2017年9月22日 (金)

宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

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映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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2017年9月20日 (水)

夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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2017年9月19日 (火)

ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」のすゝめ

本といえば今まで小説ばかり読んで生きてきた。哲学なんて難解なものは歯が立たない、僕には無縁だと思い込んでいた。ところがある日不意に、転機が訪れた。

ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読もうと決心した切っ掛けは2016年に公開された一本のドキュメンタリー映画だった。

本作は大阪を流れる淀川から道頓堀川に下る船の上で、第1回ドラフト会議で指名されNMBに入った須藤凛々花がニーチェを朗読するシュールな場面から始まる。

須藤といえばつい先日のAKB48総選挙で結婚宣言をぶちかまし、世間を騒然とさせた元メンバーである(既に卒業)。「人生を危険にさらせ!」という哲学本も出版しており、表題はニーチェの著書「悦ばしき知識(楽しい学問)」から採られている。たかだか19歳の小娘がニーチェを理解出来るのだから、僕に読めない筈はないと対抗心が沸々と湧いたのである。因みに秋元康は須藤のために、「ニーチェ先輩」という歌を書いた。その歌詞に《その深淵 覗いたとき 深淵もこちらをのぞいてる》とあるが、これはニーチェ「善悪の彼岸」からの引用である。

ニーチェ(18441900)の著書を実際手にとってみて驚いた。スラスラ読めるのである。難解なところが少しもない。硬い哲学書だという雰囲気が皆無のだ。これなら高校生でも大丈夫。「悦ばしき知識(楽しい学問)」にしろ「善悪の彼岸」にしろ、アフォリズム集になっているので実に読み易い。アフォリズム (Aphorism)の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス「アフォリズム」より)。

「ツァラトゥストラ」は光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳が読み易かった。なお、竹田青嗣「ニーチェ入門」(ちくま新書)と村井則夫「ニーチェ ーツァラトゥストラの謎」(中公新書)がガイドとしてたいへん役に立ったことを付記しておく。

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またフロイトやユングの打ち立てた深層心理学が、ニーチェから出発していることがよく分かった。意識↔無意識の関係や、コンステレーション(布置)についても先にニーチェが語っている。コンステレーションとは一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係もないように見えても、ある時それらが一つのまとまりとして重要な意味を成してくること。めぐり合わせ。

以来、心理学と哲学の関係は深い。20世紀フランスのミシェル・フーコー(1926〜84)は当初、心理学を学び、精神病院に努めていた時に患者がロボトミー手術を受けて廃人同様になったことに衝撃を受け、哲学者に転向した。

またやはりフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925~95)は精神科医フェリックス・ガタリ(1930~92)と組んで「アンチ・オイディプス」を書いた。これはフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスに反旗を翻す本である。ガタリとの共著は6冊に及んだ。なおドゥルーズはフロイトに対して否定的だが、フロイトと袂を分かったユングのことは高く評価している。

ドゥルーズは【哲学とは新しい概念を創造すること】だと定義したが、ニーチェが打ち出した概念の代表的なものは「アポロン的/デュオニソス的」「ルサンチマン」「神は死んだ」「力への意志」「超人」「永劫回帰」がある。

関連記事(上記ニーチェの概念について詳しく解説した)

ニーチェはpositive thinkingの人だ。常に前向きで未来に目を向け、ニヒリズム(この世は虚しいという考え方)を全力で否定する。そしてからだが大事と説き、ダンスして鳥のように飛べ!と活を入れる。そして最後は「笑うライオン」になれと言う。読んでいて元気が出るし、勇気が湧く。

ただ彼が女性蔑視の考えを持っていたことは否定出来ない。まぁ女性に参政権がなかった19世紀半ばの人だし、生涯を独身で過ごしたモテない男なので(ルー・ザロメに求婚するも振られている)、大目に見てあげてくださいな。

なお彼は1889年(44歳)に発狂するが、原因は梅毒 第4期(脳梅毒・神経梅毒)だった。これは作曲家のシューマンやスメタナと同じ病である。シューベルトも梅毒だったが、死因は水銀治療による中毒である。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は後世の芸術に多大な影響を与えた。リヒャルト・シュトラウスは同名の交響詩を作曲。マーラーは交響曲第3番 第4楽章にツァラの一節を引用し、アルト独唱に歌わせている。そしてこの楽曲はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」の最後、主人公の死の場面で流れた。さらにスタンリー・キューブリック監督の傑作「2001年宇宙の旅」との関わりは言うまでもない。

