストサイド物語』について。冒頭口笛で奏でられる〈ソードーファ#〉のモティーフ。〈ファ#〉が「居心地が悪い」と。そこに若者たちの「抑えられないエネルギー」があり、これは♪『マリア』や♪『クール』などのナンバーにも登場する。

また『オン・ザ・タウン』の聴きどころについて、佐渡は「Swing」だと。

そして再び清水と白石が現れ、『オン・ザ・タウン』から♪『私は料理も上手よ』(I Can Cook too)が歌われて、お開きとなった。

夏の上演(7月12日-21日)がとても愉しみである。

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ブラック・クランズマン

評価:A-  映画公式サイトはこちら

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アフリカ系アメリカ人であるスパイク・リー監督は常に怒りに満ちている。代表作「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989)だって、デンゼル・ワシントン主演「マルコムX」(1992)だってそう。そしてアカデミー賞で作品賞・監督賞・助演男優賞(アダム・ドライバー)・編集賞・作曲賞など6部門にノミネートされ、脚色賞で受賞した「ブラック・クランズマン」もアメリカの白人(WASP)に対する怒りと憎しみ、呪詛がこれでもか!と詰め込まれ、爆発寸前である。ただ初期の作品と異なるのはそこにユーモアが加味されたこと。自己を客観視する余裕ができ、「俺って面倒なやつだよね」と自嘲するかのような、醒めた眼差しがそこにはあった。

しかし最後、現代のアメリカを映し出すドキュメンタリー映像となり、トランプ大統領まで出すのはやり過ぎ。Too much !マイケル・ムーア監督のドキュメンタリーのような〈プロパガンダ映画〉に成り下がってしまった。映画で政治を語るべきではない。まぁそのバランスを欠いた〈歪さ〉〈不格好さ〉〈なりふり構わないところ〉がスパイク・リーの魅力の一つでもあるんだけどね。それこそが〈作家性〉であり、「グリーンブック」に欠落した部分だ。

 

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アカデミー賞を30年後退させた映画「グリーンブック」!

評価:A-

Green

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「グリーンブック」の作品賞受賞に「ブラック・クランズマン」のスパイク・リー監督が激怒し、アカデミー賞授賞式の会場から退席しようとしたのも宜なるかな。やはり作品賞を受賞した1989年の映画「ドライビング Miss デイジー」を彷彿とさせる仕様になっている。Netflix憎さのあまり、アカデミー賞は30年後退した。

非常に良く出来た、well-made movieではある。しかし〈とりたてて欠点がないところが欠点〉とも言える。つまり作家性・個性がない。「ドライビング Miss デイジー」は黒人運転手と白人の老婦人との友情を描く作品だが、「グリーンブック」はその白人と黒人の役回りを変換しただけ。そこにロードムービーのエッセンスを加味しているが、それも「手錠のまゝの脱獄」(1958)や「ペーパー・ムーン」(1973)が描いた世界の範疇から一歩も出るものではない。さらに最後は〈クリスマスの奇跡〉みたいな雰囲気で終わるのだが、まるでフランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生!」(1946)そっくりなのである。つまりオーソドックス、old-fashionedなのだ。こんな代物にオスカー与えちゃあかんわ。脚本家と監督が白人というのも何だかなぁ。胡散臭いんよ。

Drivingmissdaisy
「ドライビング Miss デイジー」より

2年前の「ムーンライト」に続いて2回目のアカデミー助演男優賞を受賞したマハーシャラ・アリ(アフリカ系アメリカ人)よりも、運転主役ヴィゴ・モーテンセンの方が良かった。「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンと同一人物だとは到底思えない。

あと本作はジャズピアニストであるドン・シャーリーの実話が元になっているが、映画を観ながら僕が想い出したのはナット・キング・コールのことだった。彼も「ナット・キング・コール・トリオ」を結成していたし、劇中にコールが南部で受けた差別について言及され、最後には彼が歌う"The Christmas Song"が流れるといった具合。因みにコールの歌う"The Christmas Song"はイルミネーションのアニメ「グリンチ」のラストシーンにも登場した。

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桂雀々 立川志らく 東西会

4月7日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。

Jack

  • 雀々・志らく:オープニングトーク
  • 桂優々:大安売り
  • 立川志らく:親子酒
     (仲入り)
  • 桂雀々:代書
  • 桂雀々:花ねじ(隣の桜)

立川談志の弟子、志の輔と談春の落語は生で聴いたとこがあるが、志らくは一度もなかったので今回の会に足を運んだ。結論から述べると大したことはなかった。時事ネタをいろいろ投入して来るのだが、正直余り面白くない。冴えが感じられない。もうええわ。

雀々は相変わらず師匠譲りの疾走感のある語り口で耳に心地よい。京都から山梨県の山中湖まで台湾人観光客のバスツアーに添乗し、通訳を間に挟んで落語をしたというエピソードが最高に可笑しかった。また「花ねじ」のマクラでは師匠・枝雀が創作したSR(ショート落語)を幾つか披露(「万年筆」「ソケット」「犬」「定期券」)。「花ねじ」は途中ではめもの(お囃子)が入り賑やかで、花見シーズンにピッタリだった。

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