2019年6月17日 (月)

飢餓感を煽る映画「天気の子」宣伝戦略と、東宝の強気の商売

2018年12月13日、東宝の2019年ラインナップ発表に併せて新海誠監督 最新作「天気の子」の製作発表が行われた。この時初めて映画のタイトルが明らかにされた。

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ポスターではヒロインの顔が見えない状態であり、音楽の担当者は伏せられ、予告編もなかった。

3年前、やはり12月に製作発表された「君の名は。」では最初から予告編が公開され、RADWIMPSが音楽を担当することも明らかにされていた。つまり「天気の子」では勿体ぶって焦らす、〈小出し作戦〉に戦略が変更されたのだ。

年が明けて2019年4月10日にRADWIMPSが音楽を担当することが発表され、同時に予報(予告編)が初めてお披露目された。なんとこの間5ヶ月も新しい情報を封印していたわけだ。ここで漸く、主人公二人の顔(キャラクターデザイン)が明らかにされた。

さらに一ヶ月半後の5月25日、ボーカルとして女優の三浦透子が起用されることが発表され(RADWIMPS×女性ボーカル)、併せて予報②が登場した。

飢餓感を煽るハングリーマーケティング(Hungry Marketing) である。こういうふうに情報を小出しにする度にマス・メディアが大々的に取り上げてくれるという宣伝効果もある。畳み掛けるような、波状攻撃である。

「君の名は。」公開の時点で新海誠監督はまだまだ無名で、大々的に試写会を行い、監督が全国を回ってキャンペーンに努めたが、今回は試写会を一切行わないという作戦に出た。つまり最早、新海誠は宮崎駿に並ぶ国民的作家であり、事前の根回しなど一切必要ないわけだ。期待値は高く、黙っていても客は映画館に足を運んでくれる。「君の名は。」は試写会での前評判が高く、SNSを通して口コミで徐々に広まっていったが、今回は公開初日からSNSでの感染爆発( pandemic ) が期待出来る。ビッグバンだ。

公開初日の7月19日午前0時から東京・TOHOシネマズ新宿と大阪・TOHOシネマズ梅田で世界最速上映が行われることが決まった。しかし午前2時に上映が終わっても終電がないんですけど!?ホテルに泊まるか、車で観に来いというわけか。無茶ぶりである。

公開日まであと約1ヶ月。僕は6月16日(日)にTOHOシネマズの劇場内グッズ売場で、「『天気の子』の前売り券(ムビチケカードなど)を販売する予定はないのですか?」と訊ねた。「現在のところありません」というのが店員からの回答だった。もしかしたら本当に「天気の子」の前売りは一切しないつもりなのかもしれない。

東宝は相当強気だ。観客全員が割引なしの通常料金を支払うことになれば、一人あたりの単価が高くなる。しかもTOHOシネマズはこの6月に一般料金を100円値上げした(1900円)。今から考えると、これも「天気の子」公開に連動したものだったのかも知れない。恐らく東宝が狙っているのは「千と千尋の神隠し」の興行収入308億円を抜くことなんじゃないだろうか?「君の名は。」の最終興行収入は250.3億円で、今一歩、日本記録に届かなかった(現在歴代 第2位)。「天気の子」に対する期待は大きい。映画公式サイトはこちら

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2019年6月14日 (金)

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ(うんちくあり)

評価:B+

公式サイトはこちら

まずは映画レビューを集計する北米のサイトRotten Tomatoes(腐ったトマト)をご覧頂きたい。

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プロの評論家の肯定的意見が40%しかなく、「腐った(Rotten)」評価を与えられているが、一般観客の評価は85%と極めて高い。これだけ両者で差異が出ることは希少である(「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」の場合、評論家の評価が91%で「新鮮(Fresh)」、一般客が44%で真逆の結果になっている)。

プロット・脚本に疵があることは確かである。「どうしてそうなるの?」と登場人物たちの行動原理に首を傾げてしまう場面も多々ある。しかし本作の主眼はあくまで〈怪獣プロレス〉〈怪獣バトル〉であり、はっきり言ってしまえば人間ドラマなんて二の次だ(どうでもいい)。日本では到底成しえないVXF技術の効果も抜群で、当初の目的は見事に達成出来ていると言えるだろう。そもそも本家・東宝のゴジラ・シリーズですら、1954年の第1作は掛け値なしの傑作だが、キングギドラのデビュー作「三大怪獣 地球最大の決戦」(64)だって、「怪獣大戦争」(65)だって、本多猪四郎(監督)×円谷英二(特技監督)のコンビは変わらないものの、脚本はグダグダである。

本作に於けるゴジラ・モスラ・ラドン・キングギドラの大乱闘には童心に帰ってワクワクさせられた。怪獣たちは神々しいまでに美しい。マイケル・ドハティ監督の怪獣愛が作品から滲み出ており、どうしても評価に下駄を履かせざるを得ない。伊福部昭のテーマは勿論のこと、古関裕而が作曲し、ザ・ピーナッツが歌った「モスラの歌」まで流れてきたのには心底びっくりした。おまけに(何の意味もなく)チャン・ツィイーが双子という設定になっているではないか!!さらに第1作へのオマージュとしてオキシジェン・デストロイヤーは登場するし、芹沢博士(渡辺謙)はあんなこと(←ネタバレ回避)するしで、いやはや参りました。あとラドンが飛び立つところで、ラドンの影が街並みを横切る場面は「(怪獣オタクの心を)わかってるぅ〜」と嬉しくなった。

ここでうんちくを傾けておくと、「モスラ」の原作小説「発光妖精とモスラ」を執筆したのは中村真一郎・福永武彦・堀田善衛という錚々たる文学者たちである。福永の息子が芥川賞作家の池澤夏樹。蛾を意味する英語のMothを名称に取り入れた。元祖ラドンは阿蘇山の火口に生息しており、朱雀(火の鳥)のイメージが重ねられていると思われる。

またキングギドラの原型は「古事記」「日本書紀」に記載されたヤマタノオロチ(八岐大蛇である。円谷英二は八岐大蛇が登場する「日本誕生」(1959)で培った技術をキングギドラ開発に投入した。そして庵野秀明(総監督・脚本)による 「シン・ゴジラ」で決行されたヤシオリ作戦は、スサノオ(須佐之男)が八岐大蛇を退治する際に酔わせるために用いた酒「八塩折之酒(やしおりのさけ)」に由来する。

