クラシック通が読み解く映画「TAR/ター」(帝王カラヤン vs. バーンスタインとか)

評価:A+

アカデミー賞で作品賞/監督賞/主演女優賞/脚本賞/撮影賞/編集賞の6部門にノミネート。ケイト・ブランシェットがクラシック音楽界の頂点に上り詰めた指揮者を演じる映画『TAR/ター』公式サイトはこちら

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無茶苦茶面白かったのだけれど、普段クラシック音楽に余り親しんでいない観客にはどう受け止められたのだろう?という気持ちにもなった。ある程度クラシック音楽の知識を持っていた方がさらに数倍楽しめる映画だと思うので、クラオタの視点から本作に新たな光を当てていきたい。

史実におけるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者の変遷は以下の通り。

〈フルトヴェングラー(一時期ルーマニア出身のセルジュ・チェリビダッケ)→カラヤン(オーストリア:ザルツブルク)→クラウディオ・アバド(イタリア)→サイモン・ラトル(イギリス)→キリル・ペトレンコ(ロシア)〉

しかし映画では〈フルトヴェングラー→カラヤン→アバド→アンドリス・デイヴィス→リディア・ター〉という流れのようだ。

アンドリス・デイヴィスという名前が面白く、現在もベルリン・フィルに客演しているアンドリス・ネルソンス(ラトビア)と、アンドルー・デイヴィス(イギリス)あるいはコリン・デイヴィス(イギリス)を掛け合わせたのだろう。

巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー亡き後、1955年にベルリン・フィルの首席指揮者として破格の終身契約を結び(この時水面下で交わされた駆け引きが実に面白いのだが、それはまた別の話)、帝王と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)は、ベルリンでスターは自分一人で十分だと考えていた。故にライバルであるレナード・バーンスタイン(1918-1990)を客演指揮者として一度も定期演奏会に招かなかった。

バーンスタインは生涯に一度だけベルリン・フィルを指揮したことがある。1979年10月4日と5日の演奏会で、曲目はマーラー:交響曲第9番だった。

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正に一期一会、伝説的名演として知られ、1992年に漸く発売されたライヴ音源は日本の「レコード芸術」誌においてレコードアカデミー大賞を受賞した。その演奏会直後の79年11月から翌80年にかけてカラヤンは同曲をベルリン・フィルとセッション録音した。彼はそれまで一度も演奏会でこの曲を指揮したとがなく、ボウイング(弦楽器の運弓法)などバーンスタインがオケを鍛えたノウハウを利用/活用したのではないかという疑惑が囁かれている。実はカラヤンには前科がある。

1949年夏に引き続き1950年8月、フルトヴェングラーはザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮し、モーツァルトの歌劇『魔笛』を上演した。その年の11月、カラヤンはウィーン・フィルを指揮し『魔笛』をセッション録音した。キャスト(歌手)は、フルトヴェングラーがザルツブルクで指揮した『魔笛』とほぼ同じだった。フルトヴェングラーはこれを知り激怒した。自分が2年間にわたってザルツブルクで練り上げた成果をカラヤンが横取りしたと感じたのだ。まるで自分はカラヤンのリハーサル指揮者ではないか。(参考文献:中川右介 著『カラヤンとフルトヴェングラー』幻冬舎新書)

バーンスタイン(以下愛称のレニーと呼ぶ)がベルリンに登場したのはドイツ連邦政府が主催するベルリン芸術週間であり、カラヤンの管轄外だった。しかしカラヤンはこの歴史的音源が世に出ることを、自分が生きている間は阻止することに成功した

映画の冒頭、ケイト・ブランシェット演じるターが足でカラヤン/ベルリン・フィルの「マーラー:交響曲第9番」(1982年ライヴによる再録音)LPジャケットを足で払いよける場面があるのはそうした経緯がある。彼女はレニーに師事した経歴を持ち、同じ部屋にレニー/ベルリン・フィル「マーラー9番」LPもある。

レニーと親交が深かった指揮者・大植英次は次のように回想している。

「バーンスタイン先生は、正式に弟子というものを取ったことがなかった。世界に、バーンスタインの弟子、と言って喧伝しているものは少なくないが、セミナーやリハーサルなどで一緒に時間を過ごしただけの者が多い」しかし「もし、一人あげるならば、それはマイケル・ティルソン=トーマス」(山田真一著「指揮者 大植英次」アルファベータ より引用)

  大植英次、佐渡 裕~バーンスタインの弟子たち 2008.02.29

劇中ターがラジオから流れてくるマイケル・ティルソン=トーマス (MTT) 指揮するショスタコーヴィチ:交響曲第5番の終結部を聴き「こんなにテンポを遅くしては駄目」と言う(ショスタコの5番もレニーが得意とした曲)。同じ門下生としての対抗意識が剥き出しにされる場面だ。なおターは同性のパートナーであるベルリン・フィルのコンサートマスター(コンサートミストレスとも言われる)シャロンと暮らし、養女を育てており(ドイツでは2017年10月1日から同性婚が認められた)、MTTはゲイであることをカミングアウトしている。一方、レニーは結婚し子供も生まれたが、ゲイだったことはよく知られている(詳しい事情は今年Netflixから配信される予定のブラッドリー・クーパー監督・主演の映画『マエストロ』をご覧あれ)。またニューヨーク、マンハッタン生まれの女性指揮者マリン・オールソップについて言及されるが、彼女も同性愛者であるとカミングアウトしており、パートナーとの間に息子が一人いる。彼女がターのモデルであることは間違いないが、この映画に対しては否定的なコメントを表明している。なおレニーが提唱し、1990年に始まった若い音楽家のための教育音楽祭PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌)にマリン・オールソップは参加し、佐渡裕と共に(交代で)指揮台に立った。

映画の最初の方でターが受け取った、送り主不明の本はイギリスの女性作家ヴィタ・サックヴィル=ウェストの小説『Challenge』初版本。日本語訳はない。ヴィタはヴァージニア・ウルフの恋人で、名作『オーランドー』のモデル。同性愛は当時のイギリスで非合法だった。

カラヤンがベルリン・フィルとマーラーの交響曲第5番を初めて演奏したのは1973年。2月13日から16日にかけドイツ・グラモフォンにセッション録音し、翌17日に定期演奏会で聴衆に初披露した。レコーディングだとたっぷりリハーサルに時間をかけられるので(経費はレコード会社が全て負担)、レコーディング→演奏会本番というパターンを彼はしばしば行った。シンフォニーの第4楽章 アダージェットが有名になるきっかけとなったルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』が公開されたのが1971年だから、商売上手なカラヤンはその人気に便乗したのではないかと僕は疑っている(カラヤンの死後コンピレーション・アルバム『アダージョ・カラヤン』が発売されヨーロッパや日本で驚異的な大ヒット、全世界で500万枚以上売れた。その冒頭にアダージェットは収録されている)。ターがリハーサルでアダージェットを指揮する場面があり、ヴィスコンティに言及する。

 ・  ヴィスコンティ映画「ベニスに死す」の謎

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映画の後半、彼女が「私が所有するマーラー5番のスコアを盗まれた!」と騒ぎ立てる場面があるが、スコアには様々な書き込みをしている筈であり、つまり自分のアイディア・解釈を盗まれたと言っているのだ。これはレニーとカラヤンの確執を彷彿とさせる仕掛けになっている。

カリスマ的天才指揮者カルロス・クライバー(1930-2004)はレパートリーが非常に少ないことでも知られている。実は彼が指揮した曲の殆どは偉大な父エーリッヒ・クライバー(1890-1956)が生前指揮したものであり、カルロスは父が残したスコアへの書き込みなど資料をふんだんに活用し、メモがないものに対しては自信がなかったのではないかと推測される。とてもセンシティブな人だった。ちなみに僕は中学生の時に彼が指揮するミラノ・スカラ座引っ越し公演プッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』を大阪・旧フェスティバールで鑑賞している。

 ・ シリーズ《音楽史探訪》音楽家の死様(しにざま) 2014.04.21

映画でマーク・ストロング演じる投資銀行家で、アマチュア・オーケストラの指揮者としても活動するエリオット・カプランのモデルはギルバート・カプラン(1941−2016)だろう。アメリカの実業家でアマチュアながらゲオルグ・ショルティに師事。大好きなマーラー:交響曲第2番「復活」のみを専門にする指揮者として自費を投じコンサートを世界各地で開き、最終的にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ったCDを天下のドイツ・グラモフォンから発売するまでに至った。

