2017年10月21日 (土)

藤岡幸夫✕松田華音:グリーグとシベリウスの世界〜関西フィル定期

10月19日(木)ザ・シンフォニーホールへ。

Kan

藤岡幸夫/関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴く。

  • 大島ミチル:《Sama》空から、そして空へ 世界初演
  • グリーグ:ピアノ協奏曲
  • シベリウス:交響曲 第5番

独奏は日本人ピアニストとして初めて名門レーベル・グラモフォンからデビューした松田華音。彼女は6歳の時にモスクワに渡り、以来そこで研鑽を積んでいる。

大島ミチルは長崎県出身、フランス在住。「失楽園」、平成「ゴジラ」シリーズ、「阿修羅のごとく」「明日の記憶」など映画音楽の作曲家として知られている。Samaとはアラビア語で「空」の意味。イラク出身の少女が「イラクに住んでいた時は戦闘機が飛び爆弾が落ちてくるので空を見上げることができなかった」と書いているのを読み、霊感を得たという。

3楽章構成で第1楽章「空から」は金管が叫び声を上げる。激しく打ち鳴らされるティンパニ。何処かで聴いたことがある雰囲気の曲だなと想っていたが、途中で気が付いた。レナード・バーンスタインが映画「波止場」(エリア・カザン監督)のために書いた音楽だ(特にティンパニの連打)。全体として悪くはないが、もう一度聴きたいとは想わないな。

松田華音がグリーグを弾くのはこれが初めてだそう。力強くダイナミック、完璧なテクニック。

シベリウスが日記に書いた16羽の白鳥(銀色のリボン)との邂逅については既に下記事に引用したのでここでは繰り返さない。

藤岡/関西フィルの《シベリウス・ツィクルス》は毎年聴いてきたが、今回も世界最高レベルの演奏に魅了された。やはり藤岡が故・渡邉暁雄(母がフィンランド人でシベリウスを得意とした)の薫陶を受けたことは大きいのだが、それだけではなく、このコンビにはジョン・バルビローリ/ハレ管弦楽団からの流れを汲む側面も毎回強く感じる。ハレ管も関西フィル同様、一地方オケ(マンチェスターに本拠地を置く)だし、藤岡は英国で学び、ハレ管にもしばしば客演している。故にバルビローリの”気配”が間違いなく音楽に漂っているのだ。

交響曲第5番は4楽章構成で1915年に初演された。その後も推敲を重ね、19年に第3稿改訂版が完成した。第3稿では第1,2楽章を融合し、3楽章構成に変更されている。初稿版はヴァンスカ/ラハティ交響楽団がBISにレコーディングしており、僕もCDを所有している。こちらのバージョンも決して悪くない。

さて第1楽章は清冽で、音楽はのびやかに滔々と流れる。(初稿の第2楽章に当たる)後半はリズミカルになり、推進力をグングン増す。

朴訥な第2楽章を聴きながら、低弦が第3楽章に登場する【白鳥の動機】を密やかに予告していることに今回初めて気が付いた!!

そしてフィンランドの森と湖が眼前に広がる第3楽章は躍動し、生の歓びに満ちていた。感無量である。

今後、藤岡/関西フィルで是非聴きたい曲を最後にリクエストしておく。

  • シベリウス:クレルヴォ交響曲
  • シベリウス:レンミンカイネン組曲
  • シベリウス:交響詩「タピオラ」
  • エルガー:(弦楽四重奏を伴う弦楽合奏のための)「序奏とアレグロ」
  • ディーリアス:幻想曲「夏の庭で」「夏の歌」
  • ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」
          (演奏会形式/全曲)

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2017年10月19日 (木)

映画「ドリーム」レビューと、邦題が起爆剤となった大炎上について

評価:A

Hiddenfigures

映画公式サイトはこちら

原題は"Hidden Figures"つまり「隠された姿」という意味で、NASAでアポロ計画に先立つマーキュリー(有人宇宙飛行)計画に携わった3人の黒人女性にスポットライトを当てる。アメリカ本国で興行収入は「ラ・ラ・ランド」を上回ったという。アカデミー作品賞ノミネート。また全米俳優組合賞では作品賞に該当するキャスト(アンサンブル演技)賞を受賞した。

