初心者のためのミュージカル映画講座〜「巴里のアメリカ人」から「ラ・ラ・ランド」へ

2017年夏の甲子園で大阪桐蔭高等学校吹奏楽部(指揮:梅田隆司 先生)は野球部の応援歌として「ラ・ラ・ランド」(♪Another Day of Sun♪)を初めて演奏し、世間の話題を攫った。また全日本吹奏楽コンクールの自由曲としてガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」を選択した(結果は銀賞)。全国大会で同曲が演奏されたのは2009年の相馬市立向陽中学校以来8年ぶり。因みに桐蔭を含め過去5回全国大会で取り上げているが、金賞を受賞した団体は未だない。

北米で2016に公開されたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」はアカデミー賞で史上最多の14部門にノミネートされ、監督賞・主演女優賞・撮影賞・美術賞・歌曲賞・作曲賞の6部門を受賞した。監督のデイミアン・チャゼルは32歳、史上最年少の記録となった。

La La LandのLAはハリウッドのあるロサンゼルス(Los Angeles)のことを指し、【あっちの世界/あの世/我を忘れた陶酔境】を意味する。「あの娘はいま、ラ・ラ・ランドにいる」とは、「彼女の心はここにあらずで、空想に耽る不思議ちゃん」と揶揄しているのだ。

映画「ラ・ラ・ランド」の主軸には3つのオマージュがある。

  1. ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演マイケル・カーティス監督の映画「カサブランカ」
  2. 往年のハリウッド製ミュージカル映画、特にヴィンセント・ミネリが監督し、フレッド・アステアやジーン・ケリーが歌い踊ったMGM映画「バンド・ワゴン」&「巴里のアメリカ人」
  3. フランス・ヌーベルヴァーグの映画群、特にジャック・ドゥミ監督「ローラ」「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」=港町三部作

ヒロインのミア(エマ・ストーン)は映画「カサブランカ」に憧れを抱いており、自室に巨大なイングリッド・バーグマンのポスターを貼っている。そしてワーナー・ブラザース撮影所の、「カサブランカ」が撮影されたセットの向かいにあるカフェで働いている。彼女がパリにこだわるのも「カサブランカ」の影響だ("We'll always have Paris."「俺達にはパリの想い出がある」ボギーの台詞)。ここからは僕の解釈だが、「ラ・ラ・ランド」のエピローグ(5年後の冬)でキャメラは彼女の(妄想/ifもしもの世界)の中に入ってゆく。そこで彼女はハリウッドの大女優になっており、棄てたはずのバーグマンのポスターが忽然と街角に現れる。そして彼女は人妻ながら、別に好きな男がいるという「カサブランカ」のヒロイン、イルザ(バーグマン)と同じ役柄を演じる

ちなみに「カサブランカ(Casa Blanca)」とは《白い家》という意味であり、ハリウッドのメタファーとも言える。この映画は第二次世界大戦中の1942年に公開された。アメリカはナチス・ドイツと交戦状態にあり、ユダヤ人を中心にヨーロッパで活躍していた沢山の映画人が亡命し、ハリウッドに身を寄せていた。監督のマイケル・カーティス(1888-1962)はハンガリーの首都ブタペスト出身。彼もユダヤ人であり、ハンガリー名はケルテース・ミハーイ。左翼思想を持ち、長編デビュー作は共産党のプロパガンダ映画であった。しかし1919年にハンガリーにおける共産主義革命が失敗したため、ドイツに亡命し、後に渡米した。つまりカサブランカ=ラ・ラ・ランド=ハリウッドという図式が成り立つのである。

戦争を挟み、1930〜50年代はハリウッドの黄金期であった。大手映画会社にはそれぞれ得意分野があった。例えばドラキュラ、フランケンシュタインなど怪奇映画ならユニバーサル・スタジオといった具合に。そしてミュージカルといえばMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の独壇場であった。偉大なプロデューサー、アーサー・フリードの功績が大きい。フリードは元々作詞家で、作曲家ナシオ・ハーブ・ブラウンと組んでたくさんの名曲を生み出した。ジーン・ケリーが主演した名作「雨に唄えば」(1952)に出てくる歌は、表題曲を含め全てフリード&ブラウンの作品である。そしてフリードはブロードウェイで新進気鋭の演出家として名を馳せていたヴィンセント・ミネリをハリウッドに招聘した。ミネリのハリウッド・デビュー作は「キャビン・イン・ザ・スカイ」(1943)。出演者全員が黒人のミュージカル映画であり、プロデューサーは勿論フリードである(日本でもDVDやAmazon等の動画配信で観ることが出来る)。

当時のMGMが如何に豊穣で、どれくらい数多くミュージカルの名作を生み出していたかは是非、豪華絢爛たるアンソロジー映画「ザッツ・エンタテインメント」DVDをご覧頂きたい。パート3まで製作され、「ラ・ラ・ランド」が引用した場面も沢山収録されている。

