【アフォリズムを創造する】その10「哲学について」

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「哲学とは新しい概念の創造である」と言った。

哲学は生きるヒントを与えてくれる。哲学によって世界の見方が変わる。

僕はユング心理学やニーチェの哲学を学ぶことで、映画や音楽など芸術に対する理解が一層深まったことを実感している。そのことは拙ブログ記事を通して納得して頂けるだろう。「哲学って何かの役に立つの?」と懐疑的な方もおられるだろう。しかし自信を持って言おう。「哲学を知れば、人生がより豊かになる」「よりよく生きるにはどう振舞うべきかを教えてくれる」のだと。

人はみな、多かれ少なかれ存在の不安と死への恐怖を抱いて生きている。霊魂(死後の世界)を信じたり、占いや風水、血液型性格判断に頼る人がいるのも、そういう心情に起因する。「私」に自信がないから、自分の運命を他者に決めてもらいたい。つまり依存心だ。「何故人は生きるのか?」「我々は何処から来て、何処へ行くのか?」……その疑問を解消する一つの手段として宗教があるし、もし貴方が神を信じないのであれば哲学書を読めばいい。

人はラクダ→ライオン→子どもという進化の過程をたどるとニーチェは主張する。最終的に現れるのが超人だ。そして私たちは超人への橋渡しを担っているというわけだ。成る程、それが我々の生きる目的なのだ。つまり未来(子孫)に希望を託す役割と言えるだろう。僕はこの説明がすっと腑に落ちた。例えば人類の歴史を考えてみよう。一進一退はあるけれど、大局的に見れば良い方向に進んでいるのではないだろうか?専制君主制から民主主義の世の中に移行したし、先進国に限って言えば戦争や貧困も確実に減った。日本だって、つい70年ぐらい前には餓死者がいたんだから。そりゃあ世界的に見れば今だって飢えに喘ぐ人たちはいるし、紛争は絶えない。でも彼らも発展の途上にいるのだ。早いか遅いだけの違いだと僕は信じたい。医療の進歩で平均寿命も飛躍的に伸びた。超人の誕生も、そう遠くない将来なのではないだろうか?

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35年目の奇跡〜「ブレードランナー2049」、あるいは頭脳の映画。

評価:AA (最高評価はAAA

Bladerunner2049

リドリー・スコット監督「ブレードランナー」が日本で公開されたのは1982年。僕は高校生だった。ダグラス・トランブルが手がけた特撮シーンがテレビの映画紹介で放送され、その映像美に魅了された。是非観たいと想ったのだが、何しろ当時は大学受験を控える身。映画に関しては禁欲生活を送っていたので断念した。そして大学に合格し、漸くレンタルビデオで観ることが叶った。本作は北米公開も日本でもコケて、映画館はガラガラだったという話を聞いたが、85年くらいには「カルト映画」として確固たる地位を得て、その後の世界に(敢えて「映画」とは言わない)多大な影響を与えた。

さらにレーザーディスクLDで劇場公開版より2分長い《完全版》を観て、公開10周年を記念し監督の本意ではなかったナレーションやラストの車での逃避行(キューブリック「シャイニング」未使用映像の流用)を省き、ユニコーンのシーンを追加した《ディレクターズ・カット/最終版》DVDを購入。そして現在我が家には公開25周年に再び監督自身の総指揮によって編集された《ファイナル・カット》Blu-rayがある。結局4ヴァージョンを観たことになる。

ヴァンゲリスの音楽も大好きで、特に最後に流れるテーマ曲はクールで最高だった!しかし当初市場に出回っていた「サントラ盤」と称す代物はヴァンゲリスによるシンセサイザーではなく、ニュー・アメリカン・オーケストラという謎の交響楽団によるしょぼい演奏(カヴァー)だった(勇気があったら聴いてみやがれ!→こちら。どうだ!!参ったか)。

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89年になって漸く「ザ・ベリー・ベスト・オブ・ヴァンゲリス」(Themes)というCDにオリジナル版の”エンド・タイトル”と”愛のテーマ”のみが収録された。シンセサイザーによる全曲が聴けるには、さらに94年まで待つ羽目になる。そんな紆余曲折があった。

