2021年3月 6日 (土)

差別する心理〜欧米の植民地支配からBlack Lives Matter(BLM)まで

◯自尊心(pride):『自尊心』とは自分自身を尊重する気持ちであり、『自己肯定感』と言い換えることも出来る。「自分には何かしらの価値がある」という幻想であり、生きる意味を見出すこと。

人は自尊心がなければ生きていけない。「自分には何の価値もない」「生きる意味がない」と感じると自身を大切に出来ず、リストカットなど自傷行為に走ったり、最終的には自殺に至る。その典型が〈境界性パーソナリティ障害〉や〈うつ病〉である。

自尊心は幼少期に育まれる。親から愛され、「あなたは私の宝物」と大切にされ、「よくできました」「賢いね」と褒められたり、存在を肯定されることが大切。子供の頃に家族離散や育児放棄、児童虐待などを経験すると〈愛着障害〉を生じ、自尊心が損なわれる。

◯差別(discrimination):『自尊心』を持つ手っ取り早い方法は他者との比較である。社会は他者との関係性で成り立っている。「私はあいつよりも賢い(学歴自慢)」「あいつより容姿端麗だ」「ピアノ・コンクールで優勝した(特技自慢)」「財産が沢山ある」「都会に住んでいる」「家柄が良い(出自自慢)」「有名人と顔見知りだ(人脈自慢)」「子供が東大に合格した(家族自慢)」といったことで自信が持てる。後者3つは「人の褌(ふんどし)で相撲を取る」ことに過ぎないのだが……。これらの行為は他者との比較だから、差別意識が生まれる。「無学な奴め」「ブス」「この負け犬(loser)が!」「貧乏人」「田舎者」。世の中には悪口しか言わない人がいる。彼らは他者を貶めることで、相対的に『自尊心』を保っている。自分自身には何も誇れるものがないから。

◯身分制度:インドなどヒンドゥー教にはカーストという身分制度がある。日本も江戸時代には武士・平人(ひらびと)・賤民という三つの身分層で成り立っていた(昔、小学校で習った『士農工商』という制度があったという説は現在では否定されている)。百姓と町人が平人、穢多(えた)と非人(ひにん)が『人外』として賤民に相当した。ちなみに人口全体に占める割合は百姓が85%、武士7%、町人5%、穢多・非人が1.5%程度だった(残る1.5%は公家・神官・僧侶)。身分の差も『自尊心』の拠り所となる。

◯植民地支配:ヨーロッパ諸国が嘗て行った植民地支配やアメリカ合衆国の奴隷制度とは、身も蓋のない言い方をすれば他国の資源の搾取である。資源とは土地・鉱物・人材などを指す。その意味で泥棒・バイキング・海賊と何ら変わらない。しかし自分たちが単なる泥棒や海賊だとは思いたくない。それでは『自尊心』が保てない。そこで彼らが心理的に実行したのが現地人の差別である。「アフリカの黒人は家畜と何ら変わらない。だから豚や牛と同等に扱っても構わない」「インディアン(アメリカ先住民)には文化と呼べるものが何もない。彼らは資源を有効活用出来ない。宝の持ち腐れだ。だから私達が奪っても問題ない。野蛮人は殺せ!」

これはナチス・ドイツがユダヤ人を劣等民族と決めつけ虐殺し、彼らの富を奪ったことに似ている。銀行を経営するなど大財閥として栄華を誇ったロスチャイルド家も追放され、全財産は没収された。

日本が東南アジアの国々を植民地にしていたとき、学校を建てて現地の子供達を熱心に教育しようとした。しかし欧米人は決して、アフリカ人やアメリカ先住民を教育しようという発想がなかった。家畜に教育は不要だからである。

◯黒=邪悪?:欧米人のウエディングドレスは白と決まっている。白は純粋無垢の象徴であり、汚れのない色。日本でも花嫁は白無垢だ。人は二項対立で思考するので、対象的な黒色は邪悪とみなされた。喪服は欧米も日本も黒と決まっている。

日本語でも「無罪か有罪か」のことを「白か黒か」と言うし、「腹黒い」という表現もある。英語では邪悪なことを"black-hearted"という。またblackの縁語であるdarknessは「暗闇」「心の闇」「腹黒さ」「邪悪」を意味する。闇夜は視界が効かないので古代人は幽霊とか怪物を空想した。だから白人が黒人に対してそういう悪いイメージを無意識に付与するのもわからなくはない。

また旧約・新約聖書において、神は白のイメージである。

Resurrected_christ

逆に悪魔は黒。

Blackdevil

旧約聖書によると神は自分の姿を模して人を創った。つまり人は神の似姿なのだ。ということは、聖書を書いたのは古代イスラエル人・ユダヤ人であり、神は白人ということになる。だから二項対立として黒人=悪魔という先入観を彼らが持っていたとしても何ら不思議はない。実際、ローマ・カトリック教会に反発するサタン崇拝者の儀式を黒ミサ(black mass)と呼ぶ。

ワーグナーのオペラ『ローエングリン』は白鳥が純潔とか無垢の象徴として登場する。一方、チャイコフスキーのバレエ『白鳥の湖』では邪悪の化身として黒鳥(black swan)が登場する。

◯暗黒大陸:嘗てヨーロッパ人はアフリカのことを『暗黒大陸』と呼んだ。黒人が住んでいるからそう呼称されたと誤解している人がいるが、それは間違い。未開の地であり、鬼が出るか蛇が出るか予測がつかないというニュアンスである。アフリカの地理に関して無知であるという『暗黒』だけではなく、 野蛮なイメージが付加されていた。

ヨーロッパと比較するとアフリカには歴史的建築物はないし、遺跡もない。「ここには文化がない」と彼らは考えた。またエジプトなど一部の中東〜北アフリカを除き、大陸に住む大半の部族は文字を持っていなかった。「読み書きの出来ない者は人間と呼ぶに値しない。だから家畜として扱っても構わない」という意識が白人たちにあったことは間違いない。

