2018年4月24日 (火)

アカデミー主演男優賞・メイクアップ賞受賞「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」

評価:A

長ったらしい邦題がダサい。原題はシンプルに"Darkest Hour"。

Darkest_hour

他に説明過多な(クドい)邦題を挙げておく。

  • The Iron Lady →「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」
  • Spotlight →「スポットライト 世紀のスクープ」
  • The Imitation Game →「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」
  • The Post →「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」

公式サイトはこちら。米アカデミー賞でゲイリー・オールドマンが主演男優賞、辻一弘がメイクアップ賞を受賞した。ほかに作品賞・美術賞・衣装デザイン賞・撮影賞にノミネート。

クリストファー・ノーランの「ダンケルク」と併せて観るのがお薦め。「ダンケルク」では戦場の様子が分かり、本作ではその背後にあった政治的駆け引きが描かれる。

辻さんの仕事は見事としか言いようがない。ゲイリー・オールドマンが完全に別人になった。正に二人三脚の快挙だね。

ジョー・ライト監督の演出は俯瞰ショットとドリー(移動)撮影が実に効果的で素晴らしい。可笑しいのは彼はキーラ・ナイトレイやシアーシャ・ローナンが出演した「つぐない」(2007)でも同じダイナモ(撤退)作戦を描いているんだよね。しかもこのダンケルクの場面はワンシーンワンカット(長回し)で度肝を抜かれた。

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アカデミー外国語映画賞候補作「ラブレス」(ロシア)

評価:A

米アカデミー外国語映画賞にノミネートされたロシア映画である。カンヌ国際映画祭では審査員賞を受賞した。公式サイトはこちら。原題の「Нелюбовь」は翻訳すると「嫌いな」という意味だそうで、英題が"Loveless"。

Loveless

監督はアンドレイ・ズビャギンツェフ。「ロシア映画は久しぶりだな!」と気付き、よくよく考えてみると最後に観たのは2004年に日本で公開された「父、帰る」。これもズビャギンツェフの監督作であった。何と14年ぶり!

はっきり言うが外国語映画賞を受賞したチリの「ナチュラルウーマン」より断然本作のほうが良かった。

痛ましいお話である。両親から愛されない12歳の少年という設定はフランソワ・トリュフォー監督の自伝的名作「大人は判ってくれない」(1959)を彷彿とさせる。いやしかし、アントワーヌ・ドワネル少年の境遇の方がよっぽどマシという気がする。だって母親は家にいてもず〜っとスマホの画面ばかり見ていて、少年には一瞥すらしないんだぜ?「中絶しておけばよかった」と平気で言い放つし、この家庭は地獄だね。

あと"Loveless"という英題でも判る通り、愛の不毛を描くミケランジェロ・アントニオーニ監督作品に非常に近い雰囲気をひしひしと感じた。帰宅して調べてみるとビンゴ!!ズビャギンツェフはアントニオーニの「情事」(1960)に衝撃を受け、映画監督を志したとインタビューで語っている(こちら)。また失踪した少年を探して、捜索隊が廃墟に足を踏み入れる場面では天上から水が滴り落ちていて、明らかにタルコフスキーの「ストーカー」(1981)そのものであった。

それにしてもロシアの現実には驚かされた。警察は失踪者の捜査を一切してくれず、「ボランティアで探してくれる市民グループがあるからインターネットで頼んだら?」とか言うんだ。信じられる??

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2018年4月18日 (水)

ギリシャ神話(オルフェウス)と日本神話、そして新海誠「君の名は。」の構造分析

以前、新海誠監督のアニメーション映画「君の名は。」には日本神話からの引用があると詳しく解説した。

上記事でイザナミとイザナギの物語がギリシャ神話と非常に類似していることにも触れた。そこで今回は社会人類学者レヴィ=ストロースの手法を用いて、両者の構造分析をしてみたい。

これは僕にとって、構造主義をどれだけ理解しマスター出来たかを試す応用問題だと位置づけている。まずはギリシャ神話から見ていこう。

オルペウス(オルフェウス)の妻エウリュディケーはある日、毒蛇に噛まれて死んだ。妻の不在に耐えられなくなったオルペウスは冥府に下り、竪琴を奏でてエウリュディケーの返還を求めた。悲しい琴の音に涙を流すペルセポネ(春の女神、ハデスの妻)に説得され、冥界の王ハデスは、「ここから抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルペウスの後ろに従わせて送った。目の前に光が見え、あと少しというところで不安に駆られたオルペウスは後ろを振り向き、妻の姿を見たが、それは一瞬のことですべては霧のように消え去ってしまった。

一方、古事記に書かれた日本神話はこうなっている。

イザナギとイザナミは国産み・神産みにおいて本州・四国・九州などの島々、海・山・風など森羅万象を創った。火の神カグツチを産んだ際、イザナミは陰部に火傷を負い亡くなった。

これは火の起源を物語っている。火は料理土器づくりに繋がり、自然→文化への移行を象徴していている。ギリシャ神話では以下の通り。

人類に火をもたらしたプロメテウスは大神ゼウスから火を奪った罰を受け、30年間鷲に臓腑をえぐられ続けた。

Pro

料理(火でものを焼く)という文化を人類に与えたプロメテウスは生肉を喰らうもの(鷲)にいたぶられる罰を受ける。ここに二項対立が出現する。

  • 火を通したもの(文化)↔生のもの(自然)
  • 地上に下った火↔空高く舞う鷹【垂直方向の差異】

なおインドの神話「リグ・ヴェーダ」によると、マータリシュヴァンは天界からアグニ(火の神)を奪い、人間にもたらした。このエピソードはプロメテウスとそっくりだ。プロメテウスもマータリシュヴァンも言うまでもなく境界を超えて活躍するトリックスター二項対立を取り結ぶ/仲介する第三項)である。