モンスターやSF映画にはしばしばマッドサイエンティスト mad scientist(常軌を逸した科学者)が登場する。その原型であり、最も有名なのはメアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」のヴィクター・フランケンシュタインだろう。他に「博士の異常な愛情」のストレンジラブ博士、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のエメット・ブラウン博士(通称ドク)がいる。「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」にもマッドサイエンティストが登場するのだが、極めてユニークなのは女性だということである。これは僕が知る限り、映画史上初なのではなかろうか?新機軸を打ち出したと言っても過言ではなかろう。

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2019年6月13日 (木)

ウルトラマン落語キター!〜柳家喬太郎独演会 2018@兵庫芸文

6月8日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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〈昼の部〉

  • 柳家小んぶ:安兵衛狐
  • 柳家喬太郎:抜け雀
  • 翁家和助:太神楽(だいかぐら)曲芸
  • 柳家喬太郎:ハンバーグができるまで

〈夜の部〉

  • 柳家小んぶ:幇間(たいこ)腹
  • 柳家喬太郎:抜けガヴァドン(ウルトラマン落語
  • 翁家和助:太神楽曲芸
  • 柳家喬太郎:死神

喬太郎は柳家さん喬の総領(一番)弟子。小んぶは十番弟子で現在、二ツ目だそう。

「安兵衛狐」は上方の「天神山」を江戸に移植したものであり「本来は前座ネタじゃないんですけれど、お客様からは温かい反応を頂き、ありがたいことです」と喬太郎。僕みたいに昼・夜通しで聴く客が300人ほどいるそう(中ホールのキャパは800席)。さらに翌日、岸和田での独演会にも足を運ぶ予定というツワモノも。

喬太郎はマクラで初めて仕事で大阪に来たときのエピソード(乾電池まつりの司会)や種子島での落語会に日帰りで行ったことなどを話した。

「抜け雀」で宿が大人気になり、増築したという件で「本館・新館・アネックスが出来た」と。これは兵庫芸文の近くにあるショッピング・モール〈阪急西宮ガーデンズ〉のことであり、大受け。さすが地元ネタも巧みに盛り込んで上手い。

「死神」では死神を消すための呪文の最後に〈エッ、マジ?蒼井優が!?〉を挿入。会場が大爆笑になったことは言うまでもない。

夜の部で、昼の部の「抜け雀」と全く同じ内容の導入部を喬太郎が話し始めた瞬間、僕は「アッ、『抜けガヴァドン』キター!」とこころの中で叫んだ。実は2015年にTORII HALL(トリイホール)で聴いていたのである。出囃子も「ウルトラQ」だったしね。

4年前は元ネタとなったウルトラマン第15話「恐怖の宇宙線」を未見だった。だからガヴァドンA?、ガヴァドンB??と中々イメージが沸かなかったのだが、今回は我が家にウルトラマンBlu-ray Boxを購入済みで、予備知識はバッチリ。大いに愉しんだ。佐々木守(脚本)実相寺昭雄(監督)の回は名作揃いである。このコンビによるウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」がある事情から初回放送後に封印され、現在では欠番扱いとなり、観ることが叶わないのは返す返すも残念だ。因みに彼らの最高傑作が「怪奇大作戦 京都買います」であることは論を俟たない。

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2019年6月 7日 (金)

〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その3〉影・トリックスター・ヌミノース

の続きである。

無意識の中にあり、本能に結びついたこころの原初的なイメージ=元型(Archetype)をさらに挙げていこう。

・影(シャドウ):ユングは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」と定義した。人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の〈他者〉、自分自身の暗い側面などである。

誰もがみな影を担い、個人の意識的な生活の中で影を実体化する度合いが低くなればなるほど、影はより暗く濃密になる。もし劣等な部分が意識されれば、人はそれを修正する機会をつねにもつ。さらに、その場合、劣等な部分が他のさまざまな関心といつも触れあい、ずっと変化しつづける。しかし、もし劣等な部分が抑圧され、意識から離れて孤立するなら、けっして修正されることなく、気づかぬうちに表に突然現れやすい。あらゆる点で、それは無意識の思わぬ障害となり、われわれのもっとも善意に満ちたもくろみを邪魔する。

影(シャドウ)は自我と対を成す(光↔影の関係に等しい)。その代表はなんと言っても「ジキルとハイド」だろう。そしてミュージカル「スウィーニー・トッド」。「新約聖書」でイエスが40日間荒野を彷徨った時に彼を誘惑した悪魔(サタン)や、「エクソシスト」に登場する悪魔、「魔法少女まどか☆マギカ」の魔女も影。魔女狩りは影の投影を背景にしているという話はリメイク版「サスペリア」にある。

河合隼雄は次のように述べている。

 集団のの肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団内のをすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。(中略)

 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる民衆の攻撃を避けようとして、外部のどこかにの肩代わりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。 
    〈河合隼雄「影の現象学」より〉

身近な例を見てみよう。なにかムシャクシャしたり頭にくることがあったとき、机を蹴飛ばしたり壁やドアを殴りつけたりする光景にしばしば出くわすだろう。それは自分のを無機物に対して投影しているのである。呪いの道具としての〈わら人形〉も同じ。この(無意識の)投影が無垢な子どもを標的(scapegoat)にして行われたとき、児童虐待が生じる。つまり児童は何も悪くないのに、影の投影なので攻撃が止むことはない。ナチスドイツと同じ理屈である。子供を一時的に保護しても、親元に返せば元の木阿弥である。こうした場合、虐待する側にカウンセリングを受けさせることを法律で義務付ける必要があるのではないか、というのが僕の意見である。閑話休題。

クリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」におけるジョーカーはブルース・ウェイン(バットマン)のなんじゃないかな?ティム・バートン監督版のジョーカーはどちらかといえばトリックスター(後述)寄りなのだけれど。

影(シャドウ) が(他者への投影ではなく)分離して実体化したのが ドッペルゲンガー(二重身)。この言葉はそもそもハイネの詩に由来する。シューベルトが歌曲にしていて「影法師」と訳されている。ドッペルゲンガーものとしてイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」、ウディ・アレン監督「私の中のもうひとりの私」、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 「複製された男」 、ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」 がある。

