2019年9月17日 (火)

「天気の子」劇場用パンフレット第2弾登場!〜新海誠監督が質問に答えてくださいました。

9月14日(土)より、新海誠監督「天気の子」劇場用パンフレット第2弾が発売された。

Png_20190917083301

「新海誠監督がみなさまからの質問にお答えします!」(36の質問)というコーナーがあり、1,000件を超える応募の中から、僕の質問が「君の名は。」に続いて採用された。

僕の質問は以下の通り。

船の甲板から転落寸前の帆高の手をキャッチして登場した須田は命の恩人であり、〈父親代わり〉の存在です。しかし物語の最後に帆高は須田に拳銃の銃口を向け、引き金を引きます。僕にはこれが象徴的な〈父親殺し〉に見えました。心理的〈父親殺し〉を経ることによって帆高は自我を確立し、陽菜にとっての「キャッチャー(大丈夫)」になれた。〈父親殺し〉は「天気の子」同様、空から魚が降ってくる村上春樹の小説「海辺のカフカ」のテーマでもあります。僕は「天気の子」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「海辺のカフカ」が三位一体のように感じるのですが、見当外れでしょうか?

新海誠監督からの回答は劇場用パンフレットを購入してお読み頂きたいが、かいつまんで言うと、『天気の子』の脚本を書き終えたあたりで「海辺のカフカ」を再読し、共通点の多さに少し驚いた。無意識のうちに影響を受けていたのかもしれない、ことのこと。

質問者の年齢が併記されているのだが、可笑しかったのは僕が最高齢だったこと。平均年齢が若い。

また「山本二三 気象神社絵画・天井画」のインタビュー記事も興味深く読んだ。「天空の城ラピュタ」「時をかける少女」の美術監督である。

Nizo

余談だが、採用されなかった質問も載せておこう。

オカルト雑誌のライター、須賀は船の甲板から転落しそうになった帆高のキャッチャー(捕まえ手)として登場します。帆高が熱心に読んでいるサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」において帆高が16歳の少年ホールデンだとすると、須賀は誰に相当するだろう?と考えて、ホールデンの恩師アントリーニ先生じゃないか、と思いました。アントリーニ夫婦はニューヨークのすごくしゃれた高層アパートメントに住んでおり、「入り口から二歩階段を下りたところにある居間に入ると、バーなんかもついている」と書いてあります(村上春樹訳、白水社)。一方、帆高が住み込みで働くことになる須田の事務所は半地下にあります。この暖かくて、子宮的なイメージの一致は新海監督が意図的にされた設定なのでしょうか?

 

映画「フィールド・オブ・ドリームス」にはサリンジャーをモデルにした黒人作家テレンス・マンが登場します(原作小説「シューレス・ジョー」ではサリンジャーその人となっています)。帆高はサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を熱心に読んでおり、映画の終盤に陽菜が天に昇る夢を帆高と陽菜の弟・凪、須賀、そして須賀の娘・萌花が共有します。一方、「フィールド・オブ・ドリームス」でも複数の登場人物たちが同じ夢を見ます。これは単なる偶然なのでしょうか、それとも監督が意図されたことなのでしょうか?



| | コメント (0)

2019年9月13日 (金)

映画「アス Us」とドッペルゲンガー

評価:A

Us

公式サイトはこちら

いわゆるドッペルゲンガー(二重身)ものである。簡単に言えば可視化された〈もう一人の自分〉。まずユング心理学に於ける影(シャドウ) の概念を知っておく必要がある。人の深層心理に存在する元型(archetype)のひとつで、ユングは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」と定義した。人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の〈他者〉、自分自身の暗い側面などである。影(シャドウ) はしばしば他者に投影される。ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害、いけにえの羊(scapegoat)が代表例。影(シャドウ)が(他者への投影ではなく)独立して実体化した姿がドッペルゲンガーだ。一つの肉体の中で影(シャドウ)が主体と入れ替われば多重人格(解離性同一性障害)となる。「ジキルとハイド」が有名。

さらに本作では、ポスターでも分かる通り社会的元型ペルソナ(仮面)も加味されている。詳しくは下記事をお読み頂きたい。

ドッペルゲンガーものの最初がイングマール・ベルイマン監督の映画「仮面/ペルソナ」(1966)であり、デヴィッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」(1999)、ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」(2010)ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 「複製された男」(2013)などが後に続いた。舞台作品ではミヒャエル・クンツェが台本を書いたウィーン・ミュージカル「モーツァルト!」がドッペルゲンガーものだ。