元々日本の映画宣伝部が考案したのは「ドリーム 私たちのアポロ計画」だった。

Wa

ところがこの邦題を巡ってSNSで大炎上!「マーキュリー計画」なのに「アポロ計画」は変じゃないかと抗議が殺到したのである。「マーキュリー計画」は日本人に馴染みがないというのが宣伝部の言い分だった。事態は一向に収まる気配がなく、結局タイトルはシンプルに「ドリーム」に変更となったのである。ネット民の一方的勝利であった。しかし「ドリーム」じゃ全く意味不明だな。まぁ一時期は日本公開も危ぶまれていただけに、たとえ炎上商法であろうが話題になることは良いことだ。やはりアカデミー作品賞にノミネートされたデンゼル・ワシントン製作・監督・主演「フェンス」は本邦で劇場未公開のままビデオ(DVD)スルーとなってしまったのだから。

「マーキュリー計画」を描いた映画では「ライトスタッフ」(1983)という不朽の名作があるので、未見の方には是非是非ご覧になることをお勧めしたい。

「ドリーム」は兎に角、痛快な実話である。胸がスカッとする。女性映画として極めて上等といえるだろう。

ケビン・コスナーを本当に久しぶりに見た!調べてみると僕が最後に観た彼の映画が1994年の「ワイアット・アープ」だから、実に23年ぶり。昔は嫌いだったけど、脇に回って味が出てきた。

本作の男たちは「前例がない」と口々に言い、女性・黒人に対する差別を平然と続ける。しかし「前例」は自分たちで作り、歴史に名を刻めばいいと映画の作者たちは力強く語るのだ。カッケー!

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2017年9月29日 (金)

【増補改訂版】近・現代芸術を理解するための必読書 その2

これは、過去に書いた記事

の続編となる。今回まず、お薦めしたいのは臨床心理学者・河合隼雄による一連の著作である。

そもそも河合の名前を初めて知ったのは2016年夏に兵庫芸文で上演されたブリテンのオペラ「夏の夜の夢」について勉強している時だった。ことの詳細は下記に書いた。

河合と翻訳家・松岡和子との対談、「快読シェイクスピア」(ちくま文庫)は目から鱗の連続だった。特に「夏の夜の夢」が意識↔無意識の4層構造になっているという解釈はまるでクリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」みたいで新鮮だった。調べてみると河合は、村上春樹や小川洋子、遠藤周作、安部公房ら小説家、ノンフィクション作家・柳田邦男、詩人・谷川俊太郎、宗教学者・中沢新一、脳科学者・茂木健一郎ら錚々たるメンツと対談本を上梓していることが判明した。その後夢中になって彼の著作を読み漁った。

僕は生まれてこの方、2,700本以上の映画を観てきた。膨大な数だ。どうしてこれほどまでにフィクションに魅了されるのか、自分でも不思議だった。過去には次のような記事も書いた。

「博士の愛した数式」で有名な小説家・小川洋子は二十代半ばでデビューした当時、「なぜ小説を書くのですか」とインタビューで問われる度に明確な回答が出来ず、その質問が苦痛でならなかったという。しかし河合隼雄の著作を読み、物語というものの解釈に出会って彼女の目の前に立ち込めていた霧が晴れた。河合と小川の共著「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)に小川が書いたあとがきから引用する。

物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。(中略)内面の深いところにある混沌は理論的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

まさにこれこそが、河合隼雄から僕が学んだことである。

現在までに彼の著書を30冊読んだが、お勧めのベスト5を挙げておく。

  • 無意識の構造(中公新書)
  • 母性社会日本の病理(講談社+@文庫)
  • 昔話と日本人の心(岩波現代文庫)
  • 快読シェイクスピア 増補版(ちくま文庫)
  • 神話と日本人の心(岩波現代文庫)

「母性社会日本の病理」や「昔話と日本人の心」を読み、如何に自分がイザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・スサノオなど日本の神話のことを知らないかを思い知らされた。理由のひとつには学校教育で教わらないということもあるだろう。第2次世界大戦において、日本の神話は軍部に利用された。それへの反省もあり、また日本神話は天皇制に結びつくということもあって、日教組から徹底的に嫌悪され教育現場から排除された。河合がスイスのユング研究所での留学を終えて帰国してからも暫くの間、神話の話など持ち出そうものなら「この右翼め!」と袋叩きに合いそうな雰囲気だったので、口を閉ざしていたという(1960年代は安保闘争や学生運動が花盛りだった)。

