2018年5月25日 (金)

神話の構造「スター・ウォーズ」と「指輪物語」&「ニーベルングの指環」

1876年に第1回バイロイト音楽祭において初演されたワーグナーの「ニーベルングの指環」4部作は北欧神話に基づいている。J・R・R・トールキンの「指輪物語」(The Lord of the Rings)は1954-5年に出版され、それに先立って「ホビットの冒険」が37年に出版された。そして1977年にジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」が公開される。

以下、この3作品の構造が全く同じであることを証明していくが、そこに宮﨑駿「崖の上のポニョ」も絡めたい。ポニョの父フジモトは彼女のことを”ブリュンヒルデ”と呼ぶ。「ニーベルングの指環」の登場人物である。つまり彼女と妹たちはワルキューレ(北欧神話に登場する半神)なのだ。ポニョが津波の上に立ち宗介のところに現れる場面で久石譲の音楽がワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」にそっくりなのは決して偶然じゃない。「ニーベルングの指環」で【神々の黄昏→人類の台頭】が描かれるのに対し、「ポニョ」は【人間の時代の終焉→新人類(ポニョと宗介の子供= a Star Child)誕生】をテーマにしている。洪水の後に古代デボン紀の水中生物たちが現れるのはそのためである(公式サイトへ)。なお「スター・ウォーズ」で作曲家ジョン・ウィリアムズが採用したライトモティーフ(示導動機)の手法は「ニーベルングの指環」に由来する。

構造分析はフランスの社会人類学者レヴィ=ストロース(1908-2009)の手法に倣った。

「ニーベルングの指環」のあらすじはこちら。人物相関図はこちら。「指輪物語」の概要についてはこちらとか、こちらの年表をご参照あれ。

「ニーベルングの指環」では

  • ヴォータンの支配する天上の神々の世界↔地下のニーベルング族《垂直方向の差異

という二項対立があり、その中間地点=地上の人間世界では

  • ヴェルズング族(ジークムント、ジークリンデ)↔フルンディングの一族

という二項対立がある。ジークムント、ジークリンデはヴォータンが人間に産ませた双子の兄妹なので

  • 神々(その長がヴォータン)↔フルンディング(人間界)

の相克にも置き換えられる。これが最終夜「神々の黄昏」では

  • ジークフリート(ジークムントとジークリンデの間に生まれた息子)↔グンター(ライン河畔ギービッヒ家の当主)+ハーゲン(グンターの異父兄弟、父はニーベルング族のアルベリヒ)

となる。

「指輪物語」では

  • 冥王サウロン+サルマン(白の魔法使い)↔人間+エルフ(自然と豊かさを司る半神)+ガンダルフ(灰色の魔法使い)《水平方向の差異

「スター・ウォーズ」では

  • 銀河共和国(滅亡後はレジスタンス)&ジェダイの騎士(白っぽい服装)↔銀河帝国(シスの暗黒卿、ダース・ベイダー)(黒っぽい服装)《光と闇、明度の差異

変換される。ここで興味深いのが「指輪物語」で魔法使いが両陣営に分かれていること。「スター・ウォーズ」でもジェダイの騎士が light sideとdark side両方に布陣している。これに相当するのが「ニーベルング」では人間である。【神と結合し、子(ジークムントとジークリンデ)を産む女↔地下世界の住人ニーベルング族と結合し、子(ハーゲン)を産む女】

では上述した二項対立を結び、その境界を超え循環する第三項は何か?「ニーベルング」「指輪物語」については言うまでもなく指輪であり、「スター・ウォーズ」ではForce(日本語では〈理力〉〈霊力〉、中国語では〈原力〉と訳された)が該当する。指輪フォースも絶大な力を秘めていることは確かだが、その実態はよく判らない(指輪の場合は欲望のメタファーでもある)。得体が知れない。レヴィ=ストロースはこれをゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)と名付けた。

ソシュール(1857-1913)の言語学では「意味しているもの」「表しているもの」のことをシニフィアン、「意味されているもの」「表されているもの」のことをシニフィエと呼ぶ。「海」という文字や「うみ」という音声がシニフィアン、頭に思い浮かぶ海のイメージや海という概念がシニフィエである。そしてゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)とはシニフィアンが具体的な姿を持っていないこと自体が、一つのシニフィアンとして機能する記号である。メラネシア(オセアニア)の原始的宗教において、神秘的な力の源とされる概念「マナ」や、日本語で「ツキがある」「ツキに見放された」などと使用される「ツキ」が該当する。ジャック・ラカン(1901-81)の精神分析においてその機能を果たすのは「ファルス」(象徴的な男根)と言える。ゼロ記号ゼロ象徴価値の記号)は浮遊する過剰シニフィアンである。意味が無いのではなく、その多義性に特徴がある。なお「ハリー・ポッター」シリーズにおけるゼロ記号は勿論、魔法だ。

「ニーベルングの指環」ではライン川の3人の乙女が守る黄金を地底の住人アルベリヒが奪い、鍛えて指輪を造る。最終的にブリュンヒルデの手で指輪はラインの乙女たちのもとに戻る。その時、ライン川が氾濫し大洪水が発生する。「指輪物語」においてサウロンはモルドールにある滅びの山(火山)の火口で金属を鍛えて指輪を造る。そして最終的にフロドが滅びの山の火口に指輪を葬る。その行為は大噴火というカタストロフィー(破滅的な災害)を起こす《からへの変換》。両者に共通するのは「一体化していたあるものを無理矢理引き剥がし過渡の分離をしたために起こった混乱・無秩序・悲劇を解消するために、仲介者がそれを本来あるべき場所に戻す」という構造(プロット)である。また「指輪物語」では白の魔法使いサルマンの居城があるアイゼンガルドをエント(木に似た巨人)がアイゼン川のを引き入れて水没させる。では「スター・ウォーズ」の場合はどうだろう?フォースという神秘的な力を持つアナキン・スカイウォーカー(=ダース・ベイダー)はダース・シディアス(シスの暗黒卿/パルパティーン)の計略にはまり、妻や子供たちと引き離される。しかし最後に、家族のもとに還る(エピソード6 ジェダイの帰還)。その際に核爆発によるデス・スター内部からの崩壊=カタストロフィーが発生する(初代および第2デス・スター、そしてエピソード7のスターキラー基地は全て同じ運命をたどる)。大洪水火山の噴火核爆発ーこれら「すべてを呑み込む」性質(昔話では山姥、ユング心理学におけるグレートマザー/太母に相当)は不変である。