That

番外編として「ザッツ・ダンシング!」もお薦め。

Dancing

こちらはMGM映画に限定せず、「赤い靴」(←英国映画)「フラッシュダンス」とか、マイケル・ジャクソンまで登場する。

ヴィンセント・ミネリに話を戻そう。彼は1944年にMGMの看板女優だったジュディ・ガーランド主演で「若草の頃」を撮り、翌45年に彼女と結婚した。ふたりの間に生まれたのがライザ・ミネリである(「キャバレー」でアカデミー主演女優賞受賞)。彼はその後もジュディ主演で「踊る海賊」(1948)を撮っている(相手役はジーン・ケリー)。しかし幸福な生活は長く続かなかった。ジュディは子役時代からMGMで仕事をしていたが、太りやすい体質だったためスタジオは13歳の彼女に痩せ薬としてアンフェタミン(覚醒剤)の内服を指示した。17歳で「オズの魔法使い」(1939)の主役に抜擢された時は既に常用者になっていた。その後多忙を極めた彼女はセコナール(睡眠薬)も併用するようになり、次第に薬物中毒の症状が現れ始める。自殺未遂、繰り返す薬物治療のための入退院、そして撮影所への遅刻や欠勤。結局主演が決まっていた「アニーよ銃をとれ」(1949)からは役を降ろされ、翌50年にMGMは彼女を解雇した。そして同じ年、ミネリとジュディは離婚した。なお余談だがジュディはワーナー・ブラザースの「スタア誕生」(1954)で劇的な再起を果たす。この一場面(♪The Man that Got Away♪ )も「ラ・ラ・ランド」に引用されている。

アーサー・フリード製作、ヴィンセント・ミネリ監督、ジーン・ケリー主演及び振付「巴里のアメリカ人」(1951)はアカデミー賞で作品賞・撮影賞・美術賞・衣装デザイン賞など6部門を制覇した(加えてジーン・ケリーに名誉賞が贈られた)。全編がガーシュウィン兄弟の楽曲に彩られている(劇中でピアノ協奏曲 ヘ調を弾くオスカー・レヴァントはガーシュウィンの親しい友人で、伝記映画「アメリカ交響楽」では本人役で出演)。圧巻なのがジョージ・ガーシュウィン作曲「パリのアメリカ人」をバックに踊られる、18分に及ぶクライマックスのダンス・シーン。MGM映画を代表する究極の名場面であり、「ザッツ・エンタテインメント」第1作の最後を飾った。なお本作は舞台化され2015年にブロードウェイで上演、トニー賞に12部門ノミネートされた。日本では2019年に劇団四季が上演することも決まっている→こちら

20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)はヴィンセント・ミネリについて次のように語っている。

ダンスがイメージに流動的な世界を与えるということだけでなく、イメージの数だけ世界があるということを発見したのは、ミネリであった。(中略)世界の複数性はミネリの第一の発見であり、映画における彼の天文学的な位置はそれに由来している。ではしかし、どのようにして一つの世界から別の世界へと移行するというのか。ここに第二の発見がある。つまりダンスはもはや単なる世界の運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り口、侵入、探検なのである。(中略)色彩は夢であり、それは夢がカラーだからではなく、ミネリにおける色彩が、すべてを吸引するほとんど貪り食うような高い価値を獲得しているからである。したがって、そこに忍び込み、吸い込まれなければならない。(中略)ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである。(中略)ミネリにおいてミュージカルは、かつてないほど記憶の、夢の、時間の謎に近づいた。現実的なものと想像的なものとの識別不可能な点に近づくようにして。それは夢についての奇妙で魅惑的な着想であり、夢はある他者の夢につねにかかわっていればいるからこそ、あるいは傑作『ボヴァリー夫人』におけるように、夢そのものが、人を貪り食う仮借ない力能を、みずからの現実の主体として構成しているからこそ、折り込まれた夢である。
(ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局)

僕はこの度「巴里のアメリカ人」を再見しながら、最後にジーン・ケリーが入って行くのは誰の夢なのかということに思いを馳せた。そして発見した。パリという街がドガやルノワール、ロートレック、ゴッホ、ユトリロら、ここに集まった画家たちに見せた夢の総体なのだと。

これは「ラ・ラ・ランド」に繋がっている。ミアとセブが最後に入っていくのはハリウッド(=ラ・ラ・ランド)という装置(生産工房)が、そこに集まってきた人々に見せる束の間のである。黒服を来たミアはそこに呑み込まれ、脱出不能になる。THE END.