やはり文字を持たなかったアメリカ先住民や、オーストラリア先住民アボリジニも同等の扱いを受けた。アボリジニは奴隷にされなかったが、オーストラリアではスポーツハンティングとして日常的に『人間狩り』が行われた。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている(詳細はこちら)。これによりアボリジニ人口は90%以上減少した。

文字文化を持っているかどうかが白人の差別意識に強く関与していたことは、例えばインド人の扱いと比較してみればよく理解できるだろう。インドはイギリスの植民地であったが、アフリカ人やアボリジニ、アメリカ先住民ほど酷い仕打ちは受けなかった。彼らは奴隷にもされず、『人間狩り』もなかった。インドには『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』といった叙事詩をはじめ立派な文学があり、タージマハルなどの世界遺産もある。それらの文化に対して欧米人はそれなりの敬意を払ったし、彼らの差別意識が肌の色だけで決めつけていなかったことが伺えるだろう。

◯優生学:命に優劣をつけ選別する『優生思想』はダーウィンが1859年に著した『種の起源』に影響を受けて、19世紀末に生まれた。人類は文明的な階層によって区分することができると考えられ、北ヨーロッパが文明的に最も優れていて、アボリジニは劣っていると見做された。アングロ・サクソンとスカンジナビア人が最高順位に置かれ、有色人種は下位に格付けされた。

アメリカでは1924年に移民法が成立し、白人と有色人種の結婚を禁ずる法律が正当化された。優生学の目的は「知的に優秀な人間を創造すること」「社会的な人的資源を保護すること」にあった。アメリカでは20世紀まで、「公共の利益のために社会の不適格者を断種する」という優生思想にもとづき、強制不妊手術が32の州で合法的におこなわれていた。被害にあったのは主にアフリカ系アメリカ人たち。手術は本人の合意も子供が産めなくなるという説明もなく行われた。詳しくはこちらの記事をご覧あれ。

ナチス・ドイツも『優生思想』を根拠に精神障害者を約7万人ガス室送りにして殺戮した。これが『T4計画』である。ホロコーストを正当化する理屈も根っこは同じである。

◯Black Lives Matterと恐怖心(terror)

2020年5月25日、アメリカで黒人のジョージ・フロイド氏が白人警察官に首を押さえつけられ、「息ができない(I can't breathe.)」と訴えたにもかかわらず力が緩められることなく、その後死亡する事件が発生した。関与した4人の警官は翌26日に懲戒免職処分となり、フロイド氏を押さえつけていた元警官は29日に逮捕・起訴された。この事件が切っ掛けで暴動が起こり、世界的な抗議運動に発展していった。ブラック・ライヴズ・マター (BLM)である。

#BlackLivesMatter 以前、1960年代の自由公民権運動の頃から白人警官の黒人に対する激しい暴力は問題になっていた。その背景には当然差別意識もあるが、特に最近では恐怖心(terror)も強いのではないだろうか?黒人に対して今までしてきたことの罪の意識。「復讐されるのではないか?」という不安感。それが〈過剰防衛〉としての暴力という形で現れているという側面もあるだろう。

◯Black Lives Matterを考える上で観ておくべき映画・ドキュメンタリー番組

・『グローリー ー明日への行進ー 』:マーティン・ルーサー・キング・Jrを主人公に、有名な“セルマ大行進”を描く。
・『
あの夜、マイアミで』:マルコムX、モハメド・アリ、ソウル歌手サム・クックらが語り明かした一夜を描く。
・『リマスター:サム・クック』:ドキュメンタリー映画、Netflix配信。
・『マルコムX暗殺の真相』:ドキュメンタリー番組、Netflix配信。
・『私はあなたのニグロではない』:ドキュメンタリー映画。作家ジェームズ・ボールドウィンが語るキング牧師、マルコムX、そして
NAACP(全米黒人地位向上協会)に所属した公民権運動家メドガー・エヴァース。
・『ビール・ストリートの恋人たち』:ジェームズ・ボールドウィンの小説を原作とする劇映画。
・『自由の国アメリカ:闘いと変革の150年』ドキュメンタリー番組、Netflix配信。合衆国憲法修正第14条をめぐる血と汗の旅。

あと、キング牧師はマハトマ・ガンジーの非暴力非服従運動に強い影響を受けているので、アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞など8部門受賞した映画『ガンジー』を併せて参考資料にされたし。

 

参考文献:①岡田尊司 『パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか』(PHP新書)
②岡田尊司『境界性パーソナリティ障害』(幻冬舎新書)
③岡田尊司『死に至る病~あなたを蝕む愛着障害の脅威~』(光文社新書)
④上坂昇『キング牧師とマルコムX』(講談社現代新書)
⑤ロバート・ローラー(著)長尾力(訳)「アボリジニの世界ードリームタイムと始まりの日の声」(青土社) 
⑥アドルフ・ヒトラー(著)平野一郎 他(訳)『わが闘争』(角川文庫)

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2021年3月 5日 (金)

【考察】映画「あの頃。」の登場人物たちはどうしてこんなに気色が悪いのか?