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ターはアバド/ベルリン・フィルが1993年に録音したマーラー:交響曲第5番のLPジャケットを選び出し、それを模した写真を取ろうとする。彼女は常に『自分はどう見られているか』を意識しており、性格的にカラヤンに最も近い人物像となっている。

カラヤンはセルフ・プロデュース力に長け、常に自分が最も美しく写真に撮られることを心がけた。彼はおびただしい数のコンサート映像を残したが、映像演出にも口を出した(オペラ演出もした)。基本的に指揮する彼の顔は正面よりも横顔が映し出される方が多い。自分の横顔が美しいことを彼はよく知っていたのだ。そしてカメラはオーケストラの楽器を大写しにするが、奏者の顔は写さない。つまりあくまでスターはカラヤンただ一人であり、オケは彼の楽器でしかないことを示している。1960年代半ばまではリヒテルやロストロポーヴィチと共演することもあったが、70年代以降は協奏曲で巨匠と呼ばれるソリストと組むことはなくなった。スターは彼一人だけ。カラヤン/ベルリン・フィルがアンネ=ゾフィー・ムターとモーツァルトを録音したときムターは15歳。エフゲニー・キーシンがカラヤンとチャイコフスキーを録音したときキーシンは17歳。晩年若手と組むことを好んだのは、その方がカラヤンが全体を支配し易いからだと僕は考えている。

カラヤンが陶酔したように目をつむり指揮するのも、その方がフォトジェニック(映える)からだからだろう。そもそも目を閉じたら奏者とアイコンタクトが取れない。つまり合理的ではない。カラヤン以前も以後も、こんなことをする指揮者は誰もいない。彼は徹底したナルシストだった。

ターはロシア出身の新人チェリスト・オルガにのめり込んでいく。同郷の偉大なチェリスト、ロストロポーヴィチが好きなのか?とオルガに尋ねるとイギリスのジャクリーヌ・デュ・プレ(愛称ジャッキー)がお気に入りだという。切っ掛けとなったのはYouTubeで見たエルガー:チェロ協奏曲の演奏。ここでターが少し失望したような表情を浮かべる。映像が残っているのはダニエル・バレンボイム/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との共演。音楽好きなら誰でも知っている。みじかくも美しく燃えた稀代のチェリスト、デュ・プレ究極の名盤はバルビローリ/ロンドン交響楽団との共演盤であることを。そもそもYouTubeの音質はCDより遥かに劣る。つまりこのエピソードはオルガが俗物で、大したセンスの持ち主ではないことを端的に示しているのだ。

ジャッキーは21歳の時アルゼンチン出身のユダヤ人、バレンボイムとイスラエルのエルサレムで結婚した(バレンボイムの祖父母はそれぞれベラルーシとウクライナ出身で、ユダヤ人排斥運動を逃れてアルゼンチンに移住した)。その時彼女は家族の猛反対を押し切りユダヤ教に改宗している。しかしジャッキーは26歳の時に指先の感覚が鈍くなってきたことに気付き、後に多発性硬化症と診断され引退を余儀なくされる。病床の彼女を捨てバレンボイムはパリで別の女性と同棲し2人の子をもうけた。1987年にジャッキーが42歳で亡くなるのを待ち、翌88年バレンボイムとエレーナ夫人の正式な再婚が成立した。

ターが強引にオルガをエルガーのソリストに起用しようとするエピソードはクラシック音楽界の常識では到底考えられないことだ。定期演奏会で演奏される協奏曲において外部から有名アーティストを招かない場合、そのオケの首席奏者がソロを弾くのが当たり前。だからターと楽員との間に溝が深まるのは当然のことである。またマーラーとエルガーを組み合わせるプログラム編成にも違和感しかない。そもそもヨーロッパ大陸ではイギリスの作曲家(ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ウォルトンら)が見下されており、フルトヴェングラーやカラヤン、アバドがエルガーを振ることは一度もなかった。

オルガ起用については1982年にカラヤンとベルリン・フィル団員との間で勃発したザビーネ・マイヤー事件彷彿とさせる。当時このオケの楽員は全員男性だった。そこにカラヤンが女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーを強硬に入団させようとしたのだが、団員投票で入団反対が決議され、それに従うべきだとするオケ側とで確執が生じた。その後、カラヤンは険悪な仲となったベルリン・フィルを避けるようになり、チャイコフスキーの後期交響曲(第4−6番)などはウィーン・フィルとレコーディングした。アバド時代になると漸く女性の楽員が少しずつ増え始め、2023年2月にオーケストラ140年の歴史で初の女性コンサートマスターが誕生した(アルテミス弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者だったヴィネタ・サレイカ=フォルクナー)。一方、ウィーン・フィルに女性奏者の正会員採用が始まったのは1997年のことである。世界のオーケストラの中で最も遅かった。それまで様々な人権団体から散々非難され、ニューヨークのカーネギーホールがウィーン・フィルに対して1998年までに女性奏者がいなければ舞台に立たせないとする最後通牒を突きつけたため、ようやく重い腰を上げたというわけ。1965年にショパン国際ピアノコンクールで優勝した名ピアニスト、マルタ・アルゲリッチがウィーン・フィルと初めて共演したのは2017年だった。どうして長い間ウィーン・デビューが実現しなかったのか?「これまで演奏しなかったのは、女性がひとりもいないオケだったからです」彼女はインタビューにきっぱりと答えた。

フルトヴェングラーは第二次世界大戦後、連合国による「非ナチ化」裁判を経てドイツでの活動が認められるようになるまで、約2年を要した。アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ政権下でもベルリンに留まり、ヒトラーの誕生日には御前でベルリン・フィルを指揮しベートーヴェンの第九を演奏したりしていたからである。ムッソリーニ政権のファシズムを嫌悪しアメリカに亡命したイタリアの大指揮者トスカニーニは徹底的にフルヴェンを非難した。またカラヤンはナチスに入党した前歴があり、戦後やはり問題視された。戦時下においてドイツではナチス党員にならないとオーケストラの主要ポストには就けなかったのである。

映画『TAR/ター』には芸術家(アーティスト)の作品と、その人の人間性・Political Correctnessを関連付けて考えるべきか、切り離して評価すべきかという議論が出てくるが、これはフルトヴェングラーやカラヤンの実績を評価するか否かの問題と密接にリンクしている。端的に言えば「あなたは殺人者の芸術を認めますか?」という問いだ。宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』でカプローニが言う「君はピラミッドのある世界と、ピラミッドのない世界とどちらが好きかね?」も同義である。

 ・ 宮崎駿「風立ちぬ」とエリア・カザン~ピラミッドのある世界とない世界の選択について 2013.08.28

なおクロード・ルルーシュ監督の映画『愛と哀しみのボレロ(Les Uns et les Autres)』ではカラヤンをモデルにした指揮者が登場し、ナチスとの関係が描かれていて実に面白い。特にカーネギー・ホールでブラームス:交響曲第1番のタクトを振る場面は必見。

レニーはユダヤ人であり、祖父母はウクライナからの移民。そういう意味でも元・ナチス党員のカラヤンと水と油であった。またマーラーもユダヤ人。フルトヴェングラーやカラヤンがナチス政権下でマーラーの楽曲を指揮することは一度もなかったし、戦後フルヴェンは『さすらう若人の歌』をザルツブルク音楽祭で取り上げたが(独唱はディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ)、交響曲を指揮することは生涯なかった。

ロシアがウクライナを蹂躙する現在、ウラジーミル・プーチンと親しく、彼を批判しないロシアの指揮者ヴァレリー・ゲルギエフがヨーロッパから追放される憂き目にあった。ミュンヘン・フィルは首席指揮者だった彼を解雇。再び政治的立場と芸術を結びつけるべきなのかどうかが議論の的となっている。