「ブレードランナー2049」は第1作公開から実に35年ぶりの続編であり、物語としては30年後の世界を描いている。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は当初、音楽を朋友ヨハン・ヨハンソン(「ボーダーライン」「メッセージ」)に託したが、よりヴァンゲリスの音楽に近づけたいという監督の意図でヨハンソンは途中降板することになり、ハンス・ジマー&ベンジャミン・ウォルフィッシュが代打した。ここで謎なのはヴァンゲリスは未だ健在(74歳)なんだよね。何で本人がやらないんだろう??厄介な人だ。

20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はスタンリー・キューブリックの作品を【頭脳の映画】だと評している(対して、ゴダールやカサヴェテスは【身体(からだ)の映画】)。

キューブリックにおいては世界そのものが頭脳であり、『博士の異常な愛情』の輝く円形の大テーブル、『2001年宇宙の旅』の巨大なコンピューター、『シャイニング』のオーヴァールック・ホテルのように、頭脳と世界との同一性が成立している。『2001年』の黒い石は、宇宙の諸状態をつかさどるとともに、頭脳の諸段階をつかさどる。それは地球、太陽、月という三つの天体の魂であり、動物、人間、機械という三つの頭脳の胚珠でもある。キューブリックが秘儀伝授的な旅のテーマを革新したとすれば、それは、世界のあらゆる旅が、頭脳の探求であるからだ。(中略)『2001年』の終わりでは、まさに四次元にそって、胎児の領域と地球の領域は、計り知れない未知の新しい関係の中に入る幸運にめぐまれ、それが死を新たな生へと転換することになる。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

ドゥルーズの理論を応用すると、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品も【頭脳の映画】だと言える。アカデミー外国語映画賞にノミネートされた「灼熱の魂」(2010)に登場する双子の姉弟は、亡くなった母親の脳内(記憶)を探る旅に出る。またジェイク・ギレンホール主演「複製された男」(2014)は、一人の男の頭の中で展開される物語だ。彼はアダムという人格と、アンソニーという人格を分離させる。ドッペルゲンガー/二重身である。アダムは真面目で禁欲的な大学の講師。一方のアンソニーは売れない役者で、欲望のまま生きる(欲動イメージ)。映画の最後に主人公は脳内でアンソニーを殺す。アダムが生き残るが、彼の手元にふたたび誘惑者から鍵が送られてくるのだ(欲動の再起動)。それを監視するのが蜘蛛(主人公を抑圧する母親/妊娠した妻の隠喩)である。しかし結局、蛇(サタン)にそそのかされたアダムはリンゴ(知恵の実)を齧るだろう……。

昨年度アカデミー作品賞/監督賞にノミネートされた「メッセージ(Arrival)」の場合はどうだろう?これも言語学者であるヒロイン(エイミー・アダムス)の頭の中で起こった出来事と解釈可能だ。地球に飛来する”はかうけ”に似た宇宙船は「2001年宇宙の旅」における黒い石(モノリス)と同じ役割を果たす。それは彼女の過去ー現在ー未来を結び、現動化し、円環を成す。物事には始まりもなければ、終わりもない。彼女の生成変化を象徴するのが宇宙船の中にいる地球外生命体(ヘプタポッド)が使用する文字=円環構造だ。

「ブレードランナー2049」の主題となるのは一人のアンドロイド=レプリカント"K"の脳内で起きた生成変化だ。彼はピノキオのように「人間になりたい」と願う。物言うコオロギ、ジミー・クリケットの如く、彼の心の旅のお供をするのはホログラフィーAIのジョイ(Joy:歓び)。そこには【人間とは何か?】という一つの問いがある。そして最後に"K"は知る。人になるとは、まず自分ひとりだけの大切な記憶(秘密)を持つこと。そして誰かのために自分の命を投げ打っても構わないと思うこと。誰かに何かを残すこと。……何だか切ないね。ここで流れるのが何と、前作の音楽"Tears in Rain"。これには、してやられた!ピノキオを夢見るアンドロイドと言えばキューブリックの遺志をスピルバーグが継いだ「A.I.」だが、この回帰も偶然ではないだろう。ちなみに「A.I.」の主人公の少年の名はデヴィッドで、リドリー・スコットが監督した「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」に登場するアンドロイドもデヴィッド。これも意図的な所業だ。