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映画「三度目の殺人」の哲学的問い

評価:A

Sand

映画公式サイトはこちら

「そして父になる」の是枝裕和が原案・脚本・編集・監督を担当した「三度目の殺人」には哲学的問いがある。ひとつは【人が人を裁くことは可能なのか?(法廷で真実は明かされるのか?)】、もうひとつは【生まれてこなかった方が良かった人間はいるか?】である。僕は後者に対してYes.と答える。アドルフ・ヒトラー、ポル・ポト、ヨシフ・スターリンらがその代表格であろう。しかし反面、ナチス・ドイツは人類に大きな問いを残した。それは【人はどこまで残酷になり得るのか?】ということ。我々は生涯をかけて、この問いを自問し続けなければならない。

真相は最後まで藪の中。そういう意味で本作は「羅生門」形式と言える。面白いのは加害者(役所広司)も被害者も、そして弁護士(福山雅治)も一人娘がいるという設定である。このことから同情や共感、共犯関係が生まれる。弁護士は当初真実には何の興味もなく、依頼人(被告)の減刑しか考えていない。ところが……予想外の展開が観客を待ち構えている。役所広司が怪演。レクター博士並みの不気味さで秀逸だ。広瀬すずのキャスティングもドンピシャ!

本来、検察官(検事)と弁護士は敵対関係にあり、裁判官は中立の立場の筈。しかし三者には阿吽(あ・うん)の呼吸があり、以心伝心で共謀することもあるという皮肉。裁判制度に一石を投じる奥深い映画だ。

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2017年9月17日 (日)

【アフォリズムを創造する】その9「ネット炎上」のメカニズムを読み解く

高校生・大学生らは学校の教室で友達に話すように気軽に「あの娘とヤリたい」とか「今日バイト先でこんな失敗をやらかした」とかtwitterとかフェイスブック、インスタグラムなどSNSに書き込む。

ドストエフスキーの「罪と罰」や島崎藤村の「破戒」でも描かれたように、自己の隠れた欲望や罪の告白は人びとの面前で行われなければならない。それはカトリック教会の懺悔室で行われてきた告解に似ている。告解は逆に、司祭(神父)が信者の心を支配する仕組みでもある。

秘密を自分の胸の内にだけしまっておくことは苦しい。開放し、風通しを良くする必要がある。

社会人もまた、会社の上司にムカついたことや、学校の先生が生徒の悪口をつい漏らしたりもする。ここではSNSがストレス発散の場として機能している。いわばカウンセリングルームでリクライニングチェアにゆったり横たわり、心理療法士/精神科医に語ることの代用品のようなものだ。あるいは居酒屋やバーでの気の置けない仲間との会話、個人的な日記に書き込むような感覚。

不思議な事に彼らはその告白の先に、自分に好意的な善人、信頼出来る相手(Intimate Friends)しかいないという幻想を抱いている。ネット社会が不特定多数の棲む世界に開かれており、悪意に満ちていることを知らない。

しかしネット民(フォロワー)たちは突然、カトリックの司祭に豹変する。自分たちの善悪の基準を押し付け、道徳を説き、お鬼の形相で「悔改めよ!」と迫るのだ。それが炎上(Flaming)である。彼らはSNSの発信者に自己の放棄を求め、死を命じる悪魔的権力となる。ジャンヌ・ダルクを火刑に処すように。彼らの潜在意識には、迷える子羊を導く羊飼いになりたいという、牧人願望がある。言い換えるなら他者の上に立ちたい、王様気分を味わいたいという仮想権力への憧憬(=妄想)だ。

SNSでは自分の幸せを呟くことも許されない。次の記事を読んでみて欲しい。→「マイホーム購入!」という冗談で、ネット民から袋叩きにされてしまった10代のカップル

ネット民は他人の幸福なんか許せない。彼らは血に飢えたオオカミのように生贄贖罪の山羊(scapegoat)を求めている。人は日々、不満や不快を抱えて生きていると無意識のうちにルサンチマン(弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情)を抱く。その標的となりやすいのが芸能人(例えば斉藤由貴)であり、政治家(今井絵理子)だ。特に不倫は絶対に許せない。「あいつだけ美味しい思いをしやがって!」という嫉妬心を沸々と滾らせるのだ。