映画の話に戻ろう。ジュリアード音楽院での講義でパンセクシャル(Pansexual、全性愛)の学生がJ.S. バッハについて、生涯に20人もの子供をもうけ男性優位的思考の持ち主だから人間として絶対に認められない、バッハの音楽もまともに聴いたことがないと言ったのに対し、ターはその人となりと生み出した作品は分けて考えるべきだと主張し、彼を徹底的に論破し恥をかかせる実に痛快な場面がある。 「すべての道はバッハに通ず」と言われるくらいで、大バッハを勉強せずしてこの業界で優れた楽曲を書ける筈がない。

スキャンダルに巻き込まれ追い落とされたターはニューヨーク市のスタテンアイランドにある自宅に帰り、兄のトニーと再会する。二人の会話からターの本名がリンダであり、ヨーロッパで受けの良いリディアに改名したことが判明する。スタテンアイランドは下町で、彼女が労働者階級(ブルーカラー)の出身だということが明らかになる。

昔、神奈川フィルの常任指揮者やオーケストラ・アンサンブル金沢のアーティスティック・パートナーを歴任した金 聖響(きむせいきょう)という在日韓国人3世の指揮者がいたが、実は芸名だった。映画『この胸いっぱいの愛を』で共演した女優のミムラ(美村里江)と2006年結婚し2010年に離婚。その後2億円の借金トラブルを抱えていることが週刊文春で報道され、現在は雲隠れしている。彼は佐村河内守『交響曲1番HIROSHIMA』全国ツアーにも関わっていた。

 ・ 稀代の詐欺師・自称「作曲家」佐村河内守について 2014.02.12

佐村河内守の経歴詐称騒動も、作曲家の人生とその作品を結びつけて考えるべきか否かという問いを我々に突きつけてくる。

ターの実家のクローゼットには録画した日付と『YPC』という文字が背表紙に書かれたVHSビデオが数十本ズラッと並んでいる。レナード・バーンスタインが企画・指揮・司会を務めニューヨーク・フィルが演奏するYoung People's Concerts (ヤング・ピープルズ・コンサート)のことだ。子供のための音楽教育番組で53公演がCBSによりテレビで中継された。放送開始は1958年、最終回が72年。日本のテレビ番組『オーケストラがやってきた』や『題名のない音楽会』も本コンサートを手本として企画されている。ターはその第1回「音楽って何? (What Does Music Mean?)」でレニーが語り、チャイコフスキー:交響曲第5番 第4楽章を指揮する場面を観ながら涙を流す。これが彼女が音楽家を志す原点だった。番組の冒頭、ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲を振り終えたレニーが振り返り、客席を埋め尽くす子供たちに問う。「この曲を知っているかい?」子供たちが元気に叫ぶ、「ローン・レンジャー!」(当時大人気だったテレビ西部劇、後に映画化された)。

劇中、#MeeToo 運動が盛り上がりを見せる中、名前を挙げられた2人の指揮者について。2017年に女性オペラ歌手3人と女性音楽家1人が、1985年から2010年の間に米国でシャルル・デュトワからセクハラを受けたと訴えた。女性らによると、デュトワは女性たちに無理やりキスをし、口の中に舌を入れたとされる。本人は疑惑を否定。女性らに対する法的措置を講じたが、芸術監督・首席指揮者を務めていた英ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団から解雇された。それ以降、名誉音楽監督だったNHK交響楽団を指揮することはなくなり、大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮するという「都落ち」を体験した。また香港フィルハーモニー管弦楽団やシドニー交響楽団@オーストラリアなど非欧米圏を中心に活躍するようになる。しかし新型コロナ禍の3年間を経て、現在漸く名誉を回復しつつあるようだ。

また2017年12月2日、40代男性が15歳だった1985年から数年間にわたり、ジェームズ・ レヴァインより性器を触られたり目前で裸になり自慰行為を強要されるなどの性的虐待を受けたため自殺を考えるまでに思いつめていたとニューヨーク・ポストが報じた。彼が名誉音楽監督を務めるニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)は調査の結果、性的虐待疑惑の「信頼できる証拠」が出たとしてレヴァインを解雇、失意のうちに彼は2021年に亡くなった。

映画で言及されなかったが、ダニエレ・ガッティは一部メディアに報じられた過去のセクハラ疑惑によりロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を2018年8月に解任された。しかし本人は疑惑を否定、同年12月にはローマ歌劇場の音楽監督に就任し、2021年1月にはベルリン・フィルに客演している。

ターと彼女の教え子クリスタ、アシスタントのフランチェスカはアマゾン先住民、シピボ=コニボ族を研究するため彼らが暮らすペルーの熱帯雨林を流れるウカヤリ川中流地域でフィールドワークを行った。その際ターがフィールド・レコーディングしたシピボ族のシャーマンが歌うイカロ(治療歌)が映画冒頭のクレジットで流れる。劇中何度か登場する迷路のような幾何学模様「Kené(クヌー)」はシピボ族特有の文化で、シピボ族の創生神話によるとこの世界は銀河に誕生した天の川、母なるアナコンダ「Ani Ronin」が自分の肌に描かれたKené(クヌー)を歌ったときに始まったとされる。Kené(クヌー)とは「振動を生む宇宙エネルギーの構成図」で、シピボ族はすべての生物が独自のKené(クヌー)を持つと考える。

これはオーストラリアの先住民アボリジニの神話〈ドリームタイム〉と〈虹蛇〉の関係によく似ている。正にユング心理学における〈集合的無意識〉の産物と言えるだろう。

 ・ アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

朝日新聞の記者・小原篤氏は『TAR/ター』について次のような感想を書いている。

「アジア」や「モンスターハンター」を「零落」や「屈辱」のダシに使うんですか? ふーん。

僕は全く違う印象を受けた。

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ネタバレ警告!以下本作の結末について触れます。

心の準備はよろしいか?

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ヨーロッパの楽壇から放逐されたターがフィリピンでボートに乗り川を遡る場面でマーロン・ブランドの映画のせいで未だにワニが生息していると言われる場面がある。これはフランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』のことでブランド演じるカーツ大佐は密林の中で王国を築く。カーツのイメージにターが重ねられているのだ。また 『地獄の黙示録』 では第一騎兵師団がワーグナーの『ワルキューレの騎行』をヘリコプターに据え付けられたスピーカーから大音量で流しながらベトコンの村を襲う場面があるが、これは楽劇『ニーベルングの指環』の楽曲で、ワーグナーはアドルフ・ヒトラーがこよなく愛した作曲家。プロパガンダとしても当時ドイツで盛んに利用された。『ニーベルングの指環』を毎年上演するバイロイト祝祭劇場を運営するのはワーグナー家であり、ナチス政権と相思相愛の関係にあった。ユダヤ人にとってはそのトラウマもあり、現在でもイスラエルでワーグナーの楽曲が演奏されることは殆どない(そのタブーを破ったのがバレンボイム)。つまり 『地獄の黙示録』 は西洋文化の暴力性を象徴する映画であり、進み過ぎた文明の行き着く果てを示している。フルトヴェングラーもカラヤンもワーグナーを得意とした指揮者であった。因みに映画の原題はApocalypse Now(現代の黙示録)で黙示録にはこの世の終末や最後の審判などについて記載されている。

ターは宿泊地近くのマッサージ店で、透明なガラス越しに座るたくさんの女性たちの中からひとり選ぶように言わる。それはオーケストラの配列によく似ている。胸にNo.5をつけた女性がターを見つめ、彼女は店を飛び出して嘔吐する。ここは売春宿で、その女性の位置はオーケストラにおけるオルガのポジションに相当し、No.5はマーラーの交響曲を想起させる。ヴィスコンティ映画『ベニスに死す』にも老作曲家グスタフ・フォン・アッシェンバッハの回想の中で、娼館で少女娼婦を買う場面がある。少女はベートーヴェンの『エリーゼのために』を弾く。そのイメージは、疫病が蔓延するベニスでアッシェンバッハが出会う美少年タッジオに繋がっている。

『TAR/ター』最後の場面はスクリーンに映し出される映像を背景にオーケストラが演奏する『モンスターハンター:ワールド』コンサート(曲は“友との出会い Meeting a Friend”)。聴衆は皆コスプレしている。日本では『狩猟音楽祭』と呼ばれる。