デヴィッド・リンチ監督「マルホランド・ドライブ」(2001)もこのジャンルに含めて良いかも知れない。いわば親戚筋にあたる。

「ゲット・アウト」でアカデミー脚本賞を受賞したジョーダン・ピール監督が「アス Us」で成し遂げた新基軸は、ゾンビ映画の構造をそのまま用いてドッペルゲンガーものに変換したことにある。アイディアが実に秀逸。〈自分自身が襲ってくる〉これは怖い。さらに貧富の格差が広がる一方の、アメリカ合衆国の社会問題にも切り込んでいる。地下トンネルに蠢く人々=Usは貧困層のメタファーでもある。

あとヒッチコック映画へのオマージュを強烈に感じた。ハサミで襲ってくる場面は「サイコ」(多重人格もの)だし、Usに押し倒され格闘するルピタ・ニョンゴが画面手前(観客側)にある凶器に手を伸ばす場面は明らかに「ダイヤルMを廻せ!」のグレース・ケリーそっくり。そしてUs に占拠された町から車で家族が脱出しようとするのは「鳥」のラストシーンといった具合。

| | コメント (0)

2019年9月 6日 (金)

〈音楽の魔法〉映画公開目前!直木賞・本屋大賞ダブル受賞〜恩田陸「蜜蜂と遠雷」の魅力とそのモデルについての考察

直木賞・本屋大賞をダブル受賞した恩田陸の小説「蜜蜂と遠雷」は松岡茉優主演で映画化され、10月4日に公開される。公式サイトはこちら

Mitubachi

四人のピアニストがコンクールで競うのだが、それぞれ河村尚子(クララ・ハスキル国際コンクール優勝)、福間洸太朗(クリーヴランド国際コンクール優勝)、金子三勇士(バルトーク国際ピアノコンクール優勝/父が日本人で母がハンガリー人)、藤田麻央(チャイコフスキー国際コンクール 第2位)という、日本を代表する若手ピアニストたちが演奏を担当しているというのも大いに話題となっている。僕はこの内二人の実演を聴いたことがある。

恩田陸は執筆にあたり三年に一度開催される浜松国際ピアノコンクールに四回足を運び、ひたすら聴き続けたという。構想から十二年かけて小説は完成した。

ピアノを主題にした小説といえば「蜜蜂と遠雷」より先に、宮下奈都の「羊と鋼の森」が本屋大賞を受賞している。

恩田陸が浜松で取材を始めたのが2006年のコンクールから。編集者の志儀氏によると、それから二年以上も全く書かなかったそうだ。雑誌で連載が始まったのは2009年4月、終わったのが2016年5月。足掛け七年かかっている。一方、「羊と鋼の森」の連載開始が2013年11月なので「蜜蜂と遠雷」の方が早い。恩田が「二次予選で風間塵を敗退させる」と言い出した時、志儀氏は「さすがにそれはダメだ」と言った。

2003年に書類審査で落とされたピアニストが敗者復活的なオーディション@ウィーンで拾われ、浜松の本選で最高位(第1位なしの第2位)に入った。ポーランド生まれのラファウ・ブレハッチである。それまで自宅にアップライトピアノしかなく、コンクール出場直前になってワルシャワ市がグランドピアノを貸与したという。そしてブレハッチは2005年にショパン国際ピアノコンクールで優勝した。なお現在は審査方法が変わり、予備審査は書類だけではなく演奏DVDの送付が義務付けられるようになったそう(音声データだけでないのは替え玉応募を防ぐためだろう)。

ブレハッチのエピソードが「蜜蜂と遠雷」の風間塵に反映されているのは言うまでもない。またトリックスター的彼の性格は、クロアチアのピアニスト、イーヴォ・ポゴレリチを彷彿とさせる。破天荒なポゴレリッチの演奏は1980年のショパン国際ピアノコンクールで物議を醸し、予選で落選。審査員の一人マルタ・アルゲリッチは「彼は天才よ!」と選考結果に激昂し、辞任した。彼女が審査員として復帰するまでそれから20年を要した。世に言う「ポゴレリッチ事件」である。事態を重く見た事務局は急遽彼に審査員特別賞を与えることにした。かえってこの騒動で一気にスターダムにのし上がったポゴレリッチはドイツ・グラモフォンと契約し、数多くのアルバムをリリースした。

トリックスター・風間塵(16歳)は「ギフト」か「災厄」か?彼は師匠ホフマンに「狭いところに閉じこめられている音楽を広いところに連れ出す」と約束していた。小説の最後で少年は夜明けの海の波打ち際に立ち、こう思う。「耳を澄ませば、こんなにも世界は音楽に満ちている」とても魅力的なキャラクターである。彼を本選まで残した幻冬舎の編集者・志儀氏の判断は正しかった。

僕は全日本吹奏楽コンクールが普門館で開催されている時代に〈高校の部〉を3年連続で聴いたことがあるので、何となくコンクールというものの雰囲気が分かる。一番目に演奏するコンテスタントが不利というのも同じ。審査のたたき台にされ、様子見で高得点が出ないのである。そして朝から晩まで一日中聴き続けているだけで、最後はヘトヘトに疲れる。これを何日も続ける審査員は本当にご苦労様である。