トリックスター:トリックスターは錬金術にみられるメルクリウス(英語読みでマーキュリー Mercury)の姿に非常によく似ている。悪賢い冗談や、ひどい悪戯を好み、姿を変える力がある。二重の性質(半獣、半神)や、困難や責め苦に身を晒す絶え間ない衝動を持っている。さらには救済者の形姿に近似する。完全に負の英雄だが、その愚かさによって、他の者が一生懸命努力しても達成出来なかったことを軽々と成し遂げてしまう。ユングは、トリックスター像が心理学的にみてと等価だと考えた。彼は次のように述べている。「トリックスターは、個々人の劣等な性格特徴を集約した、集合的なの形姿である」トリックスター・イメージの活性化は、惨禍が生じたこと、もしくは危険な状況が生じていることを意味する。トリックスターはエナンチオドロミア Enantiodromia(反対方向に向かうこと。最小のものから最大のものにいたるまで、自然の生命現象すべての循環を支配する原理)を引き起こす傾向を象徴する。トリックスターの行為は必然的に意識に対する補償的関係を反映する。

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シェイクスピア「夏の夜の夢」に登場する妖精パックが典型。「ピーターパン」のティンカーベルもそうだし、基本的に妖精とか道化師は全てトリックスターと考えて間違いない。道化師が着る、だんだら縞の衣装は反転の換喩である。トリックスターは価値を転倒させる。道化師の代表はシェイクスピア「リア王」。「ヘンリー四世 」や「ウィンザーの陽気な女房たち 」に登場するファルスタッフもそう。そして「マクベス」の冒頭で〈きれいは汚い、汚いはきれい〉と呪文を唱える3人の魔女。悪い奴としては「オセロ」のイアーゴー。ハンカチというガジェットを駆使し、オセロの嫉妬心を利用して、彼の妻デズデモーナに対する愛を憎しみに変換する。ずる賢い悪戯である。また「ロミオとジュリエット」のマキューシオもトリックスターと呼べるのではないだろうか?彼の死を契機にロミオが激高し、悲劇の幕が上がるのだから。

ゲーテ「ファウスト」のメフィストフェレス、「魔法少女まどか☆マギカ」のキュゥべえ、「ハウルの動く城」のカルシファーらは〈契約〉を持ちかける。「アラジン」のジーニー(ランプの魔人)はランプの持ち主に逆らえないため、主人によって善悪が決定する二重の性質を持っている。そしてワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のローグ(北欧神話のロキがモデル。マーベル・コミック「マイティ・ソー」にも登場)や「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラム、そして「ハリー・ポッター」シリーズのドビー。「千と千尋の神隠し」のカオナシ"No-Face"は凶暴になって暴走したり、突如大人しくなったり気まぐれなので、トリックスターの素因が十分にある。八百万の神でもなく、人間でもない、その狭間に蠢く影(シャドウ)に近い存在。スティーヴン・キングの小説「IT -イット-」に登場するピエロもトリックスター=影だ。

さらに「レ・ミゼラブル」のテナルディエ夫妻。同じくヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダム・ド・パリ」を原作とするディズニー・アニメ「ノートルダムの鐘」のクロパン。彼が司る道化の祭り、トプシー・ターヴィー(Topsy Turvy)とは「逆さまの」という意味。 これは中世ヨーロッパにおいて、その秩序を支えているキリスト教の教義を全く逆転せしめる「愚者の祭り」(教会の最下位の僧侶が司教に祭りあげられ、ミサのパロディを行った)が起源である。クロパンと同じ役割を担うミュージカル「キャバレー」のM.C.もトリックスターだ。そして「オペラ座の怪人」の怪人。マジシャンであり、黒いマントに白い仮面を身にまとっている。反転の象徴である。地下に棲んでいるというのも、いかにも〈集合的無意識の住人(元型)〉らしいではないか。ミュージカル「エリザベート」のトート(死神)もそう。

人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウスでも分かる通り、トリックスターは境界を超える。「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男は人間と妖怪との間に生まれた半妖怪であり、境界域に生きている 。だから彼の服も白と黒の間=灰色なのだろう。南北戦争で南軍と北軍の境界を超え活躍する「風と共に去りぬ」のレット・バトラー、ロシア貴族でありながらプロレタリアート(革命政府)とも懇ろにつき合う世渡り上手な「ドクトル・ジバゴ」の悪徳弁護士コマロフスキー。そしてジョン・ヒューズ監督「フェリスはある朝突然に」の主人公。

「新約聖書」(ジーザス・クライスト=スーパースター)のユダも紛れもないトリックスターだ。彼は果たして悪者なのだろうか?しかしイエスが世の中に〈救世主〉と認知され、キリスト教が世界に敷衍するためには、イエスが磔にされ、死後に復活する必要があった。つまり、イエスがユダに裏切られることは必須であり、彼はイエスの協力者だったと言えるだろう。なにしろ十字架がキリスト教の象徴(symbol)になるのだから。

最後に。元型ではないが、ユング心理学において極めて重要な用語について触れておこう。

・ヌミノース:神イメージの一側面。意志という恣意的な働きによって引き起こしえない力動的な作用もしくは効果である(さらに知りたい方はこちらをご覧あれ)。ヌミノース経験にとって超越的な力(神のごときもの)を信頼しようとする準備状態、すなわち、何らかの信仰が必要条件だとユングは考えた。ヌミノースとの出会いは、どの宗教体験にもみられる属性であり、それまでの無意識内容が自我の制約を突き破って意識的人格を圧倒するのだと彼は確信した。「スター・ウォーズ」のフォースが代表例だろう。ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」やトールキンの「ロード・オブ・ザ・リング」における指輪の力、「コードギアス」のギアス、「ハリー・ポッター」シリーズの魔法もそうだし、「未知との遭遇」の圧倒的光や5つの音(交信メロディ)、そして「君の名は。」のムスビ。宮水一葉曰く「土地の氏神さまのことをな、古い言葉で産霊(むすび)って呼ぶんやさ。(中略)糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神様の力や」。つまり集合的無意識の領域にあり、【元型=人格イメージ】を形成する前の、(自己や元型の間隙を)空気の振動や液体のように漂う状態と言えるのではないだろうか?これはソシュール言語学におけるゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)に相当する。詳しいことは下記事を参照されたい。

手塚治虫の「火の鳥」や「2001年宇宙の旅」のモノリス、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 「メッセージ」の”ばかうけ”(宇宙船)、ピーター・ウィアー監督「ピクニック  at ハンギング・ロック」の岩山も、ヌミノース象徴(実体化した姿)と言えるだろう。

