観た映画3,000本。

僕が生まれてから現在までに観た映画の本数が3,000本に到達した。

どうしてそんな事がわかるのかというと、一つ一つスマートホンのアプリ"WATCHA"に登録して来たからである。

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こうして、新たな目標が生まれた。死ぬまでに必ず5,000本は観るぞ!〜今までのペースから考えれば、十分達成可能な数だ。

なお、現時点での僕のオールタイム・ベスト20を挙げておく。一監督一作品に絞った。同一監督で代替可能な作品があれば、括弧で示す。

  1. 大林宣彦「はるか、ノスタルジィ」(「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群 夕子悲しむ」「時をかける少女」)日
  2. 新海誠「君の名は。」(「秒速5センチメートル」「天気の子」) 日
  3. ヴィクター・フレミング/ジョージ・キューカー/サム・ウッド「風と共に去りぬ」 米
  4. アルフレッド・ヒッチコック「めまい」 米
  5. デイヴィッド・リーン「ドクトル・ジバゴ」 米・伊
    (「ライアンの娘」「アラビアのロレンス」 英)
  6. 宮崎駿「風立ちぬ」(「天空の城ラピュタ」「千と千尋の神隠し」) 日
  7. ジョゼッペ・トルナトーレ「ニュー・シネマ・パラダイス」 伊
  8. デイミアン・チャゼル「ラ・ラ・ランド」 米
  9. ピーター・ウィアー「ピクニック at ハンギング・ロック」 豪
  10. 岩井俊二「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(実写版) 日
  11. 黒澤明「七人の侍」 日
  12. ロバート・ワイズ「サウンド・オブ・ミュージック」 米
  13. スティーヴン・スピルバーグ「未知との遭遇」(「E.T.」) 米
  14. 成瀬巳喜男「山の音」 日
  15. エリア・カザン「草原の輝き」(「エデンの東」) 米
  16. ロベール・アンリコ「冒険者たち」 仏
  17. 新房昭之「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」(前編/後編/新編) 日
  18. フランソワ・トリュフォー「恋のエチュード」(「大人は判ってくれない」) 仏
  19.  キャロル・リード「フォロー・ミー」(「第三の男」) 英
  20. ヤノット・シュワルツ「ある日どこかで」 米

次点はリドリー・スコット「ブレードランナー」かな?川島雄三「幕末太陽傳」、石川慶「蜜蜂と遠雷」あたりでもいいね。

各々の作品について僕がどう語ってきたかは、下記事をご覧ください。

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アナと雪の女王 2

評価:A

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映画公式サイトはこちら

前作のテーマは、「他者と異なる自分の個性を封じ込めて付和雷同するのは止めて、貴方らしく、ありのままに生きなさい(Let It Go)」だった。それはLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)=性的少数者の生きづらさを解消していこうという社会的機運に直結していた(僕はエルサがLGBTだと確信している)。しかし今回は趣向をガラリと変えてきた。テーマはズバリ「生成変化(transform)しないものに価値はない。勇気を持って未知の世界へ(Into the Unknown)一歩踏み出せ!」である。正にそれを象徴するのがエルサがソロで歌う主題歌というわけ。

本作には風・火・水・大地の精霊が登場する。まるでケルト神話だ、と思った。だから「アナと雪の女王2」が作品の雰囲気的に一番近いのは、アイルランドのアニメーション・スタジオ〈カートゥーン・サルーン〉が制作した「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」(トム・ムーア監督)である。日本の八百万神(やおよろずのかみ)信仰やアミニズムにも通ずる世界観であり、たいへん親しみやすい。

「ソング・オブ・ザ・シー」も海の方から聞こえてくる母の歌に子どもたちが導かれるわけで、すごく似ている。

また、オラフが言う「水には記憶がある」という概念がとっても新鮮で、心惹かれた。洞窟でエルサが体験するのは重層的な記憶の集積であり、その豊穣な時間(の結晶)イメージが魅力的。

「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」(by フェデリコ・フェリーニ)

時間(結晶)イメージについて詳しくはフランスの哲学者ベルクソンの逆さ円柱モデルを用いて下記事に解説した。ご参照あれ。

ディズニー・スタジオの底力、恐るべし。

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また前作同様、ロペス夫妻が作詞・作曲した歌の数々も素晴らしい。ただアナの恋人クリストフにもソロ・ナンバーが用意されているのだが、間が持てないというか些かダレるかな。歌はもっと少なくても良かったのでは?