浜松国際ピアノコンクールはブレハッチ以外にも、次のようなスターを世に送り出した。

  • 第4回 第2位:上原彩子→チャイコフスキー国際コンクール優勝
  • 第7回 優勝:チョ・ソンジン(韓国)→ショパン国際ピアノコンクール優勝

小説の中でコンテスタントのひとり、ジェニファ・チャンは「女ラン・ラン」と呼ばれ、次のように描写されている。

ふと、最近のハリウッド映画はエンターテイメントではなく、アトラクションである、と言った映画監督の言葉を思い出す。チャンの演奏は、なんとなくそれに近いような気がする。

これは正にラン・ランの演奏を聴いたときの僕の印象を的確に言い当てている。確かにテクニックは完璧で達者だから感心はするのだけれど、後に何も残らない。すなわち、感動はしないのだ。

また楽器店勤務のサラリーマンで年齢制限ギリギリでコンクールに参加する高島明石はこう問う。「生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか」ー明石のモデルは間違いなく宮沢賢治だろう。賢治は詩や童話を書きながら、同時に農民として汗水たらして働いた。賢治の詩「春と修羅」をモチーフにしたコンクール課題曲を一番共感を持って弾くのが明石なのは決して偶然じゃない。

浜松はYAMAHAの町であり(本社がある)、ヤマハ吹奏楽団浜松は全日本吹奏楽コンクール職場の部の金賞常連団体である(指揮者は須川展也)。〈生活者の音楽〉というか、「セミ・プロじゃん、ズルい!」という気がしないでもない。

因みに映画で課題曲「春と修羅」は大阪出身の藤倉大が作曲している(現在はイギリス在住)。彼が「尾高賞」を受賞したオーケストラ曲"secret forest"世界初演を僕はいずみホールで聴いた。作曲家も来場していた。

「春と修羅」は無調音楽だが決して耳に不快ではなく、美しく宇宙的広がりを感じさせるものに仕上がっている(既に配信された音源を聴いた)。四人のコンテスタントがそれぞれ別のカデンツァを弾く趣向も個性が出て愉しい。

ラファウ・ブレハッチは恩田陸との対談で恩田から「演奏を終えて『今日はよくできた』と思う日もありますか」と訊かれ、次のように述べている。

ピアノも調律も音響も、その他の条件も全て整っている環境で、満員のお客様が期待に満ちて待っている中、私も完璧に深い演奏ができたなら、ある種の満足感は得られるでしょう。しかし、たとえそうであっても、翌日はまた別の演奏になります。結局のところ、究極の理想に近づいていく過程こそが美しいのであって、生きている間はその理想にはたどり着けないのではないでしょうか。 (出典はこちら

まるで哲学者のような奥深い言葉だ。そして「蜜蜂と遠雷」は正にその過程を描いている。〈ミューズ(音楽を司る女神)との対話〉と言い換えても良い。だから読んでいるうちに、審査結果(順位)なんかどうでもよくなってしまう。だってそれがゴールじゃないのだから。そこからはじまるのだ。恩田によると、本選まではやって、結果わからずで終わらせようか、なんていう案もあったという。当初の構想のままで良かったのではないだろうか?

幼馴染で、コンクール会場で久しぶりに再会した亜夜(嘗ての天才少女)とマサル(ジュリアードの王子様)の会話。

「あたし、プロコフィエフのコンチェルトって全部好き。プロコフィエフって踊れるよね」
「踊れる?」
「うん、あたしがダンサーだったら、踊りたい。バレエ音楽じゃなくても、プロコフィエフの音楽って、聴いてると踊っているところが見える」
(中略)
「僕、三番聴いていると、『スター・ウォーズ』みたいなスペース・オペラを想像するんだよね」
「分かる、宇宙ものだよね、あれは。二番はノワール系」
「そうそう、暗黒街の抗争みたいな」

これにはとても共感した。「スター・ウォーズ」の音楽に出会ったとき、僕は小学校高学年だった。その頃からジョン・ウィリアムズはプロコフィエフの影響を受けているなと強く感じていた。特に「スター・ウォーズ」の”小人のジャワズ”、そして「スーパーマン」の”レックス・ルーサーの小屋”におけるファゴットの使い方が、凄くプロコフィエフ的なんだ。

マサルはラフマニノフのピアノ協奏曲 第三番について「ピアニストの自意識ダダ漏れの曲」と表現する。またショパンについては、本選で協奏曲の指揮をする小野寺の心情が次のように綴られている。

