2020年9月25日 (金)

【考察】映画「TENET テネット」を観る前/後に知っておくべき幾つかの事項と、その哲学(自由意志 vs. 決定論)、さらにブロック宇宙論!

評価:A+

Tenet

公式サイトはこちら

いやー、参った!1回目の鑑賞ではさっぱり理解不能だった。しかし曲者クリストファー・ノーランの映画だから、そんなことは想定内。賭けても良いが、何が起こっているか初見で100%解読出来る人は皆無だろう。帰宅後一生懸命勉強して知識を叩き込み、2回目に挑戦。今度は九割方、物語のタイムラインが呑み込めた。それでも完璧ではないので、近日中にIMAXで3回目の鑑賞に臨む予定である。

【前半戦(鑑賞前にお読みください)】

1)回文/パズル

本作のタイトルは「信条」「信念」といった意味で、ラテン語による回文

SATOR
AREPO
TENET
OPERA
ROTAS

に基づいている。左上から縦読み/横読みしても、右下から逆方向に縦読み/横読みしても同じ。「農夫のアレポ氏は馬鋤きを曳いて仕事をする」という意味だが、SATORを農耕神サトゥルヌス、AREPOを「大地の産物」を解釈することも可能。一世紀頃には完成していたと考えられ、イギリス、イタリア、シリアなどの遺跡から発見されている。「セイター」「アレポ」「テネット」「オペラ」「ロータス」という5つの単語はすべて本編中に登場する。

そして映画全体が回文になっている。冒頭、キエフのオペラハウスでのテロとクライマックス、地図にない土地スタルスク12での戦闘は同じ日に起こっている。つまり映画の半ばで主人公は時間をUターンし、『ふりだしに戻る』(ジャック・フィニイによるSF小説のタイトル)。途中、順行したり逆行したり「時間の矢」は目まぐるしく向きを変えるが、歴史(運命)は変わらない。ある意味、パズルみたいだ。

またTENETは【左→右】に読んだTEN(10分)と、【左←右】に読んだTEN(10分)の挟撃作戦も意味している。

2)順行と逆行

映画は時間を順行する人物と、逆行する人物が入り乱れ、時に互いが格闘をして混乱する仕掛けになっている。整理しよう。本編に登場する「時間反転装置(回転ドア)」には「の部屋」と「の部屋」があり、が順行、が逆行を示す。最後の作戦では時間を順行する主人公たちのチームが、逆行するニールたちのチームがの腕章をつけている。逆行時に肺は外気を取り込めないため、酸素マスクが必要。但し逆行者は「の部屋」内でマスク不要。また主人公とニールが逆行しながら船に乗っている場面ではビニールカーテンで覆われた簡易無菌室(clean room)のような空間内にいて、中には酸素が供給されているものと思われる。そして順行者は逆行者の言葉を理解出来ない(カセットテープの逆回転のような音声だから)。

「時間反転装置」はタイムマシーンと違い、例えば10日前に一息でジャンプ(時間跳躍)出来ない。逆行するだけだから10日前に行くには10日かかる。

また冒頭に登場するワーナーブラザースのロゴマークが赤色で、エンディングのロゴのは青色なのにも注目!

の色分けはドップラー効果に由来するのではないか、というのが僕が立てた仮説。観察者に対して近づいてくる物体(現在←未来)はっぽく見え(波長が短く、周波数が高い)、遠ざかる物体(現在→未来)はみを帯びて見える(波長が長く、周波数が低くなる)。音の場合は近づく方が高音、遠ざかると低音になる。救急車のサイレンで経験があるだろう。

3)バックパックのストラップ

1回目は完全に見逃していたのだが、穴の空いた硬貨にオレンジ色の紐を通したストラップをバックパックに結んでいる兵士が3回出てくる。これ重要。

4)順行する人物が逆行する銃弾に撃たれると致命傷を追う

理由は逆行を可能にしている放射性物質の影響だそう。だから逆行弾の傷を癒やすためには、被弾者も逆行しなければならない

5)時間反転装置(回転ドア)のある場所

①オスロ空港 ②エストニアの港 ③旧ソ連のスタルスク12 ④挟撃作戦における(TENET側)ブルーチームの拠点

6)自由意志 vs. 決定論

哲学における〈自由意志〉とは人間が自己の判断に対するコントロールを行うことが出来るという仮説である。その対義語が〈決定論(因果論)〉であり、予め運命は決まっており、〈自由意志〉など存在しないという考え方だ。

つまりAかBの選択を求められたとき、どちらに決めるか本人に〈自由意志〉があるという考え方と、その人がどちらを選ぶかは既に決まっており、選択の余地はないという考え方がある。

私たちはしばしば過去を振り返り、「あの時、AではなくBを選んでおけばよかった」と後悔する。『If もしも....』。そういう想いを叶えるのが時間SF(タイム・トラベルもの)であり、主人公は過去に戻って自分の、あるいは地球規模の運命を変えようとする。そのミッションに成功すれば現在(過去にとっての未来)は変わる。枝分かれが発生し、主人公はパラレルワールド(平行世界)に入っていく。映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や『ターミネーター2』『恋はデジャ・ブ』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』『魔法少女まどか☆マギカ』『君の名は。』がそうだ。

ここで〈親殺しのパラドックス〉が問題となる。英語ではGrandfather paradox(祖父のパラドックス)という。「ある人が時間を遡って、血の繋がった祖父を祖母に出会う前に殺してしまったらどうなるか」というもの。その場合、両親のどちらかが生まれてこないことになり、結果として本人も生まれてこないことになる。従って、存在しない者が祖父を殺すこは出来ない。

〈決定論〉において、その人がBでなくAを選ぶことは〈自由意志〉でなく、それまでの経験則(生まれてから脳内に蓄えたデータ)により無意識のうちに決まっていたと考える。

『TENET テネット』でニールは「起こったことは起こったことだ(What happened, happened.)」と言う。つまり、結果は決まっている、運命は変えられない。地球滅亡を阻止するというミッションは予め成功することが決まっていた。これはクリストファー・ノーラン監督自身の思想でもある。

ノーランの主張は〈ブロック宇宙論〉に基づいている。ブロック宇宙論とは、全ての時間と空間が一つなぎのブロックのように存在し、過去・現在・未来が同時に存在している、というもの。宇宙は流れではなく、一つの構造物であり、我々はその一つの空間(断面)にいて観測・体験しているだけで、時間というものは錯覚に過ぎないという考え方だ。

Time

上図、観測者がいる【現在】の平面は下から上に移動し、既成の歴史を目撃・体験する。

更に詳しいことをお知りになりたければ、イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリ(著)富永星(訳)「時間は存在しない」(NHK出版)を読まれることをお勧めする。

アインシュタインの特殊相対性理論によると、現在は過去だけでなく未来からも影響を受けており、これを〈逆因果律(後方因果関係)〉という。最終的な運命は決まっているものの、どのようにそこに至るかは正確には決まっていないと考える物理学者もいる。つまり〈自由意志〉はあるが、あくまで限定的であるというわけ。

もし自由意志がないとしたら、人間はニヒリズム(虚無主義)に陥ってしまう危険がある。「どうせ俺の運命は決まっているんだ。頑張っても仕方がない」となる。だからたとえ幻想であろうと〈自由意志〉があると信じて、人生に価値を見出していくことが大切だ。つまりTENET(信念)を持てというわけ。

7)エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)

エントロピーとは「乱雑さの度合い」のこと。エントロピーの低い状態は「秩序ある状態」、エントロピーの高い状態を「無秩序な状態」と言い表せる。全ての事物は、「それを自然のままにほっておくと、エントロピーは常に増大し続け、外から故意に仕事を加えてやらない限り、そのエントロピーを減らことはできない」ということ。

例えば薪が燃える状況を想像して欲しい。熱エネルギーが生じ、周囲の空気を温め、運動が激しくなった酸素・窒素・二酸化炭素などの分子は拡散していく(乱雑さを増す)。また煙が上空に登り、立ち去っていく。そして一本の薪は灰になり、バラバラに砕け散る(無秩序な状態になる/ゴミが発生する)。これがエントロピーの増大だ。不可逆性の変化であり、灰や煙や熱(分子運動)が一本の薪に戻ることは出来ない。つまり時間を逆行させるためにはエントロピー(乱雑さ/ゴミ)が減少する仕組みを構築しなければならない