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パーヴォ・ヤルヴィ/ロイヤル・コンセルトヘボウ管@フェニーチェ堺

11月23日(土)フェニーチェ堺へ。パーヴォ・ヤルヴィ/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を聴く。

  • ベートーヴェン:交響曲 第4番
  • ショスタコーヴィチ:交響曲 第10番
  • チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」からトレパーク(アンコール)
  • シベリウス:悲しきワルツ(アンコール)

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フェニーチェ堺(堺市民芸術文化ホール)は今年10月1日にこけら落とし公演がされたばかりの真新しい施設である。大層音響がよくて、ザ・シンフォニーホールに匹敵するなと思った。

パーヴォの振るベートーヴェンは勿論、ピリオド・アプローチ。第1・第2ヴァイオリンが指揮台を挟み向かいあう対向配置で、ヴィブラートは微か。水も滴るような美しい音色で、潤いがあって瑞々しい。あと木管の響きが古色蒼然とした魅力に溢れている。

ショスタコーヴィチも対向配置。軽快ですばしっこいこと、猿(ましら)の如し。

一方、アンコールの「悲しきワルツ」は幽(かそけ)き雰囲気に魅了された。

ホルンの首席奏者がべらぼうに上手いなと思って見たら女性だった。ケイティ・ウーリー、英国生まれでフィルハーモニア管弦楽団から移籍したそう。正直、ベルリン・フィルのシュテファン・ドールを上回っているんじゃないかとすら思った。

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「IT/イット THE END”それ”が見えたら、終わり。」と、スティーヴン・キングのトラウマ

評価:B+

Chapter Twoである。映画公式サイトはこちら

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ITー”それ”とは何か?ズバリ、幼少期のトラウマ(精神的外傷)である。主人公ビルは幼い弟をひとりで外に遊びに行かせたために死なせてしまった。自分に責任があると思い詰めている。ベバリーは父親が彼女のことを〈女〉=性欲の対象として見ているのが耐えられない。だから月経(=子供を産める体に成長したこと)の象徴である血や、〈女〉らしさの象徴である長い髪の毛が彼女を襲う。マイクは火事で両親を失い、自分だけ生き残ったことに罪悪感を感じている。エディは喘息持ちで、不潔なもの・腐ったものに対する激しい恐怖がある(発作が誘発されるので)。ベンは太った転校生で、いじめっ子グループのターゲットとなる。

だからペニーワイズ(ピエロ)はそういった彼らの恐怖心・罪悪感の象徴として登場する。心理学的には、トリックスター=ほとんど影(シャドウ)と等価である。

ペニーワイズは井戸の底に生息しているわけだが、正に深層心理の奥底に潜む元型(Archetype)に相応しい場所と言えるだろう。

ただ、同じくスティーヴン・キング原作の「スタンド・バイ・ミー」 を彷彿とさせるChapter Oneはリリカルな青春譚で大好きなのだが、子どもたちが大人になった27年後を舞台にしたChapter Twoは、結局彼らが抱えているトラウマが子供時代と変わらないわけで、そこが二番煎じというか、全般的に既視感(デジャヴ)が強かったのが残念。むしろ寂しがり屋のペニーちゃんがちょっと可哀想になり、ITー”それ” に感情移入してしまった。ティム・カリーの演技がお茶目だしね。

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スティーヴン・キングが2歳の時、彼の父親は「ちょっとタバコを買いに行く」と言い残して出かけたきり、戻ってこなかった。その後所在が不明なまま現在に至る(キングも「藪蛇になるから」と調査していないそう)。「父は私を愛していないから出ていったんだ」という思いがトラウマとなり、彼の作品に濃い影を落としている。その一方で、12-13歳のときに屋根裏部屋で父の蔵書を発見した。その大半はSFやホラー小説だった。H.P.ラヴクラフト(「狂気の山脈にて」など)の短編集も含まれていた。母に訊ねると、父が雑誌にそういったジャンルの小説を投稿していたという事実も発覚した(しかし活字にはならなかった)。これが後に、キングが作家になる動機となった。精神分析学における〈親の理想像(イマーゴ)〉が大いに関わっている。

「シャイニング」の終盤、小説家志望の元教師ジャックは一冬の管理人として滞在しているホテル(とそこに生息している幽霊たち)に魂を乗っ取られ、木槌を振りかざし妻のウェンディを襲い、その後息子のダニーを殺そうと追う。しかし、一瞬正気に帰り、次のように言う。

「ここから逃げるんだ。急いで。そして忘れるな。パパがどれだけおまえを愛しているかを」 (深町眞理子・訳/文春文庫)

母子が逃げ出した後、ジャックはボイラーの大爆発で瓦解するホテルと運命を共にする。つまり「シャイニング」の心臓(=車のエンジン)はここにあり、父親からの「承認欲求」を満たすために("I love you."という一言を聞きたかったから)キングはこの小説を書いた、と断言しても決して的外れではないだろう。