『モンスターハンター』は4人で協力し巨大なモンスターを狩るゲームであり、本作においては〈モンスター=ター〉、〈狩人=SNSで彼女に対する敵意・悪意をばら撒く人々〉という図式が成り立つ。

しかしこのラストは果たしてターの「零落」や「屈辱」なのだろうか?僕はそう思わない。全然。むしろ「開放」だろう。それは楽しかったペルーでのフィールドワークへの「原点回帰」とも言えるし、彼女はこの熱帯でカーツ大佐のように「王国」を築くのかも知れない。

ベルリン時代、ターはミソフォニア(misophonia 音嫌悪症)に悩まされていた。稀に診断される医学的な障害で、特定の音に対して否定的な感情(怒り、嫌悪、逃避反応)が引き起こされる。指揮者に多い。また彼女は過度の潔癖症でもあった。これらは文明の病と言える。

そして彼女は欧米社会で指揮者としてのキャリアを築くために「覇権的男性性(hegemonic masculinity)」を鎧として身にまとわなければならなかった。「父の娘」であったとも言える。これはユング派の女性分析家によって1980年代に提出された概念で、個人的な親子関係を越えて「父なるもの(父権制/家父長制 )」の強い影響下にある女性を意味する。

しかしフィリピンでのターは不潔でも気にせず、周囲の騒音に悩まされている様子もなくリラックスしているように見える。

そもそもゲーム音楽がクラシック音楽よりも劣ってる、堕落だという発想が根本的に間違っている。つい50年前までは映画音楽も同様の扱いだった。オペラ作曲家からハリウッドの映画音楽作曲家になったエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは「大衆文化に身を売った男娼」と楽壇から徹底的に蔑まれ、カラヤンやアバドの時代にベルリン・フィルが映画音楽を演奏することなど考えられなかった。

 ・ シリーズ《音楽史探訪》Between Two Worlds ~コルンゴルトとその時代(「スター・ウォーズ」誕生までの軌跡) 2014.01.17

しかし今はどうだ?ジョン・ウィリアムズはウィーン・フィルおよびベルリン・フィルの指揮台に経ち『スター・ウォーズ』や『E.T.』『ハリー・ポッター』を演奏したし、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲はオーケストラの重要なレパートリーとなり大人気だ。キリル・ペトレンコ/ベルリン・フィルは先日初めてコルンゴルトの交響曲を定期演奏会で取り上げた。そして今年、ドイツ・グラモフォンは久石 譲/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団による映画音楽集を発売する。10年前にはあり得なかったことだ。

『TAR/ター』の行き着いた先を肯定的に捉えるか、否かであなたの人間性が試される。そういうリトマス試験紙になっている。なんとも恐ろしい映画だ。

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【考察】全世界で話題沸騰!「推しの子」とYOASOBI「アイドル」、45510、「レベッカ」、「ゴドーを待ちながら」、そしてユング心理学

赤坂アカ(原作)横槍メンゴ(作画)による『推しの子』がTVアニメになり、世界を席巻している。

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兎に角、初回放送90分というのが前代未聞で凄まじいインパクトをもたらした。またYOASOBIによる主題歌『アイドル』の破壊力が半端ない。この音楽ユニットは元々、小説を音楽にするプロジェクトから誕生したそうで、『アイドル』の歌詞も赤坂アカが書き下ろし、アニメ放送直前に公開された小説『45510』に基づいている。この短編の完成度の高さが超弩級で舌を巻く。

『アイドル』は配信直後から異次元ヒットを飛ばしており、ストリーミング再生数がダントツの首位、週前半3日間の集計で再生数が1000万回を超えるのはBTSの『Butter』以来、史上2曲目となる快挙だそう 。海外のチャートにも既に多数ランクイン。ビルボードのグローバルチャート「Global200」では14位を獲得したという。

『推しの子』を見始めて最初に気付いたのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画化でも名高いイギリスのダフニ・デュ・モーリエが書いた小説『レベッカ』と物語の構造が似ているということ。登場人物の多く(アクア、ルビー、有馬かな、斉藤みやこ etc.)が死んだアイ(アイドルグループ「B小町」のセンター)の面影にいつまでも囚われている。『レベッカ』が描くのも死者に支配された世界だ。タイトルロールのレベッカが全く登場しない構成も凄い。全ては人々の記憶で語られる。

『レベッカ』の着想にインスパイアされたと考えられる作品にノーベル文学賞を受賞したアイルランドの作家サミュエル・ベケットによる20世紀を代表する戯曲『ゴドーを待ちながら』と、直木賞作家・朝井リョウの小説『桐島、部活やめるってよ』(小説すばる新人賞受賞、映画も傑作)が挙げられる。

 ・「ゴドーを待ちながら」@京都造形芸術大学 2017.09.12

登場人物たちがしきりにゴドーや桐島のうわさ話をするが、当の本人は最後まで現れない。ゴドー/桐島=イエス・キリスト(神)と解釈することも可能だ。観客/読者が可視出来る人々はその信者というわけ。『アイドル』の歌詞に「歌い踊り舞う私はマリア」とある。つまりアクアもルビーも聖母マリアを信仰している。

しかしアイは平気で嘘をつき、「嘘は私なりの愛だ」と宣言する。彼女は単なる聖女ではなくサタン・魔女としての側面も持つ。だからゴドーや桐島よりも、腹黒いレベッカの方が性格的に近いと言える。アイは聖母マリアであると同時に、マグダラのマリア(罪深い女)でもあるのだ。その二面性にヲタは惹きつけられる。

YOASOBIの『アイドル』は冒頭に合唱が登場した瞬間から禍々しい黒ミサの様相を帯びてくる。

Oh, my Savior, oh, my saving grace

アカデミー作曲賞を受賞したジェリー・ゴールドスミス作曲、映画『オーメン』の主題歌「アヴェ・サタニ(Ave Satani )」に近い雰囲気がある。アヴェ・マリアをサタンに置き換えたもの。

と同時にMIX(AKB48などのライブにおいて、前奏や間奏にファンが叫ぶ掛け声のこと)が入り、アイドル・ソングとしても完璧。大いに盛り上がり、興奮はMAXに。

そしてBパートで、手記『45510』を書いた(主観「私」)と思しきBさんが登場。全力で悪意を噴出し、あたりかまわず撒き散らす。

さらに曲の後半「愛してるって嘘で積むキャリア」と歌う所でボレロのリズムになるのが悪夢のようでまたいい。断頭台への行進みたい。作詞・作曲のAyaseは天才だ!!

ikuraの歌い方がいつもと違い、声の加工も初音ミクを彷彿とさせるボーカロイド風に仕上がっている。本心を表に見せないアイにぴったりだ。AyaseはボカロPとして活躍していた時代もあり、確信犯だろう。

アイのモデルは誰だろう?真っ先に思い浮かぶのが九州・福岡県のアイドルグループRev. from DVLの絶対的センターだった橋本環奈。ファンが撮った「奇跡の一枚」と呼ばれる写真が全国的人気に押し上げるが、グループ解散まで彼女が原点を見捨てることはなかった。ハシカンは赤坂アカの『かぐや様は告らせたい』実写映画で主演を努めており、原作者が彼女のことを念頭に置かなかった筈はない。次にAKB48初の東京ドームコンサートで卒業した前田敦子、当時20歳。あっちゃんのボブの髪型は“重曹を舐める天才子役”有馬かなに゙継承されている。そして『欅坂46』孤高のセンター・平手友梨奈。巫女の役割も果たした“てち”には握手会での襲撃未遂事件があった(2017年6月24日@幕張メッセ)。アイドルがファンに襲われた事件としてAKB48川栄李奈と入山杏奈のケースもある(2014年5月25日の握手会@岩手県滝沢市)。

アイは「誰かに愛されたことも誰かのこと愛したこともない」と言う。これは施設で育った彼女の〈愛着障害〉を示している。親に愛されなかった子供は自己肯定感が低く、自分すら愛すことが出来ずリストカットなど自傷行為に及ぶことがある。「痛み」によって初めて「生の実感」を得るのだ。