「ブレードランナー2049」がロシアのアンドレイ・タルコフスキー監督の映画(具体的には「惑星ソラリス」「ストーカー」「サクリファイス」)を引用していることは沢山の識者が言及していることなので、ここで繰り返さない。代わりに誰も気がついていないことを指摘しておこう。

ホログラフィーAIジョイちゃんはレプリカントの娼婦(セクサロイド)マリエッティを雇い、同期する(Kと性交するために)。二人の女が立体的に重なる。これは完璧にイングマール・ベルイマン監督「仮面/ペルソナ」へのオマージュである。「仮面/ペルソナ」で二人の女は顔の右半分と左半分がくっついて合体するのだが、21世紀的手法を用いているのが本作のミソ(2D→3Dへ)。因みにヴィルヌーヴは「複製された男」でも「仮面/ペルソナ」を引用している(蜘蛛=世界を支配し、絡め取る者)。

あと2回目の鑑賞(TOHOシネマズ2D、1回目はIMAX 3D)でアッと想った。本作でハリソン・フォードは映画の終盤でしか登場しないのだが、これって「地獄の黙示録」のカーツ大佐みたいだね。主人公が暗殺の密命を帯びているのも共通している。そこで調べてみると案の定、ヴィルヌーヴ監督が「灼熱の魂」で、彼のお気に入りの「地獄の黙示録」オープニング・シーンを意識したというインタビュー記事を発見した→こちら!しかもハリソン・フォードは「地獄の黙示録」に出演している。あとジョイちゃんの巨大広告の場面はやはりコッポラが監督した「ワン・フロム・ザ・ハート」のナスターシャ・キンスキーね。公開年が初代「ブレラン」と同じ82年で、ラスベガスが舞台になっているのも一致する。

レイチェルとは旧約聖書に登場するラケル(Rachel)の英語読みである。前作ではあまり関係なかったのに、本作では旧約聖書の物語が重要な意味を帯びてくる。また新しい王(イエス・キリスト)がエルサレムに生まれたと聞き怯えたユダヤのヘロデ王が2歳以下の男児を皆殺しにするよう命じた新約聖書の物語も絡んでくる。こうして「ブレードランナー2049」は神話になった。

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女神の見えざる手

評価:A+

Misssloane

映画公式サイトはこちら。原題"Miss Sloane"とはヒロインの名前である。

むっちゃくちゃ面白い!大興奮した。僕が知る限り、アメリカのロビイストを主人公にした映画は本作が初ではないだろうか?ジェシカ・チャステインがお洒落で、超格好いい!!姐さん、地獄の果てまででもお供しますぜ。彼女が本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされなかった事実が全く信じられない。ジェシカ、来年はきっと取れるよ("Molly's Game")。

「恋におちたシェイクスピア」(1998)のジョン・マッデン監督がテンポよく、卓越した仕事をした。「恋におちたシェイクスピア」がアカデミー作品賞を受賞したのは、今や評判が地に落ちハリウッドから追放されたプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインがアカデミー会員を買収したからだと巷では公然と噂されているが、そんなことはないと僕は信じてるよ。貴男には才能がある。でも同作でグィネス・パルトロウがアカデミー主演女優賞に輝いたのは100%間違いなく裏で積まれたワインスタイン・マネーのお陰だろう。だって彼女、演技らしい演技してないもん。