ソリストには憧れの名曲といえど、オーケストラにとっては退屈という曲が幾つかあるもので、ショパンの一番はそれに含まれるのではなかろうかと思う。小野寺は、ショパンコンクールの本選はショパンの一番と二番という選択肢しかないから、幾ら国の誇りであり、ショパン好きであっても、オーケストラはさぞしんどいだろうな、と密かに同情している。

全く同感である。はっきり言って”ピアノの詩人”ショパンのオーケストレーションは稚拙だ。しばしばシューマンのオーケストレーション技術が問題とされ、彼の交響曲を振る時にマーラー編曲版のスコアを使う指揮者も少なくないが(トスカニーニ、シャイー、スダーンら)、ショパンに比べればよほどマシである。ショパンの協奏曲におけるオーケストラの役割は添え物でしかなく、特にトランペットなんか伴奏の和音を間抜けにプープー吹くだけ、といった体たらくだ。

膨大なディスコグラフィを残したヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルはラフマニノフの二番を一度だけワイセンベルクと録音しているが、三番は皆無。ショパンの一番も全く録音を残していない(他者が編曲したバレエ音楽「レ・シルフィード」は一度だけある)。レナード・バーンスタインも同様。つまり演奏する価値がないと見なしていたわけだ。天下のウィーン・フィルもショパンの一番をレコーディングしたのはラン・ランと一回きり。超一流オケは歯牙にもかけないのである。

あと次の一節が心に残った。

音楽家というのは、自分のやりたい音楽が本当に自分で分かっているとは言いがたい。長くプロとしてやってきていても、自分がどんな演奏家なのか実は見えていない部分もある。好きな曲ややりたい曲と、その人に合っていてうまく表現できる曲は必ずしも一致しない。

アマチュア吹奏楽の世界にも同じことが言える。普段のポップス・コンサートでは伸び伸びと、水を得た魚のようにピチピチ跳ねるパフォーマンスを展開するのに、吹奏楽コンクールになると途端に硬い、オーケストラの編曲ものを選んでしまい、窮屈で縮こまった演奏に終始して実力を発揮仕切れない団体を何度も目撃して来た。

恩田陸の小説は昔から好きで処女作「六番目の小夜子」から読んでいる。やはり本屋大賞を受賞した「夜のピクニック」や、疾風怒濤の息もつかせぬ展開をする「ドミノ」も良かったが、北の湿原地帯にある全寮制の学園で展開される幻想的な「麦の海に沈む果実」がこれまで一番のお気に入りだった(萩尾望都の漫画「トーマの心臓」とか、金子修介監督の映画「1999年の夏休み」に近い世界観)。しかし間違いなく「蜜蜂と遠雷」こそ、現時点で彼女の最高傑作だろう。ただし、マサルがリストのピアノ・ソナタを演奏する場面で、わけのわからない中世の物語が登場したのはいただけなかった。僕が幻冬舎の編集者だったら、「恩田さん、これはあかん。話が陳腐やわ」と駄目出しをしただろう。志儀氏は「仕方ないけど、この手は1回だけにしようね」と言ったそう(出典はこちら)。映画版ではどう処理するのだろう?僕がこの曲からイメージするのはエミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」かな。あのムーア(荒野)の感じとか、ヒースクリフの〈狂恋〉がピタリとはまるように思う。

なお現在、〈映画「蜜蜂と遠雷」公開記念!これだけは聴いておきたいピアノの名曲・名盤30選〉というブログ記事を鋭意作成中。乞うご期待!!10月4日には間に合わせます。

| | コメント (0)

2019年9月 3日 (火)

タランティーノの「野生の思考」

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」もそうなのだが、クエンティン・タランティーノ監督(以下、タラちゃんと呼ぶ)の作品は映画的記憶に満ちている。その愛はどちらかというとB級映画・TVに傾いている。例えばセルジオ・レオーネが監督しエンニオ・モリコーネの音楽が鳴り響くマカロニ・ウエスタン(英語ではSpaghetti Western)であるとか、「キル・ビル」でオマージュを捧げた梶芽衣子主演 「修羅雪姫」 や、千葉真一主演「服部半蔵 影の軍団」といったようなものたちである。

Onceuponatime

TBSラジオ「アフター6ジャンクション(アトロク)」でパーソナリティを務めるラップグループRHYMESTER宇多丸がタラちゃんにインタビューした際、「貴方の作品にヒップホップ・アーチストが用いる手法に近いものを感じる」と話すと、彼は素直にそれを認めた。では宇多丸が指摘した、ヒップホップにおける〈サンプリング〉とは何か?Wikipediaから引用しよう。

既存(過去)の音源から音(ベース音等)や歌詞の一部分を抜粋し、同じパートをループさせたり継ぎ接ぎするなど曲の構成を再構築することで名目上別の曲を作り出す手法のこと。あくまで曲の一部分を引用するだけなので、基本的な歌詞やメロディーラインをそのままなぞるカバーやアレンジとは別物である。