評価:F

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原作はベーシストで神聖かまってちゃんのマネージャーだったこともある劔樹人(つるぎみきと)のエッセイ。大学生卒業後就職も出来ずに、もやもやしていた主人公(松坂桃李)が松浦亜弥のミュージック・ビデオを見て「ハロー!プロジェクト」のアイドルに夢中になり、イベントで知り合ったネット弁慶のコズミン(仲野太賀、原作ではコツリン)らと青春の日々を謳歌するという物語。公式サイトはこちら

小林よしのり、中森明夫、宇野常寛らの座談会を本にした『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書)第1部は〈人はみな誰かを推すために生きている〉と銘打たれている。全く同感である。僕自身、〈誰か〉に限らず、〈何か〉を“推す”ためにこのブログを10年以上書き続けている。それは大好きな音楽だったり、映画だったり、舞台ミュージカルだったりする。自分が愛する〈誰か〉や〈何か〉を語ることは愉しい。嘗て大林宣彦監督の公式ファンクラブ、OBs club広島支部に入っていたこともあり、そこで仲間が出来た。

大のおとながアイドルを好きになる気持ちも分かると思っていた。僕は今までにAKB48、乃木坂46、欅坂46の握手会に各々一回ずつ行ったことがある。握手したのは柏木由紀、渡辺麻友、島崎遥香、川栄李奈、西野七瀬、齋藤飛鳥、平手友梨奈、長濱ねる、といった面々。また学会出張で博多に行ったときはHKT48の劇場公演(2回)、新潟に出張したときはNGT48の劇場公演を観た。ヲタクの生態も多少なりとは理解しているつもりだった。

だから『あの頃。』に登場する「恋愛研究会。」のメンバーにも共感出来るのではないかという期待を持って映画館に足を運んだ。ところが!僕が感じたのはホモ・ソーシャルな関係性の6人に対する嫌悪感だけだった。駄目だ、生理的に全く受け付けない。そんな自分に些かショックを受けた。な、なんなんだ、この感情は?同族嫌悪??いや、違う。僕は動揺した。そして数日間真剣に考えて、悩み、漸く結論に達した。

「恋愛研究会。」のメンバーがキモいのは、彼らに社会性が欠けているからだ。アルバイト程度の仕事をしている人はいるが、殆どが無職。家庭も持っていない。つまり現実社会において他者に真剣に向き合っていない。「恋愛研究会。」という名称にしたって恋愛は互いの気持ちが通じ合って成立するものだ。彼らがしていることは自分の一方的な“好き”をぐだぐだと語っているだけ。ストーカーと何ら変わらない。生産性がない。メンバーがモーニング娘。の『恋ING』を演奏し、熱唱する場面があるが、あまりにも音痴で聞くに堪えない。結局、自分たちが“愉しい”に終始しており、目の前にいる聴衆をもてなそう(entertain)という意志のかけらもない。つまりここでも社会性が欠如しており、マスターベーションを見世物にしているようなものだ。しかも『恋ING』を歌う場面はたっぷり2回も登場する。勘弁して〜。今泉力哉監督、「あんたバカぁ!?」(惣流・アスカ・ラングレー風に)。

“クズ”ミン、もとい、コズミンが女性を性欲処理の対象としてしか見做していないのも実に不愉快であった。 メンバーの彼女にちょっかいを出す場面でも、相手とコミュニケーションを取りたいという意思は全く無く、オッパイを揉むことしか頭にない。最低の男である。だから彼の興味関心が生身の(面倒くさい)人間から次第に離れて、アニメのフィギュアに終結していくのも、むべなるかなと思った。

結論。アイドルは明日を生きるための“希望”である。“好き”になって“推す”のは好い。しかしバランス感覚が大切。趣味仲間以外の社会との関係性(commitment)を喪失したら、人間終了である。

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2021年2月26日 (金)

礼真琴、舞空瞳(主演)宝塚星組「ロミオとジュリエット」

2月21日、宝塚大劇場へ。フレンチ・ミュージカル『ロミオとジュリエット』を観劇した。

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ロミオは礼真琴、ジュリエットは舞空瞳が演じた。

舞空は102期生として2016年に宝塚歌劇団に首席入団している。一方の礼真琴も95期生として2009年に首席入団し、2010年『ロミオとジュリエット』初演時@梅田芸術劇場は“愛”を演じた。まぁそんな経歴の二人なので、歌よし、踊りよし、容姿よしと100点満点の出来であった。僕は初演から宝塚版の全キャストを観ているが、ジュリエットの歌唱においては舞空がNo.1であると断言する。ロミオについては、礼と明日海りおが双璧。

その他のキャストには役替りがあり、僕が観た日はティボルト:愛月ひかる、ベンヴォーリオ:瀬央ゆりあ、マーキューシオ:極美慎、ヴェローナ大公:輝咲玲央だった。愛月のティボルトは野性味があるが、歌が雑でいただけない。これで将来トップになれるの?勘弁して欲しい。一方、瀬央のベンヴォーリオは深みのある美しい歌唱で魅了された。

小学校三年生の息子を連れて行ったのだが(ソワレ)、後半は号泣していてその日の夕食が喉を通らないくらいだった。それくらい心に刺さったということだから、これを切っ掛けにミュージカルを好きになってくれると嬉しいのだが……。

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2021年2月15日 (月)

今度は「不織布マスク警察」現る!/新型コロナ禍の心理学

「パニックになった時、人の本性は現れる」と僕は繰り返し書いてきた。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは次のように述べている。

「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」

新型コロナウィルス禍で人々の間で恐怖心や不安感が蔓延している。2020年4月7日に発令され、5月25日まで続いた第1回目の緊急事態宣言でそれが顕著に出た現象が〈自粛警察〉や〈マスク警察〉だ。

そして2021年1月7日に発令された第2回目の緊急事態宣言下に現れたのが新手の〈不織布(ふしょくふ)マスク警察〉である。朝のテレビ番組で話題となり、このワードは1月28日にツイッターでトレンド入りした。ウレタンマスクは飛沫を防止する機能に劣るというデータが出され、街なかや電車でウレタンマスクを着用している人を叱り、不織布に変えるよう迫る人々が登場したのである。

「その不織布マスク何層?3層?それじゃダメだって4層じゃなきゃ」と説教してくる妖怪に遭遇したという書き込みもSNS上にあった。

アメリカの社会心理学者バーナード・ワイナーが提唱した〈原因帰属理論〉で上記現象を考えてみよう。原因帰属とは成功や失敗などの起こった結果に対し、その要因が何かと考えること。〈内的(自分)〉と〈外的(環境)〉に分類される。テストで成績が良かった時、〈内的〉には「自分は頭が良いからだ(能力)」「一生懸命勉強したからだ(努力)」と考えるタイプ、〈外的〉には「問題が簡単だったかったからだ(課題の難易度)」「ヤマが当たった。運が良かった」と考える4つのタイプに分けられる。