しかしキリスト教を知らなければ欧米人のものの考え方を理解出来ないように、日本の神話や昔話を知らずして、日本人の深層心理、無意識の在り方に到達することなど到底不可能なのではないだろうか?「君の名は。」の新海誠監督も日本の昔話や神話、万葉集、古今和歌集などを読み、創作の参考にしていると語っている→こちら

ユング心理学を応用すれば、こんな解釈も可能だということを示したのが以下の記事である。

深層心理学は自然科学とは異なり、客観性よりも主観が大切である(故に「科学じゃない」という批判もある)。それは自己(self)の問題であり、物語の読解に実に役立つのである。

もう一つ挙げたいのはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」だ。

フロイトやユングの打ち立てた心理学はニーチェ哲学を土台にしているし、「ツァラトゥストラ」を通して、映画「2001年宇宙の旅」「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」「攻殻機動隊」「魔法少女まどか☆マギカ」「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」「プロメテウス」「エイリアン:コヴェナント」などが何を物語ろうとしているのか、一層深く読み取れるだろう。

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2017年9月28日 (木)

円熟の極み。〜五嶋みどり@ザ・シンフォニーホール

9月22日(金)ザ・シンフォニーホールへ。

Midori

当ホールでは10年ぶりとなる五嶋みどりのリサイタルを聴いた。ピアノはリトアニア出身のイェヴァ・ヨコバヴィチューテ。

  • ヒンデミット:ヴァイオリン・ソナタ ハ調
  • ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第2番
  • シューベルト:ヴァイオリン・ソナチネ 第3番
  • エネスク:ヴァイオリン・ソナタ 第3番
         「ルーマニアの民族様式で」
  • ブラームス(ヨアヒム編):ハンガリー舞曲 第1番
         (アンコール)
  • クライスラー:シンコペーション(アンコール)

リトアニアはバルト海に面し、ルーマニアは黒海に接している。

ヒンデミットはドイツの作曲家。ソナタは1939年に作曲された。ヴィブラートを抑制した表現で、特に終楽章のフーガは無機質で虚無感が漂う。ニーチェの言葉「おまえが長く深淵を覗くなら、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」(善悪の彼岸)を想い出した。ナチスが政権を握ったのが33年、翌34年に「ヒンデミット事件」が起こる。前衛的な彼の作品はナチスから「退廃音楽」の烙印を押され、弾圧された。そして38年にヒンデミットはスイスに亡命する。

ブラームスはノン・ヴィブラートで開始され、淡い色彩でクララ・シューマンへのあこがれを描く。禁欲的ではあるが、それでも溢れ出す感情がある。終楽章は渋く、滋味に富む演奏。

シューベルトは他愛のない楽曲だが軽やかでチャーミング。

ルーマニア生まれのエネスクはエキゾチックで妖しく艶っぽい。でも決して下品にならない。表情に抑制が効いている。ヴァイオリンがフラジオレット(ハーモニクス)を駆使し、パンフルート(竹笛)のような音色を奏でる第2楽章は繊細。第3楽章は舞踏音楽で呪術的で魔法にかけられたよう。また特にこの曲ではピアノが水を得た魚のように跳ね回り、極めて共感性が高い演奏だった。

エネスク同様ロマ(ジプシー)音楽の影響が色濃いアンコールのハンガリアン・ダンスは静謐で哀感が漂い、ひたひたと胸に迫る。この曲のイメージが一新された。

19世紀のブラームスとシューベルトを20世紀の作曲家でサンドイッチにするというプログラム構成といい、文句なし。パーフェクトな内容だった。次回は彼女の演奏でショスタコーヴィチのソナタを聴いてみたい。

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2017年9月26日 (火)

「エイリアン:コヴェナント」を観る前に知っておくべき幾つかの事項

評価:A

Aliencovenant

映画公式サイトはこちら

まず事前に知っておくべきこと。宣伝では隠されているが、「エイリアン:コヴェナント」は紛れもなく「プロメテウス」の続編である。

「プロメテウス」を知らなくとも本作を愉しめるが、知っていれば一層理解が深まるだろう。どうして隠すのか?それは興行成績を上げるため。続編だと世間が認知すれば、前作を観ていない人が映画館に行くのを躊躇するリスクがある。鈴木敏夫プロデューサーも押井守監督「イノセント」が「攻殻機動隊」の続編であることを隠してヒットに導いた。