芸能人が謝罪会見を開いたり、政治家が辞職することでネット民たちの昏(くら)い欲望は満たされ、彼らは甘い快感に浸ることが出来る。つまり王様気分だ。

芸能人にとってイメージは大切であり、ある程度倫理(アイドルの場合は恋愛禁止の掟)を求められるのは致し方ない。CMに出演している場合、購買者に悪い印象を持たれては商品(アイドルの場合はCD=握手券)が売れなくなってしまう。しかし政治能力と道徳は別だろう。ジョン・F・ケネディはマリリン・モンローと不倫の関係にあったが、今更そのことをとやかく言う者はいない。ケネディは大統領として立派な仕事をした。それで十分だ。

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2017年9月15日 (金)

紛れもないクリストファー・ノーランの最高傑作「ダンケルク」@IMAX®次世代レーザーとヒッチコックの「鳥」

天才クリストファー・ノーラン監督最新作「ダンケルク」を大阪エキスポシティのIMAX®次世代レーザーで鑑賞。そもそも本作はIMAXカメラで撮影されており、撮影されたままの画角で観ることが出来る施設は日本で唯一ここだけ(詳しい説明はこちら)。縦横比が1:1.43。これが通常の映画館だと上下約40%がトリミング(カット)されてしまうのだ。

Dunk

評価:AA ←因みに当ブログ最高評価はAAAで、直近ではこれとかこれAAA

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公式サイトはこちら

大画面と音響の迫力が凄まじかった。正に戦場の真っ只中に放り込まれた印象。「観る」というよりは「体感する」映画である。あと冒頭から最後まで秒単位でリズムを刻み続けるハンス・ジマーの音楽が最高!未知の体験である。緊迫した場面では早まり、またもとに戻り、これは「鼓動」だね。

クリストファー・ノーランといえば凝りに凝ったシナリオで有名である。初期の「メメント」(2000)は10分しか記憶を保てなくなった男を主人公に時系列が逆向きに進行していく。「インセプション」(2010)はユング心理学に基づき無意識(夢)が4層に分けられ、登場人物たちが各層に潜ってゆく(最下層がlimbo=虚無)。

「ダンケルク」は3つのパートに別れている。

  1. The Mole - one week
  2. The Sea - one day
  3. The Air - one hour

つまり①防波堤から英国に脱出しようとする兵士たちの1週間 ②彼らを救出しようとイギリスの港から駆け付ける船舶の1日 ③スピットファイア戦闘機に乗り込んだパイロットの1時間 ーこの3つの異なる時間軸をクロスカッティングし(ショットとショットを交互に繋ぎ)、最後の最後に1点に集約するという離れ業を成し遂げている。

ノーランは本作を製作するにあたり、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の「恐怖の報酬」やヒッチコック監督作品など、サスペンス映画の演出を研究したと告白している。特に強い影響を与えたのではないかと僕が感じたのはヒッチコックの「鳥」だ。

「ダンケルク」は一切、ドイツ兵の顔を見せない。状況を説明する冒頭のスーパーインポーズでもドイツ軍ではなく、The enemyと書く徹底ぶり。

つまり本作は単なる戦争映画ではなく、ある日突然我々が襲われるかも知れない災厄を描いているとも解釈可能である。それは地震・台風・津波などの自然災害かも知れないし、原発事故もあり得る。だからはっきりした理由もなく不意に人間を攻撃してくる「鳥」に極めてよく似ているのだ。ヒッチコックの「鳥」は1963年の作品。米ソ冷戦時代であり、その前年にアメリカはキューバ危機を経験している。つまり鳥の攻撃=核戦争の恐怖のメタファーと言える。人々はただ、逃げ惑うしかない。

鳥→ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットへの変換。ノーランの戦略は実にしたたかだ。戦争映画というジャンルは、「ダンケルク」の登場で間違いなくアップデートされた。この世紀の傑作をゆめゆめ見逃すことなかれ。

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2017年9月14日 (木)

【アフォリズムを創造する】その8「立証責任について」

「神は存在する」「神はいない」どちらに立証責任があるだろう?地球上を全て探しても神は見つからなかった。でも宇宙の何処かにはいるかも知れない。宇宙は果てしない。隈なく調べ尽くすことは不可能だ。だから不在の証明は出来ない。故に立証責任は常に「いる(存在する)」と主張する側だけにある。