例えば貧乏暮らしをしている30代男性の例を見てみよう。〈内的〉思考として「僕は生まれつき賢くなかったから三流大学にしか入れず、いい就職口がなかった。だから今の境遇は仕方がない(能力)」「高校生の時遊び呆けて全然勉強しなかったから一流大学に入れなかった(努力)」と自省する人もいれば、〈外的〉思考で「ごく一部の富裕層が世界の富を独占している。だから僕は貧乏なんだ。社会が悪い。ブルジョワジーを打倒せよ!」「一攫千金を狙って起業したが世の中が不景気で会社は倒産してしまった。たまたまついていなかっただけ。僕が悪いんじゃない」と責任転嫁する人もいる。

フランス革命やロシア革命が〈外的〉思考の典型例で、いつしかブルジョワジー(富裕層)=悪/プロレタリアート(賃金労働者階級)=善という図式が出来上がった。こうしてフランスのブルジョワは断頭台の露と消え、ロシアのロマノフ家は銃殺刑で皆殺しになった。彼らの蓄えた富は略奪され、分配された。

〈自粛警察/マスク警察〉になるタイプの人は「私はちゃんとやっているのに、コロナが蔓延するのは自粛しない連中が悪い」「不織布マスクをしない連中がコロナをばら撒いている」と〈外的〉に責任を帰属させる。と同時に、「自粛して常に不織布マスクをしていればコロナは収まる」と〈コントロール可能性〉を過大評価する。

自由に振る舞っている人々に対する嫉妬心・不公平感も根底にあるだろう。「私はこれだけ我慢しているのに、あいつらだけ得してずるい。懲らしめてやろう」

この心理はアドルフ・ヒトラーが台頭した時期のドイツの状況に酷似している。第一次世界大戦の敗戦により、イギリス・フランスなど戦勝国から莫大な戦争賠償金を課せられたドイツ国民は天文学的なインフレーションに苦しむことになる。1918年から23年までの5年間で物価が1兆倍に跳ね上がった。そこでナチス・ドイツはユダヤ人陰謀論を吹聴した。銀行や金融業を経営している多くはユダヤ人である。「奴らが富を独占しているから、我々ゲルマン民族は惨めな暮らしを送らざるを得ない。全てユダヤ人が悪い」という理屈である。〈いけにえの羊(scapegoat)〉だ。〈外的(ユダヤ人)〉に責任を帰属させ、彼らを根絶やしにすればゲルマン民族の暮らしは良くなると〈コントロール可能性〉を過大評価した。 そしてナチスはユダヤ人が蓄えた富を全て略奪した。

ユング心理学には影(シャドウ)という用語があり、カール・グスタフ・ユングは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」と定義した。人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の〈他者〉、自分自身の暗い側面などである。

 集団のの肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団内のをすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。(中略)

 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかにの肩代わりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。 

 〈河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫)より〉

河合が書いた「自分たちはあくまでも正しい人間として行動する」「それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法である」というのが正に〈正義中毒〉である。他人に〈正義の制裁〉を加えると脳の快楽中枢が刺激され、〈報酬系〉と呼ばれる神経伝達物質・ドーパミンが放出されて快楽をもたらす。この快楽は強烈で癖になる。〈いじめ〉には中毒性があるのだ。ナチス親衛隊(SS)に組織化される以前、ユダヤ人の商店に投石するなど狼藉を働いていたドイツの自衛団・自警団や、縛り首の縄(noose)を使って黒人をリンチしたアメリカの白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)も自分たちは〈正義〉を実行していると信じ、暴力を振るうときには「気持ちいい」と感じていた。彼らと同様に〈不織布マスク警察〉の人々も、自分は〈正義〉を実行しているという快感に酔い痴れている。それは所詮錯覚に過ぎないのだが。実におぞましい。

新型コロナ禍で欧米諸国ではマスクをする派と、マスクをしない派に分かれた。特にアメリカ合衆国では〈民主党支持者=リベラル=マスク肯定派〉と〈共和党支持者=保守=マスク拒否派〉の真っ二つに分断された。

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その根底には人権を守る、個人の意志・選択の自由を尊重するという明確な姿勢(個人主義)がある。結局欧米ではウィルス蔓延を防ぐため政府が公共交通機関や商店でマスク着用を強制しようとした場合、罰金刑を課すなど法律で取り締まるしかなかった。

しかし羊のようにおとなしい日本人は政府が「お願い」するだけで従順に従った。マスク着用に関して法律で規制する必要はなかった。〈同調圧力〉 により、お互いに監視し合う社会システムが有効に機能したのである。

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトがその著書『菊と刀』で看破したように、キリスト教を基盤とする西洋の〈罪の文化〉に対して日本は〈恥の文化〉である。日本人は他人(世間様)の目を気にして、別行動を取って目立つのが恥ずかしいと考える。〈場〉の空気を乱さず、〈場〉の均衡を保とうと腐心する。そして皆と同じ行動を取れば安心出来る。「赤信号、皆で渡れば怖くない」(ビートたけしのネタ)のだ。その一方で、同調しないものを排除しようとする制裁行動に出る。〈村八分〉、〈いじめ〉の構造。出る杭は打たれる。日本では個人の意志や権利よりも、集団の規律を守る方が優先され、全体主義的傾向がある。これは1938年に〈国家総動員法〉が制定され、「欲しがりません勝つまでは」と〈国民精神総動員〉が美徳とされていた時代と少しも変わっていない。新型コロナ禍でこの事実を突きつけられて、僕は呆然と立ち尽くした。「叫びを押し殺す 見えない壁ができてた」「ここで同調しなきゃ裏切り者か」「ああ まさか 自由はいけないことか」という欅坂46『不協和音』(作詞:秋元康)の歌詞が深く胸に突き刺さる。

集団から疎外・排除されることは、生存において危険である。もろくて弱い個人は、集団に承認されることで生をつなぐ。その根底には〈安全欲求〉〈社会的欲求〉〈承認欲求〉がある。

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マスクをして出かけている人々の中には「新型コロナに感染するのが怖い」という気持ちよりも、「マスクをせず外出したら、他者からどういう視線を浴びるか怖い」「マスク警察に公衆の面前で叱られるんじゃないか」という感情が優位な人も少なくないのではないだろうか?