洪水という主題は「崖の上のポニョ」にも現れる。旧約聖書では言うまでもなく《ノアの方舟》だ。

「スター・ウォーズ」におけるR2-D2とC-3POの役割は傍観者/語り部で、かつコメディリリーフだ。つまり彼らは(二項対立の)境界を超え、行き来するトリックスターである。その直接の影響が黒澤明「隠し砦の三悪人」であることは余りにも有名だが、「指輪物語」の中ではさしずめホビットが該当しよう。”語り部”の役割はビルボ・バギンズ→フロド・バギンズに、”コメディリリーフ”の役割はピピンとメリーが分け合い担っている。シェイクスピア「夏の夜の夢」のトリックスター・妖精パックも語り部であり、劇の最後に口上を述べる。「指輪物語」に於けるトリックスターはの神ローゲ(北欧神話のロキLoki)だろう。ローゲはいたずら好きで狡猾な半神だ。つまり人間と神の境界に潜む。神出鬼没であり、「ワルキューレ」ではヴォータンからの召喚に応じ岩山のブリュンヒルデを魔ので囲む。そして「神々の黄昏」では神々の居城=ヴァルハラ城を焼き尽くす。トリックスターの面目躍如である(ロキは「終わらせる者」という意で、両性具有であるという)。ギリシャ神話のトリックスター・プロメテウスは神の世界から人間界にをもたらす。は【生のもの→調理したもの】という、自然から文化への移行を象徴している。また宮﨑駿「ハウルの動く城」に登場するカルシファー≒ロキと考えてほぼ間違いない。

  • 「ニーベルング」ジークムントとフンディングの戦いのときヴォータンが現れ、自らが与えた剣ノートゥングを打ち砕く。武器を失ったジークムントは、フンディングの槍に刺されて絶命する↔「指輪物語」ゴンドール(都)の執政デネソールは戦で重傷を負った次男ファラミアが死んだと勘違いし、ファラミアもろとも焼身自殺を図る↔「スター・ウォーズ」ダース・ベイダーはルークとライトセーバーで戦い、ルークの腕を切り落とす《親族の過小評価
  • 「ニーベルング」洞窟の中で大蛇に変身したファフナー(巨人族)が財宝を守っている。ジークフリートが退治し、指環と隠れ頭巾を奪う↔「ホビットの冒険」スマウグ(ドラゴン)が財宝を守っている。ビルボが黄金の杯を盗む

隠れ頭巾というガジェット(小道具・仕掛け)は「ホビットの冒険」「指輪物語」において、指輪をはめると姿が消えるという設定に変換されている。また「スター・ウォーズ」ではジェダイの騎士がフォースの力(理力)で自分の気配を消すことが出来る。「ハリー・ポッター」にも隠れマントが登場する。

「ニーベルング」における【父ヴォータン↔娘ブリュンヒルデ】の二項対立は「指輪物語」では【ゴンドール(都)の執政デネソール↔息子(次男)ファラミア】の確執に変換されている。その背景には死んだ長男ボロミアに対するデネソールの偏愛がある。「スター・ウォーズ」では言うまでもなく【父ダース・ベイダー(アナキン)↔息子ルーク・スカイウォーカー】だ。プリクエル(前日譚、エピソード1-3)では【師オビ=ワン・ケノービ(父代わり)↔アナキン・スカイウォーカー】の衝突に置き換えられている。ギリシャ神話《エディプス王》的”父殺し”の主題はエピソード7の【ハン・ソロ↔カイロ・レン】に引き継がれる。

「指輪物語」のファラミアは父に愛してもらいたいと切望している。しかしそれは決して満たされない。これは旧約聖書《カインとアベル》の物語の引用だ。後にスタインベックの小説「エデンの東」になった。カインが弟アベルを殺すのは、神ヤハウェがアベルしか愛さなかったから。つまり嫉妬である。「ニーベルング」ではブリュンヒルデとの結婚の宴を開いたギービッヒ家の当主グンターを異父兄弟ハーゲンが殺し、指輪を奪おうとするという形で現れる(「神々の黄昏」)。「スター・ウォーズ」プリクエルでは女王パドメ・アミダラとオビ=ワンが密通ているのではないかという疑心暗鬼・嫉妬から、アナキン・スカイウォーカーがオビ=ワンとの死闘になだれ込む(「最後のジェダイ」ではレイを巡ってカイロ・レンが叔父ルークに嫉妬する)。

「ニーベルング」のジークムントとジークリンデという双子の主題は「スター・ウォーズ」の双子ルークとレイアに再現される。エピソード4ではルークがレイアに恋心を抱いているようにも描かれる《近親相姦的、親族の過大評価》。「指輪物語」ではアラゴルン(帰郷した人間の王)と結ばれるエルフ族のアルウェンに双子の兄エルラダンとエルロヒアがいるという設定として現れる。双子とは一つの卵子が二つに分化することの暗喩であり、自然(神々の黄昏)→文化(人間の台頭)への移行を象徴している。なお、ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」の撮影時に繰り返し観ていたという黒澤明「七人の侍」もまた、【武士道の終焉→庶民(農民)の時代の到来】を描いている。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はその著書「シネマ」の中で「七人の侍」に触れ、「今日、まさに〈歴史〉のこの時点において、侍とは何か」という高次の問いが存在すると語る。

最後に到達したその問いとともに、答えが到来するだろうー侍は、君主のもとにも貧しき者のあいだにも、もはやおのれの場所はない影に生成してしまったのだという答えが(真の勝者は農民たちであった)。

ジェダイの騎士(「ニーベルングの指環」では神々)の置かれた立場も正に、侍と同じなのである。

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日本人よ、もっと誇りを持て!