これは「悪魔の証明」とも言われる。「ツチノコはいるか?」「宇宙人(地球外生命体)は存在するか?」などの議論も同様である。

次のように説く者がいるかもしれない。「瑠璃色の地球があること自体が奇跡です。そして我々人間が存在することも奇跡。だから創造主(神)は必ずいるのです」しかしこうも考えられないだろうか?「地球が誕生したのはたまたま偶然の積み重ね。進化の過程で人間が生き残ったのも自然淘汰でたまたま選別された結果」つまり人間が特別である、奇跡だという主張は詭弁であり、証明出来ない。

「神の存在」は絶対不変の真理ではない。それは概念 consept(思考によって捉えたものの表象、イメージ)だ。宗教とは概念の創造、つまり思想である。

ここで日韓合意後も、韓国がしつこく日本を誹謗中傷するいわゆる「従軍慰安婦」問題と、中国が主張する「南京大虐殺」について考察してみよう。今まで述べてきたようにそういう事実が「あった」と主張する側と「なかった」と主張する側のどちらに立証責任があるかは明白である。日本はただ、静観していればいい。何故なら無かったことは証明出来ないのだから。

いわゆる「従軍慰安婦」問題で最初に認識しておかなければならないのは、争点が第二次世界大戦当時の日本軍に慰安所があったかどうかではないことである。「慰安所はあった」「そこに働いている朝鮮人の女性たちがいた」ことは紛れもない事実。これは双方が認めており、問題にはならない。なぜなら1950年に勃発した朝鮮戦争の時にアメリカ軍にも韓国軍にも慰安所はあったからである。それは1970年の映画「MASH マッシュ」でも描かれている。つまり朝鮮人の女性(当時韓国は存在しなかった)が日本軍によって強制的に連行された事実はあるのか?という一点のみが争点となる。果たして韓国側は立証出来るのだろうか?そういうことを指示した軍の指令書は現時点で発見されていない。元慰安婦の証言も一切証拠にはならない。《ある日家にいたら女衒(ぜげん:人身売買の仲介業者)が突然現れて無理やり連れて行かれた》←これは江戸時代に遊郭に身を沈めた日本の女性たちにも起こった出来事である。果たして彼女の両親は女衒から金を受け取っていなかったのだろうか?貧しさゆえに業者と合意の上で「娘を売った」と、本人には言えない場合も当然あるだろう。そりゃ良心が咎めるだろうし、当人を責めることは出来ない。真相は藪の中だ。

次に南京大虐殺(1937)について。南京に民間人の死体が沢山転がっていた。これは事実だろう。しかしそれだけでは戦争犯罪にならない。日本人も非戦闘員が東京や大阪の大空襲、広島・長崎の原爆投下で多数犠牲になった。このことで誰かが罪に問われたことは未だ嘗てない。つまり争点は日本軍が(アウシュビッツでナチス・ドイツがしたみたいに)意図的に非戦闘員を処刑した事実はあるのか?という一点に絞られる。それが事実ならば軍の指令書がある筈だ。軍隊は縦社会だから、もし上からの命令がなく一兵卒の判断でそれが実行されたのであれば、軍法会議に掛けられた筈。その記録はあるのか?ここで問題となるのは便衣兵の存在である。一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。これは国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけられ処刑される。当時中国には便衣兵が多数いた。彼らを日本軍が処刑しても何ら問題はない。しかし、事情を知らない欧米人(ジョン・ラーベら)から見たら、日本人が中国の民間人を虐殺しているように映ったかも知れない。こちらも事実関係は藪の中だ。果たして中国政府は日本軍の戦争犯罪を立証出来るのだろうか?

最後に誤解が無いよう補足しておく。僕は第二次世界大戦において日本が正しく、日本軍は一切悪いことをしなかったなどとは一言も述べていない。当然悪いこともしただろう。しかしそれは蒋介石率いる中華民国軍も、毛沢東率いる中華人民解放軍も、日本に原爆(大量破壊兵器)を落とした連合国軍も同じ穴の狢である。お互いさま、恨みっこなしだ。

戦争において絶対的正義の側(善)と絶対的悪の側など存在しない。過去に拘泥し、恨みを抱いて相手側の罪を糾弾し続けたり、逆に罪悪感を抱いて卑屈になり繰り返し謝罪しても意味がない。目を未来に向け、不幸な過去を今後2度と繰り返さないようお互いに努力を積み重ねようではないか。否定はなしだ。建設的意見を言おう。

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2017年9月12日 (火)

「ゴドーを待ちながら」@京都造形芸術大学

9月10日(日)京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場 春秋座へ。

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サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」を観劇。