そうか、タランティーノ映画の本質は〈ブリコラージュ〉なんだ!とそこで、はたと気づいた。フランスの文化人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)が著書「野生の思考」で提唱した概念で、神話的思索の方法である。

ブリコラージュは「器用仕事」とか「寄せ集め細工」「日曜大工」と訳される。手元にある材料を掻き集めて新しい配列でものを作ることを言う。ブリコルール(器用人)は手持ちのものを調べ直し、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選び、組み立てる。夜遅く帰宅し、冷蔵庫にあるありあわせのものでちょちょいと料理するイメージだ。

つまり音楽のサンプリングブリコラージュに他ならず、タラちゃんも同様な「野生の思考」をしている。敵を火炎放射器で焼き殺すなんて発想もその賜物だろう。既成の映画音楽を再使用するやり方もブリコラージュそのものだ。

タラちゃんの映画に感じる野性味はその残酷描写にだけではなく、ブリコラージュという他の映画作家には余り見られない手法にもあったということがよく分かった。

| | コメント (0)

2019年9月 2日 (月)

映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の基礎知識(または、ポランスキーという男)

評価:A 公式サイトはこちら

Once

1969年のハリウッドを舞台にした本作を愉しむ上で、知っておくべき基礎知識を挙げておく(特に最初の2項目は最重要)。

マンソン・ファミリーシャロン・テート事件、ヒッピー、反戦運動(ベトナム戦争)、いちご白書(大学闘争)、トリュフォーやゴダールによるカンヌ国際映画祭粉砕事件(五月革命)、アメリカン・ニューシネマ(俺たちに明日はない/イージー・ライダー)、マカロニ・ウエスタン(英語ではSpaghetti Western)

ウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイ主演「俺たちに明日はない」(1967)の監督として当初、フランソワ・トリュフォーに白羽の矢が当たったが断られ、次にジャン・リュック・ゴダールに依頼されたがやはり合意に至らなかった。つまり、〈フランス・ヌーヴェルヴァーグ→アメリカン・ニューシネマ〉という流れは抑えておきたい。共通項は〈既存の価値観・システムの破壊〉であり、ヒッピーなどのカウンターカルチャー、学生運動に繋がっている。マンソン・ファミリーはその文脈の中にある。

本作のタイトルそのものが、マカロニ・ウエスタンで名を揚げたセルジオ・レオーネ監督の映画"Once Upon a Time in the West(ウエスタン)" および、"Once Upon a Time in America" へのオマージュである。

劇中、車を運転しているブラッド・ピットが、道路脇でヒッチハイクをしようとしているヒッピー娘と目が合い、その時に流れ出す曲がサイモン&ガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」。そうか、マイク・ニコルズ監督の「卒業」が公開されたのはこの頃だ、と嬉しくなった。

あと映画のエンディングで流れる曲が、僕の偏愛するモーリス・ジャールが作曲した映画「ロイ・ビーン」の音楽だったので感激した。ポール・ニューマン主演、ジョン・ヒューストン監督による西部劇。ちゃんとサントラCD持ってるよ!

Edymixueaaiker

クエンティン・タランティーノ監督はセルジオ・レオーネと長年組んでいたエンニオ・モリコーネが大好きで、「ヘイトフル・エイト」の音楽をモリコーネに依頼してそれがアカデミー作曲賞初受賞に結実したのだけれど、まさか今回モーリス・ジャールで来るとは。憎いねぇ〜。

シャロン・テートが夫ロマン・ポランスキー(ポーランド出身の映画監督)へのプレゼントとして本屋で購入するのがトマス・ハーディの「テス」。1977年にポランスキーはジャック・ニコルソン邸での少女淫行の罪で逮捕され、一時釈放中に国外脱出して79年にイギリスでこの小説を映画化することになる(主演したナスターシャ・キンスキーとも、彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいたという)。以後、彼はアメリカへ一度も入国していない。 #MeToo 運動を受けて、ポランスキーは2018年5月に映画芸術科学アカデミーから除名されるのだけれど、おせぇよ!!事件から41年も経っているんだぜ。しかもその間に「戦場のピアニスト」(2002)で彼にアカデミー監督賞を与えてるし。勿論、逮捕・収監の可能性があるためポランスキーは授賞式に参加していない。

シャロン・テートを演じたマーゴット・ロビーが素晴らしい。特にミニ・スカート姿が超キュート。彼女が映画館で自分の主演作を観る場面があるのだけれど、スクリーンに映し出されているのはシャロン・テート本人。これが正に至福の時間であり、彼女を〈事件の被害者〉ではなく、〈映画女優〉として現代に蘇らせようとしているタランティーノの優しさ・愛に心打たれた。