「嘘=愛」はユング心理学においてペルソナ(仮面)と表現される。人は幾つもの仮面を持っている。家庭で見せる顔と、職場で見せる顔が違うのは当たり前。「どれが本物?」と問われても、誰も答えることは出来ないだろう。嘘はこの過酷な世界を生き抜くための盾・防壁だ。『アイドル』のMVでアイがウサギの着ぐるみを脱ぐ場面がある。あれはペルソナ(仮面)を外すことと同義と言えるだろう。

 ・〈ユング心理学で読み解く映画・演劇・文学 その2〉太母・老賢人・子供・アニマ・アニムス・ペルソナ 2019.06.06

またアニメの第6話『エゴサーチ』において、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの著書『善悪の彼岸』からの引用も深いなと思った。

まだまだ回収されていない伏線は多い。どうして産婦人科医ゴローの死体は発見されていないに彼の葬式は執り行われたのか?そもそも入院患者をほっぽらかして主治医が失踪したら捜索願いが出されるだろうし、警察が病院近くの崖から転落した可能性を考えない筈はない。山狩りは必ず行われるだろう。それにスマホの電源が生きていれば大まかな位置情報を特定出来る。仮に獣が死体を運んだとしても血痕は残る。どう考えても不自然だ。これらの謎が解明される日を楽しみに待とう。

余談だが梅田隆司(総監督)/大阪桐蔭高等学校吹奏楽部の演奏する『アイドル』が素晴らしい(動画はこちら)。特にサイリュームの使い方!!この楽団はYOASOBIの『ラブレター』(オフィシャルMVはこちら)に参加していて、けだし名曲。誰に対する手紙か判明したとき、心打たれない者はいないだろう。梅田先生、今年は甲子園でも『アイドル』を絶対聴かせてくださいね。

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「たぶんこれ銀河鉄道の夜」大阪・大千秋楽公演

4月16日(日)サンケイホールブリーゼ@大阪市へ。『たぶんこれ銀河鉄道の夜』を観劇した。大千秋楽公演でライヴ配信もされたようだ。

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脚本・演出は京都を本拠地とする劇団「ヨーロッパ企画」の上田誠。出演は久保田紗友、田村真佑(乃木坂46)、お笑いコンビ「かもめんたる」の岩崎う大、槙尾ユウスケほか。ヨーロッパ企画からも藤谷理子、石田剛太、土佐和成、中川晴樹の4人が参加した。

ヨーロッパ企画の存在を初めて知ったのは瑛太、上野樹里らが出演した映画『サマータイムマシン・ブルース』だ。原作となった戯曲を書いた上田誠が引き続き脚色を担当。軽やかでめっちゃ面白かった!喜劇作家として上田は三谷幸喜に匹敵する才能がある。

次に森見登美彦(原作)上田誠(脚色)湯浅政明(監督)のテレビ・アニメ『四畳半神話大系』も途轍もない傑作で舌を巻いた。同じ座組によるアニメ映画『夜は短し歩けよ乙女』も文句なし。

 ・ 面白きことは良きことなり!/アニメーション映画「夜は短し歩けよ乙女」 2017.04.11

ただし、『サマータイムマシン・ブルース』と『四畳半神話大系』がコラボしたテレビ・アニメ『四畳半タイムマシンブルース』は退屈な駄作。監督が夏目真悟に交代したことが一因ではないかと考える。

そんなこんなでヨーロッパ企画の舞台は一度観なければと長年、思いを募らせてきた。

そしてそもそも僕は宮沢賢治の小説『銀河鉄道の夜』が大好きで、杉井ギサブロー監督によるアニメーション映画も観たし、勿論そのパスティーシュ『銀河鉄道999』も然り。梅田隆司/大阪桐蔭高等学校吹奏楽部が定期演奏会で上演したミュージカル『銀河鉄道の夜』にも心打たれた。

 ・ 大阪桐蔭高等学校吹奏楽部 定演/ミュージカル「銀河鉄道の夜」〜宮沢賢治の深層心理にダイブする。 2017.02.21

あと『少女革命ウテナ』で世界の少女たちを震撼させた幾原邦彦監督が10年ぶりに世に問うたテレビ・アニメ『輪るピングドラム』はアニメーション史上燦然と輝く金字塔だと信じて疑わないが、これも『銀河鉄道の夜』を下敷きにした作品だ(『ピンドラ』では村上春樹の短編小説『カエルくん、東京を救う』も重要な役割を果たす)。閑話休題。

さて、『たぶんこれ銀河鉄道の夜』は大いに気に入った!劇中歌14曲を上田が作曲し、総ての歌詞は「銀河鉄道の夜」からそのまま引用されている。たぶんこれミュージカル。ポエトリーラップを取り入れた手法も新鮮だった。

ブルーレイ発売が決まっており、早速予約しちゃいました。

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スティーヴン・ソンドハイム(作詞・作曲)ミュージカル「太平洋序曲」

4月13日梅田芸術劇場へ。スティーヴン・ソンドハイム(作詞・作曲)ジョン・ワイドマン (脚本)によるミュージカル『太平洋序曲』を観劇した。

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1976年に(『オペラ座の怪人』の)ハロルド・プリンス演出でブロードウェイ初演。2000年に宮本亜門演出により日本初演された。僕はこれを新国立劇場で観ている。たまたま来日中だったソンドハイムが観劇し絶賛、彼の推薦で宮本亜門演出により2004年ブロードウェイでも再演された。この公演はトニー賞でミュージカル・リバイバル作品賞、ミュージカル装置デザイン賞(松井るみ)、ミュージカル衣装デザイン賞(コシノジュンコ)など4部門にノミネートされ、宮本はブロードウェイ史上初の東洋人演出家として名を刻んだ。

今回の演出は『TOP HAT』のマシュー・ホワイト。日英合作による上演。2023年11月にはロンドンで同プロダクション・英国キャスト版の上演も決まっている。

出演は山本耕史、海宝直人、立石俊樹、朝海ひかる 他。

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浦賀沖に黒船が来た頃の幕末のお話で、香山弥左衛門という役はペリー来航の際に浦賀奉行と偽って幕府側通訳をつとめた香山栄左衛門(かやまえいざえもん)がモデル。ジョン万次郎も登場するが、彼の行動は史実とかなり異なる。倒幕(討幕)運動の志士たちをいろいろミックスした人物像になっている。そもそも将軍を女性(朝海ひかる)が演じているわけで自由な解釈だ(オリジナル・ブロードウェイ・キャストでは狂言回し役が兼任した)。

アフタートークでは「開演前、楽屋で何をしていますか?」という質問に対して山本耕史が「プロテインを飲んでいる」と答え、「今日も楽屋入り前にスポーツ・ジムで筋トレした」などと、ほぼ筋肉の話で終始した。彼はトレーナーの資格を取り、どうやって鍛えたら良いか後輩にアドバイスもしているそう。

僕が大好きなミュージカルだが宮本亜門演出のプロダクションの方が驚きがあって、断然印象深かった。残念。

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雑感「レコード芸術」休刊に寄せて

クラシック音楽CDの専門月間誌「レコード芸術」が、2023年7月号を最後に休刊となると発行元の音楽之友社が発表した。 創刊は1952年3月だから71年の歴史に幕を閉じることになる。奇しくも先日亡くなった坂本龍一と同い年だ。

僕が「レコ芸」を定期購読するようになったのは小学校高学年で、カール・ベームがウィーン・フィルと来日してベートーヴェンの交響曲第5番・第6番を演奏した1977年か、翌78年頃だったと思う。ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが77年に録音したヴィヴァルディのLPレコードが《衝撃の四季!》というキャッチコピーとともに紙面に広告掲載されていたことを鮮明に覚えている。正に古楽器による演奏、ピリオド・アプローチの黎明期だった。

当時、新譜の批評は1人で行われていたが1980年1月号から「2人の筆者による合評」が開始され、両者が推薦したレコードが「特選盤」と表記されるようになった。因みに1人が「推薦」、もう1人が「準推薦」なら「準特選」。

1990年に「ビデオディスク」部門が、2010年1月号からは「吹奏楽」部門が新設された。また1996年3月号から新譜の「さわり」を収録した試聴(サンプラー)CDが付録として添付されるようになった。