新型コロナウィルスに対する不安感・恐怖心は見えないものに対する恐怖である。暗闇で幽霊や妖怪が怖いという感情に近い。江戸時代以前の日本には強力な照明器具がなく、夜は暗かった。蝋燭や行燈で照らされる範囲は限られており、闇の奥に何か得体の知れないものが潜んでいるのではないかという不安・想像力から物の怪は生まれた。しかし電気の登場で夜は隅々まで照らされるようになり、さらに科学的知識が浸透することで今やお化けを信じる人は殆どいなくなった。

見えないものに対する恐怖という心理を最大限に利用したのがスティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』である。映画後半に至るまでサメを見せない。彼の名を世界に知らしめたテレビ映画『激突!』でも、主人公が運転する車を追うトラック運転手の顔を最後まで見せなかった。

ウィルスを目視することは出来ないが、勉強して知識を増やすことで恐怖心は確実に減る。〈心の目〉で見えるようになるのだ。

第2回目の緊急事態宣言で確実に新型コロナの新規感染者は減少した。ということはウィルス感染で最もリスクが高い状況は酒を提供する飲食店など換気が悪い閉鎖された空間でマスクを外し、2m以内の距離で対面で会話をすること。あるいはカラオケボックスで歌をうたうこと。つまり発声が一番危険なのだ。発声しない満員電車の中、映画館、そして500人以上のキャパがあるコンサートホールで音楽を聴くことに殆どリスクはなかったことが実証された。もしそれらの場所でも感染が起こっているのなら、1回目とは違い映画館もコンサートホールも営業を続けている2回目の緊急事態宣言下で劇的に感染者が減るはずがないからだ。つまり基本的に発語せず対面しない広い空間はリスクが低く、闇雲にマスクを着用することを強要するのは愚の骨頂である。

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2021年2月14日 (日)

音響演出が凄い!映画「サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜」

Amazonプライム・ビデオで映画『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を鑑賞。ナショナル・ボード・オブ・レビュー(米国映画批評会議 )賞で2020年のトップ10映画の1本に選ばれ、リズ・アーメッドが主演男優賞、ポール・レイシーが助演男優賞に輝いた。またAFI(アメリカ映画協会)が選出した2020年を代表する10本にも入選している。

今年のアカデミー主演男優賞は本作のリズ・アーメッドと、『マ・レイニーのブラックボトム』の故チャドウィック・ボーズマンの一騎打ちとなるだろう。『サウンド・オブ・メタル』が作品賞にノミネートされる可能性も大いにある

評価:A+  公式サイトはこちら

Metal

メタル/ハードコア・バンド(デュオ)のドラマーが難聴を患い、恋人の勧めで教会が支援する聴覚障害者のコミュニティを訪れる。そこでコミュニティの長であるジョー(ポール・レイシー)から「耳を治すのではなく心を治す」と言われる。

ジョーは主人公ルーベンに毎朝、窓から外の景色が眺められる書斎に座って、コーヒーでも飲みながらじっとしてろと言われる。「もし必要ならノートを用意しておくから、思いついたことを書き留めたらいい。誰も読みはしないから」

しかし焦燥感に駆り立てられたルーベンはこっそり有り金をはたいて内耳にインプラント手術を受けた。そしてコミュニティを去ることになる。

ジョーは別れ際、彼にこう言う。「ここ最近君は毎朝私の書斎で過ごしてきて、静寂(stillness)を感じる瞬間はなかったか?君は正しい、ルーベン。世界は動き続けている。それは全く残酷な場所になり得る。しかし私にとってはね、静寂の瞬間、その場所こそが神の王国(the kingdom of God)なんだ。そしてその場所は決して君を見捨てたりしない」実に印象深い台詞であり、本作のテーマがここに集約されている。

ジョーが推奨しているのは、喧騒を逃れて毎日静かに瞑想する時間を持て、ということだと僕は受け取った。瞑想時に自分を見つめ直すことが出来る。とりとめのないことをノートに書くのは自動筆記(Automatic writing)だ。心理学用語ではオートマティスム(Automatisme 筋肉性自動作用)という。それにより、無意識が浮かび上がってくる。非常に有効な手段であり、正にジョーはルーベンにとってのメンター/Mentor(恩師)と言えるだろう。しかし言われた時に、その重要性にルーベンは気付けない。

僕が映画における〈サウンド・デザイン〉の凄さを初めて思い知らされたのは小学生の時に映画館で観た『スター・ウォーズ』(エピソード4)だった。デザイナー、ベン・バートの名は幼心に刻みつけられた。『サウンド・オブ・メタル』のサウンド・デザインの衝撃はそれ以来と言っても決して過言ではない。間違いなく今年のアカデミー音響賞は本作で決まりだろう。なお、今まで「録音賞」と「音響編集賞」の2部門があってその違いが極めてわかり辛かったのだが、2021年から1つに統合されることが発表されている。

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2021年2月10日 (水)