「プロメテウス」の物語を要約すると、【わざわざ人間の創造主(=エンジニア)を訪ねて行ったら、まともに対話すら出来ない、手が付けられない暴れん坊だった】ということになるだろう。そしてリドリー・スコット監督が言いたいのは【そんなロクデナシの神なんか殺っちまえ!】といったところ。【神は死んだ】と説いたニーチェ哲学に繋がっている。

今回映画冒頭で、前作にも登場したアンドロイドのデイヴィッドの名前の由来がミケランジェロの”ダビデ像”(の英語読み)であることが明らかになる。ダビデとは古代イスラエルの王のこと。

デイヴィッドはパーシー・ビッシュ・シェリーの詩「オジマンディアス」を諳んじる。

I met a traveller from an antique land
Who said: “Two vast and trunkless legs of stone

Stand in the desert. Near them, on the sand,
Half sunk, a shattered visage lies, whose frown,
And wrinkled lip, and sneer of cold command,
Tell that its sculptor well those passions read
Which yet survive, stamped on these lifeless things,
The hand that mocked them and the heart that fed:
And on the pedestal these words appear:
‘My name is Ozymandias, king of kings:
Look on my works, ye Mighty, and despair!’
Nothing beside remains. Round the decay
Of that colossal wreck, boundless and bare
The lone and level sands stretch far away.”

私は古(いにしえ)の国から来た旅人に会った

彼は言った「胴体のない巨大な石の足が2本
砂漠に立っている その近く
半ば砂に埋もれ 砕けた顔が転がっている しかめっ面で
唇をゆがめ 冷やかに命令を下すように嘲笑している
この彫師たちにはよく見えていたのだ
それらの表情は命のない石に刻まれ
彫った者やモデルとなった者が事切れた後も生き続けると
台座には次のように記されている
『我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ 我が為せる業を見よ そして絶望せよ!』
ほかには何も残っていない 
この巨大な残骸の周囲には
寂しく平坦な砂漠がただひたすらに広がっているだけだ」

(雅哉 訳)
 無断転載禁止!

オジマンディアスとはエジプトのファラオ、ラムセス2世のこと。またこれを書いた詩人の妻はメアリ・シェリー、小説「フランケンシュタイン」の作者だ。アンドロイドはいわば【フランケンシュタインの怪物】の末裔である。

人類に火をもたらしたギリシャの神Prometheusが前作の宇宙船の名前だったように、宇宙船Covenant号は「誓約・聖約」という意味であり、神と人の間に交わされる神聖な約束のこと。

本作の企画が発表された当初は"Alien : Paradise Lost"という副題がついており、本編にもミルトンの小説「失楽園(Paradise Lost)」からの引用がある。

Better to reign in Hell, than serve in Heaven.

天国で神に仕えるよりは、地獄で王になる方がマシだ。

ミルトンの「失楽園」は「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」のモチーフにもなっている。神に叛逆し堕天使となったルシファー(悪魔)が復讐を果たす物語である。

デイヴィッドはピアノでワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」序夜「ラインの黄金」から”ヴァルハラ城への神々の入場”を弾く。「ニーベルングの指環」は神々の黄昏人類の黎明を描いており、宮﨑駿「崖の上のポニョ」とも関係が深い。

また宮崎アニメ関連で言うと、「耳をすませば」で使用された歌”カントリー・ロード(Take Me Home, Country Roads)”が「エイリアン:コヴェナント」でも流れたので笑ってしまった。これは望郷の歌(宮﨑駿による日本語詞は意図的に内容を変えている)であり、エリザベス・ショウ博士の気持ちを代弁しているが、もっと広く「我々は何処から来たのか?」と自らのルーツ(創造主)を知りたがる人類そのものを象徴しているとも解釈可能だろう。

とても嬉しかったのは、「プロメテウス」でちょっとだけ登場した、故ジェリー・ゴールドスミス作曲「エイリアン」Main Titleがいきなり映画冒頭からフル・バージョンで登場したこと。ちゃんと「プロメテウス」のテーマ曲(by マルク・ストライテンフェルト)も途中で出てきます。