ただ1978年当時定価は580円(消費税導入前)だったので小学生の小遣いで買えたのだが、最新号の定価は税込み1,430円。いくら何でも高すぎる!新譜でなければCDが優に1枚買える値段だ。定価が1,000円を超えたあたりから次第にバカバカしくなり購読をやめた。図書館の雑誌コーナーで読めば十分だろう。

そもそも1982年に商用音楽CDが登場し、86年にLPレコードの国内生産枚数を追い抜いて以降は「レコード芸術」という雑誌名からして時代遅れとなった。そりゃ無理やりこじつければ「レコード」を「録音する」という動詞と解釈し、CDも「録音物の芸術」だと言い張ることも出来るだろう。しかしそれなら「レコーディング芸術」が正しく、「レコード」はあくまで毎分33回転の30cm LPか17cm シングル、または78回転 SPというモノを指す言葉だ。CDは該当しない。

さらにサブスクリプションなど音楽配信サービスが主流となった現在、CDは売れず発売される新譜の数も激減した。体感として1978年と比較し4分の1程度ではないだろうか。ドイツ・グラモフォン、ソニー・クラシカル(米)、オランダのフィリップスを統合したデッカ・レコード(英)といったクラシック音楽のメジャー・レーベルが積極的にレコーディングをしなくなったため、シカゴ交響楽団やロンドン交響楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ、そして天下のベルリン・フィルでさえも、各オーケストラが個別に自主レーベルを立ち上げざるを得ない状況に追い込まれている。

今にして思えば2008年、早々に映像配信サービス「デジタル・コンサートホール」を開設したベルリン・フィルは先見の明があった。2023年から漸くドイツ・グラモフォンも重い腰を上げ、「ステージプラス」というクラシックの映像&音楽配信サービスを始めた。

はっきり言う。今どきCDを買うやつはどうかしてる。時代遅れも甚だしい。世界的に見てもCDを未だに購入しているのは日本人だけで、海外は完全に配信に移行している。えっ、サブスクよりもCDの方が音が良いって??アホぬかすな!音質にこだわるならハイレゾ音源配信を買え。

どうして日本だけCDが細々と流通しているのか。これは付喪神(つくもがみ)信仰と深い関係があるのではないかと僕は考える。九十九神とも表記され、 長い年月を経た道具などには精霊が宿るとされる。神道においては、古来より森羅万象に八百万(やおよろず)の神が宿るとするアニミズム的世界観(汎神論)が定着していた。付喪神となりうる寄り代も森羅万象であり、道具や建造物の他、動植物や自然の山河などに及ぶ。

CD(モノ)には神が宿る。実体のない配信では覚束ない。それは単なる空間の振動だ。モノが手元にないと安心出来ない……令和になっても性懲りもなくCDを買い続けている日本のクラヲタの深層心理はこのような感じではないか?

 ・ 【考察】日本人は何故、CDを買い続けるのか? 〜その深層心理に迫る 2019.03.16

さらにクラシック音楽を聴く人は老人が多く、新しい時代のデバイスに順応出来ていないという側面もあるのかも知れない。閑話休題。

1947年に創刊された、ジャズを専門とする月刊音楽雑誌「スイングジャーナル」誌は2010年7月号をもって休刊、63年に及ぶ歴史に幕を閉じた。同誌の取り上げる音楽家やレコードなどの評論には定評があり、「スイングジャーナル・ジャズディスク大賞」なども発表していた。「スイングジャーナル」の訃報を聞いた時、僕は「レコード芸術」終焉も時間の問題だと悟った。すでに命運は尽きていたのである。むしろそれから13年間、よく持ちこたえた方だろう。音楽之友社さんは頑張った。お疲れ様でした、安らかにお眠りください。

一部の愛読者の間から雑誌存続を求める署名活動も始まっているようだ。これを聞いて思い出したのが、橋下徹氏が大阪府知事だった時代に起こった、大阪センチュリー交響楽団(当時)に対する府からの年間4億1千万年の補助金廃止を是とするか否かの論争である。

 ・ 在阪オケ問題を考える 2007.07.31
 ・ 
在阪オケ問題を考える 2012年版 2012.04.14

補助金継続を求める一派が熱心に署名運動を行った。その時も感じたこと。

署名するなら金を出せ。

「レコード芸術」休刊もそうだが、問題の本質は財政難にある。署名は無料(ただ)だ。お気楽な形で正義を振りかざし悦に入るな。「レコード芸術」存続を希望し署名する者たちは、例えば毎月10万円ずつ音楽之友社に寄付するくらいの覚悟はあるのか?あるいは毎月1人20冊以上購入するとかね。それくらいの気概がなければ経営は成り立たないだろう。現実を直視せよ!

ただ、クラシック音楽の録音物のどれを聴けば良いのかサブスクで選ぶときの指標があると重宝するので、新譜の批評が読めなくなるのは困ったものだ。識者による音楽評や映画評は(盲信しないが)役に立つので、今後も彼らが活躍する場があれば良いなと思う次第である。個人のブログ・SNSには限界があるので。

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ベルリン・フィルのメンバーによる室内楽(ピアノ四重奏曲)@フェニックスホール

3月17日(金)フェニックスホール@大阪市へ。

ヴァイオリン:樫本大進(ベルリン・フィル第1コンサートマスター)、ヴィオラ:アミハイ・グロス(ベルリン・フィル首席奏者)、チェロ:オラフ・マニンガー(ベルリン・フィル首席奏者)、ピアノ:オハッド・ベン=アリで、

 ・ベートーヴェン:ピアノ四重奏曲 WoO.36-1
 ・フォーレ:ピアノ四重奏曲 第2番
 ・ブラームス:ピアノ四重奏曲 第2番

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実は同ホール・同メンバー・同じプログラムで2022年3月16日に公演が予定されていたのだが、新型コロナウイルス感染症拡大に係る、日本政府による水際対策の影響により中止に追い込まれてしまった。僕はチケットを購入していたが払い戻しになった。そのリターン・マッチである。

ベートーヴェンのピアノ四重奏曲は15歳の若書き。たおやかで平和。ベートーヴェン「らしからぬ」楽曲だった。

フォーレは美しく幻想的。樫本はソロで聴くと物足りないのだが、室内楽、特にフランスものはいい。

ブラームスのピアノ四重奏曲は第1番のほうがよく演奏される。第4楽章「ジプシー風ロンド」が愉快で盛り上がるし、シェーンベルクが編曲した管弦楽版が有名になったことも一因だろう。僕もこの管弦楽版を生演奏で何度か聴いたことがある。しかし作曲家の生前は3曲のピアノ四重奏曲の中で第2番が最も人気のある作品だったという。今まで熱心なリスナーではなかったが、じっくり向かい合ってみると、実はなかなかに魅力的な作品だと初めて気がついた。

室内楽の悦楽を満喫した一夜だった。

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2.5次元ミュージカル??「 SPY × FAMILY 」は宝塚宙組「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」より断然面白い!

2.5次元ミュージカルとは何か?一般社団法人「日本2.5次元ミュージカル協会」HPに記された定義は以下の通り。

日本の2次元の漫画・アニメ・ゲームを原作とする3次元の舞台コンテンツの総称。早くからこのジャンルに注目し、育ててくれたファンの間で使われている言葉です。

アニメやゲームの2次元の世界と、現実の3次元の世界の中間の意味で「2.5次元」と呼ばれている。代表作として『テニスの王子様』『刀剣乱舞』が挙げられるが、広義として考えれば宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』『はいからさんが通る』『天は赤い河のほとり』『ポーの一族』だって漫画が原作の2.5次元ミュージカルだ。つまり狭義で「2.5次元舞台」とは、宝塚歌劇・劇団四季・東宝といったメジャー企業の公演を除き、さらに名の知れた俳優や演出家などによる集客ではなく、原作の知名度に依る興行を指すと言えるだろう。

だから『 SPY × FAMILY 』は広義で言えばれっきとした2.5次元ミュージカルだが、大企業・東宝株式会社が製作しているので狭義では該当せず、「日本2.5次元ミュージカル協会」HPにも掲載されていないという、ややこしい事態になっている。

兵庫県立芸術文化センターで観劇した4月12日(水)ソワレのキャストは以下の通り。

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13日(木)マチネのキャストは、

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主人公ロイド・フォージャーとヨル・フォージャーはダブルキャスト。子役のアーニャはクワトロ(4人)キャスト。

森崎ウィンはスティーヴン・スピルバーグ監督『レディ・プレイヤー1』に出演し、「俺はガンダムで行く!!」という名言を残し世界中の映画ファンを痺れさせた。また名古屋テレビ放送(メ〜テレ)制作、深田晃司監督のテレビ・ドラマ『本気のしるし』に主演、これを再編集した『本気のしるし〈劇場版〉』が後に全国公開され、キネマ旬報ベストテンで日本映画第5位に選出されるなど高い評価を受けた。現在Netflixからドラマ版が配信中。彼は背が高く立ち姿が凛として美しい。舞台映えがする。やはり映画やテレビ・ドラマで主役を張る俳優にはオーラがある。歌も上手く高音がよく伸びる。素晴らしい!