是枝裕和監督「万引き家族」(公式サイトはこちら)がカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した。

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現在までに同賞を勝ち取った日本映画は衣笠貞之助「地獄門」、黒澤明「影武者」、今村昌平「楢山節考」「うなぎ」そして「万引き家族」の5作品である。

大変めでたいことである。しかし「誇りに思う」とか「日本人スゴイ」とか気軽に言えない空気が我が国には蔓延している。未だにマスコミの大勢を占める左翼ジャーナリストたちの(日の丸とか、君が代とか)「愛国心」に対するアレルギー、嫌悪(Hate)がその原因となっている。

自分が生まれた国を自慢したくなるのは自然な気持ちの発露であるし、それを安易に「右翼」とか「国粋主義」「ファシズム」に結びつけようという彼らの思考は余りにも短絡的で愚かだ。お国自慢や家族自慢は「悪」ですか?馬鹿馬鹿しい。日本人はもっと自分たちに自信を持ったほうが良い。謙虚であることと、必要以上に卑下すること・自虐は全く別物である。

例えばある小学生が学校でいじめにあい、汚物扱いされているとしよう。「ああ僕/私って駄目な人間なんだ。消えてしまったほうがいい」と、そう考えてしまったらもうお終い。自殺という最悪の結果が待ち構えている。親が真っ先にすべきこと。まずいじめをやめさせること(しかし大抵の場合は難しい)。それが無理なら逃げ出すこと。転校して環境を変える。いちばん大切なことは駄目じゃないってことを本人に分からせ、自信を持たせることだろう。否定からは何も生まれない。徹底的に肯定し続けること

さて、カンヌで5回パルム・ドールに選ばれたことがどれだけ凄いことなのかを客観的データでお示ししよう。以下、ロシアやアジアなど近隣諸国の過去の成績を列挙する。

ソビエト連邦ーロシアの受賞が「偉大な転換」「鶴は翔んでゆく(戦争と貞操)」の2回、中国がチェン・カイコー「さらば、わが愛/覇王別姫」の1回、台湾・韓国は0。

では次点のグランプリ(審査員特別賞)はどうか?日本は市川崑「鍵」、小林正樹「切腹」「怪談」、勅使河原宏「砂の女」、小栗康平「死の棘」、河瀬直美「殯の森」の6作品。ソビエト連邦ーロシアは「惑星ソラリス」「シベリアーダ」「懺悔」「太陽に灼かれて」の4作品。中国はチャン・イーモウ「活きる」、チアン・ウェン「鬼が来た!」の2作品、韓国はパク・ヌチャク「オールド・ボーイ」(原作は日本の漫画)の1作品、台湾0である。

次に米国アカデミー外国語映画賞を見てみよう。なお1950−55年は「名誉賞」と呼ばれていた。

日本映画は黒澤明「羅生門」、衣笠貞之助「地獄門」、稲垣浩「宮本武蔵」、滝田洋二郎「おくりびと」の4作品。

ソビエト連邦ーロシアは「戦争と平和」「デルス・ウザーラ(但し監督は黒澤明)」「モスクワは涙を信じない」「太陽に灼かれて」の4作品、台湾がアン・リー「グリーン・デスティニー」の1作品、中国と韓国は0(韓国映画はノミネートすら一度もされたことがない)。

あと宮﨑駿「千と千尋の神隠し」がアカデミー長編アニメーション映画賞を受賞していることも忘れてはならないだろう(ベルリン国際映画祭では金熊賞=最高賞)。これもロシアを含むアジア諸国において、唯一の快挙である。

如何です?大したものじゃないですか。日本映画・ジャパニメーションは胸を張って世界に誇れる文化なのです。

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2018年5月24日 (木)

【いつか見た大林映画】第7回「恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME」と尾道映画祭

2月24日(土)から泊りがけで約20年ぶりに尾道を訪れた。

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上の写真は千光寺公園近くから眺めた尾道水道の風景。大林映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」ではこの岩にピアノが置かれ、右手の小指がないドジなヤクザ・永島敏行が「エリーゼのために」を弾く。

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泊まったのは料亭旅館「魚信」。大林映画「ふたり」では石田ひかり演じるヒロインの親友・真子(柴山智加)の実家として登場し、「あした」や「マヌケ先生」もここでロケされた。

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兎に角、新鮮な魚が美味しかった!部屋からの眺めも最高。

翌25日は尾道映画祭@尾道商業会議所記念館へ(会場の定員は50名)。最新作「花筐」上映後、大林宣彦監督、映画出演者である常盤貴子、満島真之介、原雄次郎らが登壇し、早稲田大学名誉教授で映像作家でもある安藤紘平の司会でティーチインが行われた。招待された(監督の母校)尾道市立土堂小学校児童からの質問に答える形式である。

そもそも「花筐」は上映時間2時間49分もあり、年齢制限がPG-12(12歳未満は、保護者の助言・指導が必要)だ。レイプシーンもあるしね。小学生に観せて大丈夫!?と危惧の念を抱いた。案の定、上映途中にトイレに行く生徒が数名いた。