あの夜、マイアミで

評価:B+

Miami

Amazon Prime Videoで鑑賞(課金なし)。アメリカ映画協会(AFI)による、2020年に公開された映画トップ10に選出された。公式サイトはこちら

公民権運動が高まりを見せた1964年2月25日、プロボクサーでヘビー級の世界王者となったカシアス・クレイ(後にモハメド・アリと改名)、黒人解放運動活動家マルコム・X、NFLで活躍するアメフト選手ジム・ブラウン、ソウル歌手サム・クックがマイアミに集い、一夜を語り明かすディスカッション・ドラマ。2013年に初演された舞台劇『One Night in Miami』を元に、原作者ケンプ・パワーズ自身が映画用に脚色した。彼はまた、ピクサーの新作アニメ『ソウルフル・ワールド』にも共同脚本家として名を連ねている。監督は『ビール・ストリートの恋人たち』でアカデミー助演女優賞を受賞したレジーナ・キング。ケーブルテレビ放送局HBO製作のリミテッドシリーズ『ウォッチメン』ではエミー賞の主演女優賞に輝いている(作品賞も受賞)。今回彼女がアカデミー賞の監督賞にノミネートされる可能性は充分ある。

この物語はフィクションだが、実際にカシアス・クレイはマルコム・Xと出会いその思想に共鳴、イスラム教に改宗しネーション・オブ・イスラム(NOI)に入信した。そしてリング名をムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリに改めた。一方、先にNOIのメンバーだったマルコム・Xは教祖イライジャ・ムハンマドが十代の少女に子を産ませていたことを知りムハマドを告発、1964年にNOIから脱退した。そのため翌65年、NOIのメンバーに暗殺された。

サム・クックはボブ・ディランの『風に吹かれて』に影響を受け、『ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム』を作詞・作曲した。この歌は後に公民権運動のアンセムとなる。この辺の事情は『あの夜、マイアミで』に描かれている。そして1964年12月11日に射殺された。彼の偉大な足跡を知るためにはNetflixから配信されているドキュメンタリー映画『リマスター:サム・クック』を併せてご覧になることをお勧めする。彼と親交のあったマルコム・X、モハメド・アリも登場する。

2008年11月4日バラク・オバマが大統領選に勝利したときのスピーチで、『ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム』の歌詞を引用したことは大いに話題になった。"A Change Is Gonna Come."が、"Change has come to America."と完了形に変化した。『あの夜、マイアミで』はそこまで見据えている。またこの歌は、デンゼル・ワシントン主演、スパイク・リー監督の映画『マルコムX』(1992)でも流れる。

ガンジーに影響を受け非暴力非服従を貫いたキング牧師に対して、マルコム・Xは暴力革命容認派という印象が強い。しかし『あの夜、マイアミで』で描かれる彼はとても知的で冷静沈着、魅力的な人物だ。そのギャップに驚いた。演じるキングズリー・ベン=アディルが中々格好よくて、ちょっとバラク・オバマに似ているなと思ったら、実際にテレビ・ドラマ"The Comey Rule"でオバマを演じたらしい!(記事こちら

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2021年2月 8日 (月)

石丸幹二&堀内敬子(主演)ミュージカル「パレード」

2月4日(木)シアター・ドラマシティ@大阪でミュージカル『パレード』を観劇した。

Parade

僕は2017年の日本初演を観ている。今回の感想は初演時とほぼ変わらないので、詳しくはそちらのレビューをお読みください。

稽古中の2021年1月2日、石丸幹二と武田真治が新型コロナウィルスに感染していることが判明。東京公演は1月15日に開幕する予定だったが延期となった。大阪公演の開催が危ぶまれたが、関係者が順調に回復し無事、幕が上がった。但し緊急事態宣言中につき開演時間が18時から17時に早められた。平日なので仕事で間に合わない人も少なくなかったろう、客席の入りは6割程度と寂しいものだった。

出演者は他に堀内敬子、石川 禅、坂元健児、 福井貴一、今井清隆ら。演出は初演に引き続き森新太郎。

救いのない辛い物語だが、僕はとても好きだ。グッとくる。特に舞台上に暴力的に降り注ぐ紙吹雪が圧巻。押し潰されそうな、窒息してしまいそうな錯覚に囚われた。

兎に角、この困難な時代に生の舞台を観ることが出来ただけで感無量である。大阪公演を実現してくれた出演者、スタッフ一同には感謝しかない。ただただ、ありがとう!

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2021年2月 7日 (日)

「らくだ」笑福亭鶴瓶落語会 2021 @兵庫芸文

1月31日(日)兵庫県立芸術文化センターで笑福亭鶴瓶落語会を聴く。

  • 笑福亭鶴瓶:鶴瓶噺
  • 笑福亭鶴瓶:癇癪(私落語)
  • 桂三度:心と心(三度 作)
  • 笑福亭鶴瓶:らくだ

鶴瓶噺(Stand Up Comedy)では新型コロナ禍のエピソードをあれこれと。第1回目の緊急事態宣言が発令される前の2020年2月28日、東京で『桂文珍 国立劇場20日間独演会』にゲストとして出演した。その時文珍が掛けたネタが『くっしゃみ講釈』。「あの頃はまだ、高座でハクションを連発しても許されていたんですね」と鶴瓶。

ある日自宅でくつろいでいたらネジが出てきた。「なんや、これ?」と、よくよく考えたらTBS『半沢直樹』(1st season)に主人公の父親として出演したときの記念の品だった。ネジ工場を夫婦で経営している役だった。「みなさん、わかってますか?僕が首を吊らなかったら、今の『半沢直樹』ブームはなかったんですよ!」と。

また話題になっていたから予備知識ゼロで劇場版『鬼滅の刃 無限列車編』を観に行ったが、さっぱり理解出来なかった。「なんやあの、かまぼこ咥えとる娘は??」(←禰豆子/ねずこ)途中我慢ができなくなってトイレに行ったが、すすり泣きしている周りの観客に申し訳なかった。

『癇癪』は六代目笑福亭松鶴師匠と過ごした日々のスケッチ。文句なしに面白い。

「世界のナベアツ」として活躍していた三度。2011年、桂文枝に弟子入りして吉本興業から給料を3分の1まで下げられた。そして2018年、苦節4度目の挑戦で『NHK新人落語大賞』を受賞したネタが『心と心』。コンビニ強盗とそれに対応する店員、店長、店内に居合わせた客2人、計5人を演じ分け、会話だけではなく心の声も語るという野心作。上方落語の特徴である、見台・膝隠し・小拍子が好きだとマクラで語り、小拍子をチョンと打つことで時空間を跳躍できるという説明が、実はサゲ(落ち)の仕込み・伏線になっているというべらぼうな上手さ。こいつは天才だと唸らされた。