ギリシャ神話と日本神話には次のような変換関係を認める。

  • 人類に火をもたらしたプロメテウスはゼウスから罰を受けるという代償を払う。→火の神カグツチを産んだイザナミは命を落とす。【自然→文化というプロセスの危険性】

古事記の続きを見よう。

イザナギがイザナミの遺体にすがって泣いていると、彼の涙からナキサワメ(泣沢女神)が生まれた。

ナキサワメは水の女神であり、火の起源に続き、水の起源が描かれる。

イザナギはイザナミにもう一度逢いたいという気持ちを押さえきれず、黄泉の国に旅立つ。しかしイザナミは黄泉の国の竈(かまど)で炊いた食べ物を既に食べてしまったから帰れないと彼に告げる(黄泉戸喫:よもつへぐい)。

古代では埋葬の際に食べ物を一緒に埋めていた。これを食べることで、死者は蘇ることが出来なくなると当時の人々は考えていたのである。つまり「同じ釜の飯を食う」という帰属意識だ。ギリシャ神話でも、ハデスに無理やり連れ去られ死者の国の食べ物(ザクロの実12粒のうち4粒)を食べさせられたペルセポネは、1年のうち4ヶ月は冥界で暮らさなければならなくなってしまった。

「決して覗いてはいけない」というイザナミとの約束を破り、イザナギは髪に挿していた櫛を折り、火をつけてイザナミの寝姿を見る。彼女の体は腐敗して蛆にたかられていた。驚き逃げるイサナギ。恥をかかされて怒り、追いかけてくるイザナミと8人の泉津醜女(ヨモツシコメ)。イザナギは髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げつけて撃退した(ヨモツシコメたちはそれらを食べた)。そしてあの世とこの世の境である黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に辿り着くと大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。

ここに幾つかの二項対立が認められる。

  • 腐ったもの(イザナミ・死者)↔新鮮なもの(葡萄、筍、桃)
  • 蛆(自然)↔火・松明(文化)
  • あの世↔この世【大岩で完全に分離】

では、オルペウスの竪琴に対応するアイテムは日本神話においては何だろう?

ここでイザナミ・イザナギの息子・須佐之男(スサノオ)が登場する。彼が所持していた三種類の神器があり、内訳は①生太刀(いくたち):生命の宿る剣、これで切れば病や傷が治るといわれる ②生弓矢(いくゆみや):生命の宿る弓矢、これで射れば死者さえも甦るといわれる ③天詔(あめののりごと):神のお告げに使う

  • オルペウスは竪琴で死者を黄泉から帰らせようとする↔須佐之男の三種の神器

高天原を追放された須佐之男は出雲の国に向かい、そこで八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄にされようとしていた、美しい少女・櫛名田姫(クシナダヒメ)を助け出し、八岐大蛇を退治する。

  • オルペウスはニンフ・エウリュディケーを蛇の襲撃から守れない↔須佐之男は大蛇を倒し姫を救う

その結果として、

  • 冥界から帰還した後、女性との愛を絶ったオルペウスから見向きもされなかったトラキアの娘たちは怒り狂って彼の手足を裂き、頭と竪琴をヘプロス河へ投げ込んだ↔須佐之男は櫛名田姫と夫婦になり、末永く幸せに暮らした

ここに逆転による変換関係が認められる。さらに次のような変換も含まれている。

  • 須佐之男は八岐大蛇を八つ裂きにした↔トラキアの娘たちはオルペウスを八つ裂きにした
  • 須佐之男が退治した大蛇の尾を切ると、中から大刀が出てきたので、彼はそれを天照大神に献上した↔引き千切られたオルペウスの首は歌を歌いながら竪琴と共にヘプロス河を流れくだった。最終的にレスボス島に流れ着き、オルペウスの死を偲んだアポローン(異伝ではゼウス)によって竪琴は天に上げられ、琴座となった

Orfeo

トラキアの娘達がオルペウスを八つ裂きにしたのはディオニュソス(豊穣とブドウ酒の神)の祭りの時で、彼女たちは酩酊していたという。つまり”貪欲な口(口唇の欲望)=節度なき消化器を表している。一方、須佐之男は姉・天照大神のいる高天原(たかまがはら)に居座り、神殿に糞を撒き散らすなど狼藉を働いたため、天照大神は天の岩屋に身を隠した。このエピソードは”粗放な肛門(肛門による漏出)=節度なき消化管”を表している。ここにも変換関係がある。

こうして分析を進めていくと、ギリシャ神話と日本神話が全く同じ構造を持っていることがご理解頂けただろう。両者を貫く主題は【生と死の分離】である。何故ひとは、永遠の命(連続)を有さず、有限(不連続)なのか?果たして我々が生きる意味はあるのか?その矛盾を少しでも解消・緩和すべく神話は存在する。

距離的にギリシャと日本は遠く隔たっている。構造が同じだからといって神話が伝播したわけでは当然ない。同時に発想されたと考えるべきだろう(共時態)。つまり人間の根源的思考様式(野生の思考)は万国共通なのである。これをユングは普遍的(集合的)無意識と呼んだ。