8)時間が逆行する仕組み・理論

『テネット』で言及される未来の科学者は反電子(陽電子)を利用して、特定空間の物質だけエントロピーが小さくなる(「時間の矢」の向きを反転させる)技術を作った。ここで「対生成(ついせいせい)」について説明する。対生成とは素粒子(物質の最も小さい単位)の反応で、素粒子とその反粒子が同時に生成される現象。例えば光子から(マイナスの電荷を帯びた)電子と(プラスの電荷を帯びた)陽電子(または「反電子」と呼ぶ)が生成される。電子は「過去から未来に進む」普通の電子であり、反電子とは数学的に「未来から過去に進む」電子である、と解釈可能だ(正の電荷を持ち、時間を順行する陽電子=負の電荷を持ち、時間を逆行する電子)。つまり【陽電子は時間を逆行する】 。すべての物質には電荷が反対の「反物質」が存在している。映画に登場する「反転装置」はつまり、物質⇔反物質に転換する装置なのである。

そして電子と反電子が衝突すれば「対消滅(ついしょうめつ)」が起きて光子に変換される。『TENET テネット』に於ける「防護スーツを着ずに過去の自分と直に接触してはいけない。量子の対消滅が起きる」というルールはここから来ている。電子=素粒子=量子と考えて差し支えない。

【後半戦(鑑賞後に)】

では次に、既に映画をご覧になった方のための抑えておくべきポイントについて書こう。

1)本作のテーマ

セイターはアルゴリズムを稼働させ、地球の全てのエントロピーを逆行させようとした。つまり彼は「過去に戻って祖父を殺すこと」は可能であると信じていた。何故ならもしも彼の計画が成功すれば、アルゴリズムを稼働させた後の未来は存在せず、アルゴリズムや「反転装置」は発明されなかったことになる。完全に矛盾している。

一方、ニールらTENETのメンバー(そしてノーラン)は過去を改変出来ないこと(What happened, happened.) を知っていた。つまり本作は〈自由意志〉派と〈決定論〉派とのガチンコ対決を描いていることになる。どちらが勝ったかは言うまでもない。

過去を後悔するな。やり直すことは絶対に不可能なのだから。それよりも「いまを生きる」ことが大切。

2)スタルスク12におけるニールの複雑な行動

ブルーチームに参加し、逆行する→主人公とアイブズが入ったトンネル入口に爆弾が仕掛けられるのを見て敵の回転ドアを利用して順行に戻る→装甲車で丘に登り、地下核実験場に空けられた天井の穴からロープを地下に投げ入れ、アルゴリズムを奪った主人公とアイブスを実験場爆発と同時にロープで地下から引き上げる。→再び回転ドアに入り逆行、空いた鉄格子の扉から中に入り鍵を閉め、敵に撃たれて死ぬ。

ここでニールが鍵を開けたと錯覚している人が多いのだが、それは順行視点であり、ニールの主観でみると閉じるが正解。逆行ニールが地下実験場に侵入するタイミングは主人公とアイブズがロープで脱出する様子の逆回転を見届けた直後。なぜならその前だと爆発に巻き込まれ低体温症になるから。塞がれたトンネルの入口を開放する道具が必要。ニールと一緒にアイブズも逆行して手伝ったのかも知れない(ニールの侵入を外で見届けてアイブズは順行に戻る)。

3)ニールの正体

キャットの息子マックスはMaximilien(マクシミリアン)の愛称。後ろから読む(逆行する)とNeil(ニール)。本作で描かれる時から10-15年後に、同じ時間をかけ逆行して戻ってきた。推定年齢30-40歳。彼がバックパックに結んでいるのは、どうやらベトナムのお守りらしい→こちら!母との楽しかった思い出があるのだろう。ニールとセイターはエストニア語を喋ることが出来ることも根拠の一つ。

4)ニールは自分がスタルスク12で死ぬ運命であることを事前に知っていたか?

間違いなくYes.根拠は4つある。

A)主人公と別れ際、"I think this is the end of a beautiful friendship."(これが僕たちの美しい友情の最後だと思うよ)と言う。この台詞は映画『カサブランカ』ラストシーンにおけるハンフリー・ボガートの名台詞"I think this is the beginning of a beautiful friendship." の引用である。また"this is the end"はフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』も意識しているかも知れない(ドアーズの『ジ・エンド』が映画冒頭と最後に流れる)。

B)地下実験場が爆発した時点で順行するニールの手助けにより脱出したのは主人公とアイブスだけだから、未来から逆行し地下に入る自分自身はそこで死ぬしかない。出口なし。

C)映画冒頭で主人公は「信念(TENET)のために死ぬことが出来るか?」を問われる。そして最後にニールはTENETのために死ぬ。美しい円環構造だ。

D))本作においてニールは全てを知っている神のような存在だから。言い換えるなら、シナリオ(歴史)を読み込んだ映画監督の立場である。主人公=主役(The Protagonist)のオーディション・シーン(キエフのテロ直後の拷問場面)もある!

5)TENET(信条)

理屈に合わなくても人は何かを信じなければ生きていけない。take a leap of faith (運命に身を任せて飛び込む/清水の舞台から飛び降りる)ことが大切。その、古来からある代表例が宗教だろう。

心理学に〈承認欲求〉という用語がある。「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という欲求であり、幼少期に親から「あなたは生きていていい。愛している」と〈承認〉される欲求が満たされないと、〈愛着障害〉に陥る。つまりたとえ幻想でも構わないから「自分には何らかの価値がある」と信じられなければ、生きていけないのである。その典型例が〈境界性パーソナリティ障害〉であり、〈愛着障害〉を発端として「自分には何の価値もない」「生きる意味がない」「虚しい」と考え、リストカットなど自傷行為や、自殺企図を繰り返すことになる。

「自尊心・矜持(pride)を持て」と、クリストファー・ノーランは映画で繰り返し語っている。『インセプション』も、そういう話だ。

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2020年9月18日 (金)

僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46

「拘束されているときに『不協和音』の歌詞がずっと頭の中で浮かんでいました」

香港の民主活動家で、香港国家安全維持法違反の疑いで逮捕された周庭(アグネス・チョウ)氏は保釈後にこう発言し、アイドルグループ欅坂46が再び脚光を浴びた。秋元康が生み出した楽曲はこうして国境を軽々と超えた。

センターの平手友梨奈が「僕は嫌だ!」と絶叫する『不協和音』を彼女たちは2017年の第68回紅白歌合戦で歌い、パフォーマンス直後にメンバー3人が過呼吸で倒れた。2019年の紅白でも『不協和音』に挑戦し、ふたたび平手が倒れ周りのメンバーに抱きかかえられ舞台袖まで搬送された。

年が明けて2020年1月23日、平手はグループ脱退を発表し、世間に衝撃を与えた。結局紅白での『不協和音』が彼女にとって、欅坂46としての最後のパフォーマンスとなった。

評価:A+

Keyaki

映画公式サイトはこちら

大傑作である。元々予感はあった。不朽の名作『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら夢を見る』の高橋栄樹監督だったからだ。僕は2012年に公開された映画の年間ベストワンに『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら夢を見る』を選んだし、【2000年以降の映画ベスト60!】にも入れた。2011年東日本大震災についてのドキュメンタリーであり、〈戦争映画〉でもあった。

“平成の山口百恵”こと、平手友梨奈については今までも折に触れて言及してきた。

結局、欅坂46は“平手友梨奈と愉快な仲間たち”と表現しても過言ではないグループだった。総合プロデューサーの秋元康も、振付師のTAKAHIRO(上野隆博)も平手にぞっこん惚れ込んでおり、他のメンバーは単なる背景に過ぎなかった。そのことを象徴する楽曲が『二人セゾン』であり、最後に平手以外は全員、欅の木と化す。デビュー作『サイレントマジョリティー』の振付では平手を旧約聖書のモーセ(預言者)に見立て、出エジプト記が表現される。平手以外のメンバーは真っ二つに割れる紅海(=オブジェ)だ。

そのアイドルグループとしての歪さと、他のメンバーたちの苦悩や葛藤が本作では赤裸々に描かれている。単体で見ると皆、可愛い子たちばかりで、気の毒としか言いようがない。しかし一方で平手という〈カリスマ=巫女=預言者〉抜きではこれだけ世間の注目を集めなかっただろうということも真実であり、複雑な気持ちになる。秋元康も罪な男よのう……。劇場版「さよなら銀河鉄道999 〜アンドロメダ終着駅〜」でキャプテン・ハーロックが黒騎士ファウストに言う台詞「鬼だな」を思い出した。

本編中に高橋監督がTAKAHIROに対して、子どもたちに対する大人の責任を問う。その意地悪な質問に戸惑い、後ろめたさを漂わせながら訥々と答えるTAKAHIROが最高に可笑しい!