当シリーズで気になるのは、どんどんリドリー・スコットの「ブレードランナー」の世界に接近していること。デイヴィッドの思考はかなりレプリカント(人造人間)のそれに近い。おまけに今回、「ブレードランナー」ではお馴染みの目のアップまであってドキッとした。「ブレードランナー」と「エイリアン」シリーズは近い将来、マーベル映画みたいにユニバースを形成するのか!?今後の展開から目が離せない。しかしまずは本作が大ヒットし、さらなる続編が製作されることが絶対条件だ。祈るような気持ちで見守りたい。

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2017年9月22日 (金)

宮﨑駿とフリードリヒ・ニーチェ 〜 風の谷のナウシカとは何者か?

上記事で宮﨑駿監督「崖の上のポニョ」にドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの思想ー永劫回帰超人が深く関わっていることを明らかにした。

僕はその後も宮崎アニメとニーチェの関係について熟考を重ねた。すると、驚くべき事実に思い当たった。

「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは生の3つの変化について説く。それはラクダ→ライオン→子どもである。ラクダ原罪など重い荷物を背負わされ、神や司祭から自己犠牲・禁欲を強要される存在である(荷車を引くロバにも喩えられる)。ラクダは精神の砂漠へ急ぐ。そして2番目の変化が起きる。彼は自由を獲物だと思い、砂漠の中で主人になろうとする。それがライオンだ。ここで最後のメタモルフォーゼ(変身)が起こる。ライオンは子どもになる。子どもは無邪気だ。忘れる、新しくはじめる。遊ぶ。自分の意志で動き、神のように肯定する

映画「風の谷のナウシカ」は”火の七日間”と呼ばれる最終戦争後、「腐海」が発する猛毒の瘴気に覆われた世界の物語である。人類は、発達し過ぎた文明による罪(自然破壊)を背負わされたラクダの状態にある。それを象徴するのがユパが引き連れているトリウマ(ダチョウに似た鳥類で、人々が馬代わりに利用する)のカイとクイ。彼らもまた重い荷を担いでいる。ユパらは砂漠でナウシカと出会う。彼女こそ笑うライオンだ(劇中に「姫様 笑うとる 助かるんじゃ」という台詞がある)。しかし時には獰猛になり、トルメキア兵を殺戮したりもする(この時彼女の髪は逆立ち、ライオンのたてがみのようになる)。

Anger

映画のクライマックスでナウシカは倒れ、オームの血を浴びて、古い伝承に「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん」と歌われた人物として蘇る。つまり超人になるのだ。この時、幼い女の子の声で「ラン、ランララ、ラララン」と歌われる「ナウシカ・レクイエム」が流れる。これは別名「遠い日々」とも呼ばれ、当時4歳だった久石譲の娘、麻衣が歌っている(彼女は現在もプロの歌手として活躍し、先日NHKで放送された久石譲コンサート@パリでもこの曲を歌った)。ナウシカはニーチェの言う子どもに還ったのである。

ナウシカの肩にはキツネリスの「テト」が乗っている。これはツァラトゥストラにいつも寄り添っている鷲と蛇の代わりと言えるだろう。

宮﨑駿は「本へのとびらー岩波少年文庫を語る」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

僕らの課題は、自分たちのなかに芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。

このニヒリズムの克服こそ「風の谷のナウシカ」のテーマであり、ニーチェに通底する課題である。

腐海は人間により汚染された壌土を清浄なものに変化させている。これは永劫回帰に導くための装置だ。

ツァラトゥストラは「軽やかにダンスし、鳥のように飛べ!」と言う。ナウシカは「鳥の人」だ。鳥の人」はサウンドトラック・アルバムのタイトルにも用いられている。

全般に宮崎アニメは飛ぶ人=正義であり、飛べない人は見下される傾向にある。「紅の豚」のポルコ・ロッソは次のように言う。

飛ばねぇ豚はただの豚だ

正にニーチェ哲学の実践である。

また「ツァラトゥストラはかく語りき」に次のような一節が登場する。

 ーしかし、人間も木も同じようなものだ。
 木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪のなかへ 
(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

これが「天空の城ラピュタ」の構造である。そして「バルス!」という呪文の言葉による崩壊の後、パズーとシータは木の根に助けられる。

「崖の上のポニョ」の嵐の場面ではワーグナーの「ワルキューレの騎行」(もどき)が高鳴る。実は若い頃のニーチェはワーグナーに私淑し、ワグナー論も執筆しているのだ(「悲劇の誕生」など)。

ニーチェを読めば、宮崎アニメをより深く味わうことが出来るだろう。

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2017年9月20日 (水)

夏目漱石「門」と「崖の上のポニョ」

夏目漱石の小説「門」の主人公・宗助は人生に迷い禅寺を訪ねる。そこで老師から次のような公案をもらう。

父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目とは如何?