参考文献:① A.サミュエルズ 他(著)山中康裕(監修)「ユング心理学辞典」創元社 ② 河合隼雄(著)「影の現象学」講談社学術文庫

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2019年6月 6日 (木)

〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その2〉太母・老賢人・子供・アニマ・アニムス・ペルソナ

の続きである。今回は集合的(家族的・文化的)無意識 Collective unconsciousの中にある、元型 Archetypeについて詳しく見ていこう。

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元型とは夢などに登場する、こころの原初的なイメージである。本能に結びついたこころの行動を構造化するための型と言える。集合的無意識がこのイメージを生み出し、拡大させる。次のようなものがある。

・太母(The Great Mother):慈しみ、すべてを優しく包み込む良い母親像。育み、支え、成長と豊穣を促進する。一方で誘惑し、呑み込み、奈落の底・暗黒に引き摺り込む悪い母親像をとることもある。運命のように逃れられない、身の毛のよだつ存在。また大地的/霊的の二元性で分類する方法もある。すなわち、地下に住む、農耕に関わる太母ディオニュソス的 by ニーチェ「悲劇の誕生」) と、神聖で、天上的、処女的な形態をとって現れる太母(アポロン的)である。具体例として「新約聖書」の聖母マリア、「風の谷のナウシカ」の王蟲、「天空の城ラピュタ」のドーラ、そして「崖の上のポニョ」のグランマンマーレ等が挙げられる。また「千と千尋の神隠し」の湯婆婆(ゆばーば)と銭婆(ぜにーば)の関係は、「オズの魔法使い」の西の悪い魔女(エルファバ)と北の良い魔女(グリンダ)に似ている。山姥のように恐ろしい太母としては「リング」の貞子、「呪怨」の伽椰子が該当するだろう。貴志祐介の小説「黒い家」やスティーヴン・キングの小説「ミザリー」、「キャリー」の母親もそう。ヒッチコック映画「サイコ」のノーマン・ベイツは恐ろしい太母に完全に呑み込まれ、こころを占拠されてしまった状態と言える。スピルバーグ「未知との遭遇」で太母はUFOの形態として現れる。そして最後に登場するマザーシップは曼荼羅そのものだ。

アボリジニ(オーストラリア先住民)のドリームタイム(現地の言葉でTjukurpa チュクルパ/alcheringa アルチェリンガ) 神話に登場する虹蛇(Ngalyod) も太母と同義である。 またドリームタイム=集合的無意識だ。

・老賢人(The Wise Old Man):いわゆる長老役ね。「風の谷のナウシカ」のユパや大ババ、「ライオン・キング」のラフィキ(祈祷師)、「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフ(魔法使い)、「ハリー・ポッター」のダンブルドア(魔法学校の校長)、「スター・ウォーズ」シリーズのヨーダ、「E.T.」のE.T.(地球を去る直前に「僕はここにいる」とエリオットの心臓を指差す)など。イニシエーションある集団や社会で、一人前の成人として承認されること。 また、その手続きや儀礼)において、老賢人(=マナ人格、現代の「カリスマ」に相当)は理想的イメージとして必要不可欠である。イニシエーションのプロセスで、対立するものの再結合、精神と物質のコニウンクチオ(錬金術における、互いに似ていない物質の結合の象徴)が個人に起こる。

・子供永遠の少年=プエル・エテルヌス、The Divine Childなど):永遠の少年=プエル・エテルヌスは向こう見ずで楽天的、想像にふけることを好み、理想主義を愛し、過度に精神的な姿勢を取ることがある。ユングは、人が自分自身を新たに再生出来ないことの投影から生じると考察した。時に無邪気さによる救済をもたらし、新たな出発を思い描く能力を与えてくれる。その代表はピーターパンだろう(ネバーランド=集合的無意識)。マイケル・ジャクソン全盛期には〈ピーターパン症候群〉という言葉が流行った。これを提唱した心理学者ダン・カイリーは「成長する事を拒む男性」と著書の中で定義した。ちなみにマイケル・ジャクソンはスティーヴン・スピルバーグ監督と組んで、ミュージカル映画「ピーターパン」に主演する企画を温めていた。しかし結局実現せず、ミュージカル用に楽曲を準備していたジョン・ウィリアムズは、それをスピルバーグの「フック」に転用した。40歳の大人になったピーターパンをロビン・ウィリアムスが演じた。ギリシャ神話に登場するイカロスもプエル・エテルヌスだ。蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶け、墜落して死んでしまう。最終話がこれにそっくりな手塚治虫「鉄腕アトム」もそう。そしてピノキオと鉄腕アトムを取り込んだ、スタンリー・キューブリック(原案)スティーヴン・スピルバーグ(脚本・監督)「A.I.」の少年型ロボット・デイビッド。オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」の〈バラのつぼみ(Rose Bud)〉も少年期のinnnocenceを象徴する元型だ。プエルは太母の庇護のもと、成長することなく死と再生を繰り返す。

一方、The Divine Childは未来を志向する無限の潜在力(potential future)、発展性を持っていて、未熟で不完全な状態から将来、英雄や神に成長する可能性を秘めている(a symbol of the developing personality) 。

大林宣彦監督の「さびしんぼう」や「はるか、ノスタルジィ」は、子供元型が主人公の目の前に現れる物語である。「はるか、ノスタルジィ」で少女小説を書いている中年の作家・綾瀬慎介(ペンネーム)はバンカラ姿の学生・佐藤弘(慎介の青年時代、本名)と物語の最後に統合される。つまり個性化(individuation)・自己実現が描かれている。大林監督はしばしば「僕はベテランの少年(16歳)」だと語る。言い換えるなら「僕のこころの中には子供元型が生きている」ということになるだろう。

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・ペルソナ:ギリシャ・ローマ時代に役者がつけた仮面のラテン語にその名称の起源がある。ペルソナは人が世界に立ち向かうときに身につける仮面である。ユングはそれを一つの元型とした。ペルソナには逆らい難さと普遍性があり、社会に個人が関与するとき、関係性と交換を促進する手段として役立つ。「社会的元型」であり、個々の社会がペルソナの基準を形成し、時代を経て変化する。例えば〈男らしさ〉〈女らしさ〉〈ホテルマンらしい表情〉〈ファストフードのスマイル0円〉など。「はるか、ノスタルジィ」の主人公・綾瀬慎介も作家という仮面をかぶっている。ペルソナを知るための最良の教材はアニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」であろう。