またドキュメンタリー部分だけではなく、ライブでのパフォーマンスがいい音でたっぷりと堪能できるよう仕上げられており、抜かりがない。

2019年秋に予定されていた9thシングル発売延期について、ミュージック・ビデオ撮影現場に平手が姿を現さなかったことが原因であったことが明らかにされる。

2020年9月8日に放送されたTOKYO FMの『TOKYO SPEAKEASY』に平手友梨奈とRADWIMPSの野田洋次郎が登場し、大いに語り合った。その対談の中で平手は、つい数日前に秋元康と食事をしたこと、欅坂46に入り秋元と連絡先を交換した際、「毎日交換日記をしよう」と秋元から提案され、今でも続いていることを明かした。つまりそれは平手が9thシングルMVの撮影現場に行かないことを秋元は事前に知っており承認していたこと、平手の脱退についても全く感情を害していないことを意味している。いやはや!

秋元と彼のミューズ(Angel of Music)平手が今後、どのような作品を生み出していくのか、目が離せない。

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2020年9月17日 (木)

ブックスマート

book-smartとは「書物上の知識がある」という意味(smart:賢い)。転じて「学識はあるが常識がない」。「頭はいいが世間知らずで、社会では成功していない」といったニュアンスを内包している。

『あまちゃん』『いだてん』の脚本家・クドカン(宮藤官九郎)や、RHYMESTER 宇多丸、元TBSアナウンサー宇垣美里が絶賛した映画の公式サイトはこちら

Booksmart

評価:C

駄目だ、全くノレない。主人公ふたりの女の子を好きになれないので感情移入出来ない。イケてない。

高校生くらいのteenagerたちが一夜の出来事を通じて、ちょっとした成長を遂げるという物語は繰り返し映画で描かれてきた。その元祖は言うまでもなくジョージ・ルーカスが監督した『アメリカン・グラフティ』(1973)だろう。他にジョン・ヒューズ監督『すてきな片想い』(1984)や、リチャード・リンクレイター監督『バッド・チューニング』(1993)、『イット・フォローズ』のデヴィッド・ロバート・ミッチェルによる『アメリカン・スリープオーバー』(2010)など枚挙に暇がない。日本では多部未華子主演で映画化された恩田陸の小説『夜のピクニック』(本屋大賞受賞)がある。

これらの作品群と比較して、僕は『ブックスマート』に優れた点、取り柄を見出だせなかった。

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2020年8月21日 (金)

大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」

評価:A+

Umibe

公式サイトはこちら。2019年11月24日(日)に広島国際映画祭で観た時のレビューはこちら。このとき僕は大林監督に握手をして頂いた。車椅子姿だった。

本作を一言で評するならカオス、混沌である。いきなり宇宙船から見た青い地球の姿が画面に現れ、やがて2019年尾道の映画館をワームホール(抜け道)として、武士の時代へとタイムリープ(時間跳躍)する。このぶっ飛び方は橋本忍(脚本・監督)のカルト作『幻の湖』を彷彿とさせる。

本作は歌って踊るミュージカルであり、無声映画、トーキー、アクション、チャンバラ(剣劇)、ターザンなどの要素がごった煮になっている。正におもちゃ箱をひっくり返したようなハチャメチャぶり。闇鍋をつつく感覚で次に何が飛び出すか判らない。初めて大林映画を観る人なら目を大きく見開き、戸惑い、頭が混乱するだろう。アヴァンギャルド(前衛)だ。そういう意味において、大林監督の16mm自主映画『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967)への回帰とみなすことも可能だろう。

あまりにも投入された情報量が多すぎて、一回観ただけでは脳内で処理しきれない。僕も二回目で漸く全体像を把握することが出来た。

登場する時代・歴史的人物を順不同で挙げよう。

  • 秀吉に切腹を命じられた千利休
  • 宮本武蔵 対 佐々木小次郎「巌流島の決闘」
  • 新選組による芹沢鴨暗殺
  • 近江屋での竜馬暗殺
  • 戊辰戦争(白虎隊/娘子隊の悲劇)
  • 長岡藩の藩士小林虎三郎による米百俵
  • 西郷隆盛と西南戦争
  • 大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)
  • 満州事変と川島芳子・李香蘭(山口淑子)
  • 日中戦争
  • 沖縄戦
  • 広島への原爆投下

登場する映画監督は、

  • マリオ・バーヴァ『白い肌に狂う鞭』(馬場鞠男:主人公)
  • フランソワ・トリュフォー『恋のエチュード』(鳥鳳介)
  • ドン・シーゲル『ダーティハリー』(団茂)
  • 小津安二郎(『東京物語』『晩春』演じるのは手塚眞)
  • 山中貞雄(『人情紙風船』演じるのは犬童一心)
  • ジョン・フォード(『駅馬車』『捜索者』演じるのは大林宣彦)

明らかにオマージュを捧げている映画たち

  • 稲垣浩監督『無法松の一生』(園井恵子が出演)
  • アルフレッド・ヒッチコック『見知らぬ乗客』(割れた眼鏡に映る映像)
  • ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』(ランボーの詩『永遠』の引用)
     また見付かつた。 
     何がだ? 永遠。
  • スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(スターチャイルド)
  • 新藤兼人『さくら隊散る』『ヒロシマ』(遺稿シナリオ)

そして自作からの引用ー登場人物の名前(『転校生』斉藤一美、『時をかける少女』芳山和子、『さびしんぼう』橘百合子、『HOUSE ハウス』ファンタ)、映像(『マヌケ先生』『その日のまえに』)。

因みに本作の舞台となる映画館〈瀬戸内キネマ〉は過去の大林映画『麗猫伝説』『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ』にも登場する。但し『麗猫伝説』では撮影所の名称として。

また一人の俳優が何役も演じるという手法は手塚漫画におけるスターシステム(詳細は手塚治虫公式サイトのこちら)を彷彿とさせる。大林監督は以前ブラック・ジャックを映画化(『瞳の中の訪問者』)しているし、息子の手塚眞が本作に出演しているのも決して偶然ではない。

〈過去→現在→未来〉という通時的流れ、順を追った直線的時間の概念は本作で通用しない。『海辺の映画館』は共時的(元々はフランスの言語学者ソシュールの用語)だ。過去・現在・未来は同時にここにある。死者も生者も共存する世界。それが混沌の正体だ。共時性は過去作『さびしんぼう』や『はるか、ノスタルジィ』『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群れ』『異人たちとの夏』『この空の花 長岡花火物語』でも認められる特徴である。

映画で過去は変えられないが、未来は変えられるかも知れない。大林監督の願いーそれは執念と言い換えても良いーが本作にはこめられている。観客は単なる傍観者であることを許されない。「映画の中に入っておいで。そしてあなたも行動しなさい、立ち止まっていては駄目だ。いいかい?よーい、スタート!」という掛け声が聞こえる。そして永遠に「カット」の声は掛からない。恐ろしい作品である。

〈追記〉『海辺の映画館』を観てびっくりしたのは、沖縄戦における日本軍による沖縄住民虐殺が描かれていたこと。寝耳に水で、これは果たしで史実なのだろうか?と疑問に思った。そこで調べてみると、ちゃんと沖縄県の公式ホームベージに「住民虐殺」についての県の見解が公表されているのを発見した。こちら。また『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三(著)『証言記録 沖縄住民虐殺―日兵逆殺と米軍犯罪』も読み、『海辺の映画館』で描かれたことがちゃんと事実に基づいていることを確信した。