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カティア・ブニアティシヴィリ登場!広島交響楽団定期

11月15日ザ・シンフォニーホールへ。

フィンランドの指揮者ハンヌ・リントゥと広島交響楽団で、

  • ストラヴィンスキー:葬送の歌
  • チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲

ピアノ独奏はジョージア(昔はグルジアと呼ばれていた)生まれのセクシー・ダイナマイト、カティア・ブニアティシヴィリである。

Hiro

1909年に初演後、ロシア革命などによる混乱のため楽譜が行方不明になっていたストラヴィンスキー「葬送の歌」は2015年にたまたま発見され、16年12月にゲルギエフ指揮により100年以上の時を経て蘇演された。これを日本のオケが演奏するのは今回初だそう。バレエ音楽「火の鳥」の”子守歌”を彷彿とさせるような曲調だった。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は超有名曲だが、意外にも生で聴く機会は少ない。調べてみたら僕は何と6年ぶりだった。

ブニたん(「ブニ子」と呼ぶ人もいる)は人魚仕様の赤いドレスで登場。指が鍵盤の上で、活きのよい魚のように弾ける。大胆でありながら、同時にしっかりコントロールされた、「飼いならされた激情」を発散する。有名な序奏部を経て、気忙しい第1主題はまるで民族舞踏のよう。展開部に至ると軽やかなギャロップとなる。第2楽章は繊細。第3楽章ロンドはすばしっこいネズミを想起させる。リントゥの指揮はキレッキレだった。

広響のコンサートマスターは以前、大阪フィル第2ヴァイオリン首席奏者だった佐久間聡一(35)。コンチェルトの後、ブニたんとちゃっかり抱擁(hug)している彼を見て「役得だな!」と感心することしきり。他の楽員たちがニヤニヤしているのが可笑しかった。

ソリストのアンコールは、

  • ドビュッシー:月の光
  • リスト:メフィスト・ワルツ第1番「村の居酒屋での踊り」

「月の光」は音と音の間隙に多くを語らせる、間の力能があった。

バルトークのオケコンは曲の冒頭にコントラバスが奏でる音のうねりが大地の唸り声のようで、ニーチェが言うところの「デュオニソス的」だなと感じた。あくまで根を張るように低く水平に広がる世界。故にハルサイ(ストラヴィンスキー「春の祭典」)に繋がっている。それに対してラヴェルやプーランク、メシアンなど20世紀フランスの作曲家たちは「アポロ的」と言えるだろう。垂直に上昇して蒼穹(メシアンの場合は神)を目指す。ここでのリントゥは楽句(フレーズ)ごとの性格の描き分けが巧みだった。おぬし、なかなかやるな。

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エリシュカさん、さようなら。〜大フィル定期

10月19日(木)フェスティバルホールへ。

チェコの巨匠ラドミル・エリシュカの指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団・合唱団で、オール・ドヴォルザーク・プログラムを聴く。

  • 伝説曲 より第1〜4曲
  • テ・デウム(独唱:木下美穂子、青山 貴)
  • 交響曲 第6番

エリシュカは現在86歳。高齢であり、ドクター・ストップがかかり今回が最後の来日となった。チケットを購入するのにも躊躇があった。果たして彼は本当に日本に来れるのだろうか?体調不良でキャンセルになりはしないか?例えば過去にもゲルハルト・ボッセが振る筈だった大フィル定演(2012年1月)が急病により代演となった(ボッセは2月1日に死去)。

どうするか迷いに迷った。しかしここで、僕が生涯のベストワンとして愛して止まない映画「はるか、ノスタルジィ」ではるか(石田ひかり)が言う台詞「愛していると言わないで後悔するより、言って後悔した方がいい」を想い出した。「買わずに後悔するより、買って後悔した方がいい」そこに真理がある。決意は固まった。そして僕は賭けに勝った。

「伝説曲」は温かい空気に包まれ、音楽は膨張と収縮をゆったりと繰り返し、自然の息吹が感じられた。

「テ・デウム」は朗らか。ズッシリとした低音が全体をしっかりと支え、安定感があった。

後半のシンフォニーはふっくらとパン粉が膨らむイメージ。ボヘミアの自然の力強さと、同時に厳しさがある。第2楽章は一音一音を慈しむように奏でられる。第3楽章は野性の雄叫び。指揮者の肉食系の気質が剥き出しになる。喰らいついたら離さない。

終楽章でホールは祝祭空間となり、音楽は生を謳歌する。万感胸に迫る究極の名演であった。ありがとう、エリシュカ!