実は予感があった。「イングロリアス・バスターズ」でタランティーノはアドルフ・ヒトラーとナチスの高官たちを、パリの映画館で焼き殺している。つまり彼は歴史を修正することを厭わない。ならばシャロンが死なない道(選択肢)もあり得るのではないか?……そして実際どうだったかは映画を観てのお楽しみ。ネタバレ無し

あとレオナルド・ディカプリオ演じる役者のモデルはマカロニ・ウエスタン(荒野の用心棒/夕陽のガンマン/続・夕陽のガンマン)で大スターとなったクリント・イーストウッドと思われる。

| | コメント (0)

2019年8月30日 (金)

バッハ・オルガン作品演奏会 アンコール Vol.1/アルフィート・ガスト

8月29日(木)いずみホールへ。昨年、半年がかりで大規模改修が行われたパイプオルガンをドイツ・ブレーメン生まれのアルフィート・ガストの演奏で聴いた。

  • J.S.バッハ:クラヴィーア練習曲集 第3部 より抜粋
        (休憩)
  • 西村朗:オルガンのための前奏曲「焔の幻影」
  • シューマン:ペダル・ピアノのための6つの練習曲(カノン形式の作品)
  • レーガー:B-A-C-Hの名による幻想曲とフーガ
  • メンデルスゾーン:オルガン・ソナタ 第3番 第2楽章 アンコール

楽器のせいか、奏者の「音選び(レジスト)」の賜物かよく分からないが、明るく朗らかな音色が心地よい。森林浴をしている気分というか、前半のJ.S.バッハではステンドグラスから真っ直ぐ太陽光が教会内に降り注ぐ光景が幻視された。

Angel_20190830134701
映画「天気の子」より

この「天使のはしご(ヤコブのはしご/薄明光線)」のような印象は不思議と、プログラム後半の作曲家からは聴き取ることが出来ない。大バッハ固有の特質だろう。

西村朗の曲は「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いても蓋取るな」というかまど炊きごはんの火加減の文句を想い出した。調性のない音楽だけど聴き易く、面白かった!あと「オルガンってこんな音も出せるんだ」という驚きがあった。

シューマンの音楽はとてもロマンティック。教会音楽からかけ離れた存在。ペダル・ピアノってこんなの。

Pedal

レーガーは複雑で荘厳。J.S.バッハより「しかめっ面」かな。因みに「B-A-C-Hの名による幻想曲とフーガ」ってリストも作曲していて、田村文生による吹奏楽編曲版が大人気なんだ。しばしば吹奏楽コンクール全国大会でも演奏される。

アンコールのメンデルスゾーンはシンプルで、バッハに回帰しようとする意志が強く感じられた。20歳のメンデルスゾーンが100年ぶりに「マタイ受難曲」を蘇演したことは余りにも有名である。

今回のシェフおすすめのフル・コースはデザートまで盛り沢山で、実に愉しかった。音楽を聴く歓びがそこにはあった。

| | コメント (0)

トゥーランドット@びわ湖ホール

7月28日(日)びわ湖ホールでプッチーニのオペラ「トゥーランドット」を鑑賞した。

Edl1dgruwaalklv

その前に「熟豚」でランチ。絶品だった!!とんかつ部門で間違いなく生涯ベスト。

Edlps9ovaaerdt2

東京文化会館・新国立劇場・札幌文化芸術劇場との提携公演である。演出はバルセロナ生まれのアレックス・オリエ。

大野和士/バルセロナ交響楽団で、びわ湖ホール声楽アンサンブル+新国立劇場合唱団+藤原歌劇団合唱部の演奏。

主な配役はトゥーランドット:ジェニファー・ウィルソン、カラフ:デヴィッド・ポメロイ、リュー:砂川涼子 ほか。

なんと前日27日に周辺地域が停電し、公演が約1時間中断したそう。舞台機構も故障し、一部演出を修正して上演された。

やはり大野はオペラ指揮者だなと甚く感心した。オーケストラが実に雄弁だった。ただ、実力としては東京のオケのほうが上かな。管楽器とか、大阪フィルとどっこいどっこいだと感じた。

本作はプッチーニの遺作であり、第3幕途中で未完のうちに作曲家は死去した。プッチーニのスケッチを基にフランコ・アルファーノが補筆完成した。

中国の皇女トゥーランドットは求婚者に三つの謎掛けをする。それが解けぬと首を刎ねる。しかしタタールの王子カラフはすべて正解し、彼女と結ばれて幕となる。

今回の演出では結末を変更し、トゥーランドットがナイフで首を切り自害する。確かに冷酷で誇り高いお姫様が愛に目覚めて転向するのは不自然だし、こういう新解釈も「蝶々夫人」みたいで、ありかなと思う。しかし全般的に暗く地味で、あまり好きにはなれない。特に三人の大臣〈ピン・ポン・パン〉が顔を泥だらけにして、乞食みたいな格好で登場したのには「それはないだろう」と引いた。「貧乏くさい。レ・ミゼラブルか!」