満島真之介は小学生からの質問にも真剣に答えるnice guyだった。現在、園子温監督の映画に参加しているということで、2日前に園監督を尾道に連れてきて大林監督に引き合わせたそう(園は大林監督の著書「いつか見た映画館」にも応援メッセージを寄せている)。また大林監督を評して《海と山と一体になった人》と。「花筐」ロケ地・唐津の海(日本海)で泳いだときは怖かった。外から襲って来る感じ。一方で尾道(瀬戸内)の海は内側に何かいる気配を感じたと。また彼は沖縄出身で、地元の人は海で泳ぐのに水着に着替えないそう。Tシャツ・短パンといった普段着のまま海に入り、家に帰ったらそのまま服を脱がず入浴し塩を洗い流すのだと語った。

実は僕、常盤貴子があまり好きじゃなかったのだけれど、実物を目の前にするとさすがに綺麗だし、気さくで気配りができる素敵な女性だった。彼女は映画終盤のパーティー・シーンで盆の上に乗り、助監督が手動でそれを回している状態でダンスしたというエピソードを披露し、大変興味深く聴いた。 

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続いて「恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME」を初めて鑑賞。1983年9月23日にフジテレビで放送されたテレビドラマであり、ビデオ化・DVD化が一度もされず幻の作品となっていた。なお火曜サスペンス劇場で放送された「可愛い悪魔」と「麗猫伝説」は16mmフィルムで撮影されたが、「恋人よ」はビデオ撮りである。

出演は沢田研二、大竹しのぶ、泉谷しげる、小川真由美ほか。進駐軍兵士役で登場したトロイ・ドナヒューは後に大林映画「漂流教室」にも出演している。脚本は「夢千代日記」の早坂暁。「転校生」同様、J.S.バッハ”G線上のアリア”が使用さた。大竹しのぶが広島の被爆者で、弟が包帯で顔までぐるぐる巻きになり死んでいくのだが、その姿を見てハッとした。「アッ、雪子だ!」と。大分県臼杵市で2001年(同時多発テロの年)にロケされた大林映画「なごり雪」で須藤温子演じるヒロインが交通事故に合い、同じような姿になるのである。そうか、あの場面にも監督の戦争への想いが込められていたんだ……。

朝鮮戦争への兵役を拒否した日系二世役のジュリーは追っ手から逃れ、大竹しのぶとともに広島港から瀬戸内の無人島に渡る。まるで幽霊のようにボートで迎えに来るのが小川真理子。その立ち姿を見た瞬間、「うぉぉカロンの艀(はしけ)じゃないか!!」と思わず叫びそうになった。カロンとは死者を「死の島」に導く水先案内人であり、「花筐」と共に大林監督の(未だ実現していない)ライフワークである「草の花」を執筆した福永武彦最後の小説「死の島」(題名はベックリンの絵に由来)で言及される。そして「死の島」には広島で被爆した画家・萌木素子が登場する。なんと「恋人よわれに帰れ」は大林版「死の島」だったのだ。そして劇中、原爆は2度炸裂した。

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椹木野衣(美術評論家)氏を迎えた《車座シンポジウム》で大林監督は次のように語った。

常識は世間と表現者では違う。表現者は作品と対話する。通常、悲しい時には悲しい音楽が、楽しい時には明るい音楽が流れる(劇伴)が、黒澤明監督は逆に付けた。つまり悲しい時に明るい音楽を流したのである。これが対位法だ。

表現者は世の中をより良くするために命がけで生きている。第二次世界大戦中、小津安二郎監督は「目の前にあることは、受け入れざるを得ないではないか」と言って軍報道部映画班としてシンガポールに行った。しかしフィルムは1秒たりとも回さなかった。それが彼の覚悟だった。敗戦後直ちに引揚船には乗らず、しばらく現地で捕虜生活を送った(半年を経て帰国)。

映画は理解するものではなく、フィロソフィー(哲学/哲理)を描く。そして戦争や災害など大きな出来事に遭遇し、Panic(わけの分からない恐怖、恐慌)をきたしたときはそれを解きほぐす効用を持つ。

英語にthe film artistという言葉があるが、僕は20歳の時に「映画作家」になった。自ら「映画監督」と名乗ったことはない。

ここで安藤教授から木下惠介監督が第二次世界大戦中(1944年)に陸軍省の後援で撮った国策映画「陸軍」の紹介があり、いかにしてその中に反戦の意志を忍び込ませたかが解説された(結果として木下は情報局から睨まれ、敗戦の日まで仕事が出来なくなった。この辺の事情は原恵一監督の映画「はじまりのみち」に詳しく描かれている)。

安藤教授は若い頃、寺山修司の劇団=演劇実験室「天井桟敷」に在籍し、寺山とパリに行った時、彼の勧めで16mmカメラを購入し映像を撮るようになったという。コロンビアの作家ガルシア=マルケスの小説「百年の孤独」を映画化した彼の遺作「さらば箱舟」に触れ(完成後原作者と係争となって公開できず、改題および原作クレジットの削除などの条件を受諾して2年後に公開された)、寺山の言葉「百年たったら、帰っておいで」を紹介した。

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映画は”風化しないジャーナリズム”だと大林監督は語る。だから今すぐに理解されなくても良い。百年後に見えてくるものもある。

大林監督は寺山と親交があり、「大林さんの映画は僕の作品に似ている」「いや、君のが僕のに似ているんだよ」と言い合う間柄だったという。

椹木氏は大林映画「この空の花 長岡花火物語」を巨大な壁画に喩えた。額縁のない絵の中に彷徨いこんだような。時間(の感覚)がおかしくなると。また「転校生」とか「はるか、ノスタルジィ」の物語はまるで輪廻転生のようだとも。

「映画は記録ではなく記憶を描くんです。過去も未来もない。混沌とするから記憶になるんです」と大林監督。またヴィジュアリスト・手塚眞(手塚治虫の息子で大林映画「ねらわれた学園」に出演)から「花筐」の登場人物ミナの名前はブラム・ストーカーの「ドラキュラ」から採ったんですか?と訊かれた。言われるまで全く気が付かなかった、でも「(原作者の)檀一雄さんはきっとブラム・ストーカーを読んでいたんじゃないかな」と。