・アニマ・アニムス:男性が抱く内なる女性像(アニマ)と、女性のこころの中で活動する男性像(アニムス)である。たましいの導き手としての役割も果たし、創造的な可能性に結びつく。

アニマの代表例はゲーテ「ファウスト」のグレートヒェン(マルガレーテ)やダンテ「神曲」のベアトリーチェ、そして当然「神曲」にインスパイアされた宮崎駿「風立ちぬ」の菜穂子も然り。また松本零士「銀河鉄道999」のメーテルはアニマ太母が融合した姿心的複合体 Complex)と言えるだろう。星野鉄郎にとって理想の女性であり、かつ母親代わりなのだ。同じ構造が「源氏物語」藤壺の宮にも当てはまる。藤壺は光源氏の亡き母・桐壺更衣に瓜二つであり、幼い光源氏は母として慕う。しかし彼は成長すると彼女と性交し、子をもうけてしまう(後の冷泉帝)。なお、メーテルの原点はジュリアン・デュヴィヴィエ監督「わが青春のマリアンヌ」(1955)であり、マリアンヌもアニマだ。松本零士には「わが青春のアルカディア」という作品もある。

アニムスは童話にしばしば登場する白馬の騎士がそう。「白雪姫」の主題歌"Someday My Prince Will Come"である。「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラは自分の心のアニムスをアシュレーに投影しているが、物語の最後にそれが幻想(虚像)に過ぎず、本当のアシュレー(実像)はメラニーに依存しないと生きていけないつまらない男だと漸く分かる。大林宣彦監督「時をかける少女」における未来から来た少年・深町一夫も主人公・芳山和子(原田知世)のアニムスと言える。この主題は映画冒頭に登場するテロップに集約されている。

ひとが、現実よりも、理想の愛を知ったとき、それは、ひとにとって、幸福なのだろうか?不幸なのだろうか?

つまり〈理想の愛〉=アニムスである。実は大林監督が18歳の時に読み、いつか映画化したいと温めている福永武彦の小説「草の花」の主題もアニマ・アニムスをめぐる物語である。主人公・汐見茂思 は死んだ友・藤木忍の姿を妹の千枝子に投影してしまう。千枝子はその事に気づき、汐見の元を去る。

ペルソナとアニマ・アニムスの関係は下のようになる。

ペルソナ(自我と外界との仲介/意識的、集合的な適応に関わる) 対立 アニマ・アニムス(自我と内界との仲介)

に続く。To be continued...

参考文献:A.サミュエルズ 他(著)山中康裕(監修)「ユング心理学辞典」創元社

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2019年6月 5日 (水)

〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その1〉こころの図〜自我・自己・意識・無意識

僕がユング心理学に初めて興味を持ったのは、2016年夏のことだった。兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」の予習として、翻訳家・松岡和子の対談本「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)を読んだら、そこに日本におけるユング派臨床心理学の第一人者・河合隼雄が登場し、「作品全体が四つの層からできている」と言い出したのである。この〈意識-無意識〉構造の分析には心底感動し、納得した。詳しくは下記事に書いた。

そして僕は気が付いたのである。「ユング心理学は映画・演劇・文学など物語の読解に役に立つ」と。

アンソニー・スティーヴンズがユングの理論を描いた、〈こころの図〉をご紹介しよう。〈こころ〉はドイツ語でSeele。〈魂〉とも訳され、英語ではpsycheとなる。

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円の外層にConsciousness(意識)、内層にUnconscious(無意識)があり、さらにPersonal unconscious(個人的無意識)と深層のCollective unconscious(集合的無意識)に分かれる。集合的(家族的・文化的)無意識はアニメ「コードギアス」シリーズで〈Cの世界〉と呼ばれる。集合的無意識の中心にSELF(自己)がある。一方、表層の意識内にEGO(自我)があり、Ego-Self axis(自我ー自己軸)で自己と繋がっている。集合的無意識内の自己の周囲にA=Archetype(元型)があり、個人的無意識の領域にはC=Complex(感情に色付けされた心的複合体)がある。フロイトが提唱した〈エディプス・コンプレックス〉が該当する。

ユングはこれを受け、女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す〈エレクトラ・コンプレックス〉を提唱したが、フロイトはそのような名称は不要として否定した。なおエディプス(オイディプス)もエレクトラもギリシャ神話の登場人物である。また円の外側は外界である。

元型は、本能に結びついたこころのイメージであり、〈太母〉〈老賢人〉〈子ども〉〈ペルソナ(仮面)〉〈アニマ・アニムス〉〈トリックスター〉〈影(シャドウ)〉などがある。詳しくは後述する。ユングは〈トリックスター〉を〈影〉と等価だと考えたので、両者は密接しており、融合した元型と考えても良い。また〈ペルソナ〉は自我と外界との仲介としての位置にあり、〈アニマ・アニムス〉は自我と内界を仲介するので、対立するものとみなせる。

こころの多層構造をそのまま映像としてみせたのがクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」である。無意識の最深層には虚無(limbo)がある。ノーランはユング心理学から多大な影響を受けており、「バットマン・ビギンズ」では精神科医が元型(archetype)について触れる。「インセプション」でも〈投影(projection)〉とか〈影〉とか、ユング心理学用語が次々と飛び出してくる。

また、アポロ11号の月面着陸までを描いたハリウッド映画「ファースト・マン」(実話)でデイミアン・チャゼル監督は月を集合的無意識象徴(symbol)として描いたので、僕は唖然とした。

村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」において、〈井戸に降りていく〉という行為は、深層心理の奥底まで潜っていくということに等しい。詳しくは「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という対談本で村上自らが語っている。

新海誠の映画「君の名は。」も集合的無意識までDiveすれば、他者と繋がることが出来るという発想に基づいている。それが〈ムスビ(産霊)〉だ。なお、新海誠は村上春樹の大ファンで「秒速5センチメートル」や「雲のむこう、約束の場所」の登場人物たちは村上の著書を読んでいる。

「君の名は。」空前の大ヒットを受けて、川村元気プロデューサーは「集合的無意識にヒットした」と分析している(記事はこちら)。そもそもこの言葉は、詩人の谷川俊太郎から聞いたようだ(こちら)。

に続く。 To be continued...