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2020年8月18日 (火)

岡本喜八(監督)「激動の昭和史 沖縄決戦」と、佐木隆三(著)「証言記録 沖縄住民虐殺」

大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』を観ていると、1945年の沖縄戦における日本軍による沖縄住民虐殺のエピソードが出てきて、寝耳に水だった。「これは果たして史実なのだろうか?」と疑問を抱いたので、調べてみることにした。

こういう時に当たる資料で重要なのは信憑性である。イデオロギー的に偏った人が書いたものは信頼できない。プロパガンダ的色彩が強くなるからである。その典型例が朝日新聞社による韓国のいわゆる従軍慰安婦に関する一連の捏造記事であろう。最初の報道から32年も経って漸く新聞社が全面的に誤報を認め、謝罪した。また系列会社が出版する週刊朝日が掲載した橋下徹大阪市長(当時)に関する記事『ハシシタ 奴の本性』も酷かった。こうした左翼ジャーナリズムは自分たちの主張を通すために何をしでかすか分かったもんじゃない。目的のためには手段を選ばない。クワバラ、クワバラ。虚偽報道(フェイクニュース)の罠に掛からないよう十分注意が必要である。

調査を開始すると早速、沖縄県の公式ホームベージに日本軍による「住民虐殺」についての県の見解が公表されているのを発見した。こちら。また『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三(著)『証言記録 沖縄住民虐殺―日兵逆殺と米軍犯罪』(新人物往来社/後に徳間文庫)も図書館から借りて読んだ。

『復讐するは我にあり』は今村昌平監督で映画化され、キネマ旬報ベストテンで第1位に輝いたが、他に黒木和雄、深作欣二、藤田敏八が映画化を申し入れていたという。

また僕は8月15日の終戦(敗戦)記念日の前後に岡本喜八監督による東宝映画『激動の昭和史 沖縄決戦』と、玉音放送をめぐる攻防・クーデター未遂を描く『日本のいちばん長い日』もAmazonプライムで観た。

Okinawa

『ヱヴァンゲリヲン』の庵野秀明は岡本喜八監督の大ファンで、両者の対談において「『沖縄決戦』は、僕が生涯で一番何度も観た映画なんです。のべ100回以上観てますね」と発言している。『沖縄決戦』と『日本のいちばん長い日』は『シン・ゴジラ』に多大な影響を与え、岡本喜八の遺影が使用されている(株式会社カラーのコメント)。

佐木隆三は1971年から73年まで2年間沖縄のコザ市(現在の沖縄市)に住み、多数の証言を採集し『沖縄住民虐殺』を執筆、初出は『週刊アサヒ芸能』である。引用される文献も沖縄タイムス社刊『沖縄の証言』『鉄の暴風』、読売新聞社刊『秘録・沖縄戦記』、『琉球新報』社説・投稿欄など多岐にわたる。信じるに足る、しっかりしたルポルタージュである。

県外疎開で沖縄本島から九州に移った人々を除き、沖縄決戦のとき戦場に残っていた住民は49万人と推定される。そして人口の三分の一以上になる、約18万人が死んだ。日本軍(沖縄出身者を除く)の死者は約6万6千人、捕虜になったのが約7,400人だから生き残ったものはわずか1割に過ぎない。まさに玉砕戦である。そして軍人よりも一般住民の犠牲者の方が遥かに多かった。未成年者も師範学校および中学上級生は学徒隊を編成し、“鉄血勤皇隊”として戦線に投入され、師範学校女子部と第一高女は“ひめゆり看護隊”、第二高女は“白菊看護隊”として衛生兵同様に扱われた。

久米島における海軍兵曹長・鹿山正による久米島の敗戦後住民虐殺は衝撃的だ。犠牲者は二十人に及ぶ。1972年に「サンデー毎日」が大々的に報じ、ウィキペディアにも掲載されている。こちら。恐ろしいことにスパイ容疑で妻子(乳児含む)まで一家を皆殺しにするという犯行は1945年8月15日の玉音放送(ポツダム宣言受託発表)後の8月20日まで続けられた。スパイ容疑といっても米軍の捕虜になり、久米島攻略に際して軍に同行し、山中でうろたえている住民に「米軍は良民に危害を加えないから、抵抗せずに、安心して山を下りるように」と呼びかけた島出身の青年(25歳)を妻子ともども斬殺したり、朝鮮人だから怪しいとか、行商の品物が米軍の供与ではないかといった、確かな証拠もない噂レベルのはなしばかりである。当然軍事裁判もなく、問答無用の斬り捨て御免。鹿山兵曹長は「スパイの罪は六親等に及ぶ」と言い放った。彼は住民に対して「退山するものは、米軍に通ずる者として殺害する」と布告した。そして鹿島が戦後、このことに関して罪を問われることはなかった。

渡嘉敷島では329人、座間味島では53人の島民が日本軍の命令で集団自決を強要された。方法は手榴弾。隊長だった海軍の赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は食料を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」と主張した。そして住民は死に、大尉とその部下たちは生き残った。

また本島では天皇陛下の「御真影」を抱いて逃げまどっていた国民学校長がスパイ容疑で日本兵に銃殺される出来事があった。このエピソードは映画『激動の昭和史 沖縄決戦』にも登場する。

  • 軍人の証言から当時の日本軍は沖縄を植民地と考え、住民を見下していたことがわかる。沖縄人は朝鮮人と同様に差別されていた。
  • 「今後、沖縄語で会話する者は、すべてスパイとみなし、厳重処分に処す」という軍回報が発布された。
  • 村長など集落の有力者を狙ってスパイの嫌疑をかけ処刑し、食料を奪うこともあった。
  • 戦火を逃れ住民が壕や亀甲墓(中が家のようになっている)に隠れていると友軍(日本軍)が来て「出て行け」と命令し、彼らが代わりに入る。一緒に身を潜めた場合も、ひもじくて泣いている赤ん坊を「敵に見つかる、静かにしろ!」と兵士が殺すこともしばしばあったという。また便意を催し壕の外に出て用を達して帰ってきたら、艦砲が近くなる。すると「おまえ便所するふりしてスパイしたな」と兵隊に怒鳴られたという。

これらの心理的背景には極限状態にまで追い詰められた者の恐怖心と、保身(安全欲求)があった。住民が何を会話しているのか分からない恐怖。情報が敵に漏れて、自分たちの潜伏先を特定されるのではないかという恐怖。アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)はこう言った。「恐怖は常に無知から生まれる (Fear always springs from ignorance. )」。またイギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)は「恐怖心というものが迷信や残虐を生む。恐怖心を克服することが叡智につながる」と述べている。

総攻撃が失敗し第三十二軍は司令部のあった首里から本島南部に撤退を余儀なくされる。南端に追い詰められ牛島司令官(映画では小林桂樹が演じた)と長参謀長(丹波哲郎)は1945年6月23日に切腹して果てた。しかしここからが問題で、牛島は各部隊に次のような命令を出した。

「いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

つまり私は武士道に則りお先に死ぬが、お前たちは直属の上官に従い最後まで戦え。決して降伏することなく玉砕せよ、というのである。人命を尊重しない、全く無責任な話である。結果的にこれが8月15日の終戦(敗戦)まで、しっかりした指揮系統もないまま多くの日本兵や沖縄県民を縛り、悲劇を増幅させた。

〈生きて虜囚の辱めを受くることなく〉という箇所に、恥の文化にがんじがらめになった当時の日本人の問題点、というか欠陥が浮き彫りにされる。個よりも公(他人の目)が優先される。死を前提にした特攻という行為が許されたのも、この価値観が支配的だったからだ。そもそも切腹は決して美しい行為ではない。内臓は飛び出すし、介錯で頸動脈を斬ればあたり一面血の海だ。醜い死である。

神風特別攻撃隊に似た行為で沖縄で実行されたのが爆雷による肉弾攻撃。重箱くらいの大きさの箱に、火薬を詰める。タコツボに隠れて、敵戦車が来るとこの爆雷を抱いて飛び込む捨て身の戦法。やらされたのは兵隊ではなく、現地で動員された義勇隊だった。義勇隊と言っても名ばかりで半ば強制、疎開を許されなかった17歳から45歳までの男子が掻き集められた。この〈一人十殺一戦車〉の自殺戦法も『激動の昭和史 沖縄決戦』で描かれている。

日本兵は住民に鬼畜米英と教え込み、アメリカ兵につかまったら女は片っ端から強姦される、クロンボは赤ん坊を食いたがっている、などと言って脅した。だから怯えた住民は米軍に投降することが出来ず、青酸カリを飲んだり崖から投身自殺したりした。このあたりの詳しい事情は『沖縄決戦』や今井正監督の『ひめゆりの塔』をご覧あれ。

沖縄戦の実態は想像を絶する、悲惨な姿だった。これを学ぶ切っ掛けを作ってくれた故・大林宣彦監督に心から感謝したい。本当にありがとうございました。

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2020年7月30日 (木)

【考察】日本人と比較して、なぜ欧米人はマスクを嫌がるのか?〜文化的側面からその謎に迫る!