あとドゥルーズも触れていたジェニファー・ジョーンズ主演「ボヴァリー夫人」(1949)も是非一度、ご覧頂きたい。紛うことなきミネリの最高傑作である。特に凄いのは舞踏会と、夫人が若い貴族と駆け落ちしようと深夜に乗合馬車を待っている場面。舞踏会では正に狂気が疾走する。彼女は若い貴公子たちに囲まれた自分の姿を鏡で見てウットリ酔い痴れ、その夢に呑み込まれてしまう。この舞踏会でのカメラワークをチャゼルは「ラ・ラ・ランド」でちゃっかり借用している(セレブ邸のプールにて、♪Someone in the Crowd♪)。

Bovary
↑ジュネス企画から発売されているDVDジャケット。

最後にヌーベルヴァーグについて語ろう。第2次世界大戦で戦場となったヨーロッパは破壊し尽くされた。その廃墟の中から真っ先に起こってきたシネマの運動がイタリアン・リアリズム(ネオレアリズモ)である。ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」'48やロベルト・ロッセリーニ「無防備都市」'45「戦火のかなた」'46がその代表作。ハリウッドで「無防備都市」を観たイングリッド・バーグマンは大感激し、直ちにロッセリーニに手紙を送った。そして彼女は夫や幼い娘を棄て、イタリアに飛んだのである。アメリカ国民は怒り、上院議会も彼女の不倫を激しく非難した(こうしてふたりの間に生まれたイザベラ・ロッセリーニは女優の道を進み、デヴィッド・リンチ監督「ブルーベルベット」や「ワイルド・アット・ハート」に出演することになる)。

やがてネオレアリズモがフランスに飛火し、1950年代後半にヌーヴェルヴァーグ〈新しい波〉が発生した。さらにヌーベルヴァーグに刺激を受けてベトナム戦争最中の1960年代後半にアメリカン・ニューシネマが勃発する。アメリカン・ニューシネマの代表作「俺たちに明日はない」の監督のオファーが最初はヌーベルヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーにあったことは余りにも有名である(トリュフォーは断り、次にジャン=リュック・ゴダールが打診された)。ヌーベルヴァーグ及びアメリカン・ニューシネマとは一体、何だったのか?簡単に言えば従来の映画の常識、既成概念の破壊である。若い映画作家たちは手持ちカメラを携えて撮影所から飛び出し、街頭でロケし始めた。つまりさすらいの映画だった(「イージー・ライダー」がその典型)。編集方法(モンタージュ)も劇的に変わった(ドゥルーズに言わせれば【知覚→情動〘感情〙→行動〘反応〙】という一連の「運動イメージ」の放棄/切断)。

では「ラ・ラ・ランド」とヌーベルヴァーグの関係を見ていこう。まず冒頭、地方からロサンゼルスに集まってきた若者たちが歌う♪Another Day of Sun♪はジャック・ドゥミ監督「ロシュフォールの恋人たち」'67(♪キャラバンの到着♪)への讃歌。楽曲もミシェル・グルランを意識して書いたと作曲家のジャスティン・ハーウィッツがインタビューで明言している。ミアが台本を書いて演じた一人芝居の役名は「シェルブールの雨傘」'64と同じジュヌビエーブ。衣装の色彩も港町三部作を彷彿とさせる。ミアとセブが抱き合ってキスした時にふたりの周囲をカメラがグルグル回る手法はクロード・ルルーシュ監督「男と女」'66。ミアがオーディションで叔母さんのエピソード@パリを語るが(真っ赤な嘘/FAKE)、これはフランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく'62でジャンヌ・モロー演じるヒロインがとった行動(橋からセーヌ川に飛び込む)の引用である。またこのオーディション・シーンの演出・カメラワークはアニエス・ヴァルダ(ドゥミ夫人)監督「5時から7時までのクレオ」'62とそっくりに仕上げられている(ミシェル・ルグランが役者として現れ、主人公が歌うピアノ伴奏を務める場面)。さらにクライマックスのダンス・シーン(=)ではアルベール・ラモリス監督「赤い風船」'56の少年がマネキン姿で登場する。あとピアノを弾くセブと踊るミアを交互に、カメラが高速でパン(Pan,水平方向に首を振る撮影法)するのもヌーヴェルヴァーグの特徴である。

ヴィンセント・ミネリの後継者デイミアン・チャゼル。次の作品ではどのような夢の力能を我々に見せてくれるのだろうか?とても愉しみである。

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【アフォリズムを創造する】その11「偶然の宇宙・偶然の哲学」

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教は「人間は何らかの目的があって、神によつて創造された」と考える。そしてこの世界(宇宙全体)も創造物であり、唯一のデザイナー(設計者)がいるというわけだ。

この理論に対抗する哲学とはどのようなものだろうか?

英国の哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711-76)は「我々の精神に現れる全てのものは知覚(perception)である」「知覚は、印象(impressions)と観念(ideas)に区別される」「あらゆる観念は、印象に起源をもつ(観念は、記憶や想像によって印象が再現される時に現れる)」という前提に立ち、必然的な因果関係客観的真理の存在を否定した。従来哲学で語られてきた真理とは人間の経験に基づく因果関係のことであり、主観的である。人間は、物事に法則を考える傾向が強い。「ある事柄Aの後には、必ずある事柄Bが起こる」つまり「地球誕生以来、太陽は毎朝昇って来た(経験に基づく印象)。だから明日も、そして未来永劫、太陽は昇るだろう(観念/推測)」という主張。しかしヒュームは「今日までそれが正しかったからといって、明日もそうなるとは限らない(太陽は燃え尽きてしまうかもしれない)」と考えるのである。「神が存在するから今日の我々(知的生命体)がある」という主張も因果論だ。ヒュームは因果の接続を解除する、切断の哲学を説く。