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芝居の前に大学キャンパス内にあるお洒落なカフェ・ヴェルディでランチをいただく。すると隣りに座った女子大生の会話が聞こえてきた。

「先日、古墳を見に行ったの」「私は車で神社に立ち寄った」「(天空の城)竹田城跡にひとりで行ったら、ガイドさんから『エッ、ひとりで来たの!?』と驚かれたわ」

といった内容で、ここは異世界だな!と感じ入った。因みにこの大学は、女優・黒木華(ドラマ「重版出来!」、映画「小さいおうち」、「幕が上がる」、「リップヴァンウィンクルの花嫁」)の出身校でもある。

また芝居の幕間に僕が「ゴドーを待ちながら」の台本を読んでいると、隣りに座った70−80歳代の老夫婦から声をかけられた。

「わたしたち学生時代にこれに出演したんですよ。懐かしくてみんなで観に来ました」

これにも心底驚かされた。

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アイルランドに生まれフランスに渡り、ナチス・ドイツ占領下のパリでレジスタンスに身を投じた経験を持つベケットは1969年にノーベル文学賞を受賞。しかしもし彼が、1952年に出版され翌年パリで初演された「ゴドーを待ちながら」を書いていなかったら、受賞はあり得なかっただろう。20世紀演劇界最大の問題作であり、最高傑作と称賛されている。この一作が世界演劇の流れを変えたとさえ言われる。オリジナルはフランス語だが、作者自身による英語版もあり、一部台詞が異なっている。アメリカ初演は惨憺たるもので、初日に最後まで残っていた観客はテネシー・ウィリアムズほか数名だけだったという。フランス語版は初演のままだが、ベケットは英語版を3回(ベルリン公演で2回+ロンドン公演で1回)改訂している。

今回はベケット作品を演るためにアイルランド・ダブリンで結成された演劇集団マウス・オン・ファイヤが、晩年にベケットが残した演出ノートに基づき上演した。演出はカハル・クイン。配役は、

  • エストラゴン:ドンチャ・クロウリー(アイルランド・コーク出身
  • ウラジーミル:デイビッド・オマーラ(ダブリン出身)
  • ポッツォ:マイケル・ジャッド(ダブリン出身)
  • ラッキー:シャダーン・フェルフェリ(インド出身)
  • 少年:下宮真周

日本語字幕は背景のスクリーンに映し出された。

本作は不条理演劇の代表作とされる。浮浪者ふたりが木の下でゴドーを待っているが、最後まで彼は現れない。Godotという名前にはGodが内包されており、「神の不在」がテーマとなっている。

僕が今回本作をどうしても観たいと想ったのは、映画「桐島、部活やめるってよ」がすこぶる面白かったからだ。

内容は哲学的である。デカルトは「方法論序説」の中で《我思う、故に我あり》と説いたが、ベケットは《いま思っている我(われ)って、誰(だれ)?》とその実存に疑問を投げかける。存在の不確かさ、生きるということへの茫漠とした不安(死への誘惑)。我々は何処から来て、何処へ行くのか?そして記憶の曖昧さ、あてにならなさ。押井守のアニメ「機動警察パトレイバー the Movie」とか「迷宮物件」などはゴドーから多大な影響を受けているように想われる。

登場人物たちは《救済》とか《希望》、《夢の実現》を待ち続けている。でも実際のところ何も起こらない。手持ち無沙汰、宙ぶらりんな状態。人生ってこういう日々の繰り返しなんじゃない?とベケットが語りかけてくるように僕には想われた。

かつて「ゴドーを待ちながら」は何を表現しているのか?と問われたベケットは「共生だよ」と答えたという。エストラゴンとウラジーミルの関係は「友愛(腐れ縁)」であり、途中から登場する金持ちのポッツォとその奴隷・ラッキーは「主従」ー抑圧する者とされる者を表現している。またポッツォが何度もゴドーと間違えられる場面があり、イエス・キリストのイメージが重ねられているとも解釈可能だ。今回の演出でも3人が地面に倒れる場面はポッツォが中央、エストラゴンとウラジーミルがその両脇に配され、全員が両手を真横に伸ばし、足を交差する姿勢をとっていた。つまり十字架にかけられたイエスと2人の悪党を象徴させていたのである。舞台にポツンと立つ柳の木も十字架の形だった。