鈴木拡樹(ひろき)は舞台『弱虫ペダル』や『刀剣乱舞』に出演。正に2.5次元俳優と言えるだろう。僕は今回初めて観たが、ホストクラブにいそうな顔立ち。歌はソコソコ。

唯月ふうかはミュージカル『ピーター・パン』でデビュー。『レ・ミゼラブル』のエポニーヌや『屋根の上のヴァイオリン弾き』の三女チャヴァ、『デスノート The Musical』のミサミサ、『四月は君の嘘』などでお馴染み。僕が大好きな女優だ。今回も文句なし。

佐々木美玲は日向坂46の現役メンバー。「non-no」の専属モデルでもあるそう。今まで全く知らず、正直可愛いと思わないし、歌は音程が覚束ない。ダンスの動きのキレは良かった。

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グッズ販売の行列が見たことがないくらい凄まじく、仰天した。これが2.5次元のノリなのか!?売り切れ続出、大量に買い込んでいる人もいた。

脚本・作詞・演出のG2はふざけたペンネームだが実はまっとうな、手堅い演出をする人。かみむら周平の手がけた音楽はジャズのビッグバンド風で格好良く、本格的ミュージカル作品に仕上がっていた。英国で学びオペラの世界でも活躍する松生紘子の美術も素晴らしい。彼女は『舞台少女ヨルハVer1.1a』で第1回伊藤熹朔記念賞を受賞。他にミュージカル『レベッカ』の舞台美術も担当。

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はっきり言って同じスパイ物でも宝塚歌劇『カジノ・ロワイヤル〜我が名はボンド〜』より『 SPY × FAMILY 』の方が断然完成度が高く、見応えがあった。

 ・真風涼帆/潤 花(主演)宝塚宙組「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」は駄作!(原作小説/映画版との比較あり)

少し残念だったのは、本作はアーニャがイーデン校に合格するまでしか描かれないのでクラスメートも登場しないし、まだ序盤も序盤。物語が「起承転結」で言えば「起承」くらいまでしか進んでいない。つまり主人公ロイドの任務=オペレーション〈梟〉(ストリスク)の途中で終わってしまうので、中途半端な感は否めない。しかし、まぁ観客の99%は漫画を読んでいるかアニメを観ている筈なので、多分問題ないのだろう。『テニスの王子様』『刀剣乱舞』のように、シリーズ化を希望する。

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上白石萌音/屋比久知奈(主演)ミュージカル「ジェーン・エア」(ブロンテ姉妹の作品分析も)

4月7日(金)梅田芸術劇場シアター・ドラマシティへ。

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『ジェーン・エア』は台本・作詞・演出:ジョン・ケアード(『レ・ミゼラブル』『ダディ・ロング・レッグズ』『千と千尋の神隠し』)、作詞・作曲:ポール・ゴードン(『ナイツ・テイル』)によるミュージカル。1996年カナダ・トロントで初演。2000年にブロードウェイでも上演され、トニー賞でミュージカル作品賞・主演女優賞・台本賞・楽曲賞・照明賞の5部門にノミネートされた(この年はメル・ブルックスの『プロデューサーズ』が史上最多12部門受賞と席巻した)。2009年に日本で上演された際は松たか子と橋本さとしが主演、今回は新演出版の初披露である。翻訳・訳詞の今井麻緖子はミュージカル『レ・ミゼラブル』日本版でファンティーヌを演じた元女優で、ケアードと結婚した。

ジェーン・エア役は上白石萌音と屋比久知奈のダブルキャストで、主人公が寄宿学校ローウッド学院で出会う友人ヘレン・バーンズとの役替り。ロチェスター役は井上芳雄、他に春野寿美礼、樹里咲穂、仙名彩世、春風ひとみ、大澄賢也など。

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ジェーン・エアを上白石萌音が演じたバージョンは東京公演のライヴ配信を観た。

上白石萌音は2022年に出演した舞台『千と千尋の神隠し』とミュージカル『ダディ・ロング・レッグズ』(やはり井上芳雄との共演)の演技が高く評価され、読売演劇大賞 最優秀主演女優賞を史上最年少で受賞した。鹿児島県出身の彼女は14歳の時にミュージカル『王様と私』で初舞台を踏み、映画デビュー作『舞妓はレディ』もミュージカル。だから歌はお手のもの。しっかり感情がこもった演技で、意志が強く、不屈のジェーン像を作り上げていた。

一方、沖縄県出身の屋比久知奈はディズニー映画『モアナと伝説の海』のオーディションを受けモアナ役に抜擢され、劇中歌も歌った。その後ミュージカル『タイタニック』や『レ・ミゼラブル』のエポニーヌ役、『ミス・サイゴン』のキム役として活躍。彼女は上白石とは違い、控えめで感情を表に出さないというアプローチ。むしろジェーンの優しさが滲み出してくる感じで、これはこれで優れた解釈だと思った。

またジェーンの冷酷な叔母と貴族レディ・イングラムを演じた春野寿美礼がとっても意地悪で秀逸。

シャーロット・ブロンテの父親は牧師で、母親が亡くなったため8歳の時に姉2人と2歳年下のエミリーと共に寄宿学校に入れられた。しかし環境が劣悪だったため姉2人は結核にかかり11歳と10歳で死去。この学校がローウッド学院のモデルである。

僕は『ジェーン・エア』の原作小説が大好きで、妹エミリー・ブロンテの『嵐が丘』も中学生の時に熱に浮かされたように夢中になって一気に読んだ記憶がある。このふたつの小説には共通項がいくつかある。

 1)『ジェーン・エア』出版当時(1847年)は女性作家に対する評価が低く、姉妹は男性の筆名を用いた。姉シャーロットは「カラー・ベル」名義で、妹エミリーは「エリス・ベル」名義で。なお1818年にメアリー・シェリーがゴシック小説『フランケンシュタイン』を書き上げたときも出版社から「作者が女だと本が売れない」と諭され、メアリーの夫パーシー・シェリーの署名入りの序文をつけて匿名で発表した。この辺の事情は映画『メアリーの総て』で詳しく描かれている。
 2)どちらもイングランド北部ヨークシャー地方に広がる荒地(ムーア)の描写が印象的で、その荒涼とした姿は主人公の心象風景と重なるように設計されている。
 3)反キリスト(antichrist)的精神が作品を貫いている。『嵐が丘』のヒースクリフが目論む復讐劇はキリスト教の精神に反するし、『ジェーン・エア』終盤に登場する牧師セント・ジョンは独善的な男で、ジェーンに対し神の忠実な僕(しもべ)として宣教師の妻になりインドへ同行することを求める。 しかし彼女を愛しているとは決して言わない。また重婚しようとするロチェスターはとんでもない男であり、一夫一婦制を良しとするキリスト教の教義にも反する。こうしたところに牧師だった父親に対する強い反発心を感じずにはいられない。寄宿学校でも散々な目に遭ったわけだし。
 4)“過剰な人”が登場する。『嵐が丘』は正に“狂恋”をテーマにした激烈な小説であり、ジェーン・エアも激しく燃え上がるような情熱を胸に秘めている。ロチェスターの行動も“過剰”としか言いようがあるまい。そういう意味でドストエフスキーの小説に通じるものがある。