自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という問いである。とは一体何者か?ー実体もなく目には見えない。何処から来たのか?ー多分、自然界や宇宙の「いのちの流れ」のどこかに漂っていたのではないだろうか。では本来の「自己」とは何か?生まれて以降身につけて来たペルソナ(仮面)、身分、学歴、財産など一切を削ぎ落とすと後に何が残るのだろう?ーたまたま生まれてきた。そしていつ死ぬかも思うに任せない存在だ。かくして人生はままならない。そういう悟りの境地に至れば、肩の力も抜けて生きられるだろう。

これは仏教における

即是即是(しきそくぜくう、くうそくぜしき)

という言葉に合致している。」は、我々の目に見えるすべての存在のことを指し、「空」とは実体がないことを言っている。つまり「即是空」は「諸行無常(常というものはない、すべては変化して行く)」「一切空(いっさいくう)」と同意である。万物は流転する。これは近代科学が解明した「すべての物質は原子で構成されている。原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成る。さらに陽子と中性子は3個の素粒子に分かれる」という真理に合致する。全宇宙は17の素粒子のみで構成されている。歳月を経てものはバラバラになり(死滅/風化し)、やがて別のものに再構築される。

に実体がないと知ればものに執着する気持ちも湧かず、欲はなくなり煩悩も消えるだろう。

続く「空即是」とは、全ては元々実体がないけれども、それぞれの存在には意味があり、縁(えにし)により、いま私達の目の前に色彩豊かに見えていることを言う。

「門」において宗助と、彼が嘗ての親友から奪い取り、妻にした御米(およね)は次のように語られる。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。

宗助と御米はひっそりと”崖の下”に住んでいる。

宮﨑駿のアニメーション映画「崖の上のポニョ」の主人公は宗介。宮﨑駿は「門」の宗助がその名前の由来であると述べている(公式サイトでも明記されている→こちら)。宗介は母親と一緒に崖の上に住み、周囲に家は1軒もない。「門」の夫婦同様、世捨て人のような生活である。そして映画の最後で宗介は文字通り地球上でポニョとふたりぼっちになる。

「親からも友達からも一般の社会からも棄てられた。もしくは切り離された」世界でふたりは生きていくのだ。

「崖の上のポニョ」に隠された秘密を解く鍵が、夏目漱石の「門」の中にある。

なお、映画で洪水の後に古代魚が登場するのはニーチェが「ツァラトゥストラ」で語った永劫回帰であり、宗介とポニョの結婚は超人の誕生を暗示している。

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2017年9月19日 (火)

ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」のすゝめ

本といえば今まで小説ばかり読んで生きてきた。哲学なんて難解なものは歯が立たない、僕には無縁だと思い込んでいた。ところがある日不意に、転機が訪れた。

ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読もうと決心した切っ掛けは2016年に公開された一本のドキュメンタリー映画だった。

本作は大阪を流れる淀川から道頓堀川に下る船の上で、第1回ドラフト会議で指名されNMBに入った須藤凛々花がニーチェを朗読するシュールな場面から始まる。

須藤といえばつい先日のAKB48総選挙で結婚宣言をぶちかまし、世間を騒然とさせた元メンバーである(既に卒業)。「人生を危険にさらせ!」という哲学本も出版しており、表題はニーチェの著書「悦ばしき知識(楽しい学問)」から採られている。たかだか19歳の小娘がニーチェを理解出来るのだから、僕に読めない筈はないと対抗心が沸々と湧いたのである。因みに秋元康は須藤のために、「ニーチェ先輩」という歌を書いた。その歌詞に《その深淵 覗いたとき 深淵もこちらをのぞいてる》とあるが、これはニーチェ「善悪の彼岸」からの引用である。