しかしスタンリー・キューブリック監督は「シャイニング」映画化に際し、無慈悲にもこのエピソードをばっさりカットした。だからキングはキューブリック版が大嫌いで、「エンジンのないキャデラックみたいなものだ」などと繰り返し繰り返し執拗に非難するのである。自ら製作総指揮にあたり、満足行くようTV版も創ったが、世間からは駄作と烙印を押されている。

英紙が選ぶ「スティーヴン・キング原作映画ベスト20」でキューブリック版「シャイニング」は堂々第2位に選出され、米タイム誌が選ぶ「スティーヴン・キング原作映画ベスト10」でも余裕でランクインした。そしてスティーヴン・スピルバーグ監督「レディ・プレイヤー1」では主人公がゲームの中で、2つ目の鍵を探しに映画「シャイニング」の世界に入っていく。原作者の評価と、読者・観客のそれが齟齬をきたしている代表例であろう。

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河村尚子と菊池洋子「2人の協奏曲」(ベートーヴェン&モーツァルト)

11月16日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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下野竜也/兵庫芸術文化センター管弦楽団で、

  • モーツァルト:「イドメネオ」序曲
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲 第20番(独奏:菊池洋子)
  • ベートーヴェン:「プロメテウスの創造物」序曲
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」(独奏:河村尚子)
  • モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲 第10番より第1・3楽章(菊池・河村)

下野の指揮はサクサクと水捌けがよく、リズミカル。

河村の「皇帝」は力強く骨太のベートーヴェンで聴き応えがあり。

27曲あるモーツァルトのピアノ協奏曲のうち、短調は第20番ニ短調と第24番ハ短調の2曲しかない(5つあるヴァイオリン協奏曲は全て長調)。第20番はベートーヴェンの大のお気に入りで、カデンツァまで作曲している(モーツァルトのコンチェルトにベートーヴェンがカデンツァを書いたのはこの曲のみ)。そしてベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第19番の第1主題は、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 第3楽章のロンド主題とそっくり同じである

ベートーヴェンの「皇帝」で想い出すのは、ピーター・ウィアー監督の大傑作オーストラリア映画「ピクニック at ハンギング・ロック」だ。

女学校の生徒4人が岩山でピクニックをしているときに行方不明になる。近くに住み捜索隊に加わる青年マイクルは湖畔に浮かぶ白鳥を見ながら、いつか垣間見た美少女ミランダの面影をそこに重ねる。ここで「皇帝」第2楽章が流れる。

また後にピーター・ウィアーがハリウッドに進出し、ロビン・ウィリアムス主演で撮った「いまを生きる」でも、アメリカの全寮制学校の英語教師が、ロンドンに残してきた妻の写真を見つめながら彼女に手紙を書く場面で「皇帝」第2楽章が流れる。ウィアーにとってこの音楽は〈愛しい女性の面影〉と同義なのだ。

最後、2台のピアノのための協奏曲は中々これだけ達者なピアニスト2人が揃うのが滅多にないことなので、何とも贅沢な耳のご馳走だった。

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菊池洋子 ピアノ・リサイタル「モーツァルト 音のパレット」最終回

11月10日(日)兵庫県立芸術文化センターへ。菊池洋子のピアノで、オール・モーツァルト・プログラムを聴く。

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  • ピアノ・ソナタ 第7番
  • ピアノ・ソナタ 第16番
  • きらきら星変奏曲(「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲)
  • 幻想曲 ハ短調
  • ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調
  • グラスハーモニカのためのアダージョ K.356 (アンコール)

菊池はモーツァルト国際コンクールにおいて日本人として初めて優勝した。

イングリット・ヘブラー、クララ・ハスキル、リリー・クラウス、マリア・ジョアン・ピリス、そして内田光子。〈モーツァルト弾き〉と呼ばれるピアニストは圧倒的に女性が多い。1965年にマルタ・アルゲリッチがショパン・コンクールで優勝するまでは「女性は非力であり彼女たちの演奏でベートーヴェンやショパンを聴く価値は全くない。子供でも弾けるモーツァルトでもさせておけ」という偏見が社会にはびこっていたのは疑いようのない事実である。ウラディミール・ホロヴィッツは「東洋人と女にはピアノは弾けない」という”迷言”を残した。しかしピリスや内田光子は見事に「女はモーツァルトしか弾けない」という世評を打ち砕いたのではないだろうか?