これらの特徴が舞台版でもしっかり捉えられていたし、エッセンスを抽出しコンパクトにまとめた見事な台本だと言える。音楽も美しく素晴らしい!あと松井るみによる洗練された舞台装置が出色の出来。ブロードウェイで上演された『太平洋序曲』でトニー賞舞台美術賞にノミネートされた実力は折り紙付きだ。

本作はBlu-ray発売が決まっている。必見。

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パトリツィア・コパチンスカヤ ヴァイオリンリサイタル 2023

3月19日(日)フェニックスホール@大阪市へ。

モルドヴァ生まれのヴァイオリニスト、パトリツィア・コパチンスカヤを聴く。共演はフィンランド出身のピアニスト、ヨーナス・アホネン。アホネン(「草原から来た者」を意味する)はアイヴズら現代音楽も得意とするが、テオドール・クルレンツィスが主宰するフェスティバルに参加したり、フォルテピアノの弾き手でもある。

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2014年にも同ホールで彼女の演奏を聴いている。

 ・ 激震!コパチンスカヤ 2014.06.20

上記事の中で僕はアンコールとして演奏されたクロイツェル・ソナタの終楽章を聴きながら、松明が煌々と焚かれた闇夜の野営地でジプシー(ロマ)の女がヴァイオリンを弾いていおり、その後彼女が火あぶりの刑に処せられる光景を幻視した、と書いた。つまりヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」に登場するアズチェーナのイメージがピッタリ重なったのだ。全く同じイメージが今回も目に浮かんだので、なんだか可笑しかった。

 ・ シェーンベルク:幻想曲 op.47
 ・ ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第7番
 ・ ウェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 op.7
 ・ ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第9番「クロイツェル」
 ・ リゲティ:Adagio molto semplice (アンコール)
 ・ カンチェリ:RAG-GIDON-TIME (アンコール)

ラディカルで挑発的、赤裸々。がっぷり四つに組んだ二人の音楽家のパフォーマンスは暴れ馬同士が激しくせめぎ合っている印象。

コパチンの弓が激しく弦を叩き、雑音が混じっても意に介さない。疾風怒濤、型破り、奇想天外。装飾音以外、基本的にヴィブラートをかけないので、ピリオド・アプローチと言ってもいいくらい。

彼女は野生児だから素足でステージに現れ、ドンドン床を踏み鳴らす。グイグイ動かすテンポ、あまりにもとんでもない演奏で笑ってしまう。ヤバイ!!ベートーヴェンが生きていたらビックリして席から転げ落ちるだろう。

「滑らか」とか「落ち着いた」という表現と対極に位置していて尖っている。細かいことは気にしない。ADHD(注意欠如・多動症)的という表現が相応しいかも知れない(褒めてます)。唯一無二、規格外。「音楽は自由だ!」と、快哉を叫びたくなった。

アンコールで演奏された『ラグ・ギドン・タイム』はジョージア(グルジア)の作曲家ギア・カンチェリの作品で、恐らくギドン・クレーメル(ラトビア出身)のために書かれたものと推定される。クレーメル本人もしばしばアンコールで取り上げているようだ。

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真風涼帆/潤 花(主演)宝塚宙組「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」は駄作!(原作小説/映画版との比較あり)

4月4日(火)宝塚大劇場へ。宝塚宙組『カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~』を観劇した。

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配役はジェームズ・ボンド:真風涼帆、デルフィーヌ:潤 花、ル・シッフル:芹香斗亜ほか。

まず率直な感想を述べると「これはジェームズ・ボンドの物語ではない。救いようのない駄作」に尽きる。

役者については文句ない。真風涼帆はスタイリッシュで格好良く、男役の集大成という印象。潤 花も美人だし、ボンド・ガールとして悪くない。

基本的に僕は宝塚歌劇団・演出家のエース、小池修一郎のことを高く評価している。なかんずく『ポーの一族』は最高傑作だと思うし、『ヴァレンチノ』『蒼いくちずけ』『グレート・ギャツビー』『失われた楽園ーハリウッド・バビロン』『イコンの誘惑』『オーシャンズ11』『るろうに剣心』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』なども好きだ。しかし、たまに空振りもある。2003年紫吹淳の退団公演『薔薇の封印ーヴァンパイア・レクイエム』や2007年春野寿美礼の退団公演『アデュー・マルセイユ』、そして2012年『銀河英雄伝説』だ。

 ・ 凰稀かなめ主演 宝塚宙組/銀河英雄伝説@TAKARAZUKA + 宝塚ガーデンフィールズ探訪 2012.09.30

本作も『アデュー・マルセイユ』レベルに詰まらなかった。小池(作・演出)に限らず、姿月あさとの『砂漠の黒薔薇』とか、香寿たつきの『ガラスの風景』、蘭寿とむの『ラスト・タイクーン』などトップ・スターの退団公演は作品的にハズレの確率が高い気がする。

 ・ 蘭寿とむ主演 宝塚花組「ラスト・タイクーン」/作・演出の生田大和に物申す! 2014.02.22

麻路さきの『皇帝』(作・演出:植田紳爾)なんか、あまりに退屈すぎて客席のファンが舞台背景の星を数えていたというのは有名な話だ。それでもスターの退団公演ならチケットは売り切れる。閑話休題。

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『カジノ・ロワイヤル』の話に戻ろう。原作の出版は1953年だが、宝塚版は時代設定をフランス・パリで五月革命(五月危機)が勃発した1968年に移行している。同じ5月に映画監督フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールによるカンヌ国際映画祭粉砕事件も発生している。激動の時代、革命の季節だった。

ルネ・フレミングの原作小説は007シリーズの第1作目であり、ヒロインは美貌の英国秘密情報部員ヴェスパー・リンドだ。しかし最後にヴェスパーは自殺。実はイギリス空軍にいたポーランド人の恋人を人質に取られて、ソ連の二重スパイをさせられていたと告白する遺書を彼女は残す。

ダニエル・クレイグが主演した2006年の映画版のプロットは比較的原作に忠実なものになっている(設定は現代に移され、カジノがあるのはモンテネグロ、バカラで勝負するのではなく時代の流れに合わせてポーカー、それも手札が5枚ではなく2枚配られるテキサス・ホールデムに変更されている)。これは情感豊かな傑作だった。

宝塚版でもヴェスパーは登場するが、ボンドと恋人関係になるわけでもなく、ほんの脇役に過ぎない。代わりにヒロインの役割を果たすデルフィーヌはロシア・ロマノフ家の末裔という設定で、なんと怪僧ラスプーチンの亡霊まで現れる。いやいや、『アナスタシア』じゃないんだから!小池は余程『アナスタシア』をやりたかったのだろうか?

 ・ 真風涼帆(主演)宝塚宙組「アナスタシア」と、作品の歴史を紐解く。 2020.12.02

そもそもボンド・ガールに貴族の令嬢というのは似合わない。多くはスパイ、悪党の愛人もしくは娘といった身分の低い女たちである。

原作でヴェスパーはル・シッフルに拉致されボンドがそれを追うが、彼女が監禁されているのは「夜遊び荘」というアジト。それが宝塚版でボンドがヒロインを救うのは古城で、そこから2人でパラシュートで脱出するというロマンティックな結末になっている。

007シリーズに古城が登場するというのも記憶になく、むしろこの世界観はアルセーヌ・ルパンが主人公のモーリス・ルブラン作『奇巌城』とか、宮崎駿監督のアニメ『ルパン三世 カリオストロの城』(元ネタはルブランの小説『カリオストロ伯爵夫人』)に近い。

いろいろな要素を詰め込みすぎて全体としてチグハグで統一感がなくなり、本来あるべき色を失ってしまった。なんだか『ベルサイユのばら』とか『キャンディキャンディ』といった昭和の少女漫画やアニメの世界に紛れ込んだような気持ちになった。昭和生まれのおっさん、小池修一郎の感性は最早古すぎる!令和の女性観客たちが何を求めているか全くわかっていないと、ここで論難させてもらう。

それからジェームズ・ボンドはイギリス人でデルフィーヌはロシア人。それなのにどうして別れの挨拶が「アデュー」なの?舞台がフランスだから??……んなあほな!!だから余計に『アデュー・マルセイユ』の悪夢を思い出しちゃったんだよ。

高い版権を支払って、この体たらくでは勿体ない。

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