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エタニティ 永遠の花たちへ

評価:A

フランス=ベルギー合作映画。原題はÉternité。公式サイトはこちら

Postereternity

トラン・アン・ユン監督(1962- )はベトナム生まれだが、12歳のときベトナム戦争を回避して家族でフランスの移住した。そういう意味で長崎に生まれ、5歳でイギリスに渡ったカズオ・イシグロに境遇が似ている。

アカデミー外国語映画賞にノミネートされたデビュー作「青いパパイヤの香り」(1993)は1951年のサイゴン(現ベトナムのホーチミン市)を舞台にしているが、全編がフランスで組んだセットで撮られた。そしてこれは庭の映画であった。

「エタニティ」も庭の映画である。物語の大半は室内と庭で展開される。主役のオドレイ・トトゥ(アメリ、ロング・エンゲージメント)は10代から老年期まで演じるが、自宅と教会以外に彼女が外に出ることは一切ない

母→娘→孫へと連なる悠久の時。その中で繰り返される生と死(ニーチェの言う「永劫回帰」)。さらに処女作への回帰。喜びや悲しみを感じる一瞬に永遠(Éternité)はある。

ユン監督の「ノルウェイの森」は余り評判が芳しくなかったが、僕はとっても好きだった。「エタニティ」もそうで、特に欧米での評価は惨憺たるものである(例えばインターネット・ムービー・データベースの評価は10点満点で5.6点。「ノルウェイの森」は6.4点、「青いパパイヤの香り」は7.4点)。多分それは彼らがキリスト教文化であることと無関係ではないだろう(ニーチェはイエス・キリストの教えを否定した)。本作の核(コア)は流転・転生にあり、実にアジア的発想なのだ。

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カズオ・イシグロは日本人?それとも英国人?

今年のノーベル文学賞は、長らく受賞が期待されている村上春樹ではなく、事前に全く取り沙汰されていなかったカズオ・イシグロに白羽の矢が立った。驚天動地、寝耳に水の出来事であった。

僕が彼の名前を初めて知ったのは1994年に劇場で観たアンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン主演のイギリス映画「日の名残り」の原作者としてであった(名作)。その後、「わたしを離さないで」は2006年に日本で出版された年に単行本で読んだ。静謐で哀しく、心に残る小説であった。イシグロがプロデューサーを務めた映画版もすこぶる出来が良かった。

カズオ・イシグロは1954年長崎県長崎市に「石黒一雄」として生まれた。両親は日本人。5歳の時、海洋学者だった父親の仕事の都合でイギリスに移住した。イギリスに帰化するのは28歳である。「日系英国人」受賞に日本のマス・メディアは湧いたが、一方で反日左翼の連中が「彼は歴(れっき)としたイギリス国籍であり、日本人じゃない。はしゃぐな!」と冷や水を浴びせた。

カズオ・イシグロは果たして英国人なのだろうか?それとも日本人か?

僕の答えは「二つの祖国を持つ男」である。もし彼が日本に生まれ育ったならブッカー賞を受賞した「日の名残り」のような小説は絶対に生まれなかったし、逆にイングランド人から「わたしを離さないで」などの小説が生み出されるはずもない。つまり彼の特殊な生い立ちが創造物と密接な関係を帯びているのである。それは日本的なものと英国的なものの複合体結晶である。

例えば同じくノーベル文学賞を受賞したサミュエル・ベケット(「ゴドーを待ちながら」)の場合を考えてみよう。ベケットの国籍はフランスだが、生まれはアイルランド。彼は仏語で作家活動をしたが、同時に自分自身で英語版も執筆した。20世紀演劇の金字塔「ゴドーを待ちながら」は彼が生涯アイルランドに留まっていたとしても、はたまた生粋のフランス人であっても生み出されなかっただろう。やはり両者の複合体結晶と言える。