フランスの哲学者クァンタン(カンタン)・メイヤスー(1967-  )は2006年に出版された著書「有限性の後で」の中で、この世界は、まったくの偶然で成り立っており、或るとき突然、絶対の偶然性で、何の理由もなく、別様の世界に変化しうると説く。つまり彼は因果論を否定し、ヒュームの主張を肯定する。

多元宇宙論マルチバース)という考え方がある。複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学のひとつである。この説は私たちの宇宙誕生が必然なのか、偶然なのかという哲学的な問いに迫ろうとしている。つまり宇宙は無数に存在し(総数10500以上と試算される)、たまたま銀河や太陽系、地球が生まれ得る環境に成長した宇宙に、たまたま生命が生まれ、人にまで進化出来たというわけだ。ビッグバンの時に条件が違えば、灼熱の宇宙だったり、何もない虚無の空間が広がっているだけかも知れない。そんな(我々から見れば)失敗作??が多数ある。宇宙はその誕生以来、膨張を続けている(永久インフレーション)という理論や、大阪大学・橋本幸士教授らが研究している超ひも理論超弦理論)はマルチバースの可能性を示唆している。

Multi

私たちがいるこの宇宙は生命が誕生する条件を満たし、都合良く出来すぎている。どうしてこのような奇跡が起こるのか?それは他の無数にある失敗した宇宙には生命が生まれず、思惟出来ないからだ。単純なことだ。喩え話をしよう。

オリンピックで金メダルを獲った陸上選手がこう考えたとする。「努力は必ず報われる」……これは彼(彼女)にとって100%正しい。しかし世界を見渡せば、一生懸命努力を重ねたけれどオリンピックの代表にすら選ばれなかった選手が無数に、少なく見積もっても数千万人はいる(日本陸上競技連盟の登録者数に限っても40万人に達する)。つまり99.999...%の人にとって「努力は必ず報われる」は真実でないのである。多元宇宙論(マルチバース)に従うなら、私たちが地球の美しさや生命の奇跡について思惟するのは、この金メダリストと同じ立場においてなのである。あるいはジャンボジェット(ボーイング747)の墜落事故で、1人だけ生存者がいたと仮定しよう。彼にとって助かったことは奇跡であり、神の思し召しのように感じられるだろう。では他の死者たちにとってはどうか?そもそも死んでいるのだから、彼らには「神の意志」が作用したかどうかすら思考出来ないのである。このように立つ位置(観測する地点)によって、そこに見える因果関係主観的真理は異なるのである。アインシュタインが導き出した「相対性理論」によると、光の速度に近い超高速で進む宇宙船の中の乗組員が体験する「1秒」は、宇宙船の外から止まって眺めている人にとっては、1秒よりも長くなる。正に浦島効果(解説はこちら)が起こるのである!

ダーウィンの進化論も偶然の宇宙と根っ子が同じである。進化は遺伝子の突然変異で誘発される。突然変異は全くの偶然で起こる。その後に、自然淘汰により環境に適した種(遺伝子)は残り、そうでないものは滅ぶというわけだ。

パスカルの賭け」をご存知だろうか?フランスの哲学者パスカル(1623-62)が提唱したもので、「理性によって神の実在を決定出来ないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生の意味が増す」という主張である。僕は「パスカルの賭け」に対して、真っ向から異議を唱える!

例えば自分の家族が難病で亡くなったとしよう。あるいは交通事故で脊髄損傷を起こし、首から下が麻痺したという場合も想定される。もし貴方が神を信じていた場合、どう考えるか。「全ては神の思し召し」と納得出来るだろうか?大概の人は「どうして神は私にこんな試練をお与えになるのか?」(旧約聖書「ヨブ記」)と疑問や怒りを感じ、「神よ、どうして貴方は沈黙されるのですか?」(遠藤周作「沈黙」)と嘆くのではないだろうか。では全てが偶然と考えた場合はどうか?「難病になったのはたまたま」「交通事故に遭遇したのは単なる偶然、運が悪かった」その方が諦めが付くのではないだろうか。つまり偶然の哲学諦念の哲学と言い換えることも出来るだろう。

生きるとは賭けることである。それは偶然(運命のいたずら)に作用される。しかし、だからといって「人生なんてこんなものだ」とニヒリズムに陥るのは間違いだ。勉強しなければ名門校に合格出来ないし、日々練習を積み重ねなければオリンピックで金メダルを獲ることは不可能だ。つまり、力への意志(by ニーチェ)を持ち生成変化(by ドゥルーズ)することで、勝率を上げることが出来る。最初から勝負を捨てるな、積極的に挑め!