世界を席巻した新型コロナウィルス禍ではっきりしたことがある。日本人はなんの抵抗もなく自主的にマスクをするが(2020年7月末現在、通勤電車での装着率ほぼ100%)、ヨーロッパやアメリカ合衆国の人々はマスクをとても嫌がる。

2020年6月20日トランプ大統領がオクラホマ州で行った6,000人を超える大規模集会において、会場ではマスクが入場者に配布されたものの、実際に着用している人はほとんどいなかった。こちらの記事の動画をご覧頂きたい。この時、スタッフの数名がコロナに感染していたことが後に判明し、同規模の集会を開くことは二度と不可能になった。

感染が拡大する一方のフランスでは中々国民がマスクをしようとしないので、5月11日から国内全土で11歳以上の乗客に対し,公共交通機関利用時のマスク着用が義務付けられた。同義務違反は135ユーロ、日本円でおよそ1万6600円の罰金対象となっている。

イギリスでは7月24日からロンドンなどの都市でマスク着用を義務化する対象を公共交通機関に加え、店舗やスーパーを利用する際にも拡大する方針を明らかにした。着用しなかった場合は最大で100ポンド、日本円でおよそ1万3500円の罰金を支払わなければならない。あちらでは法律で取り締まり、多額の罰金を科さなければ埒が明かないのだ。彼らにとってコロナが流行る前は、マスクをするのは病人か医療従事者に限られると考えられていた。市中感染を予防するためにするという発想は皆無だったのである。次のような記事が参考になるだろう。

しかし日本では以前より、花粉が飛散する時期にマスクをする人は多かった。昔の暴走族やヤンキーも〈ファッションとして〉マスクをしていた

お隣の韓国でも日本と同様の風習があり、KPOPアイドルたちが〈ファッションとして〉マスクをしていた(詳細こちら)。

西洋と東洋のこの文化的価値観の違いは一体、何に由来するのであろうか?

日本のことわざ、慣用句には次のようなものがある。

以心伝心(元々は禅宗の語)

目は口ほどに物を言う

口は災いの元

いずれもコミュニケーションにおける目の優位性(>口)を表現している。

これに対して新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭はこう記されている。

はじめに言葉ありき

欧米人にとって言葉によるコミュニケーションは何よりも重要で、契約書を重視する。旧約聖書に記されたモーセの十戒も石版に書かれた神との契約書(取り決め)である。一方、「日本人は契約という概念がない」「態度がはっきりしない」「何を考えているかわからない」と彼らから非難されることになる。

欧米人は幼少期から論理的に相手を言い負かすことを学ぶ。その典型例がアメリカ合衆国では高校の授業でも行われるディスカッションやディベート(Debate)である(詳細こちら)。兎に角、自分の意見を主張することが重要。ところが日本はそうじゃない。言外のニュアンスを大切にする。

日本独自の文化、和歌や俳句にもその特徴がよく出ている。31文字(和歌)や17文字(俳句)という短い言葉に凝縮して、気持ち・心を伝えようとする。一方、ヨーロッパの定型詩ソネットは14行から成り、長い。

日本の少女漫画の主人公は、やたらと瞳が大きい。極端な場合、顔の長径の1/4くらいあったりする(例えばこちら)。アメコミ(アメリカン・コミックス)や、フランスの漫画〈バンド・デシネ〉と比べれば、その違いは歴然としている。日本人にとって目は感情を表現する武器なのである。だから欧米と比較すると、日本ではサングラスが普及しない。サングラスをすると「人相が悪くなる」(ヤクザとか悪徳警官みたい)というイメージを持たれるから。目がコミュニケーションをとる主な手段となっている。

Jin
映画『仁義なき戦い』より

Alita

上の写真はジェームズ・キャメロンが製作・脚本を担当したした映画『アリータ:バトル・エンジェル』の一場面である。原作は木城ゆきとの漫画『銃夢』。原作に敬意を払い目が大きいままにしたため、リアルなCG映像だとどうしても違和感がつきまとうことになった。

欧米人は相手の口元を見てコミュニケーションを図るので、マスクが邪魔になる。しかし日本人は相手の目を見るのでマスクが妨げとならないという根本的な違いがあるのだ。

"Watch your mouth !"という慣用句がある。「言葉遣いに注意しろ、口のきき方に気をつけろ!」という意味である。しかしマスクをしていたら口をwatch出来ない。

Jul Ann

上の写真はジュリア・ロバーツとアン・ハサウェイである。ギョッとするくらい口が大きい。キャメロン・ディアスもそう。つまりアメリカでは口が大きいことが美人の条件になっている。では日本で、これだけ大口の女優が果たしているだろうか?僕は全く思いつかない。強いて言えば今井美樹だが、彼女は歌手活動が中心であり、映画女優として出演したのは『犬死にせしもの』など3作品しかない。

Uki

江戸時代の口紅は、主に紅花(べにばな)から作られていた。最も有名だったのは〈小町紅〉。 紅は大変高価なものだったので、唇いっぱいに塗るのではなく、小さく塗るのが一般的だった。口を小さく見せたいという意図もあっただろう。当時は〈おちょぼ口〉が美人の必須条件だった。

日本人は口を重視しない。だからマスクで覆い隠しても問題ないのである。

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めっちゃ怖い!「透明人間」

評価:A+

The_invisible_man

映画公式サイトはこちら

めっちゃ怖かった!映画館でいたたまれない気持ちになった。こんな感情を覚えたのはいつ以来だろうとしばらく真剣に考えて、思い当たったのが清水崇 監督の『呪怨』。それも2003年に公開された奥菜恵主演の劇場版とか、酒井法子主演の『呪怨2』じゃない。2000年に東映ビデオから発売されたオリジナルビデオ版。実に20年ぶりである。

今回の『透明人間』は予算がたった700万ドル(約7億7,000万円)だ。超低予算映画である。日本でいうとアニメーション映画『AKIRA』程度。それも1988年公開当時の金額だから、多分『AKIRA』の方がお金が掛かっている。因みにクリストファー・ノーランの『インセプション』の製作費が1億6,000万ドル、最新作『TENET テネット』は2億ドルを超えている。桁が違う。

そもそもエリザベス・モス主演というのが低予算を感じさせる。彼女はHuluのドラマ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』(僕はシーズン3まで全部観た。大傑作)でエミー賞の主演女優賞を受賞し一世を風靡したが、所詮はテレビ女優である。しかも撮影当時37歳。(ニコール・キッドマンとかシャーリーズ・セロン、メリル・ストリープは別格として)普通ならハリウッド映画で主演を張れる年齢ではない。

『透明人間』はアイディアの勝利である。『呪怨』も結局、予算が少ないバージョンの方が出来が良かったりする。『リング』もハリウッド版より日本の第1作が一番怖い。

〈見せない恐怖〉という意味においてスピルバーグの『ジョーズ』に近い。『ジョーズ』なんかサメそのものは張りぼてで、ちゃちだ。テレビ映画『激突!』は最後までトレーラー運転手の顔を見せなかった。新型コロナウィルスの恐怖も敵が見えないことにある。また、透明人間を追ってカメラが誰もいない空間をパンする演出はヒッチコックの『レベッカ』を思い出した。『レベッカ』もタイトルロールを敢えて見せないことで彼女の存在感を増した。