鶴瓶は六代目から落語を一本も教えてもらえなかったが、『らくだ』は師匠の口演を文字で書き起こすよう命じられた。今思い起こすと、あれがとても役に立った。弟弟子の笑福亭鶴志が松鶴の口跡にとても似ているので、『らくだ』は彼に任せようと考えていたのだが、2020年5月に亡くなってしまった(死因は新型コロナウィルス感染症ではない)。「だったら僕が継ごう」と決心して、鶴志の遺族に承諾を得て、彼の演出も取り込み「これが笑福亭の『らくだ』だ!」と胸を張って言える集大成にしたい、と抱負を語った。

『らくだ』を創作したのは(四代目)桂文吾。文吾の師匠が立川八百蔵(たてかわ やおぞう)で、更にその師匠が初代笑福亭松鶴という縁がある。大正時代に三代目柳家小さんが東京へ移植した。

鶴瓶の『らくだ』は笑福亭らしく下品な感じが凄くいい。またラストのどんでん返しも秀逸。

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2021年2月 6日 (土)

花束みたいな恋をした

評価:B+

Hana

公式サイトはこちら

有村架純演じる絹がお気に入りのブログ『恋愛生存率』は、“はじまりはおわりのはじまり”をテーマにしており、次のようなことが書かれている。

出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティのようにいつしか終わる。だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、その切なさを楽しむしかないのだ。

「出会いは常に別れを内在し」というのは、考えてみれば人生そのものにも当てはまる。子供が生まれる。「こんにちは赤ちゃん」……この挨拶は既に、将来必ず訪れる親子の死別を内在している。

では恋愛とは何か?脚本家・坂元裕二(『東京ラブストーリー』『最高の離婚』『カルテット』)によるとそれは、ポップカルチャーを共有し、コミュニケーションを図るということになるだろう。具体的には『押井守』『今村夏子』『ゴールデンカムイ』『きのこ帝国』『粋な夜電波』といったものたちである。カルチャーの共有を象徴するのがイヤホーンのLとRを一本ずつ分け合って音楽を聴く行為。絹は言う。「同じ曲聴いているつもりだけで、違うの、彼女と彼は今違う音楽を聴いているの」確かに音楽を共有しているというのは幻想に過ぎないのかも知れない。しかしその幻想・錯覚こそが恋愛の本質なのではないだろうか?

結局、大学を卒業して労働に従事し、カルチャーを共有する時間がなくなって二人の恋は終わった。では彼らが過ごした5年間は無意味だったのか?

絹は国立科学博物館で開催されたミイラ展を楽しみにしていた。終わった恋もミイラのように腐らず後世に残るだろうか?一瞬の光は、それでもこころの中で輝き続けるか?その答えは鮮やかなラストシーンにしっかりと用意されている。

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2021年2月 2日 (火)

わが心の歌 25選 ⑧フランク・シナトラ「マイ・ウェイ」(多くの日本人が知らない歌詞の意味)と「私を月まで連れてって!」

『マイ・ウェイ』という楽曲に初めて心底感銘を受けたのはジプシー・キングスが1987年にリリースしたカヴァー盤だった。Spotifyでの試聴はこちら

Gipsy

歌詞がスペイン語なので何を歌っているのかさっぱり分からないが、迫力のあるアレンジが圧巻だった。2016年にUCCコーヒーのCMにも使用された。ジプシー・キングスは何しろユニークなバンドだ。『ジョビ・ジョバ』『ベン、ベン、マリア』『ボラーレ』など日本のCMソングとして使用された彼らの楽曲は多い。

一方、大御所のフランク・シナトラが歌ったヴァージョンが琴線に触れることはなかった。ところが不思議なもので、最近シナトラの歌がしみじみ身に沁みるようになった。僕も歳を重ね、彼が『マイ・ウェイ』を歌った年齢に達したこととも無関係ではないのだろう。

『マイ・ウェイ』の原曲はフランスの歌で1967年に発表された。ポール・アンカが新たに英語詞を書き、シナトラがシングルを発売したのが69年。御年54歳だった。ビートルズの『イエスタデイ』に続き、カヴァーされた回数が史上第2位の歌だそう。試聴はこちら

Myway

この度、インターネット上に掲載されている『マイ・ウェイ』の和訳を7,8つほど見てみたのだが、日本語として成り立ってないものばかりで驚いた。特に後半部の詞章が全く意味不明。そこで念の為『マイ・ウェイ』がクライマックスで歌われ劇的に盛り上がる、イルミネーション・エンターテインメント製作のアニメーション映画『SING/シング』(2016)英語版の日本語字幕もチェックしたのだが、訳が英語歌詞に少しも対応していないので面食らった。

もしかしたら日本人の殆どはこの歌の本当の内容を知らないのではないか?そこで僕自身で訳してみることにした。万が一おかしな所があれば、コメント欄でご指摘ください。速やかに対処します。

And now, the end is near
And so I face the final curtain
My friend, I'll say it clear
I'll state my case, of which I'm certain
I've lived a life that's full
I travelled each and every highway
And more, much more than this
I did it my way

そしていま、終りが近い
最終幕を控えカーテン前に私は立つ
友よ、はっきりしておこう
私はこれから自分の経験に基づく信念を述べる
私は充実した人生を送ってきた
私はどんな(州間)高速道路も旅した
そして、そんなことよりもまず
私はわたしの流儀で生きてきた

"the final curtain"とは三幕ものあるいは四幕ものの芝居で、終幕のカーテンがこれから開こうとしているということ。「死期が近い男の歌」という解釈を見かけたが、それは言い過ぎだろう。そもそもシナトラは82歳まで生きたわけで、まだ54歳だから老年期とも言い難い。これから壮年期を迎える、「人生の最終コーナーを回ったところ」といった感じか。因みにポール・アンカがこの歌詞を書いたのは28歳である。