幻想曲 ハ短調はソナタ 第14番と同じ調性であり、出版時にソナタの前奏曲として作曲された。よって今回も切れ目なく演奏された。

菊池の歯切れよく、コロコロ転がるモーツァルトを堪能した。

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【増補改訂版】時間は存在しない/現実は目に映る姿とは異なる〜現代物理学を読む

SNSで大評判だったので、カルロ・ロヴェッリ(著)富永星(訳)「時間は存在しない」(NHK出版)を読んだら、すこぶる面白かった。タイム誌の「ベスト10ノンフィクション(2018年)」に選出されている。

現代の物理学は、相対性理論と量子論という2大理論を土台にしている。時空の理論である一般相対性理論は、主にマクロ(巨視的)な世界を扱い、量子論は原子や素粒子(原子をさらに分解した最小単位)など、ミクロな世界を支配する法則についての理論である。ミクロな時空では、一般相対性理論が役立たない。そこでこの2大理論を融合し、両立させるために有力な候補とされるのが、「ループ量子重力理論」と「超ひも(超弦)理論」の2つ。ループ理論は時空(時間と空間)にそれ以上の分割不可能な最小単位(量子)が存在することを記述し、時間の消失という概念上の帰結を示す。

カルロ・ロヴェッリはイタリアの物理学者で、「ループ量子重力理論」の第一人者である。

「時間は存在しない」の英題は"The Order of Time"なので、「時間の順序」という意味になる。数式がほとんど出てこないので、文系の人でも十分理解出来るだろう。以下備忘録も兼ねて、どういった内容かご紹介しよう。

アリストテレスは「時間とはなんぞや」という問いに対し、時間とは変化を計測した数であるという結論に達した。何も変わらなければ、時間は存在しない。なぜなら時間は、わたしたちが事物の変化に対して己を位置づけるための方法なのだから。目を閉じていても時間が存在するのは、わたしたちの思考に変化があるからである。

アインシュタインは空間と時間が時空間の持つ二つの様相であり、エネルギーと質量もまた同じ実体がもつ二つの面にすぎないと考えた。だからエネルギーが質量に変わったり、質量がエネルギーに変わったりする過程が、かならず存在するはずである。そこからE=mc2という有名な公式が導き出された(E:エネルギー、m:質量、c:光速度)。そして質量をエネルギーに変換することで、核兵器や原子力発電の開発に繋がった。

世界は何からできているか?ニュートンは〈空間/時間/粒子〉と考えた。電磁場の基礎理論を確立したファラデーとマクスウェルはさらに〈粒子〉を〈場/粒子〉に分けた。アインシュタインは1905年の特殊相対性理論で〈時空間/場/粒子〉とし、1915年の一般相対性理論で〈場/粒子〉にまとめた。時空間と重力場は、同じものである

時空間は曲がる」。これが、一般相対性理論を支えている発想である。地球が太陽の周りを回るのは、太陽の周りの時空間が太陽の質量により屈曲しているからである。地球は傾いた空間を真っ直ぐに進んでいるのであって、その姿は漏斗(ろうと)の内側で回転する小さな玉によく似ている。

Nasa

上図はNASAの人工衛星が観測した、地球の質量による時空間(=重力場の歪み。この周囲(蟻地獄・すり鉢状になった内側部分)を、慣性の法則に従い月が直進している

ある場所に存在する物質の量が多ければ多いほど、その場所における時空間の歪みは大きくなる。

曲がるのは空間だけではなく、時間もまた重力の影響を受けて屈曲する(映画「インターステラー」で描かれた)。アインシュタインは地球上で標高が高い場所(地球の中心部から遠い位置)では時間が速く過ぎ、低い場所では遅く過ぎると予見した。それは後に精度の高い時計を用いて証明される。

例えば超大質量を持つブラックホール近くまで宇宙船で旅をして、そこに数日留まり、地球に戻ったら地上の人たちが自分よりも早く年老い、顔見知りが誰もいなくなっている、なんて浦島太郎みたいなことが実際に起こり得るのである。

また特殊相対性理論によると、光速に近いスピードで移動する乗り物の中にいる人は地球上で静止している人と比較し、ゆっくりと時間が過ぎる(ウラシマ効果という)。この仮説も後に高精度な時計で実証された。

私たちはゼリー状の時空間に浸かっている、と想像してみて欲しい(アインシュタインはクラゲなど無脊椎動物をイメージした)。時空間は押し潰されたり、引き伸ばされたり、折り曲げられたりする。時間は相対的なものであり、絶対的に流れる時間は存在しない。

一般相対性理論はさらに、空間が海の波のように振動することを予見した。そして2015年に初めてブラックホールから放出された重力波が地球上の検出器で直接に観測され、その功績が讃えられ2017年にキップ・ソーン(映画「コンタクト」「インターステラー」でアドバイザーを務めた)ら3人がノーベル物理学賞を受賞した。