しかしたとえ構造が同じでも、文化の違いによる差異は当然ある。ギリシャ神話において、オルペウスが妻奪還に失敗したのは、ハデスとの契約を破ったためである。故にペナルティを課された(罪と罰)。プロメテウスがされたのも、神々の掟を破るというを犯したためである。

一方、イザナギが失敗したのは、イザナミにをかかせたからである。しかし約束を反故にしたからといってイザナギが罰されたわけではなく、あの世とこの世の境を塞いだのはあくまで彼の意志なのだから、責任の所在が曖昧な、いかにも日本的な解決策であると言えるだろう。【をかかされたものが身を引く(をかかせた者への責任は問わない)】というパターンは「鶴女房(鶴の恩返し)」「狐女房」「見るなの座敷(うぐいす長者/うぐいすの里)」などの日本昔話でも見られる。ところが西洋の童話「青ひげ」では、見るなと言われた部屋を覗いた新妻は青髭に殺されそうになる。やはり罪と罰なのだ。

  • 罪の文化/契約社会(西欧)↔恥の文化/なあなあの社会(日本)

これが神話で明かされる両者の差異である。

次に映画「君の名は。」の構造分析をしよう。まず瀧↔三葉には、

  • 男↔女【変換可能!】
  • 都会生活↔田舎暮らし
    (日照時間長い↔短い)
  • 父と同居、一人っ子↔父は家を出た、妹がいる
  • 大雑把↔几帳面・器用
  • 生者↔死者
  • 水平方向の隔たれた距離↔3年という時間のズレ
  • 半月Half Moon(一人ぼっちの瀧)↔満月(瀧+三葉)
  • 扉・襖(ふすま)が閉じる(回路閉鎖)↔開く(回路開放)
  • (ラストシーン)須賀神社の階段を上る(通時的)↔下る(遡及的)

といった二項対立がある。他に

  • 三葉(神に仕える巫女)↔父(人に命令を下す行政の長)
  • 三葉(ミズハノメ=の女神)↔繭五郎の大・神社で燃える松明
  • ティアマト彗星↔地上【垂直方向の差異】
  • 第1回隕石落下:山頂のクレーター(御神体)↔第2,3回目:糸守湖形成【垂直方向の差異】
  • この世↔カクリヨ(隠り世)=あの世
  • 三葉・テッシー・さやちん↔瀧・司・高木【親友】
  • 三葉・テッシー・さやちん↔松本・桜・花(意地悪)【敵対】
  • 朝日(スマホのアラームが鳴る/室内)↔かたわれ時(日没/屋外)

では二項対立仲介しようとする第三項は何か?次のようなアイテムが挙げられるだろう。

  • 「来世は東京のイケメン男子にしてくださ〜い!!」という鳥居下での三葉の叫び
  • 組紐・ムスビ(一葉の台詞「でも米でも酒でも、人の身体に入ったもんが、魂と結びつくこともまたムスビ」)
  • 電車(東京と糸守を結び、ラストシーンも並行して走る電車の窓越しにお互いを見つける)
  • この世と隠り世の間を流れる三途の川【
  • 口噛み酒(男女を結合させる精液/膣分泌液の暗喩)【
  • 天と地を結ぶ隕石(ティアマト彗星の破片)→それは同時に瀧と三葉の結合を切断する刃でもある。【矛盾】
  • 巫女舞の髪飾りに描かれた竜(龍)→彗星の暗喩であり、「瀧」も〈さんずい()+龍〉→精子の暗喩でもある。瀧が御神体の中で見た夢(幻想)では彗星が地球(卵子)の表面に衝突して受精し、細胞分裂を経て三葉が生まれる。
  • 三葉ともう一度入れ替わるために山頂の御神体を目指して瀧が登ってゆく際に、しとしとと降る雨(天と地を結ぶ)→ラストの再会の場面も雨上がりである(がふたりを結ぶ)。

が媒介する(第三項)という意味ではギレルモ・デル・トロ監督「シェイプ・オブ・ウォーター」の構造に近い(勿論、「シェイプ…」の方が後発)。

ではオルペウスの竪琴に相当するものは「君の名は。」の中で何か?それは組紐だろう。組紐は細い絹糸や綿糸を束ねて編む。竪琴は複数の弦を張り、音を編む(紡ぐ)。やはり構造は同じである。

神話としての「君の名は。」のテーマは、オルペウスやイザナギの物語と同様に【生と死の分離/離別】という矛盾の解消・緩和にある。そこには東日本大震災(3・11)という出来事が大いに絡んでいる。

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2018年4月14日 (土)

何故ひとは、二項対立で思考するのか?その根源に迫る。

社会(文化)人類学者レヴィ=ストロースについて色々書いてきた。彼の構造分析に出会い、大いに魅了されたからである。因みに社会人類学 (Social Anthropology)は主にヨーロッパで用いられる名称で、文化人類学 (Cultural Anthropology)はアメリカで用いられる名称である。レヴィ=ストロースはフランス人なので、彼に敬意を表し社会人類学とする。

レヴィ=ストロースは1962年に出版した「野生の思考」で一世風靡し(ブリコラージュという概念も流行った)、構造主義を打ち立てた。後半生は壮大な構想による「神話論理」4部作に専念した。

彼はこう説く。一つの神話だけでそれを解釈することは不可能であり、出来うる限り近隣の類似する神話を集め、各々最小単位(誰が、誰に対し、何をした。という短い文)まで分解し(それを彼は神話素と呼ぶ)、神話群相互関係を熟慮し、共通する神話素を見出す。