シナトラは歌手として全米巡業を行った。"I travelled each and every highway "はそのことを指しているのだろう。また、この後に登場するbyway(わき道)と対になっているので、highwayを「主だった道」「幹線道路」と訳すことも可能だろう。

Regrets, I've had a few
But then again, too few to mention
I did what I had to do
And saw it through without exemption
I planned each charted course
Each careful step along the byway
And more, much more than this
I did it my way

後悔なら、いくつかあるさ
しかし改めて言及すべきことは殆どない
私はすべきことをした
過去の行いを振り返り、言い訳することなどない
地図に書かれた道をひとつひとつ行こうとした
脇道に沿って注意深く歩んだ
そして、そんなことよりもまず
私はわたしの流儀でそれを実行したんだ

後悔は"a few"(いくつか)あるが、言及することは"few"(ほとんど〜ない)と訳し分けることが大切。ニュアンスが違う。

"And saw it through without exemption"は直訳すると「免除なしで見通す」なので、「言い訳することなく私がしたことを振り返る」ということだろう。「過去を振り返ってみて、隠し立てすることはなにもない」でも良いかも知れない。

Yes, there were times
I'm sure you knew
When I bit off
More than I could chew
But through it all
When there was doubt
I ate it up and spit it out
I faced it all and I stood tall
And did it my way

そうさ、時には
君も知っての通り
身の程知らずなことをして
持て余したことはあった
しかし、いついかなる時でも
疑問に思うことがあれば
それを食い尽くした上で吐き出した
全てに正面から立ち向かい、堂々と振る舞った
私なりのやり方で

"When I bit off/More than I could chew"は直訳すると「噛める以上のものを噛み切った時」だから、「適応能力の限界を超えて挑んだ」ということ。

I've loved, I've laughed and cried
I've had my fill, my share of losing
And now, as tears subside
I find it all so amusing
To think I did all that
And may I say, not in a shy way
Oh, no, oh, no, not me, I did it my way

私は愛し、笑い、泣いた
満ち足りたこともあったし、それなりに失ったものもある
そして今、涙が収まると
それら全てのことが面白く感じられる
私がいままでしてきたことを考えると
尻込みしたことなど一度もないと言わせてもらおう
いやいや、ない。断じて怖気づいたりしなかった。私の流儀でやったんだ。

have one's share of は「その人なりの~がある」「それなりに」といった意味。

For what is a man, what has he got?
If not himself, then he has naught
To say the things he truly feels
And not the words of one who kneels
The record shows I took the blows
And did it my way

Yes, it was my way

人は何のために生きるか、彼が今まで得たものは?
もし自分自身のために生きていなければ、得たものは無だ
心底感じたままに言うんだ
祈りの文句じゃなく
そりゃあ打撃を受けたこともあるさ
そして私なりのやり方で受け流した

そうさ、それが私の流儀だった

1行目"For what is a man"が曲者だが、元の肯定文は"A man is for 〜"だから「人は〜のために存在する」「人は〜のために生きる」となる。

続く2行目"If not himself"は"If a man is not for himself"を省略したものなので「もし自分自身のために生きるのでなければ」"he has naught"は"he has got naught"の省略なので、「彼が今までに得たものはゼロだ」。つまり最終章の1行目と2行目に対応関係があることに気が付かなければ、わけのわからない日本語になってしまう。

"the words of one who kneels"は「ひざまずく人の言葉」、つまり「祈りの言葉」「聖書の言葉」。「既成概念」「倫理」「道徳」と言い換えても良いだろう。自己犠牲や禁欲を説く社会(教会)からの抑圧、同調圧力には屈しないと歌っている。

Fly

フランク・シナトラの魅力は、なんと言ってもその重低音の歌声にあるのだが、その良さを際立たせているのが伴奏するビッグバンドであることを忘れてはならない。キャリア初期のトミー・ドーシーは言うに及ばず、その頂点を極めたのが1953年にキャピトル・レコードと契約した時期に組んだ、ネルソン・リドルのアレンジに負うことが大きい。実に優雅で洗練されたスウィング・ジャズであった。クルーナー歌手(Croon:低い声で、そっとつぶやく)として彼とナット・キング・コールが双璧であろう。

"Fly Me to the Moon"でシナトラが組んだのはカウント・ベイシー・オーケストラだが、このアレンジも卓越している。これぞ〈粋の極み〉。試聴はこちら。僕が大好きなナット・キング・コールも同曲を歌っているが、これはシナトラに敵わない。伴奏で負けた。

竹宮恵子の漫画『私を月まで連れてって!』(1977-1986)は"Fly Me to the Moon"から着想された。また『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズのエンディングテーマ曲として庵野秀明の希望でこの曲が採用されたことでも有名。全部で14のバージョンが使われた。綾波レイ役の林原めぐみ、惣流・アスカ・ラングレー役の宮村優子、葛城ミサト役の三石琴乃らそれぞれのソロ・バージョン、3人で歌うバージョン、CLAIRE(クレア・リトリー)や高橋洋子が歌うバージョン、歌なしのインストゥルメンタル・バージョンなど多彩に楽しめる。

ところが!『新世紀エヴァンゲリオン』TV版がNetflixで世界配信された際、Netflixは"Fly Me to the Moon"の米国におけるライセンス使用料を高すぎると判断したらしく、この曲をカット、別のピアノ曲に置き換えた。北米のエヴァ・ファンはこれに激怒、大騒動となった(日本での配信は"Fly Me to the Moon"がそのまま流れる)。まぁ逆に、本来は"Fly Me to the Moon"が流れることを知っているということは、北米のヲタクたちがそもそもDVD/Blu-rayを所有しているということを意味するので、そこまで目くじら立てなくても……という気もするのだが。きっとそれが〈愛〉なんだね。

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