ニーチェ(18441900)の著書を実際手にとってみて驚いた。スラスラ読めるのである。難解なところが少しもない。硬い哲学書だという雰囲気が皆無のだ。これなら高校生でも大丈夫。「悦ばしき知識(楽しい学問)」にしろ「善悪の彼岸」にしろ、アフォリズム集になっているので実に読み易い。アフォリズム (Aphorism)の語源はギリシャ語で、人間についての真理や戒め、恋愛や人間関係についての教訓、人間の愚かしさや可笑しさ、人生の不思議や矛盾などを端的な言葉で表現したものをいう。日本語に訳すと金言、警句、格言、座右の銘といった言葉になる(ロバート・ハリス「アフォリズム」より)。

「ツァラトゥストラ」は光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳が読み易かった。なお、竹田青嗣「ニーチェ入門」(ちくま新書)と村井則夫「ニーチェ ーツァラトゥストラの謎」(中公新書)がガイドとしてたいへん役に立ったことを付記しておく。

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またフロイトやユングの打ち立てた深層心理学が、ニーチェから出発していることがよく分かった。意識↔無意識の関係や、コンステレーション(布置)についても先にニーチェが語っている。コンステレーションとは一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係もないように見えても、ある時それらが一つのまとまりとして重要な意味を成してくること。めぐり合わせ。

以来、心理学と哲学の関係は深い。20世紀フランスのミシェル・フーコー(1926〜84)は当初、心理学を学び、精神病院に努めていた時に患者がロボトミー手術を受けて廃人同様になったことに衝撃を受け、哲学者に転向した。

またやはりフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925~95)は精神科医フェリックス・ガタリ(1930~92)と組んで「アンチ・オイディプス」を書いた。これはフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスに反旗を翻す本である。ガタリとの共著は6冊に及んだ。なおドゥルーズはフロイトに対して否定的だが、フロイトと袂を分かったユングのことは高く評価している。

ドゥルーズは【哲学とは新しい概念を創造すること】だと定義したが、ニーチェが打ち出した概念の代表的なものは「アポロン的/デュオニソス的」「ルサンチマン」「神は死んだ」「力への意志」「超人」「永劫回帰」がある。

関連記事(上記ニーチェの概念について詳しく解説した)

ニーチェはpositive thinkingの人だ。常に前向きで未来に目を向け、ニヒリズム(この世は虚しいという考え方)を全力で否定する。そしてからだが大事と説き、ダンスして鳥のように飛べ!と活を入れる。そして最後は「笑うライオン」になれと言う。読んでいて元気が出るし、勇気が湧く。

ただ彼が女性蔑視の考えを持っていたことは否定出来ない。まぁ女性に参政権がなかった19世紀半ばの人だし、生涯を独身で過ごしたモテない男なので(ルー・ザロメに求婚するも振られている)、大目に見てあげてくださいな。

なお彼は1889年(44歳)に発狂するが、原因は梅毒 第4期(脳梅毒・神経梅毒)だった。これは作曲家のシューマンやスメタナと同じ病である。シューベルトも梅毒だったが、死因は水銀治療による中毒である。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は後世の芸術に多大な影響を与えた。リヒャルト・シュトラウスは同名の交響詩を作曲。マーラーは交響曲第3番 第4楽章にツァラの一節を引用し、アルト独唱に歌わせている。そしてこの楽曲はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」の最後、主人公の死の場面で流れた。さらにスタンリー・キューブリック監督の傑作「2001年宇宙の旅」との関わりは言うまでもない。

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映画「三度目の殺人」の哲学的問い

評価:A

Sand

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「そして父になる」の是枝裕和が原案・脚本・編集・監督を担当した「三度目の殺人」には哲学的問いがある。ひとつは【人が人を裁くことは可能なのか?(法廷で真実は明かされるのか?)】、もうひとつは【生まれてこなかった方が良かった人間はいるか?】である。僕は後者に対してYes.と答える。アドルフ・ヒトラー、ポル・ポト、ヨシフ・スターリンらがその代表格であろう。しかし反面、ナチス・ドイツは人類に大きな問いを残した。それは【人はどこまで残酷になり得るのか?】ということ。我々は生涯をかけて、この問いを自問し続けなければならない。

真相は最後まで藪の中。そういう意味で本作は「羅生門」形式と言える。面白いのは加害者(役所広司)も被害者も、そして弁護士(福山雅治)も一人娘がいるという設定である。このことから同情や共感、共犯関係が生まれる。弁護士は当初真実には何の興味もなく、依頼人(被告)の減刑しか考えていない。ところが……予想外の展開が観客を待ち構えている。役所広司が怪演。レクター博士並みの不気味さで秀逸だ。広瀬すずのキャスティングもドンピシャ!