大林映画「HOUSE ハウス」「恋人よわれに帰れ」「野ゆき山ゆき海べゆき」「花筐」などに原爆が登場するが、大林監督はスタッフに敢えて「美しく描いてくれ」と言う。「美しいからこそ怖いんだよ。天使が悪魔の顔をしている」戦争映画を白黒で撮ると《過去のカタルシス》になってしまう。だから色鮮やかに描く。

次回作は原爆をテーマにしようと考えており、新藤兼人監督の遺稿シナリオ「ヒロシマ」について触れた。「(原爆投下の瞬間)一秒、二秒、三秒の間に何がおこったかをわたしは描きたい。五分後、十分後に何がおこったか描きたい。それを二時間の長さで描きたい。一個の原爆でどんなことがおこるか」と新藤は書き残している。「ピカ、ドンの二秒間に人々の物語がある」と大林監督。

「宇宙に真っ白いものはないんです。真っ白なスクリーン、その不自然な空間に何を描くのか?それは我々にとって原稿用紙であり、(油絵の)キャンバスなんです。映画が今まで何を語ってきたのかを一言で言えば、人は傷つきあって、許しあって、愛を覚える、ということです。 手話っていうのは国によって違います。どうして世界共通語ではないのか?つまり違いを楽しむということなんです。そうか、僕はこうするけど、君はそうするんだね。そこに好意とか共感が生まれるのです」

こうして含蓄のある2時間はあっという間に過ぎ去っていった。

予告:次回の【いつか見た大林映画】は大阪市内で開催された講演会「いのちのセミナー」で大林監督が語ったことについて詳細にご報告します。乞うご期待!

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モリーズ・ゲーム

評価:B-

Mollysgame

映画公式サイトはこちら

映画「ソーシャル・ネットワーク」「マネーボール」「スティーブ・ジョブズ」のシナリオを手掛け、テレビ・ドラマでは「ザ・ホワイトハウス」「ニュースルーム」で名高い脚本家アーロン・ソーキンの映画監督デビュー作である。これは見逃せない!と勢い勇んで映画館に駆けつけたのだが、正直肩透かしを食らった。

策士策に溺れる
……これに尽きるだろう。確かに「ソーシャル・ネットワーク」や「スティーブ・ジョブズ」みたいに構成は凝っている。しかしそれが物語に貢献しているとはとても思えない。ただ意味もなく、ややこしくしているだけ。モーグルのオリンピック代表選手を目指していたアスリートが何故、高額ポーカー・ゲームの経営者に転身したのか?最後の落とし所が娘の父親に対する反抗心に持っていくのもいただけない。お前はフロイトか!

あとジェシカ・チャステインがやたらと露出度が高い服装をしているのだが、そのくせ精彩に欠ける。「ゼロ・ダーク・サーティ」や「女神の見えざる手」の彼女の方が余程魅力的だった。これは演出力の差だろう。

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2018年5月22日 (火)

アカデミー助演女優賞受賞「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」

評価:A+

Itonya

トーニャ・ハーディングの母親を演じたアリソン・ジャニーが助演女優賞を受賞し、他に主演女優賞(マーゴット・ロビー)、編集賞にノミネートされた。公式サイトはこちら

むっちゃ面白かった!!痺れた。チャーリー・チャップリンの次の言葉を想い出した。

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

(人生は間近で見ると悲劇だが、遠くから眺めれば喜劇である)

実話である。トーニャ当人にとっては本当に気の毒な話なのだが、彼女の周りが見事にクズばっかりなので、不謹慎ながら笑ってしまう。特に元謀報員を自称する彼女のボディガード・ショーンは最高だね!《映画史上最低で賞》を彼にあげたい。

フィギュアスケートのシーンの編集が切れ味鋭くお見事。また「信頼できない語り手」という趣向が味わい深い。

僕が本作を観ながらすごく近いなと感じたのが「フォックスキャッチャー」である。

五輪選手が主人公の実話という共通項だけではない。両者ともに見事なアメリカ論になっているのである。「フォックスキャッチャー」はマッチョ信仰、そして「アイ、トーニャ」は貧富の差、White Trash (Poor White)の有り様について。なんて惨めなんだろう。藻掻いても藻掻いてもそこから抜け出せない哀しみ。トーニャのお母さんって映画「8 Mile」(アカデミー歌曲賞受賞)に登場したエミネムのお母さん(キム・ベイシンガー)みたいだった。エミネムはデトロイトのトレーラーハウスで暮らしていたんだ。彼の場合はそこから脱出して成功を掴んだのだからトーニャと好対照だね。人生いろいろ。

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2018年5月18日 (金)

カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞「ザ・スクエア 思いやりの聖域」

評価:A

Thesquare

スウェーデン映画である。カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞し、アカデミー賞の外国語映画部門にもノミネートされた。公式サイトはこちら

当然ダイアログはスウェーデン語なのだが、序盤に主人公である現代美術館のチーフ・キュレーター(学芸員)にアメリカの女性記者が英語でインタビューをする場面が登場し、「なんだか見たことある人だなぁ」と数秒考えて気が付いた。

Huluから配信されている「ハンドメイズ・テイル/侍女の物語」でエミー賞並びにゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞したエリザベス・モスだった(作品賞もダブル受賞)。彼女は「侍女の物語」のプロデューサーも兼任している。これ、すこぶる面白いんだ。上のポスター、左端黒服の女性がエリザベス・モス。

可笑しかったのは本作と、次に観た「アイ、トーニャ」でスラングcuntが使われていたこと(意味の説明はこちら)。

リベラルであろうとしながらもエリート意識から逃れられない人々の滑稽さが赤裸々に暴き出される。

アートの世界でもSNSで一生懸命情報を発信したり、YouTubeの炎上を狙うなどの努力が涙ぐましい。あと北欧型福祉国家のスウェーデンに乞食がいるのに驚かされた。40年位前には日本にもいたけれど、最近は見かけなくなった(ホームレスとはちょっと違う)。難民対策に苦悩するヨーロッパの姿が浮き彫りにされた。