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2019年6月 4日 (火)

ジョン・ヒューズ新発見!〜「フェリスはある朝突然に」「ブレックファスト・クラブ」

正直ジョン・ヒューズ監督のことは今までよく知らなかった。「ブレックファスト・クラブ」(1985)、や「フェリスはある朝突然に」(1986)などは端からティーンエージャー(Teen-ager)向けの取るに足らない学園ものだろうとなめてかかり、ずーっと無視していた。そもそもヒューズが脚本を書いた「ホーム・アローン」(1990)も初めて観たのは息子が生まれてからだった。

ところが最近、ジョン・ヒューズが多くのフィルムメーカーたちから崇拝され、こよなく愛されていることが次第に分かってきた。

まずは映画「スパイダーマン:ホームカミング」(2017)と、「ブレックファスト・クラブ」のポスター比較をご覧あれ。

Spi2 Break

そして「スパイダーマン:ホームカミング」ポスターの別バージョンと、「フェリスはある朝突然に」。

Spi Ferris

劇中、住宅地でスパイダーマンが敵の一味を追いかけるシーンは完全に「フェリスはある朝突然に」を再現している。徹底的なオマージュである。

また「デッドプール」(2016)で主人公がカメラに向かい観客に話しかける手法とか、エンドロール後のオマケ映像でデップーがガウン姿でスクリーンに登場し、喋る内容とかが「フェリスはある朝突然に」のパロディになっているのである(全く同じガウンを着ている)。

アナ・ケンドリック主演「ピッチ・パーフェクト」(2012)では主人公が「ブレックファスト・クラブ」を観る場面があり、これが重要なキーとなる。

さらにスティーヴン・スピルバーグ監督の「レディ・プレイヤー1」でも登場人物がジョン・ヒューズについて熱く語る場面があるといった具合。

つまり村上春樹の表現を借りるなら、ジョン・ヒューズの映画は〈時の洗礼を受けて〉生き残ったのだ。というわけで、遅ればせながら両作品を観たというわけ。

「ブレックファスト・クラブ」(現在Amazon プライムで配信中)で驚いたのは、恐らく実質的に本作は〈スクールカースト〉を初めて描いた映画なのではないか?ということ。「クルーレス」(1995)、「キューティ・ブロンド」(2001)、「ミーン・ガールズ」(2004)や、アメリカのTVドラマ「glee/グリー」(2009)の先駆けとなった、正にエポックメイキング epoch-makingな作品であった。上映時間の約9割が図書室での会話劇として展開されるという手法も斬新である。ジョン・ヒューズのミューズ、モリー・リングウォルドが素晴らしい。彼女が演じる〈お嬢様〉が食べる、お昼の弁当には爆笑した。

一方、「フェリスはある朝突然に」(現在Netflixで配信中)でマシュー・ブロデリックが演じる主人公フェリス・ビューラーは、ユング心理学でいうところのトリックスターだと思った。

トリックスター(集合的無意識に存在する元型 Archetypeのひとつ)とは神話や伝説の中で活躍するいたずら者で、その狡猾さと行動力において比類ない。善であり悪であり、壊すものであり作り出すものであり(scrap and build)、変幻自在で神出鬼没、全くとらえどころがない。単なるいたずら好きの破壊者で終始することもあれば、時として英雄にも成り得る(例えば人類に火をもたらしたギリシャ神話のプロメテウス)。境界を超えて出没するところにトリックスターの特徴がある。

面白いことにフェリスは物語の最初と最後で変容しない。なにか大切なことに気が付いて(教訓を学んで)成長したりしない。いたずら者に終止し、一切反省しない。これは〈青春映画〉として極めて異例である。むしろ変わるのは妹のジーニーであり、親友のキャメロンだ。つまりフェリスは(学校のルールや社会秩序、キャメロンの車を)破壊することによって他者に変容をもたらす者トリックスターなのだ。

そしてフェリスが仮病を使ってサボったハイスクールの教室では黒板にユング心理学の用語、〈夢 Dream〉〈アニマ Anima・アニムス Animus〉〈自我 Ego〉〈元型 Archetype〉などがチョークで書かれている。ジョン・ヒューズがトリックスターを念頭にシナリオを執筆したのは絶対に間違いない。

妹ジーニーが警察署で出会う、ドラッグ使用で逮捕された青年役でチャーリー・シーンがちょいと登場する。未だ彼が「プラトゥーン」に出演し大ブレイクする前である。もの凄く存在感があり、彼の台詞が哲学的で示唆に富む。神の啓示といっても過言ではないだろう。

映画序盤、フェリスはこう言う。

Life moves pretty fast. If you don't stop and look around once in a while, you could miss it.
(人生は光陰矢の如し。もし君が、時折立ち止まって周囲を見渡さなかったら、「それ」を見逃しちゃうぞ)

これってつまり、ラテン語の警句カルペ・ディエムCarpe Diemと同義なんじゃないかなと思った。「その日を摘め」「一日の花を摘め」という意味で、英語ではseize the day(その日をつかめ)と訳される。詳しくは下記事に述べた。

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2019年6月 3日 (月)

真風涼帆 主演/宝塚宙組「オーシャンズ11」

5月18日(土)宝塚大劇場へ。宙組「オーシャンズ11」を観劇。

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ダニー・オーションを真風涼帆が演じ、親友ラスティーに芹香斗亜、ヒロイン役は星風まどか。

2011年星組(柚希礼音、夢咲ねね)2013年花組(蘭寿とむ、蘭乃はな)に続く、3回目の上演である。僕は星組・花組公演も観ている。

台本(脚色)・演出は小池修一郎。小池の好みはふたつのタイプに分けることが出来る。ひとつはスコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」や萩尾望都「ポーの一族」のような哀感漂う物語。主人公はある人に憧れを懐くが、手を伸ばしても決して届かない。もうひとつが底抜けに明るい脳天気なお話。「エクスカリバー」とか「オーシャンズ11」がその典型だ。またエコとか地球環境を守るとか言っている団体が実は……というのもお得意のパターンで、「PUCK」「オーシャンズ11」が該当する。さらに「LUNA -月の伝言-」のヒロインも環境保護団体の一員という設定。

「オーシャンズ11」はお気楽な作品だが退屈しないし、男役の〈カッコよさ〉が堪能出来る。僕はスティーブン・ソダーバーグ監督の映画版より宝塚版の方が好き。ただ今回、星風まどかは確かに美人なのだけれど、夢咲ねねの方が良かったなぁ。