神話群間には変換(変奏)を伴う。例えばこうだ。

①A→B→C→D→E
②A'→C'→B'→F→E'
③A''→F'→D'→C''→E''

A,B,C…は神話①を構成する神話素であり、神話②③のA',B',C'…はその変換(変奏)を示す。対応する順番は入れ替わることがあり、通時的だけではなく、共時的に把握する必要がある。これを神話の〈時間統合機能〉と呼ぶ。つまり時間の流れに沿って左から右に読むだけではなく、同時に交響曲の総譜(フルスコア)のように、上から下に眺める必要がある。神話素(細部)は変換されるが、構造は不変である

共時態=〈時間統合機能〉とはフランスの哲学者ベルクソンが説く逆さ円錐モデルで考えると分かりやすいかも知れない。

神話の構造はJ.S.バッハ以降の西洋音楽の形式に似ている。A-A'-A''の関係は主題(A)と変奏(A',A'')だ。私たちは変奏曲に接した時、無意識のうちにそこに主題を重ねて聴いている(共時的)。そうして初めて曲の構造が理解出来る。例えばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナーらの(任意の)交響曲 第1楽章を見てみよう。全て同じ構造を持っている。第1楽章はソナタ形式と相場が決まっていて、(序奏:ある場合とない場合がある)→提示部(第1主題、第2主題)→展開部(主題の変奏)→再現部(原型主題の再登場)→終結部となっている。構造は同じだが内容(主題の旋律、変奏様式)には変換がある。そこに作曲家の個性が滲み出るのだ。

神話と他の神話との変換関係は幾つかのコード(規則/規定)にそって(手がかりにして)見てゆく。

コード(規則/規定)には【料理のコード(生のもの↔火を通したもの)】【宇宙論のコード(太陽↔月↔地上)】【空間のコード(近すぎる接触↔遠すぎる分離、水平↔垂直)】【婚姻のコード(婚姻的〈夫婦〉↔非婚姻的〈忌避〉】【親族関係のコード(近しい↔疎遠)】【季節のコード(雨季〈湿った〉↔乾季〈乾いた〉)】【植物学のコード(つた植物〈天〉↔樹〈地上〉↔水生植物】【動物学のコード】などがある。

構造分析の手法は演劇(オペラ、ミュージカル)や映画にも応用出来る。一番分かりやすい例はシェイクスピア「ロミオとジュリエット」とミュージカル「ウエストサイド物語」だろう。シェイクスピア「マクベス」↔黒澤明「蜘蛛巣城」、シェイクスピア「リア王」↔黒澤明「乱」でも良い。構造は全く同じ、しかし細部に変換を伴う。

ここでマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」とノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」の共通項/構造的対応関係を見てみよう。

  1. 内戦が勃発する(南北戦争↔ロシア革命)
  2. 家族が引き裂かれる(スカーレット・オハラの母は病死し、父は狂い、妹たちとは対立する↔ジバゴの家族はパリに亡命する)
  3. 神出鬼没、境界を超えて活躍するトリックスターが登場する(レット・バトラー↔弁護士ヴィクトル・コマロフスキー)
  4. スカーレットはレットにチャリティ舞踏会で再会する↔ジバゴはコマロフスキーにクリスマス舞踏会で初めて合う
  5. スカーレットは2人の男(アシュレー、レット)を愛す↔ジバゴは2人の女性(ラーラ、トーニャ)を愛す
  6. アシュレーには妻メラニーがいる↔ラーラには夫パーシャがいる
  7. 物語の最後にスカーレットはひとりぼっちで故郷タラに帰る↔ジバゴはひとりぼっちでモスクワに帰る

こうして分析すると両者は全く同じ構造を持つことがご理解頂けるだろう。

しかし、だからといってパステルナークが意識的にミッチェルを模倣したわけではないだろう。レヴィ=ストロースの構造分析はユングが言うところの普遍的(集合的)無意識の探索である。彼の守備範囲は人類学のみならず、音楽、ソシュールの言語学、深層心理学、哲学的思考にも及ぶ(レヴィ=ストロースは若い頃、哲学の教師だった)。正に彼こそが境界を超えるトリックスターであった。それ故に、フロイトに匹敵する偉業を成し遂げたにも関わらず、多くの人々に理解されているとは言い難い。とても残念だ。

僕は他にも次のような構造分析をした。

コード(規則/規定)の項で示したように、ひとは常に二項対立で思考するとレヴィ=ストロースは主張する。コンピューターの情報処理も二進法だ。0か1か - YesかNoか - その問いを繰り返し、積み重ねることで、ひとの思考を模倣出来る。さらに彼は次のように語る。

人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点はきまってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表しているとすれば、結局のところ、人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう。(「神話と意味」大橋保夫訳、みすず書房)

レヴィ=ストロースの論理に従い、ひとが必ず二項対立で思考するのなら、宇宙にも二項対立があるのではないだろうか?僕はそう考えた。

ここで面白いことに気がついた。地球上の動物はみな左右対称である。対称ということは二分割出来るということだ。

人間には手・足など二つある器官が沢山ある。目は二つないと立体視出来ない。耳は二つないと音の方向が識別出来ない。だから必然性がある。しかし鼻の穴は二つ必要だろうか?また女性の乳房は子供を育てるのに二つないと困る?精巣とか卵巣だって、二つなくても子作りは出来そうだ。腎臓も片方を摘出しても人間は生きていける。どうして二つあるのだろう?考えてみれば不思議である。