時間の最小単位はプランク時間であり、これ以上分割出来ない。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。ミクロな世界で時間は「量子化」される。「量子」とは基本的な粒のことであって、あらゆる現象に「最小の規模」が存在する。時間は連続的ではなく、粒状である。一様に流れるのではなく、いわばカンガルーのようにぴょんぴょんと、一つの値から別の値に飛ぶものとして捉えるべきなのだ。なお余談だが、音を量子化したもの(最小単位の粒)を「フォノン(音響量子・音子)」という。

この世界は「物」(物質、存在する何か、ずっと続くもの)ではなく、「出来事」(絶えず変化するもの、恒久ではないもの)によって構成されている。出来事、過程の集まりと見れば、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。「物」と「出来事」の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。世界は硬い石ではなく、束の間の音や海面を進む波でできている。私たちは「出来事」が織りなすネットワークの只中で暮らしている、と考えればうまくいく。

とても分り易かったので、さらに量子論のことを知りたくてロヴェッリ が「時間は存在しない」より前に書いた「すごい物理学講義」(原題は『現実は目に映る姿とは異なる』/英題"Reality Is Not What It Seems")を続けて一気に読破した(栗原俊秀 訳/河出書房新社)。彼は本書で「メルク・セローノ文学賞」「ガリレオ文学賞」を受賞している。僕はオーストラリアの先住民・アボリジニの神話〈ドリームタイム〉について色々勉強しているうちに、〈ドリームタイム〉が量子論に極めて類似することに気が付き、以前から興味を持っていたのだ。

「すごい物理学講義」はデモクリトスの原子論にはじまり、アルキメデス『砂粒を数えるもの』や、地球が球体であることを明確に指摘した現存する最古の文章、プラトンの『パイドン』について言及され、さらにアインシュタインの「三次元球面」がダンテ『神曲』の描く宇宙像に一致しているという議論に発展し、ワクワクした。

量子論を基礎づける三つの考え方は粒性・不確定性・相関性(関係性)である。エネルギーは有限な寸法をもつ「小箱」から成り立っている。量子とはエネルギーの入った「小箱」のことであり、それが持つエネルギーはE=hvで表せる(E:エネルギー、h:プランク定数、v:振動数)。

自然の奥底には「粒性」という性質があり、物質と光の「粒性」が、量子力学の核心を成す。その粒子は急に消えたり現れたりする(不確定性)。情報(=ある現象の中で生じうる、たがいに区別可能な状態)の総量には「限界」がある。

粒状の量子が間断なく引き起こす事象(相互作用)は散発的であり、それぞれたがいに独立している。量子たちは、いつ、どこに現れるのか?未来は誰にも予見できない。そこには根源的な不確定性がある。事物の運動は絶えず偶然に左右され、あらゆる変数はつねに「振動」している。極小のスケールにあっては、すべてがつねに震えており、世界には「ゆらぎ」が偏在する。静止した石も原子は絶え間なく振動している。世界とは絶え間ない「ゆらぎ」である。しかし我々人間は、その余りにも小さ過ぎる「ゆらぎ」を知覚出来ない。自然の根底には、確率の法則が潜んでいる。ひとたび相互作用を終えるなり、粒子は「確率の雲」のなかへ溶け込んでゆく。(本には書かれていない喩え話をしよう。量子は”モグラたたき”のモグラみたいなものと言えるのではないだろうか。次にどこに現れるか予想がつかない。ただし、モグラは常に一匹しか出てこない。出没する範囲は決まっていて、出現頻度=確率が高い場所もある。)

自然界のあらゆる事象は相互作用である。ある系における全事象は、別の系との関係のもとに発生する(相関性)。速度とは「ほかの物体と比較したときの」ある物体の運動の性質である。わたしたちに知覚できるのは「相対的な」速度だけであり、速度とは、一個の物体が単独で所有できる性質ではない。量子力学が記述する世界では、複数の物理的な「系」のあいだの関係を抜きにしては、現実は存在しない。関係が「事物」という概念に根拠を与えている。事物が存在するのは、ある相互作用から別の相互作用跳躍するときだけである(量子跳躍)。現実とは相互作用でしかない。(”モグラたたき”の喩えで言えば、ボード上以外にモグラは現れない。ボードという場がなければ、モグラは存在しない。ボードとモグラには相関性がある。)

原子や光をはじめ、宇宙に存在するあらゆる事物は、量子場によって形づくられている。量子場は、電子や光子(←何れも素粒子)のように、粒状の形態をとって現れる。または、電磁波のように、の形で現れることもある。テレビの映像や、太陽の光や、星の輝きをわたしたちに伝えているのは、電磁波である。