偶然の宇宙偶然の哲学」がもしも正しかったら、唯一の神は存在しないということになる。人類は数千年に渡る根源的な問いの答えを間もなく手に入れるだろう。

ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、彼が否定したのはユダヤ教、キリスト教など一神教であって、多神教ではない。ここを勘違いしてはいけない。ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中でデュオニソス的アポロン的という概念を打ち立てた。デュオニソスとアポロンはギリシャ神話に登場する神々である。彼は多神教であるギリシャ神話を愛でた。

最後にフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-95)の言葉で締めくくろう。

真理は到達されたり、発見されたり、作り直されたりするものではなく、創造されなければならない。〈新しいもの〉の創造以外に真理はない」

参考文献:

  • 野村泰紀(カリフォルニア大学バークレー校教授、バークレー理論物理学センター所長)著「マルチバース宇宙論入門」星海社新書(2017.7.25.発行)
  • 橋本幸士(大阪大学教授)監修×ニュートン編集部「超ひも理論」Newtonライト(2017.10.5.発行)
  • 千葉雅也 著「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」河出文庫
  • ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 2*時間イメージ」法政大学出版局

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gifted/ギフテッド

評価:A

Gifted

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マーク・ウェブは監督デビュー作のインディー映画「(500)日のサマー」がとっても素敵だった。これで才能を認められ、大作「アメイジング・スパイダーマン」を任されたわけだが、スタッフは3作目をやる気満々だったのに、興行成績が振るわず実現しなかった。そこで登場したのがリブートの「スパイダーマン:ホームカミング」というわけ。で失意の彼が低予算映画に戻ってきたのが本作である。

いや、こういうのを撮らせると天下一品だね!初々しく溌剌としている(英語で表現するならVivid)。

7歳の天才少女のお話である。彼女の親権を巡って、母と息子(少女から見れば祖母と叔父)が裁判で争うことになる。悲しいのは両者とも少女を愛し、彼女の幸せを願っているという点では変わらないんだよね。英才教育を受けさせるべきか?フツーの子どもとして育てるべきか?どちらが正解かは判らない。色々考えさせられた。

巷では子役のマッケンナ・グレイスが可愛いと大評判なのだが、どちらかと言うと睫毛の長い別嬪さんという印象。なんかね、エリザベス・テイラーの若い頃に似た雰囲気なんだ。

Eri

お父さん役はクリス・エヴァンス。そう、キャプテン・アメリカだ。本作でもモテモテだった。

あと可笑しかったのが少女が自宅でレゴに夢中になっていたこと。理論物理学者で大阪大学教授の橋本幸士先生も幼少期からレゴをされていたという。

レゴが大好きな子どもは理数系という定理が成り立つのかも。

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ノクターナル・アニマルズ

評価:B+

Animals

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トム・フォード監督はファッションデザイナーとして余りにも有名だ。彼はゲイであることをカミングアウトしており、2014年には27年間交際を続けていたパートナーと同性婚している。お相手は13歳年上で、ふたりは養子を迎えている。

2010年に観た、彼の監督デビュー作「シングルマン」(コリン・ファース主演)の出来が割りと良かったので、新作も期待して映画館に足を運んだ。

「シングルマン」の主人公はゲイだったが、今回は男女間の交際がテーマになっている。しかし彼の作品らしく、脇役として数名ゲイ・キャラが登場する。

トム・フォード自らシナリオも執筆しており、見応えある力作に仕上がっている。この人のセンスは半端じゃない。タイトルは「夜の動物たち」という意味だが、暗闇に何か得体の知れないものがゴソゴソ動き回っているという不気味さが全編を支配する。それは欲望と言いかえることも可能だろう。人間の、原始的な本能。冒頭の強烈な映像からノックアウトだ。

エイミー・アダムス(現在43歳)が物凄い厚化粧で登場するのでギョッとするが、回想シーンではしっかり大学生に見えるのだから大したものだ。

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ジル・ドゥルーズ「シネマ」〜哲学者が映画を思考する。

20世紀フランスを代表する哲学者、ジル・ドゥルーズ著/宇野邦一ほか訳「シネマ 」全2巻(法政大学出版局)を読んだ。「シネマ1*運動イメージ」と「シネマ2*時間イメージ」は併せて800ページに及ぶ大作である。

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ドゥルーズ(1925-1995)の名前を初めて目にしたのはニーチェの著作/解説書を読んでいる時であった。

哲学史的にスピノザ - ニーチェ - ドゥルーズという一本の堅固な線があることを知った。そしてドゥルーズが映画について本を出していることに驚かされた。哲学者が映画を思考すると、どのような言葉が紡がれるのだろう?大いに興味が湧いた。

通読するには難儀した。2ヶ月掛かった。まず翻訳が良くない。大学で哲学を教えている教授らが訳しているので日本語としてこなれていない。原文は同じ単語なのに「シネマ1」と「シネマ2」で異なる日本語に置き換わっていたりもする。またドゥルーズ自身、簡単な概念をわざと難しく書く癖があるので厄介だ。そして長い。対してニーチェの著作はページ数が少ないし、非常に分かり易くスラスラ読める。しかし「シネマ」から得たものは多かった。努力は決して無駄でなかった。