豚の乳首は7対=14個ある。猫:5対=10個、犬:4対=8個、熊:3対=6個、牛:2対=4個、つまり産子数が減ると乳首の数も減るが常に左右対称であり、一つにはならなかった

ひとの心臓は一つだが内部は右心と左心に分かれている。魚類には右心と左心の区別がなく、カエルの心室は一つしかない。

Heart_2

こうして見ていくと動物は進化とともに器官を二つに分離しようとする傾向が強いことがお分かり頂けるだろう。そして脳も右脳と左脳に分離している。この事実と、人が二項対立で思考することは決して無関係ではないだろう

レヴィ=ストロースは神話変換が周辺に広がっていく様子を教会のステンドグラスの薔薇模様に喩えた。

Rose

これはまるで細胞分裂のようだ。

Dna

1つの細胞が2つになり、4,8,16……と【2のn条個】に増殖していく。 ということは必ず2で割り切れる。だから真核生物はすべて左右対称なのだ。そして人の思考法もこの体細胞分裂を模倣する

では「宇宙の秩序」とは何か?それは「球形」である。星の形を見てごらんなさい。無重力空間の宇宙には上下も左右もない。だから物質は球になる。

これが地上では重力の影響で円、または回転対称になる(粘土で作った球を対側から挟んで押しつぶしたイメージ)。(上空から見た)山や湖の形、木の形、そして植物や花の形が該当する。一輪の花や一本の木を考えた場合、そこに回転対称はあるが左右対称など一対のみの対称はない。ランダム性のあるアメーバ運動をする原生生物にも回転対称が認められる。ところが高等生物になると全てが(限定的)左右対称になる。つまり水平方向の直線運動をするようになり、(無機物・植物)回転対称→(動物)左右対称に移行したと言える。円を一方向に引っ張ったイメージだ。

ユングはチベット仏教の曼荼羅図形こそ自己の象徴であり、普遍的(集合的)無意識の中にある元型であると考えた。

そして教会の薔薇窓も回転対称である。ひとの無意識の源流を遡ると、円に辿り着く。

古事記に記載されているイザナギ・イザナミの日本神話、そして旧約聖書の「創世記」にせよ、神話は必ず天と地の分離から始まる。それは【重力freeの世界↔重力に囚われた世界】の二項対立だ。つまり重力こそが二分割思考の原初なのである

僕の仮説がもし正しければ、無重力空間に知的生命体は生まれないということになる。さて、読者の皆さんはどう思われますか?

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2018年4月12日 (木)

アカデミー外国語映画賞受賞「ナチュラルウーマン」

評価:B

映画公式サイトはこちら。英題は"A Fantastic Woman"である。

Fanta

トランスジェンダーを主人公にしたチリ映画である。

いや、言いたいことは判るのだけれど、新鮮味がなかった。LGBTの人々が偏見の目に晒され、差別されてきたことは今まで沢山の映画で観てきたことだから。トランスジェンダーについては既に「リリーのすべて」があるしね。

上の写真にもあるけれど、向かい風に主人公が立ち向かって歩く場面は余りにも象徴している中身が薄っぺらで、表現の方法が安易だと想った。いただけない。

そして映画の最後に、自身もトランスジェンダーで歌手のダニエラ・ヴェガがヘンデルの「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」を歌うのだが、これが下手くそで聴くに耐えない。キャスリーン・バトルの歌唱などに比べると雲泥の差。興醒めであった。

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映画「ちはやふる ー結びー」

評価:A

Chi

映画公式サイトはこちら

文句なし、三部作の見事な完結編である。危なげない横綱相撲を見せてくれた。

「上の句」のレビューでも書いたが、競技大会で畳の下から(畳目越しに)ヒロインたちを捉えたショットが印象的だったのだが、完結編ではその手を一切使っていない。つまり完全にスタイルを変えてきているのだ。試合の場面はクイックモーションとスローモーションの畳み掛けるような切り返しで魅せる。小泉徳宏監督の卓越した演出力に舌を巻いた。

そして新キャラクターの充実。かるた部の新入部員のふたりや東京大学在学中の名人・周防久志(賀来賢人)も魅力的だし、中でも新(あらた)の後輩で彼のことを「おにい」と慕う我妻伊織(映画オリジナルキャラ)を演じる清原果耶が、映画「3月のライオン」に続いて美少女っぷりを遺憾なく発揮し、実に素晴らしい!

ただ「下の句」で全てを攫っていったクイーン・松岡茉優が今回はコメディ・リリーフに回ってしまったのは残念。結局、いてもいなくてもどっちでもいいような立ち位置になってしまった。ま、数々の新キャラが大活躍するので仕方ないのだけれど。

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2018年4月 6日 (金)

何故土俵は女人禁制なのか?「野生の思考」でその謎を読み解く。

4月4日、京都府舞鶴市で行われた大相撲春巡業で、市長が土俵上で挨拶中にくも膜下出血で倒れた際、救命処置をした看護師の女性が土俵から下りるよう場内放送で促されたことが大問題となっている。また市長が担架で運び出された後、大量の塩が撒かれたことが発覚し、日本相撲協会が大炎上となった。