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2019年5月30日 (木)

#MeToo のおかげでデュトワ降臨!!大阪フィル定期(ダフニス・幻想交響曲)または、〈棚ぼたの奇跡〉

映画「恋におちたシェイクスピア」や「シカゴ」などアカデミー賞を獲りまくっていたプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女優らに対してセクシャルハラスメントや性的暴行を長年にわたり繰り返していたことが告発され逮捕された。ここから盛り上がりを見せたのが #MeToo 運動である。「アメリカン・ビューティ」でアカデミー主演男優賞を受賞したケヴィン・スペイシーは映画業界から追放され、ウディ・アレン監督は映画を撮れなくなり、「千と千尋の神隠し」北米公開に尽力してくれたジョン・ラセターはディズニー及びピクサー・アニメーション・スタジオ(両社でチーフ・クリエイティブ・オフィサーを兼任)を去らなければならない状況に追い込まれた(挨拶でハグする時間が、他の人より長いという理由で!)。

クラシック音楽業界ではジェームズ・レヴァインが芸術監督を努めていたメトロポリタン歌劇場から永久追放された。また2016年秋からロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に就任したダニエレ・ガッティは複数の楽団員にキスを迫るなどセクハラ行為をしていたことが発覚し、2018年8月に電撃解任された(記事はこちら)。コンセルトヘボウの後任は未だ決まっていない。

2017年12月22日、AP通信はシャルル・デュトワ(82)が過去にセクハラ行為を繰り返していたと複数の女性被害者の証言を基に報じた。この報道が引き金となり、翌18年2月末に名誉音楽監督の地位にあるNHK交響楽団宛にデュトワから「現状では私自身のみならず、オーケストラ、そして親愛なるお客様が音楽を十分に楽しめる環境にない」などと申し出があり、12月定期演奏会の出演を辞退した。問題となったのはなんと、30年前の行為であった#MeToo もここまで行くと、Too Much !なのでは?

結局第一線での仕事を失ったデュトワがいわば〈都落ち〉みたいな形で、大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮台に初めて立つに至ったというわけ。正に棚ぼたである。前立腺がんの治療に専念するために降板した尾高忠明の代演として、大フィルのR.シュトラウス/楽劇「サロメ」(演奏会形式)もデュトワが振ると発表され、関西のクラシックファンは騒然となった。みんな狂喜乱舞である。最近の彼は上海交響楽団とも親密な関係を結んでいるようだ(上海でも「サロメ」をやったそう)。アジアでは風当たりが強くないのだろう。

世界のオーケストラ・ランキングを考えると、まずベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ、ロンドン交響楽団、シカゴ交響楽団などがAランクに位置する(最近のウィーン・フィルの凋落ぶりは目を覆いたくなる)。NHK交響楽団や東京交響楽団など在京オケ、そして京都市交響楽団はBランク。大フィルは高く見積もってもせいぜいCランクだろう。弦楽器に関してはBランクと言っても良いが、如何せん管楽器が弱い。これを僕は以前、弦高管低と評した。そんな地方オケを世界的指揮者デュトワが振ってくれるなんて、僥倖としか言いようがない。

クリーブランド管弦楽団を慈しみ育てた指揮者ジョージ・セル、フィラデルフィア管弦楽団のユージン・オーマンディ、シカゴ交響楽団のフリッツ・ライナー、ゲオルグ・ショルティらのことをオーケストラ・ビルダーと呼ぶ。デュトワもオーケストラ・ビルダーの典型であり、彼のおかげで以前は無名だったモントリオール交響楽団が一流のオーケストラとして世界で認知された(逆に次々とオケを駄目にするダニエル・バレンボイム、ウラディーミル・アシュケナージらはオーケストラ・デストロイヤーと言えるだろう。両者の共通点は著名なピアニスト出身であること)。

5月24日(金)フェスティバルホールへ。デュトワ/大フィル定期を聴く。

  • ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
  • ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲
  • ベルリオーズ:幻想交響曲

デュトワの十八番ばかりズラッと並んだ。

淀川工科高等学校吹奏楽部の丸谷明夫先生(丸ちゃん)は1995年以降、全日本吹奏楽コンクールで金賞を取り続けている(前人未到の20回連続!!)。近年の淀工は自由曲として大栗裕/大阪俗謡による幻想曲と、ラヴェル/「ダフニスとクロエ」第2組曲の2曲をローテーションしている(コンクールには時間制限があるので”無言劇”はカット)。淀工の「ダフニス」は全国大会(@普門館)で生演奏を聴いたことがあるが、はっきり言って大フィルの管楽器より上手い。まぁプロは3日で曲を仕上げ、高校生たちは同じ曲を半年以上毎日練習するわけで、そこに差が生じるのは致し方ない。

魔術師デュトワがタクトを振ると、オーケストラは普段と違い、洗練された音を奏でた。マドレーヌかマシュマロのような柔らかさ。「ダフニスとクロエ」はリズミカルだけれど、(”マーチの丸谷”として知られる)丸ちゃんの鋭利なキレに対してデュトワは〈切れない〉魅力に満ち溢れていた。だからといって響きが曖昧模糊と濁ることもなく、極めて解像度が高い。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは著書「神話論理」4部作の中で、アメリカ先住民の神話に登場する虹のことを「半音階的なもの」 と呼んだ。そしてデュトワが紡ぐ、半音階を駆使した「ダフニス」は、虹色に輝いていた。この鮮やかな色彩感は誰にでも醸し出せる技じゃない。僕の目の前には両性具有的な世界が広がっていた。

あと驚いたのが、大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮:福島章恭)が参加していたこと。全曲演奏ならまだしも、組曲なので当然合唱抜きだと思っていた。大変贅沢な体験をさせてもらった。

1830年に26歳のベルリオーズが作曲した幻想交響曲は、彼自身の狂気の愛を扱っている。レナード・バーンスタインは本作を「史上初のサイケデリックな交響曲」と評した。特に第4楽章「断頭台への行進」と第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」はもう、薬物中毒でラリっているとしか考えられない(どうもベルリオーズは作曲時にアヘンを吸っていたらしい)。