このオペラにはもっと〈華(はな)〉が欲しい。

「ド派手でけばけばしい」と批判もあるが、僕はフランコ・ゼッフィレッリが演出した絢爛豪華なメト版や、チャン・イーモウ(映画「紅いコーリャン」「初恋のきた道」「HERO」を監督、北京オリンピック開会式チーフディレクター)が演出し、紫禁城で上演されたフィレンツェ歌劇場のプロダクション(ズービン・メータ指揮)の方が断然好きだなぁ。余談だが浅利慶太がミラノ・スカラ座で演出した「トゥーランドット」(ジョルジュ・プレートル指揮)は酷かった。びわ湖ホール版といい勝負(どんぐりの背比べ)だ。

| | コメント (2)

2019年8月29日 (木)

ミュージカル映画「ロケットマン」とハグ問題について。

評価:A  公式サイトはこちら

Rocketman2

映画「ボヘミアン・ラプソディ」のレビューで僕は次のように書いた。

主演のラミ・マレックと衝突していたブライアン・シンガー監督が感謝祭の休暇後に現場に戻らなかったことで、撮影終了2週間前にシンガーは解雇された。後任のデクスター・フレッチャーが監督を引き継ぐまでの間、撮影監督ニュートン・トーマス・サイジェルが監督代行を務めたという。(中略)しかし出来上がった作品はそんな混迷を微塵も感じさせない、極めて高い完成度に到達しており、心底驚いた。奇跡と言ってもいい。

エルトン・ジョンの半生を描く「ロケットマン」を観て、漸く「ボヘミアン・ラプソディ」が傑作に仕上がった理由が了解出来た。あとを継いだデクスター・フレッチャーが極めて優秀だったのである。

「ボヘミアン」でクイーンの曲が流れるのは主にコンサートとレコーディング・シーンである。しかしフレッチャーは「ロケットマン」でやり方をごろっと変えた。エルトン・ジョンだけではなく彼を取り巻く人々も歌い、踊る。本格的ミュージカル映画仕立てとなっている。エルトンは(その内面はともかく、見かけ上)ド派手な人なので、イリュージョンに満ちた演出法がピタッとはまった。タロン・エガートンの歌唱もパーフェクト!

上記事で映画のクライマックスで歌われる「黄昏のレンガ道」(Goodbye Yellow Brick Road,1973) について極めて重要なことを書いた。併せてお読み頂きたい。

劇中、繰り返し少年期のエルトンが登場する。「ハグして」と父親に求めてもそれに応えてくれなかったという悲しみが、癒やされることのない心の傷としてずっと尾を引く。本作を観ながら真っ先に想い出したのがエリア・カザン監督ジェームズ・ディーン主演「エデンの東」(原作者はノーベル文学賞を受賞したジョン・スタインベック)である。主人公キャルは「父に愛されていないのではないか」と苦悩する。一方、兄アロンは父から期待され祝福されており、アロンに対するキャルの嫉妬心が物語を転がす原動力となる。これは旧約聖書の「創世記」に書かれたカインとアベルという兄弟の確執がベースになっている。神ヤハウェに愛されたアベルを恨んだカインは弟を殺してしまう。人類最初の殺人である。ヤハウェはカインをエデンの東に追放する。

あと映画「フィールド・オブ・ドリームス」と、山田太一原作・大林宣彦監督の「異人たちとの夏」を観て、父親というものは息子と絶対にキャッチボールをしておくべきだということを学んだ。確かあれは「パンダコパンダ」DVDの特典映像だったと記憶しているが、宮崎駿の息子・吾朗がインタビューに答えて、少年時代に父の仕事が忙しくて彼が起きている間に帰宅することが全くなく、「キャッチボールも一度もしてもらえなかった」と恨みつらみを滔々と並び立てていたのがとても可笑しかった。いやいや吾朗くん、父親があの偉大な宮崎駿じゃなかったら、君がアニメーション映画を監督するチャンスを与えられるなんて一生なかったろうよ。感謝なさい。

というわけで全国のお父さんたち。息子が幼いうちにしっかりハグして、キャッチボールをしてあげておこう。そうじゃないと30年経っても恨まれ続けるハメになるから。

| | コメント (0)

2019年8月28日 (水)

超実写版「ライオンキング」の抱える欺瞞

駄目だこりゃ。死ぬほど退屈した。

評価:D

Lion

今回は「超実写版」と銘打たれているが、その説明によると”ディズニーが挑んだ、実写もアニメーションも超えた新たな表現方法”なのだそうだ。身も蓋もない言い方をすれば、実写と見間違えるほどリアルなCGアニメーションということである。同じジョン・ファヴローが監督し、2016年度のアカデミー視覚効果賞を受賞した「ジャングル・ブック」の実績を踏まえての自信なのだろう。