光は光子という粒(素粒子)で出来ている。同時に波の性質も持つ。波長の違いで我々は「色」を認識する。波長が短ければ「青色」に見え、波長が長ければ「赤色」に見える。更に波長が長くなると「赤外線」に、もっともっと長くなるとラジオやテレビの電波になる。逆に波長が短くなると、「紫外線」→「X線(レントゲン)」→「γ(ガンマ)線」となる。これらは全て電磁波の仲間である。音も波であり、波長が長い(周波数が低い)と低音に、短い(周波数が高い)と高音に聞こえる。なお、周波数とは単位時間あたりの振動数である。詳しくは下のリンク先をご参照あれ。図もあって分かり易い。

素粒子」と「量子(quantum)」は同じものを指し示している。「素粒子」は粒子的な側面が強調されており、「量子」は粒子の両方の性質を言い表している。

ループ理論によると空間もまた粒状である。この世には最小の体積が存在し、それより小さな空間は、存在しない。つまりプランク時間と同様に、体積を形づくる最小の「量子」が存在する。それは最小の長さ=プランク長で表される。

最小の「量子」は密接にくっついて「時空間の泡(スピンフォーム)」を形成する。石鹸の泡に似た構造だ。

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上図 b のように、1)空間の最小単位(図 a )をで表す。2)多面体(最小の量子)の面を、それを垂直方向に貫くで表す。3)空間の最小単位が集まった構造を点と線のネットワーク(スピンネットワーク)として表す。すると下図のようになる。

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空間とはスピンの網である。そこでは「節(結び目)」が基礎的な粒子を、「リンク(結び目と結び目をつなぐ線)」が近接に存在する粒子たちの関係性を表している。スピンの網が、ある状態から別の状態へと変化する過程(量子跳躍)によって、時空間が形成される。スピンの網の結び目は、ほどけたり合わさったりして、刻々と姿を変える。

世界は何からできているのか?答えは単純である。粒子とは量子場量子である。空間とは場のことにほかならず、空間もまた量子的な存在である。この場が展開する過程によって、時間が生まれる。要約するなら、世界はすべて、量子場からできている。時空間が生み出される場のことを「共変的量子場」と呼ぶ。この世界を構成するすべてのもの、つまり、粒子も、エネルギーも、空間も時間も、たった一種類の実態(=共変的量子場)が表出した結果に過ぎない。

量子力学の世界には静止している事物は存在せず、そこでは「すべて」が震えている。いかなるものも、ひとつの場所に、完全かつ継続的に静止していることはできない。これが、量子力学の核心である。

情報とは「起こりうる選択肢の数」である。サイコロを投げてある目が出た場合、「起こりうる選択肢」の数は六であるから「N=6」の情報を得たことになる。友達から誕生日を教えてもらえば、三百六十五通りの答えがあるから「N=365」の情報を得たことになる。そして「情報はひとりでに増えない」。熱い紅茶は冷める。熱とは、分子による微視的かつ偶発的な運動である。紅茶が熱ければ熱いほど、紅茶を構成している分子は速く動いている。つまり「情報が多い」。では、紅茶はなぜ冷めるのか?それは「熱い紅茶と(それに接する)冷たい空気」に一致する分子の並び方の総数(=情報)が、「冷たい紅茶と少しだけ温められた空気」に一致する分子の並び方の総数(=情報)より多いからである。速く動く分子は周囲のゆっくり動く分子を押しのけて混ざり、拡散する。紅茶がひとりでに温まることがないのは、情報がひとりでに増大することが決してないからである。熱力学におけるエントロピー(物体や熱の混合度合いのこと。「乱雑さ」とも呼ばれる)とは「欠けている情報」であり、ボルツマンの原理によるとエントロピーの総量は増大することしかしない(熱力学第二法則)。なぜなら情報の総量は減少することしかないからである。エントロピーは「ぼやけの量」(わたしたちに関わるもの)を測っている。

量子力学を形づくる全体の枠組みは次の公理で示される。

公理1 あらゆる物理的な系において、有意な情報の量は有限である。
公理2 ある物理的な系からは、つねに新しい情報を得ることが可能である。

公理1は、量子力学の「粒性」を特徴づけている。これは、実現する可能性がある選択の総数は有限であるという公理である。公理2は、量子力学の「不確定性」を特徴づけている。量子の世界では、つねに予見不可能な事態が発生するため、わたしたちはそこから新たな情報を引き出すことができる。

ビッグバンを起点に膨張し続ける宇宙は有限であり、逆に空間の最小単位も有限である。本当に「無限」なものなど存在しない。自分には理解できないものを、ひとは「無限」と呼ぶ。もし「無限」なものがあるとしたら、それはわたしたちの「無知」だけである。