クスクス笑いながら観ていると、終盤主人公の幻想世界に入って行き、空恐ろしくもなる仕掛けが施されていた。

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デュメイ/関西フィルのドヴォルザーク:弦楽セレナーデ

5月16日(水)ザ・フェニックスホールへ。

Spring

オーギュスタン・デュメイ(指揮&ヴァイオリン)/関西フィルハーモニー管弦楽団のメンバーによる弦楽アンサンブル(コンサートマスター:岩谷祐之)で、

  • ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 作品11
  • ブラームス:ハンガリー舞曲 第2番、第5番
  • メンデルスゾーン:無言歌集より ①安らぎもなく(作品30-2)
    ②後悔(作品19-2)③さすらい人(作品30−4)
  • ドヴォルザーク:弦楽セレナーデ

前半「ロマンス」から無言歌①まではデュメイのソロ&弦楽アンサンブルによる演奏で、無言歌②以降デュメイは指揮に専念した(指揮棒なし)。

デュメイは決してヴァイオリンを咽び泣かしたりしない。その音は鋭く尖っていて、情熱が迸る。

僕は過去にチャイコフスキーの弦楽セレナーデを4回、生演奏で聴いている。

ところがドヴォルザークの方はなんと今回が初めて!実は意外に演奏されないのだ。CDではカラヤン/ベルリン・フィルの名盤が有名で、チャイコフスキー&ドヴォルザークのカップリングが多いのにね。

デュメイはここでも感傷に浸ることなく、山椒は小粒でもぴりりと辛い。第3楽章 スケルツォ:ヴィヴァーチェは目の前の草を鎌でバッサバッサと薙ぎ倒すかのように進む。第4楽章 ラルゲットは硬質な抒情がキラッと光り、畳み掛けるような第5楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェは動的で弾けていた。

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2018年5月11日 (金)

デュメイが弾くコルンゴルト!!「終の棲家、アメリカ」関西フィル定期(余談:テルミン秘話)

4月29日(日)ザ・シンフォニーホールへ。関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

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指揮はインドネシアに生まれ、ハノーファー高等音楽院で大植英次に師事したアドリアン・プラバーヴァ。アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管ではベルナルト・ハイティンクの副指揮者を務めた。ヴァイオリン独奏はオーギュスタン・デュメイ(関西フィル音楽監督)で、プラバーヴァの招聘はデュメイの指名だという

  • ミクロス・ローザ:映画「深夜の告白」組曲
  • コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲(オケコン)

ミクロス・ローザはハンガリー出身で(ハンガリー式読みはロージャ・ミクローシュ)、映画「白い恐怖」「二重生活」「ベン・ハー」で3度アカデミー作曲賞を受賞している。

大指揮者ブルーノ・ワルター(ベルリンに生まれたユダヤ人)はロージャの「主題と変奏、フィナーレ」をしばしば演奏会で取り上げており、レナード・バーンスタインがワルターの代役でニューヨーク・フィルに華々しいデビューを飾った折も、この曲を振った。

「深夜の告白」(1944)はビリー・ワイルダー監督の映画で、ワイルダーの「シャーロック・ホームズの冒険」(1970)ではハイフェッツが初演したロージャのヴァイオリン協奏曲 第2番が流用されている(ホームズの趣味はヴァイオリン演奏なので)。二人の最後の共同作業は78年の「悲愁」Fedora。「サンセット大通り」の焼き直しであり、ウィリアム・ホールデンも出演している。僕はロージャ晩年の「針の目」(1981)の音楽が大好きで、15歳の時にサントラのLPレコードを買った。後にCDで買い直そうと血眼になって探したのだが結局手に入らず、漸く昨年、iTunes Storeで発見し、早速ダウンロードして聴いた。感無量だった。

「深夜の告白」の”前奏曲”は重々しく感じるが、続く”面会”になると甘美な音楽となり、チェロのソロがこよなく美しい。「白い恐怖」を彷彿とさせる。余談だがここで面白いエピソードをご紹介しよう。

映画音楽に電子楽器テルミンを使用したのはロージャが史上初だった。

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で、テルミンが登場するのが北米で1945年11月16日に公開されたビリー・ワイルダー監督「失われた週末」(アル中が主人公)と同年12月28日に公開されたアルフレッド・ヒッチコック監督「白い恐怖」の2作品である。「白い恐怖」のプロデューサーは「風と共に去りぬ」や「レベッカ」で知られるデヴィッド・O・セルズニック。「失われた週末」公開直後にロージャのもとにセルズニックの秘書から電話がかかってきたそうだ。曰く「セルズニック氏は自分の作品より先にテルミンが使用された別の映画が公開されたと聞き、大変怒っておられます」どうやら作品の完成自体は「白い恐怖」の方が先だったようである。

驚かされたのはプラバーヴァが「深夜の告白」とオケコンを暗譜で振ったこと。演奏頻度が高いバルトークは理解できるが、ロージャまでとは恐れ入った。新作でも暗譜で振る大植イズムが弟子にも浸透しているのか!?