本来、検察官(検事)と弁護士は敵対関係にあり、裁判官は中立の立場の筈。しかし三者には阿吽(あ・うん)の呼吸があり、以心伝心で共謀することもあるという皮肉。裁判制度に一石を投じる奥深い映画だ。

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2017年9月17日 (日)

【アフォリズムを創造する】その9「ネット炎上」のメカニズムを読み解く

高校生・大学生らは学校の教室で友達に話すように気軽に「あの娘とヤリたい」とか「今日バイト先でこんな失敗をやらかした」とかtwitterとかフェイスブック、インスタグラムなどSNSに書き込む。

ドストエフスキーの「罪と罰」や島崎藤村の「破戒」でも描かれたように、自己の隠れた欲望や罪の告白は人びとの面前で行われなければならない。それはカトリック教会の懺悔室で行われてきた告解に似ている。告解は逆に、司祭(神父)が信者の心を支配する仕組みでもある。

秘密を自分の胸の内にだけしまっておくことは苦しい。開放し、風通しを良くする必要がある。

社会人もまた、会社の上司にムカついたことや、学校の先生が生徒の悪口をつい漏らしたりもする。ここではSNSがストレス発散の場として機能している。いわばカウンセリングルームでリクライニングチェアにゆったり横たわり、心理療法士/精神科医に語ることの代用品のようなものだ。あるいは居酒屋やバーでの気の置けない仲間との会話、個人的な日記に書き込むような感覚。

不思議な事に彼らはその告白の先に、自分に好意的な善人、信頼出来る相手(Intimate Friends)しかいないという幻想を抱いている。ネット社会が不特定多数の棲む世界に開かれており、悪意に満ちていることを知らない。

しかしネット民(フォロワー)たちは突然、カトリックの司祭に豹変する。自分たちの善悪の基準を押し付け、道徳を説き、お鬼の形相で「悔改めよ!」と迫るのだ。それが炎上(Flaming)である。彼らはSNSの発信者に自己の放棄を求め、死を命じる悪魔的権力となる。ジャンヌ・ダルクを火刑に処すように。彼らの潜在意識には、迷える子羊を導く羊飼いになりたいという、牧人願望がある。言い換えるなら他者の上に立ちたい、王様気分を味わいたいという仮想権力への憧憬(=妄想)だ。

SNSでは自分の幸せを呟くことも許されない。次の記事を読んでみて欲しい。→「マイホーム購入!」という冗談で、ネット民から袋叩きにされてしまった10代のカップル

ネット民は他人の幸福なんか許せない。彼らは血に飢えたオオカミのように生贄贖罪の山羊(scapegoat)を求めている。人は日々、不満や不快を抱えて生きていると無意識のうちにルサンチマン(弱者が強者に対して持つ、憤り・怨恨・憎しみの感情)を抱く。その標的となりやすいのが芸能人(例えば斉藤由貴)であり、政治家(今井絵理子)だ。特に不倫は絶対に許せない。「あいつだけ美味しい思いをしやがって!」という嫉妬心を沸々と滾らせるのだ。

芸能人が謝罪会見を開いたり、政治家が辞職することでネット民たちの昏(くら)い欲望は満たされ、彼らは甘い快感に浸ることが出来る。つまり王様気分だ。

芸能人にとってイメージは大切であり、ある程度倫理(アイドルの場合は恋愛禁止の掟)を求められるのは致し方ない。CMに出演している場合、購買者に悪い印象を持たれては商品(アイドルの場合はCD=握手券)が売れなくなってしまう。しかし政治能力と道徳は別だろう。ジョン・F・ケネディはマリリン・モンローと不倫の関係にあったが、今更そのことをとやかく言う者はいない。ケネディは大統領として立派な仕事をした。それで十分だ。

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