この2冊の本を通じて、20世紀以降の現代物理学を知ることは、間違いなく哲学的思考に繋がっていると思った。「世界は何で成り立っているのか」「神は存在するか」「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」……物理学と哲学は不可分である。

なお、すべては「ひも」でできている!とする「超ひも(超弦)理論」を学びたい方は、Newtonライト『超ひも理論』(ニュートンムック)をお勧めしたい。ページ数が少なく(たった64ページ)、イラストが多く、たいそう簡便な本である。

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日本人の物理学者の大半は「超ひも理論」を支持している。2008年にノーベル物理学賞を受賞した故・南部陽一郎博士のアイディアに端を発するからだろう。しかし今回「ループ量子重力理論」のことを初めて知り、明らかに後者の方に分があるなと僕は直感した。理由は以下の通り。

1)ひも理論は「固定された背景(時空間)の中を動くもの」であること。つまり時間や空間は、素粒子(=ひも)が運動するためのバックグラウンドとしてあらかじめ前提される。しかし、「万物は流転する」のではないだろうか?それに、もし連続した時間があるのだとしたら、量子の「不確定性」をどう説明する?むしろ時間を、パラパラ漫画やアニメーション、映画のフィルムのように断続的なものとして捉えた、ループ理論の方が理に適っている。つまり時間が連続的に流れていると私たちが知覚しているのは錯覚であると。

2)ひも理論を成り立たせるには、ひも状の素粒子が振動する「9次元空間」を想定しなければならない。しかし9次元の存在って証明出来るの??コンパクト化され、かくれた「6個の余剰次元」とか、無理があるでしょう。荒唐無稽だ。

3)ひも理論を証明するためには超対称性粒子の存在を見つけなければならない。しかし、すべての素粒子が未発見であり、ヨーロッパ原子核研究機構(セルン CERN)の加速器「LHC」による観測でも、多くの科学者の期待にもかかわらず、CERNは超対称性粒子を捕捉しなかった。素粒子に質量を与えるヒッグス粒子は1964年に予言されたとおり発見されたのだが(それによりピーター・ヒッグスは2013年にノーベル物理学賞を受賞した)。

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超平和バスターズ「空の青さを知る人よ」と新海誠・川村元気

評価:B

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超平和バスターズの話からしよう。長井龍雪(監督)・岡田麿里(脚本)・田中将賀(キャラクターデザイン/総作画監督)の3人によるアニメーション制作チーム。「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(略称「あの花」。TVシリーズ全11話と劇場版がある)」、「心が叫びたがってるんだ。(略称「ここさけ」)」、「空の青さを知る人よ」に於いて原作としてクレジットされている。3作品共通して、岡田麿里の出身地・埼玉県秩父市が舞台となっている。なお岡田はアニメーション映画「さよならの朝に約束の花をかざろう」(2018)で監督デビューを果たした(脚本兼任)。

入場者プレゼントで田中将賀描き下ろしA4クリアファイルを貰った。上記3作品のヒロインが描かれている。

Chou

僕は真ん中、今回のヒロイン・あおいが一番好きかも。中二病みたいに不貞腐れたところが可愛い。意地張って強がっているところが健気だしね。「あの花」のめんま(ファイル右)はちょっとロリ過ぎて感情移入し辛いし、「ここさけ」の順(ファイル左)はその自閉症的性格が受け入れ難い。

「あの花」「ここさけ」における田中将賀の仕事ぶりを高く評価した新海誠監督は〈今どきの絵〉を描く田中をキャラクターデザイナーに迎え、Z会CM「クロスロード」(動画はこちら)、「君の名は。」「天気の子」でがっぷり四つに組んだ。余談だが「クロスロード」で声優を務めた佐倉綾音は「天気の子」で陽菜の弟・凪(なぎ)の恋人(元カノ)アヤネを演じている。で児童相談所の訪問者記帳時に「花澤綾音」と記名するのだが、これは凪の今カノ・カナを演じた花澤香菜(「言の葉の庭」「君の名は。」のユキちゃん先生)と姓名を交換したもの。さらに言えば映画にクレジットされていないが、花澤香菜は「天気の子」でお天気ガール(=陽菜)にイベントの当日の晴れを依頼する初代プリキュアのコスプレイヤーの声も当てている。以上トリビアでした〜。

Sora

僕は当然、「あの花」「ここさけ」を全て観ていたのだが、正直、超平和バスターズが特に好きというわけではい。映画館で「空の青さ〜」の予告編を何度も観たが食指は動かず、鑑賞する気は毛頭なかった。しかし巷での評判がえらく高かったので、重い腰を上げたというわけ。