21世紀に入り、漸くコルンゴルトの時代が到来した。

東京に遅れた関西だが、コルンゴルトのコンチェルトは大阪交響楽団、大フィルに続いて関西フィルでも遂に取り上げられた。しかも名手デュメイで!!10月には日本センチュリー交響楽団の定期で演奏される。

デュメイはたっぷりと豊かに歌う。繊細だが決して甘過ぎない。第2楽章は硬質な抒情があった。pp(最弱音)、ハーモニクス(倍音)の美しさが際立つ。最後は澄み切った青空に、音がスーッと消えていった。ロンド形式の第3楽章はキレッキレ。カミソリのような鋭さがあった。オケはリズミカルで弾け、間奏でデュメイが金管に向い満足そうに頷く姿も見られた。特にヴァイオリンとフルート・ソロとの掛け合いは最高!圧巻の演奏だった。嘗てデュメイはEMIや独グラモフォンから沢山のアルバムをリリースしていたが、最近はとんと音沙汰がない。是非コルンゴルトはレコーディングして貰いたいものだ。

オケコンも切れ味鋭く、緊張とその緩和のメリハリ、コントラストが鮮烈だった。第3楽章「エレジー」は夜の静寂(しじま)を切り裂く悲痛な鳥の叫び。正直、師匠である大植さんのオケコンより良かった。さすがデュメイが見込んだ男だけのことはある。プラバーヴァ、恐るべき才能だ。

この演奏会の直後、福島駅からJR環状線に飛び乗って京橋駅まで大阪桐蔭高等学校吹奏楽部を聴きに行ったのだが、それはまた、別の話。

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2018年5月10日 (木)

ソンドハイムのミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」とシェイクスピア「夏の夜の夢」

5月4日(祝)梅田芸術劇場へ。スティーヴン・ソンドハイム作詞・作曲のミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」を観劇した。

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実はこの作品を以前、近鉄劇場でも観ている。1999年7月5-18日の全17公演で演出はジュリア・マッケンジー、音楽監督・指揮は宮川彬良だった。その時のキャストは以下の通り。

デジレ・アームフェルト(女優):麻美れい
フレデリック・エーガーマン(弁護士):細川俊之
シャーロット・マルコム(伯爵夫人):安寿ミラ
カールマグナス・マルコム(伯爵):寺泉 憲
フレデリカ・アームフェルト(デジレの娘):松下 恵
ヘンリック・エーガーマン(フレデリックの息子):岡田真善
アン・エーガーマン(フレデリックの幼妻):高塚恵理子
ペトラ(エーガーマン家のメイド):池田有希子
マダム・アームフェルト(デジレの母):東恵美子

今回の演出は役者として本作に出演した経験もあるマリア・フリードマン。1973年のブロードウェイ初演を演出したのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」「キャバレー」「オペラ座の怪人」「スウィーニー・トッド」のハロルド・プリンスで、トニー賞においてミュージカル作品賞、楽曲賞、ミュージカル台本賞ほか計6部門を受賞した(その年に演出賞を制したのは「ピピン」のボブ・フォッシー)。デジレのナンバー"Send in the Clowns"は数多くの大女優が歌っており、僕が聴いたことがあるのはジュディ・デンチ(英国で出演)、グレン・クローズ、そしてキャサリン・ゼタ=ジョーンズ(2010年再演版に出演し、トニー賞でミュージカル主演女優賞を受賞)である。1979年に劇団四季が日本初演した際にデジレを演じたのは越路吹雪!他に久野綾希子、市村正親、鹿賀丈史、島田祐子らが出演した。

イングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画「夏の夜は三たび微笑む」(1955年)に着想を得たこのミュージカルのあらすじはこうだ。

19世紀末のスウェーデン。18歳のアン(蓮佛美沙子)と再婚した弁護士フレデリック(風間杜夫)はなかなか妻に手が出せず、結婚して11ヶ月経てもアンは処女。神学校に通う息子のヘンリック(ウエンツ瑛士)は密かに義母アンに恋心を抱いていた。フレデリックとアンはある日、芝居を観に出かける。主演女優のデジレ(大竹しのぶ)はフレデリックの昔の恋人。舞台に立つデジレを見た瞬間アンはふたりの関係を察し、泣きながら席を立つ。14年ぶりに再会を果たしたデジレとフレデリックは旧交を温めるように寝室に向かうが、デジレの現在の恋人で女房持ちのカールマグナス伯爵(栗原英雄)が突然来訪する。伯爵はふたりの仲を怪しみ、帰宅後妻のシャーロット(安蘭けい)にフレデリックのことを調べるよう命令する。早速アンを尋ねたシャーロットは全てを暴露し、互いの夫をデジレに取られたと慰め合う。一方フレデリックのことが気になるデジレは自分の母親と娘フレデリカが住む田舎の屋敷に、一家を招待することを計画。伯爵夫妻もこの件を嗅ぎつけ、強引に田舎に向かった。遂に顔を合わせることになった三組の家族。それぞれがさまざまな思惑を抱きながら、一夜を共にすることになる。

デジレの母はWikipedia(English ver.)の説明によると"courtesan"、つまり(王侯貴族・金持ちなどを相手にした)高級売春婦である。

5人(女性3+男性2)によるリーベスリーダー(the Liebeslieder Singers)がコーラスを担う。"Liebeslieder"はドイツ語で、英語では"love songs"となる。つまり「恋の歌の歌い手」だ。

音楽の特徴は、ほぼ全てが3拍子=ワルツで作曲されているということ。モーリス・ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」や「ラ・ヴァルス」からひらめきを得ており、大変優雅な作品である。

「夏の夜は三たび微笑む」はシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」を基にしている。ベルイマンは映画監督としてだけではなく、舞台演出家としても名を馳せた。「夏の夜の夢」も当然演出している→こちら

ベルイマンには”神の沈黙”三部作がある。彼の父親は厳格な牧師で、キリスト教に対する強烈な嫌悪感があり、映画「仮面/ペルソナ」ではイエス・キリストを蜘蛛として描いている(生贄の羊=神への供物)。その気持ちがヘンリックの描写に反映されている。

ではベルイマンがどのように「夏の夜の夢」を換骨奪胎(ブリコラージュ)し、現在の形に練り上げていったかを分析してみよう。A Little Night Musicはドイツ語でEine kleine Nachtmusik(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)、日本語では「小夜曲」となるので、以下そう呼称する。