最新の『透明人間』はまた、〈ガスライティング(英: gaslighting)〉ものでもある。心理的虐待の一種であり、被害者(妻)にわざと誤った情報を流し、被害者が自身の記憶や正気を疑うよう仕向ける手法。起源はイングリッド・バーグマンがアカデミー主演女優賞を受賞したジョージ・キューカー監督の映画『ガス燈』(1944)に遡る。元々は舞台劇だそう。ヒッチコックの『断崖』(1941)も夫の意図的な工作ではないのだが、双子と言いたくなるほど『ガス燈』に近い作品だ。『断崖』ではジョーン・フォンテインがアカデミー主演女優賞を受賞、彼女は『レベッカ』の主演でもあり、こういう怯えた演技が上手い。因みについ先日なくなったオリビア・デ・ハビランド(『風と共に去りぬ』のメラニー役)はジョーンの姉であり、この中の悪い姉妹は東京都で生まれた(両親はイギリス人)。閑話休題。

あとね、男から精神的・肉体的な虐待を受けた女が最初は逃亡を試み、物語の中盤以降からは反撃に転じるという構造が『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』とそっくりなのも面白い。エリザベス・モスは大した女優だ。

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2020年7月29日 (水)

ええっ、プレイリスト・ムービーって何!?「WAVES/ウェイブス」

評価:A+

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公式サイトはこちら

傑作。何より感性が新しい。〈プレイリスト・ムービー〉は初体験だし、これぞ21世紀の映画だ。サブスクリプション(定額制音楽配信サービス)時代の賜物である。実際Spotifyでは〈映画公式プレイリスト〉が公開されている→こちら

映画冒頭、車の中をカメラが水平方向に360度クルクル回転し続ける映像は〈新感覚〉だ。スクリーン・サイズが伸び縮みするのも面白い。惚れた。

ちょうどね、アレに近い感覚じゃないかな?1960年に公開されたジャン・リュック・ゴダールの映画『勝手にしやがれ』を初めて観たときの観客の衝撃。ジャンプカットとか、独創的なカメラワークとか「何だこれ!?」って狐につままれた感じ。考えてみればゴダールやトリュフォーを代表とするフランス〈ヌーヴェルヴァーグ〉とは、「新しい波」、NEW WAVEを意味する言葉。ちゃんと"WAVES"に繋がっているじゃないか。

従来の映画文法は壊され、既成概念はひっくり返された。必見。

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2020年7月22日 (水)

【考察】「源氏物語」で紐解く古代日本人の深層心理と、その生活様式

僕は20歳を過ぎた頃から、折角日本に生まれたのだからいつか紫式部『源氏物語』は読まなければならないと切実に思い、しかしその余りの長大さ(文庫本で10巻)に繰り返し挫折してきた。漫画だったら読めるんじゃないかと考えて大和和紀『あさきゆめみし』にも挑戦したのだが、光源氏が須磨に退去した辺りであえなく音を上げた。次々と登場する女君がみな同じ顔に見えて、途中で混乱してわけがわからなくなってしまったのだ。小説の量が膨大過ぎて歯が立たないという経験はマルセル・プルースト『失われた時を求めて』に似ている。『失われた…』は何度挑戦しても第1巻より先に進まない(しかし未だ、諦めてはいない)。

『源氏物語』現代語訳として与謝野晶子、谷崎潤一郎(生涯に3度)、円地文子、田辺聖子、橋本治、瀬戸内寂聴ら錚々たる文学者が取り組んでいる。今回、僕が愛読している小説『対岸の火事』『八日目の蝉』『紙の月』や『愛が何だ』を書いた角田光代が訳したということで早速手にとってみると、兎に角スラスラ読めて驚いた!約2、3ヶ月で呆気なく通読出来た。女優・美村里江(旧芸名:ミムラ)も高校時代、谷崎潤一郎の現代語訳で挫折したが角田光代訳で漸く読破したとラジオで語った(こちら)。これに気を良くして僕は『あさきゆめみし』にも再度挑み、今度は完走した。さらに光源氏の死後(下巻)の部分は谷崎訳も目を通した。

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藤原俊成は鎌倉初期の建久四年(1193年)に開催された歌合で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」と言った。

平安時代、『古今和歌集』(905年)より後に成立したと考えられる『伊勢物語』は歌物語である。その影響が色濃い『源氏物語』(1010年頃)でも沢山和歌が詠まれており、歌物語的性格がある。特に『古今集』からの引用が非常に多いので、『源氏物語』の前に、高田祐彦(訳注)『古今和歌集』(角川文庫)を読まれておくことをお勧めする。なお新海誠監督(中央大学 文学部文学科国文学専攻)のアニメーション映画『君の名は。』や『天気の子』は沢山の歌が挿入されているが、これは王朝文学の影響と思われる。

また副読本として臨床心理学者・河合隼雄の『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』(岩波現代文庫)と、大野晋(国語学者)×丸谷才一(小説家)の対談本『光る源氏の物語』(中公文庫)上下巻がとても参考になった。当時の風俗を知るという意味で『あさきゆめみし』も十分価値がある。

現代人が『源氏物語』を読むに当たり、まず受け入れがたいのが光源氏の華麗なる女遍歴であろう。精力絶倫と言うか、稀に見るプレイボーイぶりである。

京都大学および国際日本文化研究センター教授を定年退官後(65歳)初めて『源氏物語』を通読したという河合隼雄は『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』で次のように述べている。

 恥ずかしいことであるが、私は長い間『源氏物語』を読んだことがなかった。若いときに、人並みに挑戦ーといっても現代語訳であるがーを試みたが、「須磨」に至るまでに挫折した。青年期にはロマンチックな恋愛に憧れていたので、それとまったく異なる男女関係のあり方が理解できなかったのである。それは端的に言って、「馬鹿くさい」と感じられたほどであった。次から次へと女性と関係をもつ光源氏のあり方には、腹立ちさえ覚えたのである。

僕も20代の頃に、同様な感想を持った。しかし時代背景をしっかり鑑みなければならない。

平安時代の平均寿命は男性33歳、女性27歳ぐらいだったと言われている。出産時に亡くなる女性の割合が高く、また乳児死亡率も高かった。

例えば2017年の日本における乳児死亡率は(1000人比で)1.9。江戸時代の記録はないが、1918年(大正7年)は188.6だった。つまり5人生まれたら1人は死んでいたことになる。因みに大正時代の平均寿命は43歳。それより寿命がもっと短い古代は推して知るべしだろう。江戸時代において生後1年までの死亡率は20-25%と推定されている。

佐藤千春の報告(『栄花物語のお産』日本医事新報)によると、平安時代は経産婦47人中11人、実に23.4%がお産で亡くなっているという。つまり当時、子供を生むのは命懸けだった。実際のところ、光源氏の母・桐壺更衣は出産後に体調が思わしくなく源氏が3歳の時に亡くなり、源氏の正妻・葵の上も夕霧を出産直後に命を落とす。

生物に課せられた使命は「種の保存」である。人工を減らさないためには男女1組あたり、2名の子供を成人になるまで育てなければいけない。ましてや天皇や貴族の場合、跡取りとして健康な男児が必要だった。しかし死亡率などから概算すると、平安時代の男性は1人あたり平均3−4人子作りする必要があった。光源氏が残した子供は3人。①葵の上ー夕霧 ②藤壺の宮ー冷泉帝 ③明石の方ー明石の君 である。決して多くはなく、標準的と言えるだろう。

生来、男に浮気性が多いのは生物学的必然である。種馬の如くせっせと種を植えなければ自分のDNAを後世に残すことが出来ない。しかしその辺の事情は近代医学の進歩で変わってきた。一方、女性の場合は一旦妊娠すると出産を経て産褥期が終わるまで約1年かかるわけで、男と比較して(子供の)生産性が高くない。だから生物学的に浮気をする謂れもない。世界にハーレムとか大奥というシステムが出来たのも上述したような理由からであろう。