ドゥルーズは巻頭で「これは映画史ではなく、映画に現れるかぎりでのイメージと記号の分類の試みである」と宣言している。だが実際には「シネマ1」で主に第二次世界大戦前の映画、具体的にはチャップリン、キートンらの喜劇、D・W・グリフィスらアメリカの作家、エイゼンシュタイン、ヴェルトフらソ連の作家、ラング、ムルナウらドイツ表現主義、そしてクレール、ルノワール、ガンス、エプシュタインらフランスの作家(主に無声映画)が話題の中心となり、「シネマ2」では戦後の映画、ロッセリーニ、デ・シーカらイタリアン・リアリズム(ネオリアリスモ)、ゴダール、レネらフランス・ヌーヴェルヴァーグ、他にもウェルズ、アントニオーニ、パゾリーニ、デュラス、キューブリックらの作品が取り上げられている。つまり映画史に沿った記述になっている。また嬉しいことに我が国からも小津安二郎、黒澤明、溝口健二らの作品が言及され(市川崑についても少し)、褒められている。

ベルクソンの著書「物質と記憶」の注釈に始まり、カント、ライプニッツ、ニーチェなどの数々の哲学者についても言及される。

どういうことが書かれているか、「シネマ」から学んだことを具体的に幾つかご紹介しよう。まず映画における運動イメージの三つの水準について。①総体 ensemble=閉じられたシステム。映画においてはフレーミングで規定される。②移動としての運動。フレームの中で成立する運動=ショット。動く切断面であり変調。③全体 tout=ショットとショットを繋いで(モンタージュ)規定される。それ自身の諸関係に即して絶えず変化する(=絶対的運動あるいは宇宙的変動)。

主観性の三つの物質的アスペクトについて。①ある主体が外的刺激(光、音)を知覚する。主観性は、おのれの関心を引かないものを、物〔=イメージ〕から差し引く。②知覚から行動への移行。③困惑させる知覚と、逡巡する行動とのあいだで、主体(不確定性の中心)のなかに出現する情動 intervalleを占めるもの。作用と反作用の間に現れる隔たり。

そして映画においては知覚イメージがロング・ショット(遠景)、行動イメージがフル・ショット(人物の全身像)、感情イメージがクロースアップ(顔またはその等価物で表現される情動)に相当する。

しかし状況ー行動、作用ー反作用、刺激ー反応という連鎖、感覚ー運動系の帯紐はアドルフ・ヒトラーのファシズム、ハリウッドのプロパガンダ(戦意高揚映画)に利用された。国家による大衆操作。運動イメージの到達点はレニ・リーフェンシュタール(ナチス党大会を記録した「意志の勝利」、ベルリン・オリンピックを記録した「民族の祭典」「美の祭典」の監督)である。

そして第二次世界大戦後、ヨーロッパの破壊し尽くされた廃墟など圧倒的状況が、感覚ー運動図式を断ち切り、登場人物は殆ど無力に陥った。彼は反応するよりも記録する。彼はひとつの視覚 visionに委ねられ、行動の中に巻き込まれるよりもむしろ視覚に追いかけられ、視覚を追いかける。純然たる見者となる。純粋に光学的な状況→直接的時間イメージという位置付けられない関係が現れるのだ。

ここで登場するのが結晶イメージであり、ベルクソンの逆さ円錐モデルで説明される。

B

円錐の全体SABが記憶に蓄えられたイマージュ全体。頂点Sが純粋知覚の場、感覚ー運動の現在進行形(ing)であり現動的。ABは純粋回想=保存された過去。Pは宇宙。意識は螺旋を描きながら絶えず内部を反復し、新たな過去A'B'、A''B''を生成し続ける。

この結晶(時間)イメージの典型例がアラン・レネの「去年マリエンバートで」'61であり、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」'63だ。フェリーニは語る。「我々は記憶において構成されている。我々は幼年期に、青年期に、老年期に、そして壮年期に同時に存在している。」過ぎ去り、死に向かう現在と、保存され、生の核を保持する過去は絶えず干渉しあい、交差しあう。もし保存された過去の領域へ飛翔しても求めている回想が応じず、イメージが顕在化しなければ現在に戻って来て、もう一度飛翔しなおせばいい。

僕が「8 1/2」を初めて観たのは高校生ぐらいの時だった。当時は何が面白いんだかさっぱり理解出来ず、ただただ退屈だった。しかし今回ドゥルーズを読み、フェリーニが言わんとしたことの輪郭が漸くはっきりして来た気がする。

また「シネマ」で紹介され、初めて知る機会を得た映画も沢山ある。ドライヤー「裁かるゝジャンヌ」'28、エプシュタイン「アッシャー家の末裔」'29、エイゼンシュテイン「全線」'29、ヴェルトフ「これがロシアだ」'29、イヴェンス「橋」'28、「雨」'29、ブニュエル「ビリディアナ」'61、「皆殺しの天使」'62、バスター・キートン×サミュエル・ベケット「フィルム」'65……。大変勉強になった。