フレデリック・ショパンといえば誰しもポーランドを思い浮かべる。マズルカやポロネーズはポーランドの民族舞踏音楽だ。しかし彼は20歳の時にポーランドを離れ、二度と祖国の土を踏むことはなかった。その後パリで活躍し、パリで没した。さらに彼の父はフランス人である。ならば彼の作品はフランス音楽なのだろうか?ナンセンス、馬鹿げている。

交響曲 ニ短調で有名なセザール・フランクはベルギーで生まれ、フランスで活躍した。彼の音楽は「フランス音楽」とも「ベルギー音楽」とも明快な判別が不能である。またフランス印象派の作曲家モーリス・ラヴェルの音楽にスペインの色彩が色濃いのも(スペイン狂詩曲、道化師の朝の歌、オペラ「スペインの時」)、彼がスペインとの国境近くのバスク地方に生まれ、母がバスク人だったことと無関係ではない。

彼らのことを「フランス人」と一方的に決めつけるべきではなく、Cosmopolite / Cosmopolitan(国際人)と呼ぶべきだろう。それはカズオ・イシグロにも当てはまることだ。

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アリーナ・イブラギモヴァ✕セドリック・ティベルギアン@兵庫芸文

10月14日(土)兵庫県立芸術文化センターへ。

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アリーナ・イブラギモヴァ(ヴァイオリン)、セドリック・ティベルギアン(ピアノ)で、

  • モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ 第35番 K.379
  • シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲
  • ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第9番「クロイツェル」
  • シューベルト:挨拶を贈ろう D741(アンコール)

アリーナはモダン楽器だけではなく、J.S.バッハなどバロック音楽を弾く時はガット弦を張ったピリオド楽器も使いこなす。ふくよかな音でありながら、同時に凛として張り詰めた線も描くことが出来る。

シューベルトは夢見るよう。繊細で、玻璃のように壊れやすい世界を構築する。

そして火を噴くクロイツェル・ソナタ!ノン・ヴィブラートによる重音はJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ(特にシャコンヌ)を彷彿とさせる。僕は素早いネズミと猫の追いかけっこを連想した。捉えた獲物は離さないぞっ!

アンコールはシューベルト「幻想曲」中盤に登場する《主題と変奏》の元になった歌曲が演奏された。

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アンサンブル・ウィーン=ベルリン@いずみホール

10月6日(金)いずみホールへ。アンサンブル・ウィーン=ベルリンを聴く。

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  • フルート:カール=ハインツ・シュッツ(ウィーン・フィル)
  • オーボエ:ジョナサン・ケリー(ベルリン・フィル)
  • クラリネット:アンドレアス・オッテンザマー(ベルリン・フィル)
  • ファゴット:リヒャルト・ガラー(ウィーン交響楽団)
  • ホルン:シュテファン・ドール(ベルリン・フィル)

彼らの演奏を2015年に同ホールで聴いた感想はこちら

今回の曲目は、

  • ツェムリンスキー:ユモレスク
  • ヒンデミット:小室内音楽
  • リゲティ:6つのバガテル
  • ロータ:ささやかな音楽の捧げ物
  • ブリッチャルディ:「セビリアの理髪師」による幻想的なポプリ
  • レスピーギ:木管五重奏曲
  • ベリオ:オーパス・ナンバー・Zoo(作品番号獣番)
    *奏者によるナレーション付き
  • ドビュッシー:ゴリウォーグのケークウォーク(アンコール)

ツェムリンスキーは可愛らしい曲。

バルトークは土の匂い。

ヒンデミットは無機質で機械仕掛けのヒヤッとした質感。

リゲティの音楽は「2001年宇宙の旅」でも使用され、全般的に【これぞ現代音楽!】という雰囲気だが、「6つのバガテル」は意外にもハンガリーの民族色豊かだった。

映画「ゴッドファーザー」や「太陽がいっぱい」「道」で有名なニーノ・ロータの純音楽は戯けた道化。

レスピーギからはイタリアの明るい陽光と豊かな色彩が感じられた。

僕は普段、沢山の高校生による吹奏楽演奏を聴いているが、コンクール全国大会金賞校の演奏は「たしかに上手いんだけれど、音が硬い」という印象を拭えない。その点、アンサンブル・ウィーン=ベルリンのそれは柔らかく、まろやか。前者を楷書とすると、後者は草書。プロの味を堪能した。