平安時代において死因の三大疾患は①結核 54% ②脚気 20% ③皮膚病 10%だった。結核の原因は栄養失調。脚気はビタミンB1の欠乏。古代人は肉を食べなかったので慢性的にタンパク質が不足していた。宇治十帖に登場する大君(おおいきみ)の死因は神経性食欲不振症(摂食障害)と考えられる。皮膚病の原因は不衛生。平安時代の貴族は月に4−5回しか入浴しなかった。それも当時はお湯を沸かして室内を蒸気で満たしたサウナ風呂で、殆ど体を洗わない。入浴日は占いによる吉兆で決めていた。縁起の悪い日に入浴して垢を落とすと、毛穴ら邪気が入り込み命を失うと信じられていたという。裸では入らず「湯帷子」(ゆかたびら)という単衣を着用し、簀の上に敷物を敷いてその上に座る。これがゆかた風呂敷の語源である。裸で湯に浸かるようになったのは江戸時代以降である

また女性が長い髪の全体を洗うのは、多く見積もっても月一回程度だったようだ。『源氏物語』には宇治の中君が洗髪する場面があり、神無月(十月)に洗髪することは禁忌である旨が書かれている。つまり当時、お香が流行ったのは、(西洋の香水と同様に)体臭を消すという目的が大きかったんじゃないかな?因みに全長2mを超える髪を洗って乾かすまでは、朝から日暮れまで一日がかりだったとか。

平安時代の日本人は現在に生きる我々同様、宗教に対して鷹揚だった。『源氏物語』で朱雀帝はまず天皇として登場する。しかし32歳で冷泉帝に譲位し上皇となり、後に出家する(その際に娘である女三宮を光源氏に降嫁させる)。天皇は一応、天照大神(アマテラスオオミカミ)の末裔という設定になっており、神道のトップに立つ存在だ。その人が仏教に帰依するって矛盾してない?考えてみれば天武天皇の発願で奈良の大仏が建立されたというのも、おかしな話である。

また朝顔の姫君は斎院(さいいん)を努めた。斎院とは伊勢の斎宮(さいぐう)と同様に、平安時代から鎌倉時代にかけて京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)に奉仕した未婚の内親王または女王である。しかし彼女も後に出家して尼になる。神に仕える巫女が仏に宗旨変え??皆いいかげん、テキトーである。まぁこのおおらかさが、日本人らしいと言えるだろう。なお当時、女性の出家は坊主にせず、肩口で切りそろえる程度だった。それを「肩そぎ」あるいは「尼削ぎ」と言った。 現在でいうところのセミロング、おかっぱ頭である。

平安朝の人々は「末法(まっぽう)」という終末思想に囚われていた。仏の教えが世間に行き渡らず、衰退してしまうとされる時代のこと(ノストラダムスの大予言みたいなものだ)。 永承七年(1052)に「末法」が到来するというのである。死後への不安から、天皇や貴族も仏教に帰依し、極楽往生を願った。『源氏物語』に登場する女たちの7割方が出家するのもそのためである。光源氏や薫も出家したいと話す。そして末法元年の翌年(1053)に建立されたのが宇治平等院鳳凰堂である。 小説が書かれた時点で平等院はなかった。

六条御息所の面白いのは生霊として人(夕顔/葵の上)を取り殺すところにある。それも無意識にだ。死後もこの世を彷徨い、紫の上や女三宮に取り付く。

平安時代の人々は生きている状態で魂(たましい)が肉体から遊離すると考えていた。これは精神(理性)と欲望(本能=自然に近い状態)との分離を目指した西洋と対照的な観念である。

古今和歌集 九七七番を見てみよう。

身をすてて行きやしにけむ思ふよりほかなるものは心なりけり
(我が身を捨てて心だけは知らないうちにそちらへ行っていたのでしょうか。自分の思いと別にあるものは心だったのです

また九九二番、

    女ともだちと物語して、別れてのちにつかはしける
飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する
(いくら語り合っても満ち足りない。お別れしても、あなたの袖の中に入ってしまったのでしょうか、私の魂が手元から消え失せたような気持ちがします)

他に離別歌 三七三番、

    あづまの方へまかりける人に、よみてつかはしける
思へども身をしわけねば目に見えぬ心を君にたぐへてぞやる

(あなたのことを思っても、身体を分けてついてゆくことは出来ません。だから目に見えない心をあなたに寄り添わせて遣わします)

恋歌 六一九番、

よるべなみ身をこそ遠くへだてつれ心は君が影となりにき
(あなたのそばに身を寄せるところがないので、身体は遠く離れているけれど、心はあなたの影になって寄り添っていました)

などがある。つまり遊離魂は〈影〉そのものだった。ここに古代日本人の心のあり方が読み取れる。

光源氏、頭の中将、匂宮、薫ら『源氏物語』に登場する男たちはよく泣く。〈男らしさ〉とは一体何なのだろう?僕らはそろそろ、そういった(武家社会時代に形成された)固定概念から開放されるべきだ。

米国の人類学者ルース・ベネディクトは著書『菊と刀』(1946)の中で、西洋は〈罪の文化〉で、日本は〈恥の文化〉だと分類した。〈恥の文化〉とは他者の非難や嘲笑を恐れて自らの行動を律することを指す。

光源氏は〈世間体〉を気にしている。後朝(きぬぎぬ)の別れでも、人目に触れないように女の家から極めて早朝に発ったりする。個人主義(Going my way)ではなく、〈場〉の雰囲気を毀さないよう、〈空気を読む〉ことに腐心している。

また六条の御息所が生霊となり、最後は鬼になるのは〈恥〉をかいたからだ。浮舟とその母も、他人に侮られるとか、物笑いのたねになることをすごく気にしている。

結局、千年経っても人の心のあり方は少しも変わらない。進化したのは社会保障、司法、医療、教育などの〈システム〉や〈科学技術〉であり、人間そのものではない。21世紀に生きる僕たちでもちゃんと『源氏物語』の感情に共感し、寄り添える。薫ー大君ー浮舟の関係性が、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画「めまい」の構造(スコティーマデリンージュディ)と全く同じだと気付いた時には驚いた。

『源氏物語』はマザー・コンプレックスの話であるとも言える。母性社会日本に相応しい(欧米諸国は父性原理で動いている)。光源氏が慕う藤壺の宮は源氏の母・桐壺更衣に生き写しと描写される。つまり母+アニマ(男性が抱く内なる女性像)。一方、源氏が幼少期から育てる紫の上は藤壺の宮の姪で、藤壺に似ている。つまり母+アニマ+娘の役割を果たす。

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河合隼雄『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』より

さて次に『源氏物語』最大の謎に目を向けよう。光源氏とは一体、何者だったのか?

角田光代は中巻の「訳者あとがき」に次のように書いている。

 上巻で、ずっと光君という人を追いながら、私にはどうしてもその顔が見えなかった。神のような、神の子のような、あるいは運命というものの象徴としての存在のような、人間的なものから離れた何かのようにしか思えなかった。

『源氏物語幻想交響絵巻』を作曲した冨田勲(故人)も、「私は源氏物語を読んでいて、光源氏の顔が全く思い浮かばないんです」と語った。

僕が思うに、光源氏とはプラネタリウムの光源(投影機から発する光)のような存在と言えるのではないだろうか。そして天井の曲面スクリーン一杯に写し出される数々の星座が女君たちというわけ。光源氏は様々な女性たちの生き様を浮かび上がらせるための装置であり、実体がない。だから実写映画やテレビドラマで『源氏物語』は成功しない。生身の男優が演じてもリアリティに欠けるのである。むしろ宝塚の男役が相応しい。

河合隼雄はこの仕掛を「マンダラ」と呼んだ。

Mandara

河合隼雄『源氏物語と日本人 ー紫マンダラ』より

光源氏の輝きは、太陽(昼)というよりは月(夜)に近い。紫の上が詠んだ歌、

氷閉ぢ石間の水はゆきなやみ空澄む月のかげぞながるる

「石間(いしま)の水」は遣水のこと。上の句は幽閉された自分自身のことを指し、下の句は自由戀愛を謳歌する光源氏のメタファー。つまり「光」=「月光(つきかげ)」なのである。とすると月読命(ツクヨミ)のイメージが重ねられていると解釈することが出来るだろう(天照大神と須佐之男とで三姉弟)。