ただ些か不満なのは、ヌーヴェルヴァーグに関して僕はトリュフォー派なので(「シネマ」では殆ど触れられない)、ドゥルーズはゴダールのことを実力以上に買いかぶっているのではないか、ということである。

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KUBO/クボ 二本の弦の秘密

評価:A+

Kubo

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大傑作!一コマずつ被写体を動かして作り出す〝ストップモーション・アニメ〟。とにかく映像が凄い。アカデミー賞では長編アニメーション部門及び視覚効果部門にノミネートされた。舞台は日本だが、全く違和感がなかった。特に折り紙の表現が最高。

監督のトラヴィス・ナイトは1973年にナイキ創業者のフィル・ナイトの次男として生まれた。8歳の時、仕事で日本へ行く父親に同行した際、日本の美術や建築、テレビ番組、漫画などに強い感銘を受けたという。

ズバリ、本作のテーマは物語の効用であると言えるだろう。根底に「どうして人は物語を必要とするのか?」という問いがある。

タイトル「二本の弦(原題ではTwo Strings)」の本当の意味が判明するラストシーンで貴方の涙腺が決壊することを保証しよう。

エンディング・クレジットに流れるのはビートルズの「ホワイト・アルバム」に収録された"While My Guitar Gently Weeps"(作詞・作曲:ジョージ・ハリスン)。これをギターではなく、何と三味線が演奏するんだ。粋だねっ!試聴は→こちら

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IT/イット “それ”が見えたら、終わり。

評価:A

It

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スティーヴン・キングの原作小説は15年くらい前に読んだ。文庫本で全4巻。第2巻までが少年期、第3巻から27年後に飛び、成年期の物語となる。今回の映画化は前半部。「エクソシスト」の記録を塗り替える大ヒットを受けて後半部の映画化にもGOサインが出た。

はっきり言って原作より面白かった!そして最恐だった。こんなにドキドキしたのは何以来だろうと真剣に考えて思い浮かんだのが清水崇監督「呪怨」、それも2000年に発売された東映Vシネマ(ビデオ)版。正直、2003年に公開された奥菜恵主演の劇場版「呪怨」や、のりピー主演「呪怨2」はVシネマ版ほどのインパクトがない。

キング原作の中でも最上級の出来の良さだろう。以下、僕が優れていると思う映画化作品を公開年度順に列挙しておこう。

  • キャリー(76)
  • シャイニング(80)
  • デッド・ゾーン(83)
  • スタンド・バイ・ミー(86)
  • ミザリー(90)
  • ショーシャンクの空に(94)
  • ミスト(07)
  • IT/イット(17)

少年たちの物語という意味では「スタンド・バイ・ミー」(原作小説は短編「死体 THE BODY」)を彷彿とさせるし、狂信的な母親が登場するのは「キャリー」みたい。やはり本作はキングの集大成だなと再認識した次第である。

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エマニュエル・パユ×エリック・ルサージュ@兵庫芸文

11月30日(木)兵庫県立芸術文化センターへ。

エマニュエル・パユ(フルート)とエリック・ルサージュ(ピアノ)のデュオを聴く。

P

  • モーツァルト:ソナタ 第17番(原曲はヴァイオリン・ソナタ)
  • シューベルト:「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲
  • ドビュッシー:ビリティス(カール・レンスキ編)
  • フォーレ:シシリエンヌ/コンクール用小品/幻想曲
  • プーランク:フルート・ソナタ

     ー以下アンコールー
  • マーラー:「子供の不思議な角笛」より《ラインの伝説》
  • マーラー:「亡き子をしのぶ歌」より
      《いつも思う。子どもはちょっと出かけただけなのだと。》

11月23-25日に東京と川崎でサイモン・ラトル/ベルリン・フィルの来日公演があった。その後、首席奏者であるパユはそのまま日本に留まり、各地でリサイタルを開催。ル・サージュはレ・ヴァン・フランセの仲間である。

パユは兵庫県と縁が深い。1989年に第2回 神戸国際フルートコンクールで優勝している。神戸市が補助金打ち切りを決め、コンクールが岐路に立たされた2015年には神戸市長に手紙を送っている→内容はこちら。その甲斐もあり、結局どうにか存続されることになった。

彼はiPadの電子楽譜を使用。譜めくりはフットペダルで。こういうやつ。

Foot

ただし楽章間は指でタップ。

最初のモーツァルトから弱音の美しさが際立つ。これが下手な奏者になると息のフーという音ばかり目立ち、掠れちゃうんだ。基本、頭と音尻はノン・ヴィブラートで、伸ばす中腹に装飾的ヴィブラートを掛ける感じ。

「しぼめる花」の序奏はさすらい人の姿が目に浮かぶよう。孤独で寂しい。変奏曲になると一転して華麗に。

「ビリティス」はドビュッシー特有のゆらぎが素敵。武満徹が愛したのイマージュ。全6曲で最初にギリシャ神話の半獣神《パン》が登場するのだが、僕が知っているだけでもドビュッシーは《パン》を3回取り上げている。まず「牧神の午後への前奏曲」(牧神=パン)、そして無伴奏フルートのための「シランクス」。旋律はそれぞれ異なるが、何れもフルートが「パンの笛」のイメージを担っているのが特徴。