恐らく、「土俵が女人禁制なのは何故か?」を理解出来ない人々は多いのではないだろうか。

以前は高野山や比叡山の入山も「女人禁制」であった。現在でも兵庫県淡路島の舟木石神座や、奈良県の大峯山など「女人禁制」の地は幾つか残っている。中でも非常に興味深いのが石川県の石仏山。14歳以上の女子は立ち入ることができないという決まりがある。どうして14歳なのか?ここに謎を解く大きなヒントがある。

土俵や霊山は神聖な場所であり、結界が張られている(という設定になっている)。ここからは神話の世界だ。近代科学の常識や理性はひとまず横に置いて、話の続きを聴いてください。

日本における相撲最古の記録は712年に編纂された「古事記」にまで遡る。「力士(ちからひと/すまひひと)」という言葉も登場する。やがて神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼として現在まで続いている。つまり相撲と神道は切っても切れない関係なのだ。

大相撲の歴史は250年くらいであり、江戸時代に産声を上げた。17世紀であり、1300年を超える相撲の歴史から考えればつい最近の話だ。所詮は「ひよっこ」に過ぎない。そして「女人禁制」のルールは大相撲から始まった。

720年に完成した「日本書紀」には雄略天皇が二人の采女(うねめ、女官のこと)に褌(ふんどし)を付けさせ、相撲を取らせたと記載がある。また室町時代には比丘尼(びくに)による女相撲が行われている(「義残後覚」〜比丘尼相撲の事)。

「女人禁制」の理屈はこうだ。女性には月経がある。だから神聖な場所を穢(けが)すことになる。月経時には子宮内膜が脱落するので、こちらは「生体の腐敗」のメタファーとして機能する。石仏山に14歳以上の女子という条件がついているのも初潮以降は「不浄」だから、まかりならないというわけだ。故に日本相撲協会は穢れ清めるために塩を撒いた。

しかしこう考えてはどうだろう?以下フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースの著書「野生の思考」に記載された、北米先住民ヒダツァ族の鷲狩りについてご紹介しよう。

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手順は次の通りだ。鷲狩りをする人間は地面に穴を掘り、その中に横たわって身を潜める。上には、事前に仕留めての付いたヘラジカの肉を縛り付けたウサギを罠として置く。ウサギはまるで皮が裂け(内臓が露出し)死んでいるように見える。鷲が騙されてウサギを獲ろうと地上に降りた瞬間、ウサギの下に潜んでいた人間が即座に起き上がり鷲を捕獲する。この鷹狩で不浄期間中の女性が良い影響を及ぼすとされている。

鷲狩は空間的にも、神話中の鳥の等級においても、もっとも「高い」位置にある獲物を捕らえる行為である。レヴィ=ストロースは次のようにその構造を分析する。

鷲狩は猟人と獲物の間にある最大距離を縮めるものと考えられており、その媒介は、技術面では餌によって行われる。餌は肉片か狩猟で得た小動物であるから、にまみれており、また腐敗しやすい。(中略)あまりに距っていて、はじめは如何ともし難く見えた離間を克服して連接に転ずるには、まさに、によるほか手段はないのである。

月経は、および生体の腐敗として餌を象徴し、また餌は体系(system)の一部である。(中略)穢れとは、少くとも北アメリカのインディアンの考え方では、それぞれ「純粋(清浄)」な状態にとどまるべき二項の間に、緊密すぎる連続が生ずることなのである。近くにいる獲物をとる狩猟では、女性の月経はつねに過渡の連接を生じて、余剰のために初期関係を飽和させ、その動的効果を中和してしまうが、離れた獲物を対象とする狩猟ではそれが逆になる。連接が不十分であって、その不足を補なう唯一の手段はそこに穢れを入れてやることである。この穢れは、継起性の軸(通時態)では「周期性」を、同時性の軸(共時態)では「腐敗」を表すものとなる。

これら二軸のうち一方(周期性≒春夏秋冬の繰返し)は農業神話に、他方(腐敗)は狩猟神話に対応するものである。

(「野生の思考」大橋保夫訳、みすず書房)

さて、日本の神話において天照大神(アマテラスオオミカミ)は太陽神である。人間との垂直方向の隔たりは膨大である(鷹を遥かに上回る)。先に書いたように神事相撲は神に近づき、感謝の気持ちを伝えようという儀式なのだから、そこには穢れの導入が必要なのではないだろうか?

また神道では基本的に肉食を禁じておらず、鹿肉や猪肉を神にお供えすることもある(詳しくはこちら)。奈良時代以降に広まった仏教の不殺生という戒律の影響で、獣肉の食用が厭われるようになった。つまりや肉を結界の内に持ち込むことは本来タブーではないのである。

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2018年4月 5日 (木)

石丸幹二 主演/ミュージカル「ジキル&ハイド」に認める反キリスト(Anti-Christ)思想

3月31日(土)梅田芸術劇場へ。レスリー・ブリッカス作詞・台本、フランク・ワイルドホーン作曲のミュージカル「ジキル&ハイド」を観劇。

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「ジキル博士とハイド氏」と言えば二重人格を描いた小説として余りにも有名である。これぞ正に二項対立の代表例であり、そもそも表題自体が一人の人物を二分割したものである。

このミュージカルに登場する二項対立を挙げてみよう。

ジキル↔ハイド
善↔悪
正気↔狂気
純潔・貞操↔欲望
慈心・徳行↔偽善
建前↔本音
仮面↔素顔
平和(和合・協調)↔戦争(闘争)
天国(聖職者)↔地獄(業火に焼かれる)