菅原孝標女が『源氏物語』に夢中だった少女時代を振り返って(平安時代中頃に) 書いた『更級日記』には次のような一文がある。

「われはこのごろわろきぞかし。盛りにならば、かたちも限りなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ。」と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
(「私はいまのところ器量が悪いけれど、女盛りの時期を迎えれば顔貌も限りなく良くなり、髪もとても長く伸びるでしょう。光源氏が愛した夕顔や、薫君が愛した浮舟のようにこそ未来の自分はありたいものだわ」と思っていた心はむなしく、みっともない限りだ)

『源氏物語』の現代語訳をした円地文子は『源氏物語のヒロインたち』という対談本の中で夕顔について次のような所感を述べている。

どこか遊女性がありますね。娼婦性っていうのかしら。そういうものはあると思いますよ。

この小説はさながら、〈平安時代の女性コレクション〉という絢爛豪華なショーを見ているかのようだ。女性図鑑・カタログ・絵巻と言い換えても良い。

角田光代はこちらのインタビューで次のように語っている。

もし紫式部がこれを全部一人で書いたという前提で考えるのならば、私はたぶん作者が意図して自分のコントロール下で書き進められたのは「明石」の帖までだと思うんですよ。「明石」以降はちょっと自分でも思いもよらないほうにいってしまって、物語や登場人物が勝手に歩いていっちゃって、ときどきコントロールするために短い挿話を差し込んでいるんだけど、物語の大きな流れはたぶん作者の手を離れちゃったんじゃないかなという印象があるんですよね。

書き手として私が考えるのは、小説というのはたぶん自分ができるすべての力を注いでつくったとしても、できるのは百パーセントまでで──それすらも難しいんですけども──それ以上は絶対にいかないと思っていたんですね。でも小説が百パーセント以上の力を発揮することがあって、それは作者じゃなくて、小説に宿った力がそうさせることがごく稀にあるとなんとなく考えていたんです。それの超弩級版がまさにこの『源氏物語』じゃないかなって、最近は思っています。

(中略)女たちのほうが勝手に生き生きと息づきはじめてしまったのかもしれない。それも作者の思惑を超えて、のような気がします。 

松尾芭蕉に「紅梅や見ぬ恋作る玉簾」という俳句がある。平安時代の貴族の男女の出会いは〈見ぬ恋〉であった。寝殿造りは御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風で女の姿を隠し、外部から目に触れないようにしていた。だから「どこそこの家の娘は大層別嬪さんらしい」という噂は耳にすれど、実際に垣間見ることはほぼ不可能であった。通い婚だった当時は、初夜に至るまで互いに顔を知らず、しかも逢瀬は真っ暗なので相手の顔も見えず、事が終わってから昇ってきた朝日で漸く容姿が確認出来るというのが通常であった。だから事後に「しまった!こんな筈じゃなかった」と後悔することも当然あるわけで、『源氏物語』第六帳〈末摘花〉でもそんな顛末が面白おかしく書かれている。

20世紀フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは著書『親族の基本構造』の中で、オーストラリアの原住民らを研究し、近親相姦の禁忌と、母方交叉イトコ婚が推奨されるのは何故かを解明した。そこには〈女性の交換〉という原理があった。人間社会の基本はコミュニケーションであり、それは言葉や物(お金を含む)を交換することにある

平安貴族にとっても、娘=交換価値であった。その最高の価値は入内し、中宮として天皇に寵愛され、嫡男を生み、その男児が春宮→天皇という道を進むことであった。藤原道長はそうして摂政となり、一族は栄華を極めた。

つまり、いかにして地位の高い男を婿に迎えるかということが彼らにとって最も重要事項であり、見ぬ恋〉 は 娘=交換価値 を高めるために必要であったと言えるだろう。

最後に。『源氏物語』上巻を読んでいる途中で、「おや?」と引っ掛かった。明らかに欠落部分があると感じたのである。光源氏と藤壺の二回目の秘密の逢瀬が描写されるが、一回目については全く言及されない。また六条御息所が唐突に登場し、源氏との馴れ初めが書かれていない。この疑問は後に、大野晋×丸谷才一の対談本『光る源氏の物語』を読んで解消された。

藤原定家(1162-1241:小倉百人一首撰者)の書いた注釈書のなかに「一説には 巻第二 かゝやく日の宮 このまきもとよりなし」とある。つまり『輝く日の宮』という巻が元々あったが、定家の時代に既に失われていた可能性が示唆される。

丸谷は紫式部のパトロン・藤原道長の意向で削除されたという説を述べており、興味深い。脱落したこの巻を補う丸谷の同名小説も読んだ。また瀬戸内寂聴も同様の趣旨で小説『藤壺』を書いている。

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2020年7月21日 (火)

映画「のぼる小寺さん」とシーシュポスの神話

評価:A

Noboru

公開後、大評判なので何の予備知識もなく観に行った。主演の工藤遥が元モーニング娘。ということは、現在このブログを書いている時点で資料に当たり、初めて知った。原作は漫画なのだそう。全4巻。公式サイトはこちら

古厩智之監督作品は16mmフィルム『灼熱のドッジボール』(15分)がぴあフィルムフェスティバル(PFF)でグランプリを受賞して、そのスカラシップで撮った初の劇場映画『この窓は君のもの』(1995、日本映画監督協会新人賞受賞)と、長澤まさみ主演『ロボコン』(2003)を観ている。どちらも瑞々しい青春映画で大好きだった。それ以来、実に17年ぶりの再会である。

シナリオを書いた吉田玲子はアニメーション映画『リズと青い鳥』と『若おかみは小学生!』の脚色の上手さが際立っていた。今回の仕事も文句なし。

『ロボコン』は高専のロボットコンテストを題材にしていたが、今回は高校のボルダリング部。目新しい。僕の学生時代にはそんな部活動は存在しなかった。調べてみると、全国高等学校選抜スポーツクライミング選手権大会が初めて開催されたのは2010年だという。

本作には〈何故、小寺さんは壁を登り続けるのか?〉という大きな問いがある。それは〈何故、人は生きるのか?〉という哲学的な問いに等しい。

〈何故、人は生きるのか?〉生物学的に言えば、答えは単純明快である。〈子孫を残し、繁栄させるため〉〈命をつなぐため〉ーそれしかない。それは新型コロナウィルスも同じ(宿主の人間が死んでしまったら体内のウィルスも死滅するで元も子もないのだけれど、そこまでは脳のないコロナは予想出来ない。だから闇雲に増殖しようとする。がん細胞もまた然り)。しかし医学の進歩で人間の寿命は伸び、子供が成人になっても僕らは生き続けることになった。子供をもうけない人も天寿を全うする。その目的は?どうせ皆、最後は死ぬのに……。結局、この問いを突き詰めていくと〈たまたまこの世に生を受けたから〉という答えしか残らないのではないだろうか?

ギリシャ神話に『シシュポス(シーシュポス)の岩』というエピソードがある。小説『異邦人』で有名なアルベール・カミュの随筆『シーシュポスの神話』冒頭部を引用してみよう。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。

無益で希望のない労働ほど怖しい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。

正にカミュが得意とするところの〈不条理である。しかし考えてみれば、人生とはこの〈不条理の繰り返しなのだ。一生懸命働いて財産を築く。銀行に沢山貯金をする。そして死ぬ。結局、残ったお金は本人にとって無意味となる(勿論、子孫のためにはなるけれど)。

〈何故、小寺さんは壁を登り続けるのか?〉その答えはシーシュポスが岩を繰り返し山頂まで運び上げる行為と同じだろう。イギリスの登山家ジョージ・マロリーは「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と記者から問われて、「そこに(山が)あるからさ(Because it's there. )」と答えた。〈何故、人は生きるのか?〉結局この答えも、"Because it's there."に集約されるだろう。

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