ベルリオーズが激しい恋心を燃やし、失恋の憂き目にあった相手は彼がパリで「ハムレット」を観劇した時にオフィーリアを演じていたアイルランド女優ハリエット・スミスソンである。可笑しいのは本作を世に問うた後にベルリオーズはスミスソンと再会し、今度は彼の愛が受け入れられて1833年に二人は結婚した。しかし夫婦仲はすぐに冷え込み40年には別居、彼女が亡くなるとベルリオーズはすでに同居していた歌手マリー・レシオとすかさず再婚した。結局、彼の一方的な愛は「幻想」に過ぎなかったのである。おとぎ話みたいに、"and they lived happily ever after."とはいかなかった……。

遅めのテンポの幻想交響曲にはフワッとした膨らみがあった。第1楽章では、かそけき幽玄の雰囲気がそこはかとなく漂う。いくらでもグロテスクに描ける第5楽章は寧ろ妖艶で、ひとりの女に血道を上げる男の滑稽さが浮かび上がる。考えてみればベルリオーズの愚かしさは、アレクサンドル・デュマ・フィスが書いた「椿姫」の主人公アルマンとか、アベ・プレヴォーが書いた「マノン・レスコー」の騎士デ・グリューにどこか似ている(どちらもフランスの小説である)。 ゆとりがあって、あくまで優雅な表現。お洒落でモテモテの伊達男デュトワの面目躍如であった。ちなみに彼はマルタ・アルゲリッチらと4度の結婚歴がある。そしてアルゲリッチと離婚した原因は、彼がヴァイオリニストのチョン・キョンファと浮気していたことが発覚したためだという。やれやれ。

 

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2019年5月25日 (土)

四神の構造と古代日本人の心

中国の神話において、天の四方の方角を司る霊獣のことを四神という。僕が初めて四神について耳にしたのは、古典落語「百川(ももかわ)」であった。江戸時代に日本橋にあった料亭「百川」を舞台にした作品で、四神旗が登場する。

現在、紫式部の「源氏物語」を読み進めているのだが、平安時代の王朝物語を理解するためには四神についての基礎知識が必要不可欠だということが次第に分かってきた。特に光源氏が造営した六条院において、どの方角に各々の姫君を住まわせたかという配置である。

1998年に奈良県の明日香村にあるキトラ古墳で、東西南北の四壁に四神青龍白虎朱雀玄武)が描かれていることが発見された。ここは7世紀から8世紀に築造されたと考えられており、遣隋使〜遣唐使が派遣されていた時期に一致する。

桓武天皇は、延暦十三年(西暦794年)に長岡京から平安京へと遷都したが、都が葛野大宮の地に選定されたのも、四神相応の「平安楽土」とみなされたことが理由のひとつだった。

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キトラ古墳で発見された絵を方角と季節、色に対応させた図でご紹介しよう。

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さらに五行説(五行思想)に照らし合わせた割り当てもある。五行思想は古代中国に端を発する自然哲学で、万物は火・水・木・金・土の五種類の元素からなるという説である。

玄武」(冬)は亀に巻き付く蛇として示される。亀は万年と言われるように長寿の象徴であり、蛇は自らの尻尾に噛み付くとこで円環・ウロボロスを形成し、年に数回脱皮を繰り返すことから死と再生を意味する(始まりもなく終わりもない)。五行思想ではを司る。

朱雀」(夏)≒鳳凰であり、五行思想ではを司り、永遠の命を象徴する。

よって北南、〈玄武朱雀〉ラインは不滅(eternity/immortal)に関わる軸となっている。

青龍」は花開く春と結びつき、若々しい未来への希望、潜勢力を象徴する。五行思想ではを司る。「青龍」の青は「草木が青々と茂っている」という表現でも分かる通り、緑色が該当する。実際にキトラ古墳の彩色は下のようになっている。

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白虎」は実りの秋と結びつき、豊穣を象徴する。五行思想ではを司る。

東西、〈青龍白虎〉ラインは〈日の出(誕生)ー日没(黄昏)〉の道筋であり、浮世・有限・無常(limited/mortal)に関わる軸と解釈することも出来よう。

つまり北南は〈宇宙・自然〉軸で、東西が〈人の命・文化〉軸と見なせば、二項対立が成立する。

フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは「神話論理」四部作の中で次のように語っている。

神話とは自然から文化への移行を語るものであり、神話の目的はただ一つの問題、すなわち連続不連続のあいだの調停である。

中国では北が最も重要だった。北極星は不動であり、他の星は北極星を中心に回転する。故に北極星は天子の象徴となった

これが日本に輸入されると変換が行われた。何故なら日本の帝は太陽神・天照大神の末裔という設定になっており、「日出処(ひいづるところ)の天子」だからである。つまり日本では東が方角の中で最も重要なのだ

「源氏物語」では皇太子のことを東宮と呼んでいる。東=春であり、太陽が昇る方角だからであろう。また光源氏が朧月夜との醜聞により須磨(さらに明石)に謫居するのは、日が沈む西方向への移動という意味合いもあろう。

人生を四季に例え、若年期を「春」、壮年期を「夏(しゅか)」、熟年期を「秋(はくしゅう)」、老年期を「冬(げんとう)」と表現することがある(青龍朱雀白虎玄武が一文字ずつ入っている)。詩人・北原白秋の号はこれに由来する。北原隆吉が「白秋」の雅号を初めて名乗ったのは16歳の時。その時彼は福岡県柳川市に住んでいた。柳川は京都御所から見て西の方角である

また会津藩では武家男子を中心に17歳以下を白虎隊、18歳から35歳までを朱雀隊、36歳から49歳までを青龍隊、50歳以上を玄武隊として軍を組織した。会津戦争(薩摩藩・土佐藩による新政府軍 vs. 徳川旧幕府軍)における白虎隊の悲劇は余りにも有名である。

二項対立を見てみると、〈玄武・冬↔朱雀・夏〉は〈水(川・雨)↔火〉であり、〈下降↔上昇〉〈冷たい↔熱い〉という対立を示している。

〈青龍・春↔白虎・秋〉は〈空↔虎穴(洞窟)〉という垂直方向の差異(対立)に置き換えられる。また五行思想で考えるなら東西〈〉の間、中央にが位置する。

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から上方に伸び、下方に掘り進むと手に入るわけで、ここでもベクトルが対称を成している。

また〈(青龍+玄武)↔(白虎+朱雀)〉は〈湿ったもの(wet)↔乾いたもの(dry)〉の対立として考えることが出来る。

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