フォーレは凛として格調高い。

フルートのために書かれた楽曲の史上最高傑作であるプーランクのソナタは冒頭のpure toneから魅了された。

アンコールのマーラーは優雅で洗練され、優しく繊細。文句なし。《フルートの貴公子》は相変わらずパーフェクトであった。

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デュメイ&横山幸雄/フレンチ・カーニバル!〜関西フィル定期

11月23日(祝)ザ・シンフォニーホールへ。オーギュスタン・デュメイ/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。ピアノ独奏は横山幸雄。

  • フランク:ヴァイオリン・ソナタ(デュメイ&横山)
  • サン=サーンス:ピアノ協奏曲 第2番
  • ドビュッシー:前奏曲集 第2巻 第6曲「風変わりなラヴィーヌ将軍」
    (ソリストアンコール)
  • ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
  • デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」
  • ビゼー:「アルルの女」よりアダージェット(アンコール)

関西に居ながらにして、世界で第一級のヴァイオリニスト・デュメイの演奏をしばしば聴く機会があるのは幸福なことだ。

フランクのソナタではピンと張り詰めた線があり、激しさと力強さが交差する。第4楽章の春の訪れと共に緊張感が少し緩む。そこには物語がある。

サン=サーンスは過小評価されている作曲家だと常々想っている。日本は無論のこと、(フランス以外の)ヨーロッパでも。イギリスのオケやベルリン・フィル、ウィーン・フィルはドビュッシーやラヴェルをしばしば演奏するが、サン=サーンスは滅多に演らない。皆無に等しい。彼の曲を聴く度に、「才気が迸ってるなぁ!」と感じる。ただ「知」が勝りすぎて「情」が乏しい側面は確かにあるので、不人気なのはそこが原因なのかも。つまり聴き手が感情移入出来ないわけだ。ピアノ協奏曲 第2番もJ.S.バッハ「平均律クラヴィーア曲集」を彷彿とさせる厳粛なピアノ独奏から開始され、そこから浪漫派の潮流の中に一気に聴衆を運び去る傑作。溜めて歌わせる演奏に酔い痴れた。

ベルリオーズは活発で歯切れよい。すばしっこくちょこまか動く。

デュカスでは冒頭の繊細な弱音に魅了された。魔法が効くと音楽はスキップし始める。速いテンポで切れ味鋭い解釈に、万雷の拍手が送られた。

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ミュージカル「レディ・ベス」大阪公演初日!

11月28日(火)梅田芸術劇場へ。ミュージカル「レディ・ベス」を観劇。

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東宝が「エリザベート」の作詞・作曲家コンビであるミヒャエル・クンツェとシルヴェスター・リーヴァイに新作ミュージカルの製作を依頼したもので、2014年に初演された。花總まりで観た時のレビューは下記。

再演で2つの新曲が追加されたが、初演版からカットされた曲もある。

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今回観た配役はレディ・ベス:平野綾、ロビン・ブレイク:山崎育三郎、メアリー・チューダー:吉沢梨絵、フェリペ:古川雄大、ロジャー・アスカム(エリザベスの家庭教師):山口祐一郎。他に石川 禅、吉野圭吾、和音美桜、涼風真世らが出演した。

それにしても贅沢なキャストだ。実写版ディズニー映画「美女と野獣」の日本語吹き替え版で野獣役を歌い、今や《ミュージカル界のプリンス》の名をほしいままにする山崎と古川は2018年ミュージカル「モーツァルト!」タイトルロールのダブル・キャストである。また涼風と山口は2018年日本初演されるミュージカル「マディソン郡の橋」(作詞作曲:ジェイソン・ロバート・ブラウン)で主演を務める。

あと圧倒されたのは平野綾の歌唱力。美しく堂々として、そこに間違いなくThe Virgin Queen=エリザベス1世がいた!驚いたことに花總まりよりも良かった(僕は大の花ちゃんファンなのだが……)。小池修一郎さん、次回東宝で「エリザベート」を再演するときには是非彼女をタイトルロールに抜擢してください。お願いします。

終演後の舞台挨拶で平野の喋る声のトーンが一段高くなったのが可笑しかった。正にアニメ声。彼女は声優としてアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」ハルヒ役で一世を風靡した。

余談だがもうすぐ12月。舞台に立つ涼風の姿を観ながら、「嗚呼、久しぶりにまたミュージカル『シー・ラヴズ・ミー』が観たい!」と強く想った。クリスマスを巡る心温まる逸品で、メグ・ライアン、トム・ハンクス主演の映画「ユー・ガット・メール」の元ネタにもなっている(脚本・監督のノーラ・エフロンは幼少期に両親に連れられてこのミュージカルを何回も観に行ったそうだ)。

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