エマ(貴族)↔ルーシー(娼婦)
純粋無垢↔汚れ
豊か↔貧しい

ヘンリー・ジキル博士の悲劇は、自分の人格を善と悪に完全分割しようとしたことにある。今回の観劇で初めて理解したのは、この設定が強烈なキリスト教批判(Anti-Christ)になっているということ。キリスト教だけではなく、西洋人の思考方法そのものが批判の対象になっているとも言える。

父性原理」を特徴とするキリスト教は【天使↔悪魔】/【天国↔地獄】/【光↔闇】を完全に分離切断する。そして両者を媒介調停/循環)する第三の項(e.g. トリックスター)を決して認めない。言い換えるなら衝突を緩和する緩衝地帯境界領域を設けない。ここが「母性原理」に生きる我々日本人や、南北アメリカ原住民らが有する「野生の思考」との決定的違いである。

キリスト教では【禁欲↔欲望】も分離されるのでカトリックの聖職者は生涯独身を貫く(その反動で神父による子どもたちへの性的虐待が絶えない。詳しくは映画「ダウト~あるカトリック学校で~ 」や、アカデミー作品賞を受賞した「スポットライト 世紀のスクープ」をご覧あれ)。

性は男と女に二分され、その境界領域に立つLGBTの人々は差別され続けてきた。

またデカルトが主導した17世紀哲学の二元論は心身(精神と肉体)の絶対的断絶を受け入れた。

精神病院を最初に創設したのもヨーロッパ人である。彼らは【正気↔狂気】を識別し、後者を隔離しようとした。1656年フランスではルイ14世の指導により精神障害者、犯罪者、浮浪者を収容する総合施療院が建設された。こうした人々を「監禁」「排除」してきた経緯をフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926-84)が徹底的に批判したのが、1961年に出版された「狂気の歴史」である。精神病院ではロボトミー手術という非人道的実験も行われた(詳しくはアカデミー作品賞・監督賞を受賞した映画「カッコーの巣の上で」をご覧あれ)。

またナチス・ドイツは遺伝病や精神病などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるとし、彼らを安楽死させるT4作戦を実行した。その犠牲者は15万人から20万人と見積もられている。そもそもヒトラーがユダヤ人=害虫と見なし、ホロコースト政策を実践した発想の根本にもこの分離切断する思考がある。

父性原理」で動く欧米(キリスト教)社会は純粋理性を磨き、自然を客観視し、対象をじっくり観察して近代科学を飛躍的に発展させることに成功した(これが出来たのは彼らだけである)。しかしその反面で上述したような様々な弊害を生み、この思考法も限界に達した。「何かが間違っている」「我々は大切なものを失ってしまった」と彼らも薄々気が付き始めた。その左証が「ジキル&ハイド」である。

「ジキル&ハイド」でベイジングストーク大司教は聖職者でありながら娼婦を買い、その直後にエドワード・ハイドに火をつけられ焼死する。これは正に「地獄の業火に焼かれる」イメージであろう。

本作において、ヘンリー・ジキル=エドワード・ハイドだと知っているのは弁護士のアターソンだけだ。彼は親友をなんとか助けようとするが、悲劇を回避することは出来ない。だから仕方なく最後に拳銃の引き金を引き、ジキル=ハイドを殺す。こうして二項対立問題は解決される。つまりアターソンは境界を超え、活躍するトリックスターなのだ。そもそもジキルを娼館「どん底」に連れて行き、ルーシーに引き合わせたもの彼だしね。いたずら好き(メフィストフェレス的)でもあるトリックスターの面目躍如と言えるだろう。

ルーシーはハイドに嬲(なぶ)られ、痛めつけられるが、実はあんまり嫌そうじゃない。恍惚とした表情も浮かべる。非常にSM的である。多分彼女はジキルとハイドの両面を愛したのだ。そして死の直前にジキル=ハイドと気付く。きっかけはジキルとハイドの指に素肌を触られた時の触覚だ。ここに「野生の思考」がある。

原作を書いたロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850-94)は「宝島」の作者としても知られている。スコットランドのエディンバラで生まれたが、若い頃から結核を患い、各地を転地療養しながら作品を創作した。アメリカ滞在を経て、最終的に彼がたどり着いたのは南太平洋・サモア諸島の中のウポル島。彼は島人から「ツシタラ(語り部)」と呼ばれ、好かれていたという。バエア山@ウポル島の山頂にある墓碑には次のような彼の詩が刻まれている。

"Requiem"
Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die
And I laid me down with a will

This be the verse you grave for me
Here he lies where he longed to be
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

〈鎮魂歌〉
広々とした星空の下
墓穴を掘り、私の亡骸を葬っておくれ
私は喜びとともに生き、喜びとともに死す
そして従容として身を横たえる

墓にはこう刻んで欲しい
彼は望んだ通りここに眠る
船乗りは故郷へと、海から還った
狩人は猟場の山から家に還った
(注:hillはmountainより低く、英国では通例600m以下の山を指す。バエア山は標高470m)

この詩の中には紛れもなく野生の思考が息づいている。

そしてWikipedia英語版のスティーヴンソンについて書かれた記述の中に、次の一文を発見した。

He had come to reject Christianity and declared himself an atheist.
(彼はキリスト教を否定するに至り、自分は無神論者であると宣言した。)