Yes

ベケット自身、本作が刑務所で上演されるのを支援し、囚人たちがこの劇に描かれた「待つこと」や抑圧、無力に共感する姿を目の当たりにしたという。そしてマウス・オン・ファイヤもアイルランドの幾つかの刑務所で上演している。

芝居がはねた後、大学の教室に場所を移し、ポスト・パフォーマンス・トークが開催された。カハル・クインと、東京大学名誉教授でフランス文学者、そして演出家でもある渡邊守章がパネリストを務めた。

渡邉がフランスに留学したのが1956年。船旅で本来なら30−31日でつく筈が、折り悪く10月29日から第二次中東戦争が勃発、スエズ運河が閉鎖になった。よって航路が迂回されたため、53日かかった。だからその時はベケットどころではなく、結局パリで観ることが出来たのは1960年代後半(68年の五月革命前夜)だったという。

またかつて蜷川幸雄が1994年に銀座セゾン劇場で市原悦子・緑魔子らにより《女相撲版》「ゴドーを待ちながら」を上演したことがあり、後に無許可だったことがバレて版権元から大目玉を食らったそう。生前にベケットは女性が演じることを決して認めなかった。

クインはまず本作がtragicomedy(悲喜劇)であり、悲劇と喜劇のどちらか一方に偏るべきではないという見解を述べた。スラップスティック(どたばたギャグ)という側面もあれば、悲しみとか痛みに浸る場面もある。登場人物たちが喋っている場面は沈没するボートの水を一生懸命掻き出している状況であり、繰り返される間・沈黙は悲劇であったり死を意味している。そして彼はベケットが愛読していたというショーペンハウアー(ドイツの哲学者)の著書「意志と表象としての世界」から次のようなアフォリズムを引用した。

人生は、全体を眺め最も重要な特徴のみを強調するなら正しく悲劇だが、仔細に見れば喜劇的性格を帯びている。

またウラジーミルは月とか柳の木とか上を見る動作が多いので声のトーンが高い役者を起用し、エストドラゴンは足元とか地面を見ることが多く、トーンが低い役者にしたと。さらに第1幕最後は背景の空を赤く、満月を青くして「繰り返し」を示し、第2幕最後は空を青、月を赤くして日食や世界の終末を示唆したそう。

いや〜刺激に満ちた貴重な体験だった。

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漆原朝子のフレンチ・コレクション

9月8日(金)大阪倶楽部へ。

漆原朝子(ヴァイオリン)、鷲宮美幸(ピアノ)で、

  • ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ 遺作
  • フォーレ:ロマンス
  • ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ
  • ショーソン:詩曲
  • サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番
  • マスネ:タイスの瞑想曲 (アンコール)
  • フォーレ:夢のあとに (アンコール)
  • ショパン:夜想曲 第2番 (アンコール)

濃密な音の中に意志の強さが感じられる。ただハーモニクス(倍音)奏法が掠れていて、余り綺麗じゃないなと想った。

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2017年9月11日 (月)

少女ファニーと運命の旅

評価:B+

Funny

映画公式サイトはこちら

フランス/ベルギーの合作。実話である。僕はナチス・ドイツのせいで起こった悲劇に興味があり、結構沢山の映画を観ている方だと想う。最近でも「ふたつの名前を持つ少年」(ドイツ/フランス)、「サウルの息子」(ハンガリー)、「ヒトラーの忘れもの」(デンマーク/ドイツ)などがあった。

ユダヤ人の子どもたちだけでナチス占領下のフランスから国境を超えスイスに逃げようとする物語である。最後はちょっと、ジャン・ルノワール監督の名作「大いなる幻影」(1937)のことを想い出した。「ふたつの名前を持つ少年」「ヒトラーの忘れもの」同様、子どもたちの姿が健気で痛ましい。それはユダヤの子どもたちだけではなく、ドイツの子どもたちも同様。敵味方は関係ない。彼らは皆、戦争の被害者だ。

「戦争は悪だ、二度としてはいけない」と叫ぶのは簡単だ。誰にだって分かっている。しかしそんなお題目ばかり並べても、戦争の抑止力にはならない。全く意味がない。善人面して言った奴が、いい気持ちになるだけのこと。単なる自己満足、愚の骨頂である。

これから求められるのは戦争に至るメカニズムを解明し、それを未然に防ぐ事だろう。つまりナチス・ドイツが生まれた背景は何か?どうして当時のドイツ国民はヒトラーを支持したのか?ということを真剣に探る必要がある。というわけで皆さん、まずは「わが闘争」を読むことから始めましょう。

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