〈井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る〉という言葉が重要な役割を果たす。前半は荘子の「秋水篇」にある「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」が出典のようだ。しかし後半部の出典は不明。僕が初めてこの成句を聞いたのが、三谷幸喜が脚本を描いた大河ドラマ『新選組!』の第6回「ヒュースケン逃げろ!」。しかし『新選組!』では〈されど空の高さを知る〉だった。三谷幸喜の創作なのかと思ったが、調べてみると河井寛次郎という陶芸家が大正から昭和初め頃に「井蛙知天」と書いたというのが遡ることが出来る最古の記録らしい。何れにせよ日本人の創作ね。言うまでもなく本作において〈井の中〉とは秩父市のメタファーである。

超平和バスターズ原作の中では、今回の物語が一番上出来だったのではないだろうか。これは新たにチームに加わった川村元気の力が大きいように思う。小説家(「世界から猫が消えたなら」「億男」)でもある川村はプロデューサーとして参加した「君の名は。」で新海誠を覚醒させ、大ブレイクに導いた男である。何しろチューニングが巧みだった。そして「天気の子」と「空の青さ〜」は、「君の名は。」のプロデューサーである古澤佳寛と川村元気が東宝を飛び出して設立した新会社STORYの作品。東宝とは業務提携契約を締結している(こちらにその記事)。

「空の青さ〜」がユニークなのは生霊をテーマとしたこと。死者が幽霊として現れるというのはたくさんアニメであったけれど(「あの花」もそう)、「源氏物語」みたいに生霊というのは珍しい。ただ過去の自分と現在の自分が同時に存在し、対峙するという〈時間イメージ〉の映画はイングマール・ベルイマン「野いちご」とかフェデリコ・フェリーニ「8 1/2」、大林宣彦「さびしんぼう」「はるか、ノスタルジィ」など実写でいくつか前例がある。

しかしながら最後が尻切れトンボというか、今一歩という感じだった。

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映画「楽園」

評価:B+ 

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Raku

吉田修一の小説の映画化は今まで5作品観た。「パレード」「悪人」「横道世之介」「怒り」「楽園」である。「横道世之介」以外は、イヤーな気分にさせられるものばかりだ。とは言え、嫌いじゃない。なんだかゾワゾワする、ささくれ立った感情を呼び覚まし、なんとも言えない後味が尾を引くのである。

「楽園」の原作は5つの短編からなる「犯罪小説集」である。やっぱり、もやもやする!でもズシンと腹に響くものがある。村社会の閉塞感で息が詰まりそうだ。

犯人が最後まで捕まらない、という未解決事件なので、得体の知れない不気味さがある。それは例えば、ポン・ジュノ監督「殺人の追憶」とか、デヴィッド・フィンチャー監督「ゾディアック」を観た後の気分に非常に近い。あと桐野夏生の小説「柔らかな頬」もそう。長崎俊一監督でBS―iデジタル・ハイビジョン・ドラマとして制作された(大変出来が良かった)。

でも人生って、そういうものじゃないかな?物事に解決はないし、犯罪に巻き込まれた心の痛みって、結局多かれ少なかれ死ぬまで引きずって生きていくしかない。京都アニメーション第1スタジオの痛ましい放火事件にしたって、犯人が捕まっても死者が蘇るわけではない。(仮に)法廷で加害者からの反省の言葉を聴いたとしても、それで遺族の心が癒やされることもあり得ない。

瀬々敬久監督の演出は、特に低空飛行するドローン撮影が不気味で、とっても印象的だった。

役者陣の中では杉咲花がとっても可愛くて、最近僕のお気に入り。「いだてん」の彼女も好き。

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閉鎖病棟 ーそれぞれの朝ー

評価:A-

Heisa

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現役の精神科医でもある帚木蓬生の小説「閉鎖病棟」は山本周五郎賞を受賞している。僕は全く知らなかったのだが、1999年にも「いのちの海 Closed Ward」というタイトルで映画化されているらしい。原作小説は九州が舞台だが、今回2度目の映画化では長野県小諸市にある小諸高原病院でロケされた。監督・脚本は「愛を乞うひと」「OUT」の平山秀幸。

「ディア・ドクター」以来10年ぶりの主演となる笑福亭鶴瓶が好演。しかし何より最高だったは小松菜奈。雰囲気があるし、いい女優だ。現在23歳だけれど、十分高校生に見える。そしてどんな貧相な身なりをしていても美しい。

含蓄のある人間ドラマが展開され、見応え充分だが、ただ演出が些か古臭いかなと思った。例えば過去の場面は白黒の映像になるのだが、手垢にまみれた手法であり、げんなりした。

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