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藤岡幸夫✕松田華音:グリーグとシベリウスの世界〜関西フィル定期

10月19日(木)ザ・シンフォニーホールへ。

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藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

  • 大島ミチル:《Sama》空から、そして空へ 世界初演
  • グリーグ:ピアノ協奏曲
  • シベリウス:交響曲 第5番

独奏は日本人ピアニストとして初めて名門レーベル・グラモフォンからデビューした松田華音。彼女は6歳の時にモスクワに渡り、以来そこで研鑽を積んでいる。

大島ミチルは長崎県出身、フランス在住。「失楽園」、平成「ゴジラ」シリーズ、「阿修羅のごとく」「明日の記憶」など映画音楽の作曲家として知られている。Samaとはアラビア語で「空」の意味。イラク出身の少女が「イラクに住んでいた時は戦闘機が飛び爆弾が落ちてくるので空を見上げることができなかった」と書いているのを読み、霊感を得たという。

3楽章構成で第1楽章「空から」は金管が叫び声を上げる。激しく打ち鳴らされるティンパニ。何処かで聴いたことがある雰囲気の曲だなと想っていたが、途中で気が付いた。レナード・バーンスタインが映画「波止場」(エリア・カザン監督)のために書いた音楽だ(特にティンパニの連打)。全体として悪くはないが、もう一度聴きたいとは想わないな。

松田華音がグリーグを弾くのはこれが初めてだそう。力強くダイナミック、完璧なテクニック。

シベリウスが日記に書いた16羽の白鳥(銀色のリボン)との邂逅については既に下記事に引用したのでここでは繰り返さない。

藤岡/関西フィルの《シベリウス・ツィクルス》は毎年聴いてきたが、今回も世界最高レベルの演奏に魅了された。やはり藤岡が故・渡邉暁雄(母がフィンランド人でシベリウスを得意とした)の薫陶を受けたことは大きいのだが、それだけではなく、このコンビにはジョン・バルビローリ/ハレ管弦楽団からの流れを汲む側面も毎回強く感じる。ハレ管も関西フィル同様、一地方オケ(マンチェスターに本拠地を置く)だし、藤岡は英国で学び、ハレ管にもしばしば客演している。故にバルビローリの”気配”が間違いなく音楽に漂っているのだ。

交響曲第5番は4楽章構成で1915年に初演された。その後も推敲を重ね、19年に第3稿改訂版が完成した。第3稿では第1,2楽章を融合し、3楽章構成に変更されている。初稿版はヴァンスカ/ラハティ交響楽団がBISにレコーディングしており、僕もCDを所有している。こちらのバージョンも決して悪くない。

さて第1楽章は清冽で、音楽はのびやかに滔々と流れる。(初稿の第2楽章に当たる)後半はリズミカルになり、推進力をグングン増す。

朴訥な第2楽章を聴きながら、低弦が第3楽章に登場する【白鳥の動機】を密やかに予告していることに今回初めて気が付いた!!

そしてフィンランドの森と湖が眼前に広がる第3楽章は躍動し、生の歓びに満ちていた。感無量である。

今後、藤岡/関西フィルで是非聴きたい曲を最後にリクエストしておく。

  • シベリウス:クレルヴォ交響曲
  • シベリウス:レンミンカイネン組曲
  • シベリウス:交響詩「タピオラ」
  • エルガー:(弦楽四重奏を伴う弦楽合奏のための)「序奏とアレグロ」
  • ディーリアス:幻想曲「夏の庭で」「夏の歌」
  • ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」
          (演奏会形式/全曲)

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