いや、確かに技術はすごい。出てくる動物も、アフリカの風景も本物にしか見えない。CGも遂にここまで来たか!という感慨はある。

しかし映像がリアルになればリアルになるだけ、〈動物が人間の言葉を喋る〉ことの違和感が増幅する。それと〈Circle of life(生命の輪、円環構造)〉と言いながら、実は劇中でライオンが草食動物を捕食する場面を一切見せないという欺瞞が浮き彫りにされる。これは手塚治虫の名作漫画「ジャングル大帝」も同時に抱える欺瞞である。プンバァ(イボイノシシ)とティモン(ミーアキャット)のコンビは、シンバに食べられないようにするために彼に昆虫採食を勧めるわけだが、「草食動物を食べることは残酷で、相手が昆虫ならええんかい!」とツッコミを入れたくなる。矛盾だ。実際のところライオンの体は大きいのだから、昆虫のタンパク質だけだったら生命を維持出来ないだろう。人間だって草食動物をバクバク捕食しているわけだし、ライオンにこのような倫理観を押し付けるのは間違っている。そういう物語上のアラが目立ってしまった。

あと画面構成(レイアウト)も、編集(カット割り)も1994年のアニメ版とそっくりそのままで、「リメイクする意味って何かあるん???」と頭の中を疑問符がぐるぐる回り続けた。

これは〈映画〉じゃない。〈アトラクション〉だ。

それからスカー(シンバの叔父)の声はアニメ版のジェレミー・アイアンズ、ハイエナのシェンジ役はやはり94年版のウーピー・ゴールドバーグの方が断然味があって良かったなぁ。また余談だが、94年版でシンバの声を当てたマシュー・ブロデリックと、ティモン役のネイサン・レインは後に舞台ミュージカル「プロデューサーズ」(台本・音楽:メル・ブルックス)でもコンビを組み、トニー賞を総なめにした。僕は2001年8月末(9・11同時多発テロ直前)にブロードウェイでこの二人が出演する「プロデューサーズ」を観た。本当に素晴らしかった。

| | コメント (0)

2019年8月27日 (火)

「ダンスウィズミー」は和製ミュージカル映画の救世主たり得たか?

評価:B

「レ・ミゼラブル」「グレイテスト・ショーマン」「ラ・ラ・ランド」が大ヒットするなど、日本人はミュージカル映画が大好きだ。広義に音楽映画として捉えると、昨年公開された「ボヘミアン・ラプソディ」に対する熱狂的歓迎ぶりも記憶に新しい。我が国での興行収入は130億円を超え、米国に次ぐ世界第2位の記録となった(クイーンのお膝元イギリスは第4位)。しかし悲しいかな和製ミュージカルの傑作・ヒット作がなかなか生まれない。だから予告編を見て矢口史靖監督には期待していた。「スウィングガールズ」という優れた音楽映画の実績もあるわけだし。

Dance

しかし「いきなり歌って踊り出すミュージカルはあり得ないから嫌い」とタモリみたいなことを言う主人公が人前で歌い出すきっかけが、催眠術という設定はそれこそ「あり得ない」不自然の極みであり、この開き直りは全く受け入れられなかった。問いに対する回答になっていない、これは「逃げ」だ。

それと歌われる楽曲が既成の昭和歌謡曲ばかりで古臭い。「のど自慢」大会じゃないんだから。本格的ミュージカル映画を目指すのならばオリジナル楽曲で勝負して欲しかった。そういう意味で、周防正行監督「舞妓はレディ」の方が断然志しが高かったと僕は思う。

ただ倉庫でヒロインがガラの悪い兄ちゃんたちと熱いダンスバトルを繰り広げる展開はダイアン・レイン主演、ウォルター・ヒル監督「ストリート・オブ・ファイヤー」みたいで血が滾(たぎ)ったし、会社でのミュージカル・シーンはロバート・モース主演「努力しないで出世する方法(How to Succeed in Business Without Really Trying ) 」、公園でのデュエット・ダンスは「バンド・ワゴン」のフレッド・アステアとシド・チャリシーによる"Dancing in the Dark"といった具合に往年の名画を懐かしく想い出した。

映画としてはトホホの出来だけれど、ヒロインを演じた三吉彩花が美人で大変魅力的。彼女が歌って踊る場面になるとワクワクしてしまうミュージカル・ファンとしての自分の性(さが)が悲しかった。彼女には是非とも舞台ミュージカルの世界へ来て欲しい。

| | コメント (0)

«「シシ神の森」屋久島旅行記