今回の出演者はジキル&ハイド:石丸幹二、ルーシー:笹本玲奈、エマ:宮沢エマ、アターソン:田代万里生 ほか。

僕は鹿賀丈史時代から観ているが、今回のキャストが一番歌唱力があった。石丸幹二に文句があろう筈もなく、特に人格が分裂して歌う場面は大迫力で、本作の白眉であろう。演歌調に音をすくい上げる鹿賀は聴くに堪えず、本当に酷かった。

笹本玲奈がエマを演じた前回公演にも足を運んだが、彼女は断然ルーシーの方が似合っている。清楚なお嬢様っていう雰囲気じゃないしね。他に笹本は「ピーターパン」「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ、「ミス・サイゴン」のキム、「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ミー&マイガール」「マリー・アントワネット」「プライド」などを観ているのだが、今回が一番露出の多い衣装で、とってもセクシーで美脚だったので驚いた。アフタートーク・ショーで彼女が語ったところによると、大好きなスナック菓子(「きのこの山」ではなく「たけのこの里」派)を食べるのを我慢し、ダイエットに励んだそう。鹿賀の公演を観劇した時からルーシー役を演じたかったのだと。

宮沢エマは歌声に透明感があり、決して音程を外さないので聴いていて心地よい。役にピッタリ。

またアフタートークで田代万里生が語るには、付け髭ではなく地毛を生やしたのだとか。意外だった。

山田和也の演出は大変照明が美しかった。

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ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書

評価:A+

Thepost Post2

文句なし、最高!原題はシンプルに"The Post"。ワシントン・ポスト紙のことだ。映画公式サイトはこちら

「リンカーン」は退屈だったけれど、こういうサスペンス・タッチの作品を撮らせるとスピルバーグの演出力は超一級品だね。特に新聞の印刷が開始されたのを記者が知るのが、輪転機が稼働する「振動」っていうのがセンス抜群!「ジュラシック・パーク」のティラノサウルス登場シーンを想い出した。刷り上がった新聞が垂直方向にどんどん上昇していく光景も実に象徴的。脱帽である。

あと本作のラスト・シーンがそのまま、ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォード主演、アラン・J・パクラ監督「大統領の陰謀」(1976)の冒頭に繋がっているのも粋だなと想った。

巨匠ジョン・ウィリアムズの音楽は、まるで1970年代の彼の作風(「タワーリング・インフェルノ」「ジョーズ」「ロング・グッドバイ」「ブラック・サンデー」)に戻ったみたいで、却って新鮮だった。

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2018年4月 4日 (水)

「映画ドラえもん のび太の宝島」と「リメンバー・ミー」

「映画ドラえもん のび太の宝島」評価:B+

6歳の息子と鑑賞。すこぶる愉しかった。最大の功績は脚本を書いた川村元気だろう。「告白」「悪人」「君の名は。」のプロデューサーであり、「世界から猫が消えたなら」「億男」「四月になれば彼女は」などの小説家としてしても知られている。

本作は明らかに宮﨑駿「天空の城ラピュタ」を下敷きにしている。宝島の内部構造はラピュタそのものだし、クライマックスで文明に毒された下部を切り離して上昇するのもそう。そして「魔女の宅急便」のパン屋さんが出てくるし、しずかが海賊に攫われ、それを追うという展開は「未来少年コナン」。ご丁寧なことに有名な海中のキスシーンに似た場面まで用意されている。あとフロック(兄)とセーラ(妹)の父キャプテンシルバーは庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」の碇ゲンドウだね。シルバーの野望「ノアの方舟計画」≒エヴァの「人類補完計画」という対応関係が認められる。研究者であった妻が亡くなり、常軌を逸したという設定も全く同じ。よく考え抜かれている。

「リメンバー・ミー」評価:B-

これも息子を連れて行こうと予めチケットを購入していたのだが、直前に彼がインフルエンザAに罹患し、結局独りで観た。アカデミー歌曲賞、長編アニメーション映画賞を受賞。泣く子も黙る天下のピクサー作品である。クオリティの高さは折り紙付き。しかしおもろない。第1回劇場作品「トイ・ストーリー」からピクサーのテーマはいつも同じ(ただし、異端児ブラッド・バード作品は除く)。「仲間が一番」。つまり常にバディ・ムービーなのだ。今回は「家族が一番」。何も変わらない。ひねりがなさ過ぎる。もう飽いたわ。

「ドラえもん(日本のアニメ)」にあって「リメンバー・ミー(アメリカのCGアニメ)」に決定的に欠けているもの。それは萌えである。

それにしてもここ最近のアカデミー長編アニメ映画賞受賞作品を見て欲しい。

2007年 レミーのおいしいレストラン
2008年 ウォーリー
2009年 カールじいさんの空飛ぶ家
2010年 トイ・ストーリー3
2011年 ランゴ
2012年 メリダと恐ろしの森
2013年 アナと雪の女王
2014年 ベイ・マックス
2015年 インサイド・ヘッド
2016年 ズートピア
2017年 リメンバー・ミー

なんとディズニー・ピクサー映画が11作品中10作品を占め、例外は「ランゴ」のみ!!内訳はディズニー:3、ピクサー:7なのだけれど、ディズニーが史上初めて受賞した「アナ雪」以降はジョン・ラセターがディズニー&ピクサー両スタジオのチーフ・クリエイティブ・オフィサーを兼務しているんだよね。ラセター恐るべし(現在は「不適切な行為」で6ヶ月間休職中)。

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«吸血鬼伝説=神話としての宝塚歌劇「ポーの一族」考(原作:萩尾望都)