  • 両者とも夏の夜の森が舞台となる。「夏の夜」月夜↔「小夜曲」白夜
  • 「夏の夜」は貴族社会・職人社会・妖精世界の3つが混じり合う↔「小夜曲」では3つの家族が入り乱れる

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  • 「夏の夜」における妖精たち(豆の花、蜘蛛の巣、蛾の羽根、芥子の種)↔「小夜曲」リーベスリーダー
  • 「夏の夜」妖精の王オーベロンと女王ティターニアはとりかえ子を巡ってけんかをする↔「小夜曲」デジレの娘フレデリカの父親はもしかしたらフレデリック?(最後まで真相は明かされない)
  • 「夏の夜」ヘレナはディミートリアスを追いかけるが、許婚ハーミアに執心する彼は見向きもしない。しかしパックのいたずら(キューピッドの矢の魔法から生まれた媚薬)でディミートリアスはヘレナにゾッコンになる↔「小夜曲」ヘンリックはアンが好きだが見向きもされない。しかし最後に二人はくっつく
  • 「夏の夜」ヘレナはハーミアに嫉妬する↔「小夜曲」アンはデジレに嫉妬する
  • 「夏の夜」ヘレナを巡ってライサンダーとディミートリアスは決闘する↔「小夜曲」デジレを巡ってフレデリックとカールマグナス伯爵は決闘する
  • 「小夜曲」エーガマン家のメイド・ペトラはマダム・アームフェルトの執事フリードと屋外でセックスしようとする。正に「野生の思考」の持ち主であり、「夏の夜」では職人ニック・ボトムに該当する。ボトムはパックのいたずらでロバの頭に変容されてしまう。西洋においてロバというのは頭が足りない馬鹿の象徴であると同時に、精力絶倫を意味する。本能のまま生きる「夏の夜」の職人たちは最も無意識に近接した深層にいる。それは「小夜曲」の使用人たちも同様。その対極(意識の浅層)に位置するのが禁欲=理性で自己を制御しようとするヘンリック。
  • では「夏の夜」のいたずら好きなトリックスター・妖精パックは「小夜曲」では誰か?僕はマダム・アームフェルトだと考える。「夏の夜」はパックの口上で締め括られ、「小夜曲」もマダムの口上で終わる。トリックスターは境界を超え行き来する。マダムは【婚姻↔非婚姻(独身)】の境界に潜む。招待状を出して一同を集結したのも彼女だ。

演技者について。再演のニュースを聞いた当初は、風間杜夫や蓮佛美沙子らミュージカル出演経験の乏しい役者が何人かいて、「大丈夫かいな?」と危惧していた。しかし蓋を開けてみると杞憂に終わった。特に大竹しのぶと風間杜夫のコンビは、歌唱力だけ取れば確かに麻実れい&細川俊之に一歩譲るが、その分、演技力で大幅に上回っていた。味わい深く、この洒落た一夜の夢を堪能した。しかし前回の上演から19年も経ってしまったので、次回はもっと間を開けず、再演してもらいたいものだ。待ってます。

最後に。僕が今までに観たソンドハイム作品を好きな順に挙げよう(「ウエストサイド物語」など歌詞担当のみの作品は省く)。

  1. メリリー・ウィー・ロール・アロング
  2. スウィーニー・トッド
  3. 太平洋序曲
  4. リトル・ナイト・ミュージック
  5. イントゥ・ザ・ウッズ
  6. サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ ~日曜日にジョージと公園で~
  7. パッション
  8. カンパニー

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2018年5月 9日 (水)

コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲(多分)日本初演!「ウィーン世紀末のルーツ」〜大阪交響楽団定期

4月27日ザ・シンフォニーホールへ。

寺岡清高/大阪交響楽団の定期演奏会を聴く。ピアノ独奏はオーストリア生まれのクリストファー・ヒンターフーバー。

  • フランツ・シュレーカー:弦楽のための間奏曲
  • エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲
    (多分)日本初演
  • アルノルト・シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」
    (エルヴィン・シュタイン編)

コルンゴルトやシュレーカー、シェーンベルクの音楽はナチス・ドイツにより「退廃音楽」の烙印を押された。コルンゴルト、シュレーカー、シェーンベルク、編曲者シュタインの4人は全員ユダヤ系であり、シュレーカーは晩年職を失い失意のうちに1934年にベルリンで亡くなったが(ヒトラーが首相に就任したのが33年)、残る3人はアメリカに亡命した。

歌劇「烙印を押された人々」 で知られるシュレーカー22歳の作品は悲しく、儚い音楽だった。

コルンゴルトのコンチェルトは1923年に(第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト)パウル・ウィトゲンシュタインの委嘱で作曲され、1926年に出版された。ウィトゲンシュタインの委嘱により生まれた作品は他に次のようなものがある。

  • ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲
  • プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第4番
  • ブリテン:ディヴァージョンズ
  • R.シュトラウス:家庭交響曲余録
  • コルンゴルト:2つのヴァイオリン、チェロと左手のピアノのための組曲
  • フランツ・シュミット:2つのピアノ五重奏曲
  • フランツ・シュミット:ベートーヴェンの主題による協奏的変奏曲
  • フランツ・シュミット:左手のためのピアノ協奏曲

これらの幾つかは脳梗塞で右半身に片麻痺が残った舘野泉が演奏しているが、どうやらコルンゴルトのコンチェルトは未だだったようだ。

華やかで豊穣、ロマンティックで夢見るような調べ。生で聴けて本当に幸せ。寺岡さん、来年は是非ともコルンゴルトのベイビー・セレナーデ(多分日本初演)か、交響曲 嬰ヘ調を!!

シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」は濃密な官能性があり、めくるめく色彩感で溢れていた。この演奏を聴きながらあるアイディアがひらめいたので、下記事